パソコン創世記

パソコン創世記

富田倫生

作品について:
著者について:1952(昭和27)年、広島市に生まれる。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。編集プロダクション勤務を経て、ライターに。ノンフィクションのさまざまな分野を取材対象としてきたが、次第にパーソナルコンピューターの比重が高まる。ボイジャーのエキスパンドブックを見て電子出版の可能性を本気で信じ込むようになり、『パソコン創世記』と名付けたタイトルを、コンピューターで読むことを前提に制作。このブック上の記述を、インターネット上のさまざまなホームページにリンクさせていくという作業を体験してからは、電子本への確信をさらに深めている。
紙で出してきた著書に、『パソコン創世記』(旺文社文庫版、TBSブリタニカ版)、『宇宙回廊 日本の挑戦』(旺文社)、『電脳王 日電の行方』(ソフトバンク)、『青空のリスタート』(ソフトバンク)、『本の未来』(アスキー)がある。



すべてのはじまりに

〈本〉がインターネットに溶け出す時

 エキスパンドブックの世界が広がっている。
 当初は読むのも作るのもマッキントッシュだけだったが、ウインドウズでもブックを開けるようになった。一九九六(平成八)年六月には、ウインドウズ用の本作りツールが発売になり、作る方も両方で可能になった。

 初代のエキスパンドブック版『パソコン創世記』は、マックでしか読めなかった。出来上がったCD―ROMを手渡すと、マイクロソフトの古川享さんから「ウインドウズ版は?」と宿題を出された。
 本書の柱は、我が国のパーソナルコンピューター作りを引っ張ってきた日本電気の歴史である。その主人公が作っている機械で読めないのは、「いかにも間が抜けているな」と自分でも思っていた。気にかけて、「ウインドウズでも読めるよう、ハイブリッド化を急げ」と励まして下さる方もあった。
 ボイジャーの開発チームと、ウインドウズへの移植に協力した日本電気の努力によって、ほとんどのパーソナルコンピューターでこのタイトルを開けるようになったことを喜び、力を奮われた方々に感謝したい。
 私たちは、コンピューターに本を移し変える道の途上にある。課題は多いが、前進していることも間違いない。

 ウインドウズでも読めるものが作れると目途がついたときには、けっこう長くかかずらってきたこのプロジェクトにも、一応の決着を見るのだなと考えていた。
 だが、今は終わりよりもむしろ、始まりを意識している。
 大きな新しい海に、これから泳ぎ出していくような気分だ。
 エキスパンドブックに新しく付け加えられたたった一つのコマンドに、しんみりと落ち着こうとしていた気分を蹴飛ばされ、下ろそうとしていた腰がすっかり伸びてしまった。
 
 ハイブリッド化の作業の直前までは、同じくボイジャーから出る『ヒロシマ・ナガサキのまえに』の翻訳と制作にあたっていた。
 原子爆弾開発プロジェクトの中心となった物理学者、ロバート・オッペンハイマーの軌跡をたどったドキュメンタリー映画、『ザ・デイ・アフター・トリニティー』を中心に据えたタイトルだ。
「人間的な気持ちを持っていた人たちが、なぜあのような大量破壊兵器の開発に全力で取り組むことができたのか」
 監督のジョン・エルスはそう問題を設定し、ねじ込むように対象に迫っている。
 映画制作時、オッペンハイマーはすでに他界していたが、計画に携わった物理学者たちが貴重な証言を寄せている。ただしドキュメンタリー映画の常で、記録された言葉のうち本編に収録できたものは、ごく一部に限られていた。
 一方、映画制作から十五年を経て編まれたCD―ROM版には、書き起こされたインタビューの全文が収録された。公開されたかつての秘密ファイルや関係資料もおさめられ、開発に至る流れの全体像を浮かび上がらせようと工夫が凝らされている。

 翻訳の作業にあたってみて、映画とCD―ROM版を作ったスタッフの〈誠実〉は、時間をかけてじっくり実感することができた。だがもう一方で、この作品は原子爆弾を開発した側、落とした側の〈誠実〉の証であることも意識した。
 もう一方には、落とされた側の真実がある。
 日本に『ザ・デイ・アフター・トリニティー』を紹介しようとするのなら、この作品がもっぱら片側の声のみを拾ったものであることを自覚するべきだと、しだいにそう思うようになった。『ヒロシマ・ナガサキのまえに』として出すこのタイトルを一つの閉じた作品として完結させるのではなく、広島、長崎へとつなぐ道筋を示せないかとも考えた。

 広島市のホームページで平岡敬市長の「国際司法裁判所における陳述」を読んだとき、この悲しい宝石のような証言をタイトルの最後に収録させてもらえないかとひらめいた。
 公文書とはいえ、「陳述」は平岡敬氏個人の著作的色彩の強い文章である。原子爆弾は国際法に違反するとの明言を控えさせようとする外務省の圧力をはね返し、自分の凛々しい言葉で証言を綴った平岡市長への尊敬の念もあって、収録には事前の了解を得ようと考えた。だが残念なことに、広島市の担当者から、掲載は許可できないとの回答があった。
「なぜ」との悔しさと歯がゆさは、広島市にすがる中で募っていった。それがやり取りのさなか、エキスパンドブックに付け加えられた新しいコマンドのことがふと頭に浮かぶと、「そっちがその気ならこっちにも考えがあるもんね」と気持ちに風穴があいた。

 エキスパンドブックの開発にあたっている祝田久さんは、錬金術師を思わせる妖しい魅力を漂わせた、芸術家肌のプログラマーだ。カフェラテのカップが小さな泡を吐く昼なお暗いコードの実験室で、彼は細い息を吐きながらキーボードをいじくっている。
 おそらくは本職であるはずのエキスパンドブック開発のあいまをぬって、世紀末のコードの魔術師は、いろいろなオブジェをこしらえては周囲の者を驚かせる。ディスプレイに色彩の魔法を演じさせる『ニルヴァーナ』をはじめて見せられた時には、「こんなものばかり作っていれば、そりゃあエキスパンドブックが遅れるはずだ」と、親の敵に会ったような気がした。だが、「それもまあいいか」と妙に納得させられる、他に代えようのない不思議さと美しさとが、この作品にはあった。色彩と動きに溢れたオブジェは錬金術師のお気に入りで、突然メールで送りつけられる新しいプログラムにはいつも、好奇心の針が跳ねる。
 算盤尽くの市場の理屈や、お札に書き込まれた仕様書だけでなく、美しいものへのあこがれや不思議に震えるやわらかな心の渇きもまた、人をプログラミングに誘うのだという当たり前の事実を、祝田さんの仕事は思い起こさせる。
 レオナルド・ダ・ヴィンチが今、生きていれば、彼もまたコードを書いているだろう。

 そんな祝田さんの手になる作品の一つに、WebPinMaker と名付けられた、これは実用性をもった小道具がある。
 ウェッブ( Web )とは、英語でクモの巣を指す。
 インターネットの上で、世界中の人が学園祭の展示の乗りで店開きしているホームページは、リンクという連携の機能で結びついて、ワールド・ワイド・ウエッブ(WWW)、つまり世界規模のクモの巣という大きくて複雑に絡み合ったネットワークを形成している。その中での住所を示すのが、URL(ユニフォーム・リソース・ロケーター)だ。URLを手がかりにして、目的の場所の扉を開き、中味を見るためのソフトウエアをブラウザーと呼ぶ。よく耳にするネットスケープ・ナビゲーターは、兄にあたるモザイクに一気にとって代わり、ブラウザーの代名詞になった。

 ネットスケープがほとんど標準といっていいような大きな存在になると、開発元だけでなく、他の人たちもこれに新しい機能を付け加えるためのプログラムを書き始めた。自分の作っているエキスパンドブックとインターネットの世界を橋渡ししようと考えた祝田さんも、準備のためにネットスケープの分析に取りかかった。調べはじめて間もなく、ネットスケープにはちょっとした盲点があると祝田さんは思うようになった。〈住所録〉作りに、不便を感じたのだ。

 URLは、アルファベットと記号で表される。
 これが結構長い。
 いちいちキーボードから入れていくのは、かなりめんどうだ。
「これは何度も見に来るだろうな」と関心のわいたホームページは、簡単に〈住所〉を記録して、自動的に呼び出せるようにしたい。面白いと思った場所を人に教える際も、手軽にURLを書き出せて、自動的に呼び出せる形で渡したい。
 
 ネットスケープにも実は、こうした機能は付いている。
 今見ている場所のURLは、ブックマーク(しおり)という機能で記録できる。しおりをはさむくらいの手軽さで登録できて、次からはメニューから名前を選ぶだけでいい。
 ネットスケープにはさらに、リンクを付けている相手先の住所を書き出してくる機能も付いている。リンクの仕込んであるところは、表示画面の中で色変わりの文字で示される。この文字をマウスで選んでデスクトップまで引っ張ってくると、URLを記録したファイルができる。興味を持った場所を教える際は、これを人に渡すとよい。ダブルクリックでネットスケープが起動されて、そのままその場所に連れていってくれる。

 とネットスケープの〈住所録〉機能は、かなり充実している。ところがリンクを仕込んだ先のURLは簡単に書き出せても、かんじんの今見ているページに関しては、ブックマークの形でしか記録できない。今開いているこのページのURLを、起動機能付きで手軽に記録する命令がない。きっと「ブックマークがあるから、そこまでする必要はない」と考えてのことだろう。それに開いているページのURLを示す欄もあるのだから、そこの文字列をコピーして電子メールに貼って渡すか、エディターやワープロで記録すればいいという判断が働いたのだろう。
 けれどこれはやはり、ちょっと不便だし不親切だ。
 現住所を起動機能付きで記録する「 Save location といったメニューを用意しておかなかったのは、ネットスケープの盲点だな」と祝田さんは考えた。
 そこで、ネットスケープの勉強のついでに、自分で用意した。
 それが WebPinMaker だ。
 この小道具を使えば、今見ている場所の名前とURLを、ピンの格好のアイコンに簡単に記録できる。ピンをもらった人は、ダブルクリックで該当のページにジャンプできる。デスクトップにピンを並べ、一つの動作で直接目的地に飛んでいく、一皮むけたブックマークとして使っても良い。ちょっとした小道具だけれど、これでインターネットとのやり取りが少しスムースになる。

 WebPinMaker を書き、フリーウエアとして公開した祝田さんは続いて、この機能をエキスパンドブックに組み込もうと考えた。ピンの機能を、新種の注釈として取り込んだのである。
 いつも通りエキスパンドブックを読んでいる最中に、なにか注釈を付けてあるところにぶつかる。ためしにダブルクリックしてみる。さて、字が出るか絵が出るか、それとも音か動画か。これまでなら可能性があるのは、それだけだった。ところが仕込んであるのが新しく加えられたピンの機能となると、話は別だ。インターネットに接続してあるという条件は付くが、注釈のダブルクリックでブラウザーが立ち上がり、世界への扉が開いて、宛先のページが画面上に呼び出される。
 仕込んでおいた住所を自動的に開くところから、この機能に祝田さんは openURL と名前を付けた。

「陳述」の収録を断られている最中に思い出したのは、エキスパンドブックに openURL が付いたという話だった。
 オランダ、ハーグの国際司法裁判所で平岡市長が証言した内容の全文は、広島市のホームページで公開されている。収録を諦めざるを得ず、このタイトルを買ってくれた人、全てが読めるようにできなかったのはやはり残念だ。けれど少なくともインターネットに接続できる人に対しては、openURL で、陳述の掲載されているサイトにリンクを張れる。
 広島への道筋が示しておけるのだ。

『ヒロシマ・ナガサキのまえに』は、一九九六(平成八)年二月のマックワールドエキスポで発表することができた。
 両市長の陳述を掲載した広島と長崎のホームページに加えて、翻訳作業中に見つけた核兵器をテーマにしたサイトにも、リンクを張った。
 インターネットの上では、さまざまなグループや個人が、核に関する情報を集めたホームページを運営している。openURL を仕込んだそのサイトからは、「核兵器の本質を見極めよう」とする志のリンクが、さらに夥しいホームページに向かって伸びていた。
 当初マック専用だった『ヒロシマ・ナガサキのまえに』は、構成をあらため、ウインドウズにも対応させて、同年八月六日に再発表する運びとなった。この際、掲載を認めてくれるよう再度働きかけ、関係される方々の配慮を得て、新版には陳述を収録することができた。
 だが、新しい版にも、 openURL の仕掛けはそのまま残した。
 この一件を通じて、ネットワークと結び付いた電子本の新しい可能性を発見した経緯を、形として残しておきたかったからだ。
 

 エキスポ騒動がおさまって間もなく、『パソコン創世記』のハイブリッド化にかかることになり、CD―ROMを差し込んで久しぶりにブックを開いた。
 エキスパンドブックとして発表したのが、ちょうど一年前のマックワールドエキスポ。新しく書き起こした第二部の原稿がまとまったのは、その数か月前の秋だった。ただし第一部の原稿を書いてからは、もう十年以上もたっている。
 その第一部の冒頭には、日本電気の会社概要を示す記述がある。なんだか肩をいからせたような書き方が恥ずかしくも懐かしくもあるが、データはあまりにも古い。
 と思ったとたん、〈 openURL 〉とひらめいた。
 さっそく日本電気のホームページに行ってみた。
 会社概要の項目があって、最新のデータが掲載されている。この手の情報は、今後もこのページで更新され続けるだろう。とすれば、ここに道筋さえ付けておけば、いつだって最新のデータを見ることができる。
 そう思ったとたん「ブックの該当の個所に openURL を組み込んでおこう」と、すぐに心が決まった。
 すると今度は、関連のサイトを軒並み調べてみたくなった。
 おお、みんなやっているじゃないか。ずいぶん詳しく自分たちの歩みを書き込んでいるところもあれば、「なんで」と思うほど、あっさりすませているところもある。気合いの入れ具合にはばらつきがあるが、社史を掲載しているところはかなり多い。
 さらに各種の検索エンジンで調べてリンクをたどっていくと、興味深いサイトがいくつも見つかった。大学や博物館の運営しているところは、やはり充実したものが多い。だが個人のサイトでも、アップルIIの克明な歩みや、コンピューターの総合年表といったものをカバーした、力の入ったものがある。本文で繰り返し触れた、ホームブルー・コンピューター・クラブのメンバーの、その後を追おうとするものとも出くわした。労力のかけ方は別として、気持ちには「わかるわかる」と肩でも叩きたくなった。
 パーソナルコンピューターが生まれて今日までの歩みの中から、自分のこだわり、自分の立場、自分の問題意識に従ってなにがしかを記録し、その意味を探ろうとする意思の在処を探す旅は、続けていけばいつまでたっても終わらないような気すらしてきた。

「ああ僕は、大きな意思を構成する膨大な数のアトムの一個なんだな」
 そんな感慨がわき上がってきたのは、リンクをたどって、パーソナルコンピューターの歴史をめぐるネットサーフィンをえんえんと続けていた夜だった。
 自分の持ち物である『パソコン創世記』から、インターネットのさまざまな関連サイトにリンクを張るつもりではじめた作業だった。だが、パーソナルコンピューターの誕生を記録し、その意味を探ろうとするたくさんの試みに触れ合う内に、僕は自分自身が、大きなものに包み込まれるような気分に捕らわれはじめた。
「日本電気を中心に歴史の一断面を記録する役割は、たまたま僕に割り振られたのかな」
 そう思ったとたん、『パソコン創世記』はインターネットの上に広がる大きな海に向かって溶け始めた。

 私の指の間をすり抜けて、『パソコン創世記』が溶け込もうとする巨大な意思のネットワークは、めまぐるしく変化しながら成長して行くだろう。
 たくさんのホームページが生まれ、かなりの数が消えていく。URLの変更も、しばしば起こるだろう。
 変化し続ける大いなるものの小さな細胞として生き続けるには、『パソコン創世記』は繰り返しネットワークとの連携を確かめなければならない。リンク先の状況を確認し、新しいリンク先を求め、変化に対応しなければ、すぐに老いてしまう。

 インターネットの上で生きて、インターネットの上で読まれる、新しい〈本〉のあり方を突き詰めれば、ブックはネットワークに接続したサーバーに置くのが本当だろう。
 本を所有するという習慣とは縁を切って、必要なときに読みに来てもらうというやり方だ。
 これなら、リンク先の変化に、比較的素早く対応できる。
 またそうなってはじめて、私自身の気持ちもおさまりどころを得る。ネットワークからただ受け取るだけなら、口を開けて餌をねだる雛のようなものだ。大きな海に溶け出していくというこの気分は、『パソコン創世記』をインターネットの上に開いてこそ形にできる。
 本命は、ネットワーク上のブックであるに違いない。

 一九九六(平成八)年六月、そのことは自覚しながら、「先ずは第一歩」 とインターネット対応のCD―ROM版を出した。 openURL を利用して、こちら側から一方的にリンクの腕を伸ばしたバージョンだ。
 続いて九月、インターネットを通して電子本を読んでもらおうとする祝田さんの新しい企み、ネット・エキスパンドブックの公開を機に、サーバー上の『パソコン創世記』を実現することができた。
 数え上げれば、課題はまだまだ残されている。英語化という、どう考えてみても死んだふりをするのが賢明そうな難物にも、手が付かないままだ。
 だが、ここのところ頭の大半を占めてしまっている「本の未来」に、これでもう一歩近づけたのも間違いないと思う。

『パソコン創世記』では、やりがいのある作業にのめり込めばのめり込むほど金銭との縁が薄れていくというどつぼにはまった。
 おまけにネットワークとの連携を考えはじめてからは、「自分のものだ」という著作権意識まで希薄化しつつある。
 Eメールアドレスなど持たない人のことをデジタルホームレスなどと呼ぶらしいが、インターネットの上にだってホームレスの予備群は立派に育っている。
 サーバー上で公開したい―。
 英語版も用意したい―。
 では書くことを仕事として選んだ自分の暮らしの方は、どうやって立てるのか。
 その帳尻合わせをすぐに迫られると、当然分かってはいる。分かっちゃいるけど、これがどうにも止められそうもない。
 とりあえず先走ってみたい。
 開き直っていえば、そんな愚かとしか言い様のない振る舞いに人を誘うのだから、インターネットはやはりただものではない。
 世の中を変える革新児としては、深く大量に人を狂わせてこそなんぼのもの、というわけだろう。

 インターネットは世界を変えると、たくさんの人と同様に、私もまた直感的にそう信じている。
 世界が変わり、社会が変わるとはつまり、人が変わるということだろう。
 闇雲に駆け出してみて、自分なりの道、自分なりの落ちつきどころを、たどりついた先で見つけろと、私は今、そう言われているのだと思う。昨日までのスタイルにしがみついていないで、新しいあり方を探せよと。
 走り出せ。走り出して、知と情と意の緻密な神経回路網を世界に育てよと、歴史がそういうのなら、私としてはその声に従いたい。
 変わることで、必ず機会をつかめるとは限らない。可能性を閉ざすこともあるだろう。
 個別には〈得〉もあれば、必ず〈損〉もある。
 けれど総計を取れば、私たちはきっと前に進むのだ。
 世界を覆う神経回路網を得た巨大な群としてのヒトの前進を、私は信じることができる。
 そんな浮ついた夢のような話ができて、私は今、本当に幸せだ。

 一九九六年三月二十五日作成
 一九九六年八月二十八日修正

    

    

エキスパンドブック版のまえがき

 一九八三(昭和五十八)年の初夏、大きく背伸びして見上げた青空は、瞳に痛いほど高く澄んでいた。
 この年の五月、僕は五年ほど勤めていた編集プロダクションをやめた。
 時代の空気が見る間に冷えていった果ての一九七〇年代半ば、大学との縁が切れた時点で考えていたのは、雑誌や本の仕事につくことだけだった。すでに学生結婚していた嫁とアルバイトで食いつなぎながら、僕は出版社だけに履歴書を送り続けていた。
 学生時代、ひょんなことから仕事を手伝わせてもらうことになった社員二人だけの小さな出版社で、僕はひ弱な自分に繰り返し直面させられた。
 一つの戦争がより大きな次の戦争の火口を準備し、ついに太平洋戦争へと突き進んでいった時代、人々はどう暮らし、何を考え、結果的にどのようにアジアへの侵略に動員されたのか。
 その跡を掘り起こそうとする出版社の作業は、代表者が中心となって別個に組織していた現代史の研究会が支えていた。
 研究会の末席に加えてもらうようになった僕が、学費と生活費にきゅうきゅうとしてアルバイトに飛び回るのを見て、雑誌を起こしていたリーダーが「うちで働くか」と声をかけてくれた。嫁の大学院進学が決まり、昼間の小さな出版社での仕事に加えて、夜は家庭教師で稼いだ。だが「自活する大学生」を免罪符にしはじめていた僕は、自分なりの問題意識を据えて現代史に切り込むことがいつまでたってもできなかった。焦りと劣等感と甘えの中で、僕は突破口を開いた親しい仲間をめめしい手口で傷つけた。
 そんなことがあったあと、リーダーは「活字の仕事には向いてないよ」とうつむいた僕に言った。
 歯軋りもできないままやめることになった僕は、その時、なんとしてもこの世界で自分の道を発見しようと考えた。
 出版社からは軒並み申し入れを拒否されたが、気にかけてくれた人の世話で編集プロダクションにもぐり込むことができた。
 原稿の整理や校正、割り付けなど、もっぱら本作りにまつわる面倒な作業だけを請け負って出版社の合理化を支える編集プロダクションには、こだわりや希望を育てる余地は乏しかった。それでも好きな本や雑誌作りにかかわっていることには充実感があった。大切な人との出会いにも恵まれた。だがやがて、本当にこれがやりたかったことなのかとの思いが募ってきた。僕は会社に籍を置いたまま、おりからの科学雑誌の創刊ブームに乗って、仕事の重点を原稿書きに移そうと考えた。どうにかこうにか原稿を受け取ってもらえるようになると、会社にとどまっている理由はもうなくなった。住み慣れた仕事場を出て大きく深呼吸をしてから、僕は久しぶりに空をあおいだ。
 科学物やコンピューター物の原稿を書き、週刊誌の取材記者を引き受け、僕は個人営業のライターとして歩きはじめた。そんなとき、なにやかやと話し込むことの多かった編集者が、情報絡みの書き下ろし文庫シリーズの一冊を任そうかと声をかけてくれた。
 初めての本となるこの文庫で、僕は自分なりの「現代史」を発見したいと考えた。
 この国はこれでいいのかと焦れる気持ちばかりが強かった中で、一九六〇年代に出合った歌と一九七〇年代に生まれたパーソナルコンピューターには、素直に思い入れることができた。その歌とパーソナルコンピューターは、時代の気分の糸で結ばれていたのではないか。かねてからのそうした思い込みを、僕は人ひとりのためのコンピューターが生まれる跡をたどる中で確かめようと考えた。
 一九八四(昭和五十九)年の秋に取材し、暮れから新年にかけて書いた原稿は、一九八五年二月に『パソコン創世記』として旺文社文庫から出た。小さな仕事だったけれど、生まれたての本は僕のてのひらの上でほっかりとあたたかかった。
 僕はたくさんの人に、この本を読んでほしいと願った。
 パーソナルコンピューターの誕生に向けて揺りかごを用意した時代の気分について、この本を前に話したいと考えた。
 だが『パソコン創世記』はしばらくは書店の棚を与えられたものの、やがてその姿を完全に消すことになった。一般書から撤退するという方針を固めた出版社は、文庫全体の廃刊を決めた。残部を買い取ろうと気づいたときには、すでに初めての僕の本は断裁処分となっていた。
 夕焼けの中で確かに相手に向かって投げたと思った僕のボールは、駆け足で陣地を広げる夜に呑まれ、そのまま底の見えない闇の中に落ちて消えた。
 
 一九九二(平成四)年の四月、マッキントッシュの専門誌の編集者が、ソフトウエアのレビューをやらないかと声をかけてくれた。
 パーソナルコンピューターに関する原稿は、それまでにもずいぶん書いてきた。だが、製品の紹介記事の類には、妙なこだわりがあってほとんど触らずにきた。ところが話を聞いてみると、その編集者がなぜ僕を今回の書き手に指名してくれたのかがよく理解できた。示されたソフトウエアは、ボイジャーというアメリカの会社が出しはじめた「コンピューターで読む本」だった。
 パーソナルコンピューターの上に本を置き換える試みがあることは、すでに知っていた。大部の百科事典をCD一枚に収めたものや、組み込んだ写真が動きだし、音まで飛び出してくる図鑑の類には触ってみたこともあった。ただしエキスパンドブックと名付けられたボイジャーの本は、もう少しシンプルに書籍をコンピューターの上に置くことを狙っているように思えた。渡された三冊にざっと目を通してから、僕は本をマシンで読むことの可能性と現状の問題点を整理した原稿を書いた。
 ただし原稿の最後に付け足した一言は、「電子本を読む」という設定した枠組みからは少しはみ出してしまっていた。
「電子本は大量の部数を望めない出版物を少ないリスクで刊行する手段としても生かされるだろう。マッキントッシュで書き、ハイパーカードのページにテキストを流し込み、一冊の本を作る。こうしたケリの付け方は、DTPの輪の、一つのつつましい閉ざし方だろう」
 エキスパンドブックを〈読む〉ことを論じながら、僕はエキスパンドブックを〈作る〉話で原稿を締めくくった。
 この年の暮れ、件の編集者からもう一度連絡があった。ボイジャーが今度は本当にエキスパンドブックを作るためのソフトウエアを出したということで、ツールキットと名付けられたこの道具のレビューをやらないかとの再度の打診だった。
 あらかじめ用意しておいた原稿をツールキットに流し込んでみると、簡単に自分のエキスパンドブックを作ることができた。評価記事の構成をまとめながら、僕は指のあいだを砂のように擦り抜けていった『パソコン創世記』のことを考えていた。ツールキットを使えば、手元にももう二冊しか残っていないこの本を、エキスパンドブックとしてよみがえらせることができるのだ。
 翌一九九三(平成五)年二月、幕張で開かれたマッキントッシュのショーに出かけてみると、ボイジャージャパンを名乗るところが小さなブースを出していた。かつてレーザーディスクに新しいメディアとしての可能性を感じとり、ソフトの供給子会社として設立されたパイオニアLDCに籍を置いていた萩野正昭さんは、コンピューターの上で新しいメディアを開拓しようとするボイジャーのボブ・スタインと出会って、彼の試みに深い共感を覚えた。そして北村礼明さんと祝田久さん、鎌田純子さんという若い仲間とともに会社を飛び出し、ボイジャーの志を汲む会社を起こしていた。
 人込みを分けるようにして狭いブースに近寄っていくと、のちに鎌田さんというお名前を知ることになるやわらかな微笑みを浮かべた女性が、ツールキットのパンフレットをくれた。「ボイジャージャパンではツールキットの日本語化を進めている。これと並行して、日本オリジナルの出版企画も準備中です」とそこにはあった。
 そのとき僕は、『パソコン創世記』をボイジャージャパンから出したいと強く願った。
 ツールキットを利用すれば、自分一人でもエキスパンドブックは作れる。求められるライセンス料をボイジャーに支払えば、作ったものを商品として売ることもできる。だが、パーソナルコンピューターの黎明期を描きながら幻のように消えていった『パソコン創世記』が、もしも電子メディアを掘り起こそうと歩みはじめたボイジャージャパンの志に包まれて復活することになれば、自分にとってとても美しい物語がそこに生まれると僕には思えてならなかった。
 残った二冊の『パソコン創世記』の片方を萩野さんに送り、僕は連絡を待った。
 エキスパンドブック版の『パソコン創世記』は、こうして生まれることになった。
 
 旺文社文庫版の主要な登場人物である日本電気の渡辺和也さん率いるチームは、物語の終わったあと、激しい変化の波に見舞われた。渡辺さんは日本電気を去り、新天地に活躍の場を求められた。渡辺さんたちのあとを継いだもう一つのチームは、PC―9801という機種を日本の市場で大成功させた。今回エキスパンドブックとして再刊するにあたり、あらたに取材しなおして、日本電気にパーソナルコンピューターの種をまいた人々のその後の歩みと、PC―9801の成長の過程を別章を立てて補った。
 当初、若干の補遺程度のつもりで書き足しを始めてみると、パーソナルコンピューターとはなんなのか、どのようにして生まれどう育ってきたのか、PC―9801はなぜ日本市場を押さええたのか、要するに肝心なところは何も分かっていない自分に直面させられた。そこから一年半がかりで関係者を訪ねてまとめた別章は、尋常ではない分量に膨らみ、別にTBSブリタニカから書籍としても刊行することになった。
 旺文社文庫版の第一部「一九七五 人ひとりのコンピューターの創造」に加え、「一九八〇 激動の一〇年をかけて何を目指すのか」として収録した第二部は、このTBSブリタニカ版によっている。
 書き足しを終えて読みなおしてみると、かつての原稿には手直しを誘うところが数多くあった。迷いは大きかったが、最終的には明らかな誤記、誤植、別章との表記の統一を除いてはほとんどそのままとした。
 徹底を欠いていたり誤解と紙一重だったとしても、これが僕なりの〈現代史〉の原点だったのだから。

 一九九三年五月十日作成
 一九九五年一月十六日修正

    

    

第一部 はじめに

 日本における半導体研究のパイオニアであり、エレクトロニクスの発展に大きく貢献された菊池誠さんは、一九二五(大正十四)年に生まれえたことを感謝したいと書いておられます。この年に生まれたからこそ、大学卒業後菊池さんは一九四八(昭和二十三)年に研究者としてのスタートを切ることになりました。
 一九四八年――。
 その後、エレクトロニクスの世界に一大革命を引き起こすことになる、トランジスターの発明された年です。
「一九四八年、もう一つの忘れ得ぬ要素。
 それはトランジスタの誕生であった。
 もしもただ一つわたしが神様に感謝するとすれば、わたしの生命を大正十四年に与えてくれたことである。その故にわたしは、わたしの研究生活の原点を、トランジスタ誕生の年に重ねることができた。わたしの研究生活が、この時間軸の奇遇によってどれほど感謝とよろこびにみちたものになったことか」(『エレクトロニクスからの発想』講談社)
 一九五二(昭和二十七)年に生まれた私にも、菊池さんにならって感謝してみたいことがいくつかあります。
 まず一つは、十代のほとんどをビートルズが活発に音楽活動を行っていた時期に重ねえたこと。彼らがイギリスからアメリカへ進出を開始するきっかけとなった曲、「抱きしめたい」のアメリカ発売が一九六三年十二月二十六日。この曲はたちまちヒットチャートをかけ上がり、翌年二月七日に彼らがケネディー空港に降り立ってからは、すさまじいビートルズフィーバーが巻き起こります。
 日本ではまず奇妙な社会現象として彼らの存在が紹介され、私が初めて彼らの歌声を耳にしたのも、おそらくテレビの海外ニュースによってだったと思います。小学校五年生だった少年の耳に、彼らの歌声はまず、大変奇異に響きました。これまでにまったく聞いたこともないスタイルの音楽に大いに戸惑い、唯一持ちえた感想は「何か、女の子が歌ってるみたい」というものでした。
 しかしその後、ラジオから盛んに彼らの歌声が流れはじめると、少年はたちまち彼らの音楽の虜になってしまいます。
 何から何までが、すべて新しかったのです。
 ギターを抱え、演奏しながら歌うというスタイル。フルバンドをバックに従え、伴奏があってはじめて歌が成り立つのではありません。彼らは自分たちのために伴奏してくれる人など必要としておらず、自分たちだけで音楽空間を創り上げることができる。ギターとベースを弾き、ドラムを叩くことはけっして伴奏ではなく、歌うことと渾然一体となった演奏だったのです。
 彼らよりうまいギタリスト、ベーシストそしてドラマーは、当時でもいくらでもいたでしょう。歌声だけはデビュー当時からなかなか見事だったと思いますが、それが果たして彼らをスーパーアイドルに押し上げる要素だったかどうか――。
 むしろ、へたくそなギターを含めた彼らの世界を、彼らだけで作り上げるということに、若い世代は新鮮な驚きを感じた、この要素の方が本質的なのではないかと思います。
 自分たちの世界を、自分たちだけでという原則は、彼らの演奏だけにとどまるものではありませんでした。彼らの歌う曲のほとんどは、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの手になるものでした。
 自分の歌いたい曲を自らが作り、演奏しながら歌う。
 この新しいスタイルを教えてくれたのは、ビートルズでした。
 一九六〇年代の音楽的潮流の一つに、フォークソングがありました。当時、ビートルズの代表する音楽とフォークソングとは、使用する楽器がエレクトリックかアコースティックかから始まって、景気のいい恋の歌かそれとも社会性を帯びた歌かなど、さまざまな点で対立的にとらえられていたように思います。
 しかし、自分の歌いたい曲を自らが作り、演奏しながら歌う、という大原則のところでは、両者はまったく同一です。曲が素晴らしかったり、演奏がうまかったり、歌が上手だったりすることはそれに越したことはなかったのかもしれませんが、それよりも何よりも一つのグループが、あるいは一個人が自己完結的に表現を行っていく。欠点のない分業よりもむしろ、多少のあらはあっても自分で何から何までを受け持つというスタイルにおいて、一九六〇年代を支配した音楽の二つの潮流がまったく同じだったことは、もう少し強調されてよいことでしょう。
 歌われるテーマに関しても、両者はしだいに似通っていったようです。
 初期の景気のよい恋の歌でスターダムにのし上がったビートルズは、その後に発表したアルバムでは彼らの音楽に乗りまくり、リズムに合わせて体を動かしていたいファンを戸惑わせるような試みをつぎつぎに行っています。歌に盛り込まれたメッセージはより詩的になり、孤独や絶望、恋ではなく愛、政治、社会がテーマとされる。いかにもLSD体験を思わせるいささかわけの分からない歌も登場し、メッセージが多様化してくるにつれて演奏のスタイルも変化し、幅が広がっていったのです。
 アイドルの変貌に驚かされたのは、ビートルズのファンだけではありませんでした。
 フォークソングの代表的な旗手であるボブ・ディラン。彼のファンもまたアイドルの変身に驚かされ、一部のファンは驚きよりもむしろ怒りをもって彼に訪れた変化を受けとめました。
 ビートルズのように無内容で商業的な歌ではなく、アコースティックギター一本を抱えて政治的なメッセージにあふれる自作の歌を歌うはずのボブ・ディラン。そのボブ・ディランが一九六五年のニューポート・フォーク・フェスティバルにエレクトリックギターを抱え、バンドを引き連れて登場したとき、観衆の多くは目を丸くしました。そして彼がロックビートに乗せて歌いはじめるや、観衆からはブーイングが起こり、彼は舞台を下りざるをえなかったのです。
 昔ながらのアコースティックギターを持ってもう一度舞台に立った彼は、涙ながらに「新しいマッチをすって、やりなおすんだ。すべては終わったんだから」と一曲だけ歌い、ステージを下りました。この時期以降、彼のアルバムからは、狭い意味での政治をテーマとしたものはしばらく消えています。そして、ボブ・ディランの詩はより内省的になり、感覚的に研ぎ澄まされていきます。
 それまでは対立的にとらえられていたボブ・ディランの歌とビートルズの歌(これは正確には、ジョン・レノンの歌といった方がよいのかもしれませんが)が互いにひとばけしたところで内省的になり似通ってくる。その後は逆に、ビートルズ、特にオノ・ヨーコと出会ったあたりからのジョン・レノンの歌には政治が顔をのぞかせるのに対し、ボブ・ディランの方はしばらくのあいだストレートには政治をテーマとしなくなります。ただここに表われた差はあくまで表面的なものにすぎず、両者はきわめて似通った作業をその後も続けていたのではないでしょうか。
 もっとも、ビートルズの歌の中で「愛」という言葉が絶対的な善と位置づけられはじめたり、ボブ・ディランがキリスト教的なものに接近するようになると、私自身は彼らの選択には違和感を抱いたのですが、ことの本質は選び取られた結果にあったのではなく、彼らが自己と向き合わざるをえなかったところにこそあったという気がしてなりません。
 一九六〇年代後半に、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本で巻き起こった学生たちの反乱は、何がしか発言したり行動したりしようとすれば、自らの立場も揺らいでくる、といった傾向を持っていました。外に向かって槍を突き出そうとすれば、その槍は同時に、自らの足下をも突きくずそうとしたのです。
 こうした時代精神を、ジョン・レノンとボブ・ディランという二人の天才は、多くの若者の半歩先で受けとめ、自らとの格闘を通じて表現していったのではないか。だからこそ、あれだけの大きな支持を獲得しえたのではないでしょうか。
 さて、私が一九五二(昭和二十七)年に生まれたことで、感謝したいことの二つ目です。
 私が大学と縁を切った一九七六(昭和五十一)年、社会に出たとはおこがましくてとてもいえない形でしたが、この年に日本におけるマイコンブームの走りとなるキット式のワンボードマイコン、TK―80が日本電気から発売されています。
 ただし、私立大学の文科系に籍を置いていた私が個人で所有しうるコンピューターなるものに本当に興味を持ちはじめるのは数年後からなのですが、今こうして振り返ってみると、やはりこの偶然を多少は喜ばせてもらいたい気持ちになります。
 おそらくこの本が発売された直後、一九八五(昭和六十)年の三月いっぱいで、私は大学を離れてから丸一〇年を過ごしたことになります。その一〇年間に果たして自分は何をしえたかと自問するとまったく恥ずかしい限りですが、それに引きかえ個人が所有することを大前提としたパーソナルコンピューターが示した進歩は何と大きかったことでしょう。
 今はもう博物館にでも収めておくのが似合いそうなTK―80発売からまだ一〇年たっていないのです。
 日立のベーシックマスターやシャープから出ていたMZ―80Kなどいくつかの先行するマシンはあったものの、おそらくほとんどの人が日本における初の本格的パーソナルコンピューターとして指摘されるだろう日電のPC―8001の発売からは、わずかまだ五年です。
 ワンボードマイコンの上で個人が所有するコンピューターというアイディアが生まれ、パーソナルコンピューターという概念が誕生して急速に発展していく――。この過程はしばしば、革命的と形容されます。私自身も、けっして革命的でないとは思いません。
 しかし、「パーソナルコンピューターの革命的な進歩」などという一文に出くわすと、思わず首をひねりたくなってしまいます。確かにフロッピーディスク装置や果てはハードディスク装置までが外付けの記憶装置として使えるようになったこと、半導体メモリーの記憶容量が値段に比して急激に安くなったこと、パーソナルコンピューター用のCPU(中央処理装置)として一六ビットのものが当たり前になってきたことなどなど、ハードウエアの進歩には目を見張らせるものがあります。ただし、もっぱらハードウエアの進歩だけに「革命的」なる言葉を奉っていたのでは、何か非常に重要なことを見逃してしまう気がするのです。
 私は、パーソナルコンピューターの誕生は一つの革命だったと考えています。
 結局この本のタイトルは『パソコン創世記』に落ちついたのですが、途中までは第一章の章名「誕生! 超貧弱マシン」をタイトルにと考えていました。
「誕生! 超貧弱マシン」
 パーソナルコンピューターに興味のない人にはさっぱりイメージがつかめず、何やらコンピューターやそのメーカーを馬鹿にしているのではないかと受け取られたようです。逆に興味を持っている人からは、トレイシー・キダーの『超マシン誕生』が頭に浮かぶのか「あいつのパロディーですか」と問われました。パロディーでもなく、あとから出てきたものが似ている場合には「要するにまねた」ということになるのでしょうが、本人は結構気に入っていました。
 もともとはコンピューターと思って作ったのではない代物、コンピューターとして見れば絶望的に能力がなく、使い勝手もすさまじく悪かった代物を「これは俺のコンピューターだ」ととらえなおしたとき、革命はスタートしたのだ。そんな私のイメージを、「誕生! 超貧弱マシン」というタイトルがよく伝えてくれるのではないかと考えたからです。
 パーソナルコンピューターの誕生は一つの革命だった、と書きました。しかし、「革命」という言葉ほど、安売りされがちなものもありません。そこでこの本を通して、二筋の道からいったい何が起こったのかを、具体的に考えてみたいと思います。
 一つは、日本電気の内部で起こった、企業内ベンチャーとも呼ぶべき動きです。
 副題には「日電PC帝国」といささかぶっそうな言葉が入っていますが、最近の日電のシェアを考えると、これもそうオーバーな表現ではないように思います。しかし日本電気がパソコンの日電という一面を獲得するまでには、かなりの紆余曲折があったようです。パーソナルコンピューターという革命児は、日本電気内のコンピューターの専門家が育て上げたものではありません。そもそもはコンピューターとは直接関係のない部門、しかも純粋に技術系のセクションではなく新設された弱小の販売部門から、革命児は誕生しているのです。しかも、日電内の誰も、開発担当者までが商品としてはまったく期待しない形で――。
 パソコンの日電のルーツとなった革命児、私流にいわせてもらえば超貧弱マシンはTK―80と呼ばれています。TK―80は、担当者もまったく予想しなかった七万台を売りつくすことになります。副題にある「七万人」とは、このマシンに手を伸ばした人の数を指しています。
 さて、二筋の道のもう一つは、ある若者のパーソナルコンピューターによる再生の物語です。
 パーソナルコンピューターの誕生にあたっては、いく人かの天才的なヒーローが大きな役割を演じています。しかし、この革命劇の真のにない手をあげるならば、それはやはり、パーソナルコンピューターに興味を持ち、これに飛びついていった数多くの無名の人々でしょう。
 では、なぜ彼らは、パーソナルコンピューターに飛びついていったのか――。
 その理由をたった一言に帰するほど、私は自信家でもありませんし強引でもないつもりです。いろいろな理由、さまざまな接近のパターンがあったでしょう。
 しかしこの革命を同時代者として体験してきた、少なくとも眺めてきた私には、パーソナルコンピューターへの接近のパターンの中に、ある種の似通ったグループがあるように思えてなりません。
 いろいろな体験や挫折を通して一度社会の枠組みからはずれてしまった人間が、パーソナルコンピューターを通じてもう一度社会に足がかりをえる。いわば一種のリターンマッチとして、パーソナルコンピューターに接近する。パーソナルコンピューターの文化は、挫折組のリターンマッチ文化としての性格をある面では備えている気がします。
 もう一筋の道、再生の物語に登場する若者は、目の前にある社会の枠組みからはずれていこうとする志向を強く備えていました。そうした人物にとって、生きていくことは一種の格闘にならざるをえないようです。
 そうした格闘の連続の中での挫折、そして沈滞――。
 もしもあの時期にパーソナルコンピューターという奇妙な機械が登場していなければ、彼の沈滞はもう少し長く、もう少し深くなっていたことでしょう。
 裏返していえば、挫折と沈滞を余儀なくされていた一つの時代精神が、パーソナルコンピューターという革命児を生み出したのではないか。少なくとも、生み出す一因となったのではないか。
 そう考えていくと何やら、一九六〇年代前半のビートルズの革命、一九六〇年代後半の世界的な学生運動の渦、そして一九七〇年代後半のパーソナルコンピューターの革命を結ぶ、一本の筋が見えてくるような気がします。
 さあ、言葉だけを先走らせるのは、このへんでやめましょう。
 あとは、具体的に書いていきます。
 日電内の企業内ベンチャー、そしてある若者の再生物語。
 この二筋の道を通して、私はパーソナルコンピューターのまわりで何が起こったのか、そして今、何が起こりつつあるのかを考えてみたいと思います。
 この二筋の道の交点に、願わくば革命の本質が姿を現わさんことを。

 一九八四年十二月十四日

    

    

第一部 第一章 誕生!超貧弱マシン

 日本電気株式会社――。
 資本金一〇〇三億三〇〇〇万円、一九八四(昭和五十九)年三月期決算の売上高一兆四六〇〇億円。従業員数は三万五〇〇〇人に及ぶ。
 通信、コンピューター、半導体の超巨大企業――。規模から見ても利益率から見ても、日本のエクセレントカンパニーと呼ぶにふさわしい存在であろう。そしてさらに、日電にはエクセレントと呼ばれるにふさわしい、もう一つの要素がある。
 企業イメージの明解さである。日電の戦略を示す合言葉、C&C。
 C&Cとはコンピューターとコミュニケーションの略で、これまではそれぞればらばらに発展してきた二つの要素が結びつく高度情報化社会への対応こそが、日電の進むべき道であるという。
 今、C&C戦略は確かに日電に明解な企業イメージを与えている。しかし、日本電気会長だった小林宏治がこの言葉を使いはじめた一九七七(昭和五十二)年当時、そしてごく数年前にいたるまで、日電は見事に引き裂かれた二つの顔を備えていた。そして、この二つの顔のあいだに存在した亀裂が埋められてはじめて、C&Cは日電全体の合言葉となりえたのである。
 とすれば、日電に明解な企業イメージを与えた功績を帰すべきは、C&Cなる合言葉そのものではなく、亀裂を埋めた何物かであるべきかもしれない。
 では、引き裂かれた日電の二つの顔とは何か。
 胸の内で思い起こしていただきたい。かつてあなたが、日電のブランドであるNECに、どのようなイメージを抱いていたかを。もしもあなたが技術畑の人間であるなら、エレクトロニクス関係の企業に籍を置いているなら、NECブランドにはかねてからハイテックなイメージを持っていたかもしれない。しかしほとんどの日本人は、NECの三文字に日電の子会社、新日本電気の家電製品のイメージを重ね合わせていたはずである。
 昭和二十年代生まれの私は、NECと聞くと「売れない家電」と思い浮かべていたことを、今もはっきりと覚えている。じつは五年ほど前、私はあるオーディオ誌の編集を行っていたのだが、内外のブランド約四〇を総まとめに紹介する記事の中でも、NECのオーディオブランド「ジャンゴ」は取り上げなかった。まったく取り上げる気にもならなかった。
 だが現在、NECブランドには、そうしたしみったれたイメージはかけらも存在しない。コンピューターと通信の融合する高度情報化社会、同社流にいえばC&Cを目指す先鋭的なイメージを、NECは獲得している。
 技術者の思い描くハイテックなイメージとほとんどの日本人が持っていただろう「売れない家電」のイメージ――。この両者の亀裂を埋め、NECの三文字に「C&C」の鮮明なイメージを定着させる原動力となったものは、何といっても同社のパーソナルコンピューター、PCシリーズのラインナップであろう。
 しかし、このエース誕生までの道のりは、けっして平坦なものではなかった。同社のパーソナルコンピューターははじめから社内の期待を集めて市場に送り出されたわけではなく、むしろ社内の空気はわけの分からないオモチャのようなマシンに、大変冷たかったのである。
 そもそも、パーソナルコンピューターを誕生させたセクションにも注目する必要があろう。日電のパーソナルコンピューターは、それまで大型コンピューターを担当していたセクションから生まれたものではない。当初、日電内のコンピューターのプロである大型コンピューターの担当者たちは、パーソナルコンピューターなど見向きもしなかった。
 革命児はそれまでコンピューターとは縁のなかった集積回路部門、ICやLSIといった電気回路用の部品を取り扱うセクションから誕生した。しかも、半導体の設計や製造に携わる技術系のセクションからではなく、新設された弱小の一販売部門から革命児は誕生することになったのである。
 その誕生の過程では、ある種の「熱」に取りつかれたまことに日電マンらしからぬ人物たちによって、企業内ベンチャーとでも呼ぶべき革命劇が演じられていたのである。

弱小「マイクロ部」の誕生

「これじゃマイクロコンピュータ販売部じゃなくて、マイクロ部になりかねんな」
 硬くこわばったままの胃に手をそえながら、渡辺和也はつぶやいた。
 新設されるマイクロコンピュータ販売部の部長にとの内示を受け、一九七六(昭和五十一)年二月の正式スタートに向けて半年ほど前から根回しを進めてきた。しかし動けば動くほど、気分は重くなり、胃の痛みは激しくなる。
 販売部の部長にといわれても、営業の経験などまったくない。
 電気工学を学んだ山梨大学工学部を、一九五四(昭和二十九)年、第五福竜丸がアメリカの水爆実験で被爆した年に卒業。大手の家電メーカーに就職し、技術者として脂の乗りきった時期、一九六五年に日本電気に転じた。
 それ以降の一〇年間も、技術畑一筋である。
 マージャンができるわけでもなければ、酒席でのとりなしが巧みなわけでもない。
 さらに、営業は願い下げといきたいのに加え、売り込みを図るもの自体も難物である。
 販売部のスタッフにと目星をつけていた連中に「マイクロコンピュータ販売部に来ないか」と水を向けてみると、反応はすこぶる悪い。誰も彼も露骨に尻込みしてみせ、中にはあからさまに「そんなゲテ物だけはかんべんしてくれ」と口にする者すらある。
 これまで大きな図体をしていたコンピューターの中心部分の機能を、ごく貧弱な形ながらちっぽけな半導体のチップの中に押し込んでしまったマイクロコンピューター――。
 確かに何やら革新的なイメージだけは強いこの代物を売り込んでいくためにマイコン販売部が新設され、自らが部長としてその先頭に立つことになったわけではあるが、営業のえの字も知らず、みながマイクロコンピューターをゲテ物扱いするようでは、スタッフも貧弱、売り上げも貧弱のマイクロ部になりかねない。
 ふさぎがちになる気持ちを気力で鼓舞しようとする渡辺だったが、間断なく続く胃の痛みだけは抑えられなかった。
 渡辺自身、コンピューターの持っている機能が曲がりなりにも小指の先ほどのチップに収まると聞けば夢のような話と感心はしても、果たしてそれを何に使ったらよいのか、どういった層に売り込みを図ったらよいのか、さっぱり分からなかったのである。
 この時期、渡辺を大いに悩ませることになったマイクロコンピューターなる代物は、四年前の一九七一(昭和四十六)年十一月、当時日本で繰り広げられていた電卓戦争勝ち残りの秘密兵器として姿を現わした。当時、日本国内ではカシオ計算機とシャープを中心に激しい電卓の低価格化競争が繰り広げられており、その様は電卓戦争とも形容されていた。
 この電卓戦争に加わったメーカーの一つに、ビジコン社がある。
 国内でのシェアはごくわずかでそれゆえ知名度も低かったがアメリカ向け輸出ではトップ。一九六六(昭和四十一)年七月には、当時四〇万円台が相場とされていた電子卓上計算機界に、三〇万円を切りしかも性能面でも従来機を大きく上回った新製品をデビューさせて業界を震撼させる。さらに一九七一年一月には、ポケット電卓の先駆けとなった「てのひらこんぴゅうたあ」を発表。
 技術開発の面では常にトツプに立ってきたビジコン社だが、対米輸出を経営の柱としていた同社にとって、一九七三(昭和四十八)年の石油ショックの与えた影響は深刻だった。円安による大幅な為替差損を背負い、作れば作るほど赤字となる事態に立ちいたったのである。一九七四年二月、ビジコン社はついに倒産に追い込まれる。しかし倒産後も同社は、マイクロコンピューターを生んだルーツとして歴史に名をとどめることになった。
 商品の低価格化を目指し、製造コストの切り下げのために電卓メーカーがとった戦略は、いわば「輪転機方式」とでも呼ぶべきものだった。
 新製品に持たせる機能が決まれば、まずマーケティングを行って、はけるだろう個数を想定してしまう。そして半導体メーカーに、新製品用LSIの設計を依頼し、設計が終わって原版にあたるマスクが作られると、ともかく想定した個数分のLSIを、輪転機を回すように作りきってしまうのである。
 一般に出版社では、単価が高く部数の読みにくい書籍はそこそこの部数を刷って売り出し、市場動向を見て必要とあらば増し刷りする。一方、単価の低い雑誌に関してははけるだろう部数を読みきって輪転機で一挙に刷ってしまい、コストの低減化を図る。
 電卓戦争においても、主要なメーカーは、この雑誌方式=輪転機方式を採用することで低価格化に成功し、シェアを広げていった。
 それに対しビジコン社は、超輪転機方式とでも呼ぶべきまったく異なった方法によって、コストの切り下げを図ったのである。
 ビジコン社は、それまでの常識からすれば半完成品のLSI、つまりは完全に印刷が終わっておらず、白い頁の残ったままのLSIを利用することを考えた。
 ある機能を備えた電卓向けに開発されたLSIには、その機能を実現するために必要な回路がきわめてコンパクトに作り付けられている。それを裏返せば、ある一種類のLSIは、他の機能を備えた電卓の部品としては使えない。もしも三種類の機能の異なった電卓を作るとすれば、三種類のLSIを用意する必要があり、そのたびごとに膨大な回路の設計作業を行うことになる。
 それに対し、半完成品でそこにソフトウエアを追加してはじめて機能するLSIを大量に作っておく。この半完成品LSI、いわばできそこないLSIに、付け加えたい機能を実現するソフトウエアを加えてやれば、それ用のLSIに化ける。もしもこうしたできそこないLSIが作れれば、ソフトの種類だけ化ける可能性を持ったものを一挙に作り上げてしまう超輪転機方式が可能になる。
 ビジコン社は、従来の常識からは考えられないできそこないLSIの開発を、当時はまだほんの小さかった半導体メーカー、インテル社に依頼した。できそこないLSIの開発を担当していたビジコン社のスタッフ四名は、基本的な構想を固めてアメリカに渡り、インテル側の担当者と設計図の作成に着手した。
 スタンフォード大学のコンピューター研究所で働いたのち、一九六八年のインテル創立とほぼ同時に同社に移っていたマーシャン・E・テッド・ホフは、ビジコンのアイディアをさらにもう一歩推し進めた。
 ビジコンではあくまで、電卓用LSIでプログラム可能なもの、言い換えればソフトウエア追加によって異なった機能を持つものを望んでいた。電卓用部品として限定したものでかまわないと考えていた。
 それに対しホフは、できそこないの度合いを少し高め、それによって応用範囲をさらに広げることを考えた。電卓にしかならないLSIではなく、電卓にもなるLSIを目指したのである。作業途中から担当をはずれたホフに代わってこのアイディアを設計図にまとめ上げたのは、ビジコン社の嶋正利とインテル社のフェデェリコ・ファジンだった。
 世界初のマイクロコンピューター、インテル社のi4004(四ビット)は、望まれた力よりもはるかに大きな可能性を秘めて誕生した。その後、嶋正利はインテル社に引き抜かれて、八ビットの代表的なマイクロコンピューター、i8080をファジンとのコンビで開発。さらにのちには、ファジンとともにインテルを去り、ザイログ社を創設して同じく八ビットの代表格となったZ80を開発している。
 4004の開発にめどがついた時点で、ビジコン社社長、小島義雄は記憶装置にたくわえたプログラムをマイクロコンピューターで処理し、インターフェイス回路を通じて情報の出し入れを行うというマイクロコンピューターのシステムに特許が取れないものかを考慮したという。だが、LSIの技術も存在し、プログラムをたくわえておいて実行するという方式もコンピューターでは行われていたことから、小島は特許の取得を断念することになった。
 しかし、専門家のあいだでは、この新しい技術に特許性は認められたのでないか、とする声が強い。
 歴史に「もし」はありえないとしても、これほど好奇心を刺激するものもないことも事実だろう。特許庁の馬場玄武は、『インターフェース』誌一九七七年十月号でこの魅力的なシミュレーションを行っている。
「(マイクロコンピューターに関する特許を)外国にも出願してあったとすると、この関係の売り上げが一兆〜一〇兆円としても、実施料二〜三%として二〇〇億円〜三〇〇〇億円の実施料が入ることになる。(あの『IBM帝国』の一九七六年度の利益が六〇〇〇億円である!)インテル社にMCS―4(4004を使った、マイクロコンピュータのセット)の原型を発注した日本のビジコン社が特許の権利化に二、三億円の投資をしていたら、マイクロコンピュータによる『ビジコン帝国』が誕生していたであろうに! しかし、いまとなってはすでに遅い。まさに〈幻の帝国〉である」

草むしりと評価用キットの日々

 川崎の集積回路事業部から、半導体の大型工場が設置された九州日本電気熊本工場へ籍を移していた後藤富雄は、かつての上司、渡辺和也を悩ませることになるゲテ物、マイクロコンピューターを、草むしりの合間を縫って大いに楽しんでいた。
 渡辺の胃痛が始まるちょうど一年前、一九七四(昭和四十九)年のことである。
 前年十月に勃発した第四次中東戦争をきっかけとした石油ショックにより、日本経済は大きな不況に見舞われ、この嵐の中でマイクロコンピューターを生んだビジコン社は倒産に追い込まれる。
 この不況下、半導体の需要が急激に落ち込む中で、他のメーカーは設備投資を抑えたのに対し、日電は生産ラインの強化を敢行。のちに振り返って、この時期にあえて設備投資を行ったからこそ、その後目覚ましい勢いで盛り返してきた需要に応え、日電の半導体部門がさらにいっそう飛躍しえたのだと指摘されることが多い。
 ただし、石油ショック後の一時期ではあったにせよ、半導体の一大工場を抱えた九州日本電気では生産ラインが止まり、技術者までがとにかく仕事を求めて草むしりまでやらざるをえなかったことも、また事実である。
 草むしりの合間を縫って、いや正確には定時までの草むしり作業を終わったあと、後藤は世界初のマイクロコンピューター4004を使ったエバリュエーションキットに熱中していた。
 エバリュエーション、つまりは評価用キット――。
 まだ海の物とも山の物とも分からないマイクロコンピューターに、果たしてどのような使い道があるのか技術者に評価をあおぐ。いやその前に、とにかくマイクロコンピューターなる代物のイメージをつかんでもらう。そのために作られたキットである。ただしこのキット、組み立て終わってもそれ自体では、うんともすんともいってくれない。キットには、入力のための部品も出力のための部品も、組み込まれていないのである。
 入出力機器がないとは、現在のパーソナルコンピューターに当てはめれば、キーボードもディスプレイも付いてない状態にあたる。もちろんマウスもなければ、プリンターもない。これだけでは、コンピューター本体にプログラムもデータも伝えることができないし、当然のことながら処理結果を見ることもできない。
 当時の評価用キットは、あくまで技術者用に作られたものである。
 キットそれ自体はアマチュアっぽい代物であっても、あくまでプロ用。この超小型コンピューターキットは、テレックス通信用の端末として開発された、テレタイプ社のテレタイプ、ASR―33をつないではじめて動かすことができたのである。
 キーボード、プリンター、紙テープパンチ、紙テープリーダーを一体にまとめたASR―33は、本来の用途以外にも、比較的小型のコンピューターシステムの入出力機器として使われていた。
 キット程度の代物に、新品で約五五万円、中古でも三〇万円はするASR―33をつなぐというのも、今からすれば、ずいぶんとバランスの悪い話に聞こえる。だが、キットとはいえあくまで技術者用。マイクロコンピューターを理解しようとするプロのいる会社なら、テレタイプの一台や二台あって当たり前という発想だったのだろう。
 事実、仕事とは無関係に4004のキットを買ってきた後藤富雄も、ちゃっかりと会社にあったテレタイプを利用している。音の大きさで悪名高かったASR―33に組み立て終わったシステムを接続し、騒音をまき散らしながらとにかく動かしてみることに、この時期、後藤は猛烈に熱中していたのである。
 一九六七(昭和四十二)年、鈴鹿工業高等専門学校を卒業して後藤富雄は日電に入社。できたばかりの半導体事業部に所属し、以来半導体作り一筋に打ち込んできた後藤が、超小型とはいえコンピューターのシステムに興味を持ってこの時期いじり回していることは、けっして当たり前のことではない。
 技術者でない人間、特に私のように文科系出身の人間にとっては、半導体もコンピューターも、ソフトウエアもハードウエアも、ともかく常人には近づけぬコンピューターの国のお話と、ごっちゃに見えてしまいやすい。
 しかし、半導体作り、特にこの時期以前の集積回路作りは、コンピューターとはほとんど何の関係もなかったのである。集積回路とは、ちっぽけなシリコンの小片の上に、トランジスタ、コンデンサー、抵抗、そして配線と回路を構成する部品を作り付けたものである。基本的には、部品の延長線上にあるもので、発想の原点はあくまで部品をいくつまとめられるか――。コンピューターシステムという全体からの発想とは、まったく方向が逆である。それ自体部品なのだから、集積回路は電気回路を持つものなら何にでも、テレビにもラジオにも使われる。
 現実に集積回路作りに携わる技術者も、物理屋や化学屋がほとんど。作業の中心は、チップ上に回路を作り付けていくために何度も重ね焼きしたり、炉で焼いたり冷やしたりの繰り返しであった。
 もちろん日本電気全体を見回してみれば、コンピューターの専門家がいないわけではない。他の日本の大型コンピューターメーカーがすべて、コンピューター界の巨人、IBMとの互換路線、要するにIBMの用意した土俵に上がりIBMに合わせながら価格などで競争する方針をとったのに対し、日電は唯一独自路線を選択。あくまで従属することを前提とした互換路線に対し、IBMという強大な敵に対しては、原則的ではあるがいかにも危険な独自路線に従って大型コンピューターを育て、見事に健闘してきた情報処理の部隊がある。
 しかしこと半導体事業部門に限っていえば、コンピューターに関連した仕事の経験があったり、コンピューターに興味を持ったりという技術者は、ほとんど存在していなかったのである。
 その意味からいえば、後藤富雄は異色だった。
 そして、彼の特異性は、かつての上司、渡辺和也の特異性でもあった。
 入社後、後藤は半導体の生産設備を整備する部隊に配属されるのだが、ここで担当したのが、渡辺と組んで進めることになったICテスターの開発業務だったのである。
 IC、つまりは集積回路。
 誕生初期のICは、せいぜいトランジスター一〇個ほどを一つの部品に詰め込んだものだった。ところがその後、ICの集積度は飛躍的に高まり、ゲートと呼ばれる基本単位となる回路の数が一〇〇〇を超えるものに関しては、LSI(大規模集積回路)という別の名前が用意されるようになった。
 変わったのは名前だけではない。仕上がった製品の検査法も、集積度の高まりに応じて変わらざるをえなかった。
 ムカデのように足を出した完成品の集積回路――。
 この集積回路が設計図通り仕上がっているかをチェックするためには、それぞれの足からオン、オフの二種類の信号を入れてテストしていく必要がある。
 ICの集積度が低く、足の本数も少ないうちは、ICテスターも手動のものが使われていた。ところが集積度が高まってくると、そんなものではとても対応しきれなくなり、次に開発されたのが、リレーを使ったテスターである。
 しかし、それでもとうてい間に合わなくなってくる。
 集積度がさらに高まってくるにつれて、超高速でテストを進めていく、コンピューターを使ったテスターの開発が不可避となったのである。
 そして、この業務に携わったことで、後藤と渡辺は半導体屋にはめずらしく、コンピューターもいけるという特異性を身につけることになった。
 あくまでも部品の延長上に発達してきた集積回路、そして一つのまとまったシステムとしてのコンピューター――。
 マイクロコンピューターとは、部分としての集積回路と全体としてのコンピューターの境界に生まれた異端児である。部分でありながら完結した全体性を持つこの異端児は、半導体屋のセンスからすればわけの分からないゲテ物に見える。また、コンピューター屋のセンスからすれば、オモチャ以下の取るに足らない存在に映る。
 LSIにコンピューターの中央処理装置の機能を収めたといっても、その力はあまりに貧弱。いくら小さくできたといっても、こんな貧弱なものを何に使うか、ということになる。
 こうしたマイクロコンピューターのわけの分からなさに、埼玉大学理工学部で電気工学を専攻していた加藤明も、頭を抱えていた。後藤富雄が九州で草むしりと評価用キットの日々を過ごしていた一九七四(昭和四十九)年の夏、彼もまた本業の卒業研究そっちのけでインテル社のi8008(八ビット)の評価キットに取り組んでいたのである。
「こんなものを手に入れたから、ちょっといじってみよう」と教授から声をかけられ、さっそく組み立ててテレタイプにつないでみた。
 しかしそこからは、悪戦苦闘である。資料や説明書もほとんどない状態で、たとえば文字を一つテレタイプのタイプライターに印字させるにしても、制御用に組み込まれている機械語のプログラムをいちいち解析しながらの手探り状態。
 そもそもマイクロコンピューターなるものの概念が、どうしてもピンとこない。
 大型のまともなコンピューターの話なら、授業で叩き込まれているしイメージもつかめる。ところが、目の前にあるちっぽけなLSIにコンピューターの中央処理装置が収まっているといわれても、どうしても首をひねりたくなる。コンピューターとLSI一個とは、どう考えても結びつくように思えない。ただしこのわけの分からなさ、マイクロコンピューターの得体の知れなさは、加藤の頭を悩ませたと同時に強力に彼の好奇心を引き付けもした。卒業までの一年間を、加藤明はテレタイプと向かい合って過ごすことになったのである。
 一九七五(昭和五十)年三月、加藤は埼玉大学を卒業。
 試行錯誤の末、ついにマイクロコンピューターのイメージをつかみきれぬまま卒業することになった加藤だが、石油ショック後の就職難の中で、第一志望の日本電気に職を得ることができた。

アメリカからの風

 一九七六(昭和五十一)年二月からのマイコン販売部のスタートに向けて、渡辺和也は準備作業に追われていた。
 当時の集積回路事業部長、常木誠太郎から「マイクロコンピューターを作ることは作った。あとは、とにかく売れ」とマイコン販売部長として先頭に立つことを命じられた。確かに一個のLSIに押し込められたマイクロコンピューターは、原版にあたるマスクができればあとは写真を焼き付けるように一括して大量に作ることができる。
 マイクロコンピューターの製造部隊であるマイクロコンピュータ部が集積回路事業部内に設けられた当初は、コンピューター音痴の集積回路屋集団ゆえの笑い話めいた出来事もあった。「ソフトウエア」などという言葉に出くわしても、何のことだか分からない。「きっと織物のことじゃないか」と、今から見れば冗談としか思えない言葉が交わされる。何しろ当時の電子回路の常識からすれば、機能とは回路上に作り付けになっているはずのもので、ハードウエアにソフトウエアが加わって機能が実現されるといわれても、さっぱりピンとこない。目の前にある回路上には存在しないというソフトなる代物には、何やら宙に浮かんだ幽霊のようなイメージがある。
 しかし当初はそうした困難があったものの、日電内でのマイクロコンピューター作りの体制も徐々に整っていった。マイクロコンピューターの生産においては、セカンドソースの奨励という、いわば二番煎じを積極的に認める方針がとられている。もともとのオリジナルを開発した企業から他の半導体メーカーが設計のノウハウを買い取り、まったく同じ仕様のものを生産するのである。これにより、マイクロコンピューターを使う側にしてみれば仕入れ先が複数になって、供給の安定性が高まる。オリジナルの開発メーカーからすれば、自社の生産能力をはるかに超えた幅広い市場を獲得できる。そして、セカンドソースとなるメーカーにとっては、ゼロからの開発に伴う膨大な初期投資を抑えられることになる。
 そして日電でも、自社オリジナルのマイクロコンピューターに加え、セカンドソースとしての生産体制も整えていったのである。ただし、生産体制が整うことと、売れることは、直接につながっているわけではない。「あとはとにかく売れ」といわれても、果たしてどこに売ればよいのか。もともとは電卓用に開発されたマイクロコンピューターだが、大量に生産される低価格機には、専用の回路を用意した方がはるかに安くつく。高度な機能を備えた関数電卓には使われているものの、数から見ればとても勝負にならない。
 何しろ生産ラインができてしまえば、あとはハンコでも押すように製品ができてしまうのである。渡辺自身、マイクロコンピューターは大きな可能性を秘めていると確かに感じるものの、いざ何に使うかと自問すると答えが出てこない。家電製品ならどんなものにも組み込んで、コントロールに使えるのでは、とそこまでは思う。しかしそれを使ってどんなことができるかとなると、そこからは頭が回らない。
 他に答えられる人もいない。
 しかし、準備作業を進めていくうちに、いくつか見えてきたこともある。
 マイクロコンピューターをどこに売っていけばよいのか、とにかくその手がかりをつかもうと、この時期渡辺は何度かアメリカに渡っていた。アメリカへの出張となれば、当然大手の電気メーカーを訪ねるのが常識である。ゼネラルエレクトリックやウェスティングハウス、RCAなどのエリート技術者たちから情報を引き出し、マイクロコンピューターの売り先を考えるべきである。
 ところがそうしたエリート技術者たちからは、めぼしい情報が出てこない。
 その代わり、いささか毛色の変わった連中が、このゲテ物に熱中しているのには大いに驚かされた。そろそろマイコンクラブの走りのようなアマチュアのクラブが生まれており、ネクタイにはまったく縁のなさそうなひげ面の連中が、仕事ではなく好き好んでマイクロコンピューターの使い方に頭を悩ませている。ガレージにクラブのメンバーが集まって激論をたたかわせているのだが、その内容がすこぶる高い。
 そうした数々のマイコンクラブの中でも、神話的色彩を帯びて伝説として語られることの多いホームブルー・コンピューター・クラブ――。
 このクラブからは、パーソナルコンピューターの代表的メーカー、アップルコンピュータ社を育て上げたスティーブン・ジョブズやパーソナルコンピューターの原器ともいうべきアップルIIを生んだスティーブン・ウォズニアックをはじめ数々のパーソナルコンピューター界のヒーローが生まれていった。
 ホームブルー、つまりは自家醸造――。手作りコンピュータークラブとでも訳すのだろうか。ただし、手作りという気安さ、自家醸造なるしゃれっ気とは対照的に、そこでたたかわされる議論はすこぶる高度だった。
 ホームブルー・コンピューター・クラブの第一回会合は、一九七五(昭和五十)年三月、設立を呼びかけたメンバーの家のガレージで開かれた。参加者が次第に膨れ上がるにつれて転々とした会場は、その後スタンフォード大学の線型加速器センターに移された。
 第一回の会合から出席した天才児、スティーブン・ウォズニアックは、まわりの出席者が彼らだけが理解できるパスワード(暗号)を使ってしゃべっており、自分はすっかり疎外されたような気分を味わったという。コンピューターに関しては天才的だったウォズニアックにとっても、マイクロコンピューターはゲテ物、要するにちんぷんかんぷんだったのである。
 そうしたクラブの作っている会報にも、渡辺は興味をそそられた。
 ピープルズ・コンピューター・カンパニー、人民のコンピューター会社ということになるのだろう。だがここは、コンピューターを作っているのではない。クラブである。
 しかしコンピューターを作らない代わり、このクラブはなかなか充実した会報『ドクター・ドブズ・ジャーナル』を出していた。
 タイトルからして、いかにもちゃめっ気があり、自由な雰囲気を感じさせる。通常は、『ドクター・ドブズ・ジャーナル』と呼びならわされていたが、正式タイトルをそのまま訳すと『ドクター・ドブのコンピューターの美容体操と歯列矯正ジャーナル』となる。
 さっそく定期購読の申し込みを行い、日本に送ってもらうことにした。
 もう一つの常識外れの訪問先、それはオモチャ屋だった。当時はようやくテレビゲームが出はじめた時期だったが、こうした新しいオモチャが人気を集めるようになれば、オモチャ業界は当然、マイクロコンピューターの売り込み先となりうる。一個あたりの単価は低く抑えられるかもしれないが、かなりの個数がはけることになる。
「これからは、オモチャ業界へもマイクロコンピューターの売り込みを図るべきだ」とする渡辺のアメリカ出張報告には、社内の空気は冷たかった。「コンピューターを使って遊ぶなど不謹慎」といった認識が強かった時代である。
 しかし渡辺は、その本質が何であるかはつかみえなかったものの、各地でつぎつぎと生まれつつあるマイコンクラブを源に、アメリカから新しい風が吹き込んでくるのを強く感じていた。たくさんのアマチュアたちが、マイクロコンピューターに何をやらせるのか、勝手に考えはじめていたのである。

簡易教材開発作戦

 マイクロコンピューターをどう売るか。その答えはいまだに出ない。
 しかし渡辺は、アメリカから吹き込んでくる風を受けて、ほんの少し気持ちが楽になっていくのを感じていた。「マイクロコンピューターとはどんなものなのか、そのイメージを伝えることさえできれば、使い道を考える人間は出てくるのではないか」
 これまではすべての答えを自分で出さなければと思い込んでいたが、そう考えなおしてみると気持ちは楽になる。
 たとえばミシンにマイクロコンピューターを組み込むとして、それで何ができるかに自分が充分答えられないとしても、考えてみれば当然ではないか。現在のミシンにやらせたいと思ってもできないでいることを一番よく知っているのは、ユーザーでありミシン屋であろう。ならば彼らにマイクロコンピューターのイメージをつかんでもらえば、マーケットはひとりでに膨らんでいくのではないか――。それには一にも二にも、マイクロコンピューターなるものを、各分野の技術者に理解してもらい、それぞれの専門の機器のコントロールにどう生かすかを考えてもらう必要がある。
 もちろん、マイクロコンピューターを理解してもらうことの必要性を感じたことは、渡辺の専売特許ではない。
 九州日本電気熊本工場で、後藤富雄が草むしりの合間を縫っていじり回していたのも、埼玉大学理工学部の加藤明が卒業研究そっちのけでかじりついていたのも、教育を目的とした評価用キットである。すでに日電でも、自社で開発したマイクロコンピューター用の評価用ボードを作っており、各地で技術者向けのセミナーを開いていた。
 しかしこれも、本体自体はごく小さくとも、値段が高く場所ふさぎのテレタイプとつないで動かすものである。テレタイプが約五五万円、電気屋に特注で作ってもらった電源が約三〇万円。一式では一〇〇万円と、かなりの値段になる。スペースの面からも費用の面からも、三〇〜四〇人入る教室にも一台しか持ち込めない。
 そうすると結局、一人ひとりに触わってもらいイメージをつかんでもらいたかったはずのものが、講師が一人でいじり回し、解説に終始することになる。それでなくてもイメージのつかみにくいマイクロコンピューターである。聞き手の多くは、わけの分からない説明が続くうちに、舟をこぎはじめることになる。「先日の講習会で使っていたシステムを貸してくれないか」と頼まれても、何しろ一〇〇万円はかかる代物である。そうそう気軽に貸し出すわけにもいかない。一人ひとりに行き渡らせることのできる安くて手軽な教材、それを作るためには、とてもテレタイプなど使っていられないのだが――。
「あの、こんなものはどうですか」
 後藤富雄が紙になぐり書きしたラフなスケッチを手に渡辺に声をかけてきた。
 マイコン販売部に引っ張ろうと声をかけた優秀なスタッフの多くが「そんなゲテ物と心中するのだけは勘弁してくれ」と尻込みした中で、例外的に積極的に乗ってきた男である。
「何とか一人ひとりが持てる、いい教材ができないか」との渡辺の言葉を受けて、ラフなスケッチを提出してきた。プロの技術者としての経験を積んでもいい意味でのアマチュアリズムを失わない男で、こんなオモチャじみたものの設計となると、他の人間ならふくれかねないものを、後藤はかえって嬉々としてアイディアをひねってくる。
 電卓用のLSIを担当しているスタッフに相談してみると、比較的簡単に発光ダイオードの簡単な出力装置が付けられそうだということで、入力装置も簡単なテンキーのようなものでいってはという。要するに、電卓型の入出力機器を備えた超簡易システムというわけだ。
 渡辺は乗った。
 マイコン販売部が正式にスタートする前、教材作りはすでに始まっていた。後藤の書いたラフなスケッチにもとづいて実験を行い、細部を詰めていく作業は、入社一年にもみたない新人が担当することになった。埼玉大学理工学部出身の加藤明――。
 入社そうそう、マイクロコンピューターに興味を示すという異常な行動に出て周囲を驚かせ、テレタイプにつなぐ評価用システム作りを担当させられた男。渡辺和也は、マイコン販売部のスタッフにとこの男につばを付けておくのを忘れなかった。
 一九七五(昭和五十)年暮れ、クリスマスソングが師走の賑わいをあおる中で、加藤は実験の詰めに余念がなかった。

開幕のベル響く

 一九七六(昭和五十一)年二月、その年の九月に電子デバイス販売事業部と改称されることになる、半導体集積回路販売事業部内に、マイコン販売部設立。
 渡辺に課せられた売り上げ目標は、半期一億円。
 きわめて少ないスタッフでスタートした「マイクロ部」とはいえ、常識的に見てそれほどむちゃな数字とも思えないが、正直いって渡辺には、とても目標達成の自信はなかったという。
 電卓戦争の秘密兵器として開発されたマイクロコンピューターだが、こと電卓に関してはよほど複雑な機能を備えた高級タイプにしか採用されることはない。
 唯一売れたと言いうるのは、キャッシュレジスター用のみ。それまでのキャッシュレジスターは機械仕掛けでガチャガチャ金額を打ち込んでいくのにかなりの力を要し、腱鞘炎はキャッシャーたちの職業病ともなっていた。
 それに対し、マイクロコンピューターを使った電子式のレジスターなら、キーには軽く触れるだけですむ。一部で電子式のキャッシュレジスターが採用されはじめると、キャッシャーたちは羨望の眼差しを新式レジスターに向けはじめた。果ては、キャッシャーを募集しても、メカ式のレジスターを置いているところには人が集まらないといった事態にもいたり、ここに関してだけは、定期的にマイクロコンピューターがはけていったのである。
 ただしそれだけでは、とても半期一億円のノルマは果たせそうもない。
 この状況を打開し、マーケットを拡大するための教材は、TK―80と名付けられた。
 TKはトレーニングキットの略。80は使用するマイクロコンピューター、インテル社のi8080のセカンドソースとして日電が作っていたμPD8080Aから付けられた。
 地味な社風の日電にしてはごく風変わりな、色つきのボール箱が用意された。
 あくまで、マイクロコンピューターを理解してもらうための教材である。自分で組み立ててもらえばよりいっそう分かりやすいだろうと、完成品ではなく組み立てキットとした。
 価格の設定には渡辺和也がこだわった。
 単純に部品を合計しただけでもかなりになったのだが、一〇万円を超える価格ではせっかく使ってもらいたい各企業の技術者たちが、上司のハンコをもらいにくいだろう――。思い切って一〇万円以下、八万八五〇〇円とした。
 後藤富雄と加藤明は、マニュアルにこだわった。
 ともに評価用キットを、趣味として組み立てた経験を持つ二人である。マニュアルがいかに重要であるか、特にイメージのつかみにくいマイクロコンピューターを理解してもらうためには懇切ていねいな解説が欠かせないかは痛いほど知りつくしている。何しろ学生時代の加藤明は、資料不足に泣かされて一年近くもマイクロコンピューターに取り組みながら、ついにそのイメージをつかみきれないまま卒業するという悲惨な目にあっているのである。
 アメリカで作られている各社の評価用キットのマニュアルを取り寄せ、二人で子細に検討する。TK―80の記憶装置には、値段の安く電力を食わないMOS型のLSIを使うことになったが、これがまったく静電気に弱い。油断していると、すぐにいかれてしまう。では、普段LSIに縁のない技術者に、どうすれば安全に組み立ててもらえるだろうか――。
 一九七七(昭和五十二)年に発売され、マイコン少年、マイコン青年たちのバイブルとでもいうべき存在となった、安田寿明(当時、東京電気大学助教授)の『マイ・コンピュータ入門』。その一節を読んで、後藤と加藤は思わずほくそえんだ。安田は、TK―80のマニュアルを、次のように評価していたのである。
「キットに付属しているカタログ・マニュアル類のうち、『μCOM―八〇トレーニング・キットTK―八〇ユーザーズ・マニュアル』(マニュアル番号IEM―五六〇)の内容は、抜群のできばえである。――TK―八〇の場合、そのマニュアルはマイクロ・コンピュータの自作・組み立てから利用にいたるまでの、懇切ていねい、微に入り細をうがった執筆ぶりである。なかでも笑い出したのは、MOS型LSIの取り扱い注意である。驚異的能力を持つにもかかわらず、MOS型LSIは、静電気に弱い。そこでTK―八〇マニュアルでは『静電気に対して万全を期したい方は、台所に行ってください。たぶん、そこには、ステンレスの流し台があると思います』とある。これは、まさに、そのとおりである。マイクロコンピュータの組み立て作業台として、台所のステンレス流し台ほど絶好最適の場所はない。ちゃんと水道管でアースがとられている。万全の静電気対策作業台である。」(『マイ・コンピュータ入門』講談社)
 ここまでのTK―80作りを独断で進めてきた渡辺和也は、当時の日電の社風にはいかにもなじまない、プラスチックモデルを思わせるはでな箱に収めたキットを、役員の参加する事業会議に堤出した。独断で進めてきたといっても、ことさらに何か構えがあったわけではない。あくまでマイクロコンピューターを売るための手段。確かに値段はつけたものの、商品という意識は薄い。教材を広めるための出血大サービス価格、景品まがいといった意識だった。
 会議の席でも、えらく風変わりで高級なカタログを作り、やむをえずそれに値段をつけたといったニュアンスで、すんなり受け入れられた。ただ一つ注意を受けたのは「どうせそんなもの余るから、作りすぎるなよ」との一点。一ロット三〇〇台で、せいぜい三ロット九〇〇台もはければおんの字と踏んだ。
 一九七六(昭和五十一)年八月三日、TK―80発売開始。
 秋葉原の電気街に流すとともに、通常、ICやLSIなどの電子デバイスを流しているルートにも乗せられた。 
 そして翌九月十三日、秋葉原駅前に新築されたラジオ会館の七階に、これもマイクロコンピューター普及のためのサービスルームとしてNECビット・インが開設される。
 日電が働きかけ、電子デバイスの販売特約店である日本電子販売が開設したビット・イン。電子デバイスの並べられたビット・インの一角にはTK―80の修理、相談コーナが設けられ、マイコン販売部の技術スタッフ、後藤富雄や加藤明たちが交代で詰めることになった。

ビット・イン日誌に記された兆し

「おかしなことになってきたな」
 ビット・イン日誌に目を通しながら、渡辺和也は首をひねった。
 後藤や加藤からの報告によれば、ビット・インの修理コーナーにはかなりの台数が持ち込まれてくるという。特に土曜、日曜には、それこそ小学生からすでに定年退職したような人までがビット・インに押し掛けてくる。休日はビット・インの書き入れ時である。
 ただしここで、小さな問題も生じた。
 民需中心の家電メーカーなら、年末や休日などの書き入れ時に社員を量販店に送り出し、販売のサポートをさせることなど日常茶飯事である。ところが、官需一本槍の日電には、そうした経験は皆無。マイコン販売部のスタッフが休日にも必ずビット・インに詰めているとなると、労務担当者からクレームがつく。渡辺たちが無茶なわけでもなければ、労務担当者が狭量だったわけでもない。日本電気とは、そうした会社だったのである。
 ただしユーザーは、日電の体質とは無関係に、休日にビット・インに押し掛けてくる。後藤や加藤たちスタッフの出した答えは、休日の返上であった。
 ビット・インからの報告によれば、どうやらTK―80、出足はかなり好調のようだ。
 TK―80が予想を裏切って売れてくれることは、もちろん大歓迎である。それによってマイクロコンピューターへの理解が広まれば、本業であるその販売にも、見通しがつくことになろう。
 しかし渡辺はビット・イン日誌を読み進みながら、何度も首をひねらざるをえなかった。渡辺に首をひねらせたのは、相談や修理の具体的内容である。ビット・インに詰めたスタッフには、ユーザーとの対応の逐一を日誌に書き込み、はっきり答えられなかった内容に関しては、宿題事項覧に記入し社内に持ち帰って検討する体制をとった。ところがこの日誌に、予想もしなかった内容が盛り込まれてくるのである。
 あくまで技術者にマイクロコンピューターを理解してもらうという、本来の目的に沿ったような相談も、あるにはあった。ところがそれにもまして多かったのが予想もしなかった人種から寄せられる、とんちんかんな相談である。「私はシンセサイザーの奏者なのだが、手だけで弾いていたのでは一度に録音できるチャンネル数が限られる。それで以前から、コンピューターを使いたいと思っていたのだが、とても手が出ない。TK―80なら私にも買えるけれど、これでそんなことができるでしょうか」
 後藤富雄は、こんな相談に目を丸くした。
 すでにリタイヤした高齢の技術者が「コンピューターを個人でいじれるなんて。まったく夢のようだ。嬉しい、本当に嬉しい」と涙を流さんばかりに話す姿には、驚きにもまして感動すら覚えた。
「医療保険の点数を、これで扱えないか」と、OAの走りのような相談を医師から受けたときは、なるほどとうなずいた加藤明だったが、あるとき修理に持ち込まれたTK―80には、実際あきれてしまった。
 あれほどていねいなマニュアルを付けたにもかかわらず、はんだ付けがまったくといってよいほどできていない。これまで電気回路にはいっさい縁がなく、一度もはんだごてを握ったことのない人間がTK―80に飛びついている。
「彼らはTK―80を、何だと思っているのか。これで何をしようというのか」
 渡辺は湧き上がってくる疑問を、抑えられなかった。
 そして、TK―80に群がったアマチュアたち一人ひとりは、自分なりの使いこなしに頭を悩ませはじめた。渡辺の抱いた疑問に、一人ひとりが解答を寄せようと努力しはじめたのである。
 発売当初はあくまで、ビット・インに持ち込まれる数の多さから、「かなり売れているのでは」と予測の域を出なかったTK―80の売れ行きは、しだいにはっきりと数字に現われはじめた。
 とてつもない売れ方である。
 発売前は、全部で一〇〇〇台もいけばと思っていたものが、月に一〇〇〇台作ってもまだ足りないとなる。ラジオ会館七階に足を運ぶ人はさらにふえ続け、ビット・インはしだいにマニアの情報交換の場となりはじめ、マイコンゲームには小学生や中学生が群がりはじめた。
 後藤は、加藤は、そして渡辺は、ビット・インから新しい風が吹き込んでくるのを感じていた。

TK―80への不満

 すさまじい勢いで売れはじめたTK―80。だがTK―80は、けっして好評だけをもって迎えられたわけではない。いやむしろ、TK―80を買い求めたアマチュアの多くは、胸をときめかせてプラモデルめいたキットを持ち帰り、目を輝かせてはんだごて片手に組み立て、それから絶望を味わって八万八五〇〇円のむだ遣いを悔いていた。
 TK―80を求めたユーザーが、まず失望を味わうのは、電源の問題だった。TK―80のキットには電源部は付いていなかった。ユーザーは自分で、五ボルトと一二ボルトの電源を用意する必要があった。たとえば家電製品を買い求めて、いざ使おうとして「電源はそちらで用意して下さい」などという但し書きを発見したユーザーは果たして怒りだすのだろうか。それともただただあきれかえるのだろうか。
 もちろん、TK―80のユーザーのすべてが、こうした家電感覚をもってキットを求めたわけではない。技術的にも難なく電源を用意することができ、精神的にもそのことにこだわりを持たなかったプロ、あるいはセミプロも多かったろう。
 しかし家電感覚を多少なりとも引きずったアマチュアにとってみれば、電源のないことは失望の対象以外の何ものでもない。
 さらに、電源の問題をクリアーしたとしても不満の種はいくらでもある。
 まず、記憶容量の貧弱さ。
 TK―80に標準装備されていた記憶装置のうち、ユーザーがプログラムを記憶させることのできる部分の容量は、わずか五一二バイト。カタカナや数字、アルファベットなら五〇〇文字ほどしか記憶させることができない。この記憶容量の貧弱さのために、TK―80ではほんの小さなプログラムしか使用できない。要するに、ろくろく役に立たないのである。一〇万円を切ったとはいっても、そこそこの大枚をはたいたユーザーは、ここでも失望を味わうことになる。
「こんなことなら、同じお金を払って関数電卓でも買っておいた方が、よほど役に立ったのに」と、思わず愚痴りたくなった人も多かったろう。
 しかし、このレベルまで到達した人は、まだしも幸福だったというべきなのかもしれない。記憶容量の壁にぶつかる前に、多くのユーザーは言語の壁にぶち当たったのである。標準的なTK―80のアマチュアユーザーのたどった道を再現してみよう。
 まず、マニュアルに従って組み立てを終わる。
 次に、プログラムのリストを見つけてくる。たとえば、デジタル時計のプログラム。プログラムのリストを見ながら、間違わないように注意深くキーを押し、プログラムを記憶させていく。プログラムが間違いなく入力されたとして、今度はそのプログラムを走らせてみる。確かに、赤いLEDの上に、時、分、秒が表示された。その瞬間は嬉しい。達成感がある。
 ところが、次に進めない。
 自分がキーを叩きながら入力していったプログラムの、どこが何を表わしているのか、さっばり分からないのである。
 コンピューターが直接に取り扱うことのできるのは、0と1の組み合わせでできた機械語でしかない。通常、機械語は、人間に理解しやすいようにと十六進数で表記される。しかしそれとて、人間の目に映るのは〇から九までの数字と一〇から一五までを表わすAからFまでのアルファベットの羅列である。そしてこの事情は、大型のコンピューターに関しても、TK―80のようなマイクロコンピューターに関しても同様である。
 ごく一部の特殊な専門家だけによって操作されていた誕生初期のコンピューターは、機械語だけでプログラムされていた。機械語でプログラムを組んでいくためには、ハードウエアに関するくわしい知識が求められるが、コンピューターを扱う人間がごく一部の専門家に限られているうちは、それですまされていたのである。
 ところが、コンピューターをより幅広く使っていこうとすれば、機械語の難解さがネックになってくる。より幅広い人間にプログラムさせるためには、数字の羅列としか映らない機械語ではなく、普段人間が使っている言語に近いプログラミング言語が求められることになる。こうして、大型コンピューターの世界では、プログラミング言語を分かりやすくするための試みが続けられることになった。
 まず、機械語の数字の組み合わせを、人間に理解しやすい記号に置き換えたアセンブリー言語が生まれ、続いてコボルやフォートランなどの高級言語が開発される。高級といっても、レベルが高く難解である、という意味ではない。逆に普段人間が使っている言葉、自然言語に近く、理解しやすいというニュアンスを、「高級」の二文字は表わしている。
 ただし、高級言語が開発されたといっても、コンピューターが直接に取り扱えるのは機械語だけ、という事情に変化があったわけではない。そのために、こうした人間に理解しやすいプログラミング言語を使うためには、高級言語と機械語のあいだに立って翻訳作業を行うものが必要になる。コンピューターではこうした翻訳作業もソフトウエアによって行われる。つまり、あるコンピューターである高級言語が使える状態になっているとすれば、それはその言語の翻訳プログラムを、コンピューターが記憶装置にたくわえているからである。
 そして、TK―80――。
 TK―80は、もともと高級言語の翻訳プログラムを持っていない。である以上、ただの数字の羅列としか目に映りにくい機械語でしか、プログラムを組むことができない。
 そのために、TK―80のユーザーの多くは、一つ一つの数字の組み合わせが何を意味しているか理解できないまま、とにかくリストどおりに間違いなくキーを押していく結果になりやすい。
 翻訳プログラムを自分で見つけてきてTK―80に記憶させようとすると、今度は記憶容量の壁にぶつかることになる。標準で備えられている記憶装置のうち、ユーザーが利用できる部分がわずか五一二バイトでは、そもそも翻訳プログラム自体が収まりきらない。
 ただし、こうした不満の数々は、ある意味ではTK―80に対する不当なけちつけともいえよう。繰り返し指摘したことではあるが、渡辺たちが作ったのはあくまでマイクロコンピューターの機能を理解してもらうための教材である。それも、素人向けではない。いろいろな機械を設計、製作している技術者に理解してもらい、それぞれの機械のコントローラーとしてマイクロコンピューターを使ってもらうためのものである。使い勝手が悪いというTK―80に対する不満など、一種の誤解にもとづいた偏見である。
 トレーニングが目的なら、自分で頭を使いながら組み立てた方がいいのは当然。確かに電源は付けておいた方がよかったかもしれないが、それでは値段から見て上司のハンコがもらいにくくなったろう。機械語は分かりにくいといっても、技術者にはそこまで上がってきてもらわざるをえない。記憶容量うんぬんに関しては、問題外。飛行機の操縦士を訓練するフライトシミュレーターが実際には空を飛べないからといって、誰が文句をいうだろう。要するにトレーニング、マイクロコンピューターのイメージがつかめればよいのであって、それでたいしたことができないからといっても文句をいわれる筋合いではない。たいしたことは、本番でやってもらえばよい。専門の機器にマイクロコンピューターを組み込み、これまでにはとてもできなかったたいしたことをやってもらえばよいのである。
 ところがユーザーの一部、いや、かなりの部分が、TK―80を取り違えてしまった。彼らはこのマシンを、個人用のコンピューターだと思っているらしい。そうした誤ったとらえ方をすれば、TK―80に不満の声があがるのも当然だろう。
 製品として完成しておらず、高級言語も使えず、記憶容量は絶望的に貧弱。他の周辺機器とつなぐという拡張性に対する配慮も欠けている。コンピューターと呼ぶのもおこがましい、絶望的な、超貧弱マシンである。
 しかしそれはあくまで、誤解にもとづいた偏見である。それにそもそも、個人がコンピューターなぞ持って、いったい何をしようというのか。個人用コンピューターなどという代物が、果たして存在しうるのか。
 だが、渡辺たちの思惑を超えて市場に出たTK―80は、一人歩きを始める。誤解にもとづいたユーザーとともに、TK―80は敷かれたレールから逸脱し、超貧弱マシンとして歩みはじめるのである。

個人用コンピューター元年

 一九七七(昭和五十二)年四月、サンフランシスコで開かれたウェスト・コースト・コンピューター・フェアー(WCCF)会場の入り口には、長蛇の列ができていた。
 この年の二月、アップルは初の本格的パーソナルコンピューター、アップルIIを発表。続いて大手の電卓メーカー、コモドール社があとを追うようにPETを発表。この二機種が公開されるとあって、フェアーの前人気はいやがうえにも高まった。
 そして、熱気あふれるこの列の中に、TK―80の開発者、後藤富雄もいた。
 ようやく会場内に入っても、やはり大変な混雑。しかし、そんな人込みの中でも、アップル社の展示コーナーは、いやでも目についた。
 コーナーを統一しているのは、あざやかな色のイメージである。
 六色に塗り分けられた今ではおなじみとなったリンゴのマーク。ブース全体もカラフルに飾り付けられている。そして肝心のアップルII自体も、家庭用テレビに六色を使ったカラーの図形を表示し、大いに観客にアピールしていた。
 さらにこのアップルIIは、ベーシックの翻訳プログラムをあらかじめ記憶装置に収めており、電源を入れるとすぐに、ベーシックの使える状態になるのだという。
 しかし、それにもまして後藤をうならせたのは、コモドール社のPETである。
 タイプライターを思わせるスタイルのアップルIIが、家庭用のテレビと接続して使う方式となっていたのに対し、PETには専用のブラウン管が組み込まれていた。さらにPETには、外部記憶装置としてカセットデッキまで組み込まれていた。もちろん、スイッチオンとともにベーシックの使用が可能。
 これなら、ブラウン管を見ながら高級言語でプログラムを作り、プログラムを走らせた結果を画面上に表示できる。さらに、作ったプログラムをカセットテープに記録しておき、必要に応じて読み出してきてまた使うなど、PET一台で、一つのまとまったコンピューターとして充分使うことができる。
 しかも、これだけの完成度を備えた製品がわずか六〇〇ドル、当時の為替レートで換算して約一七万円と、TK―80二台分程度の金で手に入るという。
 実際には、このとき後藤が度肝を抜かれたPETはまだプロトタイプの段階にあったもので、発売開始は遅れに遅れて、約一年ほどもたってからになる。さらにその時点では、価格も当初のアナウンスよりは、かなり高めになっている。
 だが、後藤の心に焼き付けられた印象は、いかにも強烈だった。
 渡辺和也が購読手続きをとり、マイコン販売部に送られてきていた『ドクター・ドブズ・ジャーナル』からの情報で、TK―80のようなシステムでベーシックを使おうという動きが盛んになっているのは知っていた。だが、それどころではない。ここアメリカでは、とんでもないことが起こりつつある。何か、とてつもなく大きな波が、うねりはじめている。
 しかしのちに振り返って、この時点ではまだ、後藤には「この波は、海の向こうであるアメリカのもの」とする気持ちが残っていたという。TK―80が、そして自分自身が、この波に乗って運ばれはじめたことを、このとき後藤はまだ実感していない。
 後藤富雄がPETの完成度に強烈な印象を受けた同じ会場で、青年と呼ぶにはいまだに稚気を面に残した二一歳の西和彦は、目の前で起こりつつあることと日本の現状との落差に、はがゆさを禁じえないでいた。
「日本でTK―80が巻き起したのは、マイコンのブームでしかない。だが、ここアメリカでは、個人がコンピューターを使うという革命が起こりつつある。個人が自分の主体性にもとづいて、パーソナルコンピューターに向き合おうとしている」
 後藤富雄がプロの技術者としての目でPETの完成度に着目していたとき、西和彦はもう少し観念的に、大げさにいえば哲学的に会場の熱気をつかまえようとしていた。
 この年、先行するアップルIIとPETを追って、電子機器の販売チェーン、ラジオ・シャックで知られるタンディ社はTRS―80を発表。
 本格的なパーソナルコンピューター三機種の出そろった一九七七(昭和五十二)年は、のちにパーソナルコンピューター元年と名付けられた。

大いなる誤解

 アメリカに渡って「パーソナルコンピューター元年」の熱気にじかに触れる約半年前、早大理工学部機械工学科の学生だった西和彦は、あるミニコミ誌の創刊に参画していた。TK―80発売開始の二か月後、一九七六(昭和五十一)年十月に創刊された『I/O』。創刊号は十一月付けで三〇〇〇部を発行。取次店では相手にされず、秋葉原などの部品屋に置かせてもらった。
 編集作業は新宿の西のマンションで行われたが、編集長は北大出身で西より九歳上の星正明が担当した。
 ホビー・エレクトロニクス・ジャーナルと銘打った『I/O』の創刊号には、西和彦自身「TVゲーム徹底調査」と題した記事を寄せており、この記事は数か月連載されることになった。
『I/O』創刊号でもう一つ目を引くのが、「マイクロコンピュータとI/Oプログラム」と題する石木勇の記事である。目次と本文中でのタイトルが違っているなど、いかにも素人くささを感じさせる作りだが、この記事では、TK―80タイプのシステムをコンピューターとして使いこなすためにはどんな周辺機器が必要となるかが解説されており、ベーシックに関する言及もある。
 TK―80を個人用のコンピューターととらえる大いなる誤解は、発売直後から始まっていたのである。いや、正確には、個人用のコンピューターを求める土壌に、誤ってTK―80という種子がまかれてしまったというべきかもしれない。
 取次店には相手にされなかった『I/O』だが、創刊号はたちまち売り切れ。その後、『I/O』の発行部数は急上昇することになる。
 ところがこの絶好調の中で一九七七(昭和五十二)年四月、西自身は雑誌作りを放棄してアメリカに渡り、そこで「パソコン元年」の激動を目撃することになった。
 そして日本に帰るや新しい雑誌作りの準備を始め、その年の六月に『ASCII』を創刊している。
 七月付けの『ASCII』創刊号巻頭言、「編集室から」。署名はないが、西和彦の手になる一文であろう。
 ここで西は自らがなぜホビー・エレクトロニクス誌『I/O』から離れ、パソコン元年のアメリカで何をつかみとったかを高らかに宣言している。
 タイトルは「ホビーとの訣別」。
 発行部数わずか五〇〇〇の創刊号に掲載されたため、目にした人も少なかろう。長くはなるが、時代の気分を象徴的に表わしたこの一文をそのまま、ただし『ASCII』名物の誤植だけは訂正して引用したい。
「ホビーとしてマイクロコンピュータが注視されており、今までマイクロコンピュータの記事は専門紙の専売特許だったのに、ほとんど一般向けのすべての週刊誌、月刊誌が、なんらかの形で〈マイコン〉を紹介する記事を書きました。おもしろおかしくというのがそれらの記事の基本的な執筆方針ではないのかと思うこともありましたが、反面、マイクロコンピュータが実用化された時期が過ぎ、遂に日常化されるようになったきざしと考えると大きな期待を感じます
 昨年の十一月に創刊した月刊ホビー、エレクトロニクスの情報誌『I/O』は、今日のマイコン・ホビー・ブームのはしりでもあり、また、そのスーパースター的急成長も今となってみればむしろ必然であったとも言えるのではないかとすら考えたくなります。
 創刊号が皆様のお手もとに届く頃、米国では全米コンピュータ会議(National Computer Conference )が開かれた直後で、そこでマイクロコンピュータを個人的な目的に使用する、いわゆるパーソナル・コンピューティングが一般に学会レベルで認められるようになるようです。
 ここにホビーではない新しい分野『コンピュータの個人使用・パーソナル・コンピューティング』が出現したと言うことができます。
 ひととおりマイクロコンピュータのシステムをそろえるためには最低二〇万円はかかります。二〇万円を単に純粋な遊びのために投げ出す人が国民的レベルで増加することは期待できそうにありません。
 何の理由でもいいのです。とにかく自分で納得のいく目的があること、それがマイクロコンピュータに取り組む人の備えなければならない最低条件になるのではないでしようか。
 マイクロコンピュータは家電製品にも積極的に使われて、産業としての地位を確立しつつありますが、今まで大型が担ってきた計算とか処理などの機能を備えたコンピュータが個人の手のとどく商品となったら、それをどのように分類したらいいのでしょうか。
 電卓の延長ではないと考えます。家庭や日常生活の中に入ったコンピュータ、テレビやビデオ、ラジオのような、いわゆるメディアと呼ばれる、コミュニケーションの一手段になるのではないでしょうか。テレビは一方的に画と音を送り付けます。ラジオは声を音を、コンピュータはそれを決して一方的に処理しません。誇張して言うなら、対話のできるメディアなのです。個人個人が自分の主体性を持ってかかわりあうことができるもの――これが次の世代の人々が最も求める解答であると思うのです。
『ブーム』といってさわがれているその理由が、かつてのBCLと同じように内部からの自然発生でなくて、外部からの励起によるものであることは明らかですが、これがブームから革命に移る過程は、自発的に、主体的にユーザーが行動できるかということにかかっていると思います」
『ASCII』創刊号にはもう一つ、TK―80に対する「大いなる誤解」の典型ともいうべき、印象的な記事がある。
 TK―80と家庭用テレビとをつなぐインターフェイス回路、この二つを木製のレコードケースに収め、潜水艦ゲームやスロットマシンなどのゲームを楽しんでいるという浜幸平。自作のシステムを写真入りで紹介した記事で、浜は「メーカーが何を言おうと、我がマイコンは、コンピュータであるべきなのだ。そろそろコンピュータとして、働いてもらいたいのだがメーカーの謀略に落とし入れられ、まったく拡張性がないのだ! 負けてたまるか! 必ず近いうちに、何が何でも、BASICを使えるようにしたい」と噛み付いている。

二筋の道

 TK―80への不満は、そのほとんどは渡辺からすれば誤解にもとづくものだったとはいえ、ビット・インからの報告やマイコン雑誌の記事を通して確実に彼の耳に入ってきた。そうした不満を耳にするたび、渡辺は自らが引き裂かれていくような奇妙な焦りを感じはじめていた。
 市場に送り出したTK―80は渡辺たちの思惑を超えて一人歩きを始めた。ひょっとすると今度は、歩きだしたTK―80を自分たちが追ってみると面白いのかもしれない。TK―80用の電源を作り、いろいろな周辺機器とのインターフェイス回路を用意し、記憶容量も大きくする。確かにベーシックが使えるようになれば、TK人気はさらに高まることになろう。
 そうした思いが強まってくるのを感じながらも、渡辺はそうした不満の声に応えて動きだすことができなかった。確かにTK―80は予想外に売れてはいた。だが社内には「いくらカタログがはけたってどうしようもない。本業のマイクロコンピューターを売れ」という空気が圧倒的である。とても「カタログを改良してもっと売れるようにする」といった動きはとれない。
 彼を縛ったのは、周囲の空気だけではない。
 自分自身、日本電気という一大組織のある部分を支えるこまとして自己を規定している。サラリーマンなら誰だってそうだろう。そのこまが、自分に与えられた役割を放り出して逸脱しはじめたら、組織はどうなる。
 アメリカに出張させていた後藤富雄からの報告は、渡辺の内心の焦りをいっそう募らせた。
 アメリカでは明らかにこれまでは存在していなかった「個人用コンピューター」という新しい商品が成立しはじめている。TK―80を育てていけば、日本にもこのまったく新しいタイプの商品を誕生させうるかもしれない。しかし自らの任されたセクションは、新商品の開発部門ではない。さらに、個人用コンピューターが商品として成り立ちえたとしても、それは日電のまったく苦手とする、民需向け商品となる。
 渡辺和也――。
 昭和二十年代後半、渡辺が山梨大学工学部電気工学科で学んだというエレクトロニクス。ところでそのエレクトロニクスとは、当時は具体的には何だったのか問うと、「我々のところは特殊ケースで」と笑ってから答えはじめた。
 当時のエレクトロニクスとは、要するに通信。増幅、発振、変調、検波とこの四つが分かれば普段はどこに行っても通用したのだという。
 ところが電気工学科の名物教授、角川正は、エレクトロニクス=通信とする常識をしきりにつぶしにかかった。エレクトロニクスは通信だけでなく工業一般、さらには日常生活にも幅広く応用すべきだと、盛んに学生たちに吹き込んだのである。事実、渡辺が在籍した当時、この学科では高周波加熱、現在の電子レンジの原理を応用し、木材を乾燥させたり米を乾燥させて味をよくしてみたりと、いかにも親しみやすく、逆にエレクトロニクスの常識からすれば風変わりな研究が行われていた。また渡辺自身の卒論のテーマも、超音波による加工と、本筋からはかなり離れている。
 そうしたバックグラウンドを持ち、さらには中途入社という経験を持つ渡辺は、堅い一方という日電マンのイメージからはかなりはずれたところがある。
 アメリカで生まれつつある個人用コンピューター。普段なら興味津々で飛びついてくるはずの話題を、苦虫を噛みつぶしたような表情で聞き流している渡辺の姿に、勢い込んで報告した後藤富雄は肩すかしをくったようなもの足りなさを感じていた。

TK―80上の革命

 渡辺の困惑をよそに、TK―80は一人歩きを始めた。
 ユーザーたちはさまざまなクラブを作りはじめ、マイコン雑誌上で、あるいはクラブの席上で自慢のプログラム、自慢の回路を発表しはじめる。
 カセットデッキとのインターフェイス回路を組んで、カセットを外部記憶装置として使う。家庭用テレビとのインターフェイスを自作して、テレビを出力装置として使いはじめる人がいる。TK―80に付いている電卓のようなキーではなく、タイプライターに使われているようなフルキーボードを付ける人がいる。
 中でも目立ったのが、ごく小さな記憶容量しか必要としない翻訳プログラムを使い、高級言語、べーシックをTK―80で使おうとする動きである。
 TK―80に標準装備されているRAM(ユーザーが利用できるメモリー)、わずか五一二バイトでは、あまりメモリーをくわないようにコンパクトに作られた翻訳プログラムでもさすがに収まりようもない。そこでTK―80に手を加えてRAMを増設し、翻訳プログラムをRAMに読み込んできて、機械語ではなくべーシックでTK―80を使おうというのである。
 創刊二号目の『ASCII』一九七七(昭和五十二)年八月号には、わずか二Kバイト(それでもTK―80に標準装備されたものの四倍ではあるが)のメモリー空間に収まってしまう超小型版翻訳プログラム、タイニーベーシックの記事が紹介されている。さらに翌九月号には、TK―80でタイニーベーシックを走らせるための記事が登場し、そうした記事をたよりに、多くのユーザーが自分の持っているTK―80をベーシックの使えるコンピューターに改造しようと試みはじめた。
 予想もしえない事件は、別の場所でも起こった。
 TK―80を発売する日電と、それを使うユーザーそのどちらにも属さない第三のグループ、サードパーティーが、TK―80に絡みはじめたのである。
 スタートはTK―80の箱を開けたユーザーがまずためらうことになる、電源だった。もともとは日本電気とは何の関係もない企業が、この電源に目を付けた。TK―80の規格に合わせた電源を作り、「TK―80用」と銘打って売り出したのである。これが大いに受けた。
 さらにTK―80と他の入出力機器をつなぐためのインターフェイス回路、増設メモリーなどがつぎつぎに発売されていった。
 もはやユーザーは、マイクロコンピューターを理解するのでも、その使い道に頭を悩ますのでもなく、超小型のコンピューターシステムとしてTK―80をとらえようとしていた。そのためにベーシックを走らせ、他の入出力機器とつないで、TK―80を使いやすいコンピューターに練り上げようとしていた。渡辺たちは日に日に、TK―80タイプのワンボードマイコンの上で、革命が起こりつつあるのを実感していた。アメリカで生まれつつあるという個人用コンピューターなる代物が確かに日本でも姿を現わしはじめ、その上で新しい文化が築かれようとする大きな流れを、肌に感じていた。
 マイクロコンピューターの販売、そしてパーソナルコンピューター――。
 渡辺の心の中で、シーソーはゆっくりと傾きはじめた。足音が社内に大きく響かぬよう細心の注意を払いながら、渡辺は一人歩きを始めたTK―80を少しだけ追いかけてみることを決意した。

新人類の加入

 一九七七(昭和五十二)年四月、後藤富雄がアメリカに出発する直前に入社し、マイコン販売部に配属された新人は、ある種の新人類だった。マイクロコンピューターに対するゲテ物観をなかなかぬぐいきれなかった渡辺和也はもちろん、好きこのんで評価用ボードをいじり回した経験を持つ後藤富雄と加藤明の目から見ても、この新人が新しい世代に属していることは明らかだった。
 土岐泰之――。千葉大学工学部電子工学科に籍を置いていた彼が学生生活の最後の年を過ごしている夏に、日本電気からTK―80が発売され、大変な人気を集めた。その直後には、日本初のマイコン誌『I/O』が創刊され、これも急速に部数を伸ばしていった。
 だが土岐は、TK―80にも『I/O』にも手を伸ばそうとはしなかった。彼は、半歩だけブームの先を行っていた。
 土岐の愛読誌は『ドクター・ドブズ・ジャーナル』。渡辺がアメリカで見つけ、定期購読の手続きをとっていたマイコン誌の走りである。さらに、土岐は、あらかじめメーカーによって設計されたキットには飽き足らなかった。彼は秋葉原でマイクロコンピューターやメモリーのLSIを買い集め、自ら設計してコンピューターのシステムを自作していた。
 技術的にはブームの半歩先を走っていた土岐だったが、マイクロコンピューターを中心にして組んだシステムを、個人用のコンピューターととらえるという点においては、ブームのまっただ中にいる人と変わりはなかった。土岐の目にはTK―80は最初からコンピューターに見えた。絶望的に貧弱なマシンではあったけれど――。
 渡辺和也はこの新人類に、評価用キットとして生まれたTK―80をコンピューターとして育て上げる作業を命じた。
 課題はすでに、土岐自身も所属する新人類のユーザーたちによって示されていた。テレビやタイプライター型のキーボードなどと接続するための回路、もっと大きなメモリー、そしてベーシック――。
 のちに振り返ってみればきわめて大きな意味を持っていた作業は、入社数か月の新人の手に委ねられた。だが当時、そのことをいぶかった者は、マイコン販売部には一人もいなかった。パーソナルコンピューターに関しては、まだプロフェッショナルと呼ぶべき人間は一人も存在していなかった。新人もベテランもない。それにかかわるすべての人間が、偉大なアマチュアだったのである。
 TK―80にコンピューターらしい表情を与えるために用意された製品は、TK―80BSと名付けられた。BSとはつまり、ベーシックが使えることを指している。
 入社後間もない新人は、手ぎわよくTK―80BSをまとめ上げた。ベーシックの翻訳プログラムは、公開されて誰もが使うことを許されていたパロアルト版のタイニーベーシックをもとに、機能を強化、拡大して練り上げた。
 TK―80に接続して使い、これを使いやすいコンピューターに変身させるTK―80BS、および関連製品の発表は、一九七七(昭和五十二)年の暮れに行われた。
 一人歩きを始めたTK―80を追ったマイコン販売部は、具体的な足跡をまず一つ残した。

もう一つのベーシック

「グッドモーニング」と声をかけてアパートの一室を訪ねると、いかにも学生らしい二人が頭をかきながらベッドから起き出してきた。
 マイクロコンピューター絡みの仕事を始めてから、ひげ面や学生らしさの抜けない連中との付き合いにも、渡辺和也は慣れっこになっていた。電子回路によって人間の声に近い音を作り、機械にしゃべらせようという音声合成の研究を行っているこのベンチャービジネスのスタッフ二人も、スタンフォード大学を卒業したばかりだという。
 一九七八(昭和五十三)年。
 TK―80BSを売り出したあとも、マイコン販売部の仕事がマイクロコンピューターの販売である事情にはいささかの変化もない。そしてこのときも渡辺はアメリカに渡り、マイクロコンピューターの新しい使い道のヒントをつかもうとしていたのである。
 最初は気付かなかったけれど、部屋の中にはもう一人若者がいた。黒ぶちの眼鏡に、髪はやはり、肩までとどくほどもある。背はかなり高いが、顔付きは東洋系。どうやら日本人らしい。
「東京からおいでですか」と声をかけると、やはり日本人である。
 西和彦と名乗り、マイコン雑誌の『ASCII』をやっている者だと付け加えた。『ASCII』なら、渡辺もよく知っている。アメリカでのパーソナルコンピューターの状況を見るために、しばらくこちらを歩き回っているのだという。
 西との会話はここではそれっきりになったが、別れぎわに「東京でまたお会いしましょう」と声をかけた。
 東京に帰って一か月後、西和彦から連絡があった。是非会いたいという。
 神戸生まれの西は、関西弁のアクセントを交えながら熱っぽく語りはじめた。
「これからは絶対に、スイッチを入れたとたんに高級言語でプログラミングできるパーソナルコンピューターの時代ですよ。その中でも、ベーシックが主流になることは間違いない。そこでマークしなくちゃいけないのが、マイクロソフトというソフト会社、そこの親分のビル・ゲイツという男です」
 西の説明によれば、一年前の「パーソナルコンピューター元年」に発売された三種類のマシンのいずれもが、ビル・ゲイツの開発したベーシックを使うようになったのだという。当初TRS―80とアップルIIは自社のベーシックを使っていたが、その後マイクロソフト製も搭載することになり、アメリカではこれが本命になることは間違いないらしい。
 ビル・ゲイツ――。
 一九五五(昭和三十)年十月、アメリカ北西部、カナダとの国境に近いシアトルに生まれた。小中高と持ち上がりの名門校、レイクサイドスクールに学んだゲイツは、中学二年のときコンピューターと出会うことになる。授業でコンピューターの基礎を学ぶやたちまちのうちに虜になり、一年分のコンピューター演習用の予算を、二週間で使いきってしまったという。
 以降、ゲイツの中学、高校生活はコンピューター一色。コンピューターがいじりたい一心でプログラミングのアルバイトを始め、天才ぶりを発揮してひっぱりだことなり、高校時代には一年間休学して仕事に没頭している。
 一九七三年六月、レイクサイドスクールを卒業したゲイツは、その年の九月、ハーバード大学に進む。専攻は法律学としていたが、数学、物理学、コンピューター科学では、大学院の課程をとることを許された。大学のコンピューターセンターで長い時間を過ごしていたゲイツだったが、結局ハーバードとは一年あまりで実質的に縁が切れた。
 そのきっかけを作ったのは、『ポピュラーエレクトロニクス』誌一九七五年一月号に掲載されていた、マイコンのシステムだった。電卓のキットを発売していたMITS社のエド・ロバーツは、インテル社から発売されたマイクロコンピューター、i8080を使って、超小型のコンピューターシステムを作ろうと思いたった。入出力機器はおなじみのテレタイプである。
 ロバーツのまとめた製作記事は大きな反響を呼び、アルテア8800と名付けたキットは、MITSのヒット商品となる。ビル・ゲイツもこのキットに目を付けた。ただし彼は、MITSにキットの注文をする代わり、雑誌に掲載されていた配線図とマイクロコンピューターの仕様書をたよりに、大型計算機用に開発されていたベーシックの翻訳プログラムをコンパクトに作り変え、アルテアで使える形にまとめ上げたのである。メモリー容量で見ればタイニーベーシックの二倍、四Kバイトを必要とするゲイツのベーシックには、多様な機能が見事に押し込められていた。MITSはビル・ゲイツの言語を、アルテアベーシックとして販売することを引き受けた。ゲイツはさらに機能を拡張した八Kバイト版、一六Kバイト版の開発に取り組み、マイクロソフト社を起こして大学を去った。
 一方日電の社内でも、TK―80BSを担当した土岐泰之によって、ベーシックの開発はその後も続けられていた。TK―80BSではわずかに二Kバイトに収まるように作っていたものを、もう少し記憶容量の制限を緩め、その代わり機能を高度化し高速で動くプログラムの開発が進められていたのである。
 西和彦の力強い説明を聞くうち、渡辺和也はビル・ゲイツなる人物、そしてマイクロソフトに興味を抱きはじめた。
〈土岐のベーシックはそれとして、ともかく一度会ってみるか〉
 西和彦と別れたあと、渡辺は心の中でそうつぶやいた。

ビル・ゲイツとの出会い

 一九七八(昭和五十三)年秋、アメリカに出張した渡辺の本業からの逸脱の度合いは、もう少し大きくなっていた。
 出張願いには、関連するショーの見学と目的を書いた。だが、メインの訪問先は、ロサンゼルスから東へ約一一〇〇キロメートル離れたアルバカーキーにあった。ショーの見学を一日で切り上げた渡辺は、西和彦からの紹介状を手にアルバカーキーの空港に降り立った。マイクロソフトのビル・ゲイツは、空港で渡辺を待っていた。
 ビル・ゲイツを一目見たとき、渡辺は肩すかしをくったような軽い失望を覚えていた。何しろ若い。ほっそりとやせ、ワイヤーフレームの眼鏡をかけたゲイツは、青年というよりも少年といった方が似つかわしい。二三歳になるかならないかで、西和彦よりはほんの少し年上のはずだが、童顔の西よりもさらに若く見える。
 しかし話しはじめるや、ゲイツヘの軽い失望はたちまちのうちに、大きな驚きに変わっていった。言葉の一つ一つに、自らの開発したベーシックに賭けるなみなみならぬ執念が込められている。アップルIIやPET、TRS―80といったパソコン元年を飾った機種に、いかにしてマイクロソフトのベーシックを売り込んだかをとうとうと語りはじめ、新型のパーソナルコンピューターにいかにアプローチしているかを披露する。その言葉からはマイクロソフトのベーシックに対する圧倒的な自信がうかがえる。
 マイクロソフトのベーシックの実力はいずれ細かく検討するにしても、ビル・ゲイツの持っているある種の勢いには大いに注目する必要がある。ビル・ゲイツとの会見を終えた渡辺は、「これからはベーシック、それもマイクロソフトのものが主流となる」という西和彦の指摘がかなり的確なものだったことを実感していた。そして、渡辺にビル・ゲイツの存在を吹き込んだ西和彦自身、その後いっそうマイクロソフトへの傾斜を強めていくことになる。『ASCII』の発行を続けるかたわら、西は強引にマイクロソフトと極東代理店契約を結ぶことに成功。日本のパーソナルコンピューターメーカーのほとんどにマイクロソフトのベーシックを採用させ、その実績によって同社の副社長にのし上がっていくのである。

苦しい決断の時

 日本電気パーソナルコンピュータ開発本部長を務めた永尾守正は、「最悪のタイミングでパソコン部隊に移ってきた」という。一九五八(昭和三十三)年早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業して日本電気に入社。以来、中央研究所で基礎的な研究一筋に歩んできた。
 その永尾が渡辺の率いるマイコン販売部、実体を正確に表現すれば、パーソナルコンピュータ開発部兼マイコン販売部に配属されたのが一九七九(昭和五十四)年二月一日。当時マイコン販売部では、TK―80BSに続く新製品を市場に送り出していた。いや、正確には、半製品とでもいうべきか――。
「キットを組み立てたいのではなく、でき上がったコンピューターを使いたいのだ」とのユーザーの声に応じて送り出された新製品は、組み立て済みのTK―80とTK―80BSを組み合わせ、電源と外部記憶装置としてカセットデッキを組み込んでケースに収めたものだった。名称は、コンポBS/80と付けられた。だが本命は別に用意されていた。TK―80のにおいを引きずったコンポBSとは別に、まったく新しいパーソナルコンピューターの開発が、マイコン販売部では進められていた。
 マイクロコンピューターを理解してもらうための訓練用キット、それを個人用のコンピューターに近づけるためのTK―80BS、そしてコンポBS。発想の原点はあくまでTK―80にあったものを、どの時点から「パーソナルコンピューターを作る」という意識に置き換えたのか。要するに、組織の中で敷かれたレールから承知で大きく逸脱していくことを決意したのかを問うと、渡辺は「少なくとも日本電気に籍を置いている限り、その問いには答えるべきではない。それに答えるときは、私がこの会社をやめたときだろう」としか語らない。しかし少なくとも、永尾がマイコン販売部に移った時点では、スタッフが開発に取り組んでいたものは、まぎれもないパーソナルコンピューターであった。しかも開発は大詰めにさしかかり、重要な決断を迫られるところまで進んでいたのである。
 本命用のベーシックには、二種類が並行して開発されていた。
 一つは、マイクロソフトで本命用に開発されたもの。
 そしてもう一つは、社内で土岐泰之によって開発されたものである。
 最終的にどちらを選ぶかを決めるための会議は、永尾がマイコン販売部に移って二か月後、一九七九(昭和五十四)年の四月はじめに開かれた。
 土岐泰之はこの会議に向け、休日返上で二種類のベーシックのテストを行ってきた。その過程で、土岐は自らの開発したベーシックに対する自信を深めていた。
 土岐のベーシックの方が、速いのである。
 国電田町駅前の日本電気本社ビル。
 マイコン販売部は、本社ビル横にある徳栄ビルの中にデスクを持っていた。会議は徳栄ビル五階の会議室で、渡辺をはじめとするスタッフ七名ほどを集めて開かれた。
 そのときの息苦しさを、永尾は今も忘れないという。
 土岐の開発したベーシックが、けっしてマイクロソフトのものに劣らず、スピードでは勝っていることを、渡辺は重々承知していた。だが渡辺は、マイクロソフトベーシックの実績と、そして何よりもビル・ゲイツの勢いに賭けてみる気になっていた。
 意見を求められた永尾も、土岐の開発したものが速いことは承知していることを断わったうえで「大きくはやらせようとするなら、やはりマイクロソフトの知名度をとるべきだろう」と答えた。
 本命、PC―8001にはマイクロソフトのベーシックを採用することが決定された。

逸脱への歯止め

「そんなもの作って、いったいどうやって売るんだ」
 PC―8001のプロトタイプを前にして、日本電気専務、大内淳義は初めて渡辺の動きにストップをかけた。
 大内淳義――。
 一九六六(昭和四十一)年、当時の社長、小林宏治の抜擢によって新設された集積回路設計本部長となってから、日電の半導体事業を育て上げてきた、ミスター半導体である。
 新設したマイコン販売部が、マイクロコンピューターの理解を得るために、TK―80という教材を作るという。それはいいだろう。TK―80発売の翌年、自らがまとめ役となって『マイコン入門』なるTK―80の入門書を出した。これも最終的には、マイクロコンピューターを売るという本業に結びつくと考えてのことである。
 ところが七月にこの本が廣済堂から売り出されると、二か月あまりもベスト10の四、五位につけている。自分自身、「マイコンの本がこんなに売れるなんて、世の中おかしな方向に動いているな」と首をひねってはみても、本業はあくまで電子デバイスの製造と販売である。
 各社が同様のワンボードマイコンを発売している中で、今度はTK―80をベーシックの使えるマシンに変身させるTK―80BSを出すという。
 それもいいだろう。
 さらに続いては、これまでのキットではなく、組み立て済みのTK―80とTK―80BSを組み合わせ、ケースに収めたコンポBSを売り出すという。渡辺の説明によれば、ユーザーの中から「我々ははんだごてを使って組みたいんじゃない。でき上がったものを使いたいんだ」という声が強いのだという。マイクロコンピューターの学習用ではなく、コンピューターとして使いたがっている人間が急増しているということか――。
 しかし。
 日本電気株式会社――。
 一八九九(明治三十二)年、アメリカの電話企業、ウエスタンエレクトリック社が発起人となって設立された、第一号の外資合弁会社。一九三二(昭和七)年には住友系の傘下に入ったが、創業以来一貫して、官需中心に電話機、交換機、のちには無線通信機、コンピューター作りに携わってきたハイテック企業である。
 ただし、民需へのパイプは、まったくもって弱い。
 子会社の新日本電気(現在の日本電気ホームエレクトロニクス)から家電製品が売り出され、それが唯一、NECブランドと大衆との接点となっていたが、家電への進出はけっして成功したわけではない。
 本丸はあくまで電気通信とコンピューター。口の悪い連中には、電電公社の下請けと揶揄されるほどの官需一本やりの会社だったのである。
 それゆえ、TK―80の発売当初は誰も見向きもしなかったものが、なまじ売れてくると逆に、社内から「何でそんなオモチャを作ったりするんだ」とか「キットなど作ってクレームがついたら、社のイメージを傷付ける」といった反発が湧いてくる。さらに完成品のコンポBSとなると、これまでのように「カタログに毛のはえたようなもの」といういい方は通用しなくなるだろう。
 だが大内は、ここまでの逸脱は許した。いささかフライング気味の渡辺の動きを、押さえようとはしなかった。どうせTK―80が売れているのだから、コンポBSがだめでもいざとなればケースをはずして売ってしまえばよい。ただし、「あまりはでにオモチャみたいなものを作って恥かくのもなんだから、むちゃだけはするなよ。本業はあくまで、デバイス屋なんだからな」と釘をさすのだけは忘れなかった。
 ところがこの釘が、さっぱり効かなかったようである。
 PC―8001のプロトタイプを前に、大内淳義はしばらくのあいだ悩み続けることになる。

決断のとき

「いくらいいもの作ったといったって、セールスルートがなきゃ売れるわけないだろう」
 マイクロソフトのベーシックを積み、市場に出回っているパーソナルコンピューターを大きく上回る性能を持つと、PC―8001の素晴らしさを謳う渡辺に、大内は切り返した。
 独断でマイクロソフトと契約したといっても、何億円も持ち出したわけではない。渡辺に預けた研究費で収まる程度の額である。それを問題にすることもない。
 いやむしろ、日本電気のような巨大な組織では新しいアイディアは上に伝えられていくうちにつぶされてしまう傾向が強いだけに、渡辺の示した一種の勢いは貴重というべきだろう。
 大内自身、組織的な決定に唯々諾々として従い、与えられた仕事だけをこなすタイプの人間ではない。一匹狼的傾向を、多分に備えている。
「自分ほど社内を転々とした人間はいない」と語る大内が当初「これこそ自分の死に場所」と考えたのは、半導体ではなく、メディカルエレクトロニクス、つまり医療用の電子機器だった。
 一九四二(昭和十七)年九月、太平洋戦争のさ中に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業した大内は、九月三十日に住友通信工業、現在の日本電気に入社、即日休職。十月一日には海軍の技術士官となり、その後敗戦まで、音波探知器に携わることになる。
 戦後、すぐに復職することのできた大内だったがそれまで行ってきた仕事は続けることができない。ソナーと呼ばれる音波探知器は、軍事技術として研究を禁じられている。
 その後約一〇年間、社内のさまざまなセクションを体験していた大内が、古巣のソナーにもどったのが一九五四(昭和二十九)年。この年、保安隊が改組されて陸、海、空三軍方式の防衛庁が設置され、ソナーの研究、開発が解禁となったのである。
 ここまでには、大内に逸脱はない。
 しかしソナーの開発を数年間続けたのち、大内は日本電気が手を染めたことのない医療機器分野に、かなり強引に進出を図っている。
 多種多様な雑音のある海中に音波を発し、相手の潜水艦に当たって反射してきた信号だけを雑音の中から拾い出すソナーの技術――。この技術における水を人体に置き換えれば、海中に潜んだ潜水艦を暴き出すように、体内の状況をとらえることができる。もちろん、ソナーに使う音波の周波数はかなり低いものになるのに対し、距離の短い人体ではきわめて周波数の高い超音波を使うといった差はある。しかし両者は、技術の基礎的な部分では驚くほど以通っていたのである。
 こうした発想から、大内はソナーという軍需技術を超音波診断装置という医療用機器に転用することを目指した。そして大内のまいた新しい種は生長を続け、ついには医用電子部というセクションが新設され、その初代部長に大内はおさまることになったのである。
 これまで社内を転々としてきた大内は、このとき「これを一生の天職にしたい」と考えたという。
 その願いを、小林宏治社長の一本の電話が打ち砕いた。
「院長が賞を受ける。是非とも表彰式に出席してくれ」との依頼を受け、四国は松山の病院に出張していた大内は、本社からの突然の電話に呼び出された。
 社長である。
「今後は集積回路というのが大事なんで、その設計本部を作る。ついては君を本部長にしようと思うがどうか」
 現職は医用電子部長。格からいえば本部長代理を飛び越しての本部長就任、二階級特進である。けれど大内には、自分の天職としたい医用電子へのこだわりの方が、二階級特進の魅力よりも大きかった。
「どうか、というのは社長、私の意思をお聞きなんですか」
「そうだ」
「それなら私は、始めたばかりのメディカルエレクトロニクスを続けさせていただきたいと思います」
 小林はいかにも不気嫌そうな声で「そうか」とだけ答え、ガチャリと受話器を置いた。出張を終えて東京にもどった大内に、小林は今度は通告してきた。
「いちいち従業員の意思を聞いてたんじゃ会社の秩序が保てない。君、やってもらうぞ」
 独走型の大内にも、それ以上の抵抗はできなかった。
「それなら最初から、そうするぞといってくだされば。私もサラリーマンですから。それを、わざわざどうかなんて聞かれるから」
 わずかな反撃を試みて、大内は小林の言葉に従った。
 その大内淳義が、今度は渡辺和也の独走に対し断を下す立場に立たされていた。

ケチケチ体制のスタート

 大内淳義は、迷い続けていた。
 もともと自分自身、新しいものには人一倍興味を持ちやすい。医用電子へののめり込みも、そうした大内の性格をよく表わしている。
 しかしそうした興味と、経営者としての判断は別物である。
 果たしてPC―8001を立ててパーソナルコンピューターを事業化したとして、いったいどうやって売るか。
 日本電気には、オフィスコンピューターを取り扱っているディストリビューターとの関係はある。しかし彼らは、一台が何百万円、何千万円となるから売っているので、一〇万円や二〇万円のオモチャなど扱うはずがない。家電ルートで流すといっても電気屋でコンピューターが売れるわけはなかろう。カタログやちらしを作り、新聞に広告を打ち、テレビやラジオを売る調子でかりにもコンピューターが売れるとはとうてい考えられない。
 新しい販売ルートを作るとなると、相当の人と金がいる。新しいルートは作ったはいいが、タマがPC―8001一つではあぶなくてとても手が出せない。
 そうした一つ一つを渡辺に質していくと、即座に切り返してくる。一歩先を行くアメリカの状況を論じ、PC―8001売り込みのシナリオを解説する。何よりも切り返してくる言葉の一つ一つに、勢いがある。
 ユーザーに迫られ、サードパーティーに押し上げられ、東京電機大学の安田寿明や東京大学大型計算機センターの石田晴久らのパソコンイデオローグたちにあおられ、いや何よりも一つの革命が進行しつつあるのだという自らの直観を信じて、渡辺たちは目の色を変えていたのである。
「あのときメーカー側が先に進まなければ、一種の社会的犯罪行為と指弾されかねない雰囲気があった」
 渡辺和也は、今そう語る。
 渡辺とのやり取りを繰り返すうち、大内はゴーサインを出す気持ちに傾いていった。しかし正直なところ、民需向け製品に乗り出す気になった最大の要因は、電子デバイス全体の好調さだったという。石油ショック後の一時的落ち込みから、半導体の需要は急速に回復していた。そしてPC―8001を扱うのはあくまで好調なデバイス部門の一セクションである、マイコン販売部。たとえこれで多少の赤が出ても、全体では楽に吸収できる。
 大内は、ゴーサインを出した。ただし販売ルートに関しては、いっさい冒険はしなかった。秋葉原に続いて、横浜、名古屋、大阪に開設していたビット・イン、そして通常は電子デバイスを扱っている販売店の中で特に希望するところ数か所だけに流すという、新規の経費を抑えたケチケチ体制で臨むこととした。積極的に打って出るのではなく、まずは様子を見たのである。

狼煙上がる

 一九七九(昭和五十四)年五月九日、四回目を迎えるマイクロコンピュータショウを一週間後に控えて、日本電気は新型パーソナルコンピューターに関する報道発表を行った。資料のタイトルは、「性能・経済性にすぐれたパーソナルコンピュータ」の発売について。
 資料は新型パーソナルコンピューターの特徴を会話型のマイクロソフト系ベーシックが採用されているため、コンピューターの経験がない人でも容易にプログラムが組めること、簡単なプログラミングで八色のカラー表示を駆使でき、高解像度の図形表示が可能なこととまとめている。発売開始は八月を予定。
 販売価格も未定だが、一六KバイトのRAMを内蔵した本体価格で一七万円程度を予定。月間二〇〇〇台の販売を見込んでおり、一週間後のマイクロコンピュータショウ'79に出展するという。
 結局のところ、PC―8001の価格は一六万八〇〇〇円に落ちつくことになるが、ここに至るまでには半導体屋のセンスを武器にした渡辺の徹底したねばりがあった。
 当初、定価に関しては、部品の価格や商品の競争力から見て、二二〜二三万円が妥当とする意見が大勢を占めていた。だが渡辺はねばった。
 個人への売り込みを狙うなら、定価は家電製品並み、どうしても二〇万円は切りたい。できれば、一〇万円台でも真ん中に近づけたい。部品にかかるコストを考慮すれば、常識的にはそうした数字はとても出てこない。しかし半導体屋の目から見れば、ありえないはずの数字が十分可能に映ったのである。半導体の世界には、「同じ能力を持つ集積回路の値段は、六年ごとに一ケタ安くなる」という常識がある。さらに、集積回路に対する需要が高まれば、価格の下落にはいっそうの拍車がかかる。
 石油ショック後の一時的落ち込みを脱し、半導体生産が急激に伸びているこの時期、渡辺には、半導体屋には、部品の値段がどんどん下がっていくだろうことは、火を見るより明らかだったのである。
 定価を二〇万円台とする常識的な案と、一〇万円台とする渡辺の案は平行線をたどっていたが、最終的には日電のミスター半導体、大内淳義の裁定によって渡辺案に決した。
 TK―80の販売実績から広報サイドがひねり出した月産二〇〇〇台という数字にも、反発が強かった。コンピューターといえば数値計算を行うもの、要するに電子計算機であるというセンスがまだまだ強く残っていた時期である。ゲームや音楽、さらには事務処理にさまざまな使いこなしがありうるといわれても、実感としてピンときた人が、日電に果たして何人いただろうか。
 報道発表を受けて、翌日の日本経済新聞に載った記事の見出しも「個人用電算機に参入 日電 プログラムも簡単に」。
「電子計算機を月に二〇〇〇台売るなど、見通しがあまりにも甘すぎるのではないか」といった意見が、社内のあちこちから聞こえてくる。
 PC―8001発表の数か月前にマイコン販売部に移り、TK―80の驚異的な売れ方を実感していない永尾守正は、当時「全部で三〇〇〇台も売れればいいところではないか」と正直なところ考えていたという。
 一九七九(昭和五十四)年五月十六日以降四日間のスケジュールでマイクロコンピュータショー'79開催。
 PC―8001人気は、初日から爆発した。
 平和島の東京流通センターで開かれたショーは、マイコンショーとは名ばかりで、パソコンショーの様相を呈することになった。ショーの主役の座は、前回までの電子デバイスから、パーソナルコンピューターに移ってしまったのである。
 日本電気の展示コーナーに、電子デバイスを並べたスペースの一角を借りて、一週間前に報道発表されたばかりのPC―8001が五台展示された。
 マイコン販売部のスタッフはショーに備え、当時としては驚異的だった八色のカラー表示能力をアピールしたデモンストレーションプログラムを用意していた。テレビ画面上に表示された色あざやかな三次元図形、マンガの人気キャラクター「まことちゃん」の以顔絵も、巧みな色の使用によって観客に大いにアピールした。
 総動員されたマイコン販売部のスタッフは、PC―8001に群がる黒山の人だかりの整理に追われ、つぎつぎに浴びせかけられる質問に答え続けていった。
 永尾守正はいく種類かの質問のうち、「パーソナルコンピューターというのは、これまでのTK―80と結局どこが違うのか」という問いが一番多かったのではないかと記憶している。
「TK―80はあくまで訓練用キットでこちらはコンピューター。PC―8001にはさまざまな使いこなしができるよう、いろいろな周辺機器とのインターフェイス回路が組み込まれており、ブラウン管に接続できるのはもちろん、カセットデッキやプリンターとも直接につなげ、オプションのアダプターを使えばフロッピーディスク装置とも接続できます」
 そう答えると、目を輝かせてさらに細かな質問を浴びせてくる人もいれば、さっぱりイメージがつかめないと首をひねる人もいる。
 後藤富雄や加藤明、そして土岐泰之たちもベーシックの性能やスピードなど細かな質問に追われ、電子デバイスはそっちのけでショーの期間中、PC―8001の説明のみに忙殺されることになった。
 マイコンショーの約一か月後、六月二十八日から大阪国際見本市会館で開催されたショーでも、PC―8001は大変な人気を集めることになる。
 マイコン雑誌でもつぎつぎとPC―8001の特集が組まれ、高い評価が与えられる。
 発売開始以前から、PC―8001には予約が殺到しはじめる。当初の予定から一か月遅れ九月に発売されてからも、数か月間製品が手に入らなかったことを、私も覚えている。

日電PC帝国誕生

「『これからのトップはマイコン(マイクロコンピュータ)ぐらい自由自在に操作できなければダメだ』――日本電気は小林宏治会長の〈鶴の一声〉で幹部全員を対象にしたマイコン勉強会をスタートさせた。「マイコン革命」の推進者を自他ともに認める日電は、これを機に全社的なマイコン派ビジネスマンを養成する教育運動を展開していくことにしている。
 小林会長、関本忠弘社長をはじめ全役員と事業部長、合わせて三〇〇人が参加するこのマイコン勉強会は、六日から実施され、来年三月までの毎週土曜と日曜日に開かれる。一回に二十人ずつが休みを返上して勉強会出席を義務付けられ、朝九時から夕方五時まで東京・芝の日電第二別館十階の研修室にかんづめになり講義を受ける。日電の個人用マイコンであるパーソナルコンピューター『PC―8001』が一人に一台あてがわれ、マイコンの使い方、BASIC言語によるプロクラム作成やゴルフゲーム、英文ワードプロセッサ実習など盛り沢山な一日入門コースをこなす。この教育カリキュラムを担当する同社の笹原正隆教育訓練部長によれば、社内にはマイコンの権威は大勢いるが、会長、社長が〈生徒〉ではやりにくいだろうと配慮して、講師は日本情報研究センターの女性インストラクター二人にお願いした、という。
『マイコン入門』(廣済堂出版)の著者であり、〈ミスター半導体〉の大内淳義副社長や、わが国コンピュータ研究開発の草分けで、ソフトウエア技術の第一人者、水野幸男取締役らも、このマイコン勉強会で若い女性講師の『マイコンの動かし方』『プログラムの作り方』といった実技指導、講義の聞き役に回る。
 なかには一度もマイコンにさわったこともない幹部もいるとかで、事前に手渡された『マイコン操縦法入門』と題するテキストをみながら、実際に社内のマイコンを動かし、予習に取り組む姿がチラホラ目立ち始めている。
 小林会長は『C&C(コンピュータとコミュニケーション=通信の融合)戦略にマイコンは不可欠のもの。マイコンの持つ無限の能力を知るにはまず自分でキーボードをたたき、マイコンを動かしてみることが必要』という。この〈隗(会長?)より始めよ〉式のマイコン勉強会は、来年度から部課長クラスにも実施させることにしており、マイコン操縦法をマスターし、プログラムまで組めることは、これからの日電マンの必須の条件となりそうだ」
 一九八〇(昭和五十五)年十二月九日付けの日本経済新聞は「マイコン革命、まず幹部から」と題して右のように報じた。前年にPC―8001が発売されて一年数か月――。
 約一年を経て、日本電気会長小林宏治が「C&Cにマイコンは不可欠」との認識に至るまでには、じつはもう一つのドラマがあったのである。
「大内君、PC―8001とかいうやつは、君が勝手にやってるらしいね」
 アメリカ出張を終えた小林宏治は、ニヤつきながら大内淳義に声をかけた。
 しかるべき書類も提出し、ショーの会場でも説明してきたはずなのに、どうやらこれまでは、超多忙をきわめる小林の頭には、PC―8001は入っていなかったらしい。せいぜいオフィスコンピューターまでは目がとどいても、パーソナルコンピューターは小林の意識には入っていなかったのである。
 発売以降、予想を大きく上回って売れはじめたにもかかわらずPC―8001、パーソナルコンピューターは、すぐに日電の社内で認知されたわけではない。
 相変わらずPC―8001を担当していたのは、電子デバイス事業本部の一セクションにすぎないマイコン販売部であり、デバイス屋が内職で作ったパーソナルコンピューターにはまだまだオモチャ意識がついてまわっていた。ショーの会場で、招待客にPC―8001の説明をしようと手ぐすねひいているマイコン販売部のスタッフの前を客を連れた営業部員が「これはオモチャですから」と素通りさせ、スタッフをくやしがらせることも一度や二度ではなかった。
 小林の頭に、PC―8001がはっきりとは刻み込まれていなかったことも、けっしておかしくはない。日電内でのパーソナルコンピューターに対する認識は、依然その程度のものだったのである。
 その小林は、パーソナルコンピューターの本場であるアメリカで「日本電気の製品を扱いたいのだが」との依頼を受け、目を丸くすることになる。先方の話によれば、その製品とはPC―8001とかいうパーソナルコンピューターなる代物で、「そんなものは知らない」と答えると英文のパンフレットを出してくる。パンフレットには確かに、NECの三文字が入っている。
 このとき初めて、PC―8001は小林の頭に刻み込まれ、アメリカ出張中に、パーソナルコンピューターが何を起こしつつあるかを、小林ははっきりと認識することになる。そして、自らの唱えるC&Cの主役ともなりかねない存在として、パーソナルコンピューターを位置づけるのである。
「これまでもちゃんと報告してきたのにな――」と内心でぼやいている大内に、小林は追いうちをかけた。
「それに、君らしくもないじゃないか。いつでまも逃げ腰で続けてるなんて」
 大内は、シャッポを脱いだ。
 PC―8001の出足が予想に反して好調とはいっても、日本電気のまったくもって不得意とする民需製品。どこに危険があるか分からない。へたに先走ってパソコン部隊を独立させ、一人歩きしたとたんに落とし穴にでもはまったら責任の取りようがない。
 また、そんなことにでもなれば、先走り傾向の強いマイコン販売部のサムライたちに、大きな傷を負わせることになる。そこで、出足好調とはいえパソコン部隊はあくまで半導体とこみにしておき、たとえ赤字を出しても好調の半導体で吸収する腹を固めていたのである。
 どうやら小林に、すっかり見抜かれてしまったらしい。
「こりゃあもう事業部に格上げして、逃げられないようにした方がいいんじゃないか」
 小林はだめを押した。
 一九八〇(昭和五十五)年四月、パソコン部隊は電子デバイス販売事業部内に新設された事業部に移ることになる。ただしこのときはまだ、大内はパソコン部隊を完全に独立させてはいない。新設された事業部の名は、マイクロコンピュータ応用事業部。担当はパーソナルコンピューターだけでなくマイクロコンピューターの利用分野一般。パーソナルコンピュータ事業部が設立され、パソコン部隊が完全な独立を遂げて社内に認知されるのはそれよりさらに一年後の一九八一(昭和五十六)年四月。PC―8001の発売から約一年半、TK―80の発売からは四年八か月後であった。

力はいずこより

 マイクロコンピューターを売るため、その仕組みを理解してもらうための教材として作られたTK―80――。
 そのTK―80をユーザーは教材としては認識しなかった。作り手の思惑を超えて、個人で所有できるコンピューターとしてとらえていった。教材として作ったTK―80をコンピューターとして見れば、絶望的に能力がなく、使い勝手を無視した超貧弱マシンと映る。
 しかしすべては、この偉大なる誤解から生じたのである。
 この誤解を胸に刻み込んだユーザーとサードパーティーは、超貧弱マシンTK―80を押し上げはじめる。電源が売り出され、周辺機器が接続され、ベーシックが使われるようになる。
 そのエネルギーを肌に感じて、マイコン販売部は名称はそのままに、徐々にパソコン部隊へと変貌を遂げていく。官需一本やりの日本電気に新しい風穴をあける、企業内ベンチャーの主役に自己革新していく。
 TK―80が生まれ、コンポBSがまとめられ、そしてPC―8001が爆発する。
 では、すべての原点となった偉大なる誤解は、なぜ生じたのか。
「日本電気のパーソナルコンピューターが伸びてくるにあたっては、カスタマー、そしてサードパーティーの力が大変大きく働いた。もし日電のパソコンを、その道の専門家であるコンピュータ事業部が作っていたら、おそらくはいろいろな応用ソフトウエアは自分で作っていたでしょう。これまでのコンピューターの常識では、ソフトはハードとは切り離せないもの、ハードのおまけ的存在で価値を認められないものでしたからね。ハードを買えば、当然付いてくるものと思われていた。
 ところがパーソナルコンピューターを内職で始めたデバイス屋さんには、応用ソフトを作る力などとてもない。どうしても外部の力、サードパーティーに頼らざるをえない。それも、サードパーティーを指導していく力なんてないから、とにかく自由に、勝手にやってもらうしかない。
 こうした新しいスタイルは、一面でソフトウエアの独立した価値を認めさせる、という効果を生んだ。現在ではこの影響で、オフィスコンピューターのレベルでもソフトの価値が認められるようになっています。
 それとそもそも、応用ソフトを日電の力だけでやったとして、パーソナルコンピューターがここまで伸びたかどうか。サードパーティーとカスタマーに引きずられ、彼らのエネルギーが注ぎ込まれたからこそここまで伸びてきたんでしょうね」
 日本電気副会長、大内淳義は今そう語る。
 では、日電のPCシリーズに注ぎ込まれたというサードパーティーとユーザーのエネルギーは、どこから来たのか。
 取材を終えたあと、腰を上げかける日本電気支配人、渡辺和也に、もう一度日電に新しい種をまき、企業内ベンチャーを繰り返してみたいかと問うた。
「やりたい」と即座に答えてから、渡辺はしばらく考え込み「けれどあんなチャンスは、もうないかもしれない。あんな大きな波は、もうやってこないかもしれませんね――」と付け加えた。
 TK―80を彼方へ運んだ大きな波――。
 では、その波はどこから来たのか。

 何から何までを自分たちでやっていたTK―80からPC―8001にいたる時代。
 パソコン事業が組織的に展開されている現在に対し、パーソナルコンピュータ開発本部開発部主任、加藤明はときにさびしさを覚えるという。

    

    

第一部 第二章 タケシ、君の彼岸としてのパーソナルコンピューターよ

       

 陽が西に傾くと、凪が風を食う。
 広島の夏の夜は熱い。
 海風が陸風に吹き変わるまでの数時間、空気はゼラチンでも溶かし込んだように澱む。肌に滲み出た汗は、乾かぬままにいつまでも体毛をはりつかせる。
 一九七八(昭和五十三)年九月二日、タケシは広島の熱い夜の底にいた。
 三重県津市の西北、なだらかな丘陵に広がるヤマギシズムの豊里生活実顕地。ここでタケシは五か月間のコミューン生活と、二度の精神病院への入院を体験している。
 そして前日の九月一日、故郷の広島に帰った。
 担当の医師は「このままでは豊里と病院との往復になりかねない」と判断し、一時取りあえず帰郷してみることを勧めた。
 二度の入院治療を経ても、タケシの精神の灼熱感は去らなかったのである。
〈もう、生きてちゃいけない〉
 心の中で絶え間なくそうつぶやきながら、タケシは考え続けていた。
 豊里を出て、妻のヨーコと京都駅のプラットホームに立ち、下りの新幹線を待った。
 ひかり二五号――。
 途切れなく続く思考の渦の中で、一日が二四時間から成ることの意味を考えていたタケシに、すべり込んできた列車に付けられた番号は天啓のように響いた。二五、つまりは二四の外にあるもの。
〈この列車は、一日の外に僕を運ぶのか――〉
 広島に向かう車中、レールの響きに声がまじっているのが分かる。声は、何事かを繰り返し繰り返し語りかけてくる。だがその言葉の意味は、てのひらにすくった水が指のあいだからこぼれるようにつかみとれない。
 ヨーコに語りかけようとすると、喉にたんがからむ。
〈しゃべっちゃいけないのか。誰かがしゃべっちゃいけないといってるんだな――〉
 口をつぐんだまま、タケシは考え続けていた。そして、心の中で繰り返していた。
〈もう、生きてちゃいけない〉
 広島駅に降り立った二人は、タケシの従兄弟のアパートに向かった。タケシの一家が豊里に移り住んだのち、母は広島の従兄弟の家に世話になっていた。
 アパートに入ったタケシは、つけっぱなしになっていたテレビ画面に視線をやり、そのまま凍りついた。
 たくさんの人が避難を続けている。ヘルメット姿の、あれは消防署員だろうか。怪我を負った人の手当てに忙しく立ち働いている。
〈大地震――〉
 またあの奇妙な感覚が、タケシを襲った。自分の怒りが、物質化する。自分が怒ったとき、憎悪を感じたとき、怒りは、憎悪は、災厄となって現実の世界に姿を現わす。
 この大地震もまた自分の怒りが、自分という存在が引き起こしたものではなかろうか。
 テレビ画面は切り替わり、アナウンサーはその日、地震に対する大規模な総合演習が行われたことを告げた。
 タケシは息をついた。
 しかし、内心の声は少しだけ大きくなっていた。
〈もう、生きてちゃいけない。自分が存在していることは悪なんだ〉
 そして翌九月二日の夜、ヨーコと母が話し込んでいる部屋をタケシは抜け出した。人二人がかろうじてすれちがえるほどの狭い階段を上がり、四階建てのアパートの屋上に出た。
 むし暑い空気の中で、肌はじっとりと汗ばんでくる。息苦しい夜の底の隅で、タケシは格闘を続けていた。
 屋上に張りめぐらされた鉄製の柵は、意外なほどに細く頼りない。その柵を目がけ、息を呑んで走るが直前で止まってしまう。何度か死の淵へのダッシュを繰り返すうち、肌をつたわる汗はいっそう熱くなった。脳の神経回路はしだいに灼熱化し、夜の闇は白くなっていった。
 そして、一瞬の落下の感覚と、左肩から腕、手首を貫く衝撃――。
 タケシの体は柵の向こう側にあった。鉄柵の根本を握った左腕が、タケシの体をかろうじて支えていた。
 目の前に迫った死の恐怖は、タケシの心に鞭をくれた。
 一瞬のうちに右手を伸ばして体を支えなおし、ねじるように体を引き上げる。柵を越えて大きく息をついたとき、白く輝いていた夜の闇は、光を失っていた。
 タケシにはもう、柵と向き合う気力は残されていなかった。
 狭い階段を下りるうち、だがタケシは再び考えはじめていた。生きているべきではない自分を救ったのは、いったい誰なのか。悪魔とでも呼ぶべき邪悪な意志が、自らの死すべき運命をねじ曲げたのではないか。
〈左手は、悪魔の手なのか――〉
 タケシは心の中で繰り返していた。
 死の淵から逃れてもなお、頭の中をかけめぐる思考の渦は止らない。
 それ以降二度と、自殺への誘いがタケシを完全に支配することはなかった。
 しかしその夜から約半年後、TK―80と名付けられたパーソナルコンピューターなる代物に出会うまで、タケシの精神の健康は完全に回復することはなかったのである。

       

 瀬戸内海に抱かれた広島、中でも広島湾に面した広島市の気候はおだやかである。
 粉雪の舞うことはあっても、積もるのはせいぜい年に一、二度。台風に直撃されることもきわめてまれで、人々の気候に対する不満はもっぱら凪の不快に集中する。
 春の足音も早い。
 三月末には開きはじめた桜は、四月に入り入学式の相次ぐ時期にはすっかり満開となる。市内を縦に貫く元安川沿いの桜並木は、平和公園に春めいた華やぎを与え、小高い丘といった印象の比治山に人々は酒肴をたずさえて桜を求める。
 一九六九(昭和四十四)年四月、タケシは桜の時期に希望する高校の門をくぐった。
 卒業生のほぼ全員が進学するこの高校の入試は、かなり難易度が高いとされていた。数学には絶対の自信を持っていたが、英語にはかなり不安があった。それだけに、この高校への合格、そして進学はタケシに昂揚感をもたらせた。
 高校生活は、確かに新鮮だった。
 しかしその新鮮さは、入学前にタケシの予想したものとはかなり異なっていた。伝統的な校技としてのサッカー、毎年二〇人前後は卒業生を東京大学に送り込む学力レベルの高さ。タケシを驚かせたものは、事前に予想できたそうした要素ではなかった。
 高校は揺れはじめていた。
 学生たち、少なくとも学生たちの一部は、タケシの頭の中にあった高校生像からはかなり逸脱しているように見えた。
 新入生歓迎会は野次の応酬となり、上級生たちは新入生そっちのけで、タケシの目にはえらく高級に映った論議をたたかわせはじめた。
 一九六九(昭和四十四)年――。
 タケシが受験勉強に最後の追い込みをかけていた一月十八日、加藤東大学長代行の要請を受けて機動隊は安田講堂に立てこもっていた学生を排除。合計六三一人の逮捕者を出した安田講堂攻防戦の実況中継に、多くの人がテレビの前に釘付けとなった。
 そして二月十八日には、日本大学が機動隊を導入して、文理学部を最後に、全学の封鎖を解除。
 この二つの〈落城〉を経験したあとも、全共闘運動は即座には沈静化しなかった。紛争の炎は地方の大学へ、そして高校生へと飛び火し、学生たちの揺れは総体として見ればますます大きなものとなっていった。
 そして、歌声が響きはじめた。
 フォークソング自体が日本で聞こえはじめたのは、タケシの高校入学の時期よりもさらに二、三年前にさかのぼる。
 ギターを抱えての弾き語りというスタイル、あるいはギターの奏法などにおいて、一九六〇年代半ばから広がりはじめたフォークソングには復古的なにおいも入りまじっていた。
 しかし年若い世代は、フォークソングをまったく新しい種類の音楽として受け取った。音楽のプロたちによって作られ、演奏される、他人からの供給物ではなく、自らをとらえなおすための道具、自己表現の手段として、フォークソングを利用しようとしたのである。
 この流れの中から、アメリカではボブ・ディランが生まれ、日本でも高石ともやや中川五郎、そして岡林信康といったヒーローたちが生まれてくる。彼らの多くは、音楽の専門性を否定したところからスタートしたにもかかわらず、自らがプロになっていくという自己矛盾にその後悩まされることになるが、そのことは逆にこの時期のフォークソングの持っていた一種の新しさを示しているともいえよう。
 そしてこの時期、フォークソングは直接に政治の場に登場してきたのである。
 安田講堂攻防戦の直後、新宿西口の地下広場で、長髪の貧相な若者たちがギターを抱えて歌いはじめた。若者たちは、毎週土曜日の夕方になると決まって現われ、彼らを取り囲む人の数もしだいにふえ続けていった。彼らはしだいに、自らを東京フォークゲリラと名乗りはじめ、マスコミで一斉に報道されるようになる五月までに、土曜日ごとに持たれた歌の集まりは、集会と呼ぶべき規模にまで膨らんでいた。
 そして五月十七日、新宿西口地下のフォーク集会の規制に、初めて機動隊が動員された。だが機動隊による実力規制は、むしろ集会への参加者をふやす効果しかもたらさなかった。
 それから六週間後の六月二十八日、西口広場のフォークソング集会にはこれまで最高の約七〇〇〇人が集まった。
 この日の早朝、新宿郵便局に郵便番号自動読み取り機が搬入され、これに抗議するデモ隊は夜になっても局を取り巻いていた。一応歌い終わったフォーク集会の参加者は、デモ隊に合流しようと動きはじめた。
 地上で待機していた機動隊員約八〇〇人はこの動きを規制。西口広場にはガス弾約一〇〇発が撃ち込まれ、六四人が逮捕された。
 この事件後、警察は西口地下広場は道路交通法上の道路であると発表。駅のカンバンからは広場の文字は消え、「西口通路」と書き換えられた。

       

 この時代の揺れに、タケシの入学した高校も共振しはじめていた。
 受験を控えた三年生が比較的大人しく見えたのに対し、二年生にはかなり、タケシの抱いていた高校生像から逸脱し、時代の揺れに共振しはじめた連中が多かった。
 そうした連中が、タケシにはひどく新鮮に見えた。
 彼らの一部は「なれあいうたの会」と称する集まりを開いていた。学校に公認されたクラブでもなく、またもともと公認されようなどとかけらも思っていないこの集まりのメンバーは、利用できそうなスペースがあるとそこに群れはじめ、追い出されるまではしごくあっけらかんとそこに居座った。
 彼らは自分たちの歌をフォークソングとは呼ばず、単に「うた」と称していた。たまり場には常に、ギターが放り投げてあったが、タケシの目にはギターなる代物は単なる楽器ではなく、それ以上の存在に映っていた。
「うた」を作り「うた」を歌うための道具は、詩をつづるペンであり、自己と向き合うための鏡であり、社会に目を向ける望遠鏡でもあったのである。
 タケシは入学そうそうから、この集まりの輪に加わった。
 逸脱分子を集めた形の「うたの会」は、議論の会であり、表現の会であり、彼らなりの政治の会でもあった。
 一九六九(昭和四十四)年十月十日、ベ平連、全国全共闘会議、反戦青年委員会など新左翼系の四〇〇団体は、安保粉砕、佐藤訪米阻止などをテーマに、全国五三か所で統一行動を行った。
 そのデモ隊列の中に、高校一年生のタケシもいた。
 会場に指定された平和公園内、原爆資料館前の噴水近くには校内の活動家やうたの会のメンバーに加え、これまでには話したこともない、同じ高校に通う学生たちの姿が見えた。
 デモの後尾について歩きはじめたタケシは、シュプレヒコールの文句を単純に繰り返すことはできなかった。「この文句は言えるか言えないか」と一つ一つ首をひねり、納得のいった言葉だけ大きな声で繰り返した。
 その年の十二月、これは学校公認の新聞編集委員会からガリ版刷りのミニコミ紙が発行されはじめた。本丸の学校新聞はそれとして、「自分の考えを人に知ってもらうための私たちの広場だ」と位置づけられたこのミニコミ紙は『しかし』と名付けられていた。当時人気の高かったマンガの主人公の決まり文句「しかし、これでいいのか諸君」をもじって付けたこの紙名に、学生たちは目の前の現実に異議を唱える志を込めていたのだろう。
 そしてこのミニコミ紙上で、活動家やうたの会のメンバー、さらにはその他の学生たちが発言を始める。
 集会への参加呼びかけや公認のクラブでもないのに我が物顔に活動を続けるうたの会への非難、そして自作の詩などにまじって、自らの言葉や行動、日常の一つ一つを検討しようとする発言が現われる。
 そう、ちょうどタケシがシュプレヒコールの文句を一つ一つ内省していったように。
 タケシとともに十月十日のデモの隊列に加わったうたの会のメンバーは、その日の体験を取り込んで『しかし』の創刊号にこう記している。
「先日僕はあるデモに参加してみて、と言っても僕たちはうしろの方を歩いていただけであるが(それでも当人は非常に意義のあることだと信じている)それでも機動隊の規制をうけた。畜生メと感じたわけであるが、いっしょにフォークゲリラのギターを持った連中も歩いていたから、まあ当然歌い出したわけである。はじめのうちはかなり白々しくて、うたう気にもなれなかったが、規制をうけるとコンニャロメってわけで『友よ』や『栄ちゃんの』などをうたいだした。また、機動隊がびっしり並んでいる前で『機動隊ブルース』をうたったら、何ていうか『ザマァミロー!』って言うか『これでもくらえ』みたいな感じで非常にソウ快であった。しかし?!……?! たしかに歌は現実の闘いの中でうたわれることによって連帯感を生み出し、また闘いにある力を与えることは事実である。そしてその結果、一時、マスコミにもてはやされた〈新宿〉の様な目的に使われるようになることも事実である。もっとも新宿などの場合、もっと他にも問題があるわけであるが。つまり〈うた〉を闘争の武器として使うことによって、そのうた自体の根源的思想とか、また、うたとしての働きをまったく無視、あるいはゆがめた形でしか表現されないということである。このことは政治行動の手段としては、うたの持つ連帯促進の働きや、そのアピールするものを推し出すことによって目的を達するかもしれないが、うたの側から言った場合それは非常に危険なことなのである。うたは街頭における政治行動としてうたわれる時にもその直接的な行動を越えて、歌い、あるいはそれを聞き共に歌いはじめる人々の心をとらえ、魂を呼びさまし、ひとりの民衆としての自分を認識することへとゆり動かして行く。そういう働きをしてこそ本来の使命を持ち得るのであろう。
 つまり〈うた〉は、単に問題提起であると言い切らないで、もっと深い、ヒューマンな感動を持って人々の心をゆり動かしてこそ、意義あるのではなかろうか。そのためにも我々自身のうたを持ちたいものだ。(T・N)」
 運動の道具として機能する歌の有効性、デモの隊列の中で自らも声を合わせて歌うことの「ソウ快」さを味わいながら、この一文の筆者はそうした自分をもう一度対象化しようと試みている。
「うた」が道具として機能させられるとき、それの持つ可能性のいかに大きな部分が失われがちになるかをかぎとっている。事実、フォークゲリラ運動は、大阪を中心として数年前から活躍していた高石ともや、中川五郎、岡林信康といったヒーローたちの手になるうたを歌う運動としては華々しく展開したが、運動の中では新しいうたをまったくといっていいほど生み出していない。
 唯一の例外はときの総理大臣、佐藤栄作を揶揄する「栄ちゃんのバラード」であろうが、これは運動の中で歌われたものの中で、間違いなくもっとも底の浅い代物であった。また、先ほどの引用文の「うた」を「自己」に置き換えてみても、かなり示唆的である。
 政治であり、闘争であり、変革であるという。しかしそのための道具として自己が機能させられるとき、いかに矮小な形でしか存在しえなくなることか。
 この高校生は、自ら強く引かれる「うた」を見つめることで、そうした危うさを無意識に感じとっているように見える。
 彼の締めくくりの言葉、「そのためにも我々自身のうたを持ちたいものだ」を少しだけ広げ「我々自身の変革を実現したいものだ」としても、言葉の裏にある精神の改竄には当たるまい。
 そしてタケシはこののち、「我々自身の変革」なる課題と格闘し続けることになる。

       

 一九七一(昭和四十六)年、インテル社によって世界初のマイクロコンピューターが開発されることになる年の三月、校内の逸脱分子たちは大量に卒業していった。
 四月、タケシは高校三年生になった。
 二年たらずのうちに三二号まで続いた『しかし』は、卒業生からの原稿もまじえて数号続いたあと、もう出なくなった。
 ずいぶんと静かになった校内で、タケシは宙に浮き上がったような奇妙な感覚を味わっていた。ハシゴを上って屋根に出たところで、突如ハシゴは倒れた。では、もう一度地上に飛びおりるのか。それともどこかへ自らがハシゴをかけ渡し、その場所を目指すのか。
 では、ハシゴを渡すとして、いったいどこへ――。
 その答えが出ない。
 例年なら進学率が一〇〇パーセントに近いこの高校では、クラブ活動は二年生の秋、少なくとも三年になるまでには引退となり、学生たちは受験の準備に取りかかりはじめる。
 一年上の逸脱分子たちも、その多くは大学を受験し、ある者は合格、ある者は失敗して浪人生活を始めた。
 しかしタケシは、受験に向かう同級生たちに足並みをそろえる気にはなれなかった。
 結局のところ大学なる存在は、国家なり資本家なりが大量の資金を用意して設置し、維持している空間ではないか。そこで何をやろうと、たとえ大学の現状に対して弓を引くような運動に加わろうと、所詮は大きなてのひらの中で遊ばされているようなものではないか。タケシにはそう思えた。
 では、取りあえず自分なりに大学に対する拒否を宣言したところで、自分は何をやるのか。残された高校の一年を、どう過ごすのか。
 タケシには答えられなかった。
 高校二年の年から始められていた自主講座の一つ、コンピューター講座にはタケシも必ず出席し、高級言語の一つであるフォートランの解説を受けていた。しかし一年上が卒業してしまうと、すっかり静かになった校内からは、自主講座の継続を望む声もほとんど聞かれなくなった。
 三年生の夏休みを境に、タケシは高校にほとんど興味を失っていた。
「僕の高校生活は二年で終わったのだ」と腹をくくり、かろうじて出席日数の下限をクリアーできるだけ、授業に顔を出した。
 そしてこの時期、タケシはヨーコへの傾斜を深めていった。

       

「子供できたよ」
 淡々とヨーコが告げたとき、タケシはむしろホッとしていた。
 一九七二(昭和四十七)年一月、高校卒業は二か月後に迫っていた。
 大学に進まぬことは決意していても、では高校を出て何をするのか、この時期にいたるまでタケシは決めかねていた。そんな宙に浮いたままの自分を、子供はとにもかくにもどこかにつなぎとめてくれるのではないか。ヨーコとの不安定な関係も、結婚という手続きを踏むことで落ちつくのではないか。
 タケシは目的がふいに目の前に現われたことで、自らが活性化されてくるのを感じていた。ヨーコとの二人の共和国づくり、いや生まれてくる子との三人の共和国づくりは充分に生きることの目的たりうるのではないか。
 一つ年上のヨーコは、高校卒業後広島市内に下宿し、保育園で保母として働いていた。タケシの目には、ヨーコもまたごくあっさりと妊娠という事件を受けとめているように見えた。
 周囲には、年若い二人の結婚と出産を危ぶむ声もあったが、二人はともに歩むことを決意した。
 進学一本やりの高校では、大学受験のための進路指導は手厚く行われても、就職希望者への指導には経験も力もない。
 二月に入ったとき、タケシは高校を頼る気持ちを捨てた。
「悪くないな」
 タケシは白い息を吐いてつぶやいた。
 気候のおだやかな広島とはいえ、二月の風は肌を刺す。背中を丸め、てのひらを吐息であたためながら、タケシはポスターの文字を目で追った。
「警察官募集」
 今からすぐに手続きをとれば、試験日には間に合う。合格すれば一年間、警察学校で教育を受け、そのあいだももちろん給料は支払われる。
「面白いのかもしれない」
 タケシはもう一度つぶやいた。
 結婚し、子供を育てていくためには、とにもかくにも定職につく必要がある。警察官という職は、その最低条件は明らかにクリアーしている。さらに警察という職場では、自分の中に緊張感を持続できるのではないか。
 タケシはそう考えた。
 警察という機構の果たしている機能にはかなりの幅があるのだろうが、少なくともデモの規制に駆り出される機動隊に関しては、タケシの目には国家の暴力装置としか映らなかった。しかしそうした機能も含め、警察という組織で物事がどう進められているかを自分の目で見ておくことは、面白いのではないか。
 申し込み手続きをとり、試験は広島の警察学校で受けた。
 タケシが就職の準備に追われていたこの年の二月、テレビカメラは軽井沢のある別荘をにらんだまま動かなくなった。
 一九七二(昭和四十七)年二月十九日――。
 連合赤軍の五人は河合楽器の浅間山荘に、管理人の妻を人質に立てこもった。
 報道陣は軽井沢に殺到し、テレビ各局はえんえんと現場の模様を中継し続けた。
 そして二月二十八日、機動隊は浅間山荘に突入、銃撃戦ののち五人を逮捕して人質を救出。警官二名が死亡、一三名が重軽傷を負った。
 翌三月、連合赤軍内のリンチによる死亡者の遺体、続々と発見。発掘された遺体は一二に及んだ。
 連合赤軍による事件が浅間山荘への立てこもりから内部でのリンチによる殺人へと大きくその相を変えた時期、タケシは合格の報せを受けた。
 広島以外でも、東京、大阪、京都、神戸などの警察学校への入校を希望することができた。タケシには、もともと広島に残る気持ちはなかった。ヨーコとの新しい共和国建設には、新しい空間が必要だった。タケシは広島に倦んでいた。
 東京にはかつての仲間が多くいたが、そこを選ぶ気にはなれなかった。昨年の十二月二十四日、ジングルベルが最高潮に達しケーキの売り子の声が大きく響くイブ、新宿の繁華街で五七歳の警察官が左足を失った。道路をはさんでデパートの伊勢丹と向かい合う派出所横で、クリスマスツリーに見せかけた爆弾がすさまじい音とともに炸裂。警察官と通行人、合わせて一二名が重軽傷を負った。
 その一週間ほど前にも、爆弾テロによる死者が出ていた。
 十二月十八日、東京豊島区の土田国保警視庁警務部長宅の応接間で小包に仕掛けられた爆弾が炸裂し、夫人が死亡、四男が重傷を負っている。
 タケシは東京が恐ろしかった。共和国建設の空間としては、あまりに肌触りが悪かった。新しい生活のスタートは、昔からあこがれのあった京都で切ることとした。
 一九七二(昭和四十七)年三月十四日、高校を卒業。卒業式のあと、その足で婚姻届けを出した。
 警察学校は全寮制である。
 京都と大阪を結ぶ阪急京都線の沿線に、六畳と三畳の二間、台所とトイレのいわゆる文化住宅を借り、ヨーコはそこで暮らすことになった。

       

 一九七二(昭和四十七)年四月一日付け辞令。
「京都府巡査に任命する。
 京都府警察学校初任科に入校を命ずる。
 公安職五等級五号給を給する」
 国家公務員の上級職で入ってくる者以外、警察を職場として選ぶ者はすべて警察学校に入り訓練を受けることになる。訓練期間は大卒で半年、高卒で一年。
 一回九〇分の授業が午前二回午後二回の計四本。調書を書く機会の多いことから国語の授業は重視されており、様式にのっとった調書の表記法や漢字が叩き込まれる。学科のもう一つの柱は、法律。憲法、刑法、刑事訴訟法、警察法などの講義を受ける。
 いかにも警察官教育らしいのは、実技課目。
 犯行現場の保存や実況検分のやり方、実況検分調書の書き方など、外勤警察官に求められる要素を内容とする、外勤一、外勤二。さらに逮捕術や拳銃操法、無線の取り扱いなどの修得が図られる。
 京都市南部、洛南――。
 京阪本線で南に下り、深草で下車。観光客は進行方向左に折れて琵琶湖疏水を渡り、宝塔寺や石峰寺、瑞光寺を訪ね、全国に広がるおいなりさんの総本宮、伏見稲荷大社に足を伸ばす。
 深草で電車を降り、観光客とは逆に進行方向右に折れると、竜谷大学と向かい合って京都府警察学校がある。
 四月とはいえ、京都の春には冬の名残を思わせる日がまじる。広島ではほころびかけた桜に送られたタケシは、花見にはもう少し間遠な京都で新しい生活のスタートを切った。
 タケシの同期は、高卒が二小隊、大卒が一小隊。一小隊は、四〇〜五〇人ほどで構成される。さらに秋には、中途採用の高卒組が一小隊ほど入ってきた。同期のおよそ半分は地元の京都出身者で、残りは九州出身が多かった。
 基本的にはお坊ちゃん、お嬢ちゃんがほとんどだった高校の同級生たちに対し、警察学校の同僚たちは多様である。
 父親や兄など家庭内に警察官がおり、ごく素直にこの職業を選んだタイプ。こうしたタイプは一般的に真面目で、警察学校内での成績のよい者が多い。
 いかにも正義感が強く、社会悪を許さないといった熱血漢タイプ。高校まで柔道や剣道をやっており、警察でも続けていきたいというスポーツマン。不良っぽいツッパリタイプ。
 こうした多様な人種が、二四時間の集団生活を送り、六人部屋の二段ベッドで眠る。
 高校最後の一年間をまったくの宙ぶらりん状態で過ごしたタケシにとって、警察学校での日常はかなりの手応えがあった。授業で教えられる内容は課題が鮮明で具体的であり、入学前に予想していたよりもはるかに自分にとって面白かった。
 授業で体を動かすことにも充実感があった。
 さらに放課後のクラブ活動にはサッカーを選び、授業の終わった四時ごろから、毎日二時間ほどボールを追った。
 外泊は月に二度許された。その日が近づくと、胸は躍る。
 深草駅から京阪本線で四条まで上がり、鴨川を渡って京都一番の繁華街、四条河原町を少しだけ歩き、阪急京都線の河原町駅にもぐりこむ。四条河原町の賑わいにも、タケシは寄り道する気にはなれなかった。ともかくも早く、ヨーコの待つアパートへ帰り着きたかった。
 ともに暮らすことを決意したばかりのタケシとヨーコにとって、一日はあまりにも短い。逢瀬の喜びが大きければ大きいだけ、深草へのもどりの時刻が近づくと、タケシの胸は染みた。
 京都の冬は酷薄である。
 そして、冬に失われた地熱をしゃにむに取り返すかのように、京都の夏は熾烈である。
 大地がいっぱいに熱をはらんだころ、ヨーコは臨月を迎えようとしていた。
 タケシの母が、広島から駆けつけた。
 一九七二(昭和四十七)年九月、長子誕生。男の子は、ヒカルと名付けられた。
 タケシは一八歳の父、ヨーコは一九歳の母となった。
 そして翌十月、この月に行われた警察学校の試験が、タケシに揺さぶりをかけた。
 タケシの成績は、高卒の同期中トップだった。
 四月の入学以来、同僚たちとは仲良くやってきた。同室の人間とも、サッカー部の連中ともトラブルはなかった。
 タケシが警察官の募集に応じるにいたった心の軌跡は、同僚たちほどまっすぐなものではなかった。日常のあれこれでは仲間たちとうまくやってはいても、内心は隠さざるをえない。
 ただし、そうした息苦しさ、奥歯にもののはさまったような歯がゆさはあったものの、タケシは警察学校の課程を終了し、少なくとも数年は警察官として勤務するつもりでいた。
 ところが試験の結果にタケシの心は揺れた。
 警察学校での試験によい成績をおさめることは、当然のことながら警察官としてやっていく適性を認められたことを意味する。教官からも、試験のあとはことのほか目をかけられる。警察学校での日々に充実感を持ち、授業を面白いと感じ、警官としての適性を認められる――。
「このままいったら、やばいんじゃないか。本当の警察の人になってしまうんじゃないのか」
 タケシは迷いはじめた。
 卒業後、割り当てられる可能性のある仕事の内容も、タケシの迷いを深めた。成績優良者は、おうおうにして警備関係にまわされることが多い。
 警察用語でいう警備とは、共産党や新左翼など左翼関係の情報収集作業である。卒業後、自らが警察官として行っていく仕事の内容が明確になってくるにつれ、タケシの迷いはいっそう深くなった。
 内心の迷いは明かさぬまま、タケシは退職を申し出た。理由は「家庭が強く気にかかり警察官の重責を全うできそうもないため」とした。教官はいかにも意外といった表情で、タケシの申し出を聞いた。形ばかりではなく、強く慰留されたが、翻意する気にはなれなかった。
 肩に氷の針を刺す京都の冬、タケシは深草を去った。
 一九七三(昭和四十八)年一月二十四日付け辞令。
「辞職を承認する。」
 この年、日本電気はインテル社のセカンドソースとしてマイクロコンピューター、μCOM―8の製造を開始した。

       

 タケシが警察学校を去って三日後、一九七三(昭和四十八)年一月二十七日、アメリカ・南ベトナム、北ベトナム・南ベトナム臨時革命政府は、パリでベトナム和平協定と議定書に調印した。
 翌二十八日、協定は発効。二十九日には、アメリカ大統領ニクソンがベトナム戦争の終結を宣言した。
 結婚を決意してからちょうど一年後、タケシとヨーコ、そして生まれたばかりのヒカルの生活がスタートした。
 ニクソンによるベトナム戦争終結宣言の直後には、タケシはもう働きはじめていた。母方の伯父は大阪で電話工事の請け負いを行う会社を営んでいた。この会社が、電電公社からの業務委託の共同の窓口となり、各実行グループに仕事を割り当てる。その実行グループの一つを従兄弟がやっており、その一員に加えてもらったのである。
 電話工事の朝は早い。
 午前八時には事務所に集まり、たいていは二人がペアとなって取り付けに回る。工事を行う場所にもよるが、新設工事なら一日に一〇件ほどがめど。グループによっては多少傷んでいても昔あった線をそのまま使ってしまい、手抜きで効率化を図るところもあったらしいが、タケシの入ったグループは、真面目一本やりだった。時間内びっちり働いても、アパートに帰り着くのは八時、九時となる。
 生活は、単調ではあるが確実なリズムを刻みはじめた。
 タケシには、新しい電話工事の仕事への不満があったわけではない。特に仕事を始めた当初は寒さの厳しい時期であり、作業内容も新興団地の構内ケーブルの配線と吹きっさらしでの作業であったため、寒さはこたえた。
 電話工事の仕事になれてくるにつれ、しだいに暖かくなってきても、忙しさには変わりがなかったが、それが不満に結びつくことはなかった。繰り返しの要素の多い仕事ではあったが、その中でも小さな達成感はあった。構内ケーブルを美しく仕上げたり、工事のオーダーを少し多めに持っていって一日のうちにやり終えたりすれば、その場限りとはいえささやかな達成感はあった。
 ただし、自分の毎日に充実感はあるかと問われれば、タケシはおそらく首を横に振っていただろう。
「生活に充実感はあるか」などという愚問がたずねられた当人に多少の重みを持つとすれば、それはすなわち、当人の心になにかしら渇きのようなものがあることを示しているに違いない。そのような渇きがなければ、誰が「生活の充実感」などという不確かな存在に思いをめぐらすだろう。
 タケシには充実感はなかった。いや、正確には、ないのだと考えていた。
 高校時代の友人たちは、ほとんどが大学に進学している。そのことを思うと、タケシの心は焦れた。
 大学に進まないという選択を悔いたわけではない。大学の拒否は、自らの選びとった道である。だがタケシの内心の渇きは、友人たちの日常に幻想を与えがちになった。彼らは大学で、あるいはそれ以外の場所で、自分の手にすることのできない新しい何かをつかみとっているのではないか。
 タケシは心の中に、〈明日〉を喰う虫を一匹飼っていた。
 厳しくはあるが確実に繰り返されていく仕事を中心にした毎日。ヨーコやヒカルと過ごす一時。そうした連綿と続く波のない日常の中で、虫はしだいに腹を空かせはじめる。餌をよこせと、タケシの心の壁をつつきはじめる。
 目の前に現実に存在しているものの総和が今日であり、〈明日〉とは、それを時間軸に沿ってちょうど二四時間だけ移動させた存在にすぎないとき、虫は腹を空かせる。騒ぎはじめた虫からの信号を、心の壁をこわばらせて閉ざしてしまえば、それでも虫はしばらくのあいだ虚しい叫びを上げ、やがては餓死しよう。
 しかしタケシは、タケシの生きてきた時代は、誰の心にも棲んでいる心の虫を少しだけ大きく育てすぎてきた。そしてタケシの心の壁は、虫からの信号を閉ざしてしまうにはいまだにあまりに柔らかく、新鮮だった。
「私らのために働くんじゃなくて、もっと自分のやりたいことをやったらええじゃない」
 電話工事の仕事を始めてから、ヨーコは口癖のようにタケシにそう言うようになった。おそらくはヨーコ自身、タケシに向かってそう言うことで、自らの虫からの信号と折り合いをつけようとしていたのであろう。
 ヨーコの心の虫も、飢えていた。

       

 一九七二(昭和四十七)年秋、タケシが警察学校を続けることを迷いはじめたころ、中国研究者で早稲田大学教授の新島淳良は心の虫に応え、ある決意を固めていた。
 十一月二十日付けの毎日新聞は、「中国研究の新島教授/突然の転身/早大を去り『山岸会』へ」の見出しで彼の決意をこう伝えている。
「リンチ事件で揺れ動く早稲田大学で、政経学部の新島淳良教授(四四)=東京杉並区永福四の一二の一八=が、このほど突然辞表を出した。といっても革マル派騒動とは関係ない。気鋭の中国研究者として知られた同教授は、三重県に本部のある『山岸会』へ行き『共同生活実践の中で中国研究を続ける』という」
 一九二八(昭和三)年、中華民国の政治家、張作霖が日本の関東軍によって爆殺された年、新島淳良は生まれた。中学時代から中国に興味を持ちはじめ、その後一貫して中国研究者としての道を歩み続けた。
 新島にとって中国とは、希望の代名詞だったようだ。
「私にとって、中国とはなんであったか。それは私のユートピアでありました。魯迅と毛沢東を結ぶ革命の思想にみちびかれ、一〇億にちかい人間たちが人類の未来の社会をもとめて、巨人の足どりのようにあゆんでいる。地上に存在する理想社会だと、しんそこ思っていたのです」(『阿Qのユートピア あるコミューンの暦』晶文社、以下引用は同書)
 その中国で、一九六六(昭和四十一)年五月、文化大革命が始まる。新島はあくまで、中国で開始されたこの新しい革命を支持するという立場を守りながらも、「巨人の足どりのようにあゆんでいる」はずの中国で、なぜそのとき新しい革命が求められるのかに悩んでいた。
 中国に行き、自らの目で文化大革命を見、その本質をつかみたいと考えていた。
 そして一九六七(昭和四十二)年の春を皮切りに、つごう四回にわたって中国を訪れている。
 中国で、新島は貪欲だった。
 機会あるごとに人々に話しかけ、ノートをとる。新聞やチラシ、パンフレットの類は手当たりしだいに集める。壁新聞は一字も読み残すまいと隅から隅まで熟読する。
 そうして文化大革命の実相に触れようと動き回りながら、新島は自らのユートピアである中国が大きく揺らぐのを感じとっていた。
「私にとっていちばんショッキングだったのは、同じ毛沢東思想をかかげる若い人同士が、それこそ目をおおうほど残虐に殺しあいをし、拷問をするという事実だったのです。これが私のユートピアだろうか?」
 自らが目にしたものによって、大きく揺らいだユートピアとしての中国――。新島は、揺らぎはじめたユートピアの再構築を試みる。
「私は持ちかえった資料や自分の見聞をもとにして、私のユートピアとしての中国を必死に再構築しようとしました。たくさん論文を書きましたし、本も出版しました。ある時期はひと月に百枚以上も書きました。どんなふうに書いたのかといいますと、私の目撃した生ま生ましい、否定的なものは切りすてるか水でうすめて、毛沢東のユートピアを前面におしだしたんです」
 現実の中国から、毛沢東の言葉にずらすことによって自己のユートピアの再生を目指した新島は、毛沢東の未発表の演説や談話を集め、その成果を『毛沢東最高指示』(新島淳良編、三一書房)という翻訳本にまとめ上げる。
 このユートピア再構築の試みの成果である『毛沢東最高指示』は結果的には新島の中国離れをいっそう促進させることになる。
 中国国内で集めるさい、読むことはかまわないが国外には持ち出さないでくれと釘をさされていた資料を公表したこと、台湾から出ている、中国から見ればいかがわしい資料を使ったことなどにより、自らが肩を並べてきた親中国派の面々から猛烈な非難を浴びたのである。
 どう行動し、どう発言するべきか、新島は迷っていた。
 そんなとき、山岸会に出会った。
 ヤマギシズム特別講習研鑽会、略して特講に参加したのである。
 特講は新島を変えた。
「さて、特講を受けました。特講の内容については、何も申し上げないことになっています。今日申し上げるのは、私が特講後どう変ったかということなのです。私が受講したのは五月一日の一週間で、ちょうど季節は良いし、私はふわふわーっといい気持になったのです。私が思ったことは二つありました。ひとつは、どんなひととでも仲良くなれるんだなーということ。五四人のはじめて会った老若男女の受講生と世話係に、私はかつてない親愛の情をおぼえた、これがひとつです。もうひとつは、どんな問題でも――私がそのときたくさんのクエッション・マークをかかえていたことはすでに話しましたが、そのどの問題も自分だけで考えるのでなくて、あるいは自分が考えるのでなくて、みんなの前に『放す』、しゃべるという意味の『話す』でなく、手放すという意味の『放す』ですが、放すことによって解決されるという啓示のようなものです。自分だけでかかえこみ、答えをだそうとするのでなく、みんなのまえに公開し、問いかけ、どんな答えでも聞ける、まあ言葉にしてしまえばこういうことになるのでしょうか。――」
 特講を体験した月の末、新島は「ひろい意味での解放運動に携わっている」女性の芸術家、Mから、突然の電話を受けた。彼女は、歴史学者としての新島に「朝鮮戦争は北が起こしたのか、南が起こしたのか」とたずねかけてきた。Mは切実に、その答えを欲していた。
 かつての日本の植民地、満州で少女時代を過ごしたMには、朝鮮人の同級生も多かった。日本の敗戦後も彼女たちとの文通を続けていたMは、新島に電話をかけるしばらく前に韓国を訪れ、旧友たちとの再会を喜びあった。話は切れ間なく続いていったが、話題が朝鮮戦争のことになると、会話が微妙にくいちがうのに気づいた。
 Mは運動の仲間がすべてそうであったように朝鮮戦争はアメリカ帝国主義と李承晩政権が起こしたものと信じて疑わなかった。そのMの発言に、韓国の古い友は愕然となった。彼女たちにとって、朝鮮戦争とは北の侵略によって起こったものに他ならなかった。帰国したMは韓国で見聞きしたことをある雑誌に書き、その中で「朝鮮戦争はいったいだれがおこしたのか」と自らの揺らぎをそのままに吐露した。
 この文章に、今度は日本の古い友人たちが愕然となり、Mは彼らの批判を浴びた。
 新島の中国は、Mの朝鮮だった。
 新島はMに、自らの中国を「放」した。
「私も、Mサンも、一〇年二〇年と日本帝国主義のアジア侵略、アジア植民地支配という負い目を背負おうとしてきて、その罪悪感は左翼イデオロギーで倍化されて、おもりの反対側に、それだけ大きなユートピアを、中華人民共和国なり、朝鮮民主主義人民共和国なりにもっていたのですね。Mさんも、私も、そのユートピアが、じつはまったく幻想であることを、その晩に確認したんです。かつては、そのユートピアを信じることが、罪のつぐないだと思っていた、そしてそれを人にも強制していた、そのまちがいに気付いたのです。――」
 自分一人では解けない中国を「放」していく作業の中で、新島の中国人の友人は彼を中国から「解」いた。中国がユートピアであるか否かを論じたり、中国にどうあってほしいと働きかけるのではなく、日本をどうするのか、自己をどうするのかという道を進むことを示唆したのである。
 ユートピアを外に求めるのではなく、内に求める。では、内なるユートピアを求めるとして、そのために何をすればよいか。
 新島にその問いが突きつけられた。
 一九七二(昭和四十七)年一月、新島が特講を体験してから八か月目、娘が彼にヒントを与えた。
 中学進学を前にした新島の長女は、もう勉強を押しつける学校で学ぶことはいやだと彼に訴え、イギリスにあるサマーヒルスクールという名の寄宿学校に行かせてくれるよう願い出たのである。そこでは子供を規則や制度に合わせるのではなく、一人ひとりの子供に学校が合わせていくのだという。子供が望まないなら、授業に出る必要はない。
 長女は、この学校の創立者の著書を数冊新島に手渡した。
 その年の五月、長女は一人イギリスへと旅立った。娘の出発の直後、新島は内なるユートピアを求めるための課題をつかみとった。長女が入学を希望したサマーヒルスクールの日本版を作る。子供の創造性を培う自由な学びの場を日本の農村に作り、娘も息子もそこに入れる。最初は生徒、二、三人からスタートし、いずれは人数をふやしていこう。
 新島はその学びの場を、幸福学園と名付けた。
 そして、幸福学園創立のため、山岸会と結ぶことを考えた。
 各地にある山岸会の拠点で共同生活に入ろうとする人は、自分の体も含めた全財産をヤマギシに「放」し、財布一つの一体生活を送る。事前のやり取りで具体的に山岸会と結ぶ道を模索していた新島は共同作業実現の可能性をつかみ、自らを山岸会に「放」し、ヤマギシの中での幸福学園設立を決意したのである。
 一九七二(昭和四十七)年十二月二十七日、三重県阿山郡伊賀町の春日山での一体生活に、新島は入った。当面は、全国で幸福学園設立のための呼びかけを行うことになった。

       

「私、ヤマギシカイのトッコーに行ってくるわ」
 電話工事の仕事を始めてから最初の春を迎えた一九七三(昭和四十八)年の四月、ヨーコが突然言った。
「ヤマギシカイ」も「トッコー」もタケシには初めての言葉だった。
 高校時代、ヨーコが唯一まともに向き合うことのできた教師が、新島による幸福学園設立の呼びかけに応じ、その年の一月、特講を体験していた。彼は妻にも特講を体験してみることを勧め、教師の妻はヨーコにも声をかけた。
 山岸会の設立は、日本が独立した翌年、一九五三(昭和二十八)年の三月にさかのぼる。そして、設立当時の会の顔は、独特の養鶏技術であった。
 この養鶏技術が広く知られるようになった経緯は、印象的なエピソードとして伝えられている。
 きっかけは、会設立の三年前、一九五〇(昭和二十五)年九月三日に関西を襲ったジェーン台風であった。当時はアメリカでの習慣に従い、台風には女性の名前が付けられていたが、そのやさし気な名に反して、この台風は三三六人の生命を奪い、約四万戸を全半壊させた。
 当時、京都府の農業改良普及員を務めていた和田儀一は、担当地域の台風による被害調査にさっそくおもむいた。穂を出す間際だった水稲は、ほとんどが倒れてしまっている。すっかり沈みきった気持ちを鼓舞し調査を続けていた和田の目が、ある一画をとらえ、そこで動かなくなった。
 あたり一面の稲がことごとく倒れているにもかかわらず、その一区画では見事に立ちそろっている。和田は、自らの目を疑った。
 付近の農家でたずねると、その田は山岸巳代蔵なる人物のものであるという。
 和田は、山岸を訪ねた。
 山岸によれば、一面の稲のほとんどが倒れたにもかかわらず自らの田の稲が倒伏をまぬかれたのは、農業に不可分の一要素として養鶏を組み込んだ経営法による成果だという。和田は山岸独自の農業経営法、そしてその大きな柱となる養鶏法に興味を抱き、これを普及させようと心進まぬ山岸を口説いて講演に引き出しにかかった。
 こうして、山岸養鶏はしだいに広く知られるようになった。山岸のもとには、養鶏法を学ぼうとする人が訪れるようになった。しかしそうした人たちに養鶏を技術として伝えることに、山岸は乗り気ではなかったという。
 周囲の者が山岸を説得し、山岸式養鶏普及会の結成の準備を進めているあいだにも、自らの実践してきた養鶏が技術として取り扱われることに、山岸は危惧を覚えていた。
 会結成の当日、山岸巳代蔵は一つの提案を行った。
「養鶏普及会は実に結構なことであるが、養鶏普及だけの会であり運動であれば、実に危険で、むしろそれなら初めからそんな会を作らない方がよかったと気づくときが必ず来ると思う。皆さんも感じられているように、これは実は、鶏であって鶏ではない。本当は、鶏も含めた根本的な不可欠の大事なものがあると私は考えるのだが」(『Z革命集団・山岸会』ルック社)
 と語り、養鶏の裏にある精神、山岸の言葉によれば「根本的な不可欠の大事なもの」をきわめ、広めていく場としてのもう一つの会、山岸会の設立を呼びかけたのである。
 一九五三(昭和二十八)年三月十六日、山岸会と山岸式養鶏普及会は二〇数名の発起人を集めて設立された。
 山岸式養鶏の普及を中心に動きだしたヤマギシは、徐々に活動の中心をシフトさせていく。鶏を飼う技術の改良ではなく、鶏と向き合う、農業と向き合う、いや最終的には生きること全体と向き合う精神の革命へと脱皮していく。
 会設立の翌年からは会報の発行も進められ、一九五四(昭和二十九)年十二月三十日に発行された山岸会、山岸式養鶏会会報には、ヤマギシズムにのっとった社会を実現していくための「世界革命実践の書」が発表された。これはのちに開かれることになる特講のテキストとしても用いられ、ヤマギシズムでいう最後の革命の意を込めたZ革命が、会の真の目的であることが意識されはじめた。
 イズム、つまりは主義――。
 この言葉から人は、どのようなニュアンスを感じとるだろうか。主義と名の付くからにはそこに、自他を峻別する独自の思想的な枠組みが存在し、その主義につくとは、少なくとも考えを組み立てていく基本のところでは、確立された枠組みをそのまま受け入れる、といった印象を持つのではなかろうか。
「ヤマギシズム」という言葉には確かに「イズム」とはつくものの、その実体においては「主義」という言葉のイメージさせる範疇には収まりそうもない。主義とはすなわち、確立されたもの、揺るぎがたく、裏返していえば硬直化せざるをえないのに対し、ヤマギシズムでは固定化を恐れる。
 山岸巳代蔵の書き残した言葉にしても、いかにも空白が多く、二重にも三重にも、いやいかようにも読み込みが可能である。規範を示してそれに従うことを求めるというよりは、考え方あるいは生き方の基本的な方向付けだけを示し、あとはそれぞれが進んでいくことを求める類のものである。それゆえ、ヤマギシズムを社会化していくZ革命なるものも、固定化したイメージとしてはとらえにくい。
 ヤマギシには独特の用語と、独特の言葉の言い換えがある。たとえば、話すを「放」すとするのも、言い換えの一つである。いや、これを「言葉の言い換え」と表現するのは、不適当かもしれぬ。はなすという言葉に漢字を当てかえることを通じ、はなすという行為自体の検証が行われていることにこそ、注意を払うべきなのだろう。
 独特の用語、独特の言いまわしは、一見ヌエ的に見えるヤマギシを解いていく鍵になる。
 ヤマギシでは、何らかの意思決定が必要となったときに開く話し合いの会を、研鑽会と呼ぶ。意見が異なったときは、全員の意見が一致するまで徹底して話し合いが続けられる。だが、もしも研鑽会が単なる話し合いの会であるなら、どこまで議論を続けたところで全員の意思の一致などそうたやすく得られるものではあるまい。
 会議とも打ち合わせとも呼ばずに研鑽会と呼ぶ――。
 そこには、はなすに「放」の字を当てたと同じ、意思をまとめていく作業に対する検証が込められている。
 研鑽会では、自分の意見を主張しながら、同時にその意見をも相対化する機能が働いている。ヤマギシの人は、そうした機能を実現するための個人の態度を「零位に立つ」と表現する。
 自らの意見に無意識にさまざまな偏見や固定観念が入り込んでくる可能性を自覚し、あらゆる前提をいったん棚上げにして自らも調べなおす。そうした、主張しながらそれ自体をも相対化していく「零位に立つ」という態度を取り込むことで、研鑽会は全員の意見の一致を実現しようとする。
 行動の規範なり基準を固定化してしまうのではなく、絶えることのない研鑽によってその時点時点での最良の道を探し求めていこうとする意思を、ヤマギシでは無固定・前進という言葉で表わす。
 ヤマギシズムと初めて出会う人のために用意された特別の研鑽会、それがヤマギシズム特別講習研鑽会、特講である。
 特講では八日間の合宿生活を通じた連続的な研鑽により、それまでの自分を調べなおしてみることが目指される。毎日テーマを変え、さまざまな角度から調べなおしてみる。そして自分の考え方や感じ方の前提になっていた思いもかけない無意識の存在に気付いていく場、それが特講である。
 第一回の特講開催は、一九五六(昭和三十一)年一月十二日から。ヤマギシズム普及のための具体的な方法が明らかにされたことにより、山岸会はさらに養鶏から世界革命の側に活動の目的をシフトさせていく。
 ヤマギシズムにのっとった理想社会の実現、その目的に近づくために理想社会のヒナ型となるものを作り、そこでヤマギシでいう一体生活という名の理想的生活を送ることを試みてみる。同時にもう一方で、できうる限り多くの人を特講に送り込み、ヤマギシズムと出会ってもらう。
 特講によってヤマギシズムと出会った人は会員ということになる。
 山岸会でいう正会員とは「絶対に腹の立たない人」である。腹を立てないのではなく、腹の立たない人――。怒りによって自己を絶対化するのではなく、常に自分を相対化する、要するに研鑽の態度が身に付いている人という意味であろう。会員には、正会員以外にもう一種類、準会員がある。準会員とは、「怒らないで研鑽しようと心がけているが、それがいまだ十分にはできない人」であるという。
 この会員の資格についても、何か審査のようなものがあるわけではない。むしろ資格というよりも、常に自己点検を行っていくための一種の目安と理解すべきか。
 そして山岸会の会員は、大別すれば二筋の道からヤマギシズムによる理想社会の実現を目指す。
 一つは、現在ある社会の中での道である。学校に通ったり会社で働いたりと、既存の組織、既存の社会の中にあって、Z革命を目指す。まず第一に組織なり社会なりの直接的な変革を目指すのではなく、その内部に革命の主体となりうるヤマギシズムへの賛同者を作っていく。そして既存の社会の中にいる会員はできるだけ多くの人を特講に送り込むように努め、ヤマギシズムによる個人の変革を連鎖反応的に起こしていくことで、実体的に組織、社会を変革してしまおうとする道である。
 そしてもう一つは、既存の社会での生活から離れ、ヤマギシズム社会のモデルを作り、即座に一体生活を始めようとする道である。こうしたモデルを山岸会では、ヤマギシズムを実際に表わすという意味と理想社会を実現するための実験を行うという意味を込めて「実顕地」と呼ぶ。
「よかったよ、あなたも行ってみたら」
 八日間の特講を終えたヨーコは、特講体験を細かく語ろうとはしなかった。ただ「ともかく行ってみた方がよい」とタケシに勧める口ぶりには、いつもの淡々とした口調にはない力強さが込められていた。

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 ヨーコの特講体験から七か月後、一九七四(昭和四十九)年一月、タケシは特講の会場となる春日山に向かっていた。
 京都から奈良線で木津まで南に下り、関西本線を上って新堂駅で下車。駅の南、田んぼのあいだを通る道を抜けしばらく上った小高い丘の上に山岸会の本部がある。
 山岸会はここ春日山に約五万坪、一七ヘクタールほどの土地を持っており、ここでもヤマギシズム社会のヒナ型を作っての一体生活が行われている。
 働く者にとって特講に要する八日間の休みをとることは、それほど容易ではない。それゆえ、正月に行われる特講は特に参加者が多くなる。
 カマボコ型の兵舎のような形をした、木造トタンぶきの本部棟のうち、特講の会場として使われるスペースは、四〇〜五〇畳ほどもあろうか。タケシの参加したこの回は、全国から六〇人ほどが集まり、ストーブをたきながら特講は開始された。
 特講で行われることは、徹底した話し合いである。
 まずテーマが与えられ、そのテーマに沿って参加者が意見を出し合っていく。この作業の目的は、互いに意見をぶつけ合うことにあるのではない。自分の意見に、無意識の前提や思い込みが反映していることにまず気付くよう、話し合いは導かれる。
 そして、自らを「放」し、あらゆる前提をいったん棚上げして調べる、研鑽という行為自体を学ぶことが目指される。
 えんえんと続く話し合いが始まった。
 三日、四日と根を詰めた話し合いが続く中で、タケシはしだいに頭の中がからっぽになるような奇妙な感覚を味わっていた。自分の精神が少しずつ溶け出してゆき、特講に参加している人全体の集合的な意識の中に混ざり込んでしまう。心はしだいに色を失ってゆき、無感動になってくる。厳しい突き詰め合いの中でもまったく腹も立たないが、かといって今の状態が楽しかったり面白かったりするわけでは毛頭ない。
 精神的なエアポケットに落ち込んだように、心は支えを失い宙に浮いている。そしてほんの少しだけ力を加えてやれば自分の精神が全体のたましいの一部になりつつあることを、楽しいと思うこともできれば、不快と感じることもできそうな気がしていた。
 タケシはそれだけを感じながら、宙に浮いていた。
 そして、どれだけその浮遊感に身を任せていたことだろう。内心の声がかすかにささやいた。
「倒れよう。『陽』の世界へ」
 七日間の特講と一日の補習を終えたあと、タケシは絶えることのなかった〈明日〉を喰う虫からの信号が途絶えているのに気付いた。
 精神にこびりついていたたくさんの殻がポロリとはげ落ち、外気に触れたみずみずしい表面が律動を始める。自分を駆り立てていた坂道が傾斜を失い、踏み出す足の一歩一歩が落ちつきと安定にみちている。
 タケシはこれまでに体験したことのない解放感を味わっていた。と同時に、これまで自分のはまり込んでいた穴の姿を、思い浮かべることができるような気がした。
 大学への進学を拒否し、退路を断ったところで、ヨーコとの、そしてヒカルとの共和国づくりを夢みた。しかし、生きることの意味のすべてが、家庭にあるわけではない。
 手応えのある「今」をつかみとるために、自分を変えるのか、くさびを打ち込み社会を変えようと努めるのか。確かに何かを変えていかなければいけないに違いない。けれど何を変えるのか。変えるといって、どう変えるのか。
 その答えがさっぱり見つからず、焦りだけが心にやすりをかけていたのである。
「あなたが変われば世界が変わる」
 特講の中で与えられたこの言葉は、タケシの心に啓示として響いた。
 けっして腹の立たない人、常に零位に立ち研鑽しうる人――。そうした新しい人類に、自ら生まれ変わっていく。新人類は同時に、人間の持っている可能性をより幅広く開花させうるはずである。
「特講を契機として、確かに自分の中に変わりえた部分がある。こうした変化をたくさんの人の中に連鎖反応的に起こしていけば、世の中は変わるんじゃないか」
 タケシには、そう実感できた。
 調和のとれた争わない新人類たちによる社会、山岸のモットーである「われ、ひとと共に繁栄せん」という精神を体現した社会にいたる道が、見えるような気がしていた。
 特講から帰ったあと、タケシは自らが自分に対しても寛容となりうるのを感じとっていた。
「すべては、ここから始めればよい」
 タケシには、そう思えた。過去の選択を悔いることも、今ここに立っていることを焦ることもない。今ここにいる自分が、ただ始めればよいのだと。
 一九七四(昭和四十九)年、タケシが特講を体験したこの年の七月にタエコが生まれた。このころ、九州日本電気では、後藤富雄が草むしりと評価用キットの日々を過ごしていた。

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 特講体験からちょうど一年後、一九七五(昭和五十)年の一月、タケシは再び春日山を訪れた。
 研鑽学校に参加するためである。
 特講が初めてヤマギシズムと出会う人のための第一ステップだとすれば、研鑽学校は第二ステップといったところか。期間は二週間で半日は実顕地での作業、半日はテーマに沿った話し合い、研鑽会にあてられる。
 小高い丘を上ったところにある、山岸会の本部棟。特講の会場となる本部棟から二〇〇メートルほど離れたところに、研鑽学校の会場となる二〇畳ほどの広さの建物がある。このときの参加者は、タケシも含めて一〇人ほどだった。
 特講では、参加者にZ革命にいたる道が示されるのに対し、研鑽学校ではヤマギシズム社会の実現のためにどの道をとるかが問われてくる。現在自分が属している組織なり社会なりにとどまり、できるだけ多くの人を特講に送り込んで革命の主体となる個人を生み出し、革命への道を模索していくのか。それとも今すぐに実顕地に入り、革命を始めてしまうのか。
「最終的にはあなたはどうするのか」という問いかけが、二週間の労働と研鑽の日々を通じて行われる。
 実顕地に入り、今すぐに革命を始めることを、ヤマギシでは「参画」するという。ここでいう参画は、加わるあるいはあずかるといった弱いニュアンスを伝える言葉ではない。参画は革命の開始であり、ヤマギシズムの中心的な理念の一つである無所有の現実化である。
 参画して一体生活に入る人は、これまで築いてきた財産や自分の体、能力、そして子供も含め、いっさいを実顕地全体に「放」して所有することをやめる。
 自らの体と能力も所有物ではないのだから、自分の行う労働も自分のものではない。働いた時間の長短や仕事の種類、仕上がりの良し悪しなどで、受け取るものに差がつくわけではない。実顕地外の常識からいえば、すべての労働は「タダ働き」である。
 ヤマギシの人々は、実顕地を「金のいらない仲良い楽しい村」と称するが、事実実顕地内では金は使われておらず、全体が一つの財布で暮らしている。
 食事は一日に二度、食堂で食べる。日用品は「村のお店」と呼ばれる場所に置かれており、必要になればそこから取ってくる。実顕地外に出て旅行でもするとなれば、村では必要のないお金がいることになる。そんなときは生活の世話係となる総務にその旨申し出て、認められれば全体の財布から金が手渡される。
 実顕地には特定の固定的な指導者は置かないことになっており、世話係の総務も半年ごとに自動的に改選される。
 子供も親の所有物ではない。
 五歳までは親といっしょに暮らし、昼間は育児舎に預けられるが、六歳からは学育舎で子供たちによる共同生活を送り、親のところへは二週間に一度だけ帰る。
 研鑽学校で過ごす二週間の半分は、参画した人々と肩を並べての労働であり、期間中の食事は彼らと席を接して食堂でとる。いわばこの二週間は、革命への体験的参加といえようか。
 タケシはこの二週間を楽しんだ。
 だが、研鑽学校を終えても、参画しようという気持ちにはなれなかった。山岸会は自らを縛っていた焦りを断ち切ってくれ、変革への一歩を踏み出すヒントを与えてくれた。しかしこのときはまだ、タケシにとって山岸会はすべてをかける存在ではなかったのである。
 タケシに先だって研鑽学校に参加したヨーコにとっても、思いは同じであった。
 タケシは電話工事の仕事を続け、ヨーコは二人の子供を育てていた。
 一九七六(昭和四十一)年、タケシは二二歳、ヨーコは二三歳となった。この年の八月、日本電気からTK―80が発売された。

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 愛という、たよりない言葉がある。
 愛――。
 あるときはこの言葉の中に、人生のすべての扉を開く鍵が見えることがある。しかしその鍵をつかもうと腕を伸ばしたところで、何人がそれに触れうるか。触れたと実感しうるか。また、てのひらにその感触を得たとしても、それをいつまで持続しうるか。
 愛という言葉は何やら、自らの思いを込める箱のようなものなのかもしれぬ。
 灼熱した思いを注ぎ込んでいけばとてつもなく重くもなれば、栓が抜け落ちて注がれたものが失われれば、ちり紙のしわ一つほどの重みもなくなろう。
 その愛という箱に、何を注ぐのか。
 ふいに目の前に現われた壮大な白いキャンバスを前にした少年の、生きることへの恐れにもにた感動か。
 生命の律動の流れに沿った、性の灼熱か。
 浴びるほどアルコールを注ぎ込んでも溶け出さぬ、結晶化した執着か。
 すべり落ちる砂時計の砂の、一粒一粒を数える焦燥か。
 洗いものの最中、プロ野球放送に合わせて夫の上げる歓声の不快か。
 隣に並んだもう一本の歯ブラシ、その毛のだらしのない乱れか。
 洗い立ての下着の交差する繊維越しに浮かぶ、清潔な空虚か。
 ぼってりと重い布団にくるまれたような、繰り返しめぐる快感か。
 それとも、肌に刻まれたしわ越しに浮かぶ、配偶者への憎悪なのか。
 ヨーコは揺らぎはじめていた。
 愛という名の箱に押し込んでいた栓が腐食しはじめ、そこに注ぎ込んでいたものが徐々に漏れていくのを感じていた。
 そして、失われゆくものに代え、新しい何かをその箱に注ごうと思いはじめていた。
 ヨーコはその心の揺れを、タケシに「放」した。
 ヤマギシズムとは、一つの固定化した価値の枠組みを提供するものではない。むしろ安定に向かおうとする価値の枠組みをこわし、その時点時点で果たして何が真実であるかを問い続けようとする姿勢であろう。その思想的実践が、あらゆる前提を棚上げにし、零位に立って自らを調べなおす、研鑽と呼ばれる行為である。
 このヤマギシズムへの接近は、タケシに再生の感覚を与えた。おそらくはヨーコも、同様の感覚を味わっていたのだろう。
 だが、自らが解きえない問いを集団に「放」し、その場で調べなおしていくという方法を知った二人が、互いの愛を研鑽の俎上に載せることは、ともに修羅場に立ちそこで向かい合うことを意味しよう。
 愛、いやもう少し私の実感に引き寄せて言えば、性の淵に言葉を一つ一つ打ち込みながらもぐり込み、その奥底を凝視し続けるという作業ほど困難なものが、果たしていくつあるのだろう。
 山岸会の会員の資格は、どんなときにも腹の立たない人であるという。
 もしも私がヤマギシストたらんとして、かなりの局面で腹の立たない人でありえたとしても、性の淵を凝視するときに果たしてその資格を保ちえるだろうか。
 おそらくは性に関して、私は無所有という立場を守ることにもっとも困難を感じるに違いない。

       13

 一九七七(昭和五十二)年十一月、TK―80でベーシックを使うためのTK―80BS発売の直前、ヨーコは二度目の研鑽学校へ出かけていった。
 一度しか体験できない特講に対し、研鑽学校へは何度でも出かけることができる。
 二度目の研鑽学校へ向かうヨーコの心は、一度目のときよりもかなり変化していた。一度目には、たとえ参画するか否かを問われても、その道は選ばないだろうという予感があった
 だが二度目のこのとき、参画はヨーコにとってもう少し近かった。タケシとの離婚を考えていたヨーコにとって、参画によってタケシとの別離と革命のスタートを同時に実現する道は、かなり現実的に思えた。
 二週間の研鑽学校を終えたとき、ヨーコは二人の子供を連れて参画する決意を固めていた。春日山から帰ったヨーコは、お決まりの淡々とした口調で「私は参画するよ」とタケシに告げ「あなたはどうする」と続けた。
 ヨーコがその言葉に、別れの決意を込めたことは明らかだった。
 しばらくだまりこくったあと、タケシはつぶやいた。
「そんなら、僕も行くわ」
 ヨーコがすでに、愛という名の箱にタケシに向けた思いを保ちえないという事実は、タケシの胃袋に鉛を注ぎ込んだ。
 しかしそうであるにしても、いっしょに暮らしていくことがまったく不可能なわけではない。苦しくはあっても、タケシはヨーコとの生活を終わらせたくはなかった。
「たとえ最終的には別れることになろうとも、最後までしがみついてみよう」
 タケシはそう決意した。
 高校卒業の間近、ヨーコと結婚することを決意したとき、タケシは宙に浮いたままの自分がようやく確固たるものにつなぎとめられたような感覚を味わった。ヨーコとの二人の共和国づくりは、充分に手応えのある生きることの意味に思えた。
 今ここでヨーコと別れてしまうことは、タケシにとってそれ以来積み上げてきたことのすべてを失うことに思えたのである。
 翌一九七八(昭和五十三)年の三月いっぱいで、タケシは足かけ六年にわたって続けてきた電話工事の仕事をやめた。
 四月一日から二度目の研鑽学校に参加するとき、タケシは参画する意思を固めていた。二週間のZ革命への体験的参加を通じて、タケシの参画への決意はもう少し強固になっていた。もしかするとヨーコは参画の決意を翻すのではないか、という予感はあった。しかしたとえそうなったにせよ、タケシは参画を取りやめまいと考えていた。ヨーコが参画しないときは、要するに二人にとっての最終的な別れを迎えることになろう。とすれば、別離によって生じた精神の空白と向き合って生きるには、やはり参画してヤマギシズムによる自己変革の旅に出る以外ないのではないか。タケシには、そう思えたのである。
 春日山から帰ったタケシを、ヨーコは近くの喫茶店にさそった。
「私、参画やめるわ」
 目の前のコーヒーには手をつけようとせず、ヨーコはそう言った。
 予想しなかったことではない。だが、言葉の裏にある離婚の決意の固さは、タケシを刺した。しかしその痛みにも、ヨーコに伸ばした腕をタケシは離さなかった。
 研鑽学校から帰った翌日、タケシとヨーコは山口へ向かった。二人の子供たちは、タケシの母が見てくれていた。かつてヨーコを特講にさそった、高校教師夫妻を訪ねるつもりだった。二人では解ききれぬ問いを、「放」す場が欲しかったのである。
 夜更けまで、つらい「放」し合いが続いた。
 朝、目覚めたとき、ヨーコはいなかった。
「東京へ行ったよ」
 教師はそう答えた。
 タケシは新幹線に乗り、東京へ向かった。ヨーコが訪ねるだろう数人の友人は、タケシに思い当たった。
 東京で再会したとき、二人にはもう「放」すことも残されていなかった。京都から山口、そして山口から東京へと続いたあわただしい旅は、六年間二人で歩き続けてきた旅の終わりを確認するためにのみ必要だったのだろう。
「荷作りに帰る」というヨーコを、最後は九段下で見送った。
 市ケ谷から飯田橋へと続く堀端、靖国神社、そして武道館を取り巻く北の丸公園と、あたりは桜の名所である。だがタケシの目には、開きかけた桜と空の青とがひどく調子っぱずれに映った。
 生命の横溢を謳う春の華やぎが、タケシには残酷だった。心に生じた空白は、体重を何倍にも増加させたようだった。重い体を引きずって、実顕地に入る準備を始めようとするが、すぐに立ちつくしてしまう。
 タケシは数日、友人のアパートに転がり込んだままでいた。
 四月二十日、友人のアパートにヨーコからの電話があった。受話器を受け取ったタケシは、あっけにとられていた。
「私も行くことにした」
 ヨーコは確かにそう言ったのである。
 精神のジェットコースターに乗って、タケシは沈鬱の底から昂揚の高みまでを駆けめぐった。
 タケシの脳の神経回路は灼熱化しはじめていた。
 一九七八(昭和五十三)年四月三十日、タケシとヨーコはヒカルとタエコを連れ、ヤマギシズム生活豊里実顕地へと向かった。

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 全国に三〇か所あまりある実顕地のうち、春日山実顕地、北海道別海実顕地、そしてタケシたちの参画した豊里実顕地の三つは、群を抜いて大規模である。
 春日山から東へ車で四〇分、近畿自動車道伊勢線に沿った豊里実顕地――。
 一九六九(昭和四十四)年に設立した当初は、草ぼうぼうの荒れ地にわずか一〇人ばかりが住みついただけだったものが、タケシが参画した時点では、四〇〇人が一体生活を送る大集落となっていた。
 七ヘクタールほどの敷地には、鶏舎や牛舎、豚舎が立ち並び、ここで飼っている家畜をさばく肉処理工場、飼料の配合工場、実顕地内の建物を自前でつくるための木工場、鉄工場も用意されている。ここで暮らす人に割り当てられるアパート式の住まい、さらに食堂や共同洗濯場、五歳以下の子供を昼間預ける育児舎、六歳以上の子供が共同生活を送る学育舎などもこの敷地内にある。敷地外には借地も含めて約三〇ヘクタールの農地があり、野菜類や牧草などを栽培している。豊里では米作りは行っていないが、これも他の実顕地で作られたものが使われる。
「われひとと共に繁栄せん」と大書した看板に出迎えられたタケシとヨーコ、そして二人の子供は、この日、四〇万円ほど残っていたたくわえと自らとを豊里に「放」した。
 豊里での最初の夜は、外から訪れる人のために用意された客間で過ごした。
 翌日、六畳一間の住まいを割り振られた。
 どのような仕事を選ぶかは、総務の人事担当者に一任した。タケシは建設部に、ヨーコは肉処理部に配属された。
 昼間はヒカルとタエコを育児舎に預けて働き、夜は六畳一間に四人が集まる生活が始まった。
 豊里の朝は早い。
 建設部の人たちは、午前七時ごろには働きはじめる。だがタケシは、彼らよりももう少し早く起きていた。毎朝五時に起きて仲間より早く働きはじめることを、豊里での生活の取りあえずのテーマにしたのである。
 朝の早い肉処理の仕事についたヨーコも、タケシが目覚めるころに起き上がり、仕事場に向かった。
 ヨーコのさばくヤマギシの鶏の肉は、固く引きしまっている。ブロイラーのたよりない柔らかさとは遠く、歯ごたえがあり味が深い。
 山岸会結成のきっかけとなった山岸式養鶏法、その要諦は「鶏が鶏として生きる」道を探るところにあるという。
 山岸の鶏は、自らの足で自由に歩き回ることができる。
 現在の養鶏の常識では、鶏を歩き回らせることはただの飼料のむだである。ブロイラーは光の射し込まない真っ暗な鶏舎にぎゅうぎゅう詰めに「密飼い」され、運動不足によって太らせられる。採卵用の鶏は、針金で仕切られたケージに一、二羽ずつ押し込められる。
 それに対しヤマギシでは、ブロイラーも採卵鶏も、放し飼いに近い「平飼い」にされる。鶏舎は二五平方メートルずつに金網で区切られ、採卵鶏では一区画に一〇〇羽あまりの雌と四、五羽の雄を入れる。傲然と君臨する雄の胸の羽は、交尾を繰り返すためにすり切れている。
 ヤマギシの卵は有精卵であり、殻は固く黄味にははりがある。
 鶏舎の床にはワラが敷き詰められており、フンも積もるにまかされている。この保温効果により、暖房の必要がない。山岸式養鶏の別名は「ナマクラ養鶏」である。
 こうして生産された有精卵、食肉、牛乳、野菜などを、実顕地外での常識でいう「消費者」に「販売」することを、ヤマギシでは「活用者」に「供給」するという。これもまた、その他のヤマギシ語と同様、単なる言葉の言い換えではない。
 ものを「販売」する立場にあるものの究極の狙いは、どんな美辞をもって飾り立てたところで、とどのつまりは「いかにコストを抑え、それをいかに高く売るか」につきよう。逆に消費者の本音は「いかによいものをいかに安く買うか」である。また、その人が裕福であるなら、活用できる量には限りがあっても、金の続く限りはむだな消費を続けることはできる。
 そうした販売者と消費者との関係を脱し、「われ、ひとと共に繁栄せん」とする会旨を現実化したものとして、ヤマギシでは供給者と活用者の関係を位置づける。
 ヤマギシの生産物は、一般の流通ルートには流されない。全国に二〇数か所設けられた実顕地生産物供給所にまとめて輸送され、そこから活用者グループのまとめ役にとどけられ、最後に活用者一人ひとりの手に渡る。供給活動もまた、Z革命の一環である。
 早朝から働きはじめ、一度目の食事は午前十一時半ごろ、愛和館と名付けられた食堂でとる。実顕地では、一日を二食で暮らす。食事を終えてから午後いっぱい、さらに陽が沈んでからも、タケシは働き続けていた。ほとんど毎日、夜八時ごろまで、一日約一四時間あまりを働き通していた。
 実顕地の人々は勤勉である。
 働くよう強制されるわけではなく、事実、中にはほとんど働かない人もいるが、たいていの人は長時間の労働をこなす。しかしその中でも、タケシの働きぶりはすさまじかった。
 灼熱化した脳の神経回路は、タケシにすさまじい昂揚感を与えていた。
 ヤマギシズムによる自己変革、ヨーコとの関係の回復の鍵が、仕事の向こう側に見えるような気がしていた。とにもかくにも働き続けることで、その鍵をつかもうとしていた。
 その昂揚感の中で、タケシは考えはじめていた。
 熱を帯びた神経回路を、すさまじい勢いでパルスがめぐりはじめた。そのリズムに合わせタケシはなおも働き続けた。

       15

 タケシは考えた。
 新島淳良はなぜ山岸会を離れたのか。
 幸福学園の設立を呼びかける新島の講演や彼の著作は、タケシの山岸会への傾斜を強めた。一時期、新島は山岸会のイデオローグともいった機能を果たしており、彼の言葉に引かれて特講を体験し参画した若者も多かったのである。その新島は、タケシの参画する四か月前、実顕地を去っていた。
 豊里に入ってはじめて、タケシは新島が山岸会を去っていったことを知った。それはなぜなのか。彼の心に、どのような転換があったのか。
 タケシは考えた。
 山岸会の内部でなぜ派閥の対立があるのか。
 かつてタケシが特講に参加し、一度目の研鑽学校を体験したころ、山岸会に参画するには二つの道があった。一つは中央調正機関に申し込む方法で、ここには春日山と北海道試験場が属していた。そしてもう一つはヤマギシズム生活実顕地本庁に申し込む方法で、その事務所は豊里に置かれていた。この二つの方法に制度上の差がつけられているわけではなかった。だが、意識の上では歴然と差があった。
 中央調正機関が上または頭、実顕地が下または体と見られていたのである。中央調正機関に参画した人は、あらゆるものを投げ出す覚悟でZ革命実現のための実験を繰り返していく。そしてその実験によって得られた結論に従い、実顕地ではヤマギシズムによる幸福な生活を顕わしていく。
 タケシが参画したとき、この二つの方法は一本化されていた。一段下に見られていた豊里の実顕地派が主導権を握り、春日山と北海道試験場も実顕地に改められたのである。だが、春日と豊里の対立の根は残っていた。
 なぜ、理想社会を今ここから実現していくはずの実顕地内に、派閥の対立があるのか。タケシは、いくつかの仮説を立てていた。これは、春日の表わす父性的なるものと豊里の表わす母性的なるものの対立なのではないか。理想社会が父性原理によって貫かれるか母性原理によって貫かれるかが、今、争われているのではないか。あるいは、理想社会に一歩近づいた実顕地内で、善と悪の代理戦争が行われているのではないか。社会が次のステージに移ろうとするとき不可避に起こる闘争が、実顕地外の社会よりも一歩先を行くこの場所で起こりつつあるのではないか。
 タケシは考えた。
 実顕地内のさまざまな物事に目がとまり、それがきっかけとなって神経回路をめぐるパルスはますます加速された。
 自らも長時間働き続けながら、「楽だ楽だ」と言いながら働いている人たちが人間に見えなくなってきた。「彼らはロボットなのではないか」豊里の生活に根を下ろしたように順応して見えるヨーコも、タケシにはその一員に思えはじめた。
 参画している人が、実顕地外の人にとる態度にも、タケシは引っかかった。実顕地のよさや楽しさを強調するだけで、よいのだろうか。素晴らしさを訴え、参画を呼びかけるのなら、もっともっと理想社会の現実化を急ぎ、誰にとっても楽しい社会を用意しておくべきだろう。だが、今の実顕地に理想社会と呼ばれる資格があるだろうか。少なくとも自分がここでの生活を面白いと思わなければ、ここは自分にとっての理想ではないはずである。それは、自分に問題があるのか。それとも、社会に問題があるのか。
 タケシは考えていた。
 ヨーコと共通の友人の結婚式に出席するため、東京への旅行を総務に申し出た。だが、ヨーコに関しては認められたが、タケシに関しては認められない。それはなぜなのか。
 新島淳良と会って話そうと、東京行きを申し出た。だが認められない。それはなぜなのか。
 ヨーコが山岸会と出会うきっかけを作った教師と、会って話したくなった。山口行きを申し出て認められた。
 一人で山口に向かった。
 駅から外に出たとき、ふいにタケシを奇妙な感覚が襲つた。
 方向感覚の座標軸が一瞬に消失し、どこに次の一歩を出してよいのか分からない。
 六月の夏を予感させる鮮烈な太陽にあぶられ、熱く膨れ上がった大気の底で、タケシは立ちつくしていた。しばらくは、熱い空気が肺に染み込むにまかせたあと、タケシは脇を通り過ぎる人にようやくたずねた。
「僕は、どっちへ行ったらいいんでしょうか」

       16

 タケシは眠れなくなっていた。
 ほんの一、二時間、うつらうつらするだけで、それでも働き続けていた。小さなささやき声が、二四時間耳から離れなかった。
 ヨーコが病院に行くことを勧めたとき、タケシは素直に従う気になった。
 山口で立ち往生したとき、タケシははじめて「まわりから見れば狂っていると思われても仕方ないな」と感じていた。
 一九七八(昭和五十三)年六月二十四日、タケシは病院の門をくぐり、二日後に入院した。閉鎖病棟ではあったが、中での行動は自由だった。本を読み、麻雀や花札をし、卓球で体を動かす。
 タケシは、眠れるようになった。
 けれど、なおも考え続けていた。
 この病院は、戦場に設けられた避難所なのではないか。Z革命の実践される実顕地は戦場であり、戦場で傷ついた者がこの避難所に入って傷をいやす。そして再び、戦場にもどっていく。豊里とこの病院とのあいだでは、そうした有機的な連携プレーが行われているのではないか。
 だが、自分が戦場に復帰する日は、果たしてくるのだろうか。
 花札をしている最中、突如一連の言葉が頭の中で響きはじめ、繰り返し繰り返し続いていった。
 松、桐、坊主。
 まつきりぼうず。
 待つだけできりのない坊主、待つだけできりのない坊主――。
 一方で自分が傷ついていることを自覚しながら、タケシは自分の内にこれまでにはなかった新しい力が生まれつつある感覚を味わっていた。
 自分の心の中にあるものが、物質化してしまう。
 堂々めぐりしていた思考がふと途断えたとき、一瞬空の色が反転して見えた。空の色は反転したのか。いや、あれは自分が反転させてしまったのではないか。
 テレビのプロ野球中継を見ているとき、バッターボックスに立った選手に心の中で「クソ」と不快の舌打ちをくれた。するとその選手が、デッドボールをくらう。
 何やら未来の予知もできそうな気がする。
 そしてタケシはもう一度考えた。
 絶対に腹の立たない人を目指した自分に、心の中の怒りを物質化させてしまうような力を与えたのは、いったい誰なのか。
 七月十五日、いったん退院して豊里にもどった。
 実顕地中でみなが働いている音が、すべて聞こえてくるような気がする。あっちで、トントン。こっちで、ガサゴソ。どの音もけっして大きくはないが、はっきりと聞こえてくる。タケシはまた眠れなくなった。
 八月二日、再入院。
 病院にもどると切迫感は急にうすらぐ。
 三日には、中学、高校と同じだった友人が病院を訪ねてくれた。太宰治の小説と谷川俊太郎の詩集を受け取った。しばらく話し込んだが、もう一人の自分の目からも対応はまともに見えた。
 だが、二度目の入院によっても、自分の心にあるものが物質化してしまう感覚は去らない。
 二度目の入院のとき、豊里から少しヒビの入ったコップを持ってきた。患者の一人にそのコップを借してくれといわれ、何気なく手渡した。返されたコップには、何かしら相手の悪意が込められているような気がした。ヒビはいかにも奇妙に変質し、それによって相手は、己の力を誇示しているように思えた。
 タケシは、それに対して自らが腹を立てることを恐れた。怒りが物質化し、相手に災厄が及ぶことを恐れた。
 二度目の入院中、初めて死が心に浮かんだ。自分が存在していることそれ自体が、悪なのではないか。
 担当の医師は、豊里にもどることを勧めなかった。
 一九七八(昭和五十三)年九月一日、タケシとヨーコは豊里を出た。新堂から草津線で京都まで出、ひかり二五号で広島に向かった。
 レールの響きにまじって聞こえてくるささやきに耳を澄ませながら、タケシは考えていた。
〈もう、生きてちゃいけない〉
 心の中で断え間なくそうつぶやきながら、タケシは考え続けていた。

       17

 九月二日、悪魔の左手はタケシを救った。
 死の淵に渡した細い綱の上を、蝸牛のようにほんのわずかずつ進みながら、タケシは精神の灼熱感を冷ましはじめた。
 十四日、豊里にもどったヨーコから電話があった。ヒカルとタエコを連れ、実顕地を出て実家に帰るという。
 六年に及ぶヨーコとの暮らしが完全に終わったことを、タケシは初めて自分自身に受け入れた。
「早く働いた方がいいと思うよ」
 ヨーコは最後に、そう付け加えてから電話を切った。
 九月十六日。タケシは深更を過ぎても眠らなかった。時計の針が十二時を過ぎ、十七日に入った。だが、夜に区切りはない。
 ひっそりと寝静まったアパートの中で、タケシ一人が起きていた。
 狭い階段を上り、屋上に出た。
 二週間前、まだまだ夏の名残をとどめていた夜の空気に、秋の気配が入りまじっていた。
 屋上に腰を下ろし、空を見上げた。
 午前二時十六分、月はほんのわずか東側から欠けはじめた。
 午前三時二十二分、白く輝く月は、夜空から完全に消えた。
 だが、皆既食に入ったからといって、月がまったく見えなくなってしまうわけではない。夜空はずいぶんと暗くはなるが、大気のいたずらで月は鈍い赤銅色に見える。
 タケシは飽かず、赤銅色の月を見上げていた。
 午前四時四十四分、失っていた白い輝きを、月は東側から取り戻しはじめた。
 鳥がさえずりはじめた。
 午前五時五十分、月食が完全に終わったとき、タケシの熱は少しだけ冷めていた。
 職を探す気になった。職安で紹介を受け、経験のある電話工事の仕事を決めた。
 十月一日、最後の整理のために、豊里にもどった。「どうだい、もう一度ここでやれそうかい」と問われ「今はちょっと、できそうもない」と答えて、五か月の参画生活を終えた。
 電話局に新設や付け替えを申し込むと、まず電電公社から元請けに仕事がまわされ、そこから下請けの作業グループに仕事が割り振られる。下請けの値段は一件あたりいくらで、仕事の出来映えは現実のところ関係がない。作業の仕様は定められてはいるが、手を抜こうと思えば抜ける。
 タケシの入ったグループは、全員で六人。五年以上のキャリアはあったが、まずは先輩のやり方に従って働きはじめたタケシの目に、このグループの仕事の進め方はずいぶんと不思議に映った。
 手を抜くのである。
 本当は張り替えなければならない電話線をチェックしてどうにか使えそうならそのまま使ってしまう。そのままにしておけばトラブルの原因になりかねないものにも、平気で目をつぶる。
 そうした働き方、労働のあり方が、タケシには不思議だった。
 豊里での仕事は、「タダ働き」である。だがそこでは、生きることと働くことは、融合していたように思う。労働は生きていくために必要な金銭を得るための手段ではなく、それ自体が目的だった。だからこそ豊里の人たちは、タケシの目からはロボットのように見えたことも事実ではあるが、あれほど長い労働に自ら向かっていけるのだろう。確かに豊里にも、働かない人はいる。しかしそこには手抜きといったものはなかったように思う。
 タケシは、建設部のベテランの見事な仕事ぶりを思い出していた。
 豚舎のコンクリートの床には、微妙な勾配をつけて排水口に水が自然に流れ込むようにする。豊里に入ってそうそう、タケシはこてを使って床を仕上げていく人の見事な手並みに、しばらく見入っていたことがある。一つのリズムに乗って躍るように働き続けると、床が仕上がっていく。かすかな勾配を与えられて仕上がった床を見ていると、何やら排水口から床一面に、炎が広がっているように見えた。
 かつて大阪でやっていたときと一日あたりの件数はほとんど変わらなかったが、朝八時半に仕事を始め、ここでは五時ごろには上がりとなった。
 電話工事の仕事に移動はつきものである。街中を走り回っていることもあれば、郊外に出ることもある。
 最初ははっきりとそうは意識しなかった。しかししだいに、郊外に出ることに不安を感じている自分を意識しはじめた。緑が恐いのである。
 草が生い茂っている。妙に不安なくせに、そこに目がとまる。草のゆれ方がおかしい。何者かが自分の存在を知らせようと、意図的に揺らしているように思う。視線は奇妙に揺れ続ける草にはりついたまま、動かなくなる。そして、灰色の不安がこみ上げてくる。
 緑は豊里のイメージにつながり、そこでの苦闘を意識下で反芻することになるのだろうか。
 だが、確実に刻みはじめたおだやかな、いってみれば張り合いのないリズムは、タケシの熱をゆっくりと冷ましていった。タケシは考えることを意図的に避け、精神のおだやかさを回復することに専念した。
 しかし皮肉にも、心に負った傷が治癒しはじめるにつれ、タケシはそれを促進したおだやかではあっても張り合いのない生活のリズムを意識するようになっていた。いいかげんな仕事の進め方に対し、不快感が強まった。
 この生活のパターンを変えてくれる何かを求めはじめていた。

       18

 首都圏の若者たちは、休日、盛り場で友人にばったり会う、といった経験をするものなのだろうか。
 新宿があり池袋があり、渋谷がある。放っておくと体の躍り出しそうな若者なら、原宿の歩行者天国にでも出かけるのだろう。ちょっと気どって飲むとなれば、青山、六本木あたりか。本でも探すとなれば、神田の大型書店や古書街を訪ねることになる。
 そしてそのそれぞれが、かなりの規模の町であり、そこで待ち合わせてもいない同士がばったり出会うことなど、まずはあるまい。
 しかし、地方の都市では、ことは別である。盛り場はたいていは一か所だけで、そこに東京でならそれぞれの町に分散しているにおいがすべて集められている。そして休みになると、皆がそこを目がけて出かけてくる。
 広島一の繁華街は、東西に延びる一本の通りである。
 市電の革屋町駅で降り、本通りと名付けられたこの通りを東に向かって歩くと、パチンコ店や高級食料品店が目に入り、その並びにブティックや書店があり、パン屋のアンデルセン本店のはす向かいには、何と小さな古書店がある。
 雰囲気の異なった店が雑然と集まり、それぞれが独自のにおいを発しながら、アナーキーな活気を生み出している。
 本通りを東に歩いて突き当たると、人波は左に折れて、金座街と呼ばれる短い通りに流れる。ここにも、他の店の華やいだ雰囲気とは似つかわしくない小さな古書店が二軒ほどあった。
 本通りから金座街へと折れる通りを一、二度往復していると、学生たちはかなりの確率で同級生や友人と出会うことになる。
 タケシは、この盛り場にある三軒の古書店を覗くのが好きだった。値段はそれほど安くはなっていなくとも、人の手を通った本をもう一度開く感覚が好ましかった。値引きの原因になる汚れや書き込みも、気にならなかった。むしろ書き込みの文字には、興味が湧き、前に読んだ人の肌のぬくもりが文字越しに伝わってくるような気がした。
 新刊の書店が本を消費する場であるとすれば、古書店は本を活用する場に思えた。そのような雰囲気が好ましかったのである。
 一九七九(昭和五十四)年二月――。
 タケシはいつものように、古書店をひやかして歩いていた。
 三軒の中でもアカデミーという店は、自然科学系の本が充実していることで、タケシのお気に入りだった。
 何気なく棚を眺めているうちに、一冊の本が目にとまった。
 カバーははがれてしまっており、グリーンの表紙に『マイコン基礎講座』とある。
 手に取って開いてみた。A5判横組みの本で、著者は小黒正樹。
 一、二頁めくってみた。
「何をするのか」という文字が、目に飛び込んできた。
「『何をするのか?』をはっきりさせる。
 また、マイコンを勉強していく上で、何よりも大切なのは、『目標』を持つことです。マイコンを知らない人から、『マイコンで何ができるのか?』とよく聞かれるのですが、こう聞かれると、『何でもできる』と答えるしかありません。しかしこの問いは愚問というべきで、『何ができるのか?』ではなく『何をするのか?』が正しいのです。逆にいうと、私たちがマイコンに取り組む上で、『何をするのか』という『目標』を常に持っていることが大切なのです。」
「買おうかな」と思った。
 二か月ほど前、一九七八(昭和五十三)年十二月に初版が発行され、定価は一五〇〇円だったこの本をそのときいくらで買ったのか、タケシは今、覚えていない。

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『マイコン基礎講座』は、TK―80タイプのワンボードマイコンを対象として書かれており、他の機種への配慮も見られるものの、記述のほとんどは二年半あまり前に日本電気から発表されて爆発的なブームを呼んだTK―80を頭に描いて行われていた。
 タケシはこの本と出会うまで、マイコンなりパーソナルコンピューターなりの言葉には、ほとんどなんのイメージも持っていなかった。新聞や雑誌で、そうした文字を目にしたことはあったのかもしれない。
 しかし特講を体験して山岸会と出会い、新島淳良の幸福学園運動に共鳴し、ヨーコとの精神的格闘、そして豊里実顕地への参画にいたるこの時期、タケシの心にはパーソナルコンピューターは入り込んでいない。
 それまでにも、従来のコンピューター、つまりは大型コンピューターに対してなら、多少のイメージはあった。
 高校の自主講座では数学の教師が科学技術計算用の高級言語、フォートランの基礎を解説してくれた。京都大学の大学院で数理工学を専攻し、日本IBMに入社した従兄弟からも、何度かコンピューターの話を聞かされたことがある。
 だが、タケシの心の中で、コンピューターなる言葉は明るく響いていたわけではない。確かにコンピューターの自主講座には欠かさず出席していたし、従兄弟の話を聞いても純粋に知的には面白そうに思う。しかしコンピューターという言葉は、何よりも管理、支配といった言葉と結びついているように感じた。
 国民一人ひとりに特定の番号を割り振り、その人物にまつわるあらゆる情報を統合的に管理しようとする国民総背番号制。そうした情報の管理、それにもとづいた国民の支配を実現するためには、コンピューターの存在は不可欠である。
 そしてこのコンピューターはきわめて高価で馬鹿でかく、空調のほどこされた専用の電算機室に鎮座ましましている。そうした環境を準備しうるもの、タケシの目からは天文学的な金額を支払いうるもののみが、この道具を利用することができる。
 タケシにとって、そして多くの若者にとって、コンピューターは管理、支配の代名詞的存在であった。
 一九六四(昭和三十九)年にカリフォルニア大学のバークレー校で始まり、六〇年代後半の世界的な学生運動の源流となったフリースピーチ運動。この運動の中で生まれた替え歌の中には、大型コンピューターの代名詞的存在であるIBMが、まさに管理・支配のシンボルとして歌い込まれている。学生たちは「旦那、あんたの富などほしくない」のメロディーに合わせて、こう歌ったのである。
  IBMの機械がやみくもに与えてくれる
  マスエデュケーションなどほしくない
  ただ人間らしく扱ってほしいだけ
  精神の自由において
 コンピューター、その代名詞であるIBMは、替え歌の中で繰り返し繰り返し登場する。ベートーベンの第九のコーラスに、学生たちはこんな詞をあてた。
  学問のために学生を保護し
  彼らを上品に、清潔に保つ
  これこそ大学の存在理由
  IBMの機械に栄光あれ
 賛美歌一一一番「おお、来れ、すべての信ずる者」は、次のように改竄された。
  おお、来れ、すべての無思慮な者
  無分別な者、いくじなし
  おまえの正直をIBMに売り渡せ
 (以上三つは、『時代はかわる』新報新書「バークレーよりのうた」 マーウィン・シルバー著、久保まち子訳より)
 管理や支配といった言葉と強く結びついている、コンピューター。ところがどうだろう『マイコン基礎講座』の著者、小黒正樹はマイコンといえどコンピューターであるという。あまつさえ、マイコンで「何ができるのか」ではなく「何をするか」が問題であるとし、コンピューターに対して使う側が主体性を持つべきだという。
 タケシは小黒のいうニュアンスを即座には理解できないままに、読み進んでいった。
 TK―80の発表から二年四か月後、ワンボードマイコンのブームがいささか収まりかけた時期にこの本を出版した小黒は、いささか皮肉な仕掛けを凝らしていた。
「ある統計によると、売れたマイコンキットのうち実際にいま稼働しているのは、三割に満たない」と断ったうえで、マニュアルやカタログの問題点に触れ、マイコンの勉強法を一くさり解説し、具体的な内容には「マイコンよ目をさませ」と題して入っている。
 キットを買ってきて二、三か所火傷を負いながら、まずは組み立ててみる。しばらくはマニュアルに掲載されたプログラムのリストをキーから打ち込んで遊び、それからほったらかしにされたTK―80を目覚めさせようというわけだ。
 ねじ類を締めなおし、はたきで軽くほこりを払う。さらに絵を描くときに使う筆で、回路上の細かいところまでほこりを払っていく。はんだ付けをした箇所やビニール線の確認、次に電源をチェックしていく。
 動作がおかしいときの原因と対策もかなり詳細に書かれているが、続いて紹介されるこの本の最初のプログラムも面白い。
「マイコンのお目ざめプログラム」では、TK―80に付いている表示装置、七セグメントのLED上にまずは両まぶたを表示する。次にこれが三度目をパチクリさせたあと、右目でウインク。続いて「OHAYOU」の文字が一文字ずつ現われる。
 OHAYOU――。
 おはよう――。
 お早う――。
 タケシはマイコンなるものに興味を持ちはじめた。この本をむさぼるように読んでいった。
 意識下で、一つの言葉が響きはじめた。はじめはかすかに。そして次第に、強く、強く、強く。
 お早う!
 自分が強く引かれつつあるものを、タケシはうまく言葉で表わせたわけではない。ただ、「これで何かできるのではないか」というもやもやとした夢のようなものが自分の中で大きく膨らんでくる昂揚感には、確実な手応えがあった。
 何をやるかは、自分で考えればよい。
 タケシはこの道具が、自らの能力、自らの知脳を拡大してくれるのではないか、という、予感を抱くようになった。
 何か課題がある。すると、それを解決するための手順を、頭の中で組み立てる。普段ならその手順に従って、ほとんど無意識のうちに一つ一つの処理を自らの頭を使って行っていく。ところがコンピューターを使えば、勝負は手順の組み立てまでで終わる。
 これまで頭でやっていた一つ一つの処理は、すべてコンピューターに任せておけばよい。それこそ人間の頭とは比べものにならないスピードで、処理は進められていく。そして、〈魔法〉が演じられる。
 人間なら、同じ処理の繰り返しには必ず飽きてくる。同じ処理手順を何千回、何万回と繰り返すといった方法は、とてもとれない。少なくとも、とりたくない。何十年もかけて円周率を追いかけた中世や近世の数学者の労には敬意を表するにしても、その人生は魅力的とは思えない。ところがコンピューターと手を結べば、こうした消耗戦も苦もなくこなしていける。
 要するに、課題達成のための手段が、大いに広まったことになる。自らの組み立てた手順に従って処理を進めるという意味では、コンピューターは使う側の能力や知識を映す、何やら脳の知的な鏡といった性格を持つようだ。そしてこの鏡は、単に脳を映すだけでなく、その姿を何倍にも拡大してくれる。
 人間は、さまざまな道具を発明して、自らの能力を拡大していった。自分の足で走る代わりに馬に乗ることを覚え、馬車で人を運ぶ術を身につけた。生身の馬に代わって〈鉄の馬〉、汽車を発明し、自動車を生み出した。
 鋤や鍬を使って手の技をより有効に用いることを覚え、その延長上に数々の道具が生まれ、その最先端には今、ロボットが立つ。
 おそらくは文字の発明や各種の計算機など、脳の働きを強化する機能を備えた道具も、これまでに人間はいくつか手にしてきたのだろう。しかし、コンピューターは、それらとは桁違いの力を人間に与えてくれそうだ。
 タケシにはそう思えてきた。
 いまだ霧の中にかすんではいるものの、タケシはコンピューターの向こうに、新しい世界に通じる入り口が見えはじめたような気がしていた。
 人間の情報処理能力を飛躍的に増大させるコンピューター。この道具はおそらく人間それ自体をも変えずにはおかないだろう。ほんのわずかな情報処理能力しか持たないとき、人間の思考の枠組みはほんの貧弱なものとしかなりえない。さらにその枠組みに新しい情報がつぎつぎに取り込んでいかれないとすれば、枠組みは固定化した陳腐なものにならざるをえない。人は往々にして、狭小な想念に縛り付けられたまま生きざるをえない。だが、一人ひとりの人間が強力な情報処理の道具を活用できるようになれば、事情はかなり異なってくるのではないか。
 異なった意見を持った者同士のあいだで意思決定を行うさいも、それぞれが自分の意見に対して持っている思い込みの強さやそれこそ声の大きさによって決定が行われるのではなく、異なった意見を自分の枠組みに取り込み、より高い次元で意思を決定していく態度が定着していくのではないか。
「ヤマギシズムでいう『零位に立つ』という態度と、個人が情報処理の道具を駆使していく行為とはどこかでつながってくるのではないか」
 タケシにはそう思えてきた。
「あなたが変われば世界が変わる」
 かつて特講で受けた啓示が、タケシによみがえってきた。コンピューター技術を駆使して人間の持っている可能性をより幅広く開花させ、また常に零位に立ちうる人。そうした新人類に生まれ変わっていくことで、新しい世界へ一歩近づけるのではないか。一人ひとりの人間の持つそれぞれの求めにコンピューター技術を奉仕させることで、人間は次のステージの切符を手にし、そして社会も変わりうるのではないか。
 豊里を去り、一度閉ざされかけた〈明日〉への道が、タケシにはもう一度見えてきたような気がした。
 今やコンピューター技術は、個人が手を伸ばすことのできるところに確かに存在しているのである。
 かつてこの技術が国家や独占的な資本に占有されていた時代、コンピューターが管理・支配の代名詞となっていたのも当然だろう。なぜなら、そうした機構においてもきわめて貴重だったコンピューターは、その機構の目的にもっとも適合した形でもっとも効率よく使われることが不可欠だったからである。管理・支配を大きな達成課題とする機構にコンピューター技術が独占されている時代、コンピューターは管理・支配の強力な武器としてのみ機能せざるをえない。
 だが今や、独占の壁は崩れ去っているのである。もちろんこれ以降も、コンピューターは管理のための強力な武器としても機能していこう。しかしパーソナルコンピューターを通じてコンピューター技術に接近していくことで「少なくとも相手の手の内は知ることができる」とタケシは考えていた。
 それに何よりも、コンピューターは管理のための武器として機能し続ける一方で、個々人もこの道具を思い通りに使うことができる。今や、自分のどんな能力にも奉仕させることができるではないか!

       20

 タケシは『マイコン基礎講座』をノートを取り、書き込みを加えながら読み進んでいった。
 タケシにとって幸福だったことは、この本が『マイコン基礎講座』とは題しながら、かなりハードウエアに関して突っ込んだ内容だったことだろう。著者の小黒正樹はあとがきで「いままでマイコン入門用と銘打った本は数多く出ているのですが、たいていが広く浅くマイコンを紹介しているだけで、本当にマイコンを理解できるというものは少ないと思います」と語り、この本をまとめるにあたっては、「とかく嫌われがちな機械語に正面から取り組むことに留意した」と書いている。
 もしもタケシに、理科的な素養がなければ、おそらくはこうした歯ごたえのある本は、途中で投げ出していたのかもしれない。だが逆にそこまで突っ込んであることで、タケシは興味を引きつけられた。
 高校の自主講座でフォートランを習ったときは、何やら語学の勉強をしているような気分になった。こうした言葉で文法に従ってプログラムを書けば、コンピューターが働いてくれるという。しかし高級言語の使い方を身につけたところで、コンピューターそれ自体は相変わらずのブラックボックスである。
 ところがハードウエアにも大胆に切り込み、ハードと密接に関係した機械語を学ぶことで、タケシの中でコンピューターはしだいにブラックボックスではなくなっていった。ハードウエアとソフトウエアの境目、どこまでの機能がハードによって実現されており、どこからがソフトによっているかが見えてきた。「なるほど、これなら動くだろう」と実感できた。
 もちろん、エレクトロニクスにもコンピューターにも素人同然のタケシがどうにかこうにか『マイコン基礎講座』を読み進むことができたのは、著者の能力と細かな心配り、そして何よりもTK―80がコンピューターとして見れば超貧弱なマシンであったことにつきよう。
 この本を読み終えたとき、タケシはごくちっぽけなものながら頭の中にコンピューターの地図を描き終えていた。この地図をたよりに、遠くまで行きたくなった。

       21

 ものを所有したいという欲求を、タケシは久しぶりに味わった。
 豊里の実顕地に参画するとき、それまで持っていた本はすべて、近くの図書館に引き取ってもらった。それ以来、本もたまらなくなった。広島に帰ってからもかなり本は買ってはくるのだが、読み終えると感想を添えて友人にあげてしまう。小さな本棚にしばらくとどまるだけで、本はつぎつぎに消えていった。
 ところがTK―80は、たまらなく欲しくなった。広島市内にあった日本電気の電子デバイスの販売店に行ってカタログをもらってきた。
 本棚にも『I/O』『ASCII』、『マイコン』といったコンピューター雑誌だけは残るようになった。
 そして、学びたくなった。
 大学に行くことも考えたが、金銭的に難しい。職業訓練校の電子科でエレクトロニクスの基礎を学ぼうと思い、電話工事の仕事をやめさせてくれるよう頼みにいった。「もう少しやってほしい」と、強く引きとめられた。
 職があっては、職業訓練校に入るわけにはいかない。妥協案として、理数系の夜学を探した。広島には、コンピューターの専門学校しかなかった。取りたてて大型コンピューターに関して興味があったわけではなかったが、昼間は電話工事の仕事を続けながら、一九七九(昭和五十四)年四月から、専門学校に通いはじめた。
 授業は週三回、午後六時から九時まで。
 課目にはフォートランやコボルといった高級言語、ある仕事をコンピューターにやらせようとするとき手順をどう組み、機器をどう構成し、どのようなプログラムを作るかを組み立てていくシステム設計、それに経理絡みのタケシには唯一興味のないものもまじっていた。
 まずは、警察学校以来六年ぶりに味わう、授業そのものが新鮮だった。
 これまでにも『マイコン基礎講座』をきっかけとして数冊を勉強し、マイコン誌を読みはじめた。だがこうして授業を受けてみると、つくづく独学には限界があると感じる。
 一人で本を読んでいるときは目からしか入ってこなかった情報が、耳からも入ってくる。さらに、先生の話を耳で追いながら、引っかかったポイントを頭の中で発展させることさえできる。
 もちろんタケシが授業なるものにこうした感想を持ちえたのも、この時期、彼のコンピューターに対する傾斜がいかに強かったかを示しているのであろう。
 コンピューターを動かすためには、まず記憶装置にプログラムを読み込んでくる必要がある。ところが、このプログラムを読み込んでくるという動作も、じつはプログラムによって実現されている。では、そのプログラムは――ときりがなさそうに思えるが、こうしたコンピューターを立ち上げるための方法の一つに、ブートストラップと呼ばれるものがある。
 ブートストラップとは、一般には靴紐の意。最初に簡単な操作を行えば、あとは靴紐を引っ張ったようにずるずると一連のプログラムが読み込まれていく。
 タケシの通った専門学校には、沖電気のOKITAC4000というミニコンピューター――ミニといっても大型機に対してミニであり、まっとうなシステムである――があったが、ブートストラップの授業はこれを使って行われた。
 まずパネル上に並んでいるスイッチを上げ下げし、ごく短い機械語のプログラムを手作業で入れていく。次にこの機械語のプログラムを使って、プログラムを読むためのプログラムを入れる。その時点で、役目を終えた最初の機械語プログラムは消える。そして今度は読み込み用のプログラムが働き、高級言語と機械語とを翻訳するプログラムが入る。ここでもまた、お役ごめんとなった読み込み用プログラムは消えていく。
 これでこのコンピューターは高級言語を使えるマシンとして立ち上がる。
 水面を波が伝わっていくようなブートストラップのイメージをつかんだとき、タケシはある種の感動を味わった。
 この日、彼は日記にこう記している。
「今日のフォートランの授業は、ブートストラップの解説だった。頭の中の霧が、強い風を受けてすべて吹き飛ばされたような気分。スミズミまでが、はっきりと手に取るように見える。すごく面白くて、頭の右後ろ半分がさえわたっているような気がした」

       22

 自分だけのコンピューター、何に使ってもよいコンピューターを買おうと決意した人のほとんどは、しばらくはカタログを見比べながらああでもない、こうでもないと幸福な揺れを体験する。タケシも大いに迷った。
 夏のボーナスをあてて、パーソナルコンピューターを買うことを決めていた。最初はTK―80の価格を性能はそのままに一万円以上切り下げた、TK―80Eを買おうと決めていた。定価は六万七〇〇〇円。これに電源を付けたりカセットとのインターフェイスを付ければ八万円から九万円にはなる。
 ところが『マイコン基礎講座』を読み終えたあと、日本電気から新製品が発売された。
 TK―80とTK―80BSを組み合わせてケースに収めた、コンポBS。これにはカセットデッキの有無で二種類があり、付いている方で定価が二三万八〇〇〇円、付いていない方で一九万八〇〇〇円だった。
 さらに続いて、我が国初の本格的パーソナルコンピューターであるという「画期的な新製品」のニュースが飛び込んできた。
 TK―80でマイコンブームを巻き起こした日本電気の製品で、名前はPC―8001という。
 五月に東京で開かれたマイコンショーで発表され、大変な人気を集めたという話で、六月、七月のマイコン誌には、PC―8001絡みの記事が続々と出はじめた。
 こうなると、迷いのたねはつきない。
 基本的には、自分で組むところからやってみたかった。ただし、値段に対する性能の比、コストパフォーマンスを考えると、迷いが出る。TK―80Eが六万七〇〇〇円、TK―80BSが一二万八〇〇〇円で合計するともう、一九万五〇〇〇円になる。これに電源を付けることや記憶容量の大小を考慮すると、コンポBSも悪くない。
 さらに、PC―8001発売のアナウンスのあったあと、コンポBSの値引きが始まっていた。当時はパーソナルコンピューターに関しては、まったくといっていいほど値引きされなかった。ところが新製品発表ののち、コンポBSはカセットなしのタイプで一五万円まで値引きされた。
 PC―8001にも、魅力はあった。特にグラフィック関係は相当強力そうだし、一六万八〇〇〇円という価格も、かなりお買い得といった印象を与えた。けれどタケシは、もう少し機械語でコンピューターをいじり回してみたかった。コンポBSもベーシックが使えることは使えたが、まだ機械語のにおいがぷんぷん残っていた。さらに何よりも、PC―8001は当分手に入りそうにもなかった。発表直後から予約が殺到し、八月の時点で予約しても九月の発売時点ではとても手に入らない。早くても十二月だという。
 そこまではとても待てない。
 一九七九(昭和五十四)年八月、タケシは夏のボーナスをはたいて、コンポBSを買った。
 自分だけのコンピューターを実際に手にした人の多くは、しばらくは睡眠不足と付き合うことになる。まずはマニュアル首っぴきでとにかくキーボードを叩きはじめ、リストを見ながらプログラムを入れて実際に動くことに感動し、今度は自分なりのプログラム作りに頭をひねることになる。
 タケシの眼も、赤くなった。
 念願のグローブを買ってもらった子供が寝るときも枕もとに置いておくように、タケシもコンポBSの隣で寝た。
 自作プログラムへの初挑戦のテーマは、お絵かきソフトとした。コンポBSの記憶装置には、アルファベットや数字に加えていくつか記号が収められていた。ところがキーボードには、これに対応したキーがない。いわゆるグラフィック記号の中から、例えばハートを画面に出したいときは、プログラムの中でハートに割り当てられたコード番号を指定するしかなかった。
 そこで、キーボードからグラフィック記号を呼び出すプログラムに挑戦してみることにした。
 テレビ画面に出ている文字をクリアする。つまり消してしまうと、カーソルと呼ばれる明滅を繰り返す輝点が、画面の左上のすみの位置にもどる。本来なら原点にあたるこの位置から、カーソルは右方向と、下方向に動く。そこで、原点にもどったカーソルをさらに上の方向へ動かそうとすると、自動的にモードが切り替わってグラフィック記号を呼び出せるようにしようと試みたのである。
 このプログラムを、タケシは機械語と高級言語の中間的な存在であるアセンブリー言語で書きはじめた。ただしアセンブリー言語を機械語に翻訳するためのプログラム、アセンブラーは使えない。アセンブラーに代わって翻訳作業を行うのは自分自身。手作業の、ハンドアセンブルを進めていく。
 プログラムを書く作業、それは小さな自立性を備えた世界を自ら創り上げていく作業である。一つの達成すべき課題があるとして、まず求められるのはその課題を達成するための手順をつかむことである。コンピューターの世界ではアルゴリズムと呼ばれる課題達成のための手順をつかみ、次に一つ一つの手順を実現するためにプログラミング言語で手順を記述していく。
 だが、プログラミング言語で記述された小さな世界に生命を吹き込んでいく作業は、そう平坦なものではない。言葉の綴り誤りや文法上のミス、さらには手順の流れに穴があいているなどの欠陥によって、小世界はなかなか動きだしてはくれない。バグ(虫)と呼ばれるミスを取り除いてはじめて、プログラムは動きだす。しかしそれでもなお、どこかに隠れている手順の穴に落ち込み、流れが止まったり乱れてしまったりする可能性はある。
 タケシはコンポBSのキーボードを叩き、テレビ画面をにらみながら、デバッギングと呼ばれる虫取りの作業に夢中になっていた。自分の創り上げた小さな世界から、一つ一つ夾雑物を取り除いていく。すると、これまで生命を持っていなかった世界から鼓動が聞こえはじめる。
 自らの頭脳の延長上に新しい世界を築き、そこに生命を吹き込む。タケシはこの作業を、真底楽しんだ。築き上げられ、生命を吹き込まれた世界を、心から美しいと感じていた。
 週三回、専門学校で学ぶことをフォローしていくには、家でかなり自習する必要がある。それに加えてコンポBSとは、遊びたい。このときは正直、電話工事の仕事が手抜きゆえに早く終わるのがありがたかった。
 専門学校は、四月から九月までの六か月間続く。卒業が近づいたころ、何かコンピューター関係の仕事を紹介してもらえないかと教師に頼んでみた。就職斡旋の制度はなかったが成績がずば抜けてよかったせいもあるのだろう、大型コンピューターのオペレーターの仕事を紹介してくれた。
 一九七九(昭和五十四)年十月、タケシは電話工事の仕事をやめ、オペレーターとして働きはじめた。
 オペレーターが実際やる仕事のほとんどは磁気テープや磁気ディスクの交換など、単純な作業である。コンピューターに関する知識が皆無では困るが、それほど頭を使う必要はない。長時間、機械にへばりついている必要はあるが、基本的には待ちの仕事である。
 だがタケシは、オペレーターという仕事を大いに活用した。機械にへばりついている時間のほとんどを、勉強にあてたのである。
 タケシの派遣された会社では、これまで使っていた機械をIBMの新しい中型機、4331に置き換えるため、人員をそちらにまわす必要があってオペレーターを補充していた。その新しい機械に付けられた膨大な教育資料が、格好のテキストとなった。
 大型コンピューターを実際に使い、そして学びながら、パーソナルからコンピューターに出合ったタケシは面白い発見をしていた。
 こと使い勝手に関しては、パーソナルコンピューターの方がよほど気が利いており、上なのである。
 大型コンピューターの代表的な入力方式である、パンチカード。IBM仕様の八〇桁のカードに、穿孔機のキーボードを叩きながらガチャガチャ穴をあけていく。これをコンピューターに読ませることになるのだが、一つでも穴をあけ間違えるとカードごとおじゃん。最初から、カードを作りなおすはめになる。
 パーソナルコンピューターでは、テレビ画面を見ながら間違った文字をスクリーン上で直すことは常識である。
「パーソナルコンピューターでできることが、なぜ大型機でできないのか。ある面では大型は遅れてるんだな」と思う一方で、タケシは大型とパーソナルとの「文化」の違いとでもいったものを感じとっていた。
 パーソナルコンピューターの原点は、きわめて能力の低いそれこそ超貧弱マシンである。しかしその原点から出発して、パーソナルコンピューターは、使う側がこうあってほしいという方向に進歩してきた。それに対して大型機はこれまで、使う側が機械に合わせること、つまりこうあらねばならぬことを求めてきたのではないだろうか。
 パーソナルでコンピューターと出会い、それから大型の世界を知るという逆コースをたどったタケシには、もう一つ気になる言葉があった。
「端末」である。
 タケシにはどうも、この言葉に違和感があった。いつまでたっても、この言葉に慣れなかった。自らこの言葉を使いながらも、口にするたびに心の奥で引っかかるものがあった。
 端末、つまりは大型コンピューターを中心としたシステムに、情報の入出力を行うための装置。身近なところでは、銀行の現金自動支払機や国鉄のみどりの窓口にある装置などがこれにあたる。中央に主コンピューターが置かれ、各端末は通信回線を通じてコンピューターに接続されており、ネットワーク化されたシステムが、効率よく業務をこなしていく。
 この端末には、二種類がある。一つは、それ自体は入出力の機能しか持たない、比較的単純なもの。そしてもう一つが、端末それ自体も多少の情報処理機能を持つ、インテリジェント端末と呼ばれるものである。
 そして、もともとはそれ一台で独立して使われていたパーソナルコンピューターも、高度情報化社会に向かってコンピューターのネットワーク化が進むと、インテリジェント端末として使われる機会が多くなるという。
 しかし、コンピューターのネットワーク化が進みつつあり、今後それにいっそうの拍車がかかるのは当然としても、果たしてそれはパーソナルコンピューターを端末という性格におとしめ、それだけに役割を限定させるものだろうか。
 端末という言葉には、あくまでもシステムに奉仕するもの、という響きがついてまわる。端末は、課題を達成するうえで必要なときだけ機能すればよいわけで、端末が勝手な処理を行ったり、端末同士がムダなおしゃべりを始めたりすれば、システム全体の効率を損なうことになる。
 そしてもし、パーソナルコンピューターが端末としての性格を強めていくとすれば、それは社会全体のシステム化、つまりは管理化が進んで、社会全体として達成すべき課題が狭い範囲に絞り込まれたときではないか。パーソナルコンピューターが端末として強く機能する社会、タケシにはそれが、個々人の統合化が進んだ全体主義的な社会に思えてならなかった。
 だが果たして、社会はそうした方向に進んでいくのだろうか。
 たとえば、現在高度にネットワーク化が進んだものとして、電話がある。この電話は、果たして端末だろうか。
 ある一つの組織がある課題を達成するために電話を利用している場合に限れば、電話は端末として機能することになろう。ただし、電話の性格はそれだけではない。私の目の前にある電話は、私の気まぐれな求めに応じて日本国中、世界中とつながってくれる。そして私は、電話を通じてさまざまな情報を得ることができる。親しい人の声を聞くという、純粋な楽しみのためだけに利用することもできる。
 電話は、端末として機能することもある。しかしそれは、もっと幅の広い存在である。個人にとって電話とは、世界に向けて開かれた窓である。
 そして、コンピューターのネットワーク化が進んだとき、パーソナルコンピューターもまた、個人にとっては世界に開かれた窓として機能するのではないか。そしてこの窓は、電話のそれと比べればはるかに強力な存在となることは間違いない。この窓を通じ、人ははるか彼方までを見通すことができよう。そんなとき、この魅力的で強力な道具を、人は端末などといういかにも何かの従属物といったイメージを持った言葉で呼ぶだろうか。
 タケシにとって端末とは、「こうあらねばならぬ」コンピューターのイメージにつながっていた。彼はパーソナルコンピューターに、世界に開かれた窓として機能してほしかった。
「こうあってほしい」コンピューターと「こうあらねばならぬ」コンピューター――。タケシは職業としても、「こうあってほしい」コンピューターにつきたくなった。
 オペレーターとして働きながら勉強を続けていく一方で、パーソナルコンピューター上でのソフトウエア開発の仕事を探しはじめた。
 一九八二(昭和五十七)年三月、ソフト開発の仕事を決めてタケシはオペレーターをやめた。
 しばらく前から山岸会の実顕地生産物供給所に顔を出していたタケシは、新しい仕事を始める前にもう一度ヤマギシズムに向き合う気持ちになっていた。春日山を訪れ、三度目の研鑽学校を体験した。
 タケシは今、日本電気のパーソナルコンピューター、PC―9801のキーボードを叩きながらプログラム作りを職業とし、ヨーコはヒカルとタエコとともに豊里にある。
「晴耕雨コンピューター」
 それが現在のタケシの夢であるという。

    

    

第一部 おわりに

 この本の冒頭で、次のように書きました。
「裏返していえば、挫折と沈滞を余儀なくされていた一つの時代精神が、パーソナルコンピューターという革命児を生み出したのではないか。少なくとも、生み出す一因となったのではないか」
 こうした思いを抱くようになったきっかけは、一つではありません。何人かの友人の生き方や目にした記事、耳にしたエピソード――。そうしたものの中から一つ、代表的なパーソナルコンピューターメーカーであるアップルを友人のスティーブン・ウォズニアックと創設し現在は同社の会長におさまっている、スティーブン・ジョブズがこの革命児に出会うまでの道のりを紹介しましょう。
 彼も、タケシ君と同じく一九五四年生まれです。
「ジョブスも、もうこの頃には、ウォズと同じように、エレクトロニクスといたずらが何よりも好きになっていたのだ。だが、天性の陽気さを持つウォズと違い、そのいたずらはときとして、手のつけられない反抗となることもあったようだ。ナイーブな感性は、強烈な個性とともに、激しい敵愾心をさらけ出すこともあった。一九七二年、ジョブスはホームステッド高校を卒業した。過去を語りたがらないジョブスではあるが、その夏、彼はサンタクルーズの小さな山荘でガールフレンドと共同生活をしたことを告白している。彼にとっては、かなり真剣なものだったようだが、結局、若い二人は夏の終わりとともに別れてしまう。ナイーブな内面を持つジョブスにとって、このときの精神状況がその後の人生に少なからぬ影響を与えているように思える。
 秋になって、ジョブスはオレゴン州のリード大学に進んだ。彼は、リード大学以外どこへも行きたくないと言っていたが、結局は一学期間しか通わなかった。彼もまた、アカデミズムを嫌い、一九七〇年代のアメリカ社会に対してある種の疑問を抱いていたのだろうか。それから約三年の間、ジョブスの放浪が続く。
 彼はエレクトロニクスを忘れ、キャンパスをさまよいながら、七〇年代の始めの社会的混乱と六〇年代の高揚した若者のエネルギーの頂点といえるウッドストックのコンサート以降、急速に衰退していた若者文化の迷路の中で、タオイズムに傾倒したり、暝想にふけったり、果てはLSDにも手を出し、ヒッピーまがいの暮らしに浸っていた。一九七四年、ジョブスはロスアルトスに帰り、当時シリコンバレーでは注目されていたアタリ社に入社する。何か心をつき動かすものが欲しかったのだろう。アタリ社は活気にあふれ、かなり自由な会社だったが、ジョブスはここでも周囲の環境にあまり馴染めなかった。
『エンジニアたちはジョブスを生意気な男だ、と思って嫌っていたようだ。そして昼間一緒に仕事をするのはご免だから、夜遅く来るように、などと言っていた』と、当時を知る元同僚は語っている。ジョブスは、アタリ社でやっている単なるビデオゲームには飽き足らぬものを感じていた。自分が打ちこむのはこれじゃない。だが、ジョブスが確実につかみとっていたものがある。アタリ社の創設者、ブッシュネルのシャープなビジネス感覚と、マイクロコンピュータの可能性だ。わずか数か月間しか在職しなかったが、ジョブスの中にはある種の手応えがあった。
 彼の中では、何かが起こり始めていた」
(『 Two Steves & Apple 』旺文社)
 パーソナルコンピューターとは何の関係もないと思われるのであろう、山岸会について長々と書きました。
 それは、スティーブン・ジョブズをタオイズムや暝想、LSDへ接近させたものとタケシ君をヤマギシズムへ接近させたもの、そして彼ら二人をパーソナルコンピューターへと向かわせたものが、根において一つなのではないかと考えたからです。
 今現在は実現されていない世界、言い換えれば彼岸にいたる道を自前で切り拓こうとする根本の精神において、彼らを動かしていたものは同じだったと思います。
 けれど見方を変えれば、そうした彼岸への希求を強く備えた人物は、現在の社会にとっては逸脱者です。現在の社会の枠組みからこぼれ落ちようとする、あるいはこぼれ落ちてしまった人間です。
 一九六〇年代後半から七〇年代前半にかけて、アメリカやヨーロッパ、そして日本で巻き起こったスチューデントパワーの動きは一面でこうした逸脱者を大量に用意する機能を果たしたのではないでしょうか。社会の枠組みを大きく揺さぶり、潜在的にはかなりの可能性を秘めた一群の逸脱者たちを用意しておく。そうした逸脱者の畑に、革命の種が落ちる。この畑が豊かであれば、種は急速に生長し、大きな花を開かせることになるのかもしれません。
 何やらわけの分からない、海の物とも山の物とも知れぬ存在に飛びついていくのは、退路を断たれ、行くあてのない決死の人たちだけでしょう。
 しかし一人ひとりの逸脱者たちにとって、その道のいかに険しいことか。もちろん私は、パーソナルコンピューターだけが彼らのリターンマッチの戦場であったなどというつもりはありません。リングはいろいろなところに用意されているのでしょう。しかしそれにしても、そうした逸脱組の中で自らのリターンマッチのリングを発見したものがどれくらいいるのでしょうか。
 不断に逸脱組を生み出し、そうした連中をかなりの割合でもう一度取り込んでいく。その取り込みによって社会自体も変化していく。そうした回路が機能しているとき、社会はかなり柔軟で強力たりうると思うのですが、現実には逸脱組の多くはついにリターンマッチのリングを発見しえない場合の方が多いに違いありません。退路を断たれたままの、憤死です。
 これも冒頭で、「パーソナルコンピューターの誕生は一つの革命だった」と書きました。
 現在まだ進行中の革命の本質を見抜き、それに言葉を与えるほどの力は私にはありません。ただ思いつきを述べることを許していただけば、これはコンピューター技術に対する人間性の主体性獲得運動なのではないか、という予感はあります。
 パーソナルコンピューター誕生のための基礎技術として、マイクロコンピューターは不可欠です。しかし、マイクロコンピューターが作られたことによって、トコロテンでも押し出すようにパーソナルコンピューターが生まれたわけではありません。もともとは別の用途のために作られていたものと、すでにあった技術を組み合わせ、パーソナルコンピューターは超貧弱マシンとして誕生し、そこから発展してきました。
 パーソナルコンピューターの革命は、技術の革命というよりは発想の革命、テクノロジーに向き合う態度の革命だったのでしょう。
 それまでもっぱら工業的な側面で使われてきたコンピューター技術を、全体性を持った人間に奉仕する存在に変革する。文化に奉仕する存在に変革する。
 そのためにパーソナルコンピューターにかかわったすべての人が、コンピューター技術に一鞭くれたのだと思います。
 ただし新しい発想の芽が社会に花開く過程は社会への取り込みの過程であり、スタート時点で備わっていた印象が色あせていく過程でもあります。
 大型コンピューターのメーカー、特にその中でも世界市場を独占的に押さえていたIBMなどでは、最初は歯牙にもかけなかったパーソナルコンピューターが急成長していくのを見て大変な危機意識を持ったのではないかなどと、私はついいらぬ邪推をしてしまいます。ところが今、そのIBMが、パーソナルコンピューターの分野でも大きなシェアを占めている。そしてIBMがパソコン市場への参入を狙って打ち出してきた機械では、まず大型コンピューターの端末として使える、要するにシステムに奉仕できるという点が、他機種との差別化のポイントとしてアピールされた。さらにIBMはパーソナルコンピューターに関しても幅広いラインナップを固めつつあり、この領域でも大型機ばりの独占に向かって着実に前進しつつあるように見えます。
 けれどもう一方からいえば、あのIBMがパーソナルコンピューターを作らざるをえないこと、一台売れば莫大な利益を生む大型機の世界だけにとどまっておれず、利幅のちっぽけなパーソナルの世界に踏み出さざるをえないことにも注目すべきでしょう。確かにパーソナルコンピューターの領域でもIBMの独占が進むことには大きな危惧を感じます。これまでのところ、IBMは私から見れば、パソコンの文化に何ら新しい寄与をしていないように見えますし、そうした企業が強力な資本力と販売力を武器にこの領域を独占してしまえば、また新たなる壁が生まれてくるでしょう。ただし、もう、コンピューター技術の独占時代は去ったのです。
 また、文化に奉仕するコンピューターの側でもいくつか成果が生まれています。
 ゲームや音楽へのコンピューターの利用、これはもっともっと、歴史的に見て評価されるべきではないでしょうか。私自身はスペースインベーダー以来はそれほどゲームに入れあげているわけではありませんが、ゼビウスというゲームの造形的な美しさには本当に感心します。コンピューターを使ったゲームは、おそらくは新しい芸術分野、ストーリーと造形、そして音楽とがミックスされた新領域として発展していくでしょう。
 また、アップルのマッキントッシュと名付けられたパーソナルコンピューターにも個人に奉仕するためには何が必要かという哲学(そのルーツはゼロックス社のパロアルト研究所にありますが)が現われています。
 また、こんなことも言えるでしょう。
 鶴見俊輔さんは『本の雑誌』第三八号で行われたアンケート、「なぜか怒りの秋なのだ」に実に鋭く答えられています。このアンケートは、活字とその周辺について何か腹の立つことはないかと問うたものなのですが、それに鶴見さんは「他人の頭をなぐる道具として本を用いることには腹が立ちます」と答えておられるのです。
「頭をなぐる道具としての本」とは、いったいどんなものでしょう。鶴見さんは、そうした本の使い方をこうおっしゃいます。
 誰かの本、たいていは欧米人の著作を読んで1何かに感心する。2次に、それに感心しないものはバカだと考えてそう言う。3自分の感心した本の感心したところとちがう思想の持ち主を、非難する。
 これが、人の頭をなぐる本の使い方です。
 鶴見さんにならって最近腹の立つことをあげさせてもらえば、他人の頭をなぐる道具としてコンピューターを使うこと、いやさらに、人を脅す道具としてコンピューターを使うことには腹が立ちます。
 こうしたコンピューターの使い方は、残念ながらパーソナルコンピューターが急速に普及していく過程でもずいぶん見られました。ベーシックを覚えなければ、これからはサラリーマンとしてやっていけないといった脅しは、ほこりをかぶったままのパーソナルコンピューターを生み出すのに、かなり役に立ったことでしょう。
 最近のテレビコマーシャルで、竹村健一さんが登場して、これからの企業はD3Cが重要でありそのなかでも特にコンピューターがポイントとなる旨を宣言なすってから、「分かる?」といかにも人を脅すように(被害妄想といわれるかもしれませんが、私にはそう聞こえます)付け加えられるものがあります。
 私はこのコマーシャルを見るたび、かなり目にしているにもかかわらず、画面にスリッパを投げつけたくなります。
 脅されて、強いられて踏み込まざるをえないコンピューターの世界など、当人に何の喜びも与えることはないでしょう。そんな世界からは、逃げまくるに越したことはありますまい。
 ただしコンピューター技術に関しては素人の私が、大変大ざっぱにではあってもコンピューターをめぐる環境が進んでいってほしい方向に口をはさめるということは、そのピントが合っているかいなかは別にしても、やはりパーソナルコンピューターの革命による成果の一つなのではないでしょうか。もしも、超貧弱マシンを原点とした革命が存在しなければ、コンピューターを他人の頭をなぐる道具に使うという行為は、もっともっと効果的に、巧妙に、そしてコンピューター技術の独占者たち自身もそうとは意識しないうちに行われていたに違いありません。
 そして、パーソナルコンピューターの革命に関して学ぶべき最大のポイントは、テクノロジーなり科学なりに対し、それが何に対して奉仕するものなのかを検証し、地球に生きる一人ひとりの人間にとってプラスとなる方向に、鞭をくれてやるという態度ではないでしょうか。
「テクノロジーよ、人に向きなさい」
 科学技術がかつてない勢いで急速に進歩している現在、我々は何度でもこの言葉を繰り返す覚悟を固めるべきなのだと私は今、考えています。

    

    

第一部 あとがき

 漢字プリンターで打ち出された校正紙を、ようやく読み終えたところです。
 日本電気内の動き、そしてタケシ君の足跡。この二筋の道が果たして交差しえたか。まったく関係のない二つを私自身の強い思い込みによって強引につなごうとしたのではないかと恐れますが、本人にはもうそこを客観的に判定することはできなくなっています。ここまで読み進んでくださった皆さんの一人ひとりに、判定を仰ぎます。
 こうした角度からパーソナルコンピューターについて考えなおしてみるきっかけを与えてくださったのは、東海大学出版会の西田光男さんです。西田さんによる啓示を受けて『科学サロン』に書いた原稿用紙四枚ほどの拙稿が、この本の基になりました。
 第一章の「誕生! 超貧弱マシン」は、『アスペクト』誌一九八五年二月号に「企業内ベンチャーの先達たち」と題して発表したものを全面的に書きなおし、補いました。日本電気の取材に際しては『アスペクト』編集部の岡本聖司さんに大変お世話になりました。取材に応じてくださった日本電気の大内淳義、渡辺和也、永尾守正、後藤富雄、加藤明、土岐泰之のみなさんにも、あらためて感謝いたします。
 田原総一朗さん、『アスペクト』誌副編集長の鶴岡雄二さんからは、ほんの短い会話の一つ一つを通して数多くの示唆を受けました。社会の枠組みからの逸脱と取り込みという考え方は、広島大学総合科学部助手の杉本厚夫さんに示唆していただきました。
 常に一番目の読者として容赦のない叱責と励ましを与えてくれた富田晶子さん、叱責と励ましに加えてアルコールを浴びせてくれた旺文社の椛田敏彦さん、この二人の協力を得てようやくここまでたどり着くことができました。
 それにもまして何よりも、心の傷に踏み込むような質問に言葉を一つ一つ選びながら答え、長時間にわたって私とともにパーソナルコンピューターについて考える作業を続けてくれたタケシ君に、何よりも何よりも感謝いたします。

 一九八五年二月一日

    

    

第一部 参考文献

『I/O』 一九七六年十一月号〜(工学社)
『阿Qのユートピア あるコミューンの暦』(新島淳良著、晶文社、一九七八年)
『晨の村から』(ヤマギシズム出版社編集部編、ヤマギシズム出版社、一九八二年)
『ASCII』 一九七七年七月号〜(アスキー出版)
『インターフェース』 一九七七年十月号(CQ出版)
『インティメイト・マシン――コンピュータに心はあるか』(シェリー・タークル著、西和彦訳、講談社、一九八四年)
『エレクトロニクスからの発想 ある技術の軌跡』(菊池誠著、講談社、一九八二年)
『けんさん』 一九八一年九月二十五日号(ヤマギシズム出版社)
『さらばコミューン ある愛の記録』(新島淳良著、現代書林、一九七九年)
『しかし』 一九六九年十二月五日号〜
『時代は変わる フォークとゲリラの思想』(室謙二編、社会新報、一九六九年)
『図解マイコンの基礎知識』(矢田光治著、オーム社、一九八〇年)
『Z革命集団・山岸会 その理論と行動』(山岸会文化科編、ルック社、一九七一年)
『断絶への航海』(ジェイムズ・P・ホーガン著、小隅黎訳、早川書房、一九八四年)
『 Two Steves & Apple 』(プロデュース・センター2編、旺文社、一九八三年)
『パソコン誕生』(太田行生著、日本電気文化センター、一九八三年)
『ビートルズ ラブ・ユー・メイク』(ピーター・ブラウン/スティーヴン・ゲインズ著、小林宏明訳、早川書房、一九八四年)
『PLAYBOY』 一九八五年三月号(集英社)
『本の雑誌』 第三八号(本の雑誌社)
『マイコン・ウォーズ』(田原総一朗著、文藝春秋、一九八一年)
『マイコン基礎講座』(小黒正樹著、廣済堂出版、一九七八年)
『マイコン入門』(大内淳義著、廣済堂出版、一九七七年)
『マイ・コンピュータ入門』(安田寿明著、講談社、一九七七年)
『ヤマギシズム幸福学園 ユートピアを目指すコミューン』(新島淳良著、本郷出版社、一九七八年)
『私の見たヤマギシカイ』 野本三吉/野坂昭如/足立恭一郎/鶴見俊輔/真木悠介著、山岸会)

    

    

第二部 序章 パーソナルコンピューターの誕生
一九七二 彼方のパーソナル・ダイナミック・メディア

胸の底にふっとぬくもりが兆すのを感じて、後藤富雄は目を閉じた。
 小さなろうそくの炎を両手をかざして守るように、開いたままの雑誌にてのひらをあててみた。読み終えたばかりの「パーソナル・ダイナミック・メディア」と題した論文を包んでいる柔らかな気配が、両手を通してさらさらさらさらと胸に流れ込んでくる。
 後藤はそのまま、あたたかな気配がゆっくりと内にみちてくる心地よさに身を委ねていた。
 一九七七(昭和五十二)年、初夏。
 勤務先の日本電気玉川事業場にあった中央研究室の図書館でコンピューターの雑誌をめくっているうちに、後藤の目が奇妙なタイトルの論文に止まった。流行のメディア論でも扱っているような表題は、アメリカ電気電子通信学会(IEEE)発行の『コンピューター』という専門誌には似合っていないように思えた。
 タイトルの脇に添えられている挿し絵も、かなり変わっていた。
 ベレー帽をかぶった絵かきが画面に向かって親指を立て、構図をとろうとしている。計算機と芸術家という取り合わせが、後藤には少しいぶかしく思えた。
 だが何気なく読みはじめた論文の数行に、好奇心の針が鋭く振れた。
 コピーを自宅に持ち帰り、英和辞典片手に一気に読み終えたとき、後藤はこの表題にもそしてこの挿し絵にも、素直にうなずくことができた。
 
 ゼロックス社のパロアルト研究所に籍を置くアラン・ケイとアデル・ゴールドバーグという著者は、人が何かを生み出すための新しい道具を作ろうと考えていた。
 コンピューターはまず、計算機として生まれ落ちた。
 だがケイとゴールドバーグは、これまで注目されてきた計算の力ではなく、巧みな物まねというもう一つの側面に光を当てて、コンピューターをとらえなおそうとした。
 ものがどう働き、どう動くのか、その振る舞いの仕組みを分析できれば、コンピューターはプログラムでルールをなぞって何物にも化けることができる。さらに動き方を正確に定義できれば、これまでには存在しなかった何かにすら、コンピューターは変身しうる。
 コンピューターの本質をあらためて〈万能の物まね機械〉と定義しなおせば、電子計算機というこれまでのあり方は、単に計算機をなぞってみせた物まねの一つのパターンだったとも考えられる。
 ではコンピューターを万能物まね機械ととらえなおしたうえで、何をまねようとするのか。
 著者たちは、その目標に〈メディア〉を据えていた。
 人間はこれまで、考えをまとめて人に伝えるために、さまざまなメディアを使ってきた。文字や絵筆、新聞やテレビなど、さまざまな媒体が人の思いを伝えた。これらすべての機能を取り込んだうえで、これまでのものを超えてしまう新しいメディアを、彼らはコンピューターを使って作りたいと考えた。
 パロアルト研究所の学習研究グループのメンバーであるゴールドバーグと、グループのリーダーで主任科学者の肩書きを持つケイは、目標とするメディアを超えたメディアを「パーソナル・ダイナミック・メディア」と名付けていた。
 いったん取り込まれた情報は書き直しや修正ができないという点では、これまでのメディアは焼き上げられて床の間に飾られた置物のような静的な存在だった。だがコンピューターで作る新しいメディアなら、取り込んでおいた情報の加工や修正の要求に柔軟に応じることができる。さらに人が働きかければ応えるような振る舞いも、このメディアはこなしうる。
 ケイとゴールドバーグは〈ダイナミック〉という表現に、打てば響くという新しいメディアの特長を込めていた。
 このダイナミックなメディアを、彼らは誰もが所有できるものに仕上げたいと考えていた。
 論文で彼らが示そうとしたのは、こうした考え方の枠組みだけではなかった。
 彼らはすでにパロアルト研究所で、具体的な開発目標を設定し、コンピューターを使ってパーソナル・ダイナミック・メディアを作りはじめていた。
 人が創造的に考えるための目指すべき道具を定義して、彼らはダイナブックと名付けた。
 
 想定によれば彼らのダイナブックとは、形も大きさも厚めのノートほどの、持ち運びのできる道具だった。
 この小さな道具には、本の何千頁に相当する資料や、絵、アニメーション、音など、あらゆる形態の情報を収めておくことができる。記録しておいた情報は簡単に呼び出すことができ、必要に応じて自由に手を加えられる。
 だが、もっぱら数値と文字だけを相手にしてきたコンピューターに、絵や音や動画を扱わせようとすれば、従来とは桁違いの処理能力と記憶容量が必要になった。これまでコンピューターは目覚ましい技術革新を繰り返してきたが、ダイナブックに求められるパワーを持ち運び可能なサイズに収められる日は、まだまだはるかに遠かった。
 そこでケイらは、ハードウエアに関しては暫定的に大型のものですませ、このマシンを試験台として、ソフトウエアの側からダイナブックに向かって進もうと考えた。
 ケイが性能の要求を示して研究所のハードウエアのエンジニアが作った暫定版ダイナブックは、アルトと名付けられた。
 一見すればアルトは、キャビネット大の本体と縦長のブラウン管式ディスプレイ、キーボードなどの入力装置からなるミニコンピューターだった。だが細部には、ユニークな仕掛けがこらされていた。
 画面と向かい合いながらコンピューターを使う形は、これまでも一部の先進的なマシンで試みられていた。だがアルトのディスプレイには、ケイの注文によって、ビットマップと呼ばれるめずらしい方式が採用されていた。
 一つ一つ描いたり消したり色をつけたりと、自由に操作できる点の集まりで画面を表示するこの方式を用いれば、ディスプレイを白紙に見立てて思うままに点描でイメージを描き出すことができた。決まりきった形の文字だけを表示するのに比べれば、ビットマップでははるかに大きな処理速度とメモリーが必要となった。だがコンピューターに巧みな物まねを演じさせるうえで、ビットマップはきわめて強力な武器であり、絵や動画を扱わせようとすればこの方式の採用は欠かせなかった。
 アルトへの入力のために用意されたマウスと五本指のキーボードは、先駆者からケイが受け継いだ財産だった。

原爆による自滅から
人類を救う道具の夢


 マサチューセッツ工科大学(MIT)の副学長を経て、大量の科学者を動員して進められたマンハッタン計画を指揮したヴァニーヴァー・ブッシュは、一九四五年七月号の『アトランティックマンスリー』誌に「思考のおもむくままに」と題する原稿を寄せた。
 おびただしい論文の中から必要な才能を見つけだし、積み上げられる書類の山をさばいて原子爆弾の開発過程をコントロールしたブッシュは、目の前に迫った平和の時代に科学者がなすべきことを思ってこの原稿の筆を執った。
 理論的な研究を放棄し、兵器の開発に全力を傾けた物理学者たちを、ブッシュは「偉大なチーム」と位置づけた。だがその一方で、科学によってさまざまな恩恵を受けた人間が、きわめて残虐な兵器をもまたこれによって獲得したことを、彼は苦い思いで確認せざるをえなかった。
 ブッシュの細い希望の糸は、民族の膨大な経験を蓄積し、自在に過去を振り返りうる道具を用意することで、争いによって自滅する前に人類を進化させることだった。
 経験や知識を蓄積し、〈思考のおもむくままに〉情報を取り出せる装置の必要性は、ブッシュの専門である科学の分野でも明らかだった。新しい論文はますます大きな山をなす一方で、研究者は他人の発見や結論をカバーすることに追いまくられている。それぞれの領域はより専門性を高めつつあり、視野を広くとって各分野を見渡し、異なった分野のあいだに橋を架けることは、ますます困難になろうとしている。
 にもかかわらず、科学者が研究成果を伝えたり、参照したりする方法が旧態依然たるものであることを、ブッシュは深刻な問題と指摘した。
「人類の経験の総体は驚くほどの速さで増加しているにもかかわらず、私たちがその結果生じた迷路をたどって、この瞬間に重要なことがらを見つけだすための手段は、帆船時代に使っていたものとなんら違いがないのである」(『ワークステーション原典★』ACMプレス編、村井純監訳、浜田俊夫訳、アスキー出版局、一九九〇年)

★ACM(アメリカ計算機協会)が企画して一九八六年一月にパロアルトで開かれた「パーソナルワークステーションの歴史」会議には、コンピューターと人とのかかわり方を決めるうえで重要な役割を果たした人々が一堂に会した。ここで行われた講演と質疑応答を原稿化し、歴史的な参考論文を再録した『ワークステーション原典』は、パーソナルコンピューターが引き継いだ技術の源流をたどろうとする者にとって、きわめて示唆に富んだ貴重な資料である。「パーソナル・ダイナミック・メディア」の共著者であり、この本では編者を務めたアデル・ゴールドバーグは、同書の前書きを「歴史は人が作る物だ」と書き起こしている。その歴史の作り手たちがたどった思考の跡を網羅的にすくい取った本書を、監訳者の村井純氏は「歴史的な知的財産」と評しているが、筆者もまったく同感である。この大部の貴重な資料を日本語で読めることは、じつにありがたい。
 ただ専門領域に深く踏み込んだ困難で膨大な翻訳作業を、最終的に誰が取りまとめたかが正しくクレジットされていない点は、「歴史は人が作る」という観点からも、本書の唯一の瑕疵として引っかかる。本書の翻訳にあたったのは、偉大なるロックンロール小説『45回転の夏』の著者であり、アスキー刊行のパーソナルコンピューターの歴史に関するすぐれた著作の訳にこれまでもあたってきた鶴岡雄二氏である。「文章に関して完全なコントロールを委任されない限り、本名を使用しない」と称する鶴岡インゴウオヤジ雄二は、もともと縦組みの読み物とすることを狙ってスタートした『ワークステーション原典』の翻訳プロジェクトが横組みに変更になった時点でへそを曲げ、版元との訳語に対するいくつかの意見の相違に若干のトラブルが重なって完全に切れて、本名を取り下げた。その挙げ句どこから浜田俊夫という名前が出てきたのかといえば、腹立ち紛れに当初筆名は只野義明(〈ただの偽名〉のもじり)としたがさすがにアスキーから拒否され、そのときたまたま読み返していた広瀬正の『マイナス・ゼロ』の主人公の名をぱくってこうしたというのが真相だそうである。ただし鶴岡氏がケツをまくってからも、アスキー側は漢字を若干多めに使い、語尾を一部変更したほかは、訳文には基本的に手を加えていない。編集者とのトラブルに関しては、筆者も人のことを言えた義理ではない。だが本書の原稿を準備するためにかなり資料を読み続けた後の今は、「一時の短気のためにわけの分からない人物を一人歩きさせると、後生の人間が迷惑するぞ」と説教でもくれたい気分である。

 そう考えたブッシュは、記録をとり、情報を保存し、参照するための強力な新しい道具を思い描いた
 第二次世界大戦中に、大砲の弾道計算を自動化するために開発されたENIAC★は、電子計算機の可能性を示してさまざまなプロジェクトにスタートのきっかけを与えた。このマシンが動きはじめる前に「思考のおもむくままに」をまとめたブッシュは、こうした道具をコンピューターを使って作るとはっきり意識してはいなかった。だが光を電気に変えることで電気的にものを〈見る〉ことを可能にする光電セルや写真技術、音声タイプライターなどを統計処理分野で使われているパンチ・カード・システムのような情報処理機械と組み合わせることで、広大な知識と経験の海を発想のおもむくままに滑る道具が作れるだろうとブッシュは予測した。

★アメリカ陸軍の依頼を受けて、ペンシルベニア大学の電気工学科、ムーアスクールが開発した電子計算機。ENIACは、電子式数値積分計算機を意味する Electronic Numerical Integrator and Computer の略。撃ち出した砲弾が大気の条件によってどんな影響を受け、初速や発射角度などに応じてどのような軌跡を描いてどこに着弾するかを示す弾道数表作りを高速化する目的で、一九四三年に開発が始まった。だが戦時中には完成にこぎ着けられず、戦後の一九四六年二月になって公表された。
 ENIACはきわめて早い段階の実用機として注目されるべきマシンではあるが、コンピューターを支える技術は同機にいたるまでにも厚く積み重ねられており、またその後のコンピューターの基本原理となったプログラム内蔵方式は、ENIACには採用されていなかった。
 科学の勃興は計算処理への要求を増大させ、さまざまな計算機の提案を生み出してきた。資本主義の形成に伴って拡大するビジネスの世界も、会計処理を迅速にこなす計算機を求めた。また一〇年ごとの国勢調査を憲法で規定したアメリカでは、大量の移民を引き受ける中で統計処理の機械化の要求が増大し、一八九〇年の調査データの処理には、ヘルマン・ホレリスによって開発された統計機械が利用された。軍事もまた、計算の高速化に大きな圧力をかけ続けた。アメリカ陸軍がメリーランド州アバディーンに設立した弾道研究所は、数学者を動員し、ヴァニーヴァー・ブッシュの開発した微分解析機などの計算機を駆使して弾道数表の充実に努めていった。一九三九年に第二次世界大戦が勃発して以降の戦時体制下、弾道研究所では微分解析機の改良が進められていったが、もう一方で研究所は新しい弾道計算装置の開発をペンシルベニア大学に打診した。ムーアスクール助教授のジョン・W・モークリーは、「電子式微分解析機を開発すれば弾道数表作りに要する期間を大幅に短縮できる」との構想を示し、一九四三年四月には大学院生J・プレスパー・エッカートとともに、この装置に関する提案書をまとめた。陸軍との契約は翌五月に行われ、ENIACの開発が始まった。
 電子式のスイッチとして機能する真空管を使って、ともかく微分解析機に代わる計算機を作るとして開発されたENIACは、基本的なアイディアは既存の計算機から借りながら、資金にまかせて強引に電子化を推し進めるというアプローチをとった。その結果、ENIACは一万八八〇〇本の真空管、一七万個の抵抗、一万個のコンデンサー、一五〇〇個のリレー、数千のスイッチと数百のプラグを組み合わせ、五〇万か所をはんだ付けしたモンスターとなった。開発にあたったスタッフは長期間にわたって昼夜兼行で作業にあたったが、膨大な接点に紛れ込んだ不良箇所が彼らの足を引っ張った。
 完成したENIACは、毎秒五〇〇〇回の加減算をこなし、当時の計算機をはるかに上回る処理能力を見せつけた。一方ハーバード大学とIBMは、従来の統計・会計機の技術をもとに、指定された計算手順に従って機能する汎用自動計算機、Mark1を一九四四年に完成させていた。紙テープに記録した命令を一つ読んでは実行し、次の命令を再びテープから読む方式を採用していたMark1では、処理速度は読みとりの際の機械的な動作によって制限されていた。それに対しENIACでは、プラグにコードを差し込んでいくことで計算の手順をセットするようになっており、電子化による高速化のメリットがそのまま生かせるように工夫されていた。ただし計算の手順を変更しようとすれば、ENIACではそのたびに配線をすべてやりなおさざるをえなかった。計算自体は高速化できても、ENIACには配線に手間がかかるという問題点が残されていた。
 ハンガリー生まれのユダヤ人数学者で、ヒットラーのドイツを逃れてプリンストン大学に移っていたジョン・フォン・ノイマンは、マンハッタン計画に貢献するとともに、コンピューターの基本原理の確立においても決定的な役割を演じた。弾道研究所はENIACの完成以前から、より強力な計算機を開発するようムーアスクールに要請していたが、この次期計画は弾道研究所の顧問でもあったフォン・ノイマンの構想にもとづいて進められることになった。EDVACと名付けられた次のマシンに関する、一九四五年六月にまとめられた最初の提案書で、フォン・ノイマンは「電子的な記憶装置に収めた計算手順を読み出して実行する」プログラム内蔵方式を提案した。フォン・ノイマンとエッカートが協力して進めることになったEDVACの開発計画は、両者の発想の食い違いもあって大幅に遅れ、同方式の一号機はイギリス、ケンブリッジ大学のモーリス・V・ウィルクスによって一九四九年五月に作り上げられたEDSACとなった。
 現在のコンピューターの基本技術は第二次世界大戦の終結間近に確立され、この戦いは科学技術による人類の自滅を暗示させる原子爆弾の炸裂に彩られて終わった。そしてコンピューターがその進化を加速させるだろう科学が生じさせかねない破滅を回避する小さな希望のアイディアもまた、この時点で誕生している。
 始まりのその時点にすべての可能性が内包されているという教訓は、コンピューターに関しても当てはまる。

 目指すべき機械化された個人用のファイル・図書管理システムを、仮にメメックス( memex と名付けたブッシュは、この装置の具体的な仕様を思い描いた。
 メメックスは一見すれば、傾いたディスプレイとキーボード、ボタンやレバーの付いた机である。机の中には情報処理機械と、マイクロフィルムを使った大容量の記憶装置が仕込まれている。記憶装置の容量の想定は、一日に五〇〇〇ページ分の情報を入力したとしても満杯になるまでに数百年はかかろうという規模である。ユーザーは心置きなく文字や手書きのメモ、写真などを自分で入力できるが、たいていの場合はマイクロフィルム化して売られている書籍や雑誌、新聞、写真や絵画などを装置に差し込んで参照する。当然ビジネス文書なども、マイクロフィルムで交換できる。
 メメックスの機能の中で特に重要であるとブッシュが考えたのが、参照の機能である。一般的な索引の機能を組み込むことはもちろんだが、加えて彼は「連想索引★」という新しい仕組みを装置に持たせようと考えた。ユーザーは互いに関連すると思った項目に、任意に「経路」をつけることができる。いったん経路がつけられると、ディスプレイに片方の項目が呼び出されている際は、いつでもボタンの一押しでもう一方の項目を呼び出すことができる。

★この「連想索引」の機能は、まさにマッキントッシュのハイパーカードが提供するリンクの機能に他ならない。後生の者は、ハイパーカードの実物にたまげてから、時間軸をさかのぼってこの技術にいたるリンクをたどり、テッド・ネルソンのハイパーテキストのアイディアがあったことを知る。さらに念を入れてリンクを手繰れば「思考のおもむくままに」にたどり着き、そもそもヴァニーヴァー・ブッシュがこんなことを言いはじめたことを発見してまたまた驚くという仕掛けになっている。

 こうした連想索引を駆使すれば、法律家は自分の考え方と友人たちの経験、下された判決を関連づけて膨大な判例の海の中から求める情報を速やかに取り出すことができる。弁理士は作成済みの経路をたどって、特許資料の山の中から必要なものを即座に選び出せる。医師が的確な判断をただちに下し、科学者が文献の山から求める論文を選び出すにも連想索引は威力を発揮する。歴史家が膨大な年代記の中から重要事項の連想索引を作り上げれば、ある文明の全体像を素早く概観するようなこともできるようになるだろう。
 そして「人類がそのおぼろげな過去をもっと明確に振り返ることができるようになり、その現在の問題を完全かつ客観的に分析できるようになれば、人間の精神は向上する」(「思考のおもむくままに」前出『ワークステーション原典』)のではないか。
 人類が争いによる自滅を免れるとすれば、メメックスのような道具が何らかの用を果たすのではないかと、原爆の投下を目前に控えた時点でブッシュ★は考えた。

★一八九〇年にマサチューセッツの牧師の子として生まれたヴァニーヴァー・ブッシュは、タフト大学に籍を置いていた一九一二年に、地形の断面図を描き出す装置を開発して特許を取っている。測量の簡素化を狙って開発され、プロファイルトレーサーと名付けられたこの装置の外見は、手押し式の二輪車である。この装置を押していくことで、記録紙に地形の断面図を描き出すことができた。卒業後ブッシュは、ゼネラルエレクトリック、海軍を経てタフト大学で教鞭をとり、一九一九年にMITに移った。のちに同大学の副学長を務めるブッシュは、ここでプロダクトインテグラフと名付けた積分の自動計算機を開発している。積分すべき曲線を紙に手書きし、これを装置にかけてポインターで線をなぞっていくと、複雑な計算を要する処理結果が得られた。さらにブッシュは、電力網における一時的な電力の減衰や停電に関する問題を解明しようとする中で、複雑な方程式を解く必要に迫られ、一九三〇年頃、微分解析機(ディファレンシャルアナライザー)と名付けた汎用自動計算機の開発を行った。この微分解析機は、一九四〇年代におけるコンピューターの開発につながっていく記念碑的成果の一つだった。
 こうした経歴を確認したのち、メメックスの構想を見直すと、あらためてブッシュの「本気」が伝わってくる。ブッシュがメカニズムを用いてメメックスを実現しようとしている点は、現時点で振り返って一見すれば構想の非現実性を印象づけるかもしれない。だが彼は工学研究者として現役だったコンピューターの誕生以前、メカニズムを駆使してさまざまな解析機械、計算機械を事実作ってきていたのである。一九七四年、インテルが8080を発表した年にブッシュは没している。
 なおブッシュの開発したさまざまな機械の姿は、『A COMPUTER PERSPECTIVE 計算機創造の軌跡』( The office of Charles and Ray Eames 著、山本敦子訳、アスキー、一九九四年)で見ることができる。

 それに「人間がさまざまな不要不急のことがらを、重要なことだとわかったときには復活できるという保証のもとに忘れてしまう特権をとりもどすことができれば、その旅路も少しは楽しいものになるかもしれない」(「思考のおもむくままに」前出『ワークステーション原典』)のだ。
 
 広島と長崎が廃墟と化し、日本が無条件降伏に追い込まれた一九四五年の夏を、二〇歳のアメリカ海軍レーダー技術者、ダグラス・エンゲルバートはフィリピンのレイテ島で迎えた。
 本国への帰還船を待ちながら、赤十字の図書館として使われていた竹作りの高床式の小屋で一人雑誌を読んでいたエンゲルバートは、『ライフ』に転載された「思考のおもむくままに」と出合った。論文を読み進むうちに、エンゲルバートは胸に湧き上がってくる興奮を抑えられなくなった★。

★前出『ワークステーション原典』所収、セッション4のディスカッションにおいて、エンゲルバート自身がこの論文に出合った経緯とそのことの自分にとっての重みに関して言及している。
 日本パーソナルコンピュータソフトウエア協会主催の「パーソナルコンピュータの未来像」と題した講演会に、アラン・ケイ、ポール・サフォーとともに招かれたダグラス・エンゲルバートの話を、一九九四(平成六)年四月二十日、筆者は日本青年館大ホールで聞く機会を得た。そのとき心に残ったのは、一見すればお手軽な進歩主義的調子を帯びて響く彼の言葉の裏にある、人類の未来に対する不安だった。視覚的な操作環境を備えたパーソナルコンピューターがネットワークされることで、エンゲルバートは集合的IQ( Collective IQ )を高められると語った。ずらりと並んだ講演会の協賛ハードウエアメーカーに遠慮でもしたのか、彼は「集合的IQによって企業は生産性を高められる」と、化学調味料を振りまくような見解も述べた。だが最後のパネルディスカッションの席上、横に座ったアラン・ケイと二人きりで話し込むようにメメックスのアイディアに初めて触れた当時のことに小声で言及しはじめ、「人類は障害物だらけの急流を乗り切っていかなければならない。そのためには知性を集合させるような環境がなければと考えた」とコメントしたとき、第二次世界大戦と原子爆弾の投下という出来事が、ヴァニーヴァー・ブッシュからダグラス・エンゲルバートへと『知性を支援する道具』のアイディアのバトンが手渡されるにあたっていかに大きな意味を持っていたかを、少し勘ぐりすぎのきらいはあるかもしれないが、筆者は妄想した。

 第二次大戦後、NASAの前身の航空宇宙諮問委員会(NACA)エイムズ研究所で風洞の研究に携わったエンゲルバートはやがて、人類の多くを進歩させるような意義のあるはでな仕事につきたいと、若者らしい野心を抱くようになった。
「人間が直面する問題は、我々の対処能力を超える速度でその困難の度合いを増している。緊急で複雑な問題に対処できるように人間の能力を増大させることは、若者が『最高に目立つ』ための恰好の舞台になる可能性がある」(前出『ワークステーション原典』所収、セッション4「知識増大ワークショップ」)
 そう考えたエンゲルバートの脳裏に、大きなブラウン管の前に座って、見る間に変化していく画像を相手に仕事をしている自分の姿が浮かんだ。
 レーダー技術者として働いていたときの経験が種となったこのイメージは、数日のうちにエンゲルバートの胸の中で、テキストとグラフィックスを混在させた文書を画面上で操作する概念へと膨らんでいった。ブッシュの思い描いたメメックスのようなシステムを作りたいと考えた彼は、NACAをやめてカリフォルニア大学バークレー校の大学院に入り、コンピューターと対話するように作業を進めるためのソフトウエアの研究に取り組んだ。
 一九五七年にスタンフォード研究所に移ったエンゲルバートは、軍やNASAの援助を取り付けて、人間の能力を〈増大〉させるシステムの研究計画を軌道に乗せていった。一九六三年、研究所内に増大研究センターを設立させたエンゲルバートは、増大システムを実現するための要素技術の開発に取り組んだ。
 ディスプレイから情報を受け取り、使う側の意思もまたディスプレイを通してシステムに伝えようと試みたエンゲルバートらは、画面の特定のポイントを指し示してコンピューターに意図を伝える装置★の開発を目指した。画面上を自由に動くカーソルと呼ばれる記号を操作するために、彼らは膝を上下左右に動かして操作する装置や首で操作するタイプ、机の上を前後左右にすべらせて使うマウスと名付けた小さな石鹸箱のような装置を試みた。さまざまな装置の中でもっとも使いやすく、また局所的な筋肉のけいれんを招かないという点でも評価できたのがマウスだった。

★コンピューターについて書こうとすれば、カタカナの氾濫を許容してしまうか、日本語でまどろっこしい説明を重ねるかの判断を繰り返し求められる。ここも一言、ポインティングディバイスと書く手もあるが、ここらあたりの見極めは実際厄介で、本稿においても悩み通しである。と一応断って、以降は「ポインティングディバイス」を使う。

 一般的なタイプライター型のキーボードをエンゲルバートは否定しなかったが、マウスを使うたびに指の置き換えを求められる点には対処したいと考えた。解決策として考案されたのは、ピアノから鍵盤を五本だけ抜き取ってきたようなキーセットだった。和音を弾くようにキーを組み合わせて押すことで、アルファベットが入力できるように装置は仕立てられた。右手にマウス、左手はキーセットに置けば、すべての操作が指の置き換えなしで可能になった。
 さらにエンゲルバートらは、ディスプレイ上の画面を区切って片方にはテキストを、もう一方にはグラフィックスを表示するといった使い方も試みていた。画面上にいくつかの窓を開いてそこに別々の情報を映し出すことで、たくさんの画面を並べて見比べながら進めていたような作業を、一つのディスプレイで行うことを彼らは狙っていた。
 こうした技術を盛り込んだ実験システムは、増大研究センターではオンラインシステム( oN Line System)を略してNLSと呼ばれていた。
 エンゲルバードのものをはじめ、さまざまなコンピューターのプロジェクトを支援していたARPA(国防省高等研究計画局)は、一九六七年春、資金を提供しているすべての研究所のマシンをネットワークで結ぶ計画を発表した。このARPANET★によって、自らのNLSが距離の壁を乗り越えてしまうことに、彼は知的な衝撃を受けた。

★一九六九年に運用が始まったARPANETは、その後、研究機関を結ぶCSNET( Computer Science NETwork )などとの接続によって規模を拡大し、インターネットへと発展していく。エンゲルバード氏がARPANET越しに見た夢は、今、大きく花開いている。本書の準備にあたっては、筆者もまたインターネット経由でエンゲルバード氏の協力を得ることができた。

 一九六八年十二月、ACMとIEEEがサンフランシスコで共催した、秋のジョイントコンピューター会議で、増大研究センターはNLSのデモンストレーションを行った。
 会場となったブルックスホールに運び込まれたNLSの端末は、この日のために借り受けたマイクロ波回線によってスタンフォード研究所のコンピューターに接続されていた。ディスプレイの表示は、NASAから借りた最新のビデオプロジェクターによって、縦横二〇フィートのスクリーンに投射された。マウスや五本指のキーセットを使ってエンゲルバートがNLSを使いこなしている様子は、カメラで撮影されて画面上の窓にテキストと並べて表示された。分割された窓には、研究所で同時にシステムを操作している画面やビデオの映像がつぎつぎと切り替えられて映し出された。
 ユタ大学の大学院でコンピューター科学を専攻していたアラン・ケイは、この日、三〇〇〇人あまりの聴衆とともに会場となったブルックスホールの席にいた。
 
 アラン・ケイは一九四〇年五月、オーストラリアから移住した生理学者を父として生まれた。画家だった母は、ピアノも巧みに弾いた。ケイの愛した祖母は、女性の社会的な権利の獲得のために今世紀のはじめから働いた活動家だった。
 ニューヨークの郊外に育ったケイは、二歳半で字を覚え、小学校に上がる前にたくさんの本を読んでいた。一〇歳のときには、ラジオのクイズ番組「クイズキッズ」のチャンピオンになったケイは、J・D・サリンジャーの描くシーモア・グラスを思わせる繊細で多感な早熟の天才だった。教師の物言いに欺瞞のかけらがまじると、とたんに反抗的な態度をとったケイは、小学校からハイスクールにいたるまで学校には一貫してなじめなかった。最初に入ったベサニーカレッジも、すぐに退学になった。
 仲間たちとコロラド州のデンバーに移り住んだケイは、以降数年をロックンロールのバンドでギターを弾いて過ごした。
 一九六一年に徴兵されて空軍に入るまで、ケイはコンピューターを経験していなかった。
 だがプログラマーの適性試験にたまたま合格したことで、ケイはプログラミングを学ぶことになった。一九六三年に除隊すると、ケイは数学と分子生物学を学ぶためにコロラド大学に入った。彼自身「後にコンピューター科学の勉強に非常に役に立った★」という演劇に入れ込んだものの、今回はどうにか卒業にこぎ着けた。だが、どんな仕事につきたいかという気持ちは、この時点でも固まっていなかった。

★『ザ・コンピュータ』(ソフトバンク)一九九〇年六月号、「KEYMAN USA 次世代のコンセプターが考えている明日」所収のアラン・ケイへのインタビュー。

 山が好きだったケイは一九六六年の秋、コンピューター科学の大学院を持っている山の中にある大学を図書館で調べた。
 唯一条件をみたしていたのは、学部を開設したばかりでこの年から大学院の募集を始める予定のユタ大学だった。願書を送った時点ではケイは知らなかったが、コンピューターでグラフィックスを処理するというテーマに取り組んでいたアイヴァン・サザーランド★が、同大学院の講師として招聘されていた。

★サザーランドはMITリンカーン研究所の大学院生だった当時、もっとも早い段階でブラウン管式のディスプレイを採用したTX―2を使って、画面上で図形を描くためのソフトウエアを書いていた。
 TX―2には先行するTX―0があった。リンカーン研究所がトランジスターの実用性を確認するために実験的に開発したTX―0には、一〇×一〇インチのディスプレイと画面上に絵を描くことのできるライトペンが接続されていた。磁気テープを使った記憶装置を付け加え、ハードウエアを改良したTX―2も、ディスプレイとライトペンを受け継いだ。サザーランドは改良版のTX―2を使って、画面上で図面を描き、コピーをとったり保存したり、呼び出したものに手を加えたりできる、スケッチパッドを書いて博士号を得た。
 彼をはじめとするMITの先駆的なハッカーが、コンピューターに初めてディスプレイを接続したTX―0やTX―2に取りついて、一九五〇年代後半からの数年間にわたって過ごした熱狂の日々は、スティーブン・レビーの『ハッカーズ』(古橋芳恵/松田信子訳、工学社、一九八七年)に活写されている。

 ユタ大学に入った直後にサザーランドの博士論文を読んだケイは、画面上で自由にグラフィックスを扱うことのできるシステムに強く引き付けられた。
 
 ユタ大学で実際にケイが取り組んだのは、小型のコンピューターで使うことを想定したコンピューター言語だった。
 当時のコンピューターの常識的な規模と機能からすれば、ちっぽけなディスプレイ付きの計算機といった印象を与える仲間の作っていたマシンのために、ケイはアルゴル★に似た言語を小さなメモリーに収まるようにコンパクトに作ろうと考えた。
 柔軟で拡張性のある( FLexible EXtendable )言語という目標からフレックス(FLEX)と名付けた言語を書くにあたって、ケイはリスプ★★の柔軟性と簡潔性に学ぼうと目標を立てた。医師や弁護士、エンジニアなど、コンピューターの専門家以外の人に使いこなしてもらうために盛り込もうと考えた対話型の処理の進め方は、政府系のシンクタンクであるランド研究所で作られたジョスという言語に学んだ。

★科学技術計算用のプログラミング言語。ヨーロッパの研究者を中心に一九六〇年に設計され、それ自体はアメリカや日本では広く使われることはなかったものの、パスカルなどのその後開発された言語に大きな影響を与えた。科学技術計算用の言語として広く使われてきたフォートランは、IBM社のジョン・W・バッカスによって一九五七年に同社の704用に書かれた。大型コンピューターにおけるIBMの大成功によって、フォートランの普及には拍車がかかったが、この言語は論理的な厳密性や洗練を欠いており、プログラムの記述が汚くなるとして、潔癖症の頭のよい人たちがアルゴルを書いた。
★★人工知能分野で広く使われてきたプログラミング言語。この分野の代表的研究者で、当時MITに籍を置いていたジョン・マッカーシーによって、一九五九年ごろ発想され、一九六〇年代初期に開発された。この時期、同大学で人工知能の導師となったマッカーシーとマービン・ミンスキーが「ハッカーを放し飼いにする」うえで果たした役割は、スティーブン・レビーの『ハッカーズ』からうかがい知ることができる。リスプはもう一つの、そしてもう少し耳ざわりのいい人工知能研究の成果と言えようか。

 フレックスの開発作業はARPAの援助を受けて進められ、ケイは操作用にキーボードは付いているけれど、プログラミングにはパンチカードを使うしかなかったIBMの1130というコンピューターで作業を進めた。
 このフレックスに取りかかっているあいだに、ケイはこれまでに感銘を受けたいくつかの技術とフレックスとを一つのイメージに統合できないかと考えるようになった。
 同じARPAをスポンサーとしていた関係で、ダグラス・エンゲルバートにはすでに一九六七年に会っていた。NLSの紹介用に作られたフィルムを見せられ、実際にスタンフォード研究所にも行ってシステムを体験し、強い印象を受けた。
 エンゲルバートのNLS、サザーランドのスケッチパッド、さらにランド研究所を訪ねた際に見せられた画板にペンで書き込むような入力装置、タブレットも心に残っていた。
 博士論文にこれまでの研究成果をまとめるにあたって、ケイはフレックスを組み込んで使うマシンの姿を想定し、目指すべきシステムを支える一つの要素として開発した言語を位置づけなおそうと考えた。
 想定によれば、フレックスマシンは小さなテレビ画面の付いたアタッシュケースほどの大きさとされた。タイプライター型のキーボードの手前には、エンゲルバートの五本指のキーセットを左右に二つ置こうと考えた。ただしポインティングディバイスには、マウスの代わりにタブレットを選んだ。キーボードの下から引き出して本体から切り離すこともできるタブレットに電子ペンで入力し、もう一方の手は左右どちらかのキーセットに据える形が、フレックスマシンにおける基本姿勢として想定された。鍵を差し込んで立ち上げると、すぐにフレックス言語が起動され、ユーザーはマシンと対話するように仕事を進められるようにしたいとケイは考えた。
 
 だが「リアクティブエンジン」と名付けた論文の骨組みを固めて、長大な原稿をまとめているあいだにも、ケイはいくつかの試みに影響を受け続けていた。
 ARPAは研究を後援している大学院生の会議を、定期的に開いていた。一九六七年の夏、フレックスに関する報告を行うためにイリノイ大学で開かれた会議に出たケイは、ここで初めてプラズマ方式を用いて作った平面型のディスプレイを見た。
 いつかこの薄っぺらいディスプレイの裏側に、想定しているフレックスマシンの回路をすべて収めてしまえる日がくるだろうかとの思いは浮かんだが、論文のテーマに盛り込むには話が夢想的にすぎるように思えた。だがエンゲルバートの講演のしばらく前、一九六八年の秋になってランド研究所でグレイル( GRAphical Input Language )と名付けられたシステムを見てからは、平面ディスプレイへの関心がケイの胸の中で大きく膨らみはじめた。
 グレイルは、タブレットと電子ペンだけでコンピューターを使えるようにするための言語だった。手書きの文字の認識機能まで盛り込んだグレイルなら、ユーザーは紙に数字や文字を書き込む感覚でコンピューターを使うことができた。およそ三〇分ほどグレイルを使わせてもらった時点で、ケイは強い啓示を受けた。
 直感的に浮かんだのは、想定しているフレックスマシンでグレイルを動かすアイディアだった。タブレット付きの小さなあのマシンでグレイルが使えれば、ユーザーはもっと自然な感覚でコンピューターと向き合えるに違いないと思えた★。現実には、ランド研究所はIBMの大型コンピューター、360モデル44を一台まるごと使ってグレイルを駆動しており、フレックスマシン規模のものではとても動かせそうもなかった。だがケイは、フレックスマシンで動かすことを超えて、平面ディスプレイの後ろに回路を押し込んだマシンを電子ペンで操作する夢を膨らませはじめた。

★『マッキントッシュ伝説』(インタビューアー 斎藤由多加、オープンブック、販売元 マックワールド・コミュニケーションズ・ジャパン、一九九四年)中のアラン・ケイのコメント。
 一九九四年三月号の『マックワールド』誌は、マッキントッシュ生誕一〇周年を祝うとして日本版独自企画の「徹底検証 マッキントッシュ伝説」という大特集を組んだ。スティーブン・ジョブズを除くマッキントッシュにかかわった大半のキーマンをインタビューして原稿をまとめた斎藤由多加氏は、雑誌に掲載しきれなかった部分と本人のコメント、デモンストレーションなどの動画資料をエキスパンドブック形式の電子ブックにまとめる作業を雑誌掲載分と同時並行的に進め、同年二月のMACWORLD Expo/TokyoにCD―ROM版を間に合わせた。ここに収められたインタビュー原稿から、今まで活字となっていなかった多くを教えられた筆者は同時に、当初約束した締め切りから約一年も遅れてまだこの仕事にかかずらわっている当方と、斎藤氏の圧倒的な馬力の差を痛感させられて愕然とした。

 子供がコンピューターと付き合うための環境の整備を目指して、MITの人工知能研究所でシーモア・パパートが開発と運用の実験を進めていたロゴという言語にも、ケイは大きな影響を受けた。
 コンピューターで考えることを子供に受け入れさせる道具として、パパートは一匹の亀(タートル)を用意した。
 ディスプレイの中に棲んでいるタートルは、与えられた命令のとおりに動く。「前へ一〇〇」とキーボードから命令を入れると、タートルは一歩をおよそ一ミリメートルとして一〇〇歩進む。「右へ九〇」とすると、九〇度右に向き直る。この動作を四回繰り返すと、タートルは一辺が一〇〇ミリの正方形を描く。この四つの命令を一まとまりにして、「正方形」という新しい命令を定義することができる。
 こうして子供たちは、いくつもの命令を組み合わせてタートルを動かし、定義した新しい命令によって複雑な動きを一まとまりにして、画面の中の小さな世界を完全にコントロールすることを学ぶ。
 パパートが子供たちにロゴを扱わせている小学校を訪ねたケイは、プログラムの本質と可能性をあらためて考えなおしたいと思うようになった。
 パパートによれば「プログラムするということは、コンピューターと人間である使用者との両方が『理解』できる言葉で交流し合うということにほかならな」かった★。

★『マインドストーム』(シーモア・パパート著、奥村貴世子訳、未来社、一九八二年)
 教育の場でまったくコンピューターに触れた経験を持たず、管理と支配の象徴としてこの装置に漠然とした敵意を抱いていた筆者がこうしたテーマの原稿を書くようになったのには、いくつかきっかけがあった。その中でも『マインドストーム』との出会いは、きわめて印象に残る幸せな体験だった。人間なるものにどんなに絶望したとしても、この本を読みなおせば、少なくとも私は希望の芽に水をかけることができると思う。
 初めてロゴを知ったとき、筆者はこの言語を走らせることのできるコンピューターを持っていなかった。そこで自分自身をタートルに任じて命令を与え、部屋の中を歩き回った。それまで静的な存在でしかなかった図形は、亀になって歩きはじめたとたん筆者の認識の中で動的な存在へと一変した。筆者はすでに三〇歳を過ぎており、「右に六〇、前に一〇」などと唱えながら狭いアパートの部屋をうろつき回っていると同居人には大いに迷惑がられたが、初めて自転車に乗れたときのようなその喜びは忘れることができない。ロゴに触れて、実際子供たちが喜ぶはずである。

 パパートのところから戻ったケイは、コンピューターと人間が交流し合う環境を組み込んだ、新しいシステムのイメージを描いた。ハードウエアは、平面型のディスプレイを使ってフレックスマシンよりももっと小さく、厚めのノートほどのサイズに押し込んでしまいたいと考えた。段ボールで作った模型ではさすがに少し軽すぎると感じて、中に鉛を入れてバランスをとった。この新しいイメージには名前は付けていなかったが、ダイナブックの種はこのときケイの胸の中ですでに芽を吹いていた。
 一九六九年に大学院を修了したケイは、スタンフォード大学のジョン・マッカーシーのグループで人工知能の研究に携わった。期待して入ったグループだったがここでの仕事には興味を持てず、ほとんど一年を、子供のための簡潔で強力な言語とはどんなものかを考えて過ごした。
 対話型のシステムの可能性にいち早く注目して、ARPAの情報処理部長としてエンゲルバートのNLSを支援したボブ・テイラーは、一九七〇年にゼロックスが新設した、パロアルト研究所の実質的な責任者として招かれた。テイラーの誘いを受けたケイは、同年の暮れにパロアルト研究所に移った。選りすぐりの人材を一本釣りしていったテイラーは、取り組むべき課題は研究者の自由裁量に任せた。
 ケイはダイナブックをテーマにしたいとテイラーに申し入れた。
 
 暫定版のダイナブックのハードウエアを用意したアラン・ケイは、このシステムで使う言語にロゴにおけるタートルのような、人とコンピューターとが交流し合うための道具を組み込もうと考えた。
 フレックスは命令を入れればすぐにコンピューターが反応を返してくる対話型の言語として作ったが、命令を規則どおりにタイプしなければならないという点では、従来のコンピューター言語と変わらなかった。ロゴもまた、正しい言葉遣いを子供たちに求めた。
 スモールトークと名付けたダイナブック用の言語では、この点を改善したいと考えて「メニュー」を用意することにした。その時点でできることを一覧表にまとめておき、その中から選ぶ形をとることで、交流はスムースなものになると期待できた。アルトのポインティングディバイスに使われたマウスのボタンの操作によって、画面上にメニューを呼び出す方式は、ポップアップメニューと名付けた。
 エンゲルバートが使った、画面を区切ってそれぞれを異なった情報の窓とするアイディアは、有効な道具になると考えた。画面を単純に複数のウインドウに分割するだけのタイリング方式も試みられたが、ウインドウの大きさを自由に設定できて、重ね合わせることのできるオーバーラッピングウインドウを考案し、スモールトークに組み込んだ。
 交流を促進するこうした道具を備えた言語を用意しておくことこそ、ダイナブックをあらゆる世代の人に使ってもらうための条件になるだろうとケイは考えた。
 だがこうした仕掛けが功を奏してダイナブックのユーザーの幅が広がれば広がるほど、システムへの要求もまた多様なものになることには疑いの余地がなかった。子供には子供の、学生には学生の、大人には大人の要求がある。音楽家、絵かき、ビジネスマン、医師、弁護士、教育者と、それぞれの分野の人たちに固有の希望があるだろう。だが個々の具体的な要求を網羅的に数え上げて対応しようとすれば、ダイナブックは機能だけは山のように抱えていても、結局誰の求めにもぴったり沿うことのないがらくたの寄せ集めになってしまうだろうとケイは考えた。必要なのは、ユーザー自身がどんな形でも作れるような柔軟性をダイナブックに与えることだと考えていたケイは、スモールトークにその役割を期待した★。

★「パーソナル・ダイナミック・メディア」をはじめとする一連のアラン・ケイの論文は、現在『アラン・ケイ』(鶴岡雄二訳、浜野保樹監修、アスキー、一九九二年)によって日本語で読むことができる。英語版の原書が存在しない中で、関係者の悪戦苦闘の末にオリジナル版の同書が生まれるにいたった経緯は、浜野保樹が目配りの利いたアラン・ケイの評伝を寄せた同書の訳者後書きに詳しい。
 同書をあらためて確認すると、「パーソナル・ダイナミック・メディア」にはスモールトークを用いて子供たちが書いたプログラムがいくつも紹介されている。一二歳の少女はスケッチ用の、一五歳の少年は回路設計用のシステムをスモールトークを使って一から書いた。さらに同論文には、スモールトークによる「音楽家がプログラムした譜面作成システム」が紹介されている。
 日本で開かれた「パーソナルコンピュータの未来像」におけるケイの講演によれば、このシステムはのちにリサとマッキントッシュのファインダーを開発したブルース・ホーンが、一五歳のときにパロアルト研究所で書いたものであるという。
 この講演でケイが強調していたポイントの一つが、自分に必要な道具はユーザー自身が書くべきだという自立主義だった。「人はツールのユーザーであるだけでなく、ツールの作り手でもある」という理念は、パロアルト研究所から外部の世界に伝わらなかったと指摘するケイは、ソフトウエア産業の隆盛を見た今でもなお、「カリフォルニア(アップルコンピュータ、筆者注)やワシントン州(マイクロソフト、筆者注)に住んでいるプログラマーがあなた方の個別の要求を先回りしてくみ取っておくことなどできるはずはなく、エンドユーザーが自分自身のツールを作れるようにしておかなければならない」と強調する。
 ケイのこの指摘を聞いたあとでも、筆者はマイクロソフトやロータスの株をすぐさま売っぱらおうとは思わない。ただ「日本はソフトウエア産業に弱点を持っており、こうした面でも競争力を養っていかなければならない」といった能書きにくっ付いてきそうな官製産業政策のピントのずれ具合には、こうしたエピソードやのちに触れるタイニーベーシックの手作り運動の経緯を振り返るたびに愕然とさせられる。「日本のソフトウエア産業を強化する」といったことを本当に考えたいのなら、遠回りかもしれないが唯一の有効な手段は、直接の成果を求めずにハッカーを一〇〇年ほど放し飼いにしておくことだろう。

 アルトでケイが目指した大きな目標の一つが、ディスプレイを紙に劣らないものにするという点だった。これまで使われてきたディスプレイも、まったく跡を残さずに編集できる点では紙に勝っていた。だが文字の鮮明さや読みやすさ、いろいろな書体、いろいろな大きさの活字を使ってめりはりのきいた文書を作るといった点では、紙に遠く及ばなかった。こうした欠点を補ううえでは、高解像度のビットマップディスプレイの果たす役割は大きかった。この方式なら、いろいろな書体のフォントを用意して、表現力の点でも紙に近づくことができた。
 ビットマップの特長は、機能や情報のまとまりを示す絵文字、アイコンにも生かされた。アルト用に書かれたお絵かきのソフトウエアでは、ペンの格好をしたアイコンをマウスで操作することで、画面上に線を描くことができた。ブラシのアイコンをインク壷に浸してから動かすと、スピードに応じて微妙な筆合いが表現できた。
 ダイナブックは少なくともソフトウエアに関する限り、すでに生きていた。

日本電気のセールスエンジニア
部品となったコンピューターと出合う


 一九六七(昭和四十二)年三月、後藤富雄は国立鈴鹿工業高等専門学校の第一期生として、同校を卒業した。
 新設された五年制の高専に赴任してきた教師の多くは、昨日までは大学生相手に教えていた。受験とは無縁の環境で、中学校を終えたばかりの子供たちに物事の本質をつかませようと進められた授業は、後藤の胸に物づくりへのあこがれを育んでいった。
 最終学年を迎え、就職先を選ぶにあたって相談を持ちかけた研究室の教師は、日本電気を「エンジニア天国」と評した。「給料は安いけれど、あそこはエンジニア中心に動いている会社で、やりたいことがやれる」という教師の言葉は、後藤の耳に長い残響を置いていった。
 夏休みの実習では、玉川事業場内に置かれていた日本電気中央研究所の通信研究室で、マイクロ波を利用した物性研究を手伝わせてもらった。波長のきわめて短いマイクロ波を当て、反射波を分析して物の性質を見極めようとするこの研究室の空気を吸ってみると、「エンジニア天国」という教師の評に、確かにうなずくことができた。
 一九六七(昭和四十二)年四月、日本電気に入社した時点では、実習でかじりかけたマイクロ波がそのままやれればと考えていた。そこで配属先の第一志望には、「通信」と書いた。だが実際にまわされたのは、集積回路事業部だった。
 これまで複数の部品を組み合わせて作っていた電気回路を一まとめにし、一つの部品に作り付けてしまう集積回路の事業化に向けて動きだしたセクションは、異なった分野の出身者を集めた寄り合い所帯だった。半導体の性質そのものにかかわる物理屋もいれば、製造工程に関与する化学屋、チップ上に作り付ける回路が専門の電気屋、ソフト屋などさまざまな畑から集められた技術者たちが、新しい産業の立ち上げに向けて知恵を集めようとしていた。集積回路が果たしてどこまで、どのように伸びていくものか、先行きは定かではなかった。だが混沌の支配する寄り合い所帯には、異分野の混交する活気がみなぎっていた。
 ところが具体的な配属先を示されたとたん、後藤は気持ちが落ち込んでいくのを抑えられなかった。
 事業部内での配属を最終的に決める面接で「回路図が読めるか」と聞かれ、物理や化学出身の新卒者の大半が「読めない」と答える中で、「なんとか読めます」と答えてしまったことを、後藤はそのとき、後悔した。
 集積回路担当を言い渡された時点で、後藤はごく素直に、製品作りに直接携わる自分の姿を思い描いた。だが「回路図が読める」と答えた結果、まわされたのは、集積回路の生産に必要な施設を整える設備部だった。集積回路をいかに作るかに挑戦するのではなく、決定された製造手順に沿って生産ラインを整備するだけの仕事と受け取った後藤は、即座に「もっと物作りに深くかかわる、設計の仕事にまわしてほしい」と事業部長に直訴した。
「我々にはいろいろな仕事がある。ともかくしばらくやってみなさいよ」と諭され、結局後藤は予定どおりの設備部設計課にまわされた。ここで直属の上司となる渡辺和也課長が取り組んでいたのは、でき上がった集積回路を検査するための装置の開発だった。渡辺のもとで担当することになったICテスターと呼ばれる検査装置の開発には、縁の下の仕事との思いがなかなかぬぐえなかった。だが、集積回路事業部にみなぎっている学際的な空気には、後藤自身すぐに触れることができた。
 同期入社の新入社員たちは入社後間もなく、集積回路に関する勉強会を組織し、後藤も熱心なメンバーの一人となった。
 入社そうそう、頭越しに事業部長に直訴した件は、渡辺も承知しているらしかった。
「半導体の物性の研究をしたいのなら、やってかまわないんだよ」
 そういって、外部の講習会にも出席させてくれる渡辺の度量は、意に沿わない部署にまわされたとの後藤の思いを、少し埋め合わせてくれた。
 
 担当となったICテスターの開発は、本質的には検査専用のコンピューター作りに他ならなかった。
 当初集積回路には、ほんの一〇個ほどの部品が組み込まれただけだった。だがその後、チップの集積度は目覚ましい勢いで高まった。むかでの足のように伸びたピンから信号を入れて行う検査も、集積度が高まるにつれて複雑になっていった。でき上がった集積回路を検査の工程でためてしまわないように、素早く処理する新しい装置が求められるようになった。針金に情報を書き込むワイヤーメモリーを用い、記憶させた検査のためのプログラムをデコーダーを使って読み出すICテスターの頭脳の開発にあたった後藤は、意識しないうちにコンピューターの基礎技術を身につけていった。
 当初ICテスターの制御装置は、一から開発していた。ところがディジタルイクイップメント(DEC)という新興の小型コンピューターメーカーが出したPDP―8と名づけられた機種は、検査装置のコントロールに用いるのにぴったりだった。メーカー自身とごく一部の専門担当者にマシンに関する情報を独占させるのではなく、各分野の研究者や技術者に使い道やノウハウを開拓してもらうことで利用の裾野を広げていこうと考えたDECは、自社の製品に関して徹底的に技術を公開する方針をとっていた。
 ICテスター用に導入したPDP―8には、詳細な回路図が添えられていた。ここまで中身が明らかにされているのなら、自分たちで安く作れるように思えた。後藤は上司の渡辺に諮って、PDP―8を作ることを一時期真剣に検討していた。
 同じ時期、日本電気のコンピューター部門が同等の性能を持つミニコンピューターを開発したことから、PDP―8の自作は実行されなかった。だが後藤はICテスターの開発を通じて、PDP―8を自分自身で独占することのできる「パーソナルコンピューター」として徹底的にしゃぶりつくしていった。
 検査装置の開発に携わった五年間、後藤の上司だった渡辺和也は、一九七四(昭和四十九)年五月になって、集積回路にごく小規模なものながらコンピューターの機能を作り付けたマイクロコンピューターの担当セクションに、部長代理として移っていった。
 この年、後藤も半導体の製造拠点として設立された九州日本電気に転属となった。
 九州に移って間もなく、後藤は渡辺が担当することになったマイクロコンピューターに、個人的に興味を持つようになった。与えられた仕事と直接の関係はなかったが、ほんのちっぽけな集積回路が間違いなくコンピューターとして機能するという事実には、体重を失った体がふと想念の中に舞い上がるような浮遊感を覚えた。初めてのマイクロコンピューターを作ったインテル社が、4004と名付けたこの製品を動かしてみるために、最低限の周辺回路を組み合わせて売り出していた評価用のキットを買い求め、会社のテレタイプにつないで動かしてみた。
 ICテスターを担当していた時期、回路図があるのならと後藤はPDP―8を作ることを考えた。だがテレタイプから送り込んだプログラムを4004が確かに実行してみせるのを見た後藤は、ユーザー自身がコンピューターを作るという発想が、拍子抜けするほど身近なものになったことを痛感させられた。確かに四ビットと小さな単位で処理を行う4004のスピードは、ミニコンピューターに比べればはるかに遅かった。だがコンピューターの中央処理装置(CPU)は、すでにでき上がった形で、マイクロコンピューターという電子部品として提供されていた。ならば周辺の回路を少し用意するだけで、さまざまな用途向けのコンピューターをかなり気軽に作れるようになることは、発想さえ切り替えれば誰の目にも明らかになるように思えた。
 
 マイクロ波を希望した後藤だったが、まわされたのは集積回路。ここでも本筋の仕事にはつけず、裏方の検査装置の担当になった。PDP―8をしゃぶりつくした経験は貴重だったが、製品を一から開発したいという願いはみたされなかった。九州日本電気に移ってからも、これが自分の道だろうかという思いは、後藤から去らなかった。
〈どこか遠くまで行きたい〉
 入社以来、後藤の胸の底はいつも乾いていた。
 だが後藤自身にとっては不満だらけの経歴の中で培われた、コンピューターに詳しい半導体屋という個性は、生まれたばかりで先行きの見えなかったマイクロコンピューターへの備えを、後藤の内に育てていた。
 一九七六(昭和五十一)年二月、かつての上司だった渡辺和也は新設されたマイクロコンピューターの販売セクションの部長に就任した。後藤は渡辺に求められ、日本電気に戻って半導体集積回路販売事業部マイクロコンピュータ販売部に所属することになった。小なりといえどコンピューターの機能を持ったマイクロコンピューターを売っていくには、まずどんな使い道があるのかを顧客とともに開発していくエンジニアがいる。渡辺からそう聞かされたとき、後藤は入社以来初めて、やりたかった仕事につくチャンスがめぐってきたことを意識した。
 新しいセクションで後藤が直接担当することになったものの中に、ビットスライス型と呼ばれる当時としては最先端のマイクロコンピューターがあった。集積度のそれほど高くない、言い換えれば詰め込める部品数の限られた当時の集積回路にまとめ上げるために、マイクロコンピューターは当初四ビットという小さな処理単位のものからスタートし、ようやく八ビットへと進化したばかりだった。こうした事情を背景に開発されたビットスライス型のマイクロコンピューターは、二ビットもしくは四ビットのプロセッサーを複数個組み合わせることで、処理単位を使用目的に合わせて伸ばせるように工夫されていた。
 アメリカのAMD社の互換製品として開発されたμCOM―2900を、のちにパーソナルコンピューターのライバルとなる日立製作所、松下電器、シャープ、カシオ計算機、ヤマハといった企業に売り込みに歩きはじめて間もなく、後藤は電電公社の横須賀通信研究所のスタッフから、新人教育用の教材が作れないだろうかとの打診を受けた。
 マイクロコンピューターの概念を、技術系の新入社員につかませたい。そのための教材を工夫してみてくれないかとの求めは、日常の活動の中で後藤たちが必要性を感じていた販売促進用の仕掛けのイメージと重なり合っていた。マイクロコンピューターをまず理解してもらううえでも、使い道を決めて用途に応じたソフトウエアを書いてもらうためにも、後藤たちは最低限動かせるだけは動かせるシステムをユーザーに提供することを求められていた。講習会を開く際、これまではテレタイプをつないだシステムを運び込んでいたが、かさばってしかも高価なテレタイプでは台数が限られた。
 インテルの評価用キットに続いて、アメリカでは複数の半導体メーカーから同じようなシステムが提供されはじめていた。そんな中で、モステクノロジー社が売り出していたKIM―1と名付けられたキットには、日の字型の小さなLEDの表示装置とごく簡単な十六進のキーボードが組み込まれていた。KIM―1を紹介した雑誌の写真を見た後藤は、テレタイプのいらないものを作りたいという開発者の意図にうなずいた。
 横須賀通信研究所用の教材は、KIM―1にならってそれだけで完結して動くものを作ろうと考えた。同僚の電卓用LSIの担当者に相談してみると、電卓に使っているレベルのキーボードならごくごく安いものですむという。コンピューター用の本格的なキーボードは、キーを押したり放したりする際に生じるチャタリングと呼ばれる信号のノイズをきれいに取ってやるために、いろいろな工夫を凝らしていた。一方厳しいコストの切り下げを求められる電卓では、ちゃちなキーボードが生じさせるチャタリングを、ソフトウエアで判定してキャンセルしてしまう工夫が進められていた。
 インテルの8080と互換性を持った日本電気製の八ビット・マイクロコンピューター、μPD8080Aを使うことを前提に後藤が設計図を書き、必要な部品を集めた。基板の裏に突き出た集積回路を差し込むソケットの足の一本一本に配線をぐるぐる巻いていく、ラッピングと呼ばれる手間のかかる組み立て方法では、さすがに後藤自身、二台組み立てる以上の根気は続かなかった。だが実際にこれで動くことが確認できれば、あとは気の毒な電電公社の新人たちに、回路図と配線のやり方を示した布線表を与え、あてがった部品をラッピングで組み立ててもらえばいい。
 だが四月からの新人の研修用に、キットとも呼べない部品のまとまりを準備する一方で、後藤はこのセットにもう少し磨きをかけ、より組み立てやすい教材を提供したいと考えはじめていた。
 部長の渡辺に諮って合意を取り付けた後藤は、同僚の加藤明と協力して、キット教材の設計に取りかかった。横須賀通信研究所向けのものは、ラッピングによる配線ですませたが、今回は配線のパターンをあらかじめ焼き込んだプリント基板を起こすことにした。プリント基板が用意されていれば、所定の位置に部品を差し込んではんだ付けしていくことで、組み立てを大幅に簡略化できるはずだった。
 μPD8080Aを使った組み立てキットは、トレーニングキットを略してTK―80と名付けた。釣り道具の店で見た中身の見える真空パックを採用してはという同僚の意見を入れ、ラミネート包装を引き受けてくれる業者をかけずり回って探し、ボール箱のケースにいたるまですべて後藤たち自身が用意した。
 回路図と首っ引きになってDECのPDP―8をしゃぶりつくした経験を持っていた後藤は、システムを理解してもらううえで情報の公開がいかに大きな意味を持つかを痛感していた。さらにDECはユーザー自身が書き起こしたプログラムを集め、開発者の希望に沿って有償もしくは無償で、ソフトウエアを流通させるという手段によって、自社のマシンの使用環境を他力によっても耕そうと努めていた。
 こうしたDECの流儀が、コンピューターをどれだけ使いやすくしてくれるかを体験していた後藤は、マイクロコンピューターを理解してもらうのが目的のTK―80ならなおさら、徹底して情報を公開するべきだと考えた。回路図を付けたうえで、ROM★に記憶させておくモニターと呼ばれる基本ソフトのプログラムリストも公開するという方針には、品質管理の担当者から「公開した情報にもとづいてユーザーが何か手を加え、そこで問題が起きたらどう責任をとるのか」とクレームがついた。だが「これはあくまでマイクロコンピューターを知ってもらうための教材で、そのことははっきりと断っておく。理解を助けるうえでは、情報の公開はどうしても欠かせないのだ」と説得し、ようやく同意を取り付けた。

★ Read Only Memory の略。コンピュータの回路上に置かれる記憶用の半導体素子のうち、書き込んである情報を読みだすだけのものを指す。これに対して、情報の書き込みと読み取りの両方ができるものを Random Access Memory と呼び、RAMと略す。手帳に例えれば、汎用的に誰もが繰り返し使う情報を印刷した部分がROM。もう一方、使う側が自分の都合でいろいろな情報を書いたり消したりできる白紙の部分がRAMに相当する。
 汎用的に繰り返し使うソフトウエアは、ROMに焼き込んで本体に組み込んでおけば、読み込みの手間を省いてマシンの使い勝手をよくすることができる。ベーシックで使うことが常識となった初期のパーソナルコンピュータでは、モニターやベーシックの翻訳ソフトがROMに焼き込んだ形で搭載されるようになった。

 部品のコストを積み上げていくと一〇万円以下の定価に抑えるのはかなり難しかったが、教材として広く利用してほしいと願い、ここでは渡辺が腹をくくった。八万八五〇〇円と定価設定されたTK―80は、一九七六(昭和五十一)年八月に売り出された。
 月に二〇〇台程度と踏んでいたTK―80だったが、これが予想を超えるペースで、期待していなかった人たちにまで売れはじめた。あわてて月産台数を引き上げて、ようやく月に一〇〇〇台を超える需要に応えられるようになった。電気製品やさまざまな分野の機械に組み込んで使ってもらうため、まずマイクロコンピューターの感覚をつかんでもらおうと作ってみたTK―80だったが、買い求めた人の中からは、このシステムを自分で所有して自由に使うことのできるコンピューターとして使う人たちが現われた。
 マイクロコンピューターを使って自分だけのコンピューターを作ろうとするマニアたちが、アメリカに存在していることを、後藤たちはすでに知っていた。新しい部署が設立された一九七六(昭和五十一)年の五月、マイクロコンピューターにかかわる新しい動きをつかもうと、渡辺和也は日本情報処理開発協会の視察団に加わり、二週間にわたってアメリカに出張してきた。
 渡辺の加わったグループは大手の電機メーカーや半導体企業を訪れる代わり、キット式のシステムを出しはじめたばかりの小さな会社や、マニアたちのクラブを選んで訪ねていった。
 サンフランシスコ郊外のメンローパークにある、ピープルズ・コンピューター・カンパニーという団体では、『ドクター・ドブズ・ジャーナル(DDJ)』というホビイスト向けの雑誌を出しはじめていた。一行とともにジーンズに長髪の連中がたむろする彼らの事務所を訪れた渡辺は、雑誌のバックナンバーを求め、定期購読の手続きを取って日本に送ってもらうことにした★。

★一九七六年五月十九日の日本のネクタイ族の訪問は、ピープルズ・コンピューター・カンパニーのメンバーにとっても大きな驚きだった。日本情報処理開発協会、マイクロプロセッサ応用研究チームと名乗る一行は、慶応大学の高橋秀俊教授をはじめ、日立、富士通、そして日本電気のまともな〈大人〉たちばかりからなっていた。
 中でも特に彼らが驚かされたのは、まっとうな企業も数多く存在しているシリコンバレーの中で、一行が彼らとキット式のコンピューターを出しはじめたばかりのIMSAI社のみを訪ねた点だった。こうした一行の目の付けどころに彼らがどんなに驚かされ、また喜んだかは、この段階ではまだ遅れ遅れの発行となっていた『DDJ』の一九七六年五月号に、「JIPDEC VISIT PCC」のタイトルでまとめられている。

 送られてきた雑誌は、マイクロコンピューターのシステムにいろいろなソフトウエアを載せて自分のためのコンピューターとして使おうとする記事であふれていた。『DDJ』で、パーソナル・ホーム・コンピューティングにテーマを絞ったフェアーが開かれることを知った後藤は、出張を願い出て一九七七(昭和五十二)年四月、サンフランシスコに飛んだ。
 十五日のセミナーから始まって、十六、十七日の二日間、サンフランシスコ・シビック・オーディトリアムで開かれた第一回ウェスト・コースト・コンピューター・フェアー(WCCF)には、小さなベンチャー企業が中心だったが二〇〇社以上がブースを並べていた。参加者は、主催者側の予想をはるかに上回る一万三〇〇〇人を数えた。自分のためのコンピューターを追い求めようとするホビイストたちの熱気で、すし詰め状態となった会場はむせ返っていた。
 TK―80を包みはじめた小さな流れは、ここアメリカではすでに急流となっていた。
 きっかけを作ったのは、電卓の組み立てキットでちょっとした成功をつかんだニューメキシコ州アルバカーキーのMITS(マイクロ・インストルメンテーション・アンド・テレメトリー・システムズ)社が、起死回生を狙って送り出した新製品だった。

嚆矢アルテア
アメリカに生まれる


 一九七三年にテキサスインスツルメンツ社が電卓市場に参入して価格競争を仕掛けると、電卓キットで伸びたMITSはたちまち窮地に追い込まれた。
 通信販売で電卓キットをさばくのにMITSが一台あたり三九ドルを要したにもかかわらず、スーパーマーケットには二九ドルの完成品の電卓が並びはじめた。
 エレクトロニクスに対するマニアックな興味がこうじてMITSを起こしたエド・ロバーツは、会社を畳むのか、もう一度勝負に出るのか、いずれにしても思い切った手を打つ必要に迫られていた。
 ロバーツが決断を迫られていた一九七四年の四月、インテルは新しいマイクロコンピューター8080を発表した。
 そもそもは日本の電卓メーカーだったビジコン社の依頼によって着手した電卓用部品の開発作業の中で、インテルは集積回路にきわめて規模の小さなコンピューターの機能を作り付ける発想を得た。発注元のビジコンは、新しい電卓を作るたびに一から設計する代わり、ソフトウエアの入れ替えによっていろいろな機能を実現できる集積回路が作れないかと考えた。開発費用削減のために融通の利く回路を用意しようというプランは、ビジコンとインテルの担当者の協議の中で、どうせならごく小さなコンピューターを作ってしまえという一歩突っ込んだアイディアに生まれ変わった。
 万能の物まね機械であるコンピューターは、組み合わせるソフトウエアによってどんな電卓にも化けることができる。ただし電卓に求められる機能を実現するだけのコンピューターなら、ごくごく規模の小さなものでよい。そもそもきわめて小規模なものに仕上げなければ、安価な電卓の部品にはとてもなりえない。
 こうした発想にもとづいて開発した初のマイクロコンピューター4004を、インテルは一九七一年十一月に発表した。

 コンピューターはすべての情報を、0か1か、オンかオフかいずれの状態にあるかという基本単位の組み合わせによって取り扱っている。
 この最小の単位を、ビットと呼ぶ。
 一ビットで表現できるのは、0か1かのいずれか。この最小単位を二桁組み合わせた二ビットなら、一〇進法の〇から三までを表現できる。三ビットなら、〇から七。四ビットなら〇から一五。つまり一〇進数を取り扱う電卓を作るのなら、四ビットを一度に処理できる構成にしておけば、一回の動作で〇から九までの数字をすべて操作できておつりがくる。

 こうして4004を四ビットとしたインテルは、一九七二年四月に発表した二つ目のマイクロコンピューター8008では、八ビット構成を採用した。
 当初大型コンピューターの端末用部品として開発が始まった8008では、数字に加えて効率よくアルファベットの文字を取り扱うことが設計の目標とされた。八ビット構成とすれば、〇から九までの数字に加えてアルファベットのすべての文字を一回の動作で一つ処理することができた。
 さらに三つ目の製品となる8080では、インテルは新しい発想を打ち出した。
 これまでの二つが当初から特定の機器の部品として開発されたのに対し、8080はいろいろな機器に使える汎用部品を目指して作られた。
 その後、大ヒットしてインテルの足場を固め、初期のパーソナルコンピューターに広く利用されることになるこの8080に、エド・ロバーツはいち早く目を付けた。
 一匹狼の気概にあふれる彼は、8080を使って桁外れに安い組み立てキット式のコンピュータターを作り、この技術を独占する者たちの手からマシンを解放するとともに、傾いた会社を救おうと考えた。
 ばら売りでは、インテルは8080に三五〇ドルの値段をつけていた。ロバーツはこの部品の成功にいまだ確信を持てないでいたインテルに掛け合って買い叩き、一個七五ドルで8080を仕入れる約束を取り付けた。
 コンピューターの回路において、情報の通り道に当たるバスと呼ばれる信号路を手っ取り早くスタッフに設計させたロバーツは、部品をかき集め、商品らしい体裁を整えるためにケースを用意した。
 アルテア8800と名付けられたこの組み立てキットはまず、一九七五年一月号の『ポピュラーエレクトロニクス』誌で紹介された★。

★何事においても、もとに当たることが重要であるという教訓は、『ポピュラーエレクトロニクス』に掲載されたアルテアの紹介記事に関しても当てはまる。あらためて同誌を読みなおしてみると、アルテアの登場は「革命的な新製品の誕生」といった趣とはいささか異なるニュアンスで伝えられていることに気付く。
 同誌のエディトリアル・ディレクター、アーサー・サルスバーグは、アルテアを紹介した号の「ホームコンピューターがやってきた」と題した巻頭言で、アルテア作りを同誌が読者に提案する〈プロジェクト〉と位置づけている。同誌はそもそも、自作派のエレクトロニクス・マニアのために、回路図や部品リストを備えた製作記事を掲載する雑誌である。同誌にはそれまで、三つのコンピューター・プロジェクトの掲載の申し入れがあったが、サルスバーグは「LEDがちかちかするデジタルコンピューターのデモンストレーター」に終わるようなプランはすべてボツにしてきた。ところがインテルが処理能力を大幅に向上させた8080を発表し、さっそくこれを使ったアルテアの提案があったことで、後生の者の目にはかなりフライング気味とは映るが、「商用機に肩を並べるミニコンピューターの手作りが可能になった」と判断して掲載に踏み切った。
 こうした経緯があってアルテアを紹介するにあたり、編集部はあくまで、同誌が読者に提案する手作りコンピューター企画とのスタンスを守っている。記事には回路図や部品のリストが掲載されており、MITSのポジションは、部品に加えてケースや電源を、同社からまとめて購入することができるというところにとどめられている。同誌に記載された情報だけでは現実にはアルテアの製作は不可能と思われるが、形式的には提案者は編集部、実行者は読者であり、プロジェクトの主体性はMITSにではなく、編集部と読者に求められている。
 パーソナルコンピューターでは、技術情報を徹底的に公開する文化的な流儀がその後大きな役割を演じることになるが、その出自をたどるうえで、初めてのMITSの紹介記事は着目すべき指標の一つであると思われる。

 当時のミニコンピューターの本体をまねたアルテアには、キーボードもディスプレイも付いていなかった。組み立て終わったユーザーは、前面のパネルに横一列に並んだスイッチを上下させて、アルテアへの入力を行うことになった。ごく短いプログラムを入れ終わると、アルテアは確かに指示どおりの手順をなぞった。ただしアルテアが動いたのだという事実と処理の結果は、横二列に並んだ発光ダイオードの点滅でしか確認できなかった。プログラムは、機械語と呼ばれる0と1の組み合わせによって書くしかなく、入力の最中に一度でもスイッチを入れ間違えればはじめからやりなおしとなった。
 アルテアでは、満足な入力も出力も不可能だった。
 コンピューターの記憶容量は通常、アルファベットの文字を一つ表すことのできる八ビットを一まとまりとした、バイト単位で表現される。
 これに従えば、アルテアの容量は二五六文字分に相当する二五六バイトしかなかった。しかもプログラムやデータを保存しておける外部記憶装置はなく、いったん電源を切ればすべての情報が失われた。
 たとえて言えばアルテアは、押し入れの奥から引っ張り出してきた八ビットのパーソナルコンピューターから基板だけを抜き出し、メモリーのあらかたを捨て、周辺機器を接続するインターフェイスも取りはずし、代わりに入力用のスイッチと小さなランプだけを取り付けたような代物だった。
 確かに慎重に事を運べば、電子の脳が動いたことだけは確認できたが、アルテアで取りあえずやれることのすべてはそこまでだった。
 このアルテアの写真を『ポピュラーエレクトロニクス』は、「市販のモデルに肩を並べる世界初のミニコンピューターキット」との賛辞を添えて、表紙に載せた。
「一〇〇〇ドル以上お得」の文字に引かれて、エド・ロバーツとMITSのスタッフのビル・イェーツの手になる記事を開くと、アルテアは四〇〇ドル以下で作ることができるとのタイトルが読者の目に飛び込んできた。本文を読み進むと、アルバカーキーのMITSの連絡先が記載されており、同社から完全なキットが三九七ドルで提供されるとの記述があった。
 ばらで買えば8080が三五〇ドルすることを考えれば、この価格はじつに魅力的だった。
 何の役に立つわけでもないだろう。だが三九七★ドルでともかく、自分のコンピューターが手に入るのだ。

★エド・ロバーツとビル・イェーツの記事は、『ポピュラーエレクトロニクス』の一九七五年一月号と二月号に分けて掲載された。MITSの広告は同誌三月号から掲載されているが、記事では三九七ドルとされていたキットの価格が、ここでは断りもなく四三九ドルに変更されている。四九八ドルだったはずの組み立て済みモデルが六二一ドルと大幅に値上げされているのは、アルテアの組み立てがいかに厄介か、MITS自身がこの間にはっきりと認識したということだろうか。
 ちなみに三月号のMITSの初めての広告は、『ポピュラーエレクトロニクス』に記事が掲載されて以来の同社の熱狂の日々の記述から始まっている。
「私たちはただ電話を受けるだけのために、余分な人員を雇わなければならなくなりました。すでに数百の注文書を頂戴しており、アルテア8800コンピューターシステムの無料パンフレットを、数千部発送しております。加えて何より喜ばしいことに、私どもは素晴らしいオプションをあらたに多数用意いたしました」
 ただしこの広告のどこにも、アルテアを出荷しはじめたとの記述はない。

 一九七五年一月号の『ポピュラーエレクトロニクス』は、一九七四年の十二月半ばには書店に並びはじめた。
 エド・ロバーツは当初、雑誌への掲載によって四〇〇台程度の注文が集まるのではないかと考えていた。だが雑誌が読者の手元に届いた日の朝から、MITSの電話が鳴りはじめた。その日のうちに、MITSは四〇〇台分の注文を確認した。アメリカ中から、小切手や郵便為替を同封した注文書が届きはじめた。
 このキット式のコンピューターをアルテアと名付けたのは、『ポピュラーエレクトロニクス』のテクニカルエディター、レズリー・ソロモンの娘だった。ロバーツの持ち込んだ企画には、当初名前が付いていなかった。ソロモンはSFドラマの「スタートレック」をテレビで見ている娘に、宇宙船エンタープライズに積んであるコンピューターの名前をたずねた。娘はただ「コンピューター」と答えたが、エンタープライズは今、アルテアを目指しているのだと付け足した。
 旅の途中に何が待ち受けているかは定かではなかったが、アルテアは確かに勇躍船出した。
『ポピュラーエレクトロニクス』の表紙用の写真を撮影した時点では、マシンはまだ動かないただの箱だった。だが突如殺到しはじめた注文にも、エド・ロバーツは動ずるところはなかった。
 雑誌が刊行されるまでには、MITSはアルテアを組み立てて動かしてみることに成功し、製品に関する記事がでっち上げではないことを実証していた。一台を組み上げることができれば、MITSにとってはそれで充分だった。ロバーツは賢明にも、アルテアをキットとした。組み立てや検査の体制を整える必要はなかった。そんな苦労は、物好きなユーザーにすべて任せておけばよかった。MITSのなすべきことは、ともかく部品を素早くかき集めてきて郵送することだけだった。
 
 カリフォルニア州のバークレーに住む建築業者スティーブ・ドンピアは、もっとも早い時期にアルテアを手に入れた一人だった。
 西海岸では以前から、大企業や国家による管理のための装置としてではなく、一人ひとりの可能性を開く道具としてのコンピューターを目指して、ピープルズ・コンピューター・カンパニーが活動を続けていた。この団体の催しでマシンに触れる機会を得てコンピューターに興味を持つようになっていたドンピアは、『ポピュラーエレクトロニクス』でアルテアの広告を見つけるや、すぐにMITSに電話を入れて関連の製品リストを送ってくれるように求めた。
 リストにあった製品をすべて一つずつ、四〇〇〇ドルの小切手を添えて注文したドンピアは、首を長くして到着を待った。だが一月が終わり、二月が過ぎてもアルテアは着かなかった。繰り返し電話を入れても、MITS側は「必ず届くから」と繰り返すのみだった。そのうちにMITSからようやく届いたのは、二〇〇〇ドルの小切手を同封した「リストにある製品はまだすべてがそろっているわけではない」との断りの手紙だった。
 欲求不満が募る中で、ドンピアはアルテアをきっかけにしてアマチュアのコンピュータークラブが作られるというニュースを耳にした。
 一九七五年三月五日、サンフランシスコ郊外のメンローパークにある発起人の家のガレージで開かれた初めての会合に顔を出すと、驚いたことにアルテアが動いていた。MITSのエド・ロバーツは、かねてからコンピューター技術の大衆的な普及を目指して活動を続けてきたピープルズ・コンピューター・カンパニーに、唯一存在していた完成品のアルテアを貸し出していた。そのアルテアが、ガレージの机の上でフロントパネルのランプを点滅させていた。
 アルテアが実際に動くのをその目で確認したドンピアは、MITSという会社が確かに実在し、注文したあのマシンを自分が手にできることを確かめたいと、矢も盾もたまらなくなってサンフランシスコからロッキー山脈を越えてアルバカーキーに飛んだ。
 空港でレンタカーを借りて住所を頼りにMITSを探したが、商店の立ち並んだあたりにはコンピューターメーカーの本社らしき建物は見当たらなかった。何度かあたりを行ったり来たりした挙げ句、ドンピアはマッサージパーラーとコインランドリーにはさまれた薄汚い小さな建物に、MITSの看板が出ているのに気付いた。
 かつては確かに生きていたと思われる会社のジャンクにまみれた残骸のようなMITSでは、女性が一人で催促の電話の対応に追われ、「アルテアは間違いなくそのうちに届く」と繰り返していた。肩まで髪を伸ばしたドンピアは、頭のてっぺんまで後退した髪を短く切った、エド・ロバーツに話を聞くことができた。すでに四〇〇〇台以上のアルテアの注文を受け付けたと豪語するロバーツは、MITSはやがてIBM以上の大企業になるだろうと大言した。
 だがMITSはこの時点にいたってもなおキットの部品を集めきることができておらず、いつになったらユーザーへの郵送を始められるのか、そのめどもまだ立ってはいなかった。ドンピアはアルテア用に集められた部品をいくつか買い求め、MITSの頼りない実在を確認してバークレーに戻った。
 
 二週間後にスタンフォード大学の人工知能研究所で開かれた二度目の集まりで、クラブにはホームブルー(自家醸造)・コンピューター・クラブという名前が付けられた。
 ドンピアは四月に入って間もなく、郵送されてきたアルテアのキットをようやく受け取った。
 興奮がしなやかさを奪った指でかさばる箱を開け、部品を引っ張り出したドンピアは、ただちに組み立てにかかって、三〇時間後には電源を入れる段階にまでこぎ着けた。だがランプは点灯したものの、スイッチを上下させてプログラムを送り込もうとすると、アルテアの動作がおかしくなった。そこからさらに六時間を費やして、ドンピアはプリント基板の引っかき傷が原因となってメモリーがうまく機能していないことを発見し、修理ののち、ついに自分のコンピューターを完成させた。
 ドンピアはマシンに取りついたまま、フロントパネルのスイッチを上下させて機械語の命令を送り込み、8080の持っている機能をすべて確認していった。周辺機器を何一つ接続できない現状では、アルテアが確かに命令に従って動いていることを確かめる以上のことはできなかったが、ドンピアは指にたこを作りながら嬉々として作業に没頭した。
 アマチュアのパイロットの資格を持っていたドンピアは、低い周波数の電波を受信できる小さなトランジスターラジオで天気情報を聞きながら、入力した数値を大小の順に従って並べ替える、ソートと呼ばれる作業のためのプログラムをスイッチから入れていった。最後の入力をスイッチから送り込んでプログラムを走らせた瞬間、アルテアの横に置いていたラジオが奇妙な音を立てはじめた。
 マシンが数値をソートするたびに、ラジオはジーッ、ジーッと鳴った。
 ソートプログラムを何度か走らせて、間違いなくアルテアがラジオを鳴らしていることを確認している最中、ドンピアの脳裏に稲妻のようにアイディアが走った。
 インターフェイス回路をまったく持っていない現状では、アルテアにはどんな周辺機器もつなげない。だがこのラジオは、もしかするとアルテアから情報を引き出す道具として使えるのではないか。このラジオは、アルテアのスイッチングノイズを拾っているのだ。
 他のプログラムではどんな音が出るのかを一つ一つ確かめはじめたドンピアは、八時間の奮闘ののちにどの数値が音階上のどの音に対応したノイズを生じさせるかを対照表にまとめ、かろうじて音楽の範疇に収まる音の連なりを再現するソフトウエア技術を確立した。
 手元ですぐに見つかった楽譜は、ビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」だった。ドンピアは楽譜の音を対照表にもとづいて八進数に置き換え、ポール・マッカートニーが「マジカル・ミステリー・ツアー」の中でフランスのニースの丘の上に立って気持ちよさそうに歌ったこのバラードを、アルテアに再現させることに成功した。
 ホームブルー・コンピューター・クラブという正式な名前が付いてから三度目のミーティングは、四月十六日にメンローパークのペニンスラスクールで開かれた。
 古い木造校舎の二階の教室に集まった仲間たちの前で、ドンピアはアルテアの初めてのリサイタルを催そうと考えた。ところがコンセントに差し込んでも、アルテアはまったく反応を見せない。仲間のテープレコーダーは動いているにもかかわらずアルテアが反応しないという謎は、コンセントはじつはみんな死んでおり、レコーダーは電池が動かしていたと気付いてようやく解けた。四〇フィートの延長コードで一階のコンセントから電源をとり、ドンピアは八進数の「フール・オン・ザ・ヒル」をスイッチを上下して入力していった。廊下で遊んでいた子供がコードにつまずいてせっかく入力したデータが一瞬に飛んでしまうトラブルはあったが、三〇分後には準備を完了した。
 ドンピアはコンサートの開演を告げ、アルテアにプログラムを走らせる指示を与えた。百科事典を数冊重ねたほどの箱形のアルテアの上に載せられたトランジスターラジオが、その瞬間、うなるような歪んだ音を立てはじめた。
 上下する音を耳で追っていた聴衆は、やがてアルテアがビートルズのナンバーを演奏していることに気づいた。そこここでさまざまな話題が吹き出し、幾重にも折り重なったメンバーの声がにぎやかなつづれ織りをなすのが常のクラブから、人の声がきれいに消え去った。しわぶき一つない会場に、アルテアの奏でるソートの音楽が響き渡った。アルテアの演奏は、完璧だった。「フール・オン・ザ・ヒル」の演奏を終えたあと、アンコールの声を充分待ちきることなくアルテアが次の演奏に移った点には不満が残ったが、耳を澄ませてラジオからの音を追う聴衆の視線の熱に、ドンピアはくすぐられるような喜びが湧き上がるのを抑えられなかった。
 ドンピアはアンコールに、コンピューターが奏でるにふさわしい「デイジー」を用意していた。アンコールが始まると、大半のメンバーの脳裏にスタンリー・キューブリックの「二〇〇一年宇宙の旅」の印象的な場面がよみがえった。
 宇宙船を管理する人工知能コンピューターHAL9000は〈精神〉に異常をきたし、船長に回路モジュールをつぎつぎと引き抜かれ〈死〉に追いやられる。瀕死のHALが低い声でとぎれとぎれに歌った「デイジー」は、一九五七年にベル研究所で初めてコンピューターによって演奏された曲だった。
 アルテアがアンコールを終えると、会場には歓声と口笛と拍手が湧き起こった。
 アルテアは早くも、しかも予想もできなかった周辺機器を獲得し、自らの世界を大きく広げて見せた。
 喝采に包まれたドンピアは、アルテアが歌いだすにいたった経緯を語りはじめた。ドンピアはさらにMITSを訪ねたことに触れ、すでにアルテアが四〇〇〇台に上る注文を集めていることを報告した。
 アルテアに突き動かされたのは、彼らだけではなかった。
 ピープルズ・コンピューター・カンパニーの会報にアルテアのコンサートの顛末を書き、八進数と音階との対照表に二曲のデジタル楽譜を添えて発表したドンピアは、その後繰り返しアルテアとともに旅立ったのが自分たちだけでないことに直面させられた。記事を読んでアルテアを歌わせることを試みた連中は、次から次へとドンピアに電話を入れては、さまざまな曲を「ソートの音楽★」の創始者である彼に聞かせようとした。

★この日のコンサートにいたる経緯は、一九七五年五月号のピープルズ・コンピューター・カンパニーの会報に、スティーブ・ドンピア自身によって「MUSIC OF A SORT」のタイトルでまとめられている。『ハッカーズ』の執筆にあたって、スティーブン・レビーは、この記事をもとにして当日の情景を描写しており、日本語版でもそのくだりを読むことができる。
 なお「ソートの音楽」に関しては、TK―80の開発中に後藤富雄氏もまったく同じ経験をしたという。スケジュールに追われて、休日、自宅でオシロスコープを睨みながら試作機の回路をいじっていたとき、後藤氏もまたラジオを聞いていた。試作機の電源を入れなおしたとき、ラジオに雑音が入るのに気付いた後藤氏は、モニタープログラムが起動されてCPUが動くことで雑音が生じていることを直感した。このときの発見以来、後藤氏はトランジスターからの雑音をCPUの動作を確認するための指標として使いはじめた。さらにTK―80から引っ張ってきた信号線をコンデンサーを一つはさんでオーディオアンプにつなぐ方法を、電子オルガンとして動かすためのプログラムとともにマニュアルに記載し、コンピューター音楽の畑を掘り起こす作業に努めた。

 アルテアは確実にドミノの最初の一枚を倒した。
 その先には、どんな夢想家にも思い描くことのできなかったほどの、おびただしいドミノの列がえんえんと連なっていた。

ビル・ゲイツ
アルテアにベーシックを書く


 東海岸のボストンでハネウェル社のプログラマーとなっていたポール・アレンもまた、『ポピュラーエレクトロニクス』のアルテアの記事に引き付けられた一人だった。
 記事を読み進むうち、アレンの胸に興奮と焦りの入りまじった熱気が噴き出してきた。
〈やはりこうなった。
 こうなるに決まっていたのだ〉
 アレンは高校時代の後輩で、これまで何度もペアを組んでコンピューター絡みの仕事をこなしてきたビル・ゲイツのもとに走った。
 ポール・アレンとビル・ゲイツを結びつけたのは、二人が通ったシアトルのレイクサイドスクールで始まったコンピューターの授業だった。
 私立の名門男子校のレイクサイドスクールは、一九六八年春、いち早くコンピューター教育に取り組むことを決めた。だが数百万ドルはする大型コンピューターはとても買えず、DECが低価格を武器に攻勢をかけていた小型のミニコンピューターにも手は届かなかった。
 そこで学校はDECのPDP―10を持っていたゼネラルエレクトリックと交渉し、使用時間に応じて料金を支払う契約を結んだ。もともとはテレックス用の通信端末として開発されたテレタイプが購入され、レイクサイドスクールに設けられたコンピュータールームに置かれた。
 本来、電話回線で文書を送るテレックスの端末として開発されたテレタイプには、入出力と通信の機能が備わっていた。文書を送る際はまず、テレタイプに組み込まれた電動タイプから入力した文字をコードに変えて、紙テープに打ち出してやる。このテープをあらためて読みとり装置にかけると、テレタイプは情報を音に変えて電話回線に送り出す。送られてきた信号は相手方でいったん紙テープに打ち出され、これを読みとると逆に電動タイプライターが文字に再現してくれる。
 こうした機能を持つテレタイプは、コンピューターの端末装置としても利用されるようになった。レイクサイドスクールでは、テレタイプは電話回線を通してゼネラルエレクトリックのPDP―10に接続され、タイム・シェアリング・システム★によって割り振られたマシンの処理能力を同校から利用できるようになった。

★複数のユーザーが、自分だけで独占しているような感覚でコンピューターを使える環境を目指した基本ソフトウエア。
 筆者はほぼ一年半の間、蟄居閉息してこの原稿をまとめたが、その間口をきく相手は唯一同居人のみだった。自分が積み上げていく原稿の束が、果たしてヤギの餌以上のものであり得るのか悩み続けた筆者は、ついに不安がこうじた挙げ句、同居人に読んでもらうというやけくその振る舞いに及んだ。コンピューターには何の思い入れもなく、パワーブックをまな板代わりに使うような同居人は、記述が技術的な説明やスペックの紹介に及ぶとプリントアウトを数枚まとめて放り投げ、物語の本線のみを追った。事態に気付いた筆者はいったんは怒鳴り散らそうかとも思ったが、かなうならばコンピューターに直接興味のない人にも読んでもらえないものかというはかない願いに一歩近づくうえでは、同居人の反応を指標として、原稿の仕立てを調整するべきではないかと考えた。その結果、少しややこしそうな話は注に回すこととした。以下はもっとも早い段階で、この措置の対象となった一節である。
 気力のある方には読んでいただきたいが、飛ばしてもらってもストーリーは問題なく追える。
 コンピューターの歴史の中でまず目標とされたのは、きわめて高くつくマシンの処理能力という資産を、全体としていかにむだなく活用しきるかという点だった。大型コンピューターでは、仕事の手順やデータを紙のカードに穴を開けて表現し、これを機械に読ませて処理を行わせるパンチ・カード・システムが広く使われた。ただし作業ごとのカードの束は、いつも順番待ちで機械の前にたまるのが常だった。こうした慢性的な作業過多状態にあって最大限の効率を実現するために、スケジュールの管理や作業の切り替えまでコンピューターにやらせようとする試みが生まれた。この仕事はどの程度急ぐのか、どれくらい作業時間を必要とするかをカードに書き添えてコンピューターにどんどん仕事を渡し、高価な機械にはむだなく働き続けてもらおうとするバッチ処理と呼ばれるこうした使い方によって、組織全体から見た処理能力の利用効率は高まった。ただし使っている側の一人ひとりは、作業の進め方を機械の都合に全面的に合わさざるをえなかった。数時間で処理した結果が出てくることもあれば、何日か待たされることもあった。
 機械の利用効率を最優先したこうした使い方が一般化する中で、やがてコンピューターの世界にも人間の使い勝手を優先しようとする試みが現われた。機械の処理能力を巧妙に小分けして、まるで一人の人間が高価なコンピューターを独占しているような使い勝手を実現しようというのがその目標だった。コンピューターで処理できる情報は当初、数値や文字といったごく単純な構造のものに限られていた。ことこうした単純な形の情報に限れば、コンピューターの処理スピードは人間に比べて桁違いに速く、人間にはほんの一瞬と思えるあいだにかなりの作業が進んでしまう。そこでまず、数値や文字を扱う機械の処理能力を、ごく短い時間ごとに切り分けてやる。そして最初の小さな時間の枠を利用して、一人目のユーザーの求めてくる仕事をこなす。時間枠を使いきれば、二人目のユーザーの要求に応じる。こうしてすべてのユーザーに小さな時間枠を与え終わったら、コンピューターはもう一度最初のユーザーに向き直り、もう一度一人ひとりの要求を時間枠の範囲で進めていく。こうした時間の切り分けをきわめて短い時間で行えば、単純なものの処理では圧倒的にコンピューターよりも遅い人間は、あたかも自分一人でコンピューターを占有しているような感覚が味わえた。

 生徒の母親たちの有志はがらくた市を開き、この年の利用料にあてようと三〇〇〇ドルを集めた。
 一九五五年十月二十八日に生まれたゲイツは当時、一三歳の八年生、年上のアレンは一〇年生となっていた。
 数学の授業でコンピューター室を覗いたゲイツは、それまで何の予備知識も持っていなかったが、教師の指示に従って操作したテレタイプに電話線の向こうのマシンが反応を返してくるのを見て、とたんに興味を引き付けられた。
 以来、ゲイツはコンピューター室に入りびたりとなり、マニュアルを読みふけった。
 だが彼には端末を独占することはできなかった。上級生の何人かも、同時にコンピューターの虜となっていた。
 そんな中に、ポール・アレンがいた。
 テレタイプに取りついた生まれたてのコンピューターマニアの中でも、二人の熱中度は群を抜いていた。ポール・アレンは機械語に近くて取っつきにくいものの、効率のよいプログラムの書けるアセンブリー言語★に興味を持った。一方ビル・ゲイツは、もともとは学生にプログラミングを教えるための言語として書かれたベーシックを使って、三目並べを手始めにゲームのプログラムを書いてはコンピューターと遊びはじめた。

★プログラムを組む際に使われるコンピューター言語の一つ。マシンのCPUがそのまま解釈しうる機械語の字句を、人間に理解しやすいように記号に置き換えてある。ただし、その他の言語と比較すると、日常的に人間が使っている言葉とはもっともかけ離れており、学ぼうとする者には敷居が高い。アセンブリー言語で書かれたプログラムを、マシンに実行してもらうために機械語に翻訳するためのソフトウエアをアセンブラーと呼ぶ。

 両親たちの集めた三〇〇〇ドルは数週間で使い果たされ、ゼネラルエレクトリックから送られてくる高額の請求書を前にして、学校側は二人の両親に料金の一部負担を求めた。請求書の額をはね上がらせる一方で、二人は互いに一目置く仲となり、しだいに友情を育てていった。
 
 この年の秋、コンピューターの使用時間を切り売りするビジネスを目指してシアトルに設立されたCCC社はポール・アレンとビル・ゲイツのコンピューター熱をいっそうあおり、彼らに技を磨く絶好の機会を提供することになった。
 レイクサイドスクールがタイムシェアリングのサービスを買っていることを聞きつけたCCCは、この学校への売り込みに成功した。
 CCCのPDP―10には面白そうなプログラムがたくさん詰まっていることを発見した彼らは、システム中をしらみつぶしにあたり、使用権のないプログラムに手を出した。通常の操作では触れることのできないデータのところまで忍び込み、ときにはシステムを使用不能の状態に陥らせた。
 バグと呼ばれるプログラムの誤りや、予想していない操作、誤った使い方などによって、コンピューターはしばしばクラッシュと呼ばれる使用不能状態に追い込まれる。
 PDP―10のシステムには、こうした脇の甘さやバグが数多く残されていた。
 いったんコンピューターがクラッシュしてしまえば、料金を払ってまともな使い方をしているユーザーも、システムを利用できなくなった。
 少年たちの熱中ぶりに手を焼いたCCCは、もともと弱みを残しているPDP―10のシステムを徹底的に洗いなおすために、逆に彼らを利用することを考えた。CCCはPDP―10の購入に際して、システムソフトウエアのバグを継続的に発見しているあいだは代金の支払いを猶予するという契約をDECと結んでいた。夕方を過ぎてからと週末、少年たちはCCCで好きなだけコンピューターを使う代わり、どんな操作を行ったときにシステムがクラッシュするか、詳細に記録することを求められた。少年たちは好きなだけコンピューターを使ってよいという夢のようなチャンスをとらえて、PDP―10にのめりこんだ。彼らは若さの特権を十二分に発揮して貪欲にシステムに関する知識をたくわえ、目覚ましい勢いで短期間にプログラミングの力を養った。
 ゲイツとアレンはその後、企業の給与計算ソフトウエアを書き、学校からはクラスの編成プログラムを頼まれて、コンピューターの使用時間とアルバイト料をせしめた。
 一九七二年の秋には、ポール・アレンが地元シアトルのワシントン州立大学に進んで、コンピューター科学を専攻した。プログラミングの力をビジネスに生かせないものかと考えていたアレンは、高校在学中のゲイツを誘って道路の交通量に関するデータの解析を看板にかかげて、トラフォデータ社を設立した。
 道路に仕掛けられた測定装置の吐き出すデータを解析し、これにもとづいて信号の切り換え時間の最適化などに関するレポートを作るビジネスを目指した二人は、この年の四月にインテルが発表していた8008に目をつけた。
 データ処理のためのまともなコンピューターはとても手に入らないが、マイクロコンピューターの8008なら三六〇ドルで買えた。
 ボーイング社のエンジニアに依頼して、二人は8008を使った超小型コンピューターを作ってもらった。だがプログラミングに必要なキーボードも、書いたプログラムを手直しするための編集ソフトもないこのマシンでは、効率よくソフトウエアを書くことなどできない。
 そこでアレンは、大学のPDP―10を使って8008の働きをそっくりそのままシミュレートするプログラムを書いた。ゲイツはPDP―10の上に仮想的に再現された8008を使って、交通データ解析プログラムの開発に取り組んだ。PDP―10にはまともな端末装置がつながっており、エディターと呼ばれる編集ソフトもそろっていた。ここで仕上げたプログラムを手持ちの8008マシンに読み込ませ、実際の処理だけをマイクロコンピューターのシステムでやらせることにした。
 トラフォデータは低料金と迅速な処理を謳い文句に、地方自治体に売り込みを図った。一九七四年春に連邦政府がデータ解析を無料で請け負うようになるまでに、トラフォデータはおよそ二万ドルを売り上げた。
 一九七三年の一月からは、二人は大手電機メーカーのTRW社でフルタイムのプログラマーとして働きはじめた。
 地域の電力使用量に対応して、水力発電所の発電量を自動的にコントロールするシステムの開発を地方自治体から請け負っていたTRWは、使用するPDP―10のシステムソフトウエアのバグに悩まされ、この環境に習熟したプログラマーを求めていた。
 大学に飽き飽きしていたアレンは、中退してこの申し出に飛び付いた。レイクサイドスクールの最終学年に達していたゲイツは、二学期を休学する許可を得てアレンの誘いに乗った。経験を積んだプロとの共同作業で、二人はいっそうプログラミングの技に磨きをかけた。
 四月に学校に帰り六月に卒業した時点で、ゲイツは再びTRWの仕事に戻った。
 だが秋からは、ハーバード大学に進むつもりでいた。
 かねてからアレンと話し合ってきたソフトウエアの会社を本格的に始める話にも心が引かれたが、結局は一まず進学する道を選んで東海岸のボストンに移った。専攻は一応、法律学としていたが、数学、物理学、コンピューター科学に関しては、大学院の課程を取ることを許された。
 翌一九七四年の春、ポール・アレンはシアトルに戻ってトラフォデータの新しい仕事を探そうとしたが、究極のダンピングを行う連邦政府というライバルには抗しようがなかった。この年の夏、ゲイツはハネウェルでプログラムを組むことになり、アレンもボストンに合流してここで働く機会を得た。
 同年四月、インテルは三つ目のマイクロコンピューターとなる8080を発表し、二人がハネウェルで働きはじめたころには、エド・ロバーツがこれを使った組み立て式のキットコンピューターに会社の存続をかけようと心を決めていた。
 再び一緒に働くことになった相棒のゲイツを、すでに大学をけ飛ばしていたアレンは、会社を始めようと繰り返し口説いた。
 当初はコンピューターのハードウエアを作る会社を作ろうと考えたが、やがて自分たちのもっとも得意とするソフトウエアに絞ろうと決めた。だがゲイツにはその時点でも、大学を捨てて会社をスタートさせる決心がつかないでいた。
 アレンが『ポピュラーエレクトロニクス』でアルテアの記事と出合ったのは、そんなときだった。
 アレンはゲイツの寮へと走り、ソフトウエアで世に打って出るチャンスが来たと告げた。
 
 アルテアには二五六バイトのメモリーしかなかった。ただしこのマシンには、メモリーを増設するためのスロットと呼ばれる仕掛けがあった。コンピューター内部の信号の通り道として使われるバスへの接続口が、あらかじめ用意されていた。
 MITSはスロットに差し込むことで、四K(四〇九六)バイトのメモリーを追加できる増設ボードの発売を予告していた。
 二五六バイトでは、機械語でほんの短いプログラムを書くしかなかった。だがあと四Kバイトあれば、ベーシックで書いたプログラムを機械語に翻訳するためのソフトウエアを載せることができるはずだった。
 通常ベーシックは、プログラムを一行ずつ機械語に翻訳していくインタープリターと呼ばれる形式をとっている。このベーシックインタープリターを8080用に書くことができれば、アルテアで機械語よりははるかに取っつきやすいベーシックを使ってプログラムが書ける。アルテアを欲しがる人なら、当然アルテア用のベーシックインタープリターも欲しがるだろう。
 そう考えた二人は、数日後、MITSのエド・ロバーツに連絡をとるために、アルバカーキーに長距離電話を入れた。
 アルテアで使えるベーシックを提供できるが関心はないかと持ちかけられたロバーツは、それが使い物になるなら契約しようと答えた。『ポピュラーエレクトロニクス』の記事が出て以来、MITSにはおびただしいマシンへの問い合わせとともに、アルテア用のベーシックに興味はないかとの電話がすでに何本か入っていた。
 8080用のベーシックをもう書き終えているとはったりをかましたアレンとゲイツは、即座に開発作業に取りかかった。アルテアの現物を持っていない二人は、トラフォデータで使った手をここでも繰り返した。
 マニュアルを手に入れ、アレンが大学のPDP―10で8080をシミュレートするプログラムを書いた。ゲイツはベーシックの仕様を決め、翻訳プログラムを書き、PDP―10の上に機能だけを再現された8080を使って動作を確かめた。
 設計の目標は、必要な機能は持たせながらベーシックを徹底的に小さく仕上げ、早く動作させることにあった。
 四Kバイトのメモリーの増設を前提としてはいるものの、ベーシックを機械語に翻訳するプログラムがスペースをフルに埋めてしまえば、肝心の仕事をさせるためのプログラムを入れる余地がなくなる。ゲイツはいったん書き上げたベーシックインタープリターを刈り込み、規模を抑え、スピードを高める作業により多くの時間をかけた。
 およそ八週間の集中した作業の末、一九七五年の二月下旬に、アレンは仕上がったベーシックを収めた紙テープを持ってアルバカーキーへ飛んだ。この日にいたるまで、二人はアルテアの実機では、ついに一度もベーシックの動作を確かめられなかった。MITSには、テレタイプをつないだアルテアがあった。紙テープをテレタイプに読ませて翻訳プログラムを送り込むと、アルテアからの反応が返ってきた。
「二+二の答えを表示せよ」
 テレタイプからベーシックの文法でそう送り込んでやると、四と答えが返ってきた。
 まったくのぶっつけ本番で、ゲイツのベーシックは動作した。
 ロバーツは実用性に関してはかなり疑わしく、信頼性にも乏しい自分たちの組み立てキットで、ベーシックが事実動いたことに有頂天となった。
 これなら「市販のモデルに肩を並べる世界初のミニコンピューターキット」という『ポピュラーエレクトロニクス』の謳い文句が、本物になってしまうとはしゃぎ回るロバーツのかたわらで、アレンは興奮を抑え平静を装うのに苦労した。
 ゲイツはその後もベーシックのバグ取りと機能の拡張を進め、アレンはこの年の春、ロバーツからの申し入れを受けてMITSのソフトウエア部長となった。
 もう一方でアレンはゲイツとともにアルバカーキーにマイクロソフト社を設立し、一九七五年の七月にはアルテア用のベーシックの正式な供給契約をMITSと結んだ★。

★マイクロソフトの設立から発展にいたる経緯は『マイクロソフト―ソフトウエア帝国誕生の軌跡―』(ダニエル・イクビア/スーザン・L・ネッパー著、椋田直子訳、アスキー、一九九二年)に詳しい。同書ははじめ、フランス人のジャーナリストであるダニエル・イクビアによってフランス語の本として書かれ、アメリカ人のライター、スーザン・ネッパーによって英語の本に「翻案」された。ネッパーは英語版の前書きにあるように、「マイクロソフト社の驚異的成功の道筋が一冊の本にまとまれば、アメリカ人もむろん読みたいと思うだろう。それなら誰かが英語でその種の本を書けばいいのではないか。しかし、イクビアの著作を翻訳すれば、ゼロから調査を始めることなく、彼の労作の恩恵を受けることができる」と考えた。ジェームズ・ウォレスとジム・エリクソンの書いた『ビル・ゲイツ 巨大ソフトウエア帝国を築いた男』(SE編集部編訳、奥野卓司監訳、翔泳社、一九九二年)も同社の歩みをじつに丹念に、しかも同社よりの史観にもとづいた『マイクロソフト』よりももう少し公平な観点から跡付けている。『マイクロソフト』の刊行以降に書かれた『ビル・ゲイツ』は、先行した著作を重要な参考文献とし、その成果を汲みながら、これを乗り越えようとした仕事である。さらにこのあとには、ステファン・メインとポール・アンドルーによる大作、『帝王の誕生』(鈴木主税訳、三田出版会、一九九五年)が控えている。個々の記述に対する詳細な情報ソースの一覧と索引を付した同書は、いかにも決定版を思わせるが、これで打ち止めとなるはずはない。パーソナルコンピューターの本家であるという事情がまず一義的に大きいという点は承知しているが、ある著作が踏み石となってつぎつぎと前の仕事を乗り越えようとする作品が書かれるアメリカの状況は、端から見ていて何とも元気があってよろしい。翻って日本のパーソナルコンピュータージャーナリズムは、そんなものがあるのかと胸に手を当てて聞いてみたいほど貧弱である。書くとすればまずは最大のテーマと衆目が一致するはずのPC―9801の誕生に関する経緯をたどったまとまった仕事は、唯一『一〇〇万人の謎を解く ザ・PCの系譜』コンピューター・ニュース社編、奥田喜久男監修、同社刊、一九八八年所収の「市場制覇への道を切り拓いた戦士達 その決断と挑戦の歴史」田中繁廣著を数えるのみではないだろうか。
 筆者がうるさいほど注でおしゃべりを繰り広げているのは、資料の在り処をせっせと示しておくことで、次に歴史をたどろうとする人の道案内ができないかと考えているのが一つの理由である。もっとも最大の理由は、単におしゃべりであるというだけではあるが。

 マイクロソフトは当初からMITSと契約を結んだが、MITSに断りなくアルテア用の製品を開発する者も現われた。
 代金を支払ってもアルテアは数か月も送られてこず、送られてきてもじつに組み立てにくく、指示どおり組み立てたとしても信頼性に乏しかった。加えて、四Kバイトのメモリー増設ボードのほとんどが不良品だった。そんな中、まともに動作するメモリーの増設ボードを売る連中が現われた。本来のマシンの供給元とそのユーザーに対して、第三者としてマシンにかかわってくるサードパーティーと呼ばれる勢力は、パーソナルコンピューターのルーツとなったアルテアの発売直後にはすでに誕生していた。
 まともに動くメモリーボードに不良品で対抗するために、エド・ロバーツはマイクロソフトのベーシックを餌にする作戦に出た。
 MITSからは、メモリーの規模に応じて三種類のベーシックが発売された。そのうち、最小規模の四Kバイト版を単体で買えば、三五〇ドル。ただしアルテア本体と、四Kバイトの増設メモリー、入出力ボードとのセットで購入する際は、六〇ドルに値引きされた★。この広告につられてセットで申し込むと、ベーシックの供給は遅れるとの言い訳付きで、できの悪いメモリーボードを含む部品の束だけが送られてきた。

★アルテアベーシック単体の価格を、MITSは一九七五年暮れのクリスマスセールでは、さすがに二分の一以下と大幅に引き下げる。上記の価格はMITSの広告が雑誌に掲載され始めた同年春のものである。この時点では、八Kバイト版の単体価格は五〇〇ドルで、本体、八Kバイトの増設メモリー、シリアルI/OもしくはオーディオカセットI/Oとのセット価格は七五ドル。最大規模の拡張ベーシックと名付けられた一二Kバイト版は、単体では七五〇ドル。本体、一二Kバイトの増設メモリー、シリアルI/OもしくはオーディオカセットI/Oとのセット価格は一五〇ドルと設定されていた。

 ゲイツはなお製品の仕上げに取り組んでいたが、MITSが主催したアルテアのデモンストレーションの会場では、暫定版のベーシックがすでに動いていた。怒ったユーザーの一人が会場からベーシックの入った紙テープを持ち去り、これがつぎつぎとコピーされてユーザー仲間のあいだで急速に広まった。
 この事実を知ったビル・ゲイツは、アルテアのユーザーグループの会報に「ホビイストへの公開状」と題する原稿を寄せた。コピーを無断で配付することはソフトウエアの開発者から盗むことであり、こうした振る舞いが横行すれば誰も労力と経費をかけて開発に取り組むことなどできなくなる。ソフトウエアを盗んでいる者は、結果的にすぐれたプログラムを書けなくしているに等しいと、ゲイツは訴えた。
 
 エド・ロバーツにとっての悩みの種は、アルテア用のさまざまな機能拡張ボードが、赤の他人によって作られはじめたことだった。
 一九七六年三月にアルバカーキーで開いたアルテアの世界大会には、サードパーティーから展示の申し入れがあった。ロバーツはこれを拒否し、彼らを寄生虫と罵った。罵られた側も負けてはおらず、会場となったホテルのスイートルームを借りて参加者を呼び入れた。
 さらにこの年の夏には、アルテアと同じく8080を使ったIMSAI8080と名付けられた対抗機が登場した。このライバルは、アルテアのバスの規格をそのまま使い、アルテア用の増設ボードが利用できることを売り物にしていた。
 さらにその後も、このバスの規格をそのまま採用した機種がつぎつぎに登場してきた。
 エド・ロバーツはこれをアルテアバスと呼び、MITSの所有物であると主張した。だがライバルたちは、標準を意味するスタンダードのSと信号線の数の一〇〇本を取ってS―100バスと言い換えた。その後IEEEに設けられた委員会で、アルテアのバスはあらためて定義しなおされるとともに機能を拡張され、S―100バスという学会の標準規格として確立された。

 パーソナルコンピューターのルーツとなったアルテアは、これ以上はないというほどのお粗末な姿で誕生した。
 そして生まれ落ちたとたん、このマシンにさまざまな連中が取りついてソフトとハードの両面から機能を拡張しはじめた。さまざまな人間たちのエネルギーを呑み込むことによって、混乱と衝突と軋轢の中で、アルテアの世界は急速に拡大していった。
 当然のことながら、MITSもまたアルテアを進化させることをもくろんだ。エド・ロバーツは一九七五年の秋には、フロッピーディスクをアルテアで使えるようにしようと考えはじめていた。
 プログラムやデータを保存しようとすれば、これまではアルテアにテレタイプをつなぎ、紙テープに打ち出すしかなかった。だが紙テープでは、素早く情報を読み書きすることはできなかった。
 一方大型コンピューターやミニコンピューターで使われているフロッピーディスクが使えれば、読み書きの効率が大きく改善できることは明らかだった。ただしそのためには単にアルテアにフロッピーディスクの駆動装置(ドライブ)がつながるようにするだけではなく、情報の読み書きの管理を受け持つソフトウエアを用意しておく必要があった。
 アレンはかねてから、フロッピーディスクドライブの管理機能をベーシックに持たせるように、ゲイツに注文を出していた。ゲイツはこの作業を延ばし延ばしにしてきたが、一九七六年の二月になって、管理機能を持たせたディスクベーシックの開発作業に一気にけりを付けた。
 この年の後半になって、マイクロソフトはMITS以外の新しい得意先を獲得した。ベーシックの売り込み先の開拓に取り組んでいたゲイツは、NCRとゼネラルエレクトリックへの供給契約の締結にこぎ着けた。
 マイクロソフトは波に乗りはじめていた。
 一九七六年十一月、アレンはMITSから籍を抜き、翌一九七七年の一月にはゲイツがハーバード大学の中退手続きをとった。プログラミングのスタッフを雇いはじめたマイクロソフトは、ベーシック以外の言語の開発にも取り組み、8080以外のマイクロコンピューターへの言語の移植にも乗り出していった。
 ゲイツはアルバカーキーに移り、この年の春、マイクロソフトは初めて事務所を構えた。
 マイクロソフトが会社としての体裁を整えはじめた一九七七年の四月、サンフランシスコで開かれた第一回のWCCFは、パーソナルコンピューター自体もまた、マシンとしての体裁を整えはじめたことを強烈にアピールする場となった。
 組み立てキット式のアルテアは、もはや過去の遺物だった。
 フェアーの主役は、買ってきたその日からすぐに使いはじめることのできる、しっかりとしたケースに収められたマシンに移り変わっていた。
 電卓で当てながら、大手の市場参入によってMITS同様窮地に追い込まれていたカナダのコモドール社は、一体型のPETと名付けたマシンの試作機をフェアーに送り込んで参加者に強い衝撃を与えた。
 ディスプレイに加えてデータやプログラムの記憶装置としてカセットデッキまで組み込み、スイッチ一つでベーシックの立ち上がるPETは、趣味の世界を超えて実用の機械を目指しているように見えた。
 スティーブン・ウォズニアックとスティーブン・ジョブズという二人の若者によって設立されたアップルコンピュータ社は、アップルIIと名付けたマシンで人気をさらった。一般のテレビ受像機につなぐ方式をとったアップルIIは、六色のカラーを表示してブースに群がる参加者の視線を釘付けにした。

パソコン革命は
日本に及ぶのか


 WCCFの会場を埋めた人の波の中で、後藤富雄は息を呑んでいた。
 ここアメリカではすでに、はっきりと個人用のコンピューターに狙いを絞った製品が生まれつつあり、こうしたマシンに目の色を変えて取りつこうとする人々が確実に層をなしていた。
 彼ら使う側と作る側、そして作る側同士の複雑な絡み合いも印象的だった。
 MITSのアルテアにマイクロソフトがベーシックを載せ、MITSの憤慨をよそにサードパーティーが周辺機器を作りはじめていた。そしてアルテアの規格は、S―100バスという業界標準となりつつあった。今や激しい急流となりはじめたパーソナルコンピューターをめぐるうねりは、無秩序であらかじめ予想することなどとてもできなかった錯綜した協力関係の中で、増幅されていた。
 PETやアップルIIといった新世代のマシンもまた、アルテアを育てた共棲関係を志向していることは明らかだった。
 PETはマイクロソフトのベーシックを採用していた。アップルIIには独自のベーシックが採用されていたが、このマシンには拡張スロットが七つも用意されていた。マイクロソフトはこの年、アップルIIに彼らのベーシックを売り込むことに成功した。
 先行するPETとアップルIIを追って、この年TRS―80を発表したタンディ社もまた、マイクロソフトとの提携に踏み切った。発表当初のマシンには自社の技術者が開発したベーシックを載せていたが、これに加えてマイクロソフトのものも積むことになった。
 PET、アップルII、そしてTRS―80の誕生を境に、アメリカでは明らかにもう一段パーソナルコンピューターの流れは勢いを増していた。
 フェアーの会場をみたすエネルギーの奔流に圧倒されながら、この流れに乗れば行きたかった遠くに行けるのではないかと、後藤は感じはじめていた。
 運ばれた先に果たしてどんな世界が待ち受けているのか、後藤に見えていたわけではない。これがアメリカだけの特殊な現象に終わるのではないか、との懸念もあった。
 だがアメリカ出張を終えたとき、後藤は流れ出した水に乗って、手探りでもともかく行けるところまで行こうと腹をくくっていた。
 一九七七年三月号の『コンピューター』で後藤が彼のバイブルとなる「パーソナル・ダイナミック・メディア」と出合ったのは、アメリカ出張から帰った直後だった。
 闇の彼方にかすかにともった光は、遠くとはどこなのかを、後藤富雄に語りかけていた。
 一九七七(昭和五十二)年春、後藤富雄は彼方にパーソナル・ダイナミック・メディアを望みながら、個人のためのコンピューターに向かって勢いを増す時代の波に運ばれ、闇の中を疾走しはじめていた。

    

    

第二部 第一章 コンピューター本流が描いたもう一つの未来像
一九七六マイコン革命の旗手としてのオフィスコンピューター

 日本電気のコンピューター事業の戦略策定をになう浜田俊三は、水平線の彼方から二つ目の小型化の波が近づいてくる気配に眉根を曇らせていた。
 一つ目の波に、日本電気はかろうじて乗ることができた。
 電子計算機に手を染めて以来、労ばかり多くして利益の上がらなかったこの分野を、日本電気はオフィスコンピューターによって、ついに採算のとれるビジネスへと転換させた。
 予想もしなかった方角から第二の波が近づいてきたのは、小型化の波に乗って日本電気がようやくコンピューター事業に突破口を開いたおりもおりだった。
 この二つ目の波は、果たしてどこまで育つのか。無視できるものなのか。それとも向き合って対処すべきものなのか。敵なのか味方なのか。
 浜田にはまだ、確信が持てなかった。
 だが、吐息一つもらす間に、波はもう一つ寄せる。足元を洗う小波か、防波堤を越える大波か、いずれにせよ波頭はここに及ぶ。とすれば果して今、何をなすべきなのか。
 一九八〇(昭和五十五)年を前後する時期、パーソナルコンピューターという第二の小型化の波を乗り切るための課題を、浜田は一つ一つ数えはじめていた。

日本電気
電子計算機本流の系譜


 一九五九(昭和三十四)年四月、高度経済成長の歯車がまさに回りはじめようとしていた時期に、浜田俊三は山梨大学工学部電気工学科を卒業して日本電気に入社した。
 通信を専攻した浜田だったが、四年生の夏までこの会社の名前は知らないでいた。
 担当の教授に夏休みの実習先として日本電気を指示され、玉川製造所★で一か月を過ごした。

★日本電気関係者の証言を集め、資料を収集していく段階で首をひねってしまったのが、事業拠点の名称だった。「玉川」に例をとれば、玉川向製造所、玉川事業所、玉川事業場、玉川事業部などさまざまな名前が登場するため、資料のまとめの段階では大いに混乱させられた。
 この疑問は、同社の正史である『日本電気株式会社七十年史』(日本電気社史編纂室編、日本電気、一九七二年)と『日本電気最近十年史』(同前、一九八〇年)をあらためて追うことで、単純に機構改革、名称変更が繰り返されたためと氷解した。と同時に、組織変更の繰り返しの跡は、当初電話機器の製造メーカーとして生まれた同社が通信一般に領域を拡張し、軍需に精力的に応えたあとで敗戦という一大衝撃を受け、そこから家電、コンピューター、半導体と新しい分野に乗り出しながら、復興、発展を遂げていった証であることを確認させられた。
 大半の読者にとっては、組織の正式名称の変遷は興味の外だろう。本文中の表記が多少前後で入れ替わっていたとしても、「筆者がそこは確認しているだろう」と安心して読み飛ばしていただければよい。ただし本書に資料的な側面を求めるごく一部の読者のために、名称の変遷の跡を戦後に限って振り返っておく。
 創業の地であり、現在本社の置かれている三田は、敗戦後、有線通信関係の拠点として三田製造所と呼ばれ、一方無線関係の拠点であった玉川は玉川向製造所と名付けられていた。日本電気はその他に、大津製造所(ラジオ、真空管)、大垣製造所(手動交換機、有線関係製品)、同瀬戸工場(通信機器用特殊窯業製品)、高崎製造所(真空管材料、各種特殊材料)の製造拠点を有していた。
 戦後のインフレ抑制を狙った金融引き締め政策、ドッジラインが発表された直後の一九四九(昭和二十四)年四月二十三日、日本電気経営陣は「会社再建に関する新提案」をまとめて、労働組合に提示した。提案は、@大垣製造所および同瀬戸工場、高崎製造所、研究所の廃止 A会社全体にわたる人員縮小 B大津製造所への独立採算性の導入を骨子としていた。以降、組合側は一〇六日間にわたって抵抗するが、五月二十七日、会社側は提案の@を実施し、七月七日にはA、Bを実行して全従業員約一万二〇〇〇名の三五パーセント弱に相当する約三六〇〇人を整理し、大津製造所をラジオ事業部に改組した。あわせて同日、三田製造所は三田事業部に、玉川向製造所は玉川事業部に名称変更された。朝鮮戦争に伴う特需景気が日本経済のカンフル剤として機能したのちの一九五四年十月、三田、玉川両事業部の名称は製造所に戻され、一九六一年四月、事業部制の採用によって今度は事業所と呼ばれることになった。コンピューターの拠点となる府中事業所の新設は、一九六四年九月。一九六九年一月には各事業所は事業支援本部と改称され、三田、玉川など、各地区工場の総称が事業所から事業場に変更される。
 昔話をたどろうとすれば、混乱もしようというものだ。

 配属されたセクションでやっていた、アナログ方式のコンピューターで潜水艦の航跡をシミュレートする仕事は、いかにも斬新で面白そうに見えた。地味ではあるが、電電公社の通信技術を支える日本電気という会社の性格にも、この実習で触れることができた。
 大学に帰り、実習で触れたコンピューターに関する文献をもう一度読みなおしてみた。教授の世話で日本電気への入社が決まり、配属を決めるための面接では「デジタルコンピューターが伸びそうなので、ぜひやらせてほしい」と答えた。
 配属先は希望どおり、コンピューターの専門セクションとして二年前に作られたばかりの電子機器工業部となった。実験的ないくつかの試みを経て、日本電気は当時からコンピューター事業に本腰を入れはじめていた。
 
 日本電気のコンピューターへの取り組みは、一九五四(昭和二十九)年ごろから始まった、論理回路用の素子に関する基礎的な研究にさかのぼる。
 このころ東京大学理学部で電子計算機に取り組んでいた高橋秀俊の研究室に入った後藤英一は、新しい論理素子を考案して注目を集めた。
 磁石を作る素材として広く使われていたフェライトを利用したこの素子は、パラメトロン★と名付けられていた。

★パラメトロンの誕生の経緯は、『日本のコンピュータの歴史』(情報処理学会歴史特別委員会編、オーム社、一九八五年)所収の「パラメトロン計算機PC―1とPC―2」に、後藤英一自身によって記録されている。師にあたる高橋秀俊の『電子計算機の誕生』(中公新書、一九七二年)には、パラメトロンの誕生とこれを利用した計算機の開発の経緯が詳述されている。
 後藤の回想によれば、高校時代からラジオ製作に凝っていた彼はアマチュアラジオ雑誌でフェライトを使ったオキサイドコアを知って興味を持ち、買い求めて遊んだ経験を持っていた。電子計算機に興味を持って入った高橋研究室はTACの開発計画にも加わっていたが、何千本もの真空管を使うものはとても手元に置けないことから、もっと簡単な方式で計算機を作れないかを検討していた。この研究室のテーマに知恵を絞っているとき、オキサイドコアの性質が素子として利用できるのではないかと閃いたという。
 本書でのちに詳述する安田寿明は『マイ・コンピュータ入門』(講談社ブルーバックス、一九七七年)で、「昭和初期、はじまったばかりのラジオ放送を聴くため、数多くの人々が、ラジオ受信機を自作し、ラジオ・アマチュアというあたらしい趣味のジャンルをひらいた。それがのちにラジオ文化、そして、いまのテレビ文化へと発展していく、いしずえとなったのである。コンピューターを手作りする人たちが出現したいま、これからの私たちの前に、どのようなコンピューター文化、どのようなコンピューター・ホビーが展開されていくのであろう?」と書いている。だが趣味のラジオ製作は、パラメトロンの誕生にも深く関与していたわけだ。

 構造がきわめて単純で丈夫なパラメトロンを用いれば、生まれたばかりのトランジスターはもちろん、これまでの真空管に比べても計算機の回路を大幅に安く作れるだろうと期待が集まった。その一方でトランジスターに比べるとスピードが上がらないという欠点もあったが、一時期パラメトロンは真空管に代わる次世代の素子の有力な候補と目された。
 寿命の短い真空管を使ったのでは、金もかかるし保守も厄介になる。かといってトランジスターは、値段が高いうえにまともに動くものがなかなか手に入らない。だがパラメトロンなら、すぐにでも電子計算機作りに取り組める。
 本業の通信の技術を進めるために、是非とも電子計算機を使いたいと考えていた日本電気の渡部和は、パラメトロンを使えばのどから手の出るほど欲しい計算の強力な道具が作れると踏んだ。
 
 一九五三(昭和二十八)年に入社し、伝送機器工業部で通信機用のフィルターの設計に取り組んでいた渡部和は、本業を進めるためにこそ、一まず計算機の開発という迂回路をとろうと考えた。
 通信に利用する電波の周波数を高め、より多くの情報を送れるようにするには、さまざまな周波数の中から利用したい特定の波だけをより分けるフィルターの性能を高めていくことが必要だった。だが高度なフィルターの設計には、膨大な計算がつきまとう。配属された部署に置いてあった電動計算機を使っても、精度の高いフィルターの設計には数か月を要した。
 一九五五(昭和三十)年五月、名古屋大学で開かれた電気通信学会で発表を行った渡部は、学会の副会長として出席していた玉川製造所長の小林宏治(のちの社長、会長)から、学内に設けられた臨時のバス停のそばで「一緒に帰ろう」と声をかけられた。
 駅前の喫茶店に誘われた渡部は、「フィルターが進歩しなければ、日本電気の生命線である通信の技術が進まない」と電子計算機の開発の必要性を小林に訴えた。
 必要なだけではない。条件も整っている。
 トランジスターは時期尚早であるにしても、パラメトロンがある。
 自らも手回しの計算機でフィルターの設計に難渋した経験を持つ小林は、新しい計算の道具が必要であることは重々承知していた。
 一九五二(昭和二十七)年から東芝が東京大学と共同で着手した真空管方式のTACの開発計画には、それゆえ期待も関心も持っていた。「動かざるコンピューター」とあだ名されるほどTACの調整作業は難航し、ひと事ながらあらためて電子計算機の難しさも痛感させられた。だが開発がいかに困難であるにしても、通信を含め、科学技術を今後大きく発展させるには計算の強力な道具が必要であるという事情には変わりはなかった。
 渡部の言うとおり、構造が簡単で動作が安定しており、値段も安いパラメトロンなら、成功の確率は高いと期待できた。
 小林はミルクセーキをストローでかき回しながら、「計算の手順は頭の中にある。その意味では頭の中に計算機はできている。二〇〇〇万円もらえれば、すぐにでも完成させてみせる」との渡部の訴えに、内心でうなずきかけていた。
 会社の図書室にあった、開発者のモーリス・ウィルクス自身が書いたEDSACの本を読んでいる最中、渡部は奇妙な親近感を電子計算機に抱くようになった。自分自身が行っている計算の作業と、電子計算機の動作原理は、本質的には同じだった。電子計算機をどう構成すればいいか、どんな回路が必要でどうプログラムを組めばいいか、渡部は積み木でももてあそんでいるように素直に理解できた。
 渡部は「電子計算機の気持ちが分かる」と思いはじめていた★。

★電気通信学会における渡部の直訴のエピソードは、『自主技術で撃て』(中川靖造著、ダイヤモンド社、一九九二年)に記録されている。日本電気の歴史を総ざらいする中から、電子大国日本の素顔をかいま見たいという壮大な目標を立てた中川は、現役、OB合わせて百数十名の同社関係者を取材し、データ原稿を三〇〇〇枚以上起こし、『自主技術で撃て』と姉妹編の『技術の壁を突き破れ』(同前)にその成果をまとめている。通信、半導体と並んで、この連作には同社のコンピューターの開発史が豊富なエピソードを盛り込んで詳述されており、パーソナルコンピューターの誕生から発展にいたる経緯にも触れられている。
 直訴の顛末は、渡部と小林へのインタビューをもとに『日本のコンピュータ開発群像』(臼井健治著、日刊工業新聞社、一九八六年)にも詳述されている。
 日本電気のコンピューター開発の歴史をさらった記録には、前出の『日本のコンピュータの歴史』所収の宮城嘉男による第三部、第四章の「日本電気」、『bit別冊 国産コンピュータはこう作られた』(相磯秀夫/飯塚肇/大島一純/坂村健編、共立出版、一九八五年)所収の発田弘による第II編「日本電気」、『情報処理』(情報処理学会編、オーム社)一九七六年九月号「日本電気における計算機開発の歴史」金田弘などがある。

 帰京した小林はさっそくコンピューター研究班の組織化を指示し、研究所のメンバーに渡部たちが加わって、基礎的な勉強会が始まった。
 そして一九五六(昭和三十一)年二月、日本電気はパラメトロン電子計算機、NEAC―1101の開発計画を正式にまとめ、本設計に着手した。
 開発方針の決定にあたっては、研究所側と渡部たち工場側とのあいだに、意見の相違があった。
 ごく基本的なものから始めようと考えた研究所に対し、必要な道具を早く作りたいと考えていた渡部はより大きなもので行こうと主張した。結局、両者の意見が平行線を保ったまま、基礎研究はこれまでどおり共同で進めるが、第一号コンピューターの開発には、研究所のみであたることになった。
 だが方針がそう決まった直後、渡部たちにもコンピューター開発のチャンスがめぐってきた。
 当時、東北大学で音声情報処理をテーマとしていた大泉充郎は、研究に求められる膨大な計算処理に直面していた。「必要な道具は作るしかない」と踏ん切った大泉は、文部省に予算要求を出して一九五七(昭和三十二)年に認められ、学内の開発体制を整えた。電子計算機の開発主体が、大学から企業に移り変わりつつある世界の流れに注目した大泉らは、「ぜひ我々にやらせてほしい」との日本電気からの働きかけに乗った。「日本最大の計算機」を目指して大幅に機能を高めた第二号機、SENAC(仙台自動計算機、日本電気の商品名ではNEAC―1102)のプロジェクトは、渡部たち工場側が研究所の協力を得て、同時並行で進めることになった。
 一九五七(昭和三十二)年九月、日本電気は電子計算機を担当する電子機器工業部を新設し、両プロジェクトの開発担当者をここに集めた。この専門セクションではさらに、もう一つの次世代素子の候補であるトランジスターを用いた機種の開発も進められた。
 一九五八(昭和三十三)年三月、日本電気は第一号機NEAC―1101の稼働にこぎ着けた。その直後に東北大学の通信研究所に搬入されたSENACは調整に手間取ったものの、同年の十一月には動きはじめた。
 このSENACの計算能力を目の当たりにして、小林宏治はあらためて電子計算機の力を実感させられた。もちろん通信の技術開発のためにも、電子計算機は大きく貢献するだろう。ただしその可能性は、通信といった一分野にとどまるわけはなかった。
〈これで世の中は変わる。日本電気は本格的に電子計算機をやらなければいけない〉
 小林はSENACを前に、そう決意した。
 次世代素子のもう一つの候補であるトランジスターには、電気試験所(通産省電子技術総合研究所の前身)が開発を終えていたMARK「の技術をもとに、開発作業に着手し、一九五八(昭和三十三)年の九月には早くも、NEAC―2201と名付けたトランジスター型の第一号機が動きはじめた。
 この年の四月、エレクトロニクスの産業振興を目的として設立されたばかりの電子工業振興協会は、各社のマシンを集めた電子計算機センターを作ってこの技術のPRに努めようと考えた。十一月の開所に向けて、日本電気をはじめとして日立製作所、富士通、東芝が開発作業を進めたが、結局間に合ったのは日本電気のNEAC―2201のみだった。そのため電子計算機センターは当面この一機種のみでスタートし、正式な開所を翌一九五九(昭和三十四)年五月に持ち越した。
 NEAC―2201は、国際的な桧舞台を飾ったことでも日本電気の関係者の記憶に深く刻まれた。一九五九(昭和三十四)年六月にパリで開かれたユネスコ主催の第一回情報処理国際会議に、日立のパラメトロン機とともに、日本電気はNEAC―2201を出展した。昼間動かして見せたあと、徹夜で修理して翌日に臨むといった綱渡り状態ではあったものの、NEAC―2201はこの会議に出品されたトランジスター式の電子計算機の中で、唯一観客の前で動いて見せることができた。
 パリでの成功のニュースを聞いた小林宏治は、電子計算機への取り組みに対する確信と自信とをいっそう深めた。小林は当時社長を務めていた渡辺斌衡を説き伏せて電子計算機の事業化のレールを敷き、通信に続く日本電気の第二の柱に育てようと決意した。
 そんな時期、浜田は設立間もない専門セクションの電子機器工業部に配属された。 
 電子機器工業部で浜田の直属の上司となったのは、のちにコンピューター担当の役員を経て副社長を務める石井善昭だった。
 東京大学第二工学部の電気工学科を卒業した石井は、一九五一(昭和二十六)年、朝鮮戦争の特需景気に日本経済が沸きはじめた年に、日本電気に入社した。
 ドッジラインに沿った金融引き締め策によって不況風が吹きはじめた直後の一九四九(昭和二十四)年四月には、日本電気は工場や研究所の閉鎖、人員整理に追い込まれた。この時期、新入社員の採用を手控えていた日本電気にとって、石井たちは三年ぶりの大卒新人だった。
 配属を決める際の面接には、玉川事業部の事業部長を務めていた小林宏治があたった。
 希望は、「極超短波の通信」と答えた。
 無線通信に用いる電波の周波数を上げ、いくつもの信号を重ね合わせて大量の情報を送ろうとするマイクロウェーブ多重通信は、当時の日本電気にとって華だった。
 有線をベースとした「伝送ではどうだ」と水を向ける小林にも、あくまで無線の「極超短波」と答えた。
 だが正式の配属先を決めるに先だって、半年ほどもかけて新人に各部署を体験させる研修期間中に伝送工場を覗いてみると、ここで扱っている技術にも興味が湧いてきた。最終的に配属先が決まる直前、小林宏治にもう一度「伝送でどうだ」と聞かれた際には、「お任せします」と答えた。
 配属された伝送技術課では、のちに会長となる大内淳義が、音声をパルスに載せて送る技術に取り組んでいた。
 当時国鉄は青森―函館間に専用の通信回線を持っていたが、これを多チャンネルの雑音の少ないものに切り替える計画が動きだしていた。電電公社通信研究所の依頼を受け、日本電気は音の信号に応じてパルスの位置をずらすPPM(パルス・フェーズ・モジュレーション)と呼ばれる技術を用いた通信装置の開発を進めていた。
 青森―函館間の回線は一九五二(昭和二十七)年十月には開通したが、その直前に大内が肺結核で倒れ、一年半の療養生活に入った。石井は青森―函館に続いて、東北電力が仙台と会津若松間に設ける専用線に同じ技術を生かす作業に携わった。だが復帰した大内と入れ替わるように自らも結核を患い、手術と療養生活を余儀なくされた。
 一九五五(昭和三十)年に職場に復帰した石井は、心機一転、日本電気にとっても新しい仕事となるコンピューターに携わることになった。伝送技術部に新設された電子計算機係に配属となり、SENACのプロジェクトに加わった。
 一九五九(昭和三十四)年四月の入社そうそう、浜田はかつて石井がチーフを務めたSENACプロジェクトの遺産と格闘することになった。
 当時日本電気は、トランジスターの将来性を買ってパラメトロンの開発を打ち切る方針を固めていた。ところがそこに、防衛庁技術研究所から東北大学に納めたSENACと同じものを作ってほしいとの申し入れがあった。科学技術計算用のコンピューターを検討した結果、防衛庁はSENACが最適であるとの判断を下した。この開発担当を、入社そうそうの浜田が命じられた。
 会計検査上の都合から、SENACは一九五八(昭和三十三)年三月に取りあえず東北大学に納入されていた。以来渡部は、調整という名の仕上げ作業を仙台で半年以上も続けた★。

★東北大学の大泉充郎らがどのような経緯で電子計算機の開発を目指し、渡部和らがいかに悪戦苦闘を続けたかは、東北大学側を情報源とした、八甫谷邦明「SENAC開発余話」(『コンピュートピア』一九七五年八月号)に詳しい。

 このSENACと同じものを作れと命じられた浜田は、工場に残されたぼろぼろの設計図を開いて頭を抱え込んだ。A1サイズの大きな図面用紙を何枚も貼り合わせ、数十メートルの巨大な巻物とされた設計図をたどっていくと、ところどころに読めない箇所があった。手元にあるものはもとの図面からとった青焼きコピーだったが、原図が何度も消しゴムで訂正されているらしく、さっぱり判読できなかった。未完成のまま納入され、仙台で手直しを繰り返しただけに、図面上には論理の誤りもかなり残されていた。
 石井の指導を受けながら悪戦苦闘の末に仕上げたマシンは、NEAC―1103と名付けられてようやく納入にこぎ着けた。
 
 一九五〇年代から手探りで電子計算機への取り組みを始めた日本のメーカーは、その後、本格的な事業の展開を目指して次のステップに踏み出そうとしたとたんにIBMの壁に直面させられた。
 敗戦後間もない当時、アメリカからの特許出願には特別な優先権が認められていた事情もあって、電子計算機に関する同社の特許は、日本ではきわめて強力な形で成立していた。
 一方IBM側にも、日本の子会社から親会社へ配当を送金することが外資法で認められていないという弱みがあった。日本IBMはそこで、技術提携に対するロイヤリティーとして送金するという手で外資法をすり抜けようと考えたが、通産省はこれを認める条件として、特許の公開と日本IBMの製造機種をパンチカードマシンに限定するように迫った。IBM側はこの提案を拒否し、以来交渉は四年にわたったが、一九六〇(昭和三十五)年十二月になってようやく、製品価格の五パーセントの特許権使用料を各社が支払うという条件で契約が成立した★。

★IBMとの特許問題に関する経緯は、前出の『日本のコンピュータの歴史』所収「特許問題とIBM特許契約」(宮城嘉男)に、明快にまとめられている。

 この契約によって訴訟の恐れを回避した日本の各社は、続いて性能においてもIBMと対抗していくために、競ってアメリカの企業との技術提携に乗り出した。
 一九六二(昭和三十七)年七月、日本電気はハネウェル社と組んだ。これに先だってRCA社との技術提携に踏み切った日立製作所は、提携先の路線にもとづいてIBM機用に開発されたプログラムをそのまま利用できる互換路線をとった。
 その後、順調に電子計算機を伸ばすことのできた日本のメーカーにとって、沖縄返還と日米繊維交渉の絡みで一九六五(昭和四十)年前後から浮上しはじめた電子計算機の自由化論議は、大きな脅威だった。
 自由化によってIBMに一気に国内の市場を押さえられることを恐れた通産省は、国内のメーカー六社を再編成して体質強化を図り、自由化への備えを固めようと考えた。一九七一(昭和四十六)年、電子計算機の自由化のスケジュールが決定されたこの年、業界一位、二位の富士通と日立はIBM互換路線に沿ったMシリーズの開発を目指して手を結んだ。一方三菱電機は沖電気と組んでCOSMOSシリーズを、日本電気は東芝と組んでACOSシリーズを、それぞれIBM非互換で開発することとなった。各グループは開発費の五〇パーセントに相当する補助金を国から交付され、IBMに対抗しうるマシンの開発に取り組んだ★。

★日本のコンピューターメーカー各社の歩みを、視点を幅広く取って横断的に跡付けた著作としては、『日本コンピュータ発達史』(南澤宣郎著、日本経済新聞社、一九七八年)、立石泰則の労作『覇者の誤算』(日本経済新聞社、一九九三年)などがある。

 国の手厚い保護を受けて進められた共同開発の成果は、一九七四(昭和四十九)年から翌年にかけての製品発表に結びついた。
 これ以降、IBM互換路線をとった一、二位連合の富士通と日立は、大きく業績を伸ばしていった。
 一方、他の二グループは業績の悪化を余儀なくされ、やがて沖電気と東芝は大型コンピューターからの撤退に追い込まれた。三菱電機は起死回生を狙ってあらたな路線に舵を切りなおした。だが、日本電気は苦しみながらも一貫してACOSシリーズを堅持した。
 日本電気のコンピューターも、小型機には実績を残した機種もあった。本筋の大型機ではトランジスターに絞る方針がとられたが、一九六一(昭和三十六)年五月に発表された当時としては超小型のNEAC―1201は、パラメトロンの安さを生かした低価格を売り物にしてヒット商品となった。
 コンピューターは小型のものでも数千万円していた当時、国民車的コンピューターを目指して一桁下の価格を実現したこのマシンは、一九六四(昭和三十九)年十月に発表された改良型のNEAC―1210と合わせて、予想をはるかに超える八七〇台を売り上げた。
 そしてこのシリーズの延長線上に、一九六七(昭和四十二)年二月、日本電気はパラメトロンに代えて回路をすべてIC(集積回路)で構成したNEAC―1240の発表を行った。
 大型汎用機の不振をよそにNEAC―1240もまた好評を博し、改良型も含めてこの機種は一四〇〇台を超えるセールスを記録した。
 だが一九七〇年代に入ると、日本電気のコンピューター事業の中で唯一気を吐いてきた超小型シリーズにも、急速に陰りが見えてきた。

日電オフコン、システム100
マイコン化に先駆ける


 こうした事態に対処するために、虎の子の超小型分野の建て直しプロジェクトがスタートすることになった。
 かつて日本電気がコンピューターに手を染めるきっかけを作った渡部和は、東北大学にSENACを納めてから本業の伝送技術に戻り、その後は中央研究所で通信とコンピューター部門の管理にあたっていた。
 その渡部がもう一度開発の現場に呼び戻され、新しい超小型機のコンセプトの取りまとめを任された。
 一九七一(昭和四十六)年一月にコンピュータ方式技術本部の技術本部長に就任した渡部は、今後の需要の中心は、中小企業の事務処理の合理化であると考えた。
 こうした認識にもとづき、プロジェクトは、中小企業が利用できる低価格と、専門のスタッフを置かずとも運用できる使いやすさとを兼ね備えたマシンを目標に据えた。
 開発の実作業には、コンピューターの開発部門を一本化して設立されたばかりの、コンピュータ技術本部第二開発部があたった。
 開発部長代理としてこのプロジェクトを管理する立場についた小林亮は、京都大学工学部電気工学科を経て一九五六(昭和三十一)年四月に日本電気に入社していた。
 初めての配属先は、中央研究所の電子計算機研究室だった。当時開発が進められていたアナログコンピューターとデジタルコンピューターの橋渡しを行う技術や磁気テープ装置などの周辺機器、まだまだ特性の悪かったトランジスターを活用してコンピューターの性能を上げるための研究にここで取り組んだのち、一九六五(昭和四十)年に研究所と玉川の工場の部隊を集めて新設された電子計算機開発本部に移った。この部署は日本電気独自方式の大型機に取り組んでおり、提携したハネウェルの流れを汲む機種は電子計算機事業部の技術部が開発を担当していた。
 その二つの開発部隊が集められ、あらたにコンピュータ技術本部が設立されることになった。電子計算機開発本部では大型を担当してきた小林だったが、コンピュータ技術本部では一転して中、小型機担当の第二開発部を率いた。
 その小林のもとに、超小型分野の新機種開発担当技術課長として浜田俊三が配属された。そして浜田の下に、データ通信の端末装置担当セクションで浜田と同じ釜の飯を食ってきた戸坂馨が設計主任としてついた★。

★日本電気におけるオフィスコンピューターの開発の経緯は、『「オフコン」絶え間なき変革 シェアナンバーワンNECの挑戦』(久野英雄著、NEC文化センター、一九九三年)に詳しい。著作の成り立ちの性質上、日本電気中心の史観で貫かれているが、貴重なコメントがすくい取ってある。

 東京大学工学部電気工学科の修士を卒業した戸坂は、一九六六(昭和四十一)年に日本電気に入社した。当時は修士出の多くが研究所にまわされていたが、「物作りがやりたいので研究所には行きたくない」と配属前の面接で訴え、オンラインで中央のコンピューターと結んで使う銀行の端末装置作りの仕事についた。
 戸坂の配属されたデータ通信の端末装置担当セクションで、先輩の浜田は当時新しいタイプの技術に取り組み、その可能性に確信を持つにいたっていた。
 きっかけとなったのは、ハネウェルから技術導入して作ったNEAC―2200という大型機に付ける、通信制御装置の開発だった。
 通信回線の制御を担当するこの装置には、かなり込み入った複雑な処理が求められた。従来どおり、配線のパターンを焼き込んだプリント基板の上に電子部品を並べて回路を作っていったのでは、基板の枚数も多くなり、配線はすさまじく入り組んで、故障のもととなる接点の数も膨れ上がると思われた。当然信頼性の確保は困難になり、一度仕様変更ということになれば、大変な手間をかけて設計と配線をやりなおすことを覚悟せざるをえなかった。
 そこで浜田は、発想をまったく切り替えてごく小規模なコンピューターの中央処理装置(CPU)を中心にシステムを構成しようと考えた。
 まずIC化した部品の組み合わせによって、一種のコンピューターを作る。このCPUにROMに収めたプログラムを実行させて求められる機能を実現する。こうした方式を採用すれば、回路はかなり整理され、仕様の変更があってもプログラムを書き換えるだけで対応できる。
 あくまで通信制御装置の開発を目的としている以上、このプロジェクトで浜田たちは、一個の集積回路にCPUを作り付けるところまで踏み込まなかった。だが浜田はこの装置の開発作業を通じて、マイクロプログラミングと呼ばれるこうした手法の有効性を実感していた。
 
 システム100と名付けられることになる新しい超小型機の開発にあたっても、浜田はこの手法をなぞろうと考えた。
 すべての機能を回路に作り付けてしまうワイヤードロジックに代え、シンプルなCPUとプログラムの組み合わせで機能を組み立てるという発想をより徹底させれば、はじめから一つにまとまったマイクロコンピューターを使うというアイディアが当然浮上してきた。だがシステム100の初代機の開発を進めていた一九七二(昭和四十七)年当時、市場にあったのは四ビットのインテルの4004や、特殊な用途に対応した限られた製品のみだった。
 一九七三(昭和五十八)年八月に発表されたオフィスコンピューター、システム100は、マイクロプログラミング方式をとっていたが、マイクロコンピューターの採用にはいたっていなかった。
 デスク型の本体の脚部は赤、机上は白に塗り分けられたマシンはかなり小型には仕上がっていた。
 だが浜田には、まだまだ小型化を推し進められるとの思いが残った。
 システム100の価格は、最小構成で約三七〇万円。マイクロプログラミング方式の採用で低価格化と小型化を推し進めたというハードウエアの特長に加え、さまざまなアプリケーションをあらかじめ用意しておくというソフトウエアの備えによって、システム100はコンピューターの利用の裾野を広げようと狙っていた。
 既成ソフトのAPLIKA( APplication LIbrary by Kit Assembling )シリーズには、販売管理、顧客管理、財務管理、給与計算などのさまざまなプログラムが用意された。渡部はさらにBEST( Beginner's Efficient & Simple Translater )と名付けた事務処理用の簡易言語も準備した。
 主に事務処理用のプログラムを書くために使われてきたコボルを手本にしたBESTによって、渡部たちは午前中に使い方の講習を受ければ午後には簡単なプログラムが書けるような環境を提供したいと考えた。
 アメリカではディジタルイクイップメント(DEC)の開発したミニコンピューターがまず研究者や技術者の注目を集め、ユーザー自身が必要とするプログラムを開発するという流儀に沿って、コンピューターの小型化の波が進んでいった。プログラムを開発するためのユーティリティーと呼ばれる小道具ソフトや言語が整備され、こうした環境はマシンをしゃぶりつくすように使いこなすポール・アレンやビル・ゲイツ、そして後藤富雄のようなハッカーを育てる土壌ともなった。
 大型コンピューターを独占するIBMの足下を食い荒らしはじめたDECの快進撃を受けて、日本でも一九七〇年前後、各社がミニコンピューターに参入していった。だが、こと日本においては、ミニコンピューターは下位の市場を押さえきることができなかった。小型機導入の中心となったのはむしろ中小企業であり、この市場を掘り起こしていったのは、中小企業の求めるソフトウエアも面倒を見ようとするオフィスコンピューターだった。
 いざコンピューターを導入する際も、日本の多くの経営者は従来の仕事の進め方にこだわった。
 システム100に用意されたAPLIKAのプログラムでも、頑固な中小企業の親父たちを納得させることは難しかった。オフィスコンピューターのディーラーは、それぞれの会社の仕事の流儀にぴったり沿ったプログラムを用意してはじめて、マシンを売り込むことができた。
 必要なソフトウエアはメーカーがすべて用意する。それでも満足がいかなければ、ディーラーがより細かな希望に沿った特注のものを書く。オフィスコンピューターによる小型化は、こうした至れり尽くせりのソフトウエアあつらえ文化に沿って進みはじめた。
 
 通信制御装置の開発でマイクロプログラミングの手法を体験した浜田俊三は、初代のシステム100の開発にあたってもこの技術を選んだ。
 情報関連の機器に求められる機能のレベルが高まれば、回路はそれに伴って複雑なものとなる。その一方で、半導体にたくさんの回路を作り付ける技術が目覚ましく進歩した結果、半導体を利用したメモリーの価格は一貫して下がりつつあった。そうした二つの流れからの圧力を受けて、さまざまな機器のエンジニアたちが、複雑な専用回路を作る代わりに簡単なCPUを集積回路化し、ROMに収めたプログラムによって機能を実現する方が賢明であると判断しはじめた。
 使い物になるマイクロコンピューターを集積回路屋が用意してくれるのなら、使わない手はなかった。
 かつて浜田が籍を置いていた端末装置事業部のエンジニアたちもまた、そう考えた。
 一九七三(昭和四十八)年十月、端末装置事業部は日本電気の製品としては初めてマイクロコンピューターを使ったN6300シリーズの発表を行った。
 銀行の窓口業務などに使われてきた従来の端末やテレタイプは、それ自体は処理の能力を持たず、入力したデータをそのまま中央のコンピューターに伝え、コンピューターからの指示に従って出力を行うだけだった。
 これに対し、端末自体にある程度の処理能力を持たせ、中央のコンピューターの負担を軽減するとともにさまざまな機能を付け加えていこうとする発想が、この時期浮上してきていた。
 数値だけを扱う電卓用に四ビットの4004を作ったインテルは、端末に使うことを考えてアルファベットに対応した八ビット構成の8008を発表していた。
 一方N6300には、「インテリジェントターミナル」と銘打ったこの装置のためにあらたに日本電気の半導体セクションが開発した、八ビットのDT―1が組み込まれた。一つのチップにまとめられてはいなかったが、DT―1は三個のLSIのセットでCPUを構成していた。
 従来の端末にないたくさんの機能を盛り込んだにもかかわらず、集積回路の採用が効いてN6300はきわめて小型に仕上がった。これまでどおりのキーボードとプリンターでユーザーに向き合うタイプに加え、N6300にはディスプレイを採用した機種も用意されていた。
 システム100の初代機ではマイクロコンピューターの採用にいたらなかったオフィスコンピューターの開発部隊にも、この強力な技術を忌避する理由などあるはずがなかった。
 問題は、充分な性能の得られるマイクロコンピューターが適当な価格で手に入るか否かだけだった。
 一九七四(昭和四十九)年の終わり、海の向こうのアメリカでは充分な性能も糞もなく、MITSが裸同然のアルテアを無理矢理船出させていた。
 一方、既存の機種の性能を落とすことなど考えられない浜田たちは、一九七五(昭和五十)年八月に発表したシステム100Gと100Hという二つの後継機でも、マイクロコンピューターの採用に踏み切れなかった。
 だがオフィスコンピューター市場を舞台とした三菱電機や東芝との激しい競争は、浜田たちにさらなる価格切り下げの圧力をかけていた。浜田は翌一九七六(昭和五十一)年に発表するシステム100の次の機種で、マイクロコンピューターを採用する可能性を探ろうと考えた。
 
 インテルはすでに、初めて汎用部品を狙った8080を発表していたが、八ビットのこのチップでは、オフィスコンピューターを構成するにはあまりに力足らずだった。そこで上司を通じ、半導体セクションにシステム100に使えるレベルのものの開発を打診してみた。すると半導体から、予想しなかった反応が返ってきた。計測機器メーカーの横河電気の依頼を受けて、彼らはすでに一六ビットのマイクロコンピューターの開発プロジェクトをスタートさせていた。
 プラントの各所のデータを集めて表示、分析するシステムを、これまで横河電気はワイヤードロジックで作っていた。だが彼らもまた、マイクロコンピューターを利用することでコストを切り下げ、信頼性を高めようと考えた。横河電気の求める高い性能レベルを達成するために、NチャンネルMOSと呼ばれる高速で動作するタイプの半導体の採用が決まっていたことも、浜田にとっては好都合だった。
 新しいシステム100のCPUには、μCOM―16と名付けられたこのマイクロコンピューターを使おうと考えた。さらに浜田は、この機会をとらえてシステム100の集積回路化を徹底的に推し進めようとした。
 コンピューターにはCPUに加えて、周辺装置を制御するためのさまざまな回路が組み込まれている。CPUだけをLSI化しても、ほかが従来どおりではメリットも中途半端なものにとどまってしまう。そこで半導体セクションに強く働きかけ、制御回路もNチャンネルMOSの技術を使ってLSIにまとめてもらうことにした。
 たくさんの部品を組み合わせて作っていた回路を半導体が骨を折ってLSIにまとめてくれれば、その後の組み立ての工程は大幅に楽になる。それまで五枚必要だったプリント基板を一枚ですませ、コンピューター本体を収めるキャビネット大の筐体をなくして卓上型に仕上げることができた。
 加えて新しいシステム100で、浜田たちはディスプレイの採用に踏み切った。従来のオフィスコンピューターが、キーボードの奥に置いたプリンターからの打ち出しによってすべての表示を行っていたのに対し、ブラウン管式のディスプレイの採用によってシステム100のイメージは一新された。
 μCOM―16を中心に、全システムをLSI化したシステム100EとFは、一九七六(昭和五十一)年四月に発表された。さらにこの年の八月には、同じくLSI化された最上位機種、システム100Jが続いた。
 当時マイクロコンピュータ販売部でμCOM―16を担当していたのは、TK―80プロジェクトに取り組んでいた後藤富雄だった。後藤は当時の最先端チップだったμCOM―16をカシオ計算機のオフィスコンピューター部門に売り込んだほか、電電公社用の端末を担当する日本電気のセクションにも採用を働きかけていた。
 
 システム100のプロジェクトを一貫して統括してきた小林亮は、オフィスコンピューターへの全面的なLSIの採用を通じて、集積回路化がコンピューター事業にとってどれほど大きな意味を持っているかを痛感させられた。
 初代のシステム100が発表された直後の一九七三(昭和四十八)年九月、肩書きの代理の文字がとれて、小林はコンピュータ技術本部第二開発部長となっていた。第二開発部の守備範囲には、オフィスコンピューターに加えて、汎用機のACOSシリーズのうち比較的規模の小さなものと、中型機までが含まれていた。大型と超大型を除き、それ以下の全マシンの開発責任を負う立場についた小林の常識を、システム100のLSI化は見事に打ち砕いた。
 いったん開発を終えてしまえば、集積回路の量産は容易である。生産ラインが整備されれば、それこそ煎餅でも焼くようにつぎつぎと作り続けることができる。ただし一つの集積回路を設計し、開発し終わるまでには、大きな作業時間を投入しなければならない。それゆえかなりの数を使うものでなければ集積回路化には向かないと、小林自身も常識どおりそう考えてきた。たかだか年間で二〇〇〇台、三〇〇〇台しか出ないシステム100を全面的にLSI化することには、その点でためらいもあった。ただし細かく見積もっていくと、それでも二割程度生産コストを下げられるめどが立ったことで、半導体セクションにも無理を言い、思い切ってLSI化に踏み切った。だが実際に生産の歯車が回りはじめると、LSI化の効果は目の届かなかったさまざまな領域に及びはじめた。
 たくさんの部品を集積回路にまとめてしまうのだから当然部品点数が少なくなり、プリント基板の数も減り、組み立て作業が省力化されることは承知のうえだった。電気製品の故障の多くは部品をつなぐはんだ付けの不良によって生じるため、部品の数が減って接点が少なくなれば、信頼性が高まることも予想がついていた。LSI化は省電力化にも効果があるため、電源を小さくできる点もメリットの一つとして数えていた。
 だがそうしたさまざまなメリットが重なり合って、製造工程がどう変わっていくかには、事前に読みきれない要素がたくさん残されていた。小林自身、もっとも驚いたのは検査工程の作業量の大幅な減少だった。LSI化以降、システム100の販売にはいっそう拍車がかかって、従来の倍の台数がはけはじめた。ところがLSI化が効いて組み立て済みの製品にほとんど不良箇所がなくなってしまった結果、検査要員は逆に半分ですんだ。半分の要員で倍の仕事がこなせる。つまりLSI化は、検査に要する作業量を四分の一に削減していた。
 製造コストを二割削減できるという当初の予測に対し、読みきれなかった要素も加わった好循環によって、システム100のコストはおよそ半分にまで切り下げられた。
 小林はこの成果を前にして、より規模が大きくてより生産台数の少ないACOSシリーズでも、徹底的にLSI化を進める腹を固めた。
 
 LSI化されたシステム100は、日本電気のコンピューター事業全体にとっても歴史的な転換のシンボルとして記憶されることになった。
 浜田の日本電気入社に四年を先だつ一九五五(昭和三十)年、渡部和の直訴をきっかけに、日本電気はコンピューターの開発に本格的に着手した。だが研究費だけを吸い込む初期の地固めの段階を過ぎても、コンピューター部門は一貫して収益を生み出せなかった。自由化に向けた業界再編以降も、グループを組んだ東芝と提携先のハネウェルとの意見調整に手間取った日本電気は、累積赤字を積み増していった。
 一九七六(昭和五十一)年六月、社長の座にあった小林宏治が会長に就任し、副社長を務めていた財務経理畑の田中忠雄にその座を譲るにあたっては、一部に「コンピューター事業の不振の責任をとった」との観測が流れた。
 浜田の入社時の上司であり、その後も日本電気のコンピューター事業の方向付けに大きな役割を演じてきた石井善昭は、一九七七(昭和五十二)年九月、この部門の戦略策定をになう情報処理企画室の企画室長に就任した。
 その直後、コンピューター部門の慢性的な赤字体質に業を煮やしていた本社スタッフの一人が、石井の部下に「君たち情報処理部門の人間は廊下の真ん中を歩くな」と言い放った。報告を受けた石井は、府中事業場に集められている情報処理の技術スタッフのうち主任以上の全員に召集をかけ、組合の三役にも出席を求めてこの一件を告げた。
「日本電気の情処のスタッフが優秀であり、一人ひとり努力してくれていることを私は承知している。そうした人間がこうした暴言を浴びることは社会正義に反すると思う」
 そう切り出した石井は、情報処理部門の開発、生産拠点となっている府中の人員を削減してコストを切り下げる計画を示して協力を求めた。
「やれるだけのことをすべてやり、実績を突き付けて本社の連中の頭を切り替えさせてやろうじゃないか。みんなには大きな苦労をかけることになるが、ぜひとも頑張ってほしい。組合にもどうか理解してもらいたい」
 石井はそう結んだ。
 以来、一九七七(昭和五十二)年から一九七九年までの三年間で、府中事業場に籍を置く情報処理の技術生産部隊の三分の一近い七〇〇名が指名を受け、五〇〇名が営業とシステム部門に、残りの二〇〇人がマシンの保守や運用の部門にまわされた。コンピューター製造部門の大幅な人員削減が進められる中、一九七八年二月には、大型汎用機の開発で日本電気のパートナーとなってきた東芝が、この分野からの撤退表明に追い込まれた。
 全面LSI化によって生まれ変わったシステム100が、オフィスコンピューター部門単独ながら利益を生み出しはじめたのは、日本電気のコンピューター事業が瀬戸際まで追い詰められたこの時期だった。
 情報処理小型システム事業部長としてオフィスコンピューター部門を率いていた渡部和は、黒字への転換のめどを見とどけてからかつてコンピューター開発を直訴した小林宏治の会長室に資料をたずさえて報告におもむいた。LSI化以降のシステム100の実績と、今後の予測を書き込んだグラフを示し、「このぶんで行けば黒字が出せる」と勢い込んで告げると、小林は一言「累積赤字は?」と切り返した。
 システム100E/Fの発表を終え、Jの開発にめどを付けた一九七六(昭和五十一)年六月、浜田俊三は情報処理システム支援本部に移って、ハネウェルから技術を導入する大型機用ソフトウエアの開発を担当することになる。
 そして一九七八(昭和五十三)年十月、浜田は石井が率いる情報処理企画室の計画部長に転じ、コンピューター事業全体の戦略策定にあたる役割についた。
 この時期、コンピュータ事業についに突破口を開いた秘蔵っ子を、日本電気はアメリカ市場にも問おうと考えていた。
 完成品のパーソナルコンピューターがアメリカで続々と誕生しはじめたのは、その矢先だった。

英語版アストラで
米国小型機市場を目指せ


 一九七七(昭和五十二)年四月、後藤富雄がウェスト・コースト・コンピューター・フェアー(WCCF)の会場でパーソナルコンピューターの台頭の熱にあおられていたころ、日本電気はアメリカで全額出資の子会社、NECインフォメーションシステムズ(NECIS)をスタートさせた。
 既存のNECアメリカとは別に設立されたNECISは、まずプリンターを米国市場に問うとともに、小規模ビジネス用のマーケットをオフィスコンピューターで掘り起こす可能性の検討に着手した。
 これに先だつ一九七五(昭和五十)年六月、端末装置事業部は国内市場に向けて、大幅なLSI化によって小型化を達成した電子プリンターのシリーズを発表していた。
 当時アメリカのキューム社は、菊の花弁の先に活字を付けたような印字機構を持つ製品で市場を押さえていた。この特許を逃れるために菊の花弁をバドミントンの羽根の形に変えて開発した新シリーズの中位機は、特に好評を博した。
 一九七八(昭和五十三)年四月、印字機構の形からバドミントンプリンターと名付けられていたこの製品の新機種が発表された。LSI化を推し進めてこれまで以上の小型化を図るとともに、8080を組み込んで細かなグラフィックスの打ち出しや双方向の印字などさまざまな新しい機能を備えた新機種の発表にあたり、日本電気はこれをスピンライターの名称でアメリカでも販売する方針を明らかにした。発表時点ですでに、四〇〇台以上の新型プリンターがNECISを通じて米国市場にサンプル出荷されていた。プリンターとはいうものの、スピンライターにはキーボード付きのタイプも用意されていた。ワードプロセッサーとして、また純然たるプリンターとしても、スピンライターはキュームの製品を追い上げる実績を残していった。
 もう一方でNECISは、オフィスコンピューターをアメリカ市場で成功させるために何をなすべきかの検討を行った。業務を依託したコンサルタント会社は、ダグラス・エンゲルバートやアラン・ケイらの研究の成果を踏まえて、使い勝手を決めるユーザーインターフェイスに新しいアイディアを盛り込むべきだとの結論をまとめてきた。
 業務をこなすためのソフトウエアはこれまで、オフィスコンピューターでは専門的なプログラミング言語の知識を持った人間が、実際に作業にあたるスタッフから仕事の中身の説明を受けて書いてきた。
 だがことアメリカ市場に製品を問うとすれば、むしろメーカー側はユーザーが自分で処理の手順を選んでいけるような環境こそを準備し、個別の対応は彼らに任せるべきだというのが、コンサルタント会社のまとめた結論だった。
 ただしプログラミングに関する知識のないユーザーに手順を組み立ててもらおうとすれば、それなりの準備がメーカー側によってなされていなければならない。その準備のポイントをコンサルタント会社は、対話を意味する「インタラクティブ」と指導を意味する「チュートリアル」という二つのキーワードで表わした。
 オフィスコンピューター事業を統括する立場にあった渡部和は、指摘された対話と指導の機能を盛り込んだ環境は、アメリカ市場切り込みの鍵となるだけでなく、早晩日本でも重要なメリットとして受け入れられるだろうと考えた。
 こうして渡部和を中心に、ITOS( Interactive Tutorial Operating System )と名付けられたシステム100用の新しい基本ソフトウエアの開発が始まった。石井善昭の指揮のもと、情報処理事業グループの開発体制のスリム化が進められる中で、ITOSの要員にも容赦なく人員削減の波は及んでいた。だが開発チームは、一九七八(昭和五十三)年九月に発表したシステム150用の基本ソフトウエアとして、ITOSのリリースにこぎ着けた。そして続く十月には、これまたITOSを搭載したシステム100の三つのモデルが発表された。
 
 新シリーズの発表にあたって日本電気は、「業務についての知識さえあれば、ややこしいコンピューターの専門知識がなくても誰でも自由に使いこなせることが、コンピューター、とりわけオフィスコンピューターの理想である」と訴えかけた。こうした理想に近づくために、ITOSには、ディスプレイに表示されるコンピューターからの問いかけに「はい」か「いいえ」で答え、処理の内容や手順を一覧表にしたメニューから選んでいくだけで、プログラムを作ったり処理を行ったりできる環境が盛り込まれていた。
 新シリーズのもう一つの特長が、通信機能の強化だった。DINAと名付けられたネットワーク技術によって、新しいシステム100では日本電気の大型コンピューターとの接続が容易になった。さらにシリーズには、複数の端末を抱えて同時並行で処理を進めていけるマルチタスクの可能なタイプも用意された。
 こうした新しい環境を載せるハードウエアは、μCOM―16の後継機として開発されたμCOM1600を中心に、集積度をより高めたLSIによって構成されていた。
 イメージを一新した日本電気のオフィスコンピューターの出荷は、一九七九(昭和五十四)年の初頭から開始された。さらにこの年の三月から、NECISはITOSを搭載した新機種をアストラと名付け、アメリカ市場での販売を開始した。
 ITOSの目指した方向は、コンピューターのパワーをより幅広い人たちに活用してもらおうと考えれば、当然の帰結だった。
 だがこうした日本電気の試みの前には、大きな障害が二つ待ち構えていた。
 新しい機能を大幅に盛り込んだITOSは、従来のシステム100用の基本ソフトに比べ一〇倍ほどの規模に膨れ上がっていた。その大規模なソフトウエアに、プログラム上の欠陥であるバグや、処理速度の足を引っ張る問題点が数多く残されていた。三月中旬、早くも一〇〇〇台を超える出荷達成にオフィスコンピューターの部隊が成功の手応えを感じはじめたころから、導入先からのクレームが聞こえはじめた。
「作業中に、突然システムが動かなくなった」
「たくさんの端末を同時に使うと、極端に処理が遅くなってしまう」
 こうした苦情が、枯れ草の野に火を放ったように、いっせいに全国から殺到した。
 従来使ってきたソフトウエアが新しいハードウエアでは利用できなかったことから、これまでのものに戻して急場をしのげなかったことは、事態の深刻さにいっそうの拍車をかけた。
 情報処理企画室長の石井善昭が先頭に立って、日本電気は火を噴いた非常事態への緊急対応体制を敷いた。日本電気にとって、事は一小型コンピューター部門のトラブルにとどまらなかった。システム100は、困難続きの同社のコンピューター事業の歴史の中で、初めて輝きだした希望の星だった。
 だがアメリカ市場に待ち構えていたのは、本質的にはITOSの巻き起こした混乱よりもさらに強固で丈高い壁だった。
 自分のためのコンピューターを作り、まず動かしてみることそのものを目的としたパーソナルコンピューターは、小規模ビジネス用の市場をアストラで切り開こうと狙っていた浜田たちの視野の外にあった。
 ところがそのパーソナルコンピューターが、アメリカでは仕事の道具として使われようとしていた。実務に役に立つ道具として受け入れられはじめたパーソナルコンピューターの勢いは、じつに目覚ましかった。アストラの前に立ちふさがる壁は、日一日と高さを増していった。
 もしもこのパーソナルコンピューターが、日本でも仕事の道具として使われることになればどうなるのか。
 最悪のシナリオを描けば、パーソナルコンピューターはアストラのアメリカ進出の出鼻をくじくだけでなく、日本でシステム100の足下をも脅かす恐れがあった。
 ITOSが火をつけたオフィスコンピューター事業の危機を乗り切るために石井善昭が陣頭指揮を取る一方で、情報処理企画室計画部長、浜田俊三は、アストラでアメリカ市場に橋頭堡を築こうと奮闘していた。
 情報処理企画室は、日本電気のコンピューター事業全体の戦略作りをになっていたが、最下位のオフィスコンピューター部門だけは、小型システム装置事業部が製品計画から営業支援までを取り仕切っていた。
 だがNECISによるアメリカ市場への切り込みに携わったことから、浜田は引き続いてアストラにかかわることになった。NECISの製品計画、現地の販売チャネルの構築、日本からの営業支援を担当していた浜田は、繰り返しアメリカを訪れ、アストラの前にパーソナルコンピューターが立ちふさがろうとしている事実を肌で感じとっていた。
 パーソナルコンピューターは、仕事の道具に生まれ変わりつつあった。
 きっかけを作ったのは、ビジネススクールの学生だったダニエル・ブリックリンがアップルIIを使って書いた、ビジカルクと名付けられたプログラムだった。

「アメリカのパソコンは
仕事の道具になっている!」


 一九五一年に印刷会社の経営者を父として生まれたダニエル・ブリックリンは、コンピューターとビジネスの世界にともに強い関心を持つ野心家に育っていった。
 高校時代からコンピューターに魂を奪われた彼は、一九七〇年にマサチューセッツ工科大学(MIT)に入った。コンピューター科学を専攻し、卒業後いったんはDECのソフトウエア技術者となった。だがビジネスへの関心は抑えがたく、一九七七年、アップルIIやPET、TRS―80など組み立て済みのパーソナルコンピューターがつぎつぎ製品化された年に、ハーバード・ビジネス・スクールに入りなおした。ところがここで出会った教授たちの時代錯誤としか思えない振る舞いが、彼を再びコンピューターの世界へ引き戻した。
 授業では、金利をはじめとするさまざまなコストの変動が企業の収益にどう影響するかのケーススタディーが行われたが、教授たちは財務データの一部を変化させてその結果がどう出るかを割り出そうとするたびに、御苦労にも黒板の前で手計算を繰り返していた。
 単純な繰り返し作業は、コンピューターに任せるという健全な常識をすでに身につけていたブリックリンにとって、時代の歯車を巻き戻してこうした悪習に染まることは耐えられなかった。
 彼は大学にあったDECのPDP―10で簡単な自動計算ツールを書き、自分自身を手計算の泥沼に追いやることは賢明にも回避した。と同時にブリックリンは、こうした計算の道具を提供すれば、企業の経理担当者や管理職、財務アナリストなどに需要が見込めるのではないかと考えた。
 ただしこの種のソフトウエアを書いたとしても、もっとも安いコンピューターがミニコンピューターにとどまっているうちは、まとまった販売量などとても期待できなかったろう。そもそもそうしたまっとうなコンピューターのためのソフトウエアのビジネスは、一介のビジネススクールの学生には敷居が高かった。
 だがブリックリンが自動計算ツールの着想を得たころには、アメリカではすでにアップルIIをはじめとする桁外れに安い新種のコンピューターが普及しはじめていた。ブリックリンはホビイ市場向けにパーソナルソフトウエアという会社を起こしていた友人のダニエル・フィルストラにこのアイディアを持ち込んで励ましを得ると同時に、彼から開発用にアップルIIを一台借り受けた。
 ブリックリンはこのマシンで、集計表形式の自動計算ツールのプロトタイプを書いた。これが友人たちに好評を博したことから、MITの先輩だったボブ・フランクストンの協力をあおいで本格的にプログラムを組み立てなおし、機能と計算速度に磨きをかけた。そしてフランクストンとともにブリックリンはソフトウエアアーツ社を起こし、パーソナルソフトウエアを販売の窓口として、ビジカルクと名付けたソフトウエアを世に問うた。
 見える計算機( VISIble CALCulator )を略してビジカルクと名付けられたこの製品は、一九七九年の五月に開かれた第三回WCCFに出展されて話題を集めた。
 画面上に表示された表の縦横の空欄にキーボードから数字を入れていくと、あらかじめ指示しておいた計算の手順に従って、ビジカルクは自動的に処理を行った。たくさんのデータでますを埋めていったあと、一か所数字の入れ間違いに気付いたときには、その部分だけデータを修正すればプログラムは自動的に全体の計算をやりなおしてくれた。ビジカルクを使えば、たとえば税率を現行の三パーセントから五パーセントに上げるとどうなるか、七パーセントまで上げるとどうかなど、さまざまなシミュレーションを簡単に行うことができた。紙と鉛筆と電卓を使う人なら誰でも、ビジカルクによる計算の自動化のメリットを享受できた。
 この年の十月に正式に発売となるや、ビジカルクは爆発的なヒット商品となった。趣味としてのコンピューターいじりにはなんの興味も抱かなかった新しい一群のユーザーが、表計算ソフトを仕事の道具として使うためにパーソナルコンピューターに目を向けはじめた。
 当初ビジカルクはアップルIIでしか動かなかったことから、このソフトウエアを使うためにアップルIIを購入する人が現われた。一九八〇年九月、アップルコンピュータは総売上台数の約五分の一にあたるアップルIIが、ビジカルクを走らせる必要条件として購入されたとの推定を行った。その後ビジカルクには、表計算ではじき出したデータをグラフ化するためのビジプロットや、データを整理して保存するためのビジファイル、電話回線を通じてデータをやり取りするためのビジタームなどの関連商品が生まれていった。
 
 表計算ソフトとともに普及していったワードプロセッサーも、パーソナルコンピューターに仕事の道具としての顔を与えるうえで、決定的な役割を演じることになった。
 この分野でその後生まれるさまざまなヒット商品の先駆けとなったのは、一九七九年の半ばに登場したワードスターだった。
 開発元のマイクロプロ社を設立したシーモア・ルービンスタインは、アルテアを追って生まれたIMSAIの会社を経て、今度はでき上がったマシンで走らせるソフトウエアの会社を起こそうと考えた。
 一九三四年にニューヨークのブルックリンで生まれたルービンスタインは、七歳で父をなくし、一二歳のときにトラックで果物を運ぶ仕事を手伝って以来、働きながら学校に通い続けた。最初に入ったシティ・カレッジ・オブ・ニューヨークの工学部では、授業についていけずに退学を強いられた。その後入りなおしたブルックリンカレッジでは、昼間働きながら心理学を専攻した。ここで卒業を間近に控えながら必修のドイツ語の単位を落とし、どうせ卒業が延びるのならと取ったコンピューターの授業が、その後の彼の歩みに大きな影響を与えることになった。
 大学卒業後、軍需用の電子機器メーカーに入ってプログラミングとハードウエアの知識を養ったルービンスタインは、知人のビル・ミラードに誘われて彼のソフトウエア会社に転職した。この会社は間もなく潰れてしまい、ルービンスタインはシステム開発のコンサルタント業を始め、一時スイスで銀行オンラインシステムの開発に携わっていた。
 一九七七年の初頭、アメリカに戻ったルービンスタインは、コンピューターキットを売っている店でIMSAIを買い求めた。これを作っている同名の会社を起こしたのが、かつて彼を誘ったミラードだった。ルービンスタインはミラードに連絡をとり、IMSAIのマーケティング部長として働くことになった。
 ここで彼は、ベーシックとは性格の異なるオペレーティングシステム(OS)と呼ばれる基本ソフトをIMSAIに載せるために、コンサルティングを依頼していたグレン・ユーイングを通じて開発元に連絡をとった。
 交渉の相手となったのは、ルービンスタインより一〇歳ほど若い、ゲアリー・キルドールだった。
 
 アップルIIやPET、TRS―80などの完成品は、電源を入れると同時に自動的にベーシックが起動されて命令を受け付ける状態となり、キーボードを叩くと画面上に文字を表示できるように作られていた。
 こうしたマシンで、ベーシックの翻訳プログラムを自動的に立ち上げたり、どのキーが押されたかを判定して画面にその文字を表示するといった基本的な動作は、モニターと総称される小規模な基本ソフトがになっていた。だがユーザーは、こうした基本ソフトの存在をほとんど意識しなかった。
 ところが当初は高嶺の花だったフロッピーディスクをパーソナルコンピューターでも使おうとしはじめたころから、ユーザーは基本ソフトを意識しはじめた。
 フロッピーディスクを使いこなすための機能は、ベーシックに持たせてしまうという選択もあった。アルテアにドライブを付けることになったとき、ビル・ゲイツは、装置の制御機能を付け加えたディスクベーシックという拡張版を書いた。ただしこうした基本的な機能をベーシックという特定の言語に持たせてしまえば、パーソナルコンピューターはどこまで行ってもベーシックマシンとして使わざるをえなくなった。
 一方大型コンピューターでは、入出力に関する基本的な機能は、OSに集中して持たせる方向に技術が進歩していた。すべての言語やアプリケーションは、このOSの上で働く構造になっていた。
 アルテア以来、わずかなメモリーにようやくベーシックを押し込んで使ってきたパーソナルコンピューターには、まずOSを載せてその上で言語の翻訳プログラムを使うといった大型の常識に付き合っている余裕はなかった。だがしだいにたくさんのメモリーがマシンに組み込まれるようになり、いざフロッピーディスクを使おうといったところまで来ると、パーソナルコンピューターでもOSの利用が現実味を帯びてきた。
 確かにパーソナルコンピューターの言語としては、ベーシックが他を圧倒していた。だがOSを採用したとしても、その上で動くベーシックを用意しておけば、ユーザーは引き続いてこの言語を利用することができる。さらにベーシック以外の言語もOSに対応させておけば、ユーザーはこれも使えるようになる。パーソナルコンピューターを永久にベーシックマシンとして使い続けると決意するのならともかく、いろいろな言語を用い、さまざまな周辺機器を利用して幅広く活用することを考えれば、OSの採用はごく自然な進化の道だった。
 
 一九四二年にシアトルに生まれたゲアリー・キルドールは、高校を終えた一九六〇年から二年間、祖父の設立したキルドール航海学校で父の後を継ぐべく、講師として働きはじめた。その後、非常勤で講師を続けながらワシントン大学でコンピューター科学を学んだキルドールは、徴兵を前に海軍に志願する道を選んだ。この選択によって彼は、ベトナムに送られる代わりシリコンバレー近くの海軍大学大学院でコンピューターを教えながら研究を続ける道を確保した。海軍在籍中にまとめた論文でワシントン大学から博士号を得た直後の一九七二年、キルドールは兵学校の掲示板で、インテルの4004の「チップ上のコンピューター――二五ドル」という広告を見た。
 たった二五ドルの部品化されたコンピューターに、キルドールは興味を引き付けられた。
 これを使って作ってみたいシステムのアイディアも、すぐに湧いてきた。
 航海時に必要な計算を行うシステムが、4004を使えばごく安く作れると閃いた。
 インテルから送ってもらったマニュアルをもとに、キルドールは航法プログラムをはじめ、4004用にいくつかプログラムを書いてみた。近くにあったインテルのオフィスにも、キルドールは顔を出すようになった。キルドールの発想と能力に興味を持ったインテルは、彼の書いた数式処理のプログラムと交換に、4004のソフトウエア開発キットのプロトタイプを提供した。4004で動かすプログラムの開発用に、インテルは最低限の周辺回路を組み合わせ、テレタイプから入出力できるようにした簡易システムを準備していた。
 一九七二年四月、インテルは4004に続いて8008を発表した。インテルのコンサルタントになっていたキルドールは4004で自分自身苦労した体験を踏まえ、8008以降はソフトウエアを書きやすくするための開発環境をインテルが自ら準備しておくべきだと主張した。ソフトウエアが書きやすくなれば、マイクロコンピューターの売れ行きが伸びるという読みには、インテルも同意した。
 キルドールが具体的に提案した環境整備のテーマは二つあった。第一は、タイムシェアリングされているミニコンピューター上で、8008の動作をシミュレートするプログラムの開発だった。こうしたソフトウエアが用意できれば、入出力用の周辺機器のそろったミニコンピューターを使って8008のプログラムを書くことができた。
 提案の第二は、高級言語を8008用に開発しておくことだった。インテルは機械語に近いアセンブリー言語は提供していたが、より使いやすいものを用意してやれば、プログラミングをかなりやりやすくすることが期待できた。キルドールは、大型で使われてきた言語のPL/1の規模を縮小したものをあらたに書きなおし、これをPL/M( Programming Language for Microcomputer )と呼んだ。
 続いて発表された8080用にも、キルドールはインタープと名付けたシミュレーションプログラムとPL/Mを書いた。この二つを組み合わせれば8080用のプログラムはかなり書きやすくなったが、この開発環境を利用するためにはミニコンピューターが必要だった。インテルはこれまでの製品と同様、8080でも最低限の周辺回路を組み合わせた開発システムを作っていた。紙テープで記録を取るしかないテレタイプが唯一の入出力装置だったこうしたシステムの使い勝手は、ミニコンピューターにははるかに及ばなかった。
 だが8080のプログラムを書きやすくするという観点からは、手軽なシステムでもPL/Mを使えるようにすることには意味があった。
 IBMがパンチカードの代わりとして開発したフロッピーディスクがマイクロコンピューターを使ったシステムで利用できれば、ミニコンピューターに頼らずに、プログラムが簡単に書けるようになるとキルドールは考えた。
 インテルから数マイル離れたところに生まれたシュガートアソシエーツという小さな会社では、当時、フロッピーディスクのドライブの開発を始めていた。話をしてみると、マーケティングマネージャーのデーブ・スコットは、長時間テストしてベアリングが完全に磨耗した試作装置をスペアーのベアリングを付けて提供してくれた。ハードウエアを設計した経験などまるでなかったキルドールは、筺体も接続ケーブルも電源もコントローラーもないドライブを前にして、途方に暮れた。インテルが用意していた、8080を組み込んだ開発システムのインテレクト―8につなごうと試みたが、うまくやりおおせなかった。たとえうまくつなげたとしても、フロッピーディスクにどう情報を書き込むかを決めるコントロール用のソフトウエアもなかったことから、まずこちらから片付けることにした。
 インテルから依頼された仕事の合間を縫って、キルドールはドライブのコントロールソフトウエアを書いた。DECのタイム・シェアリング・システム用のTOPS―10というOSを参考にして書いたこのソフトウエアを、彼はCP/M( Control Program for Microcomputer )と名付けた。
 ミニコンピューター上のインタープを使ってCP/Mを書き上げて間もない一九七四年の秋、知り合いのジョン・トロードがこの話に興味を持って、ハードウエアを仕上げる作業を手伝ってくれた。配線むき出しの接続回路でドライブをインテレクト―8につなぎ、まずテレタイプからCP/Mを読み込ませると、フロッピーディスクの初期化をすませたCP/Mは、準備完了の指示待ちサインをテレタイプに送り返してきた。
 当時急成長を遂げつつあったインテルは、体制作りに手こずり、すべてのソフトウエア開発プロジェクトが遅れ遅れとなっていた。そんな中でキルドールが新しく提案してきたCP/Mに、インテルは興味を示さなかった。一方トロードは、制御回路をきれいに作りなおし、8080を使った本体と組み合わせてフロッピーディスクドライブ付きの本格的なシステムを作り、デジタルシステムズ社(のちにデジタルマイクロシステムズ社に改称)という彼の会社から売り出そうと考えた。
 一九七五年、キルドールはこのデジタルシステムズにCP/Mをライセンスするとともに、インテリジェント端末に使おうと考えたオムロン・オブ・アメリカ社、ネットワーク用のモニタープログラムとして使おうとしたローレンスリバモア研究所と供給契約を結んだ。当初はあまり注目を集めることはなかったが、キルドールは仕事の合間を縫って手直しに努めるとともに、CP/Mを使ってプログラムを書くときに必要になるエディターやアセンブラー、デバッガーなどを書きためていった。
 IMSAIのコンサルタントをしていたグレン・ユーイングから一九七六年に連絡を受けた段階では、CP/Mはすでに異なった四つのシステムで使われるようになっていた。ユーイングの用件は、IMSAIが「OSはすぐに間に合わせる」としてすでに売りはじめていたドライブ用に、CP/Mを使わせてほしいという依頼だった。悪い話ではなかったが、異なった機種で使えるように四回も手直しを繰り返してきたキルドールは、移植作業に飽き飽きしていた。そこで、個々のハードウエアの特徴に対応しなければならない部分だけをCP/Mの中から抜き出して一まとめにし、BIOS( Basic I/O System )と名付けたこの部分だけいじれば移植が終わるようにしたいと考えた。BIOSの切り離しは自分でやったが、IMSAIのマシンへの対応は彼らに任せた。
 交渉にあたったIMSAIのルービンスタインは、「二万五〇〇〇ドルで何本でもCP/Mを使ってよい」とする条件をキルドールが呑んだことに驚かされた。なぜそんなに安売りするのかとたずねると、キルドールは「そうすればもっとたくさんの人がCP/Mを使うようになるから」と答えた。
 
 キルドールのコンサルタント仲間だったジム・ウォーレンはそのころ、ホビイスト向けに創刊されたばかりの『ドクター・ドブズ・ジャーナル(DDJ)』の編集を取り仕切るようになっていた。
 たくさんのホビイストたちが、組み立てたシステムに自分自身でベーシックを載せ、自分のためのコンピューターを育てようと意欲を燃やしていることを雑誌への手応えを通じて感じとっていたウォーレンは、CP/Mを一般向けに売り出すようにキルドールに勧めた。マイクロソフトのビル・ゲイツはユーザーによるベーシックの勝手なコピーを強く非難し、誕生したばかりのソフトウエアベンダーの中には一般向けに売ったりすればコピーのし放題でとても商売にはならないと考える者もいた。だが、まともなソフトウエアが充分安い価格で売り出されればユーザーは買うに違いないと確信するウォーレンの言葉に、キルドールは説得力を感じた。デジタルリサーチ社を起こし、マニュアル込みのセット価格七〇ドルで売ることを決めると、一九七六年四月号の『DDJ』にウォーレンがまとまった紹介記事★を書いてくれた。

★「フロッピーディスク・オペレーティング・システムに関する初報告/DECSYSTEM―10に類似したコマンド言語と機能」

 CP/Mには注文がすぐに集まりはじめ、草の根からの人気が高まっていった★。

★こうしたCP/Mの発展の経緯に関しては、ゲアリー・キルドール自身が一九八〇年一月号の『DDJ』に書いた「CP/Mの歴史」に詳しい。

 事態は、キルドールの望みどおりに推移した。
 一九七七年にパーソナルコンピューターの製品化が一挙に進み、やがてフロッピーディスクドライブが広く使われるようになると、CP/Mは8ビットの標準OSとして認められるようになった。
 IMSAIをはじめとするライバル機に追われはじめると、アルテアでブームに火をつけたMITSのエド・ロバーツは、すぐに会社に見切りをつけた。いずれ大手がこの分野に参入してくると読んでいたロバーツは、電卓市場の二の舞を避けようと考えた。一九七七年五月、MITSはミニコンピューター用のハードディスクなどを作っていた、パーテック社に買収された。
 IMSAIの時代もまた終わりつつあると考えたルービンスタインは、一九七八年に同社を去ってソフトウエアの会社、マイクロプロを設立した。ルービンスタインがまずやったのは、自分の二週間前にIMSAIをやめていた同社の元ソフトウエア開発部長、ロブ・バーナビーを雇うことだった。バーナビーはすぐにCP/Mの上で使う、二本のアプリケーションを書いた。一つは集めたデータをルールに従って並べ替えるためのスーパーソート。そしてもう一つは文字の入力や修正、変更を行うためのワードマスターだった。
 
 ルービンスタインには、ソフトウエアはやがて独り立ちした商品となるという確信があった。
 そうなったときに最大の利益を上げるためには、キルドールやゲイツのようにハードウエアのメーカーと供給契約を結ぶべきではなく、また通信販売に頼るべきでもない。流通業者のルートに乗せ、少しずつ生まれはじめた小売店で売るべきだと考えていたルービンスタインは、二つの製品の販売を通じて関係を持ったディーラーを繰り返し訪ね、市場がどんなソフトウエアを求めているのかをつかもうと試みた。
 多くのディーラーが声をそろえて求めたのが、ワードマスターをさらに進歩させ、文書作成に使えるワードプロセッサーを作ることだった。文書編集用のテキストエディターとして開発されたワードマスターは、印刷の機能が弱く、細かな体裁の指定ができなかった。こうした機能を強化して、いったんキーボードから入れた文章を後から編集、修正し、これをきれいに打ち出すことのできるワードプロセッサーに需要があることは、すでに明らかになっていた。
 ニューヨークでコマーシャル写真のカメラマンをしていたマイケル・シュレイヤーは、広告業界の猛烈主義と欺瞞に嫌気がさして、一九七〇年代の半ばにこの世界から足を洗った。
 カリフォルニアに移り住んだ彼は、マイクロコンピューターを使ったシステムに興味を持ち、ホビイストのグループに加わるようになった。この集まりでシュレイヤーは、プログラムを書く際に入力や訂正作業に使えるユーティリティーを集めたものをもらった。プログラムは自分で書くのが当然の当時のホビイストにとって、このソフトウエアは便利な小道具だったが、シュレイヤーは自分ならもっとましなものが書けると考えた。
 実際にシュレイヤーが書いてみたユーティリティーはホビイストの人気を集め、彼はソフトウエアの会社を起こしてそのプログラムを売った。ところが異なった機械を持ったたくさんのホビイストからの注文が寄せられたため、彼はそれぞれの機械に合わせてプログラムを手直しするとともに、マニュアルもいちいち書き直す羽目になった。
 タイプライターを使ってマニュアルを打ちなおす作業に飽き飽きしたシュレイヤーは、文書が作成できて手直しがきき、プリンターから打ち出せるようにするためのプログラムを書こうと考えた。
 一九七六年の十二月、シュレイヤーはアルテア用にワードプロセッサーのプログラムを書き上げ、これをエレクトリックペンシルと名付けた。厄介な仕事を手短にすませるために書いたエレクトリックペンシルだったが、このソフトウエアがシュレイヤーにもっとたくさんの仕事を運んできた。ホビイストの集会でシュレイヤーが自分の書いたワードプロセッサーを誇らしげに紹介すると、エレクトリックペンシルは大評判を呼んだ。彼のもとには、再び異なった機種のユーザーからの注文が寄せられた。おまけに今度は、つながっているプリンターに合わせる必要もあったために、シュレイヤーは手直しに追いまくられた。事業家としてのし上がっていくことに興味を持てなかったシュレイヤーは、作業を代わりにやってくれるプログラマーを見つけてきて、自分はこの大騒ぎからさっぱりと身を引いた。
 
 エレクトリックペンシルの成功を睨みつつ、ディーラーからワードプロセッサーこそが求められていると繰り返し聞かされたルービンスタインは、バーナビーに指示してワードマスターの機能を強化させ、三つ目のこの製品をワードスターと名付けた。
 CP/M上で使うことを前提として書かれたワードスターに関しては、マイクロプロはシュレイヤーの悩まされた機種ごとの手直し作業に追われることはなかった。
 コンピューターの基本的な動作を一括して管理するOSに対応したプログラムは、OS側が用意している作業のメニューを利用して動くように設計することができた。
 シュレイヤーが手直しの作業に忙殺されたように、それぞれのハードウエアはそれぞれの特徴を持っていた。ところが異なった機械であってもCP/MならCP/Mを載せると、アプリケーションの対応すべきルールはそろってしまうことになった。OSのメニューにないことを独自に工夫してやらせるようなことをしなければ、CP/M用のソフトはCP/Mを載せたどのマシンでも使えるように書くことができた。
 一九七九年の半ばに売り出されたワードスターは、ビジカルクとともにパーソナルコンピューターに仕事の道具としての新しい顔を与え、この分野のソフトウエアがビジネスとして成立することを実証してあまたのライバルの誕生を促す呼び水となった★。

★パーソナルコンピューターのソフトウエア産業が勃興してくる過程は、『パソコン革命の英雄たち』(ポール・フライバーガー/マイケル・スワイン著、大田一雄訳、マグロウヒルブック、一九八五年)に詳しい。また業界の一癖も二癖もありそうな人物を六五人網羅して列伝風に並べた『コンピュータウォリアーズ』(ロバート・レヴェリング/マイケル・カッツ/ミルトン・モスコウィッツ著、根岸修子/鶴岡雄二訳、アスキー、一九八六年)も、当時の時代の空気と人の肌合いを生き生きと伝えている。
 筆者にとって同書はまた、鶴岡雄二による訳者後書きの一節でも強く印象に残っている。
「60年代の社会改革運動とパーソナルコンピュータ革命とを関連させる仮説というのは、一部の人たちのあいだでは語られていたことであり、私事にわたるが、訳者自身もかつて雑誌編集者であったときに連載記事として企画したが、サンプル不足で果たせなかった。そんなこともあって、こうして実例を眼前にして、やはりそうだったかと我が意を得た思いがした」
 似通った発想から『パソコン創世記』(旺文社、一九八五年)を書きはしたものの、果てのない闇に向かってボールを投げ込んだような手応えのなさにすっかり腐っていた筆者は、この一節を読んでそれこそ〈我が意を得た思いがした〉。

 浜田俊三がアストラでアメリカ市場に食い込もうと動きはじめた一九七九年は、ビジカルクとワードスターが登場し、パーソナルコンピューターが仕事の道具として急速に認知されることになるまさにその年だった。
 乗り込もうとしたその先には、新種の強敵が育ちつつあった。
 マイクロコンピューターを利用した小規模なシステムが目覚ましく伸びることだけは、疑いようがなかった。ただその新しい動きの主役がオフィスコンピューターなのか、それともパーソナルコンピューターであるのかは、いまだ明らかになってはいなかった。

    

    

第二部 第二章 奔馬パソコンを誰に委ねるのか
一九八一 IBM PCの栄光と矛盾

「パーソナルコンピューターも一六ビットになると、かなりビジネスに使われるようになると思われます。我々情報処理事業グループとしても、今後はこの分野を考えていきたいと思っているのですがいかがでしょうか」
 情報処理担当役員の石井善昭がそう問いかけた相手が、大内淳義であることは出席者の誰にも明らかだった。
〈三つか〉
 大内は石井の言葉をとらえた瞬間、内心でそうつぶやいた。
〈そしてもっと難しくなる〉
 口には出さぬままそう続けてから、大内は机に落としていた視線を上げて石井を見返した。
「情処では、はっきりと事務用と分かるものを考えていったらどうだろう」
 大内のこの発言で、会議の大勢は決した。
 今後日本電気グループは、三つの柱を据えてパーソナルコンピューターの事業に取り組んでいく。一つは子会社の新日本電気がになう、家庭用の八ビットの低価格機種。二つ目は、コンピューターの専門部隊である情報処理事業グループがあらたに取り組む、一六ビットの事務用機。そして三つ目に、これまでこの分野を切り開いてきた電子デバイス事業グループが、両者の中間的な機種を従来の製品の延長上にになっていく。
 会長の小林宏治にも、社長に就任して間もない関本忠弘にも、会議を呼びかけた副社長の大内がそれでよいというのならあえて付け加えることはなかった。
 パーソナルコンピューターは、大内の領分だった。
 その大内が一歩退いて身内の電子デバイスを押さえ、新日本電気と情報処理を受け入れるというのなら、それでよかったのだ。
 一九八一(昭和五十六)年初頭、今後のパーソナルコンピューター事業を日本電気グループ全体でどう進めていくか、それぞれの事業担当者とトップを集め、大枠の調整を図るために開かれた会議は三つの柱を据える方針を確認して終わった。
〈同士討ちまがいのひどい混乱だけは、一まずこれで避けられるだろう〉
 会議室から自室に向かいながら、大内はそう考えた。だが電子デバイスと新日本電気の二つのグループのあいだで起こった摩擦が、ここであらたに情報処理が加わったことで、さらに込み入った形で生じる恐れはぬぐいきれなかった。
 とすれば、いつかはパーソナルコンピューターを誰がになうべきか、その問いに正面切って答えざるをえないのかもしれない。
 大内は、会議の席で押し黙ったまま唇を噛んでいた、渡辺和也の表情を思い浮かべた。
 半導体部門の一セクションが卵からかえしたパーソナルコンピューターには、今、三人が育ての親に名乗りを上げていた。
 マイクロコンピューターの販売という本業をこなしながら、孤立無援でここまで育ててきた渡辺の胸に湧き上がっている思いに、大内は想像の手を伸ばした。
〈最後まで育て上げたいだろう〉
 副社長室の椅子に深く腰を下ろし、大内は渡辺の思いを両手で包むようにしてなぞってみた。
〈だが組織の壁を越えてどうしてもパーソナルコンピューターを育て続けたいと望むなら、ビジネス用途以外に市場を切り開くという困難な条件を乗り越えて、三者の競争に勝ち残ってもらわざるをえない〉
 細い息を長く吐きながら、大内はそう考えた。
 パーソナルコンピューターが事務処理の道具たりうるのなら、組織の枠組みに照らせば当然、これをになうべきはコンピューターの専門部隊である情報処理事業グループなのだ。
 何が悪かったのでもない。
 ただパーソナルコンピューターは、予想を超えて育ちすぎた。
 TK―80から疾走しはじめた渡辺たちが、本格的にパーソナルコンピューターを事業化すると意気込んでPC―8001のプランを持ってきたとき、ゴーサインを出すか否か迷いに迷ったことを、大内は思い出した。
 あの日の逡巡には、今となって振り返れば、こうなることへの無意識の予感があったのかもしれない。
 まったく新しい事業を自らの手で作り上げ、社内ベンチャーを敢行してのし上がっていこうとする渡辺和也の熱。自分のコンピューターを、思いのままに作りたいという後藤富雄たちの夢。そして内から湧き上がる彼らのエネルギーは、硬直しがちな大組織を活性化させる鍵となると読んだ大内淳義の理。
 マイクロコンピューターに取りつかれたマニアたちの息吹を追い風として、PC―8001を軌道に乗せようと奮闘してきたこれまで、大内の理と渡辺の熱と後藤の夢の歯車は、隙間なくぴったりと噛み合ってきた。
 その幸せな一瞬が、今、過ぎ去ろうとしていた。

組み立てキットTK―80
日電パソコンの源流を開く


 TK―80を通して覗いた生まれ立てのパーソナルコンピューターの世界は、大内の目には創世の混沌に支配されているように見えた。コンピューターいじり自体を楽しむマニアが存在することは、間違いのない事実だった。だがこの趣味の世界が果たして今後も成長し続けるものか、当初、大内には確信が持てなかった。
 どこまで突き進んでいくのか、確かめたいと思ったのはむしろ、渡辺たちの胸に湧き上がり、たぎりはじめていた熱の行方だった。
 マイクロコンピューターの需要を掘り起こすには、まず部品化されたコンピューターに対するイメージを幅広い層のエンジニアにつかんでもらう必要がある。技術者がこの新種の部品を理解してくれれば、ここに使おう、あそこに組み込んでみようというアイディアは彼らの側からおのずと湧いてくる。そのためには、理解を助けるための教材が必要との説明を受けて、マイクロコンピュータ販売部の渡辺和也が提案してきたキット式のTK―80には何の迷いもなくゴーサインを出した。
 ところがこのTK―80が、予想もしなかった月一〇〇〇台のペースで売れはじめた。
 コンピューターを組み立て、プログラムを書き、自分で動かしてみること自体を楽しむマニアがTK―80をかつぎ、TK―80の誕生がまた新しいマニアを生み出すきっかけとなった。
 一九七七(昭和五十二)年七月、大内自身が代表して著者となった『マイコン入門』の原稿は、日本電気の関連事業の担当者が分担して執筆にあたった。このうち、第一章を担当した渡辺和也は、いかにもブームの火つけ役らしく、マニアの世界の成長を大きく見積もった原稿を書いてきた。
「アメリカではマイコンの同好会的なクラブが各地にぞくぞくと誕生し、一九七六年には三百以上のクラブができ、数万人の人たちがマイコンを楽しんでいるという。クラブのメンバーが集まってお互いに自分の作った作品を発表しあったり、情報交換したり、テーマを決めてプログラムコンテストを行なったり、その活動は大変盛んであるらしい。
 日本でも、半年か一年遅れてアマチュア活動が活発になってきた。
 アマチュア用のマイコン組立キットが市販され始めてから急激に盛んになり、東京秋葉原の電気街に、マイコンの専門サービスセンターやショップが開店して連日大勢の人で賑わっているし、クラブもいくつか誕生した。専門雑誌も出され、関係者の話題になっている。
 数年後にはアマチュア無線の人口(現在は約四十万人といわれている)をオーバーするほど、マイコンアマチュアはふえるだろうという人もいる。アマチュア無線とマイコンとの組み合わせで友人のプログラムを無線を通して楽しんだり、モールス符号の自動解読やコールサインの判別、アンテナの調整等への応用も始まっているようだ。
 これからのキミたちはマイコンぐらい知っているのが当たり前で、知らないと恥ずかしいぐらいになるかも知れない」(『マイコン入門』廣済堂、一九七七年)
 
 勢い込んだ渡辺たちはさらに、TK―80の延長線上につぎつぎと新しい製品を企画してきた。
 一九七七(昭和五十二)年十一月には、TK―80に付け加えて使うTK―80BSの発表を行った。BSとはベーシックステーションの略で、定価は一二万八〇〇〇円。キーボードの付いた機能拡張用のこの製品をTK―80に組み合わせれば、ユーザーは教材としてではなく、自分でさまざまに使いこなしてみるためのシステムとしてTK―80を生まれ変わらせることができた。
 TK―80BSには、渡辺のセクションの一員である土岐泰之の書いたベーシックが、ROMに収めた形で持たせてあった。そのため、これまでのようにTK―80を立ち上げるたびに外から読み込んでくるのではなく、電源を入れると同時にベーシックを使いはじめることができた。家庭用のテレビをディスプレイとしてつなぐこともでき、従来のアルファベットに加えてカナ文字やごく一部ながら漢字も表示できた。さまざまなパターンを使って、図形の表示に工夫を凝らすことも可能になった。さらにメモリーの増設も簡単にできるようになった。
 TK―80BS発表の前月までの一四か月で、TK―80の販売台数は一万七〇〇〇台を超えていた。この勢いにさらに拍車をかけようと、TK―80BSのアナウンスと同時に、機能はそのままに定価を従来の八万八五〇〇円から六万七〇〇〇円へと切り下げたTK―80の廉価版が、TK―80Eの名称で発表された。
 さらに翌一九七八(昭和五十三)年十月に発表したコンポBS/80で、渡辺たちは学習教材からパーソナルコンピューターへとさらに大きく踏み出した。
 コンポBSは、組み立て済みの完成品として販売された。
 TK―80BSを新しく作りなおしたCPUボードと組み合わせ、電源なども含めて専用のケースに収めたコンポBSには、もう学習教材の面影はなかった。この新製品には、外部記憶装置としてカセットデッキを本体に組み込んだタイプも用意されていた。定価はデッキ付きを二三万八〇〇〇円、これを持たないものを一九万八〇〇〇円とした。
 コンポBSの発表時点までに、TK―80は廉価版込みで二万六〇〇〇台、TK―80BSは一万台を売り上げていた。
 渡辺たちの提案が学習教材という原点から離れ、一歩また一歩と個人のためのコンピューターに近づきつつあることは、明らかだった。
 大内は、彼らがマイクロコンピューターの販売という与えられた役割を踏み越えはじめたことを意識していた。それゆえTK―80の関連製品が予想しなかった販売実績を上げはじめてからは、意図的に「これは道楽」と渡辺に釘をさしてきた。
「TK―80の類の売り上げは、販売目標の勘定外。ノルマはあくまで、本業のマイコンの販売だけで達成せよ」
 渡辺からの報告が好調なTK―80関連製品に及ぶと、大内は繰り返しそう指摘して渡辺を滅入らせた。
 だが道楽を道楽と意識しながら、大内は彼らが道楽に励むことを止めようとはしなかった。予想外の成功が続く中で、大内自身がパーソナルコンピューターの可能性に確信を抱きはじめたからではない。大内が発見したものはむしろ、マイクロコンピュータ販売部の中にたぎりはじめた熱の勢いだった。
 
 一九七六(昭和五十一)年九月、秋葉原駅前のラジオ会館七階に、マイクロコンピューターの普及の拠点としてNECビット・インが開設されることになったとき、渡辺は運営を依託された日本電子販売の野口重次に申し入れてTK―80の販売と修理、相談のためのコーナーを作ってもらうことにした。
「三坪でいいから、TK―80のスペースを与えて欲しい」と頭を下げる渡辺の口調の熱に、野口は三〇坪のスペース提供で応えた。東芝で長くエンジニアとして働いた経験を持つ野口は、マイクロコンピューターに直感的に惚れ込んでいた★。

★前出『一〇〇万人の謎を解く ザ・PCの系譜』所収、「パソコンの故郷『Bit-iNN』を語る」(インタビューアー 渡辺和也)中の野口重次のコメント。

 ビット・インには後藤富雄をはじめとするスタッフが交代で詰め、やがてこの一角はTK―80ユーザーのサロンに育っていった。対応にあたるスタッフの予定表が貼り出され、エプロン掛けの後藤たちとユーザーとのあいだに直接の人間関係が育ちはじめた。
 幸運にも自ら種を蒔く機会を与えられ、この種を育てることが企業にとっても社会にとっても、そして自分自身にとっても幸福であると心から信じられたとき、これに携わるものが目を見張るほどのエネルギーを発揮することを、大内は知っていた。
 かつて社長の座にあった小林宏治に、二階級特進で新設する集積回路設計本部長にと内示されたとき、大内は「着手したばかりの医用電子機器を続けたい」といったん逆らってみせた。振り返ればそれも、海軍時代に携わった音波探知機の技術を、超音波診断という命を守る側に生かせると心から信じることができ、日本電気にとってもメディカルエレクトロニクス分野の開拓が大きな意味を持つと確信できたからこそだった。
 確固たる組織的な枠組みを確立しなければ維持することの不可能な大企業では、前例をなぞり、上司の顔色をうかがいながら仕事をこなそうとする人間が自然とふえてくる。だがこの自然の成り行きに身をまかせていれば、企業はやがて社会の進歩のリズムに取り残されてしまう。すべての大企業が自由ではいられないこうした硬直化を阻むうえで、会社の中ではなく外に目を向けたスタッフの、内から湧き上がってくる新しい発想とエネルギーは、唯一の特効薬となると大内は考えた。
 それゆえ、渡辺たちの熱の行方を大内は見守りたかった。
 
 もしもマイクロコンピューターの販売という本業が、実績を上げていなかったなら、渡辺たちの逸脱は許せなかったろう。だが立ち上がりの一時期こそ苦しんだものの、マイクロコンピュータ販売部は本業でも着実に市場を切り開いていた。
 突破口となったキャッシュレジスターに続いて、ミシンや編機にマイクロコンピューターが採用され、手の込んだ模様を簡単に縫い込めるタイプがブームを呼んだ。かつてはゼロックスの独壇場だった普通紙複写機の領域に独自の技術で乗り込んでいった日本のメーカーも、マイクロコンピューターの大口顧客となってくれた。さらには、アーケードゲームと呼ばれる業務用のゲーム機という伏兵もいた。
 やがて家電業界の技術者たちが、マイクロコンピューターによる高度な機能を新機種の差別化のポイントとして打ち出そうと、競ってこの部品に飛びついた。電子レンジがさまざまな調理パターンや解凍の機能を備え、エアコンがきめの細かな温度調節を引き受けるようになった。ステレオが、ビデオが、テレビがユーザーの注文を記憶するようになり、洗濯機、冷蔵庫、掃除機をはじめ、ありとあらゆる家電製品がコンピューターコントロールによる複雑な機能を売り物にしはじめた。
 さらに一部のオフィスコンピューターやミニコンピューター、端末といった情報機器にも、マイクロコンピューターが使われだした。
 マイクロコンピュータ販売部は、こうした市場の拡大につれて業績を伸ばしていった。
 本業におけるこの実績を背景に、大内は渡辺たちの熱をたぎるにまかせ、従来の組織の枠組みの中ではどこにも置きようのない、個人の趣味のためのコンピューターを少し育ててみることができた。
 渡辺の逸脱の産物が予想外の売り上げを示しはじめたとき、早めにしかるべき組織的な体制を作ってしまうという選択もあったのかもしれない。だが大内は、うらやましいほどの士気の高まりを見せる渡辺たちの勢いをかけがえのない宝と思えばこそ、どこまで育つか定かではないパーソナルコンピューターと彼らを心中させる危険は避けたかった。
 もしも失敗したら、「あれはあくまで電子デバイス事業部の道楽」ですまそうと考えた。
 これ以上進めば、もう道楽ではすませられなくなると大内が初めて危惧を覚えたのは、渡辺がまったく新しいパーソナルコンピューターの企画を持ってきたときだった。
 
 コンポBSまでのこれまでの製品はすべて、マイクロコンピューターの学習教材としてのTK―80の流れを汲んでいた。だがコードネームをPCX―01とした新機種では、渡辺たちは明らかにコンピューターに向けて大きく一歩踏み出そうとしていた。
 マイクロコンピューターも変われば、ベーシックも変わる。台頭しつつあるパーソナルコンピューター市場を狙い、世界の流れを読んで、PCX―01は面目を一新しようとしていた。
 渡辺の説明によれば、PCX―01にはこれまでの8080に代えて、Z80を採用するという。開発元はザイログ社。インテルで8080を開発したスタッフが抜けて新しい会社を起こし、8080との互換性を保ちながら機能を強化し、処理速度を高めたものがZ80であるという★。日本電気はZ80互換のμPD780という製品を作っており、実機にはこれを載せる。

★インテルを飛び出したフェデェリコ・ファジンが設立したザイログに移って、Z80の開発にあたったのは、4004と8080の開発に携わった嶋正利である。もともとはビジコンの社員であった嶋がどのような経緯でマイクロコンピューターの開発に取り組み、インテル、続いてザイログにあって初期の技術の方向付けを中心になってになうにいたったかの経緯は、『マイクロコンピュータの誕生 わが青春の4004』(嶋正利著、岩波書店、一九八七年)に詳しい。さらに『bit』一九七九年十一月号所収の「マイクロコンピュータの誕生 開発者 嶋正利氏に聞く」(嶋正利/西村怒彦/石田晴久)も、当時の空気をよく伝えている。

 そしてベーシックには、マイクロコンピュータ販売部内で開発した従来のものに代えて、マイクロソフトというアメリカのベンチャー企業のものを使う。マイクロソフトのベーシックはアメリカで続々と生まれてきたパーソナルコンピューターに幅広く採用され、業界標準の地位を占めつつあるという。
 アルファベットの大文字と小文字、カナ文字、各種の記号を取り扱えるほか、PCX―01は一六〇×一〇〇ドットの解像度で、八色のカラーを表示することができる。
 さらに新しいマシンでは、中心となる本体に加えてさまざまな周辺機器を用意していきたいという。カラーもしくはモノクロの専用ディスプレイ、フロッピーディスクドライブ、プリンター、パソコン通信に使用する音響カプラー。こうした機器を別に用意して、目的に応じてさまざまなシステムの組めるモジュール形式を採用する。
 確かに、規模はごくごく小さい。だがPCX―01は、さまざまな周辺機器を従えたコンピューターシステムを志向していた。渡辺のやりたいことは、個人向けの超小型市場を狙ったコンピューター事業への着手にほかならなかった。
 TK―80は確かに売れていた。そしてアメリカでは、機能を強化したパーソナルコンピューターが続々と製品化されている。だが日本電気のそれもマイクロコンピューターの販売部門が本格的なパーソナルコンピューターに挑むといって、いったい誰が製品をさばいてくれるのか。一台が数百万円、数千万円のオフィスコンピューターを扱うディーラーが、わずか数十万円の機械を積極的に売りさばいてくれるわけはない。
 秋葉原に続いてビット・インは横浜、名古屋、大阪に開設されていた。加えて、各地の半導体部品の販売会社の中に、NECマイコンショップを名乗ってTK―80を扱ってくれるところが数軒生まれていた。とはいえ、渡辺たちのマシンが頼みうる販売ルートは、これだけではあまりにも細い。この細いルートを頼りに、パーソナルコンピューター事業を本格化させて成算があるだろうか。
 大内は考え込まざるをえなかった。
 そしてより本質的には、社内にコンピューターの一大専門部隊を抱える日本電気の他のセクションが、きわめて小規模とはいえコンピューター事業に本格的に手を染めてよいものなのか。
 大内は迷った。
 その大内に、渡辺は繰り返しくらいついてきた。
「いいものができたといって販売ルートはどうするんだ」
「製造はどこでやる」
「本業のマイコン販売が手薄になることはないのか」
 大内が質そうとするすべての問いに、渡辺はあらかじめ答えを用意したうえで、繰り返し事業化の許しを求めた。渡辺との激しいやりとりの中で、彼らの内に湧き上がっている熱のすさまじさを、大内はあらためて痛感させられた。
 マイクロコンピューターの市場は、前年比七〇パーセントを超える伸び率で成長を続けていた。そして、TK―80は売れ続けていた。
 渡部は一人ではなかった。彼の後ろには後藤たちが控えており、その背後には個人のコンピューターに夢を託そうとするおびただしいマニアたちの姿がほの見えていた。
 大内はしだいに、PCX―01の事業化に傾いていった。
 ただしあらたな販売ルートの開拓には取り組まず、ビット・インと半導体部品の販売店のうち、希望するところだけに流すという従来どおりのルートだけでそっと踏み出すこととした。
 一九七九(昭和五十四)年五月、日本電気はPC―8001と名付けた新しい機種の発表に踏み切った。本体価格は、一六万八〇〇〇円で、目標の販売台数は月間二〇〇〇台。だが予定していた八月から一か月遅れで出荷を開始してみると、PC―8001は目標を大きく上回るペースで売れはじめた。
 PC―8001の快走を追うように、NECマイコンショップを名乗る販売店の数も、目覚ましい勢いで増えていった。一九七七(昭和五十二)年度はわずか一軒、翌年度が三軒だったものが、PC―8001が発売された一九七九年度は一五軒、翌年度は四〇軒、そして一九八一年度中には、一六八軒を数えるにいたった。
 家電量販店もまた、他社製品と併売する形ではあったが、競ってPC―8001を扱ってくれるようになった。
 発売以来二年間で、PC―8001は一二万台の出荷を達成した。
 パーソナルコンピューターは、誰の目にも大きな可能性を秘めた魅力的な市場と映りはじめていた。
 PC―8001の事業化にあたって先送りした「パーソナルコンピューターを誰がになうべきか」との問いに、大内が直面させられることになったのは、そんな時期だった。

電算本流
パソコンに名乗りを上げる


 パーソナルコンピューターのもう一人の育ての親としてまず名乗りを上げたのは、新日本電気のグループだった。
 コンポBSまでの機器の製造は外部の日本マイクロ・コンピュータに依託してきたが、PC―8001からは家電部門をになう子会社の新日本電気が引き受けた。
 マイクロコンピュータ販売部からのPCX―01の製造依託書を、新日本電気は一九七九(昭和五十四)年の一月に受け取った。だが同社内では、それ以前からパーソナルコンピューターを独自に開発する可能性の検討が始まっていた。物作りをになう立場から、PC―8001の快走をつぶさに見守った新日本電気は、家電担当という自らの守備範囲に合わせて家庭用の低価格機種の開発計画を具体化させた。
 大内淳義は、正面から互いを食い合うライバルがグループ内で並び立つことを防ごうと、製品の性格付けに関してマイクロコンピュータ販売部と新日本電気の担当セクションとのあいだで調整を行うよう指示した。
 だがこのすり合わせの作業が、えんえんと難航することになった。
 新日本電気は当初、PC―8001にほぼ匹敵する機能を備え、互換性のあるベーシックを積んでPC―8001用に書かれたプログラムをそのまま走らせることのできる機種を、価格を切り下げて出そうと考えた。だがこのプランには、渡辺から異議が申し立てられた。機能がほぼ同等で価格が安いとなれば、せっかく軌道に乗ったPC―8001のビジネスが大きな打撃を受けることは明らかだった。
 ではグループ内のシリーズという統一感を持たせながら、価格と性能をどう切り分けていくのか。この問いを前にして、マイクロコンピュータ販売部と新日本電気の睨み合いが続いた。
 渡辺からすれば、新日本電気のプランはどこまで行ってもPC―8001に近すぎた。一方新日本電気には、あれもいけないこれもいけないとはねつけられたのでは、シリーズとしての統一感を持った機種など作りようがないとの思いがあった。
 一九八〇(昭和五十五)年が終わりに近づいても、両者はいまだに合意を見なかった。そのあいだ、発売開始以来一年を経て、PC―8001はなお好調を維持し続けていた。
 それまでPC―8001の存在すら認識していなかった会長の小林宏治が、出張先のアメリカで「あのマシンを売りたいのだが」と持ちかけられ、パーソナルコンピューターの有力機種が自社から売り出されていることを初めて知ったのも、この時期だった。
 通信とコンピュータの融合を目指すという日本電気のC&C戦略にとって、一人ひとりの手元で機能するパーソナルコンピューターは重要な鍵を握っていた。小林はPC―8001の生みの親であるという後藤富雄を会長室に呼び、マシンを前にしてベーシックの操作を教えるよう求めた。この年の暮れ、小林は全役員と事業部長、合わせて三〇〇人に召集をかけてパーソナルコンピューターの勉強会をスタートさせ、自らも最前列に座ってPC―8001のキーボードを叩きはじめた。
 これまで大内は、渡辺たちの試みに〈半導体の道楽〉というベールを被せてきた。道楽で上げた数字は勘定外と釘をさし、PC―8001をスタートさせるにあたっても、組織もいじらなければ販売ルートの新規開拓に予算をつけることもしなかった。
 一九八〇(昭和五十五)年の四月には、渡辺のセクションをマイクロコンピュータ応用事業部として改組したが、担当部門はあくまでマイクロコンピューターの利用一般とし、パーソナルコンピューターの専門組織★とはしなかった。

★パーソナルコンピューター誕生のきっかけを作ったマイクロコンピュータ販売部は、当初、半導体集積回路販売事業部の一セクションとして設けられた。同部設立から間もない一九七六(昭和五十一)年九月、事業部は電子デバイス販売事業部に改組された。渡辺のセクションは、以降も引き続いて、改組されたこの事業部に属していた。

 だがPC―8001の周りで何が起こりつつあるかを認識した小林は、「もう専門の事業部に格上げして、ここから逃げられないようにしたほうがいいんじゃないか」と大内の決断を促した。
 社内の認知が急速に高まっていく中で、新日本電気とマイクロコンピュータ販売部の意見調整を持ち越してきた大内は、今後パーソナルコンピューター事業を日本電気グループ全体としてどう進めていくか、トップの参加する会議で方向付けを行おうと考えた。
 一九八一(昭和五十六)年が明けてそうそうに開いた会議には、争点を抱える二つのグループに加えて、コンピューター事業の専門セクションである情報処理事業グループのスタッフも顔をそろえていた。
 幹部相手のパーソナルコンピューター研修の開催を指示し、大内に担当セクションの独立を促したちょうどそのころ、小林は情報処理担当役員の石井善昭に声をかけた。
「石井君、情処はパソコンをどうするつもりなんだ。このまま半導体に任せっぱなしにしておくのか」
 とっさに「いえ」と打ち消す言葉が、石井の口をついて出た。
 そう答えたとたん、石井の脳裏に浜田俊三からの報告の言葉が重なり合って響きはじめた。
 
 石井の率いる情報処理企画室の計画部長となって以来、浜田はアメリカ市場へのオフィスコンピューターの売り込みにあたってきた。だがアストラが立ち上がりのきっかけをつかめないでいるうちに、小規模なビジネス現場のコンピューター需要というまさにこのプロジェクトが狙っていた市場を、パーソナルコンピューターが急速に切り開きはじめていた。
〈オフィスコンピューターよりもさらに下位のマシンが、アメリカ市場ではアストラの行く手を阻んでいる。そしてすでにマイクロコンピューター自体には一六ビット化されて、機能と速度を大幅に高めたものが現われている。現在は八ビットのみのパーソナルコンピューターが早晩一六ビット化されて、より強力なマシンに化けることには疑問の余地がない。この動きがいずれ日本にも及ぶとすれば、情報処理事業グループにとって虎の子のオフィスコンピューターが脅かされるのではないか。こうした事態に備えるためには、我々もさらに小型化と低価格化を推し進めた機種を開発するべきだろう。パーソナルコンピューターに相当する我々自身の超小型機を、準備する必要があるだろう〉
 石井の脳裏を、浜田からの報告の言葉がよぎった。
「情処としても、もちろんちゃんとやっていくつもりです」
 耳の奥でこだまし続ける浜田の報告をなぞりながら、石井はそう言葉を継いだ。
 かつてコンピューターへの着手に断を下し、えんえんと悪戦苦闘を続けるこの事業にそれでも確信を抱き続けてきた小林は、無言のまま、一つ大きくうなずいて石井の言葉を受けとめた。
〈コンピューターでさんざん苦労し、この事業の本質を骨身に染みて理解してきたのは我々だ。経験、人材、生産設備、どれをとっても圧倒的な力を持っている我々が、半導体に足下をすくわれるわけにはいかない〉
 日本電気のコンピューターの立ち上げからこれに携わり、事業の方向付けに深くかかわり続けてきた石井には、本家としての強い誇りと自負があった。
 情報処理事業グループがコンピューター事業のすべての領域をになうことは、石井には当然すぎるほど当然に思えた。
 従来の超小型機であるオフィスコンピューターのさらに下位に生まれつつあるパーソナルコンピューターがおもちゃで片付けられないとすれば、我々は当然その分野にも対抗する商品を用意する。半導体の余技に足下をすくわれるわけにはいかないのだ。
 アメリカで起こりつつある地殻変動に関する浜田からの報告と、小林宏治の「どうするのだ」との一言は、足下を洗いはじめた小さな波を見守っていた石井の背を押した。
〈情報処理事業グループは、パーソナルコンピューターを用意する〉
 石井はそう決意した。
 ではパーソナルコンピューターとは、果たして何なのか。
 本家のコンピューター部隊は、これ以降このあらたな問いと向き合うことになった。
 
 今後はパーソナルコンピューター事業を三本の柱を据えて進めていくとの決定を受けて、大内は一九八一(昭和五十六)年四月、この方針に沿って組織の再編を行った。
 渡辺の部隊はパーソナルコンピュータ事業部となって、専門セクションとしての独立を果たした。さらに情報処理と電子デバイス、新日本電気グループという三つの開発主体の連絡・調整機関として、いずれの組織にも属さない特別プロジェクトとの位置づけで、パーソナルコンピュータ販売推進本部とパーソナルコンピュータ企画室が設けられた。
 この新体制の発足と同時に、浜田俊三は「パーソナルコンピューターとは何か」との問いへの答えをたずさえて、渡辺和也と向かい合うことになった。
「一六ビットの事務用機は情報処理事業グループ」とのトップの示した方向付けにもとづいて、コンピューター部隊では二つの開発計画が進行しつつあった。
 この二つの流れを整理するために、情報処理企画室の浜田を中心に、これまでこの分野を切り開いてきた渡辺和也を加えて、ビジネス用パーソナルコンピューターの検討プロジェクトが組織された。
 検討プロジェクトで二つのプランを示された渡辺は、あらためて大内の下した決断を呪った。
〈このようなものが、パーソナルコンピューターとして受け入れられるわけはない〉
 新機種の概要を示したレジュメをざっと目で追って、渡辺は即座にそう断じた。
 第一の計画は、端末担当のグループによるインテリジェント端末の低価格版だった。N6300と名付けた端末で、かつて日本電気としては初めてマイクロコンピューターを中心にシステムを組んだグループは、これをいっそう高機能化し、同時に低価格化した後継機の開発を進めつつあった。
 一六ビットのマイクロコンピューターにはインテルの8086を使用し、OSはPTOSと名付けた専用のものを用意する。端末はこれまでなかなか一人一台とはいかなかったが、小型化と低価格化を推し進めてパーソナル化を実現すれば、オフィスの作業効率をいっそう高めることができるだろう。さらにこのマシンでは、大型コンピューターへの窓口という端末本来の役割に加えて、それ自体での完結した処理能力をより高めてやる。大型コンピューターで主に事務処理用に使われてきたコボルに加えて、表計算機能を持つソフトウエアを簡易言語と名付けて用意し、パーソナルコンピューターで広く使われているベーシックも利用できるようにしておく。さらに漢字の字形を記憶させた漢字ROMに、JIS第一水準に区分される基本的な文字を持たせておき、オプションでこれを使えるように準備する。
 端末グループは、こうした仕様にもとづいてすでに開発に着手していたN6300の後継機を、情報処理のパーソナルコンピューターの候補として押し出してきた。
 一方、かつて浜田が推進役となって立ち上げたオフィスコンピューターのグループからは、これも自らの領域のマシンをよりいっそう小型、低価格化させるというプランが寄せられた。
 あらかじめさまざまなアプリケーションをコンピューターメーカーが用意しておき、さらに製品の販売にあたるディーラーがユーザーの細かな注文に応じてソフトウエアをあつらえるという手取り足取りの流儀で市場を開拓してきた従来の流れに沿って、このマシンはこれまで積み重ねてきたプログラム資産を売り物にしようと狙っていた。
 一六ビットのマイクロコンピューターには、システム100の全面LSI化にあたって採用された日本電気オリジナルのμCOM1600を再び用いる。
 システム100の面目一新にあたって採用された対話型の操作環境を支えるITOSは、当初は問題点を数多く残したまま出荷されたために全国でトラブルを引き起こした。だが改良にあたったチームの奮闘により、その後、安定した動作を確立していった。
 そこで一六ビットのパーソナルコンピューターにもITOSを載せ、従来日本電気のオフィスコンピューターのために書きためられてきたソフトウエアをそのまま使えるようにする。オフィスでの文書処理の要求にも応えていくために、漢字の取り扱いも可能とする。さらにパーソナルコンピューターの流れに対応するために、従来の言語に加えてベーシックの利用にも道を開く。
 オフィスコンピューターのグループは従来のマシンをさらに小型化して机に載せたものを、パーソナルコンピューターと呼ぼうと考えた。
 端末の高機能版とオフィスコンピューターの小型版という、コンピューターの専門部隊が提案した二つのパーソナルコンピューターのイメージに、渡辺和也は鉛を飲んだ胃袋の底が深く沈み込むような、疲労と違和感とを覚えていた。
 確かに二機種とも一六ビットのマイクロコンピューターを使い、小型で低価格、そして高機能のマシンではあるのだろう。ベーシックも使えるのだろう。だが渡辺の目に、二つのプランはパーソナルコンピューターをパーソナルコンピューターたらしめている核心を、見落としているように見えた。
 
 パーソナルコンピューターを取り巻く空気の基調は、あくまで共棲にあった。
 他者の存在を敵とするよりもむしろたのみとし、他者の力を押しつぶすよりは引き出して味方に付ける方向に舵をとりえた者こそが、この世界では成長することができた。
 PC―8001の開発にあたって自社で開発したベーシックを捨て、マイクロソフトのものに乗り換える決断を行ったのも、これが業界の標準的な地位を占めつつあるとの認識からだった。
 技術情報を可能な限り公開し、サードパーティーによる関連製品の開発を促していくオープンアーキテクチャーこそ、渡辺はパーソナルコンピューターの魂であると信じた。
 もしも渡辺たちが確固たる開発力を備えたコンピューターの専門グループであれば、なんらかのシステムを作り上げる際には当然、すべての要素を自ら用意しようとしただろう。だが渡辺たちは、充分な開発力を持たないマイクロコンピューターの販売部で、パーソナルコンピューターの卵を育てることになった。その渡辺たちには、この卵を大きく育てようとすれば他力によるほかはなかった。オープンアーキテクチャーをとったことには、その意味では怪我の功名としての一面もあった。
 だが、彼らは誕生期のパーソナルコンピューターを支えた精神の核をとにもかくにもつかみ取り、PC―8001を育て上げた。
 その精神の核を、二つのプランは決定的に取り逃がしていた。
 確かに高機能化した端末も、小型化、低価格化したオフィスコンピューターも競争力を持った製品ではあるだろう。だが一方はあくまで端末であり、もう一方はあくまでオフィスコンピューターで、パーソナルコンピューターではなかった。
「これはパーソナルコンピューターにはなっていない。少なくとも、私の知っているパーソナルコンピューターではない」
 渡辺はそう口を切り、「こんな製品をPCシリーズの上位機種として受け入れるわけにはいかない」と畳みかけた。
 一六ビット機は事務用をターゲットとして情報処理がになう。
 トップが顔をそろえた会議でそう大枠が定められて以来、渡辺の中で熱をはらみながら鬱積してきた思いに、あくまでこれまでの仕事の流儀から踏み出そうとしない二つのプランが火をつけた。
 八ビットからスタートしたパーソナルコンピューターが早晩一六ビット化することは、誰の目にも明らかだった。その技術の明日を、トップの決定は渡辺たちから奪おうとしていた。
〈だがこれでは、未来を奪われるのは我々にとどまらない〉
 口の乾きが舌をこわばらせるのを意識しながら、渡辺は内心でそうつぶやいた。
 これがあらたな一六ビット版となるのなら、日本電気のPCシリーズにもまた明日はないはずだ。
 渡辺が炎のような言葉を投げた瞬間から、室内の空気はゼラチンを溶かし込んだようにこわばりはじめていた。
「このいずれかをPCシリーズの上位機種として事業化したとしても、とても売れるとは思えない」
 渡辺は、重苦しい空気を切り裂くようにそう断言した。
「では、あなたの言うパーソナルコンピューターとは何なのか。どうすれば、あなたの考えるパーソナルコンピューターになるのか」
 そう切り返した浜田に、渡辺は一六ビット機の備えるべき条件を一つ一つ数えはじめた。
 まず第一に、ベーシック。これに関しては従来機に使ってきたものと互換性を持った、マイクロソフトのベーシックを採用する。ベーシックという言語が使えるというだけでは、充分ではない。同じベーシックといっても、開発主体が異なればそれぞれに差異がある。さらに同じマイクロソフトのベーシックでも、異なったマシンに搭載される場合にはメーカーの注文に応じて機能が拡張されている場合がある。拡張された命令を使って書いたプログラムを他の機種で動かそうとすると、そこが引っかかって動かなくなる。
 すでに発表済みのPC―8001に続いて、渡辺たちは八ビットの上位機種の開発を進めていた。
 そこで新しい一六ビット機には、PC―8001とこの上位機種のベーシックに互換性を持つマイクロソフトのものを採用する。そうすることで、従来のユーザーやサードパーティーが書きためてきたソフトウエアを、新しい機種でもそのまま使えるようにする。
 第二にディスプレイやプリンター、フロッピーディスクドライブなどの周辺機器も、これまでPCシリーズで使ってきたものをそのまま利用できるように考慮する。そのためには新一六ビット機ではすべての構成要素をセットにした商品構成はとらず、本体は本体、その他の周辺機器は周辺機器と要素をばらばらにしたコンポーネント形式で臨む。そして周辺機器の接続用コネクターには従来どおりのものを採用し、これまで持っていた機器をそのまま活用できるようにしていく。
 第三に、これまで補助記憶装置として使われてきたカセットテープレコーダーも、接続できるようにする。
 そして第四に拡張用スロットの仕様を公開し、サードパーティーによる増設ボードの開発を促す。
 
〈要するにこれまでの八ビットの延長でやれということか〉
 渡辺の列挙する条件を走り書きするペンの動きはそのままに、浜田はそう考えた。
 オフィスコンピューターの小型化をさらに推し進め、これをビジネス用パーソナルコンピューターと位置づけようという提案には、かつてシステム100の開発の中心となった浜田自身が深くかかわっていた。製品企画側からは、三田の本社にある情報処理小型システム事業部のスタッフと企画室の浜田。そして開発、製造側からは、かつてシステム100で浜田とコンビを組んでいた、府中のコンピュータ技術本部第二開発部に籍を置く戸坂馨が加わってまとめられたのが、このプランだった。
 彼らにはコンピューターの本家としての自負があり、超小型分野を切り開いて慢性的な赤字に苦しめられていた事業に突破口を開いたとの自信もあった。それゆえオフィスコンピューターのさらに下位に新しい市場が開けるのなら、自分たちの手ごまをよりいっそう小型化してぶつけようと、ごくごく自然にそう考えた。システム100の小型化を推し進めたマシンで、新しい「下から」の流れの機先を制して幅広いビジネス分野を「上から」開いていくシナリオには、充分に勝算があるように思えた。
 だがまがりなりにもここまで独力で市場を切り開き、パーソナルコンピューター文化の旗手としてマスコミに遇されもしはじめている渡辺和也は、「八ビットの延長、そしてオープンアーキテクチャーこそが新一六ビット機の必須の条件である」と口をきわめて主張した。
 では、どうするのか。
 あくまで従来の路線の延長上に、新一六ビット機を置くのか。
 それともパーソナルコンピューターがそうしたものであるというのなら、渡辺の主張を受け入れて思い切った転換に打って出るのか。
 半導体グループが独力で切り開いたPC―8001はそれまで、浜田にとってあくまで「他人の仕事」だった。人の肌のぬくもりが残った下着を身につけ、その人物の明日を奪い取ることへの無意識の拒否反応は、「PC―8001の延長」という選択肢を浜田の脳裏から追いやっていた。だが渡辺本人が望むのなら、この路線をあえて禁じ手とする必要はなかった。
 検討会議から二か月後の一九八一(昭和五十六)年六月、浜田俊三は両案に公平な立場をとるべき情報処理企画室計画部長から、オフィスコンピューターの商品企画と営業支援にあたる、情報処理小型システム事業部事業部長代理へと転じた。
 ともにオープンアーキテクチャーへの転換を迫られた立場の端末グループは、すでに「既定方針どおり進む」との結論を出していた。
 一九八一(昭和五十六)年七月、端末装置事業部は開発を進めてきたインテリジェント端末の新機種を、N5200モデル05と名付けて発表した。
 パーソナルコンピューターを名乗る代わり、N5200はパーソナルターミナルと銘打たれていた。
 インテルの8086を使ったN5200は、一体型の筺体に容量一Mバイトの八インチドライブ二台を標準で組み込み、OSには日本電気オリジナルのPTOSを採用していた。画面への表示を高速化するために、日本電気の半導体グループが開発したGDCと名付けられた専用LSIを初めて採用した点は、N5200のスペックの中で光って見えた。価格はRAM四八Kバイトの標準構成で七九万八〇〇〇円と従来のN6300の半額以下に設定された。出荷開始は十二月からで、三年間に三万台の販売を見込むとされていた。
 だが端末装置事業部が我が道を選び、超小型オフィスコンピューターの開発作業が進んでいく中で、浜田はなお迷い続けていた★。

★前出の『技術の壁を突き破れ』は、渡辺和也が注文をつけた経緯を以下のようにまとめている。
「そういう方針にもとづいてコンセプトの検討がはじまる。まとめ役を担当したのは、「NEACシステム―100」の開発を担当した戸坂馨(東京大学工学部電気工学科、昭和四一年入社、現支配人)、製品計画部の小澤昇(早稲田大学理工学部機械工学科、昭和四六年入社、現パーソナルコンピュータ販売推進本部商品計画部第二製品計画課長)主任を中心とする小人数のチームであった。ところが、マイコン部隊への遠慮もあったせいか、PCの延長というテーマがなかなか出てこない。そんなわけでもあるまいが、四カ月後につくった最初の試作機に、渡辺和也がクレームをつけた。こんなものにPCの名前をつけて出せるかというのである」
 同じ出来事を描いてこれだけニュアンスが変わってくるのだから、実際まあ、面白いもんである。

 N5200をパーソナルターミナル、システム100の小型版をパーソナルコンピューターと位置づけるという情報処理の方針は、八月に開かれたトップの顔をそろえる会議に正式に諮られた。
 この分野をここまで引っ張ってきた現場責任者として会議に臨んだ渡辺和也は、席上、再び明確に反対の意思を表明した。
 IBMがパーソナルコンピューター市場に乗り出してきたのは、そんな時期だった。
 一九八一年八月十二日、大型コンピューターの巨人はパーソナルコンピューターを略してただPCとだけ名付けた製品を発表した。
 IBMが初めてこの市場に送り出してきたPCは、渡辺の注文をそのまま受け入れたようなマシンだった。

作表機の覇者IBM
電子計算機を押さえる


 大型コンピューターの覇者であり、絶大な組織力と技術力を兼ね備えた国際的巨大企業であり、権威と管理の象徴的な色彩をもその名に帯びるにいたったIBMのルーツは、一八九六年に設立された統計表作りを自動化する機械のメーカー、タビュレーティングマシン社にさかのぼる。
 南北戦争以降、急速に工業化を推し進めるとともに大量の移民を安い労働力として受け入れていったアメリカでは、連邦政府の国勢調査部門が、かき集めてきたデータを集計し、数字の山の中から有用な統計資料を引き出してくる作業に難渋していた。
 そんな中で統計技官のヘルマン・ホレリスは、紋様の織り込みを自動化したジャカード織機と自動ピアノから、統計表作りの革新のヒントを得る。ジャカードも自動ピアノも、カードにあけた穴の位置によって機械の動作を制御している点に着目したホレリスは、個人のデータを一人一枚同様の穿孔カードに記入することで、集計から手作業を追放できると考えた。性別や年令をはじめとする調査結果を所定の位置に穴をあけて表現し、この穴によってカードを分類するホレリスの電気作表機は、彼の設立したタビュレーティングマシン社を急成長させるとともにライバルの誕生を促した。
 競合による業績の悪化に直面させられたホレリスは一九一一年に会社を売り払い、新しいオーナーはこれを自動はかりの会社、タイムレコーダーの会社とまとめてCTR(コンピューティング・タビュレーティング・レコーディング)社を設立した。
 そして一九一四年、キャッシュレジスターで急成長を遂げたNCR社で辣腕のセールスマンとしてのし上がったトーマス・ワトソンが、CTRの総支配人に就任する。ライバル企業を叩き潰すためには手段を選ばなかったNCRは、独占禁止法の違反容疑をかけられて裁判に追い込まれ、ワトソン自身もこれに連座して一度は有罪判決を受けた。この事件をきっかけにNCRを追われたワトソンは、CTRの経営を任されるや作表機を主力商品として位置づけ、セールスマンに多額の手数料をはずむNCR流の販売戦略を展開して同社を急成長させた。
 ワトソンがCTRに転じた一九一四年七月に始まった第一次世界大戦は、軍需産業や行政府に迅速に処理すべき膨大な事務を発生させていた。大量生産、大量消費に向けて勢いよく資本主義のエンジンを回し続けるうえで、計算処理を自動化する道具は潤滑油の役割を果たした。
 一九二〇年代の不況期にも、CTRの作表機は会計業務の経費削減と在庫の適正化の道具として受け入れられていった。
 一九二四年、CTRは社名をIBM(インターナショナル・ビジネス・マシンズ)に変更した。
 カードに穴をあける穿孔機(パンチ)、穴によってカードを仕分けする分類機(ソーター)、そしてカードに記録されたデーターを計算処理する作表機の三つの要素からなるパンチ・カード・システムを、IBMはレンタル制で供給し、保守やカードの販売でも収益を上げていった。
 その後の世界経済がたどった規模拡大の歴史は、一面で計算処理の増大の歴史であり、これがIBMの発展の歴史と重なり合うことになった。
 作表機市場で八〇パーセントを超える圧倒的なシェアを確立するとともに、ユーザーに自社のカードのみを使うよう強制して徹底した収益の追求を図ったIBMは、一九三二年には連邦政府によって独占禁止法違反で告訴された。ここで有罪判決を受けたことで、IBMは他社に競争の機会を与えるよう迫られたが、その後も同社の独占的シェアは揺るがなかった。
 
 データー処理機械におけるIBMの独占にとって、脅威となりかねない可能性を秘めた新しい技術を生んだのは、第二次世界大戦だった。
 この時期、計算機の能力を高めて軍事利用を図ろうとする試みが集中して進められる中で、ハーバード大学のハワード・エイケンはIBMの支援を受け、リレーと呼ばれる電気式のスイッチを使って、一九四四年に汎用自動計算機Mark1を完成させた。一方ペンシルベニア大学のジョン・W・モークリーとJ・プレスパー・エッカートは、米陸軍弾道研究所の依頼を受けて、一九四三年から真空管を使った計算機の開発に着手し、一九四六年にENIACの稼働にこぎ着けた。
 作表機市場でIBMにはるかに差をつけられながらも二番手につけていたレミントンランドは、一九五一年、コンピューターの開発事業に乗り出していたエッカートとモークリーによるマシンをUNIVACと名付け、初めて商品として売り出した。UNIVACから遅れることおよそ二年、科学技術計算用の701の発表にこぎ着け、続いて事務処理用の702を発表したIBMは、徹底した低価格攻勢によってレミントンランドを追いかけた。
 一九五二年には再び連邦政府に告訴された経緯が示すとおり、相変らず作表機の市場を独占し続けていたIBMは、大企業や大組織のデータ処理の仕事をパンチ・カード・システムに載せて処理するノウハウを蓄積しており、ユーザーの要求を吸い上げる確固たる営業、技術体制を確立していた。
 この体制を維持しながら、データ処理の機械だけを作表機からコンピューターに移し替えることにIBMは成功する。独占していた作表機市場で上げた利益を背景に、コンピューターを徹底して低価格化できたことも、競合する他社を振り切るうえで大きな武器となった。
 一九五〇年代後半、コンピューターの素子は寿命の短い真空管から、半永久的に使えて処理速度も高いトランジスターへと移り変わっていった。このトランジスターを用いた第二世代機でも、IBMは科学技術計算用で大型の7000シリーズ、事務処理用で比較的小型の1400シリーズを成功させた。作表機の時代と同様八〇パーセントを超えるシェアを誇るIBMに対し、わずかな残りを他社と分け合っていたハネウェルは一九六三年、IBM機の性能を大きく上回るH200を、1401用に書かれたプログラムをそのまま利用できるよう変換するソフトウエアと合わせて発表した。
 IBM機用に合わせてプログラムを開発しているために、たとえ他社がすぐれたハードウエアを開発したとしてもシステムを変更しようがない。
 こうしたくびきからユーザーを解き放つとして、「解放者」を意味するリベレーターと名付けられたソフトウエアとH200のコンビは、かなりの成功を収め、IBM互換機の可能性を実証することになった。
 こうした他社の攻勢によって、数パーセントながらシェアを減少させたIBMは一九六四年四月、予定を大幅に繰り上げて開発中の新世代機、システム360の発表に踏み切った。
 システム360は、従来のトランジスターに代えてICを使うことで高速化、小型化、低消費電力化、信頼性の向上など、ハードウエアの革新を果たすと発表された。さらに従来は、科学技術計算用、事務処理用と用途別に複数のシリーズを置いていたものを一本化し、シリーズの全機種で同一のOSを動かし、同じプログラムを使えるようにするとした点でも、システム360は従来のものとは世代を画していた。周辺機器に関しても、シリーズの機種では同じものを利用できると発表された。360という名称には、すべての用途とすべての規模の要求に、三六〇度の全方位の対応力を持った互換性のあるシリーズで応えうるとの意味が込められていた。
 現実に製品の出荷を開始するまでに、IBMは結局、発表から一年半以上を要することになり、約束のいくつかは達成されなかった。だが、時代を画する新世代機が間もなく最大手のメーカーから出荷されるとの情報は、他社の追撃を抑えるうえで大きな威力を発揮した。出荷開始となったシステム360は、IBMの市場独占を再び強化する大ヒット商品となった。
 大組織、大企業のデータ処理の要求に、自動機械によって独占的に応えるという基本的な姿勢を、IBMは一九〇〇年代の初頭にはすでに確立していた。コンピューターの誕生はこうした同社のあり方を流動化させる可能性を持っていたが、IBMは市場の独占を通じて培ってきた体力に物を言わせて、作表機をコンピューターに置き換える作業を見事に成し遂げた。
 システム360の大成功は、作表機からコンピューターへの変化の波を、同社が完全に乗り切った象徴となった。
 その後、大半のコンピューターメーカーは、IBM機の存在を前提とした互換機路線で生き残りを図ることになった。
 唯一IBMに脅威を与ええたのは、大組織、大企業のデータ処理要求という枠組みの外で新たな需要を掘り起こしえた者のみだった★。

★IBMに関する著作は大変に豊富であり、いわゆるウォッチャーなどという興味深い人種も(かつては?)存在していたわけであるから、筆者には参考文献に関して何事か申し上げるような資格はない。ただあえて一言申し述べれば、司法省の主任エコノミストとして対IBMの独占禁止法訴訟に携わったR・T・デラマーターの『ビッグブルー IBMはいかに市場を制したか』(青木榮一訳、日本経済新聞社、一九八七年)は、裁判によって公開された同社の内部文書を精査して、徹底的に批判的な角度から市場独占の達成される経緯を跡付けており、きわめて興味深い。

 マサチューセッツ工科大学(MIT)のリンカーン研究所に籍を置いていたケン・オールセンは、のちに彼自身振り返って、「今日のパーソナルコンピューターに相当する★」と評価したマシンの開発に、一九五五年から取り組んでいた。

★『 DIJITAL AT WORK 』(ジャミー・パーカー・ピアソン編、Digital Press 、一九九二年)所収のケン・オールセンへのインタビュー。スミソニアン協会によって一九八八年に行われたこのインタビューにおいて、オールセンは「今日のマウスに相当する電子ペン」が組み込まれたマシン(TX―0、筆者注、以下同)を使えば、「ブラウン管に絵を描くことも、画面上でプログラムを読むことも、ゲームをすることも、今(パーソナルコンピューターで)できることは何でもできた」と答えている。

 テスト実験機( Test-eXperimental computer )を略してTX―0と名づけられたこのマシンが動き始める一九五七年、オールセンは開発過程で生み出した技術をビジネスに生かそうと、ボストン近郊のメイナードにディジタルイクイップメント社(DEC)を設立した。メンバーは、研究所時代の同僚であるハーラン・アンダーソンとオールセンの弟の三人。七万ドルの資本は、ベンチャー投資会社の先駆けとなったアメリカン・リサーチ&ディベロップメント社から引き出した。
 一九五〇年代のパーソナルコンピューター★に携わってきたオールセンの起こしたDECは、IBMの目の届かない新しい領域に、コンピューターの用途を切り開いていくことになる。

★この時期に〈パーソナルコンピューター〉が開発されたきっかけは、第二次世界大戦中の一九四四年からMITで始まった、ホワールウインド(旋風)プロジェクトが作った。当初、海軍航空兵の搭乗訓練用シミュレーター開発計画として始まったプロジェクトは、戦後コンピューターを利用した防空システムへと拡張されて引き継がれた。一六か所のレーダー施設から送られてくる情報を集めてリアルタイムで処理するホワールウインドは、タイム・シェアリング・システムのもっとも早い応用例だった。さらにリアルタイムで現状を表示するために、ホワールウインドには初めてディスプレイが接続された。
 このプロジェクトの成果は、一九五四年にアメリカが初めて配備した防空用早期警戒システム、SAGE( Semi-Automatic Ground Environment )に生かされた。同時にホワールウインドの開発過程で、信頼性の高い高速の記憶装置として、磁気コアメモリーが開発された。
 MITで修士論文の準備を進めていたケン・オールセンは、論文をまとめ終わった直後、磁気コアメモリーの信頼性確認を主目的とする実験機、MTC( Memory Test Computer )の開発を担当するチャンスを与えられた。ホワールウインドは二五〇〇平方フィートを占有してしまうような巨大なマシンだったが、これと同じアーキテクチャーを持つものを、オールセンはごく小さく作ることで腕をアピールしたいと考えた。一つの部屋にラックを並べた形で収め、向かい合わせに制御卓を置き、カメラマンがマシン全体を写真に収められるようなものをオールセンは目指した。
 当時、ホワールウインドのプログラマーとしてMITのデジタルコンピューター研究室に籍を置いていたウェズリー・A・クラークは、オールセンのMTCに鮮烈な印象を受けた。
 強力なディスプレイを備えている点では、ホワールウインドは画期的だった。だが他のコンピューターの場合と同様、ユーザーはたいてい一五分ほどの割り当て時間しかマシンを占有できなかった。ところがはるかに小型化された実験機のMTCは、信頼性には問題はあったものの、分単位ではなく時間単位で自分一人で使うことができた。CRTディスプレイを生かした対話型の操作のメリットを、クラークはこのマシンで初めて痛感させられた。
 この体験を通じてクラークは、小規模なコンピューターのビジョンを育てていった。
「コンピュータは道具だ、だから使い勝手は設計の最優先要素だ、大型機は大きな作業に、小型コンピュータは小さな作業に使えばよい、共有空間にいっしょにしまっておくよりも独立したパーソナルファイルのほうが安全だ」(『ワークステーション原典』所収「早すぎた小型コンピュータ『LINC』」)
 クラークはケン・オールセンの協力を得て、道具としての性格を前面に押し出したTX―1の開発計画をまとめ、リンカーン研究所に提案した。新しい素子としてのトランジスターの実用性確認と、大容量の磁気コアメモリーのテストを公式な提案理由としてかかげたTX―1プロジェクトを、研究所の上層部は却下した。クラークはやむなく、規模を大幅に縮小したTX―0を再提案した。TX―0は一九五七年には運用開始にこぎ着け、クラークは続けてより大規模なタイプを、TX―2と名付けて開発に取り組んだ。
 TX―0はMITの電気工学部に貸与されることになり、道具として開発された対話型のコンピューターに衝撃を受けて、ハッカーたちはこのマシンに張り付いた。
 DECの創業にいたる上記の経緯は、『 DIJITAL AT WORK 』に明快かつ簡潔にまとめられている。

 DECの創業当時、将来の可能性は感じさせてはいたものの、コンピューターはいまだビジネスの軌道に乗っていなかった。投資会社の意見を入れて事業計画から〈コンピューター〉という文字を外し、DECは組み合わせによってコンピューターや機器のコントローラーを作ることができる回路モジュールの開発から着手した。
 創業した一九五七年に100シリーズのモジュールを開発して以来、DECはモジュール製品のラインナップを拡張していった。ある特定の機能を持った回路を一まとめにしたモジュールは、その後誕生する集積回路の先駆けとしての性格を持っていた。TX―0の後継機としてTX―2の設計にあたったクラークは、オールセンがMIT時代に設計していたモジュールを使うことで素早く作業を終えることができた。
 その一方でDECは、自分たちの回路モジュールを組み合わせて、会社設立の本来の目標であった〈道具としてのコンピューター〉の開発にも着手した。リンカーン研究所でTX―0やTX―2の開発に携わっていたベン・ガーリーが一九五九年にDECへ移り、プログラム・データ・プロセッサーを略してPDP―1と名付けられるマシンの設計にあたった。
 一九五九年十二月にボストンで開かれたジョイントコンピューター会議において、DECは初のマシンとなるPDP―1のプロトタイプをデモンストレーションする。
 ホワールウインドを祖父、TX―0を父とするPDP―1は、兄弟の関係にあるTX―2と同様に、リンカーン研究所で育まれた〈道具としてのパーソナルコンピューター〉の伝統を引き継いでいた。紙テープを打ち出すタイプライターとブラウン管ディスプレイを備えたPDP―1の本体は、キャビネット三台分ときわめて小さく仕上がっていた。数百万ドルという当時のコンピューターの常識的な価格に対して、PDP―1は一二万ドルときわめて安かった。
 従来のものと比べ、はるかに小型で低価格だったことから、DECのマシンはミニコンピューターと呼ばれることになった。
 使い勝手を重視したミニコンピューターは、まずさまざまな分野の研究者たちから格好の道具として注目を集めた。PDP―1はつごう五〇台が製造されたが、出荷が始まった直後から、ユーザーである研究者たちは横の連絡をとり合った。彼らはDECUS( Digital Equipment Computer Users Society )と名付けた組織を作り、PDP―1に関する情報と、自分たちが開発したプログラムを共有化しはじめた。DECはつぎつぎと新機種の開発を進め、先進的なユーザーが書きためていったソフトウエアが相互に利用されたことで、大学や研究機関へのミニコンピューターの普及にいっそうの拍車がかかった。
 一九六五年四月から出荷されたPDP―8は、DECの成長に決定的な弾みをつけた。従来の機種ですでに採用してきた枯れた技術で構成した代わり、DECはPDP―8で小型化と低価格化を徹底して推し進めた。一万八〇〇〇ドルにまで価格を抑えられたこのマシンは、まさにタイプライターのように机の上に置くことができた。これによってPDP―8は、工作機械やプラントの制御という新しいコンピューターの用途を開いていった。
 一九七〇年には一六ビットのPDP―11シリーズ、一九七七年には三二ビットのVAXシリーズを発表してヒットさせたDECは、その後も急成長の勢いを落とさず、一九八一年にはついにIBMに続く売上高世界第二位のコンピューターメーカーとなった。
 既存の市場では徹底したライバルの押さえ込みに成功してきたIBMは、視野の外にあった超小型市場の開拓をDECに許した。そして一九七〇年代後半、ミニコンピューターのさらに下位に、パーソナルコンピューターの世界が開けつつあった。
 IBMを支えてきた枠組みを、再び大きな衝撃が見舞おうとしていた。

世界標準機
IBM PCの誕生


 IBMにとっては最下位に位置づけられるマシンをになう、エントリーシステムズ部門の研究所長を務めていたウイリアム・ロウは、一九八〇年七月、トップの顔をそろえた全社経営委員会でパーソナルコンピューター市場に参入する必要性を訴えるチャンスを得た。
 パーソナルコンピューターの市場はすでに、目覚ましい勢いで成長を遂げていた。この市場に早急に、可能なら一年以内に乗り込んでいくためには、パーソナルコンピューターの会社を買収するか、製品は自社の技術で作るというIBMの大原則からはずれて、マシンの構成要素を外部から買い集めて開発するしかない。
 ロウはそう訴えた。
 この市場を放置すれば第二、第三のDECの台頭を許しかねないと懸念していた社長のジョン・オペルをはじめとするトップは、自社開発を前提として計画をまとめ、一か月で試作機を仕上げたうえで再度全社経営委員会に諮るよう求めた。
 ロウは一三名のスタッフを選んで、研究所のあるフロリダ州のボカラトンに集めた。本番の製品とはかなり異なることを覚悟のうえで試作機作りが開始され、業務計画の検討と外注先への接触が並行して進められた。
 真っ白な紙に筆を下ろすように、開発チームはゼロからマシンの仕様検討に着手した。
 まず、中心となるマイクロコンピューターには、どこのメーカーのものを使うのか。
 既存のパーソナルコンピューターは、いずれも八ビットをとっていた。とすれば新しいマシンも八ビットでいくのか。それとも一歩先んじて一六ビットをとるのか。
 市場で特に大きなシェアを獲得しているアップルIIは、ハードウエアの仕様を全面的に公開するオープンアーキテクチャーをとって、サードパーティーによる増設ボードや周辺機器の開発に門戸を開いていた。
 革新的な技術を武器とする企業にとって、自社の技術を特許を含めたあらゆる手段で保護することは、常識以前だった。その常識をはずれて、郷に入れば郷に従い、オープンアーキテクチャーで臨むのか。さらにIBMにとってまったく経験のない桁外れの低価格商品となるこのマシンを、どのような販売ルートで流すかも大きな検討課題だった。
 さまざまな問題が山積する中で、選択の余地のないのがベーシックとOSだった。
 パーソナルコンピューターの標準言語となっているベーシックでは、マイクロソフトが主導権を握っていた。異なったメーカーのマシンに採用されているOSとしては、デジタルリサーチのCP/Mが唯一の存在だった。
 開発チームのスタッフはアメリカ大陸を東から西へと飛んで、カリフォルニア州モントレーのデジタルリサーチと、ワシントン州ベルビューのマイクロソフトを訪れた。
 七月の終わり、スタッフがデジタルリサーチを訪ねると、アポイントメントを取り付けていたにもかかわらずキルドールは席をはずしていた。IBM側はまず、「話し合いの中で明らかにされた内容は外部に漏らさない」とする守秘義務合意書へのサインを求めた。応対したキルドールの妻は、なじみのない肩肘を張ったやり方に不安を覚え、顧問弁護士の意見に従って署名を差し控えた。入り口で引っかかったまま、デジタルリサーチとの最初の会見は実りなく終わった。報告を受けたキルドールは合意書へのサインを拒むべきだとは考えなかったが、話の中身が分からないままに自分からIBMに働きかけようとはしなかった。デジタルリサーチは、ヒューレット・パッカード(HP)社へのCP/Mの供給交渉を進めている最中だった。一六ビットの8086にCP/Mを対応させる作業は遅れ遅れとなっており、やるべき仕事はいくらでもあった。
 加えてカリブ海で休暇を楽しむスケジュールが、目の前に迫っていた。
 同じく七月の終わりに、相手に合わせてわざわざスーツを着込んでIBMのスタッフを迎えたビル・ゲイツは、市場調査と称してマイクロソフトの言語の開発体制に関して漠然とした質問を繰り返す彼らに、内心で首をひねっていた。八月に入ってからの二度目の訪問時に守秘義務合意書にサインをすませると、謎が明かされた。
 彼らはCP/Mとマイクロソフトのベーシックを載せた八ビット機を開発し、すでに人気を集めているプログラムの多くが使えることをマシンの売り物にしようと考えていた。
 彼らの用件は、従来どおりROMに収めた形で供給するベーシックをIBMのマシンに提供する用意があるかとの打診だった。
 ゲイツは依頼されれば喜んで引き受けると答えたが、一年後に発売を始める予定の新しいマシンを八ビット構成とすることには疑問があると付け加えた。
 インテルはすでに、一九七八年の六月に一六ビットの8086を発表していた。八ビット単位で処理を進める8080に対し、一六ビット単位の8086は処理速度を大きく向上させていた。さらに8080が六四Kバイトのメモリーまでしか扱えなかったのに対し、8086は一六倍に相当する一〇二四Kバイト(一Mバイト)まで管理する機能を持っていた。
 もちろん新世代のマイクロコンピューターが誕生しても、そのメリットを生かしたマシンが作られ、これに対応した言語やOSが用意され、その基盤の上でアプリケーションが書かれるまでには時間がかかる。
 だがゲイツには、パーソナルコンピューターが一六ビットへの転換期を目前に控えていることは明らかだった。企業のコンピューター市場で絶対的なブランドイメージを誇るIBMがビジネス市場に向けて送り出すマシンなら、なおさら一六ビット化は不可避に思えた。
 
 八月初旬、ロウは試作機をたずさえて再度全社経営委員会に臨み、短期間の調査をもとにまとめたパーソナルコンピューターの事業計画を諮った。
 マイクロコンピューターにはインテルの一六ビット版を採用し★、マイクロソフトのベーシックを載せ、オープンアーキテクチャーで臨み、外部の販売ルートに乗せて小売店で売り出すという計画に、委員会はゴーサインを出した。

★『帝王の誕生』の著者である、ステファン・メインとポール・アンドルーは、ウィリアム・ロウへのインタビューをもとに、この時点で委員会に報告されたPCの当初計画の概要を同書に記している。
 八月六日に全社経営委員会に行った報告では、PCは8088を採用し、三二KバイトのROM、一六KバイトのRAM、増設スロット六個のほか、さまざまなオプションを備えるとされた。オプションとして示されたものには、最大二五六KバイトへのRAMの拡張、プリンター接続用アダプター、カラーもしくは白黒のディスプレイ、八インチのディスクドライブ、浮動小数点演算用プロセッサー、ジョイスティックがあった。現実に発表されたマシンでは、スロットは五つとされ、八インチのドライブは五インチに変更されていた。だがこの時点で、PCのスペックはほぼ固まっていたことが分かる。
 同書はこの指摘に引き続いて、PCが八ビット機ではなく一六ビット機として構想されたことを、誰の貢献に帰すべきかという点に触れている。
 ビル・ゲイツとマイクロソフトは、「IBMの計画は当初、時代遅れの八ビットのデザインによっており、我々がこの計画を放棄させた」と主張している点に関して、著者は「理解できるが誤っている」とこれを退けている。
 非公式にマンハッタン計画と呼ばれていたというPCプロジェクトで、ソフトウエアの調達を担当していたジャック・サムズにインタビューした際、同書の著者は、この問題に関するサムズの主張を聞き取った。マイクロソフトとの最初の会見では、第一に情報漏れを警戒していたというサムズらは、ごく一般的な考え方にしかこの場では触れなかった。八ビットの計画への言及は、主要にはマイクロソフトの目をごまかすためのものであり、確かにその場でゲイツは一六ビットを主張し、「我々がうなずいたことは確か」ではあるものの「そんなことはとうに承知だった」。IBMのエンジニアは、最下位機種を八ビットのチップを使って作ろうとして悪戦苦闘した経験を持っており、二度と悪夢を体験しようなどと思ってはいなかった、というサムズの主張を入れて、著者はマイクロソフト側の主張を却下した。
 似通った見解のぶつかり合いは、筆者自身もPC―9801のコンセプトの決定過程に関して体験することとなった。情報処理グループ側の複数の関係者からは、「当初のオフィスコンピューターの超小型版というイメージはごく暫定的なものであり、渡辺和也氏からの提案によって堂々と、遠慮なく従来の路線を継承できるようになったあとは、我々自身がオープンアーキテクチャーを独自に発見していった」といったニュアンスのコメントが寄せられた。一方電子デバイス側には、旧態依然たる発想を打ち破る提案は、我々が示したとの記憶が残っている。
 PCとPC―9801の基本構想を誰が定めたかに関する対照的な見解はともに、当事者の記憶の中ではそのとおりの、正直なものであるだろう。こうした相反する見解を前にして、『帝王の誕生』の著者は主流側に重心を置き、『パソコン創世記』の筆者はやや傍流側に体重をかけて取りあえず問題をさばいている。最終的には直感と気合いで上げた軍配ではあるが、ここにいたるまでは異なった角度からの証言を集めていることを言い訳させていただき、妥当性に関してはさまざまな立場からの批判を仰ぎたい。

 OSを採用するのか。載せるとすればやはりCP/Mなのかは、この段階では空白のまま残された。
 ロウはここまでのレールを敷き終えたのち、エントリーシステムズに籍を置いていたフィリップ・D・エストリッジにプロジェクトの統括を任せた。小型システムの開発に携わり、自宅ではアップルIIをいじっていたエストリッジにとって、パーソナルコンピューターはまさに自分の仕事だった。
 計画が正式にスタートした直後から、マシンのハードウエアの詳細な検討が始まった。一六ビット構成とするという方針は固まっていたが、開発チームには新世代の高機能マシンを作るといった気負いはなかった。基本はあくまで、出来合いのものを使って可能な限り早く、IBMのロゴマークの入ったパーソナルコンピューターを作ることだった。この基本路線に沿って選ばれたマイクロコンピューターは、八ビットと一六ビットの中間的な性格を持つ8088だった。
 ビル・ゲイツが採用を促した8086は、チップ内部の処理も周辺の回路とのやり取りもともに一六ビットで行った。一方8086の半年後に発表された8088では、外部とのデータのやり取りが八ビットに抑えられていた。この機能の切り下げによって、8088の処理速度は8086に比べて遅くなった。その代わり8088を使えば、すでに数多く開発され、供給の安定している八ビット対応の部品を利用することができた。
 九月に入って、ベーシック以外のフォートランやコボル、パスカルといった言語も供給できるかとの打診が、開発チームからマイクロソフトに寄せられた。
 アルテアへの移植以来、マイクロソフトはベーシックをさまざまな機種に載せてきた。その一方でマイクロソフトは、一九七七年七月にはフォートランを、一九七八年六月にはコボルの発売を開始し、言語製品のラインナップを広げていた。
 ベーシックに関しては、当時のパーソナルコンピューターの大半がROMに収めた形で備え、電源を入れると自動的にベーシックが立ち上がるように仕立てていた。一方その他の言語の供給を始めるにあたって、マイクロソフトはCP/Mの存在を前提とする道を選んだ。マイクロソフトのフォートランとコボル、パスカルは、CP/Mに対応して書かれていた。ユーザーはまず自分のマシン用のCP/Mを用意して読み込ませ、そのうえでマイクロソフトの言語を使うという手順を踏んだ。
 デジタルリサーチのOSとマイクロソフトの言語は、互いに依存しながらお互いの存在価値を高め合う、強力なコンビを組んでいた。
 
 IBMにベーシック以外の言語も求められたマイクロソフトには、デジタルリサーチをこのプロジェクトに引きずり込んでともに全力疾走するか、言語とOSで棲み分けるという従来の協調関係を清算して、別の新しいOSに言語を対応させるかの二つの選択があった。だが、まったく新しいOSに対応させるとなれば、開発に大きな労力が必要となることが予想された。加えてこの道を選ぶには、新しいOSの供給者が必要だった。ROMに収めて組み込む方針が定められていたベーシック以外の言語を提供するためには、マイクロソフトは道を選ばざるをえなかった。
 だがさまざまな要素が複雑に絡み合った問いに、一発でけりを付ける絶妙な解が、ワシントン湖の対岸に転がっていた。
 シアトル・コンピューター・プロダクツというハードウエアメーカーのために8086を使ったマシンを開発したエンジニアのティム・パターソンは、一六ビットに対応したCP/M―86の開発が遅れ遅れとなっていることにしびれをきらしていた。
 デジタルリサーチからの発売をこれ以上待っていられないと考えたパターソンは、一九八〇年四月、自分で8086用のOSを書きはじめた。業界標準がCP/Mであることを承知していたパターソンは、CP/M―86が完成するまでの取りあえずのつなぎと割り切ってCP/Mをそのまま一六ビットに対応させ、名前も自虐的にQDOS( Quick and Dirty Operating System )と付けた。シアトル・コンピューター・プロダクツは自社の名前を冠して、これをSCP―DOSと呼び替えた。
 一九八〇年九月二十八日、ビル・ゲイツとポール・アレン、そして日本市場へのベーシックの売り込みを大成功させてマイクロソフトの副社長の肩書きを得ていたアスキーの西和彦は、IBMのマシンを中心に絡まり合った問題を解くために、えんえんと論議を続けた。
 もっとも大胆で挑戦的な選択は、SCP―DOSを買い取ってマイクロソフト自身がこれをIBMのマシン用に仕上げ、ここにフォートランとコボルとパスカルを載せる道だった。だがこの道を選べば短期間でのベーシックの移植に加えて、その他の言語の移植、さらにSCP―DOSの仕上げまで抱え込むことになった。しかも相手は契約契約で物事を進め、納期にもきわめて厳しいはずのIBMだった。
 結論を導いたのは、西だった。
「このチャンスを絶対に逃すべきじゃない。IBMを踏み台にして大きくなるんだ。なんとしてもやるんだ」
 堂々めぐりの論議を断ち切るように西が吼えた。
 ゲイツとアレンには、SCP―DOSをもとにするとはいえ短期間でまともなOSが作れるだろうかとの懸念が最後まであった。
 だが「零戦だって三度作りなおしている。取りあえずそれで作っておいて、何度でも作りなおせばいいじゃないか」との西の駄目押しで、ゲイツとアレンも腹を括った。
 シアトル・コンピューター・プロダクツに連絡がとられ、売り先は伏せたままマイクロソフトはCP/MまがいのOSの販売権を買い取った。申し入れのあった四つの言語に加えて、我々はOSを提供する準備があるとの回答がマイクロソフトからIBMの開発チームに寄せられた。
 一九八〇年十月、全社経営委員会は開発プロジェクトの実行可能性の再点検を行った。
 検討の結果、委員会は進行状況に合格点を与え、プロジェクトには独立事業単位(IBU)と呼ばれる組織的な位置づけが与えられた。
 巨大化した組織が往々にして官僚的な手続きを煩雑化させ、迅速な処理の足を引っ張ることを自覚していたIBMは、社員の自発的な試みを後押しする受け皿となることを目指して、独立事業単位という制度を用意していた。この制度の適用を受けた開発チームは、大きな自由裁量権と人的、資金的な裏付けを得て開発に邁進した。
 一九八〇年十一月六日、マイクロソフトはIBMのパーソナルコンピューターに言語とOSを提供する契約を取り交わした。
 
 翌一九八一年八月十二日、開発チームはついにIBM PCの発表にこぎ着けた。
 マイクロコンピューターは、8088。メモリーは基本構成で一六Kバイトを備え、最大二五六Kバイトまで拡張できた。ベーシックは従来の流儀に従って、ROMに収められていた。本体内には拡張ボードを差し込むための増設スロットが五つ用意されており、オプションにまわされた容量一六〇Kバイトの五インチドライブを二台組み込むスペースが空いていた。キーボードはビジネス用を意識して、大きめのタッチのよい本格的なものが用意されており、従来のマシンで一般的だったカセットテープレコーダーもつながるようになっていた。
 PCのハードウエアには見る者を驚かせるような要素はなかったが、ディスプレイへの表示を受け持つ回路の構成には、ユニークな点があった。
 ビデオ表示回路は本体に組み込むのではなく、増設ボード扱いとされていた。このビデオボードには、白黒の画面に文字だけを表示するMDA( Monochrome Display Adapter )と、カラーで文字と図形を表示できるCGA( Color Graphics Adapter )の二種類が用意されていた★。だがこのビデオボードに関しても、性能的には驚く要素はなかった。

★白黒のMDAは七二〇×三五〇ドットの解像度を備えていたが、カラーのCGAは二色で六四〇×二〇〇、四色では三二〇×二〇〇ドットしか表示できなかった。一方一九七七年に発表されたアップルIIは、六色で二八〇×一九二ドットを表示する高解像度モードを持っており、PCの表示機能はむしろ貧弱な印象を与えた。

 OSはオプションにまわされていたが、マイクロソフトの開発したPC―DOSに加えて、デジタルリサーチのCP/M―86とソフテックマイクロシステムズのp―Systemの供給も予定されていることが明らかにされた。さらに発表によれば、IBMはPC用にパーソナルソフトウエアのビジカルクやピーチツリーソフトウエアの三種類の会計プログラムなど、これまで八ビット機で人気を集めてきたソフトウエアを自社から供給するとしていた。あわせて供給を約束したイージーライターと呼ばれるワードプロセッサーに関しては、IBMはもっともIBMらしからぬ人物と組むことさえ厭わなかった。伝説的な長距離電話ただがけ装置、ブルーボックスの開発で知られる反体制派技術者、キャプテンクランチことジョン・ドレイパーは、アップルII用にワードプロセッサーを書き、イージーライダーをもじってイージーライターと名付けて好評を博していた。これに目を付けたIBMは、ドレイパーに依頼してPC用に書きなおさせていた。
 IBMはこのPCを、従来からの自社の販売ルートに加えて、シアーズローバックやコンピュータランドを通じて売ることを明らかにした。
 PCで唯一衝撃的な要素は、IBMがこのマシンに関して徹底したオープンアーキテクチャーで臨むとした点だった。回路図からさまざまな技術情報、システムソフトウエアの核となるBIOSの中身にいたるまで、IBMはPCのすべてを全面的に公開する方針を打ち出した。
 PCの価格は、基本構成で一五六五ドル。出荷開始は十月と発表された。
 PC―DOSと並んでCP/M―86がIBMから供給されることになるにあたっては、デジタルリサーチとIBMのあいだで事前にトラブルがあった。マイクロソフトがPC用に開発したというOSを発表の直前になって入手したゲアリー・キルドールは、その機能がCP/Mそっくりそのままであることに気付いた。解析ツールを用いて調べてみると、プログラムをそのままコピーしたとしか思えない箇所まで出てきた。キルドールはIBMに強く抗議したが、結局CP/M―86もPC用のOSとしてIBMから販売することで矛をおさめた。
 だがCP/M―86の発売は一九八二年四月までずれ込み、価格もPC―DOSの六〇ドルに対して二四〇ドルと設定された。
 一六ビットの世界に確かに片足を踏み込んだとはいえ、PCは傑出したマシンではありえなかった。だがコンピューターの世界に君臨してきたIBMのロゴマークを付けているにもかかわらず、PCはアルテア以来の「共棲」をキーワードとした流儀を受け入れた、じつにパーソナルコンピューターらしいマシンに仕上がっていた。
 PCの発表直後の八月二十四日、アップルは地元紙のサンノゼマーキュリーに「本気でウエルカム、IBM殿」と全面広告を打った。
「三五年前に始まったコンピューター革命の中においても、もっともエキサイティングで重要な市場へようこそ」
 だがIBMの独立事業単位が自社の伝統によらず、パーソナルコンピューターの文化に沿ったことで、PCの投げかけた波紋は誰にも予想できなかったほど、長く遠く、いつまでも広がっていくことになった。

日電版IBM PCには
マイクロソフトのベーシックが必要だ!


 浜田俊三にとって、IBM PCは二重の衝撃だった。
 あのメインフレームの覇者が、オフィスコンピューターによるアメリカ進出の障害となってきたパーソナルコンピューターの市場に、ついに乗り出してきた。しかもPCは、一六ビット機の開発にあたって渡辺和也が浜田に突き付けた要求をそっくりそのまま受け入れた形をとっていた。
 浜田は小型版システム100の開発にあたっている戸坂に連絡をとり、入手したPCに関する資料をはさんで話し合う機会を持った。新聞の第一報に引き続いて、内外のパーソナルコンピューター専門誌がPCの速報記事を掲載しはじめていた。マイクロソフトのベーシックとCP/Mとの互換性を持ったPC―DOSを柱とし、CP/M―86も提供していくとするIBMの柔軟な姿勢には、多くの記事が驚きも交えて高い評価を与えていた。PCのスポークスマンを務めるフィリップ・D・エストリッジが、増設ボードの開発者に向けて技術情報を全面的に開示したマニュアルを作成すると発表した点も、話題となっていた。
 戸坂はIBMがPCにどのような技術を盛り込んだのかに、強い興味を抱いていた。浜田はIBMの打ち出したパーソナルコンピューターらしいパーソナルコンピューターを作るという方針が、市場からどう評価され、どの程度の売れ行きを示すか、すぐにでもその答えを知りたかった。
 PCを可能な限り早く入手するとともに、市場の動向に注視する。そう確認しあってから、浜田はもう一つの道を選ぶ可能性に関して戸坂の意見を求めた。
「もしも渡辺の提案を受け入れてIBM PCのようなマシンを作るとすれば、どこが開発作業のポイントとなり、市場はこれをどう評価するだろうか」
 市場の反応は、いかようにも読めた。だが開発上の問題点は、すでに明らかだった。ハードウエアの開発には、さして問題はなかった。ポイントは、マイクロソフトのベーシックにつきた。
 アスキーの西和彦が窓口となり、マイクロソフトはこれまで電子デバイス事業グループの渡辺の部隊と絶妙のコンビを組んで仕事を進めてきた。こと日本市場に関する限り、アスキー、マイクロソフトと渡辺たちは、一蓮托生だった。そこにまったく付き合いのなかった情報処理事業グループが乗り込んでいくとして、彼らは果たしてどんな態度で接するだろうか。
 浜田は、その一点を確かめたいと考えた。
 一九八一(昭和五十六)年九月、浜田はアスキーの西に電話を入れ、アポイントメントを取り付けた。
 西和彦は南青山に棲んでいた。
 新聞や雑誌で見たとおりの長髪。黒縁の眼鏡の奥で、細い目が微笑みながら浜田を迎えた。だが腰を下ろした西が、二、三度立て続けに咳払いすると、浜田は見知らぬ異国の街角に一人立たされたような不安をふいに覚えた。腕も首も胸も太い西を包む空気が、彼の内から染み出してくる圧力を受けてじっとりと密度を増していた。
 
 骨の奥まで透かし込んでくるような浜田俊三の視線に、西はもう一度絞り出すように喉を鳴らした。
 スーツに身を固め、ネクタイで自らを縛り付けているものの、彼が生まれついてのファイターであることはかみそりを合わせたような浜田の口元が雄弁に物語っていた。
 浜田によれば、日本電気の情報処理事業グループでは、パーソナルコンピューターの開発を検討しているという。このプロジェクトの方向付けに関するすり合わせで、渡辺和也は「従来の八ビット機のものと互換性を持ったマイクロソフトのベーシックを採用するべきだ」とアドバイスした。
 そう事情を説明した浜田は、「従来のものと互換性を持った8086版を書いてくれれば、我々には購入する用意がある。もしも開発を依頼したとすれば、どの程度の期間で仕上げることができるだろうか」と用件を切り出した。
 情報処理事業グループがパーソナルコンピューターに乗り出してくることにも、PC―8001の延長線上に一六ビット機を想定しようとすることに関しても、西に驚きはなかった。
 こと日本では、当初から大手の電気メーカーがパーソナルコンピューターを商品化していったが、多くの企業でその作業をになったのは傍系の半導体部門だった。だがIBMがこの市場に参入してきたように、本家のコンピューター部隊が急成長を遂げる分野に橋頭堡を築こうと考えることは、ごくごく自然な成り行きだった。その際、ハードウエアからソフトウエアまで一切合財自前でそろえるという従来の常識を捨てて、パーソナルコンピューターの流儀に沿うことは、彼らにとって成功の秘訣となるに違いなかった。
 その当然の策を、浜田はとりたいという。
 IBMのプロジェクトへの参加がマイクロソフトに大きなチャンスを与えてくれたように、日本電気のコンピューター部隊による本格的な市場参入もまた、アスキーとマイクロソフトにとってさらなる飛躍の推進力となる可能性を持っていた。
 だが西は、浜田の打診に即答することを避けた。
「ビルにも相談して、お返事させてください」
 そう答えたあとは、IBM PCの好調な滑り出しに、話題を移した。出荷までまだ間があるにもかかわらず、PCは予想を大幅に上回る注文を集めていた。今回PC用にマイクロソフトが開発したOSは、いずれCP/Mと勢力を二分するほど成長するに違いないと付け加えるのを、西は忘れなかった。
 十月から出荷の始まったIBM PCが、目覚ましい勢いで売れ行きを伸ばしているとのレポートを睨みながら、浜田は焦れながら西の回答を待ち続けた。
「最終的なご返事がしたい」として、来訪を求める連絡が入ったのは、もう十二月間近になってからだった。
 三、四か月、悪くすれば半年と、浜田は西の答えを予測しながらアスキーに向かった。だが浜田を待ち受けていたのは、実質的な開発の拒絶だった。
「残念ですけれど、お申し入れの件にはすぐには対応できません」
 そう切り出した西はその根拠として、マイクロソフトの開発スタッフがすでに膨大な作業を抱えている点に加え、「もうこれ以上ベーシックの分岐に拍車をかけたくない」のだとした。
「どうしても書いてほしいとお願いしたとして、いつまで待てば可能性がありますか」
 西の言葉が消えきらぬうちに、かぶせるように浜田がたずねた。
 黙りこくったまましばらく視線を宙に遊ばせてから、西は、β版と呼ばれる完成前の試作バージョンを出せるのがちょうど一年後、来年の十一月になるだろうと答えた。木で鼻をくくったような答えに、浜田は舌打ちを前歯でかみ殺した。
 黙りこくった浜田に、今度は西が代案を示した。
 マイクロソフトはPC用に開発したベーシックとまったく同じ機能を持つものを、内部の構造をより整理して書きなおしており、一六ビット対応の決定版としてGWベーシックの名称で販売する準備を進めている。このGWベーシックを日本語化するという形であれば、もっと早く提供できるだろう。
「申し上げているとおり、我々がお願いしたいのはこれまでのものと互換性を持ったベーシックです」
 あらためてそう確認してみせる以上、浜田には言うべきことはなかった。
 ゲイツとの打ち合わせを経て固めた方針を、いささかも変更する気持ちが西にないのは、彼の視線の太さが物語っていた。
 浜田のてのひらから砂がこぼれ落ちるように、浮かび上がりかけた選択肢が消えていった。

早くも揺らぎはじめた
三本立てパソコン事業体制


 IBMのPCが浜田を西のもとに走らせた直後、日本電気はおよそ二年で約一二万台を売り上げたPC―8001の上下に新しい二つのシリーズを加え、パーソナルコンピューターのファミリーを形成してラインナップの充実を目指す方針を明らかにした。
 一九八一(昭和五十六)年九月に同時に発表されたこの二つのマシンは、一六ビットのビジネスは情報処理、家庭用は新日本電気、そして両者の中間を電子デバイスがになうという新体制に沿っていた。
 だがあらためて発表予定の広報資料を前にした大内の胸の奥に、新機種は細い懸念の雨を降らせていた。
 何かが足りなかったのではない。
 問題は過剰だった。
 当初PC―8001を超える本格的な八ビット機として想定された新日本電気のマシンは、電子デバイスとの長い押し合いを経て大幅にスケールダウンし、低価格と手軽さを売り物にした入門機と位置づけられた。
 初めてパーソナルコンピューターに触れる層を意識したPC―6001は、プログラムを収めたカートリッジ型のROMを本体のスロットに差し込んで電源を入れれば、すぐにゲームなり学習物なりのアプリケーションを使いはじめられるようになっていた。開発グループによる事前の働きかけによって、出荷までに五〇種類のPC―6001用のプログラムがサードパーティーから発売され、近々に二〇〇種類まで拡大されるとアナウンスされた。PC―6001はマイクロソフトのベーシックを採用していたものの、PC―8001に採用されたN―BASICとは一部異なった点があり、従来のプログラムをそのまま使うことはできなかった。
 もう一方電子デバイス部隊から発表されたPC―8801は、明確に仕事のマシンを志向していた。
 開発にあたった後藤をはじめとするスタッフは、解像度をPC―8001のレベルから大幅に高め、形の複雑な漢字を表示できる基盤を整えてビジネスの需要に応えようとした。
 富士通はすでにこの年の四月、漢字ROMをオプションで追加できる初めての漢字パーソナルコンピューター、FM8を発表していた。
 このFM8を追うために短期間での開発を余儀なくされたPC―8801も、漢字ROMを標準で持つところまでは踏み切れなかった。ただしオプションでROMを追加すれば、白黒の六四〇×四〇〇ドットの画面に八〇〇字の漢字を表示することができた。あらたに用意されたプリンターの側にもROMを組み込めば、漢字仮名交じりの文書を打ち出すこともできるようになった。
 レベルアップしたハードウエアの性能を生かすべく、PC―8801には大幅に機能拡張されたマイクロソフト製のN88―BASICが搭載された。加えて従来のN―BASICもあわせて持たせることで、これまでPC―8001で使ってきたプログラムもそのまま利用できるよう配慮されていた。
「PC―8800シリーズは大容量のデータ処理機能や日本語処理機能を有した高級機で、PC―8000シリーズの上位機種として、近年需要の拡大が著しいOAなどのビジネス用途向けに開発された製品であります」
 大内は広報資料に謳われたPC―8801の開発意図を、もう一度視線で追った。
 確かにPC―8801は八ビット機ではあった。だがはっきりとビジネスに焦点を合わせたPC―8801の性能は、かなりの部分で発表になったばかりのIBMの一六ビット機、PCを上回っていた。
 まったく新しい市場を独力で切り開いた電子デバイスの成功があって、新日本電気と情報処理がパーソナルコンピューターへ名乗りを上げてくる中で、グループ内での直接の衝突だけは避けようと、日本電気は大内の主導でビジネスとホームを両極に置いた三つの路線を敷いた。だが混沌としたホビイの海に浮かび上がったと思うと、見る見るせり出して大陸への成長を予感させるビジネスの島に、中位機をになう電子デバイス部隊は当然すぎるほど当然にも焦点を当ててきた。
 確かに8ビットという枠の内にはあった。
 だが彼らは、早くも与えられた枠組みの天井を叩いていた。
 PC―8801は大内の目に、逸脱の一歩手前まで迫っているように映った。
 ここまで二人三脚でパーソナルコンピューターを切り開いてきた渡辺和也が、天井を突き破って一六ビットに乗り出し、ビジネス市場開拓の先頭に立ちたいと願っていることを、大内は痛いほど承知していた。彼らの部隊により多くの人材を投入し、組織を強化していけば、それだけの見返りをもたらす市場であることも間違いはなかった。
 だが大内は、産み落とした子を最後まで育てたいという渡辺の思いを彼の言動に感じとるたびに、副社長という自らの役割を思って精神のバランスを保った。
 一九八〇(昭和五十五)年六月、日本電気本流の通信畑からのし上がった関本忠弘が、田中忠雄に代わって社長の座についた。
 一九四八(昭和二十三)年に東京大学理学部物理学科を卒業し、入社後は衛星通信の研究に携わった関本は、一九六四年からアメリカの衛星通信サービス会社コムサットに出向した。ここでアメリカ人相手に発揮したプロジェクトの運営手腕を小林宏治社長に買われ、一九七二年に伝送通信事業部長に就任。一九七四年に取締役、一九七八年に常務、一九七九年に専務取締役と階段をかけ上ってトップを極めた。
 これまで代表権を持った会長の小林宏治が経営全般と人事の最終的な決定権を握り、社長の田中忠雄はもっぱら社内の管理に責任を負っていたのに対し、日本電気には会長と充分渡り合うだけの強烈な個性と手腕を備えた社長が誕生することになった。
 そして関本のトップ就任と同時に、社長争いの唯一のライバルと目されていた大内淳義は副社長となった。小林宏治会長のもと、半導体担当役員の大内淳義を司令官としていただき、渡辺和也を実行部隊長、後藤富雄を実戦部隊のリーダーとして突き進んできたパーソナルコンピューターの事業体制を、トップの異動が揺るがせていた。
 渡辺の部隊をパーソナルコンピューターの主役として強化することで、他社との競争に勝ち抜いていくことは可能だろう。だが副社長として、日本電気全体のバランスに目を配る立場についた大内には、二つ目の情報処理セクションを作って組織を歪ませるような選択はとりえなかった。
 それゆえ「一六ビットのビジネスは情報処理が担当する」として渡辺たちの頭を押さえ、バランスをとろうと試みた。だがあらためてPC―8801のスペックを前にしたとき、大内は自ら定めた枠組みを明日にでも再度見直さざるをえなくなるだろうことを痛感させられた。
 パーソナルコンピューターは、市場規模においてもその性能に関しても爆発的な成長を遂げつつあった。
 その奔馬の首に縄をかけ、狭い柵のうちに押しとどめることなどできはしないのだ。
 かりそめに設けた枠は、早くも噴き出してくる圧力を受けて揺らぎはじめていた。
 では、どうするのか。
 パーソナルコンピューターを、果たして誰に託すべきなのか。
 独立した遊撃隊が育てたパーソナルコンピューターを、コンピューター事業全体の枠の中にどう取り込み、包括的な企業戦略の中でどう位置づけるのか。大内は再び、そしてより根底的な決断を下さざるをえないことを覚悟した。
 PCを大成功させたIBMがのちに直面することになる課題に、大内は彼らに一歩先んじて向かい合っていた。

    

    

第二部 第三章 恐るべき新人類たちの夢想力
一九八二 アルトの子供への挑戦

 西和彦は、巨大で聡明で老獪な幼児だった。
 混沌とした自我の森の闇を抜けて西が初めてうっすらと目を開いたとき、彼の網膜にまず像を結んだものはマイクロコンピューターだった。あたりを見回しながら、流れ落ちる水を呑む滝壷のように世界像を取り込みはじめた巨大な幼児の頭脳は、このエレクトロニクスの宝石が認識の限界を吹き飛ばす翼となりうることを直感した。
 マイクロコンピューターは個人のためのコンピューターを成立させるだろう。個人のためのコンピューターは、電子計算機のミニチュアではない。さまざまな情報を頭脳に送り込み、結果的に人の認識の限界をはるか彼方に押しやるメディアとなるだろう。このメディアは一方的に情報を垂れ流すものではない。人が働きかければすぐに応える、対話を能くするものとなるだろう。
 よきものがここに生まれる。
 ここを住み処とせよ。
 瞳を開いたばかりの巨大な幼児の直感は、彼自身にそう告げた。
 だが、この手にエレクトロニクスの宝石をつかもうと柔らかな腕を伸ばすと、集積回路の金属の足が冷たく幼児の肌を刺した。無機的な棘の痛みに一瞬凍り付いた指は、よきものを生み出すまでにマイクロコンピューターの上に積み上げるべき、おびただしい変化と成功の実りの厚みを知って震えた。
 それでも、巨大な幼児の脳にすり込まれた「ここに生きよ」との神の声は、再び眠りに落ちることも、ぬくもりを求めて仲間たちが肌を寄せ合う溜まりに這い入ることも彼に許さなかった。
 命の糧を求めて母の胸にしゃぶりつく赤子のように、西はぼんやりと像を結びはじめた世界に変化と成長の種を探しはじめた。耳の奥の小さな金の鈴が、新しい可能性の在り処に反応して鳴りはじめると、巨大な幼児はアドレナリンを亢進させてその場を見極めようとしゃにむに這い回った。類まれな握力でつかみ取った種子に、揺りかごの中で子守歌のように聞き覚えた老人たちの知恵の言葉を吹きかけると、一つまた一つと芽がのぞきはじめた。春が過ぎて夏が訪れ、秋にかかると伸びかかった枝に早くも実がなった。もぎ取った実は幼児を肥らせたが、飢餓感は喰うほどにむしろ募っていった。充たす代わりに餓えをかき立てる成功に背を押され、よちよち歩きを始めた巨大な幼児は、つぎつぎと新しい種に手を伸ばした。幼児の皮膚に根を張って伸びる木々は、目まぐるしく変化しながら厚い植物層を彼の体躯の上に形成しはじめた。
 めくるめく変化と成長は巨大な幼児をますます肥らせ、彼の飢餓感をいっそう深めた。
 春の野をこま落としでとらえたような狂おしいほどの成長に向けて、エネルギーをみなぎらせるために、パーソナルコンピューターは変化と成長に餓えた巨大な幼児たちの群れを求めていた。
 マイクロソフトのビル・ゲイツやアップルコンピュータのスティーブン・ジョブズ、そしてアスキーの西和彦がうっすらと目をあけて世界を認識しはじめたのは、そんな時期だった。
 彼らは期待されたとおり、幼児の傲慢を奮って可能性の扉を無理矢理こじ開け、底なしの貪欲をつくして実りをほおばった。
 西和彦が初めて覚えた英語のフレーズは、「ルカによる福音書」第一一章九節の「求めよ、さらば与えられん。捜せよ、見いだすであろう。叩けよ、戸は開けられるであろう」だったという★。

★アスキーが発行していた今はなき『アスペクト』誌の一九八五(昭和六十)年九月号と十月号には、「ぼくは、こうして成り上がった」と題する西和彦へのインタビューが掲載されており、上記のエピソードもここで西自身によって語られている。当時同誌の編集チーフは鶴岡雄二氏から高橋憲一郎氏に交代していた。自社のトップの自慢話を堂々と載せるというえぐい企画の引力には、人に強い高橋氏の真骨頂がよく現われている。

 西はそのように振る舞い、世界はそのように応えた。

パソコン革命の寵児
西和彦の誕生


 一九五六(昭和三十一)年二月、西和彦は神戸に生まれた。
 祖母は女学校の私立須磨学園の創設者で、祖父と両親も、この学校で教鞭をとっていた。学園内の敷地の一角に居を構える教育者一家の長男として生まれた西は、教室を遊び場に、教師を「なぜ」との問いの格好のぶつけ相手として育った。小学校に上がる前から実験室を覗いては化学の教師の魔法に目を輝かせたり、音楽や美術の教師にあれやこれやと手ほどきを受けることもあった。
 忙しく動き回っている父と母には、あまりかまってもらった記憶はない。だが祖母は、初めての孫となる西をことのほか可愛がった。父と母にはねつけられたおねだりが、泣きながら祖母に訴えればかなえられることを覚え、西は何かにつけてはおばあちゃんの膝の上に転がり込むようになった。
 手厚い庇護の手に包まれて育った甘えっ子は、集団の一員として互いに比較され、隣り合った者と同じように振る舞うことを求められる小学校に戸惑った。一年生の西は、すでに本を読むことのできる自分が点と丸をうまく書くことができず、かけっこでも仲間たちにおいていかれることを知った。学年が進むごとに成績は上がったが、須磨学園で好奇心にまかせて育てた自我を押さえつけられるような窮屈さを、小学校では繰り返し覚えた。
 神戸市立板宿小学校時代の最良の思い出は、六年生のとき、教師に代わって、理科の授業で乾電池の使い方を講義したことだった。乾電池に興味を持った西は、誰に指示されるでもなく百科事典や中学、高校の教科書でその使い方や働きについて調べ、あらかじめ教科書にびっしりと書き込みを入れていた。興味を持って自分から調べた話を、みんなに理解させようと訴えたときの昂揚感は、西の記憶にあざやかに残った。
 飛松中学校に進むころから、根っからの教育者である母は、西に徹底して学習の機会を与えようと努めるようになった。英語に音楽、古文、漢文に現代国語の個人教授を受け、中学校三年生では四人の家庭教師がついた。
 そんな勉強漬けの中学校時代にも、内から湧き上がってくる興味を育てる機会はあった。新し物好きで、毛色の変わった電気製品には目のなかった父は、それまで真空管式だった電卓を一九六四(昭和三十九)年にシャープが初めてトランジスター化したコンペットを買ってきた。幅四二×奥行四四×高さ二五センチメートル、重量は二五キログラムとかろうじて机一つに載るほどの横綱級の図体で、価格も五〇万円強とじつに高価だったが、四則演算をこなすコンペットは西の目にはエレクトロニクスの魔法の産物と映った。中学校三年のときには、祖母にねだってリレーなどの部品を買い集める資金を得て、計算機の手作りも試みた。
 豊かな教育一家の長男坊として生まれた西は、思うままに、時には嫌になるほど学ぶチャンスを与えられて育った。
 一人ひとりが自立し、自我を核として振る舞う家族のあり方も、西にとっては教育的だった。
 須磨学園の生徒が問題を起こすようなことがあると、西の家庭は学校としての態度を決める論議の場と化した。教師である母はあくまで生徒を弁護し、「適当な指導を与えれば必ず立ち直る。退学にはせず、自宅謹慎でおさめて見守っていこう」と主張する。一方祖父は、非行に対しては容赦なく退学を求めた。大阪の商売人の息子で、銀行員を経験していた父は、「生徒が一人減れば授業料が減るやないか」と混ぜ返す。結局はいつも、祖母の「もう少し様子を見ながら考えていこう」とのくくりで論議にはけりがついたが、個性をぶつけ合いながらバランスを保っている家族が、西には好ましくも誇らしくも思えた。
 私立の受験校ながら、自由な校風で生徒を縛ることの少ない甲陽学院高校に入ってからは、西本人も個性を存分に発揮する機会を得た。物理部、天文部、英語部、エスペラント部、美術部、写真部、図書部、グリークラブと文科系のクラブの大半に同時に所属し、文化祭の準備に没頭し、コンサートや弁論大会の企画に駆けずり回った。おかげで高校一年の成績は、二一九名の学年中で二一八番。二一八番は二人いて、まぎれもないビリだった。
 のちに繰り返しインタビューを受ける中で、西は「パーソナルコンピューターの天才」と称されることにしばしば違和感を訴えている。自分自身を分析して、西は「閃きや才気を武器に切れ味で勝負する人間ではない」とする。むしろスタート時点では、頭脳の歯車の回りは悪い。ただし最終的に人を超える結果を出してこられたとすれば、鍵はあくまで考え続ける持続力と集中力にあったという。
「トイレの電球は一〇ワット、机のスタンドは一〇〇ワット、スタジオのライトは一〇〇〇ワットある。ところが一〇〇〇ワットのライトでも、アスキーのある南青山から三キロメートル離れた東京タワーを照らすことはできない。ところがレーザー光線なら、わずか〇・〇五ワットの光が届く。光のエネルギーをほんの一点に集中させれば、たとえ出力は小さくともそんな芸当が可能になる」
 こうした持続力と集中力を備えた強い頭を、うまく働かせたということなのだろう。高校三年生の二学期に行われた旺文社の模擬試験では全国で六位、東大合格率が七五パーセント以上と出た。だが一本に絞った東京大学理科I類には不合格となり、二年目も東大には振られて、一九七五(昭和五十)年四月、早稲田大学理工学部の機械工学科に入学した。
 機械工学になにか思い入れがあったわけではなかった。受験申し込み用紙の志望欄の一番目に機械工学科があったことで、何となくそこに印を付けた。
 
 早稲田大学の学生の多くは、山手線の高田馬場駅から早稲田通りの緩い上り坂を歩いてキャンパスに向かう。本部の間近には地下鉄の駅もあるが、少し離れた理工学部にとっては最寄りの駅は高田馬場となる。ここから西に向かって延びる西武新宿線の沿線には、早稲田の学生相手の下宿やアパートが多い。
 西は高田馬場から五つ目の野方に、下宿を借りた。
 大学からの紹介を受けて訪ねてきた長髪で童顔、体格のよさを通り越してかなり太り気味の学生は、部屋を見せられるなり、続きの二部屋を借りたいと言い出して大家の郡司家を驚かせた。羽振りのよい学生はさらに何本もスチール製の本棚を運び込み、まるで資料室のように本を並べはじめた。晴れて大学生となった西は、おばあちゃんの財布を存分に活用して山のように本を買い集め、グライダーの練習に手を染めた★。

★パーソナルコンピューターの台頭と同時進行で書かれた田原総一朗の『マイコン・ウォーズ』(文藝春秋、一九八一年)は、当時の西和彦やビル・ゲイツ、ソード電算機システムを起こした椎名堯慶らの勢いを生き生きと写しており、あらためて読みなおしてみても特に冒頭の「一攫千金を狙う若者たち」などには胸のわくわくするような躍動感を覚える。当初『週刊文春』に連載されたこの企画を通すにあたっては、「週刊誌でコンピューターの話?」という社内の強い懸念を、当時から田原氏と組んでいろいろな仕事を仕掛け、その後もいろいろと多方面で仕掛けに仕掛ける文藝春秋の花田紀凱氏が吹き飛ばして実現したという。表にはなかなか出ないが書籍や雑誌の企画を実現させるにあたっての、編集者の果たす役割はきわめて大きい。アスキーの書籍のブランドイメージを大いに高めている『アラン・ケイ』、『ワークステーション原典』といった仕事では同社の渡辺俊雄氏が大いに力をふるって、困難なプロジェクトをゴールまで引っ張ってきている。今回の筆者の仕事も、アスキーから刊行されたこれらの著作にきわめて多くを負っている。じつに勝手な言いぐさではあるが、『マーフィーの法則』ででもがんがん儲けて、今後も算盤勘定には合わなくても残すべき価値のあるこうした貴重な本を形にまとめ上げていっていただきたい。
 アスキー関係者の証言を集めた書籍にはほかに、『アスキー 新人類企業の誕生』(那野比古著、文藝春秋、一九八八年)がある。

 そして受験勉強から解放された西の目の前に、マイクロコンピューターが飛び出してきた。
 一九七五(昭和五十)年一月号の『ポピュラーエレクトロニクス』で発表されて以来、アメリカではキット式の超低価格コンピューター、アルテアの人気が沸騰していた。かつてトランジスター電卓に魅せられて以来、エレクトロニクスの虜となっていた西は、アメリカから雑誌を取り寄せては関係する記事を読みあさった。秋葉原のショップには以前から、はんだごてを握って手作りを楽しむエレクトロニクスマニア向けに、ゲームや時計などの回路をIC化した部品を売っている店が何軒かあった。そんなショップの店先で、キット式のコンピューターが話題を集めはじめていた。
 さらにこの年には、中古コンピューター専門店というまったく新しいタイプのショップが生まれた。
 
 豊富な資金力を背景に、レンタル制をとるIBMに対抗するために、日本のコンピューターメーカー七社は一九六一(昭和三十六)年にレンタル代行機関、日本電子計算機株式会社(JECC)を設立した。
 レンタル制を採用すれば導入のための初期費用を抑えて、コンピューターの需要を喚起できる。だがそのためには、マシンがいつ返却されるかもしれないというリスクをメーカーが負担しなければならなくなる。そこでレンタル代行機関を設けてここが国産メーカーからマシンを買い上げ、償却期間をIBMより長く設定してレンタル料金を抑えるとともに、返却のリスクを引き受けて普及促進を図ることが目指された。
 さらに一九七〇(昭和四十五)年ごろからは、従来の大型機に比べて大幅に安いミニコンピューターの台頭を背景に、専門の業者がマシンを買い入れて導入先に貸し出すリースが普及しはじめた。こうした制度の定着によって、低価格のコンピューターの導入にはさらに拍車がかかった。と同時に、一般的に設定された償却期間の五年が過ぎると、新しいマシンに置き換えられた機種がリース業者の手元に戻りはじめた。こうしたいわゆるリースバックのミニコンピューターやテレタイプなどの周辺機器が安く払い下げられるようになり、コンピューターの中古市場が一九七五(昭和五十)年前後から形成されはじめた。
 東京、新宿にはアスター・インターナショナル、横浜の保土ヶ谷にはソーゴーという先駆けとなる専門業者が生まれ、エレクトロニクスのマニアたちの前に、安いものなら数十万円で中古のコンピューターが並びはじめた。さらにマイクロコンピューターを使ったキット式のシステムなら、キーボードもディスプレイ、プリンターもない丸裸の状態ながら値段はさらに安かった。脱丸裸を目指すなら、テレタイプの中古品もあった。西が大学に入った一九七五(昭和五十)年前後には、コンピューターの普及と半導体技術の成果の両側から、趣味のコンピューターいじりを可能にする土壌が耕されはじめていた。
 西は資料室と化した下宿部屋に、今度はさまざまな機械まで持ち込み、築四〇年の家の床は、重みに耐えかねて沈みはじめた。
 
 西の運び込んだ荷物に下宿の床が悲鳴を上げはじめた当時、大家の息子の郡司明郎は、ソフトハウスのコンピュータ・アプリケーションズ(CAC)で、金融、証券システムの開発にあたっていた。一九四七(昭和二十二)年生まれで西より九つ上となる郡司は、千葉工業大学を卒業後プログラマーの道を選んでいた。
 コンピューターという共通の話題が接点となって、西と郡司はしだいに言葉を交わすようになった。
 本とコンピューターの部品で埋めつくされた部屋で、ときに西はわけの分からない電子機器作りに取り組んでいることがあった。聞けばアルバイトで製作を頼まれたのだという。しばらくして西が「もうかったで」と一万円札を二〇数枚並べるのを見せられたときの印象は、郡司の記憶にあざやかに焼き付いた。大型機用のソフトウエア開発にあたっていた郡司の視野の外で、マイクロコンピューターを核にして何かが揺らぎはじめていた。
 散らかり放題散らかった部屋で西がいじくり回していたのは、地殻変動の起爆剤だった。
 西と出会った翌年の一九七六(昭和五十一)年六月、郡司はCACをやめた。退職に、何かはっきりとした目論見があったわけではなかった。ただ一九六〇年代後半に大学生活を送り、職を得て働きはじめた七〇年代は郡司にとって退屈な時代だった。このままここでこうして齢を重ねていくのが、郡司にはしだいにうとましく思えてきた。辞表を出してから引き続いてCACの仕事を手伝うこともあったが、大半の時間はパチンコ屋で過ごした。だが数週間が過ぎると、怠惰な生活にも嫌気がさし、アメリカ旅行の計画を立てて一か月をかけて回ってきた。
 旅行から戻ると、待ち受けていたように西が声をかけてきた。マイクロコンピューターの雑誌を作りたい。ついては郡司にも手伝ってもらえないか、という。ハードウエアに特に関心はなかったが、ソフトウエアならお手のものだった。雑誌作りという新しい体験にも興味があった。それにどうせ、定職はないのだ。
 雑誌作りの根城は、西が新しく代々木に借りたマンションの一室に置かれた。
『I/O』と名付けた新雑誌の編集長には、北海道大学出身で編集の経験のある星正明があたることになった。
 
 この『I/O』で、当時電気通信大学の学生だった塚本慶一郎は、西と並んでペンネームを三つ四つと使い分けて記事を書きまくった。
 一九五七(昭和三十二)年生まれの塚本は、コンピューターを学ぶならと選んだ電通大に一九七五年に入った。コンピュータールームに収まった大型機は見るだけで、学生が利用できる機会はごく限られるという実態には失望させられたが、その分アメリカの雑誌で見たマイクロコンピューターを利用したシステムの自作記事には胸が躍った。さっそくマイクロコンピュータ・メーキング・アソシエイションと名付けた同好会を作り、リースバックの中古コンピューターを扱っている店から電動タイプライターを買ってきて、手作りのシステムにつなごうと奮闘しはじめた。
 入出力のための機器をつないだシステムでは、音楽をやろうと考えた。
 作曲家の冨田勲はムーグIIIという大規模なシンセサイザーを購入し、これを使って作ったムソルグスキーの「展覧会の絵」のレコードで、話題を集めていた。ムーグ社のシンセサイザーにはとても手は出せなかったが、自作のマイクロコンピューターシステムにシンセサイザーの回路を組み合わせれば、電子音楽に挑戦できるはずだった。
 塚本たちがマイクロコンピューターに取りつかれた一九七六(昭和五十一)年の夏、西和彦が『コンピュートピア』誌の記者として電通大を訪ねてきた。大学のコンピュータークラブを紹介しようというこの取材★がきっかけとなって、西との付き合いが始まった。

★このとき西がまとめた原稿は、「にし君のアマチュア・マイコン・グループ探訪記」のタイトルで『コンピュートピア』誌の一九七六年十一月号に掲載されている。『I/O』や『ASCII』の創刊に先だつ一時期、同誌はパーソナルコンピューター関係の情報の提供媒体としてじつに大きな役割を果たしている。特に一九七五年九月から一二回にわたって連載された安田寿明東京電機大学助教授による「マイ・コンピュータを作ろう」が与えた影響は大きい。のちに講談社ブルーバックスで『マイ・コンピュータ入門』としてまとめられてベストセラーとなったこの記事をどう読んだかという記述から、西は「探訪記」の原稿をスタートさせている。
「本誌に75年9月から12回にわたって連載された安田寿明さんの『マイ・コンピュータを作ろう』を読んで、作ってみたいなと思われた読者は多いだろう。事実、この連載は数あるマイコンの製作記事の中でも、特に随所にきめが細かい解説がなされており、作らない人でも楽しく読めた記事であった。かくいう僕もその一人。
 あの連載がきっかけとなって、マイコンを作り始めた人は多いと思うが、その中でも『マイコンでシンセサイザーを動かそう』というユニークな目的を持ってM6800のシステムを組み上げ、活動中のクラブがある。そこはマイコン自作派同士、さっそく訪問してみた」
 安田寿明はこの記念碑的な連載に引き続いて、同誌の一九七七年三月号から十二月号にかけて、「マイコン・ソフト&ハードのページ」を連載し、のちに本書で詳述するタイニーベーシックの日本への紹介を行っている。ちなみに同連載の六月号には、第一回ウェスト・コースト・コンピューター・フェアーに参加した安田による、時代の空気を見事にすくい取ったレポートが掲載されている。

 誘われて西の部屋を訪ねた塚本は、あまりの建物の豪華さに目を丸くした。確かに広くはないものの、下宿でもアパートでもない、まぎれもないマンションの一室に西は住んでいた。おまけに部屋に入ると、壁際だけでなく部屋の真ん中にも何本も本棚が並んでいた。さらにローランド社のどでかいシンセサイザーまで鎮座ましましている。聞けばローランドに掛け合って、借りてきているのだという。プラグを抜き差しして回路を調整しながら音を変えていくパッチボード式のこのシステムに塚本は目を輝かせ、以来西のマンションに入りびたりとなった。
 
『I/O』は、一九七六(昭和五十一)年十一月に創刊された。三〇〇〇部刷った創刊号は、秋葉原のショップを中心に自分たちで配って歩くと見事に売り切れた。
 創刊号の巻頭には、システム本体につないでアルファベットと数字を表示させるキャラクターディスプレイの自作記事を置いた。アルテアやIMSAIの紹介とこれらにつなぐ入出力機器やシンセサイザーの解説記事を用意し、西は自分の名前では「TVゲーム徹底調査」と題した連載記事を持った。
 この年の夏、秋葉原に登場するや人気沸騰となった新しい集積回路は、あらためて振り返れば「ホビー・エレクトロニクス・ジャーナル」と銘打った『I/O』の成功を予言していた。
 ゼネラルインスツルメンツ社がこの年の春からアメリカで売り出していた、ビデオゲームLSIには、テニス、ホッケー、スカッシュ、ライフル射撃、クレイ射撃の六種類のゲームが組み込まれていた。このLSIの日本向け初出荷分が秋葉原のショップに届いた七月当初は、店頭に黒山の人だかりができるほどの騒ぎになった。秋葉原での販売価格は七五〇〇円。これに必要な部品を買い足して組み立てれば、一万円足らずで家庭にあるテレビでゲームを楽しむことができた。さらに『I/O』創刊後のこの年の十二月には、あらたにカラーに対応したゲーム用LSIが、ナショナルセミコンダクターズ社とモステクノロジー社から発売された。
 こうしたゲーム用LSIを使っては、完成品のゲーム機も作られた。だが多くのマニアたちは、一足先に単品で発売されたLSIを使ってゲーム機の手作りを楽しんだ。
『I/O』の創刊号は、手作りシステムをあくまでコンピューターとして使うための記事を前面に据え、ゲームやシンセサイザーの記事を脇に配する構成をとっていた。だがゲーム用LSIが巻き起こしたブームに引きずられるように、しだいに雑誌の構成はテレビゲーム中心に移り、そのことがいっそう『I/O』の売れ行きを伸ばした。ゲームの記事を実名で連載していた当の西は、この選択に違和感を抱くようになった。ゲームは確かに面白いし、記事の人気も高い。だがこの路線をひた走れば、『I/O』は純粋に趣味の雑誌となってしまう。
「個人のためのコンピューターには、ゲーム機をはるかに超えた大きな可能性があるはずだ」と、西は考えた。もう一方の星は、立ち上げたばかりの『I/O』を軌道にのせることに、関心を集中させた。
 編集方針への疑問に会社運営上の星との軋轢が加わって、翌一九七七(昭和五十二)年の春、西は『I/O』の編集作業を放り出して、一か月のアメリカ旅行に出た。旅費はおばあちゃんにねだり、三〇〇万円を用意した。
 アメリカ旅行の第一の目的は、四月にサンフランシスコで開かれる第一回ウェスト・コースト・コンピューター・フェアー(WCCF)に参加することだった。『ドクター・ドブズ・ジャーナル(DDJ)』の告知でフェアーの開催を知った西は、主催者に申し込んで確保していたブースに『I/O』を並べ、日本から仕込んでいったビデオのインターフェイスボードやライトペンを会場で売った★。

★『コンピュートピア』一九七七年六月号所収の「マイコン・ホビイストは何をめざす?」と題した安田寿明による卓抜なWCCFレポートから、氏が会場で出会った日本人に触れている部分を引く。
「ああ、猛烈、ニッポン人
 もっともっと驚いたことがある。開会直前、入場券を買うため、十重二十重の行列を組んでいたときのことである。1台の超デラックス観光バスが、ぼくの近くにスーッと止まった。車内で1人の男が、なにやら大声で説明している。やがて、自動ドアが音もなく開き、頭上に旗を振りかざした男がステップを踏んで下車してきた。そのあとを、ぞろぞろと30人ばかりの日本人がおりてくる。
 その先頭に立つ人を見て、再度びっくり。さる有名私立大学工学部の某教授ではないか。この高名な先生、さる大きな日本のアマチュア・コンピュータ・クラブの委員にも名を連ねていらっしゃる。一瞬、日本のコンピュータ・アマチュアたちが、大挙してやってきたのかと、錯覚したほどである。
 しかし、そんなことがあろうはずはない。有名先生のあとに従うのは、明らかに一流メーカーのエンジニア、企画調査マンといった姿かっこうである。もちろん、有名先生はじめ、一行の日本人、ぼくのような見習技手ふぜいを無視して通り過ぎるのは当然である。声高に、日本語で話しながら練り歩いていった。ぞろぞろ彼らが立ち去ったあと、周辺のアメリカ人たちから、ざわめきが起こる。
「彼らは日本人だ」「コンピュータ・ホビイストなのかしら?」「そうではあるまい。あれは日本のビジネス・マンだ」「ひゃあっ、それじゃ、そのうちソニーやパナソニックのように、われわれは日本製のマイクロ・コンピュータを使うようになるのかな」「そうかもね」
 聞くところによると、日本から2組もの視察旅行団が組織され、それぞれ約30人ずつこの大会をめざしてやってきた。さらにあるホテルには、重役の陣頭指揮で大挙15人もの社員を送り込んだ日本企業もあるという。彼らは、すべてバッジを外して行動し、丹念に、各種の技術資料を収集していったそうである。
 フレーフレー・ワセダ!
 日本の名誉のために、あえてつけ加えるならば、すべてがすべて、このような日本人ばかりではない。2日目の会場でぼくはTK―80の開発設計者であるG(後藤富雄、筆者注)氏に、ばったり会った。ブースごとに展示してあるマイコンを、かたっぱしからキーボード・プログラミングし、腕時計をのぞきながらランさせているG氏の姿を見かけて『やあ』と肩をたたいてみた。
 聞けば、たった1人でサンフランシスコに到着したばかりで、会場内の展示コンピュータで、観客に開放されているものについて、すべてベンチマーク・テストをしている最中だという。TK―80が、発売後、半年そこそこで5千台以上売れたというのも、多くのアメリカ人には驚きのタネであったし、ご本人には大変失礼な話だが、アメリカ人の目から見れば、17、18歳そこそこのハイスクール学生ぐらいのG氏が、それをなしとげたということも驚異のひとつであったようだ。
 もうひとつある。会場内で、これはと思われる重要そうな展示物や、シンポジウム運営のキー・パーソンに話しかけてみる。それらの人びとは、きまって「ミスターK・ニシを知っているか?」とくる。かの早稲田大学3年生の西和彦君のことである。もし知らないといえば、日本人のくせに、なんとなくうさんくさいヤツと、そんな風に思われかねない口ぶりである。
 しかたがない。こちらは「ミスター・ニシは、わがはいの良き教師である。わがはいは、最もできの悪い生徒である」というよりほかはない。さすればその相手、さもありなんという表情でうなずき、それ以降は、威勢よくしゃべってくれる。まったくもう『ミヤコの西北』には勝てないねえ。
 ところで、その西君が編集長を勤める雑誌『I/O』が、会場内のとあるブースに麗々しく飾ってあったのにもびっくり仰天。そのブースに、ちんまり座った小柄な金髪のおばさんが、熱心に説明しているのが同誌で通信販売しているビデオ・インタフェース・ボード。さらには同誌に、しばしば登場してくるM氏の作品とおぼしきライト・ペンが、会場特価3ドルで売られていた。
 フェア出品の展示物といえば、ほとんどがアメリカ製であることはもちろんだが、そのなかで、三つのブースに陣取ったのが唯一の外国勢の日本製である。ひとつは、兼松江商が出品していたソード社製の汎用マイクロ・コンピュータ・システム。それに、サンフランシスコ市のコンピュータ学校が教材用に改造したNECのTK―80完成基板。そして、わが〈師〉西君の関係する一連の出品物。
 さて、その西君はといえば、単身、パンアメリカン航空のサンフランシスコ直行便で会場に乗り込んできて、ちょこまかと走りまわり、あっちでぺちゃくちゃ、こちらでぺちゃくちゃと、しゃべりまくっていたと思うのもつかの間、いつの間にかふいと姿を消してしまった。いや、西君の活躍といい、同誌の海外進出(?)といい、こちらは胸がすくような思いである。ひとつ、ここはうんとハッスルしてもらって、ことマイクロ・コンピュータ技術資料に関する限り、世界中のエンジニアが、日本語を知らなければ遅れをとるというぐらいに、がんばってほしいものである。
 そのためには、最近の『I/O』誌で、ちょいちょい見かける米誌ポピュラー・エレクトロニクスを、日本文字に焼きなおしたような記事は、なるだけ避けた方がよさそうである。せっかくの勇名が泣こうというものである。

 満員電車並みの混雑となった会場では、アップルIIとPETというはっきりと個人用のコンピューターに狙いを絞ったマシンが、大変な人気を博していた。さらにアルテアやIMSAI用に会場で売られている増設メモリーも、八Kバイトや一六Kバイトといった大容量のものが主役となっており、果ては一枚の増設ボードで六四Kバイトという度肝を抜かれるような代物まで登場していた。本体にもともと付いてくる二五六バイト、五一二バイトといったレベルのメモリーで使うのは、すでにここでは常識はずれとなっていた。
 こうしたメモリーの大容量化を促進していたのは、ベーシックだった。アメリカのユーザーたちはすでに、ごく一般的にベーシックを載せてプログラミングの環境を整えはじめていた。ベーシック自体の規模にもよるが、言語を載せるためにはそれだけで二Kバイトから八Kバイト程度のメモリーを余分に用意しておかなければならない。そのためには、メモリーの増設が不可欠だった。
 西は服装も姿形もてんでばらばらな老若男女が集う会場の熱気の中で、あらためて趣味のおもちゃとしてではなく、人間の可能性を拡大する知恵の道具としてのパーソナルコンピューターに確信を強くした。
 目星を付けていた人物やフェアーで知り会った関係者を訪ね、用意した軍資金を使い切って豪勢な旅を終えた西は、五月に日本に戻った。だが会社の運営に関する星への不信感は根強く、星もまた果たすべき役割を放棄して勝手にビジネスへの渡りをつけてくる、西の言葉に耳をかそうとはしなかった。株式の名義人は星の関係者に押さえられていたことから、西は『I/O』と決別する覚悟を決めた。
 仲間のうちから郡司と塚本に声をかけて、ホビイとは一線を画した新しい雑誌の創刊を目指そうと動きはじめた。これまでも『I/O』は月刊で出してきた。大半の記事を自分たちで書いてきたのだから新雑誌も月末までには出そうと、雑誌編集者が聞けばあきれ返りそうな無茶なスケジュールを立てた。
 一九七七(昭和五十二)年五月、西、郡司、塚本の三人は、資本金三〇〇万円でアスキー出版を設立した。港区の南青山に借りたワンルームマンションが、新しいオフィスとなった。
『ASCII』と名付けた新雑誌は、当初の目論見からは一か月遅れたものの、六月には早くも発行にこぎ着けた。
 創刊号の巻頭言をまとめようと原稿用紙に向かった西は、まず「ホビーとの訣別」というタイトルでます目を埋めた。『I/O』の予想外の成功がもたらした胸の高鳴りや星との石を噛むような確執、そしてWCCFの熱気の中で再確認した個人のためのコンピューターへの確信が、西の胸の内につぎつぎとよみがえってきた。
「ここにホビーではない新しい分野『コンピュータの個人使用・パーソナル・コンピューティング』が出現した」
 あらためてそう書き記したとき、西は暗雲を払って差し込んできた陽をからだ中で受けとめたような、爽快な高ぶりを覚えた。
「マイクロコンピュータは家電製品にも積極的に使われて、産業としての地位を確立しつつありますが、今まで大型が担ってきた計算とか処理などの機能を備えたコンピュータが個人の手のとどく商品となったら、それをどのように分類したらいいのでしょうか。
 電卓の延長ではないと考えます。家庭や日常生活の中に入ったコンピュータ、テレビやビデオ、ラジオのような、いわゆるメディアと呼ばれる、コミュニケーションの一手段になるのではないでしょうか。テレビは一方的に画と音を送り付けます。ラジオは声を音を、コンピュータはそれを決して一方的に処理しません。誇張して言うなら、対話のできるメディアなのです。個人個人が自分の主体性を持ってかかわりあうことができるもの――これが次の世代の人々がもっとも求める解答であると思うのです」(『ASCII』一九七七年六月号「編集室から」)
「マイクロコンピュータ総合誌」と銘打った『ASCII』の創刊号は、五〇〇〇部を刷った。新会社の当座の運転資金として西が家から引き出してきた三〇〇〇万円で最低限の体制を整え、売り上げ分を回収できない三号目までを賄おうと考えて、一号あたりの経費を設定してはじき出したのがこの部数だった。『I/O』の創刊時と同様、今回も秋葉原を中心に持ち込みで書店やショップにまいていった。
 この創刊号が、見事に売れた。
 三号目からは刷り部数を八〇〇〇に増やし、その後も部数は順調に伸びていった。
 社長となって財務を引き受けた郡司は、『ASCII』の販売も担当した。自分の車に大量の雑誌を積み込みマフラーをこすりながら郡司は配本に走りまわった。
 
 だが一九七八(昭和五十三)年が明けて『ASCII』の刊行が軌道に乗りはじめると、西の腹に棲む変化と成長を求める虫が早くも騒ぎはじめた。
 アメリカでは前年、アップルII、PET、TRS―80と新世代のパーソナルコンピューターが続々と誕生していた。パーソナルコンピューティングの新しいページを開く主体は、ホビイストからメーカーの手に移っていた。
 西はいつもパーソナルコンピューターの最先端にいたかった。
 ではアスキーで新しいマシンを作るのか。
 西の豊かな家庭は、これまで彼が思いのままに発想を遊ばせる自由を与えてくれた。『ASCII』の創刊にあたっては、ベンチャーキャピタリストの役割を、西家がになってくれた。
 もしも西のような人物がアメリカに生まれていたなら、彼はおそらくこのタイミングでマシンの構想を練り、キーとなる開発スタッフを確保してベンチャーキャピタリストを訪ねていただろう。だが日本を活動の場とする西には、その術がなかった。ハードウエアの開発、生産となると、ようやく利益が出はじめたばかりのアスキー出版には手が出せず、さすがに今回は実家を頼るわけにもいかなかった。
 だが西には目論見があった。
 マイクロソフトのベーシックを握れば、少なくとも日本のパーソナルコンピューターの開発をリードできる可能性があると西は考えた。
 ベーシックをマイクロコンピューターを利用したシステムに載せようと試みたのは、マイクロソフトだけではなかった。
 雑誌の呼びかけに応えて、数多くのホビイストが、ごく小さな規模のベーシックを自分のマシンに載せようと試みた。アルテアを追って登場したIMSAIは、ゲアリー・キルドールに海軍大学院で教えを受けた、ゴードン・ユーバンクスの開発したベーシックを載せていた。拡張されてCBASICと名付けられたユーバンクスの言語もまた、アメリカでは広く使われるようになった。日本電気のTK―80BSには、マイクロコンピュータ販売部の土岐泰之が書いたベーシックが使われていた。少なくともコンピューター部門を抱えている企業なら、書こうと思えば独自のベーシックを書くことはできた。
 だがアルテアへの搭載で一歩先駆けたマイクロソフトのベーシックは、ビル・ゲイツが怒り心頭に発したホビイストたちのコピーもあずかって、広く普及していった。業界の標準にもっとも近かったのは、マイクロソフトのベーシックだった。
 一九七八(昭和五十三)年初頭、西は日本時間の深夜にアメリカに電話をかけた。時差を考慮するところには気が回ったが、電話番号は調べがついていなかった。国際電話のオペレーターに「マイクロソフト社につないでくれ」と頼むと、どこのマイクロソフトだとたずねられた。アルテアの開発元であるMITSがニューメキシコ州のアルバカーキーにあることを思い出して、この街で探してもらうと該当する会社があった。
「マイクロソフトのベーシックを買いたい」
 電話口に出たビル・ゲイツに、西は切り出した。
 日本のパーソナルコンピューターに載せるために、ベーシックを買いたい。あなたの開発したベーシックは、素晴らしい製品である。ただしマイクロソフトのものそのままでは、日本のメーカーやユーザーの要求はみたしきれない。任せてくれれば我々が日本向けに機能を拡張して、この国の市場をマイクロソフトのベーシック一色に染めてみせる。
 黙ったままの相手に電話を切らせないようにと、思い付いた話、頭に浮かんだ単語を勢いで並べて話し続けるうちに、「我々の会社を見てもらったほうがいい。航空券を送るので日本に来ないか」との言葉が口をついて出た。
「今僕にはとてもそんな暇はない。用事があるというならそちらこそ来るべきだろう」
 ソード電算機システム、アイ電子計測、リコー、松下通信工業といったまともな企業から、もっと確かそうなベーシック購入の打診をすでに受けていたゲイツは、そっけなくそう答えた。それでも西は、六月にカリフォルニア州アナハイムで開催される全米コンピューター会議(NCC★)で会う約束を取り付けてから、ようやく受話器を置いた。

★著作を積み上げていくことの効果は、西とゲイツが初めて出会った際の描写の変遷にもよく表われている。原著が一九九〇年に刊行された『マイクロソフト』では、「NCCで会った」とだけされていたものが、一九九二年の『ビル・ゲイツ』では、テキサス州ダラスで開かれたNCCと場所が特定されている。さらに一九九三年の『帝王の誕生』では、カリフォルニア州アナハイムで開かれたNCCで会ったことになっている。
 このように記述が移り変わっていった経緯は、以下のように推測できる。注意深く読めば二人の出会いの年が一九七八年であることは、『マイクロソフト』にも記述されている。ただしここでは、誤読の可能性を残すたがの緩い表現となっている。『ビル・ゲイツ』は読みそこないと他の何らかの誤った根拠から、これを一九七七年と取り違え、この年に開かれたNCCの会場を別個に調べて、ダラスとした。ただし正解は、『帝王の誕生』の著者が当事者に直接インタビューして確かめたとおり、一九七八年のアナハイムである。
 ノンフィクションに抑えがたく紛れ込んでくるこうしたノイズを少しでも減らそうとすれば、それぞれの書き手が誠実に努力するのは当然として、すでに書かれたものを批判的にとらえながら著作を積み上げていくしかない。そうしたプラスの循環を生み出すことができなければ、「西は一九七六年にシアトルのマイクロソフトを訪ね、ゲイツとはじめてあった」などという、たったこれだけの文章の中にいくつ誤りが紛れ込んでいるかをクイズにしたくなるようなことを書いた本が、ぽつんと存在している状態を甘んじて受け入れざるをえなくなる。
 なお西からの連絡が入る前に日本企業からのベーシック購入の打診があったことも、『帝王の誕生』の著者によるビル・ゲイツへのインタビューによって確認されている。

 当初は三〇分という話になっていたビル・ゲイツとの話し合いは、えんえん三時間★に及んだ。突然わけの分からない英語で「ベーシックを買いたい。ついては日本に来ないか」と電話でまくしたてた東洋人が、同世代のシャープな人間であることを、ゲイツはすぐに理解した。そして何よりも、マイクロコンピューターが実現した個人のためのコンピューターは、一人ひとりの認識の限界を押し広げる道具として発展するというビジョンと確信を、西とは共有することができた。日本市場がどれほどの可能性を持っているのか見当はつかなかったが、自分とよく似通った先見性とエネルギーを感じさせる西が、マイクロソフトのベーシックを売り込むというのなら、乗って悪い話とは思わなかった。二日後、西はアルバカーキーのマイクロソフトを訪れ、アスキー出版が日本におけるベーシック売り込みの窓口になるという基本的な合意をまとめた。

★マイクロソフトをテーマとした前出の三つの作品はいずれも、会見時間に関して「八時間説」をとっているが、西氏の記憶によれば、三時間ほどであったという。

 すり合わせの作業を経て、一九七八(昭和五十三)年十月、両社は正式に提携関係を結び、マイクロソフトの極東代理店としてアスキーマイクロソフトを設立した。アスキー側の取り分は、各企業からマイクロソフトに対して支払われるライセンス料の三〇パーセントと定めた。
 雑誌出版社としてスタートしたアスキーは、このときを境にパーソナルコンピューターの基本ソフトの供給者という、もう一つの顔を備えた。
 同月、日本電気は従来のキット式の製品に加えて、組み立て済みの新機種コンポBS/80の発表を行った。このマシンには、従来どおり日本電気製のベーシックが搭載されていた。だが、日本電気の開発チームが、個人のためのコンピューターを志向していることは明らかだった。
 チームのリーダーである渡辺和也には、「コンピュトーカー」というコンピューターによる音声合成システムの開発を行っているカリフォルニア州サンタモニカのベンチャー企業で、ほんの数か月前に偶然会っていた。西は渡辺の名刺を引っ張り出して電話で約束を取り付け、日本電気を訪ねた。
「マイクロソフトのベーシックは、アメリカではパーソナルコンピューターの標準になりつつある。日本電気が本気でパーソナルコンピューターを成功させたいのなら、絶対にここのベーシックを採用するべきだ」
 西は渡辺に食らいつくように力説し、ともかく一度マイクロソフトのビル・ゲイツに会ってみてほしいと強く勧めた。ショーの視察のために予定したアメリカ出張のスケジュールを変更して、渡辺はマイクロソフトに足を伸ばすことにした。
 アルバカーキーの空港に降り立つと、自ら緑のポルシェ911を駆って迎えにきたビル・ゲイツが待っていた。

〈もう一人の西〉を生んだ
古川享のWCCF体験


「おまえなあ、大きくジャンプしようというときに両手に荷物を持ってたら高く跳び上がれへんやろ」
 長髪をかきながら、西が諭すような口ぶりで言った。
「パーソナルコンピューターに賭けたら、五年後、一〇年後にきっとお前は一億、一〇億の商売をするようになるよ。そのお前がここで月に一〇万、二〇万もらったら、出した連中はきっとあとになって『あのときの分はまだ返してもらってない』と言うに決まってる」
 視線を落としながら西和彦の言葉を耳で追っていた古川享は、内心で〈なるほど〉と合いの手を入れた。
「だからこんなとこで荷物を抱え込んだらあかんよ。身軽のまま、ぐんと縮こまってから思い切って跳ぶんや」
 二つ年下にもかかわらず兄のような口ぶりでそう説教をくれる西の言葉は、古川の耳にむしろ新鮮に響いた。
「親は生きてるんか」
 西の突然の問いに、出会ったときからの客相手のていねいな調子を崩さず、「ええ」と古川が答えた。
「そしたら遺産を先渡ししてもらう交渉をして、紐付きにならない親の金でアメリカに行ったほうが絶対いいって」
 繰り返し二度うなずきながら、古川はわずか二つ違いの西と自分とのあいだに、世代のギャップが間違いなく存在していることを意識していた。
 自分たちの世代にとってプラスのシンボルだった自立という価値に照らせば、むしろ積極的に「親を頼れ」とする西のアドバイスは後退以外の何物でもなかった。だが自分と同じ大学生という身分ながら『I/O』を創刊し、仲間たちと喧嘩別れしたかと思うと今度は『ASCII』を旗揚げした西にとっては、頼れるものを頼らずして立ち止まることこそがむしろ愚行なのだろう。
 古川はテーブルに落としていた視線を上げて、眼鏡の向こうにのぞく西の細い目を受けとめた。
 彼の網膜に像を結んだ西和彦には、後光がさしていた。
 古川にとって西は、圧倒されるような波動と、しびれるような魅力を備えたカリスマだった。
 パーソナルコンピューターの変革の波の最先端に乗り続ける。
 西にとってはそのことだけが至上の価値であり、それ以外はすべて小事なのだと古川はあらためて気付かされた。
「だからそんな金もらうのやめとき」
 そう西に念を押される前に、古川は申し入れを断って両親にアメリカ行きの資金をねだる気持ちに傾いていた。
 西はこの流儀で間違いなく跳んでいた。その西が「この流儀で跳べ」と誘うのなら、一度は賭けてみてもよいと古川は考えた。
 古川にとってそのとき、パーソナルコンピューターと西和彦は、胸の奥に残る一九七〇年を前後する時期の昂揚感もかすむほど輝いて見えた。
 
 銀行員を父に、一九五四(昭和二十九)年、東京で生まれた古川享は、安田講堂の攻防戦を経て東京大学の入学試験が中止となった一九六九年の四月、麻布中学から高校へと進んだ。
 新しい歌があり、新しい映画があり、決然と異議を申し立てることが誠実の証だった時代の空気を、古川は胸いっぱいに吸い込んだ少年だった。
 麻布高校二年生のとき、七人の仲間とともに校長代行の辞任要求運動の先頭に立った。東大法学部に進んで司法試験を目指していた兄のようにエリートコースを進んでほしいとの両親の願いとは、このときを境に決別することになった。仲間たちとの闘いの日々は熱い宝石のような思い出として残ったが、学園紛争の火が消え、退屈な七〇年代に放り出されると羅針盤を失ったような日々が待っていた。だが三年間浪人して、一九七五(昭和五十)年に和光大学の人間関係学科に潜り込んだころ、古川が趣味としていたエレクトロニクスの世界に異変が起ころうとしていた。
 それまではんだごてを握ってはデジタル時計やデジタルおもちゃの組み立てを楽しんできた古川にとって、マイクロコンピューターを使って個人用のコンピューターシステムを作るアルテア誕生のニュースは衝撃的だった。足しげく通っていた秋葉原には、アメリカの動きに対応した新しいタイプのショップが生まれはじめていた。
 一九七六(昭和五十一)年にリースバックのコンピューターや周辺機器のショップとして生まれたアスター・インターナショナルは、キット式のマイクロコンピューターシステムにも敏感に反応して、アメリカからの情報の中継基地となっていた。同じくリースバックの機器のショップとして生まれた横浜のバイトショップ・ソーゴー、そしてムーンベース、コンピュータラブといった秋葉原のショップが、アルテアや続いて登場してきたIMSAI、KIM―1などを並べ、雑誌類を取りそろえてマイコンショップの走りとなった。
 新宿と秋葉原に店舗を構えていたアスター・インターナショナルの双方の店を、古川は二日とおかず交互に訪れた。ここで仕入れた雑誌の記事をもとに、インテルに続いてモトローラ社が一九七四(昭和四十九)年に発表した6800や、モステクノロジー社が一九七五年に開発した6502★といったマイクロコンピューターを使ってシステムの手作りに挑戦してみた。

★モトローラの6800とモステクノロジーの6502はともに、自らを「パーソナルコンピューターの父」と称するチャック・ペドルによって開発された。
 一九三七年に生まれ、メイン大学で無線工学を学んだペドルは、ゼネラルエレクトリックでコンピューターに携わっていたが、同社の電算機事業からの撤退に伴って一九七〇年に解雇された。コンピューターを使ったキャッシュレジスターの会社の設立を手始めに何度か独立を試みたものの、成功にはいたらなかったが、ペドルはモトローラで6800を設計するという仕事を成し遂げた。チャンス到来と腹を決めたペドルはモトローラを去ってモステクノロジーを設立し、6800を改良した6502を開発して、二五ドルというきわめて安い価格で売り出した。アップルのスティーブン・ウォズニアックは、当初6800で自分の手作りマシンを設計していたが、6502の安さにたまげてこちらに乗り換えた。6502を発表したペドルはこれを用いた組み立てキット式のKIM―1を売り出し、続いてコモドール社からPETとして発表されるマシンの開発に取り組んだ。
 当初PETのプロジェクトにはタンディもかんでおり、ペドルは一九七六年一月にPETのプロトタイプを同社にデモしたことを指して、自分こそパーソナルコンピューターを初めて作り上げた「父」であると主張している。一九七六年十月、ペドルはモステクノロジーをコモドールに売却し、PETは同社から発売されることになった。
 こうした経緯があって6502はアップルIとII、PETなどに使われ、任天堂のファミコンに採用されて大増殖を遂げた。

 さらにさんざん通い詰めた挙げ句、古川はアスター・インターナショナルでアルバイトを始めることになった。
 米軍基地にトラックでテレタイプを引き取りに行き、三〇〇〇円で仕入れたものを磨き上げて三〇万円の値をつけて並べておくとこれが見事に売れていく。電源やフロッピーディスクドライブ、電動タイプライターなどの周辺機器が、自分のシステムを強化したいマニアにどんどん流れていった。
 そんなアスター・インターナショナルの上顧客の一人に、早稲田大学の学生であるという西和彦がいた。
 西の金の使いっぷりと、アメリカの雑誌を定期購読して仕入れている情報の新しさは、いかにも目に付いた。二人はすぐに、西が店を訪れるたびに話し込んでは新しいねたを交換する間柄となった。
 その西は『I/O』を創刊したかと思うとすぐに、軌道に乗りかけた雑誌を捨てて仲間たちと別の出版社を設立し、今度は明確にパーソナルコンピューターに狙いを絞った『ASCII』を出しはじめた。しかも雑誌の発行で多忙をきわめているはずの西は、繰り返しアメリカに出かけてはショーを覗き、古川も名前だけはよく聞いているインテルやIMSAIなど関連の企業を訪ねていた。
 時代の風を背中に受けて疾走する西和彦は、古川の目に光り輝いて見えた。
 一九七八(昭和五十三)年二月、古川は二度目の開催となるWCCFを覗くために、初めてアメリカに飛んだ。
 まず降り立ったロサンゼルスで四日間を過ごしたが、新聞が大きく報じるほどのめずらしい連日の雨続きで、「カリフォルニアの青い空」がさっぱり拝めないのには肩透かしを食った。
 おまけに案の定、英語も通じない。
「私の家が大雨で流されてしまった」と嘆いているらしいTシャツ屋のおばさんを慰めようとすると、「ごめんね。私、日本語はわからないの」と謝られた。「自信がないものだから、小声でぼそぼそしゃべるのがまずいのではないか。開き直って大声でわめこう」と腹をくくってからは、ようやく少し話が通じはじめた。
 ロサンゼルスのローカル空港からバスにでも乗る感覚でサンノゼに飛び、会場のコンベンションセンターを訪ねると、そこにはもっと大きな衝撃が古川を待ち受けていた。
 会場にあふれる参加者の多くがカジュアルなシャツにジーパン姿で、大人から子供までじつに年齢層が広いのに、古川はまず驚かされた。小さな子供の手を引いた若いカップルもいて、一色に染まった日本の秋葉原族とは対照的に、性別や年齢を問わないじつに幅広い人たちがパーソナルコンピューターを取り巻いているアメリカの事情が見て取れた。
 今回のフェアーの目玉となっているのはPETとTRS―80だったが、それ以外にもさまざまなアイディアを凝らした連中がブースを出している。キット式システムや自作システム用のケースを専門に並べているところがあれば、PETやKIM―1のバスをこれまで広く普及してきたアルテアのS―100バスに改造するキットを売っている連中もいた。
 ソフトウエア絡みはもっと多種多様で、中には一五、六歳としか思えない子供が紙テープを広げていたりする。声をかけてみると、少年は「僕の父さんが我が社の会長だ」といばって答える。コンピューターにテキストを読ませるスピーチシンセサイザーや、キーを押すたびに声で操作が確認できる盲人用の電卓といった製品には、マイクロコンピューターの巻き起こした変革の波が健常者のみならず障碍者まで巻き込んでいることを印象づけられ、強い感銘を受けた。
 インテルの8080やザイログのZ80といった主流のマイクロコンピューターではなく、モトローラの6800やこれを拡張した6502といった反主流派に思い入れの強かった古川にとって、80系一色の会場で6502のプログラムを譲り合おうというブースを見つけたときは、まだ見ぬ同志に出会ったような胸の高鳴りを覚えた。
「東京からやってきた6502のファンだ」と自己紹介すると、ブースにたむろしている連中に大いに歓待を受けた。
 並べられたプログラムの中で特に興味を引きつけられたのは、6502用に移植されたフォーカルと名付けられた言語だった。もともとはディジタルイクイップメント(DEC)によってミニコンピューター用に開発されたというフォーカルは、ベーシックに似た構造を持ち、科学技術計算に適した機能を豊富に備えていた。このフォーカルと、これで書かれたゲーム類をまるごと買い求めた古川は、売り手に「このプログラムを日本で売ってよいか」とたずねてみた。
「いろいろな人に使ってもらえるのなら結構だ。日本国内に限ってということだったら売ってもらってかまわない」
 そう許可を得て、古川はあらためて革命の本場であるアメリカに直接乗り込むことの重みを思い知らされた。
 本場にはさまざまなソフトウエアやハードウエアが、宝の山のようにあふれ返っていた。そしてアメリカと日本を結ぶパイプ役となることは、けっして難しい話ではないのだ。
 古川は西が繰り返しアメリカを訪れる理由を、このとき初めて実感することができた。
 フェアーをしらみつぶしに歩いて堪能しつくしてからは、コンピューターショップめぐりにいそしんだ。日本から製品をメールオーダーする方法も確かめてきた。大荷物を抱えて日本に帰り着いたとき、古川の胸にはやってみたいさまざまなビジネスのプランが湧き出していた。ショップのアルバイト学生だった古川を、WCCFは事業家の卵に変身させていた。
 羽田空港に降り立ったのは、もう一人の西和彦だった。
 
 時差も抜けきらないうちにアスキー出版を訪ね、古川はWCCFのレポート記事を売り込んだ。一九七八(昭和五十三)年四月号の『ASCII』に思い出の写真とともに掲載された記事は、変革の波を直接背に受ける手応えを古川に感じさせた。
「古川享」の署名の文字が、誌面から浮き上がって見えた。
 WCCFのレポートがきっかけとなって編集部にコネクションを持った古川は、『ASCII』に連続して原稿を寄せるようになった。
 さらにアメリカ行きは、ショップにおける古川の位置も微妙に変化させた。本場のソフトウエア、ハードウエアに関する新しい情報をいち早くつかみ、可能性のあるものを日本に導入することは、ショップにとってビジネスの成否の鍵を握っていた。アメリカで新しい動きに目を配り、製品の買い付けにあたる人材は、強力な武器だった。ましてその人物の身分が学生で、ギャランティーなりコンサルタント料なりを安くすませられるとなれば、いっそう好都合だった。6502用のソフトウエアを日本で売ってもよいという話を取り付けてきた古川は、アメリカ駐在スタッフの絶好の候補となった。
 一度目の訪米で本場の熱気に触れ、日米のパイプ役となるビジネスの可能性に目を開かれるとともにライター稼業に首を突っ込んだ古川にとっても、アメリカで暮らすことは魅力的な選択肢だった。『ASCII』にはアメリカの雑誌で仕入れたねたを中心にパーソナルコンピューターの最新動向をまとめていたが、本拠地を移せばより新鮮な情報を直接つかみ、水滴をまとった桃のようなみずみずしい記事が書けるに違いないと思えた。可能性のある製品を自らの目で選び取って日本に送り込む仕事にも、大いに魅力があった。
 アルバイト先のアスター・インターナショナルをはじめ、つごう三つのショップから在米のコンサルタントとなってくれれば月一〇万円程度支払ってもよいという提示があった。誰の力を頼るわけでもなく、自力でアメリカ行きの費用を確保して大好きなパーソナルコンピューターの情報を売り物に気ままに暮らすことは、古川にとってじつに魅力的だった。

 西和彦が話を聞き付けて「跳びたいのなら余計な荷物を背負い込むな」と声をかけてきたのは、古川が具体的な渡米スケジュールを練りはじめた時期だった。
 西は古川に、ショップのコンサルタントとして小さくまとまってほしくなかった。もちろん、船出したばかりのアスキー出版を脅かすライバルとなってもらっても困る。パーソナルコンピューターに対する期待と確信で胸を膨らませるだけ膨らませた若い人材は、自らの手元にこそ集めたかった。雑誌社としてスタートさせたアスキーを、西は出版の枠の中に閉じ込めておくつもりはなかった。新しいビジネスを開拓し、アスキーを変化させながら育て上げていくためには、第二、第三の西和彦、言ってみればパーソナルコンピューターの神童が必要だった。
 アメリカ行きの費用を親に頼る道を選んだ古川は、一九七八(昭和五十三)年七月に留学という形をとって渡米し、まずカリフォルニア大学のロサンゼルス校で語学の資格試験向けの研修を受けはじめた。西はアメリカ出張の機会をとらえては、三度、ロサンゼルスに古川を訪ねた。
「今アスキーに来れば取締役になれるけれど、二年後にはお前の入る余地はなくなるよ」
 そう殺し文句をぶつけて、西はショップとの絆の切れた古川を口説いた。マイクロソフトとの提携交渉を進めてベーシックの市場開拓を狙う西にとって、新しい技術の可能性を雄弁に語りうる人材の確保は緊急の重要な課題だった。
 一九七八(昭和五十三)年十月、アスキー出版はマイクロソフトと提携し、同社の極東代理店としてアスキーマイクロソフトを設立した。
 翌一九七九(昭和五十四)年二月、帰国した古川は八番目の社員としてアスキー出版に入社した。
 アスキーの社員となって三日後、西は古川を日本電気で開かれる新機種の仕様検討会議に引っ張っていった。発表済みのコンポBSに続いて日本電気が開発を進めている八ビットの新機種は、PCX―01とコードネームで呼ばれていた。マイクロコンピュータ販売部長と名刺の肩書きにある渡辺和也をはじめとする大企業の大人たちの前に引き出されて、古川はてのひらに吹き出す汗を抑えられなかった。その古川の緊張は、アメリカ出張から帰ったばかりの西が時差に耐えられなかったのか、「こいつがいろいろとよう知っとりますから、こいつに聞いてやってください」と言うなり床にごろりと寝転がり、いびきをたてて眠りだしたときに頂点に達した。
 乾ききった口を無理矢理絞り出した唾液で湿らせて覚悟を決め、古川はコンポBSそっくりに赤と白に塗り分けられた試作機のキーボードに一〇本の指を置いた。キーを叩きはじめると、押し込む途中の引っかかりの強さが気になった。〇から九までの数字を入力するテンキーの代わりに、TK―80以来の十六進数のキーが付けてあるのも、いかにも古くさい印象を受けた。
「ほーっ」と日本電気のスタッフが漏らす声が耳に止まって、古川は面々が腰を浮かして自分の指の動きに視線を釘付けにしているのに気付いた。
「キーを見ないで打っているんだ」
 そう言われてはじめて、キーボードを自由に扱うというほんのちっぽけな技量が、日本ではメーカーの人間にとってもまだ特殊であることを思い知らされた。
 再びキーボードを叩きはじめたとき、古川は緊張の波がフィルムを早回ししたように駆け足で引いていくのを意識した。
「どんどんキーを叩いてユーザーが『使う』マシンを作ろうとするのなら、このタッチには問題があると思います。それに実用の機械を作るのなら、PETやTRS―80がそうしているとおり、十六進ではなくてテンキーを付けた方がいい。筐体の色も、もっと地味なものに変えたほうがいいですよ」
 こわばりのとけた古川の口から、のちにPC―8001と名付けられることになるPCX―01への注文がつぎつぎに滑り出してきた。
 
 西と古川にとってPCX―01への最大の注文は、オリジナルのベーシックを捨ててマイクロソフトのものを採用することだった。その意味で、マイクロコンピュータ販売部のベーシックの書き手である土岐泰之は、彼らの壁だった。だが言葉の端々に鋭い見通しを感じさせ、事実、速くてコンパクトなベーシックを書き上げた実績を持ち、世の中の大きな流れに沿いながらも核となるソフトウエアに関しては自分たちで作れるはずだと強い自負をのぞかせる土岐の姿勢には、話し合いの機会を重ねるごとにむしろ共感が深まった。
 どこかひょうひょうとしながら一匹狼の踏ん切りを腹にためた後藤富雄を兄貴分として、ソフトウエアの土岐泰之、ハードウエアの加藤明を核に配した日本電気の開発チームに、古川はWCCFで出会った人々に覚えたのと同様の近しさを感じるようになった。
 面白いと思った技術、進むべきと考えた方向を口にすると、開発チームの面々は古川の言葉を受け取るやすぐに小気味よい発想を投げ返してよこした。彼らは日本電気という大企業に籍を置いていたが、西や古川と同様、同じパーソナルコンピューターの変革の波に乗り合わせた仲間たちだった。
 日本電気で初舞台を踏んだ古川は、それ以来、西と同道して各社のパーソナルコンピューター開発チームを軒並み訪ねて歩きはじめた。各社のマシンにマイクロソフトのベーシックを売り込むうえで、アメリカ生まれの新しい文化の申し子といった彼らの醸し出す空気は、有力なセールスの武器となった。
 一九七九(昭和五十四)年四月、日本電気は並行して開発を進めていた自社とマイクロソフトのベーシックを比較検討したうえで、知名度と勢いを取ってマイクロソフトのものを採用する方針を固めた。
 翌五月に発表されたPC―8001の第一の特長として、日本電気は「強力な会話型の言語である『MICRO SOFT』系の『BASIC』が大容量のROM(最大三二Kバイト)に書き込まれている」点をあげた。
 このPC―8001への搭載を突破口として、西と古川は日本のパーソナルコンピューターに続々とマイクロソフトのベーシックを採用させていった。日本のソフトハウス、ハドソンの開発したベーシックを載せたシャープのMZ―80Bといった一部の例外を除いて、マイクロソフトのベーシックは日本の標準となった。
 
 雑誌出版から基本ソフトウエアの販売へという業態の拡張は、切り開くべき新しい世界の扉をつぎつぎとアスキーに開いていった。
 PC―8001の開発にあたって、ベーシックを売り込むとともに製品の方向付けに対してさまざまなアドバイスを行ったアスキーは、マシンに付けるマニュアルの製作も日本電気から請け負った。あくまでマイクロコンピューターの販売を本業とし、パーソナルコンピューターに割くマンパワーを限られる渡辺の部隊にとって、アスキーはこの分野により大きな力を注いでいくうえで絶好の助っ人となった。
 一九七九(昭和五十四)年九月に出荷を開始したPC―8001が好調な売れ行きを示しはじめると、今度はアスキーの側に、PC―8001で走らせるアプリケーションを売ろうとするアイディアが生まれた。
『ASCII』の創刊には全力を傾けたものの、西はその直後からアメリカでの技術の仕込みに関心を集中させるようになっていた。雑誌の編集は、創業者トリオの一角である塚本慶一郎が取り仕切った。
 その塚本は、一九七八(昭和五十三)年の六月、アプリケーション事業の先駆けとなる単行本を出した。西がアメリカから仕入れてきた、ゲームのプログラムを一〇一本掲載した『 Basic Computer Games 』の解説を翻訳し、日本語版として売り出してみた。するとこの本が、立派に売れていった。
 ユーザーたちは、使えるプログラムに餓えていた。
「ベーシックを学べば、必要なプログラムは自分で書くことができる」という能書きに、決定的な嘘があったわけではない。だが多くのユーザーにとって、コンピューターが動くことを確認する以上の意味を持った、繰り返し使うに価するプログラムを書くことは、やはり困難だった。一から論理を組み立ててプログラムの設計から始めるよりは、印刷されたプログラムのリストをただ入力することのほうが、はるかに敷居は低かった。
『 Basic Computer Games 』に手応えを感じた塚本は、PC―8001誕生のタイミングをとらえ、入力済みのソフトウエアを下準備なしに使えるようにすることで、今度は敷居をなくそうと試みた。
 PC―8001は、標準でカセットテープレコーダーをつなぐインターフェイスを備えていた。塚本は『ASCII』の執筆者を総動員して乃木坂のアジア会館に缶詰にし、ごく単純なゲームばかりだったものの三週間で三〇本のソフトウエアを仕上げさせた。カセットテープに収めたプログラムと解説書とをセットにした『PC―8001 BASIC ゲームブック』は、一九七九(昭和五十四)年十二月に書店に並ぶと売れに売れた。
 おおもとのマシンに基本となるソフトウエアを提供し、そのマシンのマニュアル作りを引き受け、雑誌や書籍でマシンに関する情報を流したアスキーはさらに、ユーザーがそのマシンで使うアプリケーションを提供する作業にも乗り出した。
 発想が次の発想を呼び、一つの仕事が別の仕事を引き連れてきて売り上げを急増させていった。
 一九八〇(昭和五十五)年十月、彼らはアプリケーションの開発と販売部門を独立させてアスキーコンシューマープロダクツを設立し、この分野に本格的に取り組む体制を固めた。

マイクロソフト
パソコン環境の統合を目指す


 アスキーの成功は、切り札となるベーシックを彼らに提供したマイクロソフトにも、大きな実りをもたらした。マイクロソフトの売り上げに占める日本市場の割合は、提携以降急上昇して一九八〇(昭和五十五)年度には約四〇パーセントにまで達した。こうした実績を背景に、一九八〇年九月、西はマイクロソフトの副社長の肩書きを得た。
 日の出の勢いの日本市場を背負った西は、マイクロソフトにおいても寵児だった。
 一九八〇(昭和五十五)年の夏、IBMから基本ソフトウエア供給の打診があったとき、ビル・ゲイツにもポール・アレンにも、言語製品の供給に関しては何の懸念もなかった。だがIBMとデジタルリサーチの交渉が滞る中で、OSの提供の可能性が生まれると、彼らはそこまで手を広げることに不安を覚えざるをえなかった。その逡巡を断ち切ったのが、西和彦だった。
 仲間を集めて雑誌を創刊するや、基本ソフトウエアの供給からアプリケーションの開発、販売と、瞬く間に間口を広げて日本の大手エレクトロニクス企業によるマシン開発に絶大な影響力をふるい始めた上げ潮の男は、「世界最大のコンピューター企業と組んで大きくなるチャンスを絶対に逃すべきではない」と吼えて、ビル・ゲイツの懸念を吹き飛ばした。
 一九八一(昭和五十六)年十月に出荷が始まると、PCはすぐに爆発的な売れ行きを示した。
 マイクロソフトの製品を利用したPCのヒットは、それ自体、同社の成功を意味した。
 加えてPCの勝利は、急成長の過程でマイクロソフトが抱え込んだ深刻な混乱を収拾する可能性を、同社に開いてくれた。
 
 さまざまな機種に移植して、そのたびに機能の拡張を繰り返す中で、同じマイクロソフトのベーシックの中に、いくつもの方言が生まれていた。
 別個にOSを持たず、ベーシックの専用マシンとして育ってきたパーソナルコンピューターでは、周辺機器をコントロールする機能がこの言語に付け加えられた。さらに新しい機種で市場に打って出ようとするハードウエアメーカーは、従来のマシンにない機能を売り物にしようと考えた。マイクロソフトはそのたびに、ベーシックに新しい機能を付け加えていった。ディスプレイがつながり、カラーも使えるようになったグラフィックス関係では、特に機能の拡張が盛んに行われた。
 日本電気のPC―8001以降、マイクロソフトのベーシックにいっせいになびきながら各社がつぎつぎと新型機を発表してしのぎを削った日本市場では、特にはなばなしい機能拡張競争が繰り広げられた。グラフィックス関連に力を入れたPC―8001に続いて、日立のベーシックマスター版、解像度を大幅に高めた日本電気のPC―8801版と機能拡張が続き、ビル・ゲイツ自身がハードウエアのスペックに惚れ込んで拡張に入れあげた沖電気のif800では、ついにベーシックの規模は五六Kバイトにまで膨れ上がるにいたった★。

★一九六四年にアメリカのダートマス大学でジョン・ケメニーとトーマス・カーツによって大型コンピューターのタイム・シェアリング・システム用の会話型言語として書かれたとき、ベーシックの規模はごく小さかった。ダートマス版の第一版では、マシンに直接動作を指示するコマンドが三語、プログラムの中で使われるステートメントが一四語、関数が一〇語の計二七語を数えるのみだった。それがPC―8001では一四三語、PC―8801では二四九語にまで膨らんでいた。
 一九八二年三月号から、『ASCII』に「パーソナルコンピュータのBASIC徹底比較」と題する短期の連載を持った土井政則(当時、宇部工業高等専門学校電気工業科助教授)は代表的なマシンを総当たりして、ベーシックの機能拡大の歩みをじつに丹念に跡付けている。土井のレポートによれば、PETで六四語まで膨らんでいたベーシックは、当時の最新機種である日本電気のPC―8801では、二四九語を数えるにいたっていた。

 こうしたベーシックの拡張によって、一つ一つのマシンは確かに従来機を上回る機能を備えた。
 だがその一方で、ある機種が持っている命令が他の機械にはないといった事態が複雑に絡み合う結果となった。同じマイクロソフトのベーシックを使って書いたプログラムでも、異なったメーカーの機種では互換性は望みえなかった。移植を試みるにしても、統制のとれないベーシックの肥大化は作業を困難なものにしていった。
 標準言語となったベーシックをほぼ独占的に供給しながら、あくまでハードウエアメーカーが新しい機能を盛り込んで設計したマシンに、注文に応じてあとから言語を載せるという立場にあるマイクロソフトは、この混乱に対してそれまでなんら有効な手を打ちえないできた。
 だが超絶的なブランド力を備えるIBMのマシンの誕生は、ベーシックの混乱を収束させるチャンスをマイクロソフトに与えた。
「今後のマシンの開発に大きな影響力を発揮するだろうPCの威光を借りて、IBM用のベーシックを一六ビットの標準言語として固めてしまえばソフトウエアの互換性を確立することができるだろう」
 マイクロソフトはそう考えた。
 IBM PC用のベーシックのもととなったのは、沖電気のif800用に書かれた八ビット機用としては最大規模を誇るバージョンだった。if800が使っていたZ80に対応したバージョンを、仕様はほぼそのままに8088に移植しなおしたのがPCのベーシックだった。
 PCへの移植作業を終えたあと、マイクロソフトは開発したばかりのIBMバージョンの機能はそのままに、内部の構造を整理しなおした一六ビット用の決定版の開発に取りかかっていた。次世代の主流となる8086を採用したマシンに搭載されるべき決定版は、「こいつは凄い!」といったニュアンスの「 gee whiz 」からGWベーシックと名付けられた。
 だがGWベーシックによる混乱の収拾というマイクロソフトのプランは、これまで八ビット機を販売してきたハードウエアメーカーにとっては、けっして望ましいものではなかった。彼らが必要としていたものは、従来販売してきた八ビット機のベーシックと互換性を持った一六ビット版だった。八ビット機にマイクロソフトのベーシックを採用してきたメーカーは、従来機で書いたプログラムを一六ビット機でも使えるようにするという責務をユーザーに対して負っていた。
 一方ベーシックを業界標準に押し上げ、さらにIBMという並ぶもののない強力なパートナーを得たマイクロソフトは、一六ビット機における広範な互換性の確保という理想を盾にして、GWベーシックの採用を各社に強く迫った。IBM以外のハードウエアメーカーには、マイクロソフトの主張を入れてGWベーシックに切り替え、従来版に対応したプログラムには変換ソフトウエアを用意してこれを救う以外の選択の可能性は、ほとんど残されていなかった。
 唯一の異なった選択は、従来八ビット機で使ってきたマイクロソフトのベーシックと互換性を持った一六ビット版を、あらたに自ら書き起こすことだった。ただしマイクロソフトの権利を侵害することなしに、互換ベーシックを一から開発する作業には大きな困難が予想された。
 自社の規格を独自に定めて、それに沿ったベーシックを書くことはできる。
 だが求められていたのはマイクロソフト版と互換で、しかも当然予想される彼らからの権利侵害のクレームに対して、いっさい問題はないと反論できるベーシックだった。
 もちろんマイクロソフト自身にとっても、GWベーシックへの方向付けはかなりの覚悟を要するプロジェクトだった。従来の得意先からは、当然クレームが予想された。特にビル・ゲイツと西和彦にとって、日本市場開拓のきっかけを与え、同社の急成長を支える柱となってくれたPC―8001の開発チームの存在は大きかった。確かにマイクロソフトはIBMという強力なパートナーを確保したが、昨日までの最強のパートナーは彼らだった。もしも日本電気の大内淳義と渡辺和也が、あくまで従来のものと互換の一六ビット版を求めたとすれば、ゲイツと西は彼らの要求を受け入れざるをえなかっただろう。
 だが彼らはついに、唯一の例外となることをマイクロソフトに求めなかった。
 代わりに日本電気からやってきたのは、これまで何の付き合いもなく、パーソナルコンピューターに何の実績も残していない情報処理事業グループの浜田俊三だった。
「従来のものと互換の8086版ベーシックを書いてくれれば、我々には購入する用意がある」
 そんな浜田の遠回しの打診をけ飛ばすことに、西和彦は危惧を覚えなかった。
 
 IBM PCの大成功を踏まえて、マイクロソフトとアスキーがなすべきことは、明らかだった。
 ハードウエアメーカーを説得してGWベーシックの採用を促し、これを一六ビットにおける標準として固めてしまうことが一つ。そしてもう一つの課題は、PCに提供したOSを他のハードウエアメーカーにも売り込み、これをもう一つの一六ビットの標準に育て上げることだった。
 IBMがPC―DOSと名付けたのと同じものを、マイクロソフトはMS―DOSの名称で他社に販売しようと計画していた。
 この課題がともに達成できれば、マイクロソフトがリーダーシップをとって、あるべき姿に大きく近づけるはずだった。
 ベーシックの専用機として発展してきたパーソナルコンピューターを、OSを前提としたマシンに転換することは、さまざまな言語を使えるようにするという意味でも、柔軟に周辺機器を取り込むうえでも、技術の発展の当然の流れだった。さらにOSを利用してベーシックを離れることには、結果的に速く動くプログラムを書く★という効果も期待できた。

★高級言語から機械語への翻訳の進め方には、大きく分けて二つの方式がある。一つは高級言語で書かれたプログラムを一行ずつ機械語に翻訳しては実行し、次のステップに移っては再び翻訳、実行と繰り返す、インタープリターと呼ばれる方式である。この方式では、プログラムを動かそうとするたびに、翻訳の作業が繰り返される。ソフトウエアが本来の仕事を処理する時間に加えて、翻訳のために割く時間がプログラムを動かすたびにいつでもついて回るために、処理速度を高めるという狙いには合っていない。ただし新しくソフトウエアを書いていく際、間違った表現があるとそこでプログラムが止まり、即座に修正を行えるので手直しがやりやすい。試行錯誤しながら、バグを除いてプログラムを完成させるには適しており、初心者にも取っ付きやすい。パーソナルコンピューターで広く採用されたベーシックはインタープリターであり、ROMに収められてマシンに常駐している翻訳ソフトが、プログラムを書く際にも走らせる際にも翻訳作業を受け持っていた。
 これに対し、コンパイラーと総称される言語では、プログラムを走らせる前に翻訳作業をすませてしまう。入力されたソフトウエアはまず、翻訳プログラムによって、機械語に一括して変換される。これに実際にマシンで走らせるために必要な要素を付け加えて、いざ実行となる。プログラミングの専門家たちは、言語で書かれた段階のものをソースコードと呼び、機械語に変換したものをオブジェクトコード、実行可能な形に仕上げられたものをロードモジュールと呼ぶ。コンパイラーでは、バグはロードモジュールを動かしてみて初めて発見される。バグが見つかるたびに、プログラマーはソースコードに戻って修正を行い、再びコンパイルと呼ばれる機械語への変換、さらにロードモジュールの作成を繰り返す必要がある。そのため、バグを取り除く作業はインタープリターに比べて面倒になる。だがいったんプログラムが完成してロードモジュールにまで仕上げてしまえば、翻訳作業とはそこで縁が切れる。マシンはプログラムを走らせることに集中できるため、処理速度はベーシックに比べて大幅に高くなる。ベーシックを離れてOSを利用すれば、コンパイラー形式の言語を使って、速く動くプログラムを書くことができた。
 パーソナルコンピューターの役割の中心は、自分でプログラムを書くことから、機能性と処理速度にすぐれたアプリケーションを仕事をこなすために利用することに移りつつあった。そうした変化とOSの普及とは、表裏一体の関係にあった。

 事実、八ビットの世界ではすでに、CP/Mが商品としてのアプリケーション開発の共通基盤として機能しはじめていた。ある特定のマシンのベーシックに縛られない、より商品性の高いアプリケーションをより大きな市場にぶつけるために、一部のソフトハウスはCP/Mに対応させてプログラムを書きはじめていた。ハードウエアのメーカーは、たくさんのすぐれたソフトが利用できるというメリットを付け加えようと、自社のマシンにCP/Mを採用するようになった。そしてユーザーは、もともとベーシックの専用機として仕立てられていたマシンにフロッピーディスクドライブをつなぎ、CP/Mを買い足して、対応するソフトウエアを使いはじめていた。CP/Mをあらかじめ読み込んでおくために、メモリーの容量は確かにより大きなものが必要となった。だが機械語への変換済みのCP/M対応ソフトは、とにかく速かった。
 このOSの台頭の流れに乗って八ビットの標準を押さえたデジタルリサーチは、一六ビット版のCP/M―86を準備していた。だがPCへの採用に関して一歩先駆けたマイクロソフトには、MS―DOSを一六ビット以降の標準に押し上げるチャンスがあった。MS―DOSを成功させ、GWベーシックに向けて流れを集めることができれば、マイクロソフトはパーソナルコンピューターの基本ソフトを独占的に押さえ、しかもプログラムの互換性を広く保証するという健全な役割を果たしうるはずだった。
 NECのPC―8001は、日本市場のさまざまなマシンに基本ソフトを売り込んでいくきっかけとなった。
 そしてIBM PCは、マイクロソフトの成功と引き替えにさまざまに分岐することになった環境の統合のチャンスを、彼らに与えようとしていた。
 一九八一(昭和五十六)年八月、IBM PCの発表と同時に自らの製品としてMS―DOS1・0を発表したマイクロソフトは、一九八二年四月、GWベーシックのアナウンスを行った。
 彼らははっきりと、パーソナルコンピューターの環境の統合に狙いを定めていた。
 だが「このチャンスを絶対に逃すべきではない」として躊躇するビル・ゲイツの背を押した西和彦は、IBM PCの出荷が開始されて誰の目にもこのマシンの成功が明らかとなった時点では、もう次のターゲットに向けて走り出していた。
 ハードウエアメーカーの作ったマシンに、ベーシックなりMS―DOSなりをあとから供給していく立場から一歩踏み出し、西は作りたいコンピューターを思いどおりに作るチャンスを狙っていた。
 雑誌社を立ち上げたばかりの西が、ビル・ゲイツとの出会いをジャンピングボードとして基本ソフトの供給者へと脱皮を遂げたように、彼がマシン作りの主体へと再度の飛躍を試みるにあたっても、ある人物との出会いがあった。
 一九八一(昭和五十六)年秋、サンフランシスコから成田行きの便のファーストクラスに乗り込んだ西は、隣り合わせた日本人と言葉を交わした。
 名刺を交換すると「京都セラミツク社長、稲盛和夫」とあった。
 
 どんな仕事をしているのかと最初にたずねたのは、稲盛の方だった。
 西は、日本で『ASCII』という雑誌を出しており、マイクロソフトの副社長として、パーソナルコンピューターの基本ソフトウエアの開発と販売に取り組んでいると答えた。
 名前だけは聞いたような記憶があったが、西の側にも京都セラミツクがどんな会社であるか、その時点では知識がなかった。
 聞けば、陶磁器と同じ焼き物の構造を持ちながら、材料の純度と製造工程を徹底的に管理した精密なファインセラミックスで、いろいろな分野の部品を作っているのだという。
 一九五五(昭和三十)年、稲盛和夫は鹿児島大学工学部応用化学科を卒業し、高圧電線用の碍子メーカーである京都の松風工業に入社した。高等小学校時代に結核を患った稲盛は、この経験もあって大阪大学の医学部薬学科を志望したが果たせず、家族の強い勧めで二期校の鹿児島大学に進んだ。さらに就職に際しても、この分野の当時の主流である石油化学メーカーの入社試験に失敗し、いずれプラスチックの材料に取って代わられるだろう時代遅れの焼き物の会社に入ることになった。
 ところが稲盛の入社直後、松風工業は松下電子工業の依頼を受けて、ブラウン管に用いる絶縁体を磁器で作る研究に着手した。稲盛はここで、徹底した粘りと親分肌のリーダーシップを発揮して、特殊磁器分野を松風工業の大きな柱に育てた。だが入社間もない二期校出身者の活躍は社内の反発を招き、稲盛は特殊磁器担当の仲間や上司だった人物とともに松風工業を飛び出して、一九五九(昭和三十四)年四月、京都セラミツクを起こした。
 絶縁性にすぐれ、熱に強く、硬いとさまざまな特長を備えた新世代のセラミックスで、材料の市場に食い込んでいった京都セラミツクにとって、大きな飛躍のきっかけとなったのは一九六八(昭和四十三)年にアメリカの大手半導体メーカー、フェアチャイルド社から飛び込んできた、ICパッケージの注文だった。
 セラミックスをガラスで固定する従来のパッケージが、歩留まりを高められない点に悩まされたフェアチャイルドは、セラミックスだけでパッケージを作る技術の開発を稲盛に持ちかけた。これをきっかけに確立した技術によって、京都セラミツクはICパッケージの分野を独占的に押さえ、集積回路の急激な発展と軌を一にして猛烈な勢いで成長を遂げた。
 売上高に対する経常利益率が、成長を重ねながらなお二〇パーセント台を維持し続けるという高収益体質と、社員の滅私奉公的な献身、その核となる稲盛和夫のカリスマ性において、京都セラミツクは際だっていた★。

★『業態革命』(田原総一朗著、新潮社)所収の「京都セラミクス(ママ)」は同社の誕生から成長にいたる歩みを丹念に跡付けている。

 その稲盛が、成田に向かう機上ではもっぱら西の聞き役にまわった。
「今後、OAの市場はどう推移していくのか。どんなパソコンが、これからの中心になっていくのか」
 そう稲盛に水を向けられたとき、西の脳裏に浮かんだのはIBM PCではなかった。他の業界の人物相手という気安さに、稲盛のはさむ相づちの的確さが手伝って、西はもしも許されるのなら自分自身で今すぐにでも作ってみたいマシンについて語りはじめた。
 西はIBM PCをはさんで、上位と下位のそれぞれの分野に新しい可能性があると考えていた。
 机上に据え付けて使う一六ビットのPCの下位に西が思い描いていたのは、持ち運びの可能なハンドヘルドコンピューターだった。
 西が稲盛と出会う直前、のちにエプソンと社名を変更する信州精器は、HC―20と名付けた超小型のパーソナルコンピューターを発表していた。縦横はわずかに『ASCII』誌ほどしかなく、容易に持ち歩けるサイズながら、HC―20はタイプライター型のまともなキーボードを備え、電卓の延長のようなポケットコンピューターとは一線を画した本格的な八ビット機に仕上がっていた。HC―20の本体には、液晶のディスプレイに加えて、補助記憶として使うマイクロカセットレコーダーと小さなプリンターまで組み込まれており、西はこのマシンにもマイクロソフトのベーシックを売り込んでいた。
 この世界初のハンドヘルドコンピューターにあらたな出発の可能性を感じとっていた西は、HC―20の延長線上に新しいマシンの姿を思い浮かべた。斬新なイメージを見事に製品にまとめ上げたHC―20だったが、二〇字×四行(一二〇×三二ドット)を表示できるだけの液晶ディスプレイはいかにも力不足だった。だがこの時期、液晶ディスプレイの大型化は急速に進みつつあった。日立は四〇字×八行(二四〇×六四ドット)を表示できる液晶の部品供給をアナウンスしていた。
 こうした大きめの液晶ディスプレイを使ったハンドヘルドコンピューターに、ワードプロセッサーと通信用のソフトウエアをROMに組み込んで持たせてしまう。そうすれば出先で文書を書き、コンピューター内部の信号をいったん音に変換して電話回線に載せる音響カプラーなどと組み合わせて、原稿を電話で送ってしまうことができるだろう。
「こんなハンドヘルドコンピューターを今作ったら、アメリカのジャーナリスト連中は飛び付いてきますよ」
 西はいかにも楽しそうに、そう断言して微笑んだ。
 ハンドヘルドコンピューターのイメージをスケッチしたメモを裏に回し、西は新しい紙にもう一つのコンピューターを描きはじめた。今度のスケッチには、ごく普通のパーソナルコンピューターらしいものが書き込まれた。だがキーボードの脇にタバコのようなものが添えてあり、そこからマシンに紐が伸びていた。
「このマウスというヤツがね、ポイントになるんですよ」
 西はそう言ってから、稲盛の目をのぞき込むようにして微笑んだ。

パロアルト研究所を超えて芽吹く
ダイナブックの種子


 一九七〇年代半ばからのパーソナルコンピューターの台頭は、誰もが所有できて情報に関する要求のほとんどをみたすダイナブックの成立の条件を、ハードウエアの側から整えつつあった。にもかかわらずゼロックスは、アルトの研究の成果を製品計画になかなかまとめ上げることができなかった。だがアラン・ケイが凝縮させたダイナブックのイメージは、たんぽぽの綿毛が風に運ばれるように、研究所の壁を越えはじめていた。
 一九七七年三月号の『コンピューター』に発表した「パーソナル・ダイナミック・メディア」に続いて、アラン・ケイは同年九月号の『サイエンティフィックアメリカン』誌に、姉妹編に相当する「マイクロエレクトロニクスとパーソナルコンピューター」を発表した。
 ゼロックスは一九七五年ごろから、特定の見学者向けにアルトのデモンストレーションを繰り返し行っていた。つごう二〇〇〇台近く製造されたアルトは、パロアルト研究所で広く使われるようになっただけでなく、いくつかの大学や外部の研究機関、ホワイトハウスなどで運用されて一部から高い評価を受けていた★。

★アルトを誰がいつごろから見ていたかというじつに興味深い疑問への答えは、『ワークステーション原典』所収「パーソナル分散コンピューティング―Altoとイーサネットのソフトウエア」中のディスカッションにおける、バトラー・W・ランプソンとアラン・ケイのコメントから得ることができる。
 ランプソンによれば「Altoは一五〇〇台製作され、ゼロックスやさまざまな外部の組織に広く普及しましたが、その影響というのは、ほとんどがPARCを訪問した人たち――たいていの場合、夏期学生としてPARCに滞在した人とか見学者とかを通じてのものでした」という。ケイによれば「PARCでは、とくに私のグループではデモは生活の一部という感じで、じつにたくさんやりました。アデルが一九七五年の記録を持っているはずです。その記録を見れば、七五年は約二〇〇〇人以上の人(一度に一人ではなく五〇〜一〇〇人のグループで、もっと少人数のこともありました)がLRGに来て通常のデモを見たわけです。さすがにうんざりしたので大幅に減らすことにしましたが、数年のあいだに大勢の人が見学しました。中にはこれをもとに何かをつくった人もいましたし、そうはしなかった人もいたわけです」という事情だった。
 ここでランプソンはアルトが一五〇〇台作られたとコメントしているが、日本で開かれた講演会「パーソナルコンピュータの未来像」ではケイが二〇〇〇台作ったと語っていた。どっちにしろかなり作られたことには変わりはないが、思い出話の信憑性はだいたいこの程度のものである。

 一九七九年、カーネギーメロン大学はコンピューターのメーカー各社に「タイムシェアリングの時代は終わった」として、新種のマシンの開発に着手するよう求める提案を行った。
 タイムシェアリングは、充分な能力を持った対話型のシステムがあまりに高価で個人で所有できなかった時期、それに代わる取りあえずの解決策として生まれた。ところが一九七〇年代半ばに生まれて以来、発展を続けてきたパーソナルコンピューターは、マイクロコンピューターを利用して本格的なシステムを作りうることを実証していた。今後のハードウエア技術の進歩を見込めば、一九八〇年代の半ばには高解像度のディスプレイ、一Mバイトのメモリー、一〇〇Mバイトの補助記憶を備え、一MIPSの処理能力を備えたマシンが一万ドル程度になると予測できると提案は主張した。(『ワークステーション原典』所収「(パーソナル)ワークステーションの歴史について」ゴードン・ベル)
 ではそうしたマシンを作ろうではないかと呼びかけるカーネギーメロン大学の提案は、一九八〇年代に入ってワークステーションと呼ばれる一群の高機能マシンが誕生するきっかけとなった。ともにマイクロコンピューターを利用するという点では、パーソナルコンピューターとワークステーションは兄弟だった。だがきわめて貧弱な機能レベルで生まれたパーソナルコンピューターが、よってたかって繰り返し拡張されていったのに対し、マイクロコンピューターの有効性が確認された段階で研究者の主導で誕生したワークステーションは、従来の研究の成果をはじめから充分に取り込んだ高機能マシンとなった。
 そしてワークステーションの開発を目指す者の前には、アルトという絶好の手本があった。
 カーネギーメロン大学を卒業後、パロアルト研究所に籍を置いてアルトを体験していたブライアン・ローゼンは、一九七〇年代後半、スリー・リバース・コンピューター社を起こした。一九八〇年、同社は技術の出所をはっきりとその名に示した★ワークステーション、PERQを発表した。ポインティングディバイスとしてマウスの代わりに電子ペンを付けたほかは、アルトそのままのPERQを使って、カーネギーメロン大学は科学分野を対象とした、個人用の統合コンピューター利用環境の開発プロジェクトに着手した。

★ゼロックスのパロアルト研究所は、しばしばPARC( Palo Alto Resarch Center )と略して呼ばれている。音では、このマシンの名称と同一である。

 ワークステーションという新しい花を咲かせたこの時期、アルトはもう一方でパーソナルコンピューターにも大きな影響を与えていた。
 
 クラシックの音楽教育を受け、絵を描くことにも巧みだったジェフ・ラスキンは、ペンシルベニア州立大学で「どうすればこの道具をもっと使いやすいものにできるか」という観点からコンピューターに取り組んだ★。人間はコンピューターより大切なものであり、マシンの要求に人を屈服させるのではなく、人の弱点をカバーするようにシステムは設計しなければならないという異端的な確信を当時から抱いていたラスキンは、アイヴァン・サザーランドのスケッチパッドに強い影響を受けた。

★『マッキントッシュ伝説』所収のジェフ・ラスキンへのインタビューによれば、彼の学位論文のタイトルは「 The Quick Draw Graphics Systems 」であったという。マッキントッシュの開発過程で、ラスキンはスティーブン・ジョブズとの軋轢によってアップルを去ることになった。だが彼の関与の跡は、マッキントッシュ用の描画ルーチン、Quick Draw の名称に残された。

 一九六〇年代のはじめにはニューヨークで前衛芸術運動に携わる一方で、エンジニアとして働いていたラスキンは、一九七〇年代に入ってからカリフォルニア大学サンディエゴ校の小規模なコンピューターセンターの所長となり、同校をはじめとするいくつかの大学でプログラミングやコンピューターアニメーション、コンピューター音楽を教えるようになった。スタンフォード研究所の客員研究員となった一時期、ラスキンは繰り返しパロアルト研究所を訪れて、自分の発想に沿った形で進められているアルトの研究に触れていた。
 一九七五年になってマイクロコンピューターを使ったキット式のシステムが一部のホビイストたちに熱狂的に支持されはじめると、大半の正統的な研究者がおもちゃ以前のシステムに興味を持たなかった中で、ラスキンはさっそくアルテア、続いてIMSAIを買い求めた。
 さらに彼は自宅の地下室に組み立て済みのアルテアやIMSAIを並べ、エレクトロニクスの基礎知識と経験者からのアドバイスなしでは、とても満足に組み立てられないキットについて、興味を持った者に教えはじめた。ホームブルー・コンピューター・クラブの集会にも顔を出すようになったラスキンは、アマチュアのマニアとは異なった研究者としての立場から発言しはじめた。自由と率直と新しい発想を愛するラスキンは、マイクロコンピューターで自分のシステムを作ろうとする試みに期待するところが大きかったが、研究者としての視点からは生まれたばかりのこの世界が対処すべきおびただしい課題がよく見えていた。
 クラブの集会におけるラスキンの発言に興味を持った『DDJ』の編集者は、しっかりとした技術的な力を持った者の視点を求めて彼に原稿を依頼した★。アルテアをはじめとする当時の製品が、普通の人に組み立ててもらえるようなレベルにはとても仕上がっておらず、マニュアルもまったく行き届いていない点を大きな問題と感じていたラスキンは、原稿でその点を指摘した。するとこの記事を読んだメーカーから、マニュアルの執筆依頼が舞い込んできた。その後も『DDJ』や『バイト』誌にレポートを書き続けたラスキンには、マニュアルの仕事の口もつぎつぎとかかってきた。ラスキンは人を雇い入れて会社を作り、マニュアル制作を本格的に請け負うようになった。

★『DDJ』にジェフ・ラスキンに関する記事が載ったのは、筆者の確認した限り一九七六年八月号が最初である。無署名ながらおそらく同誌の編集を取り仕切っていたジム・ウォーレンのまとめたと思われる短い記事が、「ホームブルー・コンピューター・クラブの五月二十六日の集会で、ジェフ・ラスキンがフローという教育用の言語に関して発言し、非常に多くのメンバーの興味を引いた」ことを報告している。同誌の翌月号には、ラスキンがさまざまなキットや周辺機器の問題点を個々の製品ごとに詳しく指摘した長文の原稿を寄せているところを見ると、集会でラスキンに興味を持ったウォーレンがさっそく原稿を依頼したのではないかと推測できる。
 この原稿の最後に書き込まれたラスキンの注文は、その後の彼の歩みを先取りしている点で興味深い。
「もし製造業者側が、組み立ての工程やマニュアルをこうしたモジュールの設計に慣れていない人を使ってテストしていれば、自分たちのスタイルをどうあらためるべきか、すぐに発見できるだろう。そしてもし我々ユーザーが、不適当な部品を組み合わせたキットを買うことをやめ、よく書かれたマニュアルを要求するようにすれば、よりよいキットとマニュアルを手にすることができるようになるだろう」

 雑誌に記事を書きはじめてから間もないころ、ラスキンはむき出しの回路基板のままのシステムを作っているアップルコンピュータを名乗る二人組を取材で訪ねたことがあった。
 その二人からも、マニュアルを書いてくれないかとの申し入れがあった。一ページ五〇ドルで話をまとめたつもりが、スティーブン・ジョブズは全部で五〇ドルと言い張って譲らないといった行き違いはあった。だが最少の部品で最大の機能を発揮させようと、ほれぼれするようなアイディアを盛り込んだウォズニアックの設計に引かれて、ラスキンは仕事を片付けた。彼らは電源や各種のインターフェイスなど、マシンを動かすのに必要なすべての要素をキーボードと一体化してまとめた次の製品の開発に取りかかっており、ジョブズはラスキンにアップルの二番目の機種用にもマニュアルを書いてほしいと依頼した。
 一九七七年一月にアップルが正式に法人となって間もなく、ラスキンはマニュアルの制作会社ごと同社に移った。アップルの三一番目の社員となったラスキンは、ドキュメント部門の部長としてマニュアルを担当することになった。
 コンピューター科学の研究者と教育者という経験を持つラスキンは、自社ブランドで売り出しはじめたアップルII用のソフトウエアの品質を、マニュアルも含めて高めていくためのセクションの設立を提案し、この仕事に携わるようになった。
 アップルの目指すパーソナルコンピューターにとって、アルトの研究成果は大きな意味を持っているとラスキンは考えた。アップルIIがまだ開発段階にあった入社間もない時期から、彼はジョブズとウォズニアックにパロアルト研究所を見学するように働きかけていた。だが「大企業の連中が面白いものを考えつくはずはない」と、ジョブズはラスキンのアドバイスに耳を貸そうとしなかった。(『マッキントッシュ伝説』所収、ジェフ・ラスキンへのインタビュー)
 アップルIIを大成功させたあと、一九七八年の後半から、同社ではアップルIIIの開発作業が始まった。アップルII同様八ビットの6502を使うものの、フロッピーディスクドライブを本体に組み込み、メモリーの容量や画面の解像度を一回り高めることで、アップルIIIは急速に高まりはじめたビジネス分野からの需要に応えることを目指していた。
 さらに一九七九年のはじめからは、アップル内でもう一つのより意欲的な開発計画が動きはじめた。モトローラが開発した新世代のマイクロコンピューター、68000を使い、ジョブズはまったく新しいパーソナルコンピューターを作りたいと考えた。外部とのやりとりは一六ビットで行うものの、内部の処理は三二ビット化された68000は、大きなメモリー空間をシンプルに扱える点で際だったパワーを備えていた。誕生当初のワークステーションはこぞって68000を採用したが、アップルもまた発表直後からこのマイクロコンピューターを用いて世代を画するマシンを作ろうと動きはじめていた。
 開発コードネームをリサと付けられたマシンは、解像度を大幅に高め、グラフィックスを強化することを狙っていた。だがリサの開発作業は、従来のマシンと決定的に違う何かを設計思想に見いだせないままに進められていた。
 このリサの開発計画に携わることになったラスキンはもう一方で、アップルのもう一つの次世代機のアイディアを練っていた。お気に入りのリンゴの名前からマッキントッシュと名付けたプランで、ラスキンはスイスアーミーナイフのように、地味ではあるけれど確実に誰もの役に立つマシンを作りたいと考えた。
 モトローラの八ビット・マイクロコンピューター、6809を使い、小さな筺体にまとめられたマッキントッシュに電源を入れると、画面には白紙のような表示が出る。ここでキーボードから文字を入れていけば、そのままワードプロセッサーとして使うことができる。加減乗除の記号をはさんで数字を入力し、リターンキーを押せば、計算の結果が表示される。
 こうした限られた機能に徹したマッキントッシュを、ラスキンは一〇〇〇ドル以下の安い価格で提供したいと考えた。アルトの方向付けを評価していたラスキンは、マッキントッシュにもグラフィックスの強みを与え、メニューを採用したいと考えた。ただし電卓とタイプライターの延長程度に機能を限ろうと考えていたこのマシンでは、ポインティングディバイスは使わず、キーボードだけで操作できる形を想定していた★。

★『マッキントッシュ伝説』所収、ジェフ・ラスキンへのインタビューによれば、当初想定されたマッキントッシュでは、二五六×二五六ドットの白黒ビットマップディスプレイ上でプロポーショナルフォントを使うことが想定されていた。画面に表示した機能メニューをキーボードから選ぶ、マルチプランに採用された形式のインターフェイスを用い、ベーシックの搭載も予定されていた。アップルを退社した後、キヤノンに協力してラスキンが開発したキャットというマシンは、オリジナルのマッキントッシュのプランに沿ったものである。

 ラスキンはマッキントッシュに承認を得ようとトップを口説き、一九七九年の九月から、一まず彼一人で進める研究プロジェクトとしてのお墨付きを得て作業に取りかかった。だが基本的には他人の提案に聞く耳を持たないジョブズは、以降も何度かこのプロジェクトは不要であると主張した。ラスキンは、今度こそジョブズにパロアルト研究所の成果を見せて彼の視野を広げ、マッキントッシュのプロジェクトを生き延びさせようと考えた。
 当時アップルは拡大する事業規模に見合った体制を固めるためにあらたな非公開増資を計画しており、同社の急成長に注目していたゼロックスの投資部門とのあいだで、一〇万株を一〇〇万ドルで売却する取り引きがまとまった。ゼロックス側はパロアルト研究所の見学にジョブズを誘い、一九七九年十二月、ジョブズは当時社長を務めていたマイク・スコットやリサの中心的なソフトエンジニアのビル・アトキンソン、ジェフ・ラスキンらとともに研究所を訪ね、アルト上のシステム開発を行っていたラリー・テスラーによるデモンストレーションを体験した。
 アルトのディスプレイ上にウインドウが重ね合わせて開かれ、アイコンが操作され、ワードプロセッサーの文章中の書体が自由に変更される様を凝視していたビル・アトキンソンは、文字も含めたすべての要素をグラフィックスとして扱うというリサの方向付けが正しかったことを、あらためて確信させられた。
 アトキンソンはすでに、リサのために高速の描画ルーチンを書いていた★が、インターフェイスの方向付けはまだ固まっていなかった。だが一目見たアルトは、インターフェイスのアイディアの宝庫だった。一時間半ほどのデモンストレーションが終わったとき、ジョブズは興奮を抑えきれず、ゼロックスの関係者に「これだけのものがあって、なぜ何も作ろうとしないんですか」と問いただした。

★ビル・アトキンソンはカリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)でジェフ・ラスキンに教わった経験を持っており、スティーブン・レヴィの『マッキントッシュ物語』(武舎広幸訳、翔泳社、一九九四年)によれば、同大学でラスキンが主宰していたアングラ劇団の演出を手伝ったことがあった。ワシントン大学でコンピューター科学と神経科学を専攻したアトキンソンは、卒業後、いったんは医学研究用のシステムを作る仕事についたが、ラスキンに誘われて一九七八年にアップルに入った。入社直後は、アップル自身が開発するアプリケーション部門を一人で担当することになり、広告用にでっち上げられていた株価情報の分析アプリケーションを本当に作ってみせる仕事から着手した。このソフトウエアを開発する際、アトキンソンはまず、UCSD版のパスカルをアップルII用に移植した。この作業の過程で、自分自身でもパスカルのグラフィックルーチンを書いた。続いてリサのプロジェクトを担当することになったアトキンソンは、画面上に素早く表示を書き上げるための描画ルーチンを開発し、このルーチンはラスキンの学位論文がもとになって Quick Draw と名付けられた。以上の経緯は『マッキントッシュ伝説』所収、ジェフ・ラスキンへのインタビューに詳しい。

 ジョブズはアルトを前にして、リサでなすべきことを確信した。
 リサのインターフェイスは、ウインドウやアイコン、マウスを中心に組み上げるという方針が、見学後急遽定められ、アルト用にエディターを書いた★経験を持ち、アップルの面々にデモンストレーションを見せてくれたラリー・テスラーが引き抜かれてリサの開発チームに加わった。

★アルト用のエディターとしてもっとも広く使われたものは、パロアルト研究所のチャールズ・シモニーとバトラー・ランプソンによって開発されたブラヴォーだった。ブラヴォーは素早い画面の書き換えや、文書のサイズにかかわらず編集作業の処理速度を一定に保てること、WYSIWYGなどの特長を備えていたが、ユーザーインターフェイスに関しては改善の余地を残していた。ラリー・テスラーとティム・モットはインターフェイスの改善に目標を絞って、ジプシーと名付けたエディターを書いた。

 一九八〇年の夏、スティーブン・ジョブズは社内の抗争によって、全力で取り組んできたリサのプロジェクトリーダーの地位を追われた。ともにアップルを設立したスティーブン・ウォズニアックには、自ら開発したアップルIIという拠りどころがあった。パーソナルコンピューターの意義を謳い上げ、カリスマとしてスタッフの力を引き出していくことには異才を発揮しながらも技術的な力は持たなかったジョブズにとって、自ら開発の方向付けを行ったリサは、初めての自分のマシンとなるはずだった。
 開発の現場からはずされ、会長に祭り上げられて対外的なスポークスマンに役割を限定されかかったジョブズは、ジェフ・ラスキンが中心となって細々と続けてきたマッキントッシュのプロジェクトに目を付けた。
 必要なものをあらかじめコンパクトにまとめ上げた小型で安いマシンを作るというラスキンの定めた大枠は尊重したものの、徐々にプロジェクトへの関与を強めたジョブズは、マッキントッシュをリサに対抗できるものに変えようと試みた。68000を使い、インターフェイスには全面的にアルトの流儀を採用し、マウスを付けるというジョブズの新しい方針にラスキンは激しく抵抗したが、一九八一年のはじめにはマッキントッシュは安くて小さなリサを目指すプロジェクトに生まれ変わり、ラスキンはその後アップルを去った。
 リサに対抗するプロジェクトを率いることになったジョブズは、先行する自社のライバルがワードプロセッサーや表計算、データベース、グラフィックス作成ツールなどの開発も自力で進めていたのに対し、外部のソフトハウスにアプリケーションの開発を依頼してプロジェクトを絞り込み、開発時間の短縮を図ろうと考えた。
 
 一九八一年三月、パーソナルコンピューターに関する投資家向けのニューズレターを発行していたベンチャーキャピタリスト、ベン・ローゼンの主催する会議に招かれたスティーブン・ジョブズは、アップルがパロアルト研究所の成果を汲んだマシンの開発に取り組んでいることをほのめかした。この会議に出席していたマイクロソフトのビル・ゲイツは、アルトの子供にあたるパーソナルコンピューターの開発にアップルがすでに着手しているらしいことに驚かされた。
 パロアルト研究所が未来を開く可能性を秘めた技術の宝庫であることは、ビル・ゲイツも承知していた。言語の会社としてスタートし、進行中のIBM PCプロジェクトでOSの供給に乗り出していたマイクロソフトは、一九八一年二月にゼロックスから引き抜いたばかりのチャールズ・シモニーをリーダーに、アプリケーション分野にも踏み込もうとしているところだった。シモニーはパロアルト研究所在籍時、アルト用のエディターとして広く使われたブラヴォーを書いていた。
 ジョブズ同様ビル・ゲイツもまた、アルトの成果はいずれパーソナルコンピューターで生かされるだろうと考えていた。だが開発中のIBMの新世代機すら、使っているマイクロコンピューターは八ビットと一六ビットの中間的な8088だった。ゲイツには、パーソナルコンピューターの処理能力はまだ、アルトの精神を汲むには力不足と思えていた。
 だがアップルはそのときすでに、一歩を踏み出していた。
 会議が終わったあとでジョブズはゲイツに声をかけ、進行中のプロジェクトに関してさらに突っ込んで話しはじめた。
 
 一九八一年四月、ゼロックスはついに、スターと名付けたアルト直系のマシンの発表を行った。
 A4の縦長のディスプレイを採用していたアルトに対し、ブルーのあざやかな画面を横長(一〇二四×八〇〇ドット)にとったスターは、大きなデータの高速処理に適したビットスライス方式★のマイクロコンピューター、2901を採用して高度なグラフィックスの処理要求に応えようとしていた。

★『マッキントッシュ伝説』所収のジョン・カウチへのインタビューによれば、リサ用のマイクロコンピューターとして当初アップルは三つの候補を検討したという。そのうちのインテルの8086は六四Kバイトのセグメント構造による制約から、グラフィックスの処理に適さないとしてまずはずされ、ビットスライスのカスタムCPUを起こす道とモトローラの68000を選ぶ二つの候補の中から後者が選ばれた。カウチ自身はこのインタビューでは「68000の方がかなり速いということが判明した」からと選択の理由を語っているが、もしもカスタムCPUを自分で起こすという道を選んでいれば、アップルはその後、独力で進めることになる開発環境の整備にかなり手こずっただろうと思われる。

 複数のアルトをつなぐために一九七五年にパロアルト研究所で開発されたイーサネットと呼ばれるネットワークの規格も、スターの発表時点では高速化されていた。基幹となる同軸ケーブルに、マシンから延ばした通信線を突き刺して簡単に接続できるようになっていたイーサネットは、当初一秒間に三Mビットの情報を送れたが、これが一〇Mビット/秒にまで高められていた。
 だがメモリー一九二Kバイト、一・二Mバイトの八インチドライブ、一〇Mバイトのハードディスクという基本構成で、価格は一万六六〇〇ドル、当時の対ドルレートで換算して約四〇〇万円と設定されていた。同一の価格帯のミニコンピューターやオフィスコンピューターが実現していた機能のレベルからすれば、スターはむしろ安かったとも評価できる。だがスターの処理能力の多くは、ディスプレイに向き合った人とのインターフェイスを改善することに費やされていた。
 人ひとりが独占して使うマシンとしては、スターはやはりあまりにも高価だった。
 発表以来、展示会やショーでは黒山の人だかりを集め、斬新なインターフェイスで見る者の視線を釘付けにしはしたものの、スターは商業的な成功を収めることはできなかった。
 だがアルトの子供たちは、視覚的な操作環境がコンピューターの可能性を大きく拡大することを雄弁に語りはじめていた。
 IBMがPCの発表を行った直後の一九八一年の夏の終わり、ビル・ゲイツはアップルを訪ねてマッキントッシュの進行状況を確認するとともに、開発スタッフと話し合う機会を持った。これ以降マイクロソフトではチャールズ・シモニーが中心となって、アップル側と密に連携をとりながらマッキントッシュのアプリケーションを開発するための準備作業が始まった。
 IBM PCの出荷が開始される以前から、マイクロソフトもまたアルトを継ぐものを射程におさめていた。すでにマイクロソフトの中枢にのし上がっていた西和彦もまた、アルトが切り開いた新しい世界の信奉者となっていた。

京セラ、稲盛との出会いが生んだ
二つの未来志向マシン開発計画


 ファーストクラスの大きな座席から身を乗り出すようにして、メモ用紙にスケッチしたディスプレイの中にいくつもウインドウを書き入れ、アイコンの役割やマウスを使った操作の利点を熱を込めて語り続ける西和彦を、稲盛和夫は唇を固く結んで見守り続けていた。
「将来のパソコンはきっとこうなる。こうなればもっともっとたくさんの人が、パソコンを使うようになりますよ。稲盛さんは、そう思われませんか」
 西がこぼれるような笑みをたたえて視線を上げ、そうたずねかけてきたときも、稲盛は押し黙ったままだった。
 気流になぶられて機体がすっと沈み込み、ベルト着用のサインが点いた。
「その二つのコンピューターを、私に作らせてもらえませんか」
 機内に響くアナウンスの声を押さえ込むように、稲盛和夫がそう言った。
 西の口元から、その瞬間微笑みが消えた。

 一九五九(昭和三十四)年の創業以来、年平均四五パーセントの割合で売り上げを伸ばしてきた京都セラミツクは、一九八〇年を前後して大きな壁に突き当たっていた。
 急激な成長と高収益の原動力だったICパッケージは、普及しはじめたプラスチックの安価なライバルに足下を食われはじめていた。集積度の高い高付加価値の集積回路は、相変らずセラミックスが押さえていた。だがコスト削減の厳しい圧力を受けた低価格のメモリーのパッケージは、急速にプラスチック製に置き換わりつつあった。こうした構造的変化に加え、アメリカの半導体業界の不況もあずかって、一九八一(昭和五十六)年三月期の経常利益は伸び率ゼロにとどまった。そしてすでに半年が過ぎた今期も、売上高、経常利益とも、改善の兆しは見られなかった。急成長こそが常態の京都セラミツクにとって、停滞は深刻な危機を意味していた。
 ICパッケージの成長に鈍化の兆しが現われる中で、稲盛はすでに経営多角化のための布石を打っていた。人工骨など医療用セラミックスの製造と販売にあたるニューメディカルと、人工宝石のクレサンベールの二つの子会社を設立してセラミックスのあらたな応用分野を開こうと試みる一方で、宝石用台座の加工にあたる日本キャストと、通信、音響、事務機器メーカーのサイバネット工業に資本参加していた。
 これらの子会社のうち、唯一セラミックスと直接の関連を持たないサイバネット工業を傘下におさめたのは、一九七九(昭和五十四)年の秋だった。
 一九六九(昭和四十四)年五月、富士通の音響機器部次長だった友納春樹が設立した通信機器メーカー、サイバネット工業は、歴史の波に翻弄されてジェットコースターに乗ったような急成長と急激な衰退とを短期間で経験していた。
 出力をごく低く抑える代わり、特別な免許なしに利用できる市民バンド(CB)用のトランシーバー専業で、安定的ではあっても着実な成長を遂げていたサイバネット工業にとって、一九七三(昭和四十八)年十月に勃発した第四次中東戦争以降の石油危機は神風となった。
 自動車なしでは日常生活が成り立たないアメリカでは、石油の払底によってガス欠による交通事故や雪に閉じ込められた車中での凍死事故が起こるや、緊急時の連絡手段としてCB用トランシーバーが注目を集め、需要が爆発的に急増しはじめた。従来、前年比一〇パーセント程度だった売上高の伸びが、一九七四(昭和四十九)年には八〇パーセントを超え、一九七五年には、大きくジャンプした前年をさらに一〇〇パーセント以上上回った。
 CB専門のサイバネット工業は、この需要急伸の波に乗って生産体制を一気に拡大していった。受けに入った同社は従来船便で送っていたトランシーバーの九〇パーセントを航空便にまわしてアメリカ市場の急拡大に応えたが、一九七六(昭和五十一)年一月十五日にはついに貨物輸送専用のジャンボ機をチャーターして三万八〇〇〇台を一気に空輸するにいたった。前年十一月の同社の輸出台数一九万九〇〇〇台、十二月の二二万八〇〇〇台は、この月、二八万台に達した。その後もサイバネット工業は月産三〇万台体制を維持して快進撃を続けていったが、パーソナルコンピューター元年となる翌一九七七年への年の変わり目を前後する時期から、需要は急成長を裏返したように急激にしぼみはじめた。
 ガソリンの供給に対する危機感の薄れに加え、CB用トランシーバーが急速に増大したことによる電波の混雑解消のために進められた、従来の二三チャンネル用から四〇チャンネル用への切り替えが買い控えを招き、一気に値崩れを起こして業界はパニックに陥った。サイバネット工業は輸出用のカーステレオ市場に参入して生き残りを図ったが、最盛期には二六〇〇人を数えた従業員は、一九七九(昭和五十四)年には九〇〇人を切るまでに減った。
 サイバネット工業社長の友納は、同じく富士通出身で京都セラミツクの常務となっていた古橋隆之の仲介を得て稲盛に支援を申し入れた。それまで両社にいっさい業務上の関係はなかったが、創業者としての共感と稲盛の経営理念への信頼が、友納を京都セラミツクの懐に飛び込ませた。
 一九七九(昭和五十四)年秋に京都セラミツクの傘下に入ったサイバネット工業は、すでに着手していたオーディオ機器への進出を進めるとともに、富士ゼロックス向けの普通紙複写機のOEM生産にも手を染め、しだいに業績を回復していった。
 一九八〇(昭和五十五)年を前後する時期、IC用パッケージという京都セラミツクの最大の収益源に陰りが見えはじめる中で、稲盛は新しい突破口を求めていた。
 その稲盛には、電子機器の製造設備を有するサイバネット工業という隠し玉があった。
 一九八一(昭和五十六)年秋、サンフランシスコから成田に向かう機中で西和彦が次世代のパーソナルコンピューターの可能性を吹きまくった相手は、その稲盛和夫だった。
 西を水先案内人とした京都セラミツクのパーソナルコンピューター開発計画は、二人を乗せた飛行機が成田に到着する前にすでに走りはじめていた。
 
 一九八二(昭和五十七)年一月、西和彦はビル・ゲイツの前にハンドヘルドコンピューターの設計図を広げた。
 アルファベット四〇字を八行表示できる大型の液晶ディスプレイを備えた八ビット機で、これにワードプロセッサーと通信のためのソフトウエア、モデムを組み込んでおき、外出先で書き終えた原稿をそのまま電話で送れるようにするという。
 マシンの開発と製造には、西が話をつけてきた日本の京都セラミツクがあたる。この会社が準備するハードとマイクロソフトのソフトを組み合わせ、すでにパーソナルコンピューターの販路を持っている企業に売り込みたいという。
 この西のプランに、ビル・ゲイツは関心と懸念とを等分に抱いた。
 でき上がったハードウエアにあとから言語やOSを供給する立場のマイクロソフトにとって、イメージ固めの時点から開発に加わることは、じつに魅力的な作業だった。パーソナルコンピューターをどう進化させるか、その進路を決めるにあたってはマイクロソフトの基本ソフトの方向付けはきわめて大きな役割を果たした。だがハードウエアの方向付けに強制力を持たないマイクロソフトがやれることには、限りがあった。
 ゼロックスのアルトの精神を汲む子供たちは、最終的にマシンがどう使われるかはっきりとイメージを固めたうえで、一つの設計思想にもとづいてハードとソフトを用意していた。だがマイクロソフトには、両者の理想的な組み合わせを実現することは困難だった。
 PERQやスターを見せつけられ、スティーブン・ジョブズからマッキントッシュへの協力を求められたゲイツには、アルトの成果を取り入れたインターフェイスをすぐにでも作ってみたい気持ちはあった。だが今後のパーソナルコンピューターの標準としてかつごうとしているIBM PCは、八ビットの尾を引きずった8088を使っており、グラフィックスの処理能力もメモリーも、視覚的な操作環境を載せるにはあまりに不充分だった。
 ハードウエアの決定権を持たないことに潜在的な欲求不満を抱いていたゲイツにとって、スタートからプロジェクトに参加するという西の提案は、その点ですでに興味深かった。
 さらに通信機能を備えたハンドヘルドコンピューターというアイディア自体にも、可能性を感じさせられた。だがそのマシンを八ビットで構成するという点には、承服できなかった。
 西に言わせれば、消費電力を抑える点で八ビットは有利であるという。さらにこの時期、大ヒットの兆しを見せはじめたPC用にIBMが8088を大量に押さえてしまったために、安価な一六ビットの第一の候補である8088が量産ベースでは確保しにくくなっているという事情もあった。だがそれにしても、ゲイツはこのプロジェクトは一六ビットで進めるべきだと考えた。一方すぐにでも作業を進めたいという西も譲らず、結局リスクは全面的にアスキーが負うとの条件で、ゲイツはプロジェクトを黙認することになった。
 一九八二(昭和五十七)年四月、西はテキサス州フォートワースのタンディに、仕上がったばかりのハンドヘルド機のプロトタイプを持ち込んだ。のちにマイクロソフトに移って社長を務めるタンディのジョン・シャーリー副社長に向かい、ポータブルなマシンの可能性を懸命に説いた西は、その場で販売引き受けの約束を取り付けた。
 アスキーの山下良蔵、鈴木仁志、林淳二の三人はこれ以降、京都セラミツクの技術者とともにシアトルのマイクロソフトに詰めてハンドヘルド機用のソフトウエアの開発にあたった。ベーシックをはじめ、ワードプロセッサー、通信などすべてのプログラムを三二KバイトのROMに収め、いつ不意に電源を切られても作成した文章を安全に守るといった新しい課題にも挑戦した作業には、マイクロソフトのスタッフはまったくかかわらなかった★。

★このポータブルマシンのソフトウエア開発に関連して、『帝王の誕生』はプログラマーとしてのビル・ゲイツの天才ぶりを印象づけるエピソードを紹介している。
 同書の記述によれば、ゲイツは三人の日本人の書いたプログラムのうち、行番号で管理する形式のエディターに不満を感じた。だがプログラマーたちは、その他の要素を三二Kバイトに押し込んでいるために、画面上の任意の文字を直接修正できるフルスクリーンのエディターを入れる余裕がなく、変更は不可能であると主張した。すると次の朝、ゲイツは同じサイズに収まる〈不可能なはずの〉エディターをたずさえて現われた。このマシンのデータ構造を決め、ユーザーインターフェイスの一部を設計したのもゲイツだった。マイクロソフトの製品として出荷されたプログラムをゲイツが書いたのは、これが最後となった。事業上の意思決定の要求はますます強まり、ゲイツはコード書きにかかずらわっていられなくなった。
 一方、問題のエディターに直接携わった鈴木仁志は、開発の経緯をより詳細に、そしてより正確に記憶している。
『帝王の誕生』の記述どおり、当初エディターにはベーシックそのものが持っていた行番号単位のものに若干の味付けを施して、汎用エディターらしく見せたものを使っていた。このエディターを含むソフトウエアは、マスクROMに焼かれ、試作品に組み込まれて評価された。ビル・ゲイツは試作機をいじくり回して真っ先にエディターに注文をつけ、作りなおしを主張した。開発スケジュールを最優先していた京都セラミツク側はこの提案に難色を示したが、結局は押し切られた。エディターを担当していた鈴木は、厳しいメモリーの制限の中で、いかにしてスクリーンエディターを実現するかにアイディアをひねった。テキストのデータ構造と、画面上に表示するテキストと表示位置をどう結びつけ、管理するかを二日ほど考え続けた鈴木は、実現可能と思われる構造をまとめ上げた。ちょうどその段階で、ゲイツは「エディターの構造について話がしたい」としてアスキーの三人を社長室に招いた。ホワイトボードを使って説明しはじめたゲイツのアイディアは、鈴木のまとめた結論と同じだった。
 説明を終えたゲイツに、「驚いた、私の考えていたこととまったく同じだ」と鈴木は応えた。にやりと笑いながら「本当か?」とたずねたゲイツに、鈴木は二人のアイディアの先に生じる問題につい問い返した。「そのデータ構造を採用したとき、領域コピーはどう実現するのか?」という鈴木の問いに、ゲイツは「領域の最初と最後に印を付ければよい」と答えた。そうした手法ではうまくいかない場合があることを事前に詰めていた鈴木がその旨を説明すると、ゲイツはすぐに鈴木が独自にアイディアにたどり着いていたことを納得した。エディターのコーディングは、とても一晩で終わる規模ではなかった。「私はビルほどの天才でないので」と断りながら、なんとか動作する最初のバージョンを書き上げるまでに「一〇日ほどかかった」と鈴木は回想する。最終的にこのポータブルマシンに関して、ビル・ゲイツを含むマイクロソフトの誰も、一行たりとも新しいコードは書かなかった。
 ただし『帝王の誕生』による「このマシンのデータ構造を決め、ユーザーインターフェイスの一部を設計したのはゲイツであった」という記述を、鈴木は正確であるとする。
 三二Kバイトのメモリーの制約があって、このマシン用のソフトウエアはマイクロソフトのベーシックの構造をそのまま利用し、そこにテキストエディターや通信ソフトをかなり強引に付け加えるという手法で開発された。そのおおもとのベーシックをビル・ゲイツが設計している以上、「マシンのデータ構造を決め」たのは誰かと問題を立てれば、その答えはゲイツである。またカーソルキーだけを押せばカーソルは隣に移動するが、シフトキーと組み合わせればより遠くへ、コントロールキーと組み合わせればさらに遠くへ飛ぶというアイディアを提案するなど、ゲイツがインターフェイスの改良と統一に関して貢献したのも事実であると鈴木は証言する。
 以上、ポータブルマシンのソフトウエア開発をめぐる〈神話〉の形成に関して長々と触れたのは、この一件がパーソナルコンピューターの正史がまとめられる過程でしばしば機能するある〈力学〉を象徴的に反映していると考えたからである。
『帝王の誕生』の著者たちは、マイクロソフトの日本法人であるマイクロソフト株式会社にアスキーから移った、古川享のコメントをもとに、このエピソードに関して記述している。古川はおそらく、「できの悪いラインエディターを作りなおすよう命じ、フルスクリーンのエディターに関するアイディアを一晩でまとめてプログラマーたちに指示した」経緯を、ゲイツから聞かされたものと思われる。そのエピソードを古川が取材者に明かすまでの過程では、どこにも嘘はない。「アイディアを一晩でまとめた」経緯が、ある種の伝言ゲームの中で「一晩でコードを書き終えた」となることは、ノンフィクションに避けがたくついて回る〈事故〉である。筆者自身、繰り返しそうした事故に足を取られてきたし、本書にも膨大な数のその種の誤りが紛れ込んでいるだろう。ただしそのことを重々踏まえたうえで、この一件はそれでも筆者に興味深かった。
 パーソナルコンピューター産業において、マイクロソフトがきわめて大きな成功を収めている以上、取材者の関心は当然、同社とビル・ゲイツに集まってくる。その傾向は、少なくとも今後しばらくのあいだは強まり続けるだろう。もちろんゲイツの貢献がきわめて大きいことは、事実である。ただし誕生当初のパーソナルコンピューターは、ある種の大衆運動に支えられて成長しており、おびただしい数の有名、無名の人々がこの文化のキックオフに貢献してきたこともまた、揺るぎのない事実である。ソフトウエア産業の成長の過程でも、たくさんの人間がたくさんのアイディアを出してきた。商業的にもっとも成功したのがマイクロソフトであることは論を待たないが、同社が何から何までをやってくれたわけでないことは、あらためてそんなことを口にするのも馬鹿らしいほど明らかである。
 だが取材者が少し怠慢であれば、マイクロソフトの商業的一人勝ちの構図が生み出す〈力学〉の歯止めのない発動を許し、ビル・ゲイツの偉大さにすべてを帰するパーソナルコンピューターの神話を大量にコピーして世の中にまき散らす結果になりがちである。ビル・ゲイツの偉大な才能によって、ベーシックが〈発明〉され、パーソナルコンピューターが目覚ましく発達していったという類の認識が、伝言ゲームの結果再生産されやすい場で我々が暮らしていることは、自覚しておいた方がいい。
 世界有数の大富豪となったゲイツ氏には、俗に表現すれば「けち」という〈神話〉がつきまとっている。このもう一つの神話に関しても、鈴木仁志氏は興味深い証言を寄せてくれた。最終的にポータブル機のソフトウエアが自分のイメージに非常に近い形で実現したことを喜んだゲイツ氏は、アスキーの三人に個人的にボーナスを支払った。小切手の額面は、「五〇〇ドルではなかったか」と鈴木氏は記憶する。一九八二年のレートではかなりの金額に感じられたこの小切手を、三人は当然現金化した。だが、その後世界一の大富豪となった、付き合った実感からすれば「むだな金はいっさい使わない」人物が、個人的に振り出した小切手のせめてコピーでもとっておかなかったことを、鈴木氏は今、非常に残念に思っているという。

 ハンドヘルド用のソフトウエア開発の責任者となった山下にとって、暮らしてみたい町を調査すれば必ず全米の上位にランクされるシアトルの爽快な夏は、時間との競争の苦しい思い出と結び付いている。
 ある県立の医科大学で医用電子工学を教えていた山下良蔵は、一九七〇年代後半、マイクロコンピューターを利用したシステムにCP/Mを載せ、その上に置いた言語でさまざまな医療用のシステムを工夫していた。医療用の電子機器はきわめて高価だったが、自分で組めば桁外れに安いものができた。いろいろと工夫する余地があり、小回りが利く点でもこうしたシステムは魅力的だった。いくつかの言語の候補の中で、もっとも使いやすかったのはマイクロソフトのベーシックだったが、これにも直したい点があった。医療用のデータベースを作りたいと考えていた山下は、いったん言語のレベルまで戻ってこの作業に適したベーシックを開発できないかと考えるようになった。
 大阪大学基礎工学部に籍を置いていた一九七六(昭和五十一)年、山下は『コンピュートピア』の発行元であるコンピュータ・エイジ社が主催したイベントで、早稲田大学の西和彦と出会っていた。
 西和彦に話を持ちかけてみると、「じゃあ取りあえず、マイクロソフトに行って働いてみる?」といとも簡単に答えた。カリキュラムの都合で一年の半分は授業を持っていなかった山下は、一九八〇(昭和五十五)年と翌八一年のそれぞれ半年を、マイクロソフトでソフトウエアの開発者として過ごした。
 西が抜群のセールスマンぶりを発揮した結果、マイクロソフトにはベーシックの移植作業のために、日本から続々とマシンが送られてきていた。ベーシックを日本語に対応させ、日本のメーカーから派遣されてくるスタッフと協力しながら移植作業を進めるためには、力のある日本人のソフトウエアの書き手をマイクロソフトに置いておくことが是非とも必要だった。
 一九八〇(昭和五十五)年の初めてのシアトルの夏は、アルプス電気がOEMしていたミロク経理のオフィスコンピューターのCP/Mに、ベーシックを対応させる作業にあてた。続いて翌年は、日本電気のPC―6001とPC―8801用のベーシック開発に取り組んだ。メインで担当することになったこれらの機種以外にも、山下は日本のマシンすべての面倒を見ることになったため、マイクロソフトの日々には常に時計の針に追い立てられるような緊張感があった。
 だがもう一方で、パーソナルコンピューターの性格を決めてしまう基本ソフトウエアの開発作業には、未来に延びるレールを自分で敷いていくような喜びがあった。「医療データベース用のベーシック開発の準備」と自分自身に向けて用意した口実は、二度目のマイクロソフト行きの際にはほとんど意味を持たなくなっていた。一九八二(昭和五十七)年四月、再びシアトルに飛んだ山下は、アスキーの鈴木、林とともに、タンディからモデル100として発売されることになるハンドヘルド機用のソフトウエア開発に取り組んだ。
 モデル100のすべてのソフトウエアを、三人のスタッフが半年で仕上げるというスケジュールは、もともとかなりの綱渡りだった。ところが西は、彼らの激務にいっそう拍車をかける話をつぎつぎとまとめていった。タンディに売り込んだものとほとんど同じハンドヘルドの企画を日本電気に売り込み、さらにはイタリアのオリベッティ社からも販売の契約を取り付けた。ハードウエアの構成もソフトウエアに関しても、共通するところがほとんどだったとはいえ、山下たちは三社から発売されるマシン向けの作業を並行して進めることとなった。
 すでに契約済みだったタンディに加えて、日本電気とオリベッティにも売り込むという西と京都セラミツクの動きに、タンディは一時態度を硬化させる一幕もあった。先行して開発が進められたモデル100では、全体をきわめてコンパクトに仕上げようとしたために、回路が発生させる電磁波によってメモリー内の情報が化ける可能性が生じるというあらたな技術的問題点も浮かび上がった。
 一九八二(昭和五十七)年の暮れぎりぎりまでマイクロソフトで作業を続けた山下は、十二月三十一日にシアトル空港発の飛行機に乗り、成田に降り立った翌年の一月一日付けで、社名をアスキーに変更したばかりの西の会社に入った。
 難産のハンドヘルドは一九八三(昭和五十八)年三月、タンディからTRSモデル100として発売された。
 
 それまでにも、可搬性を謳ったパーソナルコンピューターがなかったわけではない。
 西と同様、当初は出版の側からパーソナルコンピューターにかかわってきたライター兼出版社経営者のアダム・オズボーンは、作る側にまわって一九八一年三月のWCCFでオズボーン1の発表を行った。五インチの白黒ブラウン管ディスプレイとフロッピーディスクドライブ二台を本体に組み込んだオズボーン1は、小型の八ビットCP/Mマシンで、飛行機の座席の下に収まるほどのコンパクトさと約一一キログラムの当時としては画期的な軽さを売り物としていた。
 テキサスインスツルメンツを飛び出して、一九八二年二月にコンパックコンピュータ社を設立したロッド・キャニオンもまた、ポータブルに目を付けた一人だった。
 キャニオンは初めてのマシンの開発に先だって、パーソナルコンピューター分野で大胆な投資を成功させていたベン・ローゼンに資金提供を申し入れた。「全米を飛行機で忙しく飛び回るエグゼクティブ向けのポータブル機」というアイディアに、ローゼンは興味を示したが、それだけでは満足しなかった。
 キャニオンから提案を受ける直前、ローゼンはその才能を買っていたミッチー・ケイパーという若者が申し入れてきた、「表計算をベースにした多機能のアプリケーションを、発表されたばかりのIBM PC用に開発する」というプロジェクトへの投資を決めていた。
 一九五〇年にダンボール箱工場の経営者を父に生まれたケイパーは、一九七〇年を前後する熱い季節をエール大学の心理学専攻の学生として過ごした。当時ディスクジョッキーとしてロックのレコードを回し、急進的な政治グループのシンパとなり、超越瞑想に入れ込んだケイパーは、社会が急速に熱を冷まし、彼自身超越瞑想のトレーナーの職を失った一九七三年、コンサルタント会社にプログラマーの職を得た。その後も超越瞑想に未練を残しつつ、IBMのメインフレームに悪態をつきながらプログラミングの経験を積んでいたが、やがて退屈な七〇年代の推移に飽き飽きして心理学の博士課程への進学を考えはじめるようになった。
 パーソナルコンピューターが生まれたのは、そんな時期だった。
 一九七八年にTRS―80を手に入れたケイパーは続いてアップルIIも買い求め、関連の雑誌に読みふけるようになった。知り合いの大学院生のために、グラフ作成や統計、数式処理の機能を組み合わせたタイニートロールと名付けたプログラムを書き、一九七九年には、ビジカルクの発売元となっていたパーソナルソフトウエアと契約して、表計算にタイニートロールの機能を与える二本のソフトウエアを開発することになった。一九八一年に発売されたグラフ作成用のビジプロットと統計作業用のビジトレンドは、ケイパーに大きな収入をもたらした。
 一九八一年八月にIBMがPCを発表すると、ケイパーは新世代の表計算ソフトを書く絶好の機会が訪れたことを直感した。
 表計算ではじき出した結果をグラフ化し、データベースの機能をはじめからあわせ持たせた統合表計算プログラムを、一六ビットに踏み込んだIBMの新しいマシン向けに書くというプランに、ケイパーは絶対の自信を持っていた。以前、投資家のベン・ローゼンから、自分でも使っているのだというタイニートロールに関する問い合わせを受けたことのあったケイパーは、彼ならこのプランの可能性を理解するのではないかと考えて連絡をとった。ローゼンはすぐに、一〇〇万ドルの出資を約束した。一九八二年四月、ケイパーは資本金一〇〇万ドルでロータスディベロップメント社を設立し、1―2―3と名付けられることになる統合表計算ソフトの開発に着手した。
 社名のロータスは仏の座る蓮華座から、1―2―3という製品名は、第一ステップの表計算で処理したデータを第二ステップでグラフ化し、第三ステップにデータベースの機能を用意するとの意味を込めて付けた。
 この1―2―3の開発にあたって、ロータスはROMベーシックではなく、標準OSとして位置づけられたPC―DOS上でアセンブラーを使ってプログラムを書く道を選んだ。
 すでにCP/Mが広くアプリケーション開発の基盤となったことを見てきたケイパーには、新世代の速いアプリケーションをOSに対応させて書くことには何の迷いもなかった。ただし、もともとミニコンピューター用のOSを手本にして生まれたCP/Mをそのまま一六ビットに対応させたPC―DOSには、グラフィックスに対応した機能が備わっていなかった。
 数値と文字だけを処理するこれまでの表計算なら、CP/MレベルのOSの枠の中でも、充分に書くことができた。ところが計算結果をグラフ化し、しかもグラフを高速で描こうとする1―2―3の目標は、PC―DOSの提供するサービスの範囲を超えていた。OSが取り扱いを想定していないグラフィックスに踏み込んだプログラムを書こうとすれば、プログラマーはPCのハードウエアの細かな作りを理解したうえで、OSを頼らずに直接ハードウエアに動作を指示するしかなかった。さらにプログラムの処理速度を上げるうえでも、ハードウエアに直にアクセスする方が有利な場合があった。
 ただしそうした作法でプログラムを書けば、せっかくPC―DOSに対応させて書いたものが、同じマイクロソフトのMS―DOSを採用した他の機種では動かなくなるという懸念はあった。だが、ロータスは爆発的な人気を集めているPCで、高度な機能を実現した速いプログラムを提供することに関心を集中させた。
 OS上で開発を行う際には、複数の選択肢の中から開発言語を選ぶことができた。中でもアセンブラーは、コンパクトで速いプログラムを書くという点では有利だった。一方移植のしやすさの観点からは、アセンブラーは最悪の選択だった。だがロータスはここでも、PCへの集中を徹底させた。
 
 この1―2―3への投資を行ったばかりのローゼンは、高級ポータブル機にIBM PCとの完全な互換性を与えるというもう一つの特長を与えたいとロッド・キャニオンが提案した段階で、一五〇万ドルの出資の腹を固めた。
 単にMS―DOSを採用するだけでは、コンパックのポータブル機は開発中の1―2―3を走らせることができない。だがPCとの完全な互換性に踏み込めれば、1―2―3をはじめとして今後続々と登場してくるPC用のソフトウエアをそのまま走らせることができる。今後登場してくるソフトウエアがどんどんグラフィックスに踏み込んで機能を強化したとしても、PCの完全互換機なら問題は起こらない。
 もちろん、IBMが大型機同様パーソナルコンピューターも特許で守った自分たちの技術で構成していたなら、彼らの権利を侵さずに互換機を作ることは難しかったろう。だが彼らは構成要素をほとんどすべて外部から調達したうえに、PCに関しては徹底した情報公開を行っていた。IBM自身が用意したのは、ハードウエアとOSとをつなぐBIOSとバスの規格だけだった。そのBIOSに関してIBMが内部の構造をそのまま見ることのできるソースコードまでさらしている以上、彼らの権利を侵さずに同じ機能を持ったBIOSを別個に開発することは充分可能だろうとキャニオンは考えた。
 
 一九八二年十一月、ロータスディベロップメントはラスベガスで開かれた秋のコムデックスで1―2―3を発表した。従来の表計算ソフトに比べればはるかに大きな表を設定でき、グラフとデータベースの機能を備え、再計算のスピードがきわめて速い1―2―3は、出荷を前にして早くも人気沸騰となった。そして同じ十一月に、コンパックは初めてのPC互換機となるポータブルIの発表を行った。九インチのブラウン管白黒ディスプレイを備えた8088マシンのポータブルIは、飛行機の座席の下に収まる寸法で、約一二キログラムと確かに持ち歩けなくはない重量に収まっていた。
 だがIBMがオプションにまわしていたOSを標準で備えたポータブルIはむしろ、省スペースのPC互換機として注目を浴び、その後コンパックはデスクトップ型の高性能PC互換機で急成長を遂げていくことになった。ポータブルIは、PC互換機の原点としてこそ記憶された。
 一方一九八三年三月にタンディから売り出されたモデル100は、A4サイズで二キログラムを切る、掛け値なしに持ち運び可能なマシンとなっていた。八ビットのベーシックマシンであるモデル100には、当然PCとの互換性はなかったが、ビル・ゲイツの読みに反してヒット商品となった。特にジャーナリストたちの多くが、取材先でまとめた原稿を電話回線で送る格好の道具として、モデル100を活用してみせた。
 ファーストクラス機内での西と稲盛の出会いは、のちにノートブックマシンとして大きく成長する真のポータブル機の原点を生んだ。
 ただし二人の出会いをきっかけとして育ちはじめたマシンは、このハンドヘルド機だけではなかった。機内で西が「将来のパソコンはこうなる」と断言したアルトの子供もまた、ほぼ同時に開発のレールに乗っていた。
 一九七七年に発表されたアラン・ケイの「パーソナル・ダイナミック・メディア」を、西は読んでいなかった。
 だが信州精器のハンドヘルドコンピューターや、アルトの流れを汲むPERQ、そしてスター越しに時代の風を感じた西は、アラン・ケイがダイナブック実現のための課題と想定した二つの要素に取り組むマシンを、IBM PCの次のターゲットとして同時に選び取っていた。
 ダイナブックは、ノート程度の大きさのハードウエアと、視覚的な操作環境を提供するソフトウエアとの組み合わせによって実現される。ハンドヘルドマシンはこのダイナブックのハードウエアを目指し、もう一つのアルトの子供は、ダイナブックのソフトウエアを目指していた。
 この二つのマシンを育てる日本のパートナーとして西が選んだのは、アスキーとマイクロソフトに飛躍のきっかけを与えてくれた、日本電気の渡辺和也をリーダーとするチームだった。
 一九八二(昭和五十七)年の五月から、電子デバイス事業グループのパーソナルコンピュータ事業部では、アスキーと京都セラミツクとの連携のもと、まったく新しい二つのマシンの開発計画が進みはじめた。
 ただしこの時期、日本電気で新しいパーソナルコンピューターの開発を進めていたのは、彼らだけではなかった。情報処理事業グループは、従来の常識に決別したマシンの開発の歯車を、常軌を逸したすさまじい勢いで回しつつあった。

互換ベーシックさえ作れれば
日電版PCで勝負できる

 
 一六ビット互換ベーシックの開発を西和彦に打診した段階では、浜田はいったん日本版のIBM PCに傾きかけていた。だが、西からの実質的な拒絶の返答は、浜田を再びやじろべえの安定に押し戻した。その一方で、渡辺和也の注文を全面的に受け入れた格好のIBM PCは、浜田の心の動きをあざ笑うように快進撃を続けていた。
 一九八二(昭和五十七)十二月初頭、浜田は左右に二つの選択肢を抱えて立ちすくんでいた。その浜田をもう一度、最終的に傾かせたのは、あくまで「我が道を行こう」とする身内からの声だった。
 マーケティングの浜田、ハードウエアの戸坂とともにソフトウエアの側から情報処理の一六ビット機のイメージ固めに携わっていた担当者は、一貫して「超小型オフコンで臨む」という立場をとってきた。従来のソフトウエアを継承することはコンピューター事業の鉄則であり、彼らが守るべき手持ちの資産はシステム100の上にこそあった。自力によらず、第三者による自発的な開発をあてにしてあらたな路線に踏み出すなど、ソフトウエアの専門家からすれば、あまりにも無謀な賭けに見えた。マイクロソフト側から互換ベーシックの開発を拒絶された時点で、従来路線の継承は実現可能性の面からもはずしようのない選択肢として浮かび上がっていた。身内の論議ではPC―8801の路線継承を主張する役割をになった浜田は、過去の経験則に沿った唯一実現可能性のあるプランとしてオフィスコンピューターの超小型版を推す声が勢いを増す中で、渡辺和也の断言が芽吹かせた懸念にこだわっていた。
 過去の経験も、実現の可能性も、すべての常識はシステム100の路線継承を示唆していた。
 だがもしも、マイクロコンピューターの上で起こりつつある変化がある種の革命であるならば、今日までの積み重ねの延長上に明日があるとは限らないと、浜田は考えた。とすれば、むしろ成すべきことのヒントは過去の常識を捨て去り、今、目の前で起こりつつある変化をあるがままに受け入れる中でしかつかめないのではないか。聞くとすれば唯一、市場からの声に従順に耳を傾けるしかないのではないか。
 すでに数え切れないほどたどってきた、神経細胞に刻み込まれたこの思考回路の先に「市場はIBM PCを選んでいる」という結論と、「マイクロソフトからは互換ベーシックが調達できない」という結論の意味を喪失させる条件が控えていることを、薄く締めた唇を固く合わせながら浜田は噛みしめていた。
「計画どおり進めるしかないでしょう」
 十二月に入ってから、数度、繰り返してきた最終的な方針決定のための会議で、そうだめを押された瞬間、浜田の神経回路網を堂々めぐりしていたインパルスが、ふと脇道にそれた。
〈本当に道はないのだろうか〉
 ソフトウエア担当者の声が遠くに消えていくのを感じながら、浜田は脳裏でそうつぶやいた。
 
「もちろん、まったくできないという話じゃありませんよね」
 浜田から打診を受けた情報処理事業グループのソフト開発のベテランは、そう答えてから面を上げ、たずねるような視線を浜田に投げた。
「けれどできることなら、こんなことはマイクロソフトに頼んでもらった方がいいんですけどね」
 日本電気に入社以来、ソフトウエア一筋に生きて来た古山良二がためらいがちにそう続けたとき、浜田俊三は思い切って急ブレーキをかけ、ハンドルを切りなおす覚悟を決めた。
 計画どおりシステム100の超小型版で押し通すのなら、既存の組織の枠組みで充分対応できる。だがPC―8801の互換機を、マイクロソフトの協力なしで独力で開発するとなれば、プロジェクトを組織して可能な限りの強力なチームを作り上げ、全力で取り組むしかない。そう結論づけた浜田は、コンピュータ技術本部長となっていた小林亮と情報処理担当役員の石井善昭の承認を取り付け、急遽プロジェクトを立ち上げた。
 一九八一(昭和五十六)年十二月末、御用納めが目の前まで迫った時点で、浜田はほんの数人の中心となるスタッフを集めて、プロジェクトのキックオフを宣言するミーティングを持った。だが指名すべきサブリーダーの人選も進まぬまま、IBM PCの年は暮れた。
 年明けそうそう、プロジェクトの本格始動に向けて奔走しはじめた浜田には、まだ一九八二(昭和五十七)年がどのような年になるのか、確信が持てなかった。

    

    

第二部 第四章 PC―9801に誰が魂を吹き込むか
一九八二 悪夢の迷宮、互換ベーシックの開発

 ともに昭和二十年代の前半に生まれ、大学でコンピューターと出合い、日本電気でオフィスコンピューターに携わることになった早水潔と小澤昇の歩みは、表面的になぞればほとんど重なり合っている。
 生年に三年の差はあるものの、東京の世田谷に生まれ、私立有名大学の理工系に進み、同じ会社の同じ部門に籍を置くことになった二人の経歴には、共通項が多い。
 だがじつに似通っていながら、ほんのわずかの時間差は、早水と小澤の体験の色合いを確実に塗り分けていた。
 早水はまず、行く手を阻む壁としてパーソナルコンピューターと出合った。
 一方小澤にとって、パーソナルコンピューターはむしろ、当初から未来を開く扉だった。

電算本流にとって
パソコンは敵か味方か


 一九四五(昭和二十)年八月一日、早水潔は太平洋戦争の終わる直前に生まれた。
 中学校から慶応に進んだ早水は、一九六四(昭和三十九)年に慶応大学の当時の工学部に進む。情報処理専門の学科が設置される前の慶応では、コンピューターは工学部の計測工学科に割り振られていた。卒論のテーマには、高級言語の翻訳を特殊な形で処理するマシンの論理設計を選んだ。科学技術計算用に開発され、厳密な論理構造を備えるアルゴルの機械語への変換を、ハードウエアで処理してみようと考えた。一九六八年、早水は全共闘運動が激化する直前に日本電気に入社した。
 一九四八(昭和二十三)年生まれと戦後のベビーブーム世代に属する小澤は、一九六七年、早稲田大学理工学部の機械学科に進んだ。学科には直接コンピューターとの関係はなく、卒論のテーマも流体力学に関するものを選んだ。だがプログラミング研究会と称するコンピューターの同好会に所属した小澤は、全国の大学でいっせいに紛争の火の手が上がる中で、大学にあったIBMの大型機用にコボルやフォートランでプログラムを書くことを面白がっていた。
 配属決定前の面接で、早水はシステムエンジニアを志望し、府中の電子計算機開発本部の装置部にまわされた。部門自体はハードウエアの開発セクションだったが、割り振られた仕事は、設計作業を支援するプログラムの開発という、希望に沿ったものだった。ここで回路図を清書するプログラムからはじまって、論理設計図にもとづいて部品をどうつないでいくかを示す布線表を起こしたり、設計図をプリント基板のパターンに置き換えるプログラムなど、のちにCADと呼ばれることになる設計支援用ソフトの開発に、約一〇年間にわたって携わった。
 一九七六(昭和五十一)年に半導体のセクションが出したTK―80には、この間に興味を持ったことがあった。ペンで図面を描いていくプロッターを、当時早水たちはディジタルイクイップメント(DEC)のPDP―11でコントロールしていた。だが超小型、超安価のTK―80で代用できれば、装置のコストははるかに安くなる。結局言語一つ載っていないTK―80にはプログラムの開発環境と呼べるほどのものがないことから、二台組み立ててみただけでプロッターの制御はあきらめた。だが一九七八年に出たTK―80BSには、ベーシックが載っていた。これなら行けるのではないかとチャンスがあれば使ってみる気になったが、実を結ばないままに一九八〇年に本社に移り、オフィスコンピューター担当の小型システム事業部計画部に配属された。
 新しいセクションでの直接の担当は、オフィスコンピューターの海外への販売だった。日本電気はこの時期、システム100の海外仕様版をアストラと名付けてアメリカ市場にぶつけようともくろんでいた。
 プリンターのスピンライターをかかげて米国内に開拓した販路に、一九七九(昭和五十四)年三月から、アストラが乗せられた。これに先だつ一月から日本国内で出荷開始となったシステム100の新シリーズには、対話型のITOSが採用されていたが、本来このOSはアメリカにオフィスコンピューターを売り込むための市場調査の結果に沿って開発されたものだった。だがLSI化したオフィスコンピューターに対話型のOSを載せたアストラが狙う小規模ビジネスの市場を、まさにこの時期、パーソナルコンピューターが目覚ましい勢いで押さえはじめていた。
 転属となった計画部でアストラの巻き返しにあたった早水の目の前で、ビジカルクが爆発的なヒットを遂げ、CP/Mに対応したワードスターが人気を集めていった。
 アメリカの家具の傾向に合わせて、木目のキャビネットに入れるなどの巻き返し策をこうじてみた。だが、ビジネスの現場を足下から押さえはじめたパーソナルコンピューターの勢いの前にあっては、アストラは成果を残せなかった。一年の悪戦苦闘ののち、一九八一(昭和五十六)年十月にオフィスコンピューター用のアプリケーション開発を担当するフィールドサポート部に配置替えになったとき、早水にはパーソナルコンピューターに対する潜在的な恐怖がしみついていた。
 日本ではいまだ、パーソナルコンピューターはオフィスコンピューターの市場を食い荒らす敵に育ちきってはいなかった。だがもしもアメリカの流れが日本にも及ぶとすれば、早水がアストラで経験した分の悪い戦いを、今後小型システム事業部全体が引き受けざるをえなくなる恐れがあった。
 
 早水から三年遅れで一九七一(昭和四十六)年に入社した小澤昇も、配属前の面接ではコンピューターの担当を希望した。大学時代に専攻した「機械」が考慮され、配属先は府中の周辺端末機器事業部となり、ここでラインプリンターの開発に携わった。
 大型コンピューター用の高速印字装置であるラインプリンターには、大きな音が付き物だった。この騒音をあれやこれや工夫して抑えるのが、小澤の初めての仕事となった。
 その小澤が一九七五(昭和五十)年七月、本社の小型システム事業部に異動して、オフィスコンピューターの製品計画を担当することになった。移った直後の八月、新しい部署から発表されたシステム100のGとHには、まだマイクロコンピューターは使われていなかった。だが小澤がマシンのイメージ固めに加わり、翌一九七六年に発表された次のE/F/Jの世代から、システム100は全面的にLSI化され、マイクロコンピューターが採用された。
 小澤にとってコンピューターとは、少なくとも開発に直接携わったものに関しては、当初からマイクロコンピューターのマシンだった。
 徹底したLSI化によって小型化と製造コストの切り下げを果たすとともに、ブラウン管式のディスプレイを採用するなど新しい特長を盛り込んだこのシリーズによって、日本電気のオフィスコンピューターは、同社のコンピューター事業の歴史の中で初めて利益を出す部門へと脱皮した。
 そこに登場してきたパーソナルコンピューターが無視できない存在であることは、小澤の目にも当初から明らかだった。アメリカで開かれる関連のショーを覗けば、アストラが狙っているスモール・ビジネス・コンピューターの市場に、パーソナルコンピューターは確実に食い込みはじめていた。こうしたマシンが、ユーザー自身がベーシックでプログラムを書くものであり続けるうちは、彼らの領分は限られたものにとどまるように思えた。ところがパーソナルコンピューターの側からも、マシンを導入して電源を入れればすぐに使いだすことのできるタイプが生まれはじめていた。鍵を差し込んでひねればすぐに使えるとの意味を込めて、ターンキーと呼ばれる出来合いのシステムは、スモール・ビジネス・コンピューターの売り物だった。ITOSを用意する一方で、小澤の同僚はそれゆえ、さまざまな用途に対応したアプリケーションをあらかじめ準備していた。ところが似通った提案は、パーソナルコンピューターの側からも寄せられはじめていた。
 特に小澤の関心を引いたのは、タンディのTRS―80だった。
 八ビットのマシンながらCP/Mを搭載し、フロッピーディスクドライブとドットプリンターを従え、表計算やワードプロセッサーのアプリケーションを載せたTRS―80は、立派なターンキーのシステムを構成しているように見えた。
 一方でアメリカ市場への進出を試みているとはいえ、あくまで日本市場中心のシステム100の企画をになっている小澤にとって、パーソナルコンピューターの脅威はまだ足下には及んでいなかった。英語で用いるアルファベットなら、八ビットを一まとまりとした一バイトのコード体系で処理できる。それゆえ八ビットのマシンでも、ビジネス用としてかなり使い物になる。ただしはるかに数の多い漢字を扱うには、二バイトのコードによらざるをえない。日本語を本格的に使うとなれば、一六ビットのマシンは不可欠だった。
 とすれば、ビジネスの現場でより小規模で低価格のマシンが求められるようになるという流れだけを先取りして、オフィスコンピューターの側からそうした解をいち早く提案してしまえばいい。
「今後は情報処理事業グループで、一六ビットのパーソナルコンピューターを開発していく」というトップの決定にもとづいて、一九八一(昭和五十六)年春からビジネス・パーソナルコンピューター(BPC)の開発計画がスタートしたとき、小澤はパーソナルコンピューターがシステム100の世界をさらに下位にまで広げていく刺激を与えてくれたと、積極的に受けとめていた。
 パーソナルコンピューターをビジネスの道具として本格的に使いはじめる動きには、日本とアメリカで二、三年の時間差があった。
 アストラの販売を担当した早水潔が炭坑のカナリアのようにいち早くパーソナルコンピューターの脅威を痛感し、それでいてなおオフィスコンピューターの方向付けをになう小澤昇が新しい波に対処する余裕を実感できる絶妙のタイミングを図って、情報処理事業グループの一六ビットBPC開発計画は動き出していた。
 BPCはオフィスコンピューターの下位に位置づけるべきか。それともパーソナルコンピューターの上位に位置づけなおすべきなのか。その答えは明らかではなかった。
 だが日本電気のオフィスコンピューター部隊は、「一六ビットのパーソナルコンピューターは彼らにになわせる」というトップの決定によって、新しい波に追い詰められる前に、その答えを自ら下すチャンスを与えられた。
 
 一九八一(昭和五十六)年十月にフィールドサポート部に移って間もなく、早水は小型システム事業部長代理の浜田俊三から「裏の仕事」を仰せつかった。
 財務と給与関連のアプリケーションの開発を促進するという本来の仕事を進める一方で、果たして日本ではパーソナルコンピューター用にどんなアプリケーションが売り出されているのか、洗いざらい調べてみろというのが浜田からの指示だった。早水は計画部の平賀正豊と二人で年末商戦で賑わう秋葉原を歩き、PC―8001やシャープのMZ―80、日立のベーシックマスターなど八ビットの人気機種用のアプリケーションを片っ端から買い集めはじめた。
 フィールドサポート部にとって、プログラムを買うことは日常の業務だった。ただショップに出回っているパッケージソフトを求めるという今回の買い方は、異例だった。ここでは、オフィスコンピューターに求められるだろうアプリケーションをソフトハウスに発注し、ソースコードごと権利のいっさいを買い取って、日本電気の提供するソフトウエアとしてユーザーに販売するのが常だった。オブジェクトレベルのアプリケーションを一本ずつ、しかも合計何百万円も販売店から買い求めてくることの意味を納得してもらうために、早水は何度か経理のセクションに足を運ばざるをえなかった。
 さらに浜田からは、開発中のBPC用に本格的なビジネスアプリケーションを書いてくれるソフトハウスの候補を選ぶ作業が加えて指示された。アメリカでパーソナルコンピューターの普及に猛烈な拍車をかけた表計算ソフトや、日本のソードが開発した表計算とデータベースを軸にさまざまな機能を組み合わせたピップスなど、幅広い作業のベースとなりうる一群のソフトウエアは、当時、簡易言語と呼ばれていた。
 浜田の注文は、BPC用に簡易言語を書く力を持ったソフトハウスの発掘だった。
 十二月、早水は本業で付き合いのあるソフトハウスに加えて、パーソナルコンピューター用にビジネスソフトを開発しているところを軒並み訪ね歩いた。情報処理部隊が一六ビットのパーソナルコンピューターを開発していることは、極秘事項だった。だがフィールドサポート部に籍を置く早水には、いかにもオフィスコンピューター用のプログラム開発を打診するかのようにして彼らを訪ねることができた。この年の七月に発表し、十二月から出荷を始めたばかりのN5200用のアプリケーションをあわせて担当していたことも、カムフラージュには有利な条件だった。
 アプリケーション開発担当の子会社としてアスキーが設立したアスキーコンシューマープロダクツ、パーソナルメディア、管理工学研究所、大塚商会、パーソナルビジネスアシスト、東海クリエイトなどのソフトハウスを訪ねた早水は、「話題だけは先行している一六ビットのパーソナルコンピューターには、本当に意味があるのだろうか」とたずねかけてみた。
 これまでオフィスコンピューター用で手堅くビジネスを続けてきたところの多くからは、積極的な声は聞けなかった。一六ビットの可能性を検討する以前に、彼らは不特定多数の一般ユーザー向けに、売り上げに対する何の保証もなくアプリケーションを書くこと自体に関心を持っていなかった。これまでどおり、メーカーやディーラーの注文を受けて開発作業を請け負っている限り、少なくともかけた手間に見合った報酬を取りはぐれる恐れはなかった。だが一般向けに販売店を通して売り出すとなれば、それこそほとんど売れないといった事態も覚悟せざるをえなかった。リスクをかけて乗り出していくほどこの市場が可能性を秘めているのかと問われたとき、オフィスコンピューターを根城にしてきたソフトハウスの大半は首をひねって見せた。
 だが彼らの一部には、少数ながらはっきりとここに狙いを定めているところがあった。さらに八ビットのパーソナルコンピューターをターゲットに会社を起こした新しい小さなところは、例外なく一六ビットへの期待を表明した。
 ソフトハウス行脚を続ける中で、早水は彼らの力量と一六ビットへの関心とを推し量っていった。
 だがこの作業を続ける中で、早水の胸の奥でしだいに懸念の芽が頭をもたげはじめた。
 具体的な話はいっさい控えたものの「一六ビットに意味はあるだろうか」とたずねれば、答える側は当然のように日本電気の一六ビット機を頭に描いてから答えを用意した。
 沖電気が究極の八ビットを狙って送り出してきた高機能機、if800用に開発を行っていたCSKの白土良一は、早水からそう水を向けられると即座に「PC―8801と互換性をとらなければまずいですよ」と断言した。日本電気が一六ビットのパーソナルコンピューターを開発することには大きな意味がある。ただしそのマシンの第一の役割は、「速いPC―8801であることだ」と白土は指摘した。
 当時アスキーコンシューマープロダクツに籍を置いていた那須勇次は、「周辺機器をつなぐコネクターはPC―8001やPC―8801のものと同じでないとまずい」と、従来の八ビット機との互換性を別の角度から指摘した。個人ユーザーにとって、処理速度を高めたマシンの本体だけを買ってきて従来のシステムにはめ込むことができれば、新しい機種への移行の敷居はずいぶん低くなる。そのためにはコンポーネント方式を採用してコネクターは従来のものとそろえ、これまでの周辺機器をそのまま使えるようにするべきだろう。那須にそう指摘されたとき、開発中の超小型オフィスコンピューターのメリットを表立って主張できない早水は、「あんないい加減なコネクターでいいんですかね」と言い返すしかできなかった。
 年明けそうそうの一九八二(昭和五十七)年一月十二日、早水と平賀は連名で「BPC用簡易言語の開発ソフトハウス候補予備調査」と題した報告書を浜田に提出した。
 ソフトハウスの一部から「求められているのはPC―8001とPC―8801との互換性を持った一六ビット機」と指摘されたとの早水の報告を、浜田は素早く目の端で追った。
 
 従来路線に沿ったBPCの開発計画とは別個に、PC―8801の一六ビット版プロジェクトをあらたにスタートさせたばかりの浜田にとって、早水の報告はたくまざる賛同の拍手だった。
 だが浜田には、外部からの支援の声に耳を遊ばせている余裕はなかった。新プロジェクトは実質的にはいまだまったく動きだしておらず、時間は決定的に不足していた。
 前年の十月七日から十二日までの六日間、大阪見本市・港会場で開かれたエレクトロニクスショーと、十月二十日から四日間、東京晴海の国際貿易センターで開かれたデータショウに、三菱電機は一六ビットのパーソナルコンピューターを参考出品して注目を集めていた。
 IBM PCと同様8088を採用したこの機種を、三菱電機はCP/Mマシンと位置づけていた。
 CP/M―86上で動くコボルやフォートランを提供することによって、これまでミニコンピューターやオフィスコンピューター用にこれらの高級言語で書かれてきたアプリケーションを容易に移植できることを、三菱電機はこのマシンの強みとして打ち出していた★。

★のちにマルチ16と名付けられるこのマシンは、五インチのディスクドライブを標準で備え、OSの他にディスクベーシックもフロッピーから読み込んで使えるようになっていた。
 マイクロソフトはIBMがPCのプロジェクトを持ちかける以前、インテルが初めての一六ビット・マイクロコンピューター8086を発表して間もない一九七八年秋から、これに対応したベーシックの開発を進めていた。翌一九七九年六月にニューヨークで開かれた全米コンピューター会議(NCC)で、マイクロソフトはベーシック8086の発表を行った。日本の一六ビット機としてはもっとも早く開発計画がスタートしたマルチ16には、これを拡張したM―BASICが移植されていた。ただし三菱電機は、CP/M―86に対応させたさまざまな言語や各業種業務用のアプリケーション、大型の端末として使うためエミュレーションソフトなどをマルチ16の売り物として前面に推し出していた。

 これまでこの分野に手を染めないできた三菱電機は、常にトップシェア争いを続けてきたオフィスコンピューターでのソフトウエアの蓄積を背景にして、一六ビットに先回りしてパーソナルコンピューターの未来を押さえようと狙っていた。
 さらに三菱電機は、マイクロソフトが開発を進めている新世代の表計算ソフト、マルチプランをこのマシン用に提供することを明らかにしていた。
 
 言語の会社としてスタートを切り、IBMのPCプロジェクトをきっかけにOSの分野に手を広げたマイクロソフトは、もう一方でアプリケーションへの進出のチャンスをうかがっていた。
 ビル・ゲイツが初めてのアプリケーションとしてターゲットに据えた分野は、当然のことながら表計算だった。
 一九八〇年に表計算の開発プロジェクトをスタートさせた時点で、ゲイツはこのプログラムをさまざまな機種に移植可能なものとすることを目標の一つとしてかかげた。ビジカルクは表計算の可能性をまざまざと見せつけたが、アップルIIの専用OSに対応したアセンブラーで書かれていたためにCP/Mでは当初、動かなかった。八ビットの標準となったCP/M上では、代わってスーパーカルクがヒットした。ゲイツはマイクロソフトの表計算ソフトを、あらゆるOSを搭載したあらゆる機種に移植しやすいように、パスカルで書こうと考えた★。

★ベーシックに代表されるインタープリターでは、プログラムは実行されるたびに翻訳ソフトによってソースコードから機械語に翻訳される。一方コンパイラーでは、あらかじめ機械語に翻訳済みのオブジェクトコードが実行される。こうした二つの流れのあいだに立とうとしたパスカルは、Pコードと呼ばれる中間的なコードをはさむことで、双方のメリットをやや薄めた形ながらともに備える性格を持っていた。
 パスカルで書かれたプログラムは、いったんコンパイラーによってPコードに翻訳される。このPコードをさらに個々のハードウエアの命令にインタープリター形式で翻訳する比較的小規模なプログラムを用意することで、パスカルを用いれば移植の作業量をかなり軽減することが期待できた。

 プロトタイプの開発を経て、一九八一年にマルチプランと名付けた表計算の製品バージョンに着手するにあたっては、ゲイツは移植性に加えてユーザーから見た使いやすさというもう一つの課題を追求しようと考えた。
 この年の二月、ゼロックスのパロアルト研究所でアルト用にブラヴォーを書いたチャールズ・シモニーが、マイクロソフトに引き抜かれて開発の責任者となった。
 シモニーは、マルチプランにアルト流のメニューを持ち込もうと考えた。パロアルト時代、アラン・ケイの方向付けに深く親しんでいたシモニーは、マルチプランの画面の下に二行をとって「印刷」や「計算」といった項目を並べたメニューを用意した。
 三菱電機が一六ビット機を参考出品した段階では、マルチプランはまだいずれのマシン向けのバージョンも発売されてはいなかった。結局のところマイクロソフトは、初めてのマルチプランを一九八二年八月にアップルII版から発売することになった。だがマイクロソフトが開発を進めている新世代の表計算ソフトをいち早く載せるとの宣言は、三菱電機のマシンに対する期待を大いに高めた。参考出品された段階で、出荷開始予定は一九八二年の春、予価は基本構成で約八〇万円とアナウンスされた。
 この年の暮れ、三菱電機はこのマシンをマルチ16と名付け、翌年一月から営業活動を開始して四月からの出荷に備えることを明らかにした。コンポーネント形式をとらず、すべての要素を一体化させたマルチ16の最低価格は、白黒ディスプレイ、メモリー一二八KB、五インチのフロッピーディスクの構成で七三万円とされた。
 マルチ16のアウトラインが明らかになっていく過程で、日本電気の小型システム事業部は、開発中のBPCを四月から出荷できるよう、スケジュールを組みなおしていた。早水に命じた簡易言語を書いてくれるソフトハウスの調査は、マルチ16の売り物であるマルチプランに対抗するアプリケーションの確保がその狙いだった。
 ライバルの動向に合わせて、浜田はBPCの軌道に修正をかけた。
 だが、PC―8801互換機を本命に据えると完全に腹をくくった今となっては、システム100の超小型版を四月に出荷し、マルチ16の出鼻を叩くという戦術は意味を失っていた。可能な限り早くという内心の声を、かろうじて合理性の枠に収まるスケジュールに落とし込もうとすれば、マルチ16から半年遅れ、一九八二(昭和五十七)年十月出荷がぎりぎりの線だった。
 このスケジュールを達成できるか否かの鍵は、互換ベーシックの開発を任せる古山良二が握っていた。
 
 一九五九(昭和三十四)年、日米安全保障条約をめぐって日本が大揺れに揺れる前の年、岩戸景気で企業が活気づく中で、東京大学理学部応用物理学科を卒業して古山良二は日本電気に入社した。
 以来、日本電気の社員としては初めて、古山はコンピューターのソフトウエア専門でキャリアを積み重ねていった。その古山にとっても「互換ベーシックを半年で書いてくれ」という浜田の注文は、かつて経験したことのないむちゃなものに思えた。
 新しくベーシックを設計して書けというのなら、問題はなかった。
 事実開発中のBPCには、パーソナルコンピューターで人気を集めているベーシックを載せたいとのことで、古山たちはその開発作業を進めてきた。
 だがマイクロソフトがPC―8001やPC―8801に提供したものと互換性を持ったベーシックを、翻訳ソフトのソースコードもなしで8086用に書けという今回の注文の性格は、これまでのものとはまったく異なっていた。
 一つ一つのベーシックの命令をどういった手順で処理しているかは、ソースコードを見れば容易に確認できる。原著作者の合意のもとにソースコードを参照することができ、おまけにその手順を新しいベーシックにも利用してよいというのなら問題はない。ところが浜田によれば、ソースコードの権利は手に入らないという。となればPC―8801やPC―8001を実際に動かしてみて、ROMにオブジェクト化されて収められている翻訳ソフトがどう振る舞うかを外側から手探りで判断し、同じ機能を別個に手順を組み合わせて書いていくしかない。その他に参考にできるのは、ユーザー用のマニュアルだけだろう。
 ただしマイクロソフトの権利を侵害することを回避するために、外側から手探りでベーシックの機能を分析するといっても、そこには限界がある。フロッピーディスクにどのようなフォーマットで情報を書き込んでいるかは、読み書きがすべて機械の内側で処理されるために、外からはうかがい知る術がない。これに関しては、記憶装置に書き込まれた情報を画面に表示させたりプリンターに印字させたりする、ダンプと呼ばれる処理によって分析するしか手がない。さらにベーシックの完全な互換性を得るためには、プログラムを最終的に機械語で実行する前の段階で使われる、中間コードの形式を合わせておく必要もある。ベーシックで書かれたプログラムの文字列を字句単位に短縮化した、トークンと呼ばれる中間コードの仕様もまた、ファイルフォーマットと同様、十六進数でダンプして分析するしかない。
 製品化されたソフトウエアの仕様や機能を、開発工程を逆向きにたどって分析することから、リバースエンジニアリングと総称されるこうした手法は、法律で禁じられているわけではなかった。ただしリバースエンジニアリングをかけられる側の反発は、当然予測できた。
 しかも、ベーシックを載せる対象となる機械はまだ影も形も存在していないのだ。
 浜田によれば、ハードウエアとソフトウエアの開発をゼロから同時並行で進め、しかも十月のデータショウに発表した直後には製品の出荷を開始したいという。
 だがこんなスケジュールでは、開発したベーシックを実機でチェックする期間は、きわめて短くなってしまう。従来機に使われてきたベーシックの機能を漏れなく網羅した内部資料のようなものがあるのなら、確認も容易だろう。けれどそれもないとなれば、これまでに書かれたいろいろなプログラムをしらみつぶしに動かしてみてチェックするしか手はない。マニュアルに書かれていない命令やマニュアルと食い違った動き方をする命令に関しては、プログラムをともかく動かして問題が起こった時点で内容を分析し、対処するしかないのだ。
 小柄でいつもにこやかな笑みを浮かべ、言葉のはしに故郷の出雲の訛りを残す古山が、いったんシステム開発上のポイントや問題点を分析するとなると、鋭利なメスのような論理をふるって容赦なく切り込んでくることを浜田は痛いほど承知していた。
「やはりこれはマイクロソフトに頼んでくださいよ」
 年末の打診から年明けの再度の打ち合わせを経て、そうまとめた古山の言葉の調子は柔らかかった。だがやんわりとした依頼の形を取ってはいるものの、これが実現の可能性を十二分にはかったうえでの結論であることは、古山の瞳の力がよく物語っていた。
「頼めれば頼む」
 精悍という文字を面構えに変えたような浜田の肩が、古山はそのとき、少し落ちているように感じた。古山はここまで自分が数え上げてきた互換ベーシック開発上の問題点など、浜田はとうに承知していたことに、あらためて気付かされた。
「マイクロソフトとしては、β版を出すのが早くて今年の十一月ということなんだ」
 いつもなら腹の奥で大きな鐘をつくように響く浜田の声が、薄く流れていった。
「だがそれじゃあ、とても間に合わない。マルチ16にとんでもない差をつけられてしまう」
 古山がふと風が吹き変わるような奇妙な感覚を覚えたのは、浜田がそうもらした瞬間だった。

電算事業の主流に押し上げられた
ソフトウエアの左甚五郎


 計測工学出身の同窓生たちと会ってお互いの仕事に関して話したり、彼らから異動の連絡を受けたりするとき、古山はしばしば、それぞれの分野に散っていった大学時代の仲間たちがその道で主流にまわらなかったことを痛感させられてきた。
 一九五〇年代の終わり、さまざまな産業分野に散っていった仲間たちの大半は、製造工程のオートメーション化に携わることになった。それぞれの職場でプラントの自動化に懸命に取り組んだ仲間は、自らの仕事を充分に楽しみ、彼らの努力の積み重ねは、どこかで確実に日本経済の高度成長に寄与しただろう。だが時を経てあらためて振り返れば、当然のことながら石油化学の会社では石油化学が、鉄鋼の会社では鉄鋼の専門家が主流となっていた。
〈システム屋はけっして主流になることはない〉
 そうした思いは、日本電気のスタッフとしては初めてソフトウエア一本で進むことになった古山の胸にも宿ることがあった。
 少なくとも古山が体験してきたこれまでのコンピューターの歴史の主役は、圧倒的にハードウエアだった。
 電気屋が知恵を絞り、新しいアイディアを盛り込んでコンピューターを作る。彼らコンピューターの主役にとって、ハードウエアができればそこで仕事は終わりだった。ただしコンピューターという機械を実際に動かすには、ソフトウエアが必要になる。そこでソフト屋連中に声をかけて、マシンを稼働させるための後処理を片付けさせる。
 ソフトウエアが必要であることを、主役たちは否定しはしない。だが彼らはどこかで、ソフトウエアを必要悪とでも見ているのではないかと思わせられることが、古山には何度かあった。
 ハードウエアの与えてくれた枠の中で、大人しく処理の手順を組み上げるのがソフト屋の仕事。ソフト本位で物事を考えて枠をはみ出し、ハード屋に注文をつけるのは本末転倒といった意識を、古山は主流の側に感じとってきた。
 
 製材業を営む父の七人の子どもの真ん中に生まれ、国民学校の四年で敗戦を迎えた古山にとって、図書館は好奇心をみたす絶好の広場だった。職人気質の父にさっぱり商売っ気がないことを承知していた古山は、ウサギを飼って小遣いを稼ぎ、部品を買い集めてはラジオや電車の模型を組み立てることを覚えた。だが図書館で数学や物理の本を開いて思いをめぐらせれば、もっと広い世界でいっさい金をかけずに遊ぶことができることに、やがて古山は気付くようになった。
 東京大学に入ったときには、数学科に進みたいと考えていた。
 だが最初のコンパで席を並べた級友に、気にかかっていた問題についてたずねたときの経験が、数学をあきらめさせた。問題を聞くなりさらさらと解きはじめた同級生を前に、古山はただ唖然としているしかなかった。のちに数学科の教授となったその人物の書いたメモを、古山はアルバムにはさんでいつまでもとっておいた。代わりに、数学を生かすことができてしかも物にも触れるだろうと考えて、応用物理の計測工学を選んだ。就職に際しては、まったく同じ理由からコンピューターを仕事としたいと考え、電子計算機に着手しているという日本電気の試験を受けた。
 製材機に使うモーターから東芝や日立は知っていても、日本電気など聞いたこともない父は、真顔で「そんなところに入って大丈夫なのか」と心配して見せた。
 玉川の電子機器工業部に配属されて初めて担当した仕事は、NEAC―2203のソフトウエア作りだった。
 古山の入社直後の一九五九(昭和三十四)年六月、日本電気はパリで開かれた第一回情報処理国際会議にトランジスター式のNEAC―2201を出展した。このマシンを継いで、事務処理分野への本格的な応用を狙ったNEAC―2203用に、古山はサインやコサインをはじき出したり連立一次方程式を解いたりする、サブルーチンと呼ばれるソフトウエアのモジュールを書きためていった。
 ただしNEAC―2203の記憶容量は、磁気ドラムを使って一語十進一二桁で二〇〇〇語★までしか確保できなかった。たったこれだけのメモリー空間でともかくコンピューターに仕事をやらせるためには、機械語でプログラムを組む以外は考えもつかなかった。

★語単位でしか読み書きや処理のできないワードマシンが、十進数を処理単位としている際の記憶容量を、正しくバイトに換算することは不可能である。それを承知であえて形式的な計算を試みれば、十進数の一桁は四ビットでカバーでき、それが一二桁あるので一語は四八ビット。全体では四八×二〇〇〇ビット。これを八で割って、一二Kバイトに相当する勘定になる。

「アメリカではソフト開発に、自動プログラミングという手法が使われているらしい」と教えてくれたのは、上司の金田弘だった。
 NEAC―2203が手本にしていたIBMの650には、フォートランという英語の構文に近いプログラミング言語で書いたソフトウエアを、自動的に機械語に変換してくれるコンパイラーが用意されていた。このマニュアルを入手して勉強してみると、確かに機械語で書くよりはプログラミングが容易になると実感できた。「自動プログラミング」という名称にも納得がいった。これを参考に、古山は半年ほどかけて、フォートランとアルゴルをごちゃ混ぜにしたような言語のコンパイラーをNEAC―2203用に作ってみた。
 それまでプログラムというものは、与えられたメモリー容量に収めるために削りに削って書き、ともかく目的の計算処理がやれればいいとだけ考えてきた。だが高級言語を学んでみると、開発効率や保守という観点もプログラミングにとって意味を持ってくるのだと実感できた。もしもハードウエアの側がより大きなメモリー空間を与えてくれるのなら、高級言語を使えば作業はより効率的になり、プログラムの変更や修正は確かに楽になるはずだった★。

★古山良二が2203用にコンパイラーを書き、NARCと名付けた当時の状況は、前出の『日本のコンピュータの歴史』第3部、第4章「日本電気」に以下のように記述されている。
「当時は現在のようなオペレーティングシステムの概念はまだなく、業務プログラムの開発がそれ専用のオペレーティングシステムの開発を含んでいたといえよう。使用者はイニシャルプログラムを使用して機械語でプログラムを作っており、逐次標準サブルーチンが拡充されていった。一方、小規模ながらアセンブラやコンパイラの開発もはじまっていた。SIP(シンボリックインプットプログラム)は、電子工業振興協会で森口繁一(東京大学)の指導で共通仕様がまとめられ、刑部政司がNEAC2203用を開発した。また古山良二は科学計算用のコンパイラNARCを開発したが、これは我が国最初の商用コンパイラであった。このほかNEAC2203には2パスアセンブラも開発されたが、これらのアセンブラやコンパイラは磁気ドラム2000語、紙テープ入出力装置という基本構成をもとに開発されたため、目的プログラムを得るのに時間がかかりすぎ、大部分の使用者は機械語でプログラムを作ったものである」
 筆者の目の前のマシンは三二Mバイトのメモリーを備え、二Gバイトのハードディスクがつながっている。なんだかどうも、申し訳がない。

 一九六二(昭和三十七)年に日本電気とハネウェルの提携が本決まりとなる直前、古山は研修のためにボストンに赴いた。
 OSの役割をはっきりと意識したのは、ハネウェルのマシンを支えるソフトウエアの体系について三か月かけて学んだこのときだった。
 それまではハードウエアの与えてくれる小さな空間に仕事をこなすプログラムをかろうじて押し込んでいたものが、ハネウェルでは入出力のコントロールやファイルの管理を一括してになうOSが、別個に確立されていた。さまざまな仕事で頻繁に使われるユーティリティーやプログラミング言語は、みなOSの上で使う形で整えられていた。
 コンピューターの基本的な動作を受け持つ部分をまとめて基本システムとして用意しておくことには、目を開かれるような新鮮さを感じた。
 こうしておけばこれまでのように、一つ一つのプログラムで基本的な動作にかかわるところまで、いちいちそのたびごとにカバーする必要はなくなる。基本システムを一まとめにして読み込むとなればメモリーに対する要求はますます大きくなるが、ハードウエアが許してくれるのなら、こうした手法がより合理的であることは間違いなかった。
 ただし方向付けとしては正しいと分かってはいても、OSの世界には戸惑いを感じさせる要素もあった。
 基本ソフトウエアなどほとんど存在しない機械語のみの時代があり、言語がその役割の一部をにないはじめ、そしてOSが確立されようとしている。こうした流れに沿って基本ソフトウエアの規模が拡大するにつれ、開発作業もまたどんどん膨らみ、ハネウェルでは多くの要員が一つの仕事にかかわるようになっていた。作業の肥大化が、混乱と開発効率の低下につながることを恐れたハネウェルでは、OSを小さなモジュール単位に切り分けてそれぞれの担当者に割り振っていた。日本電気では、ソフトウエアのことは古山にたずねれば何から何まで解決がついた。だがハネウェルのスタッフに質問すると、自分の担当分に関しては答えることができても、その他の内容に関してはまったく答えられなかった。「これでどうして、あんなに大きな規模のOSを組み上げることができるのか」と胸に浮かび上がってきた疑問は、全体の構成と個々のモジュールのつなぎ目だけを定義する担当がまた別に存在するのだと知ってはじめて氷解した。
 これだけ規模の大きなOSを開発するには、作業を厳密に分担していくことが不可欠なのだと頭では理解できた。その一方で、一つ一つのソフトウエアに関して何から何までを一人でこなしてきた古山にとって、分業システムの徹底にはどこか寂しさを感じさせるところがあった。
 
 一九六三年、ハネウェルはIBMの事務処理用マシン、1400シリーズ向けに書かれたプログラムをそのまま利用できるH200を発表し、互換機ビジネスに大きな可能性があることを実証して見せた。
 日本電気はH200をNEAC―2200として日本で販売し、古山はこのOSをカナ文字に対応させたり、複数のプログラムを同時並行で処理できるマルチタスクの機能を持ったOSを別個に開発するなどの作業にあたった。
 一九七一(昭和四十六)年、コンピューターの貿易自由化を前にした通産省の指導によって日本電気が東芝と組み、IBM非互換でACOSシリーズの開発に着手すると、古山はシリーズの中では比較的小規模なACOS2のOSを担当することになった。
 大規模なメインフレーム用のOS開発に取り組んでいても、古山は「何から何まで分かっていたい」という気持ちをなかなか拭いきれなかった。そんな性分を見抜いたように、規模の小さなACOS2を担当させてくれた上司の配慮が、古山には嬉しかった。
 大型機用のOS開発を通じて組織的、体系的に開発作業を進めることの重要性を繰り返し確認しながら、古山はどこかに一匹狼の職人気質を引きずっていた。
 その古山の個性は、ITOSの一大トラブルに際して、存分に発揮された。
 
 一九七八(昭和五十三)年の九月から十月にかけて、情報処理小型システム事業部はユーザーと対話しながら使い方を指導する機能を盛り込んだ基本システム、ITOSを搭載したオフィスコンピューターの新機種を発表していった。
 ITOSの設計思想はディーラーとユーザーからともに高い評価を受け、翌一九七九(昭和五十四)年三月には、搭載機種の出荷台数が早くも一〇〇〇台を超えた。だが全国各地にばらまかれたITOS搭載マシンは、本格的に運用され始めたこの時期、いっせいに火を噴いた。
 コンピューター事業全体の参謀本部役をになう情報処理企画室の石井善昭は、三つの柱からなる対応策を打ち出した。
 第一にユーザーからのクレームには小型システム事業部のスタッフが全員で対応し、いっさいの他の業務に優先して顧客のもとにはせ参じ、頭を下げ、マシンで処理できなくなった仕事を手伝ってでも日本電気側の誠意を見せる。
 第二にすべてのディーラーに集まってもらい、事情を説明するとともにITOSの手直しのスケジュールを示して理解を求める。
 第三に、ITOSの問題点を解析し、早急に手直しを行う。
 今後のコンピューター事業の帰趨を決することになるITOSの修正作業の責任者として、石井は基本ソフトウエア開発本部第三開発部長、古山良二を指名した。
 古山は数名の選りすぐった部下を引き連れ、他人の仕事場に乗り込んで彼らを指揮しながらITOSを手直しするという、難しい役割をになうことになった。
 
 ITOSの現状の分析から着手して間もなく、ハネウェルで初めてOSを学んだときの記憶が古山によみがえった。
 ITOSを構成する個々のモジュールは、ほとんどが問題なく仕上がっていた。だがモジュール同士をつなぐところに、トラブルの種が数多く残っていた。従来のシステム100のOSが、プログラムの行数でせいぜい一万行から二万行規模だったのに対し、ITOSは二〇万行と桁外れに膨れ上がっていた。ここまで大型化すれば、鳥瞰的な視点に立って個々のモジュールの役割を厳密に定義するとともに、各モジュールのすり合わせを専門に行う担当者を配置することが欠かせないはずだった。だが、一九七七(昭和五十二)年から一九七九年にかけて府中のコンピューターの開発、生産要員の約三分の一が営業や保守部門に配置替えとなる中で、ITOSの開発は全体の調整役を置くという問題意識と人員の余裕を欠いたまま進められた。
 最盛期には一五〇名近い開発要員を指揮して、古山はITOSのデバッグに取り組み、着手から四か月後にはどうやら安定して動作する3・3版のリリースにこぎ着けた。バグをほとんど取りきり、約束していた機能をすべて備えた3・5版は、トラブル発生から約一年を経て出荷することができた。この3・5版では、プログラムの規模はおよそ三〇万行に達していた。
 古山が日本電気に入社した当時、ハードウエアの与えてくれるほんのちっぽけなスペースを利用して書くのが当然だったソフトウエアは、OSだけで、大量のマンパワーを投入して築き上げる大規模なシステムに膨れ上がった。ソフトウエアは、コンピューター技術の脇役と位置づけるには余るほどの大きな役割を演じはじめていた。
 ITOSのトラブルが日本電気のオフィスコンピューター事業を崖っぷちまで追いつめたのは、それゆえだった。
 だが、渋面を浮かべて西和彦にベーシックの開発を拒否された経緯を語る浜田にとって、マシンの性格を決める基本ソフトウエアの持つ意味はなおいっそう重かった。
 オフィスコンピューターをさらに小型化して開発を進めているBPCから、浜田はPC―8001、PC―8801と互換性を持った一六ビット機に傾いていた。だが互換ベーシックを古山が「書こう」と一言いわなければ、より成功の可能性が高いと信じるマシンの開発に、浜田は着手することもできないのだ。
 そう内心で確認したとき、古山は風が決定的に吹き変わったことをはっきりと意識した。
 
 古山が一筋に携わってきたソフトウエアは、もはやハードの従属物ではなかった。使い勝手の向上を求めて機能の強化に努めていく中で、OSや言語の規模はしだいに膨らんだ。さらにその基本ソフトの上におびただしい労力と知恵がつぎ込まれ、たくさんのアプリケーションが書きためられていった。一歩一歩プログラム資産がたくわえられていった挙げ句、コンピューターシステムにおける価値の源泉は、ハードウエアからしだいにソフトウエアへと移行していった。
 古山は手元のノートに落としていた視線を上げて、浜田の肩を見た。
 吐き出した息が透明な溜息のかけらに変わるのに合わせて、浜田の肩が静かに落ちたように見えた。
 そのとき、互換ベーシックの調達に胃袋を締め上げられる浜田の姿は、古山の目に風の吹き変わりの象徴のように映った。
 ふと胸に湧き上がってきたのは、気負いや誇りではなかった。
 古山はその時、何から何まで常識外れのこの仕事が「面白いのかもしれない」と思った。いたずらな好奇心が脳裏を駆け抜けるのに半歩遅れて、古山は再び開発条件の厳しさに思いを馳せた。その瞬間、冷水を浴びせられたように古山はかすかに頭を振ったが、極めつけの困難の果てに控えているだろう充足感からは、もう視線をそらせられなくなった。
 古山はITOSの手直しにめどを付けたあと、オフィスコンピューター担当の第五開発部に移っていた。従来携わってきたACOS2に比べれば、古山が相手にするマシンの規模は、少なくともハードウエアに関する限りずいぶん小さくなった。だが大企業や大組織のユーザーが巨大なシステムを組んでいるACOSでは、互換性の維持を最優先しながら、忍び足で機能を拡張していかざるをえなかったものが、目の前の顧客を奪い合う激しい競争が常のオフィスコンピューターでは、むしろ積極的に新しいアイディア、新しい技術を取り込むことが不可欠だった。
 古山はオフィスコンピューター担当となってから、頭の中にはびこっていた挑戦に対する抑制細胞がきれいさっぱり吹き飛ばされるような感覚を楽しんでいた。
 巨大な建造物を築くような仕事ではない。指先で一つ一つ確かめながら、小さいけれど複雑な彫り物を、手早く一気に刻み上げるような仕事だった。
〈そんな仕事こそ自分にふさわしいのかな〉
 心の中で吹き変わりはじめた風に、古山は胸の内でそう名前を付けてみた。
「じゃあともかく、開発スケジュールを引いてみましょうか」
 こうもらした古山の言葉が終わりきらないうちに、唇を薄く絞って視線を起こした浜田は、プロジェクトが初めて動き出したのを意識した。
 一六ビット機用基本ソフトの開発スケジュールを「明日中にもまとめてほしい」と古山に求めながら、浜田は最優先の緊急プロジェクトとして進めることになるこの開発計画に動員するスタッフを、脳裏に数えはじめていた。

本家情報処理の
N―10プロジェクト始動


 一九八二(昭和五十七)年二月、基本ソフトウエアの開発スケジュールをたずさえて現われた古山良二の表情は、少しこわばっているように見えた。
 ITOSの手直しプロジェクトでも、古山は時計の針と競走するような緊張を強いられた。
 だがあらためて開発線表を引いてみると、新一六ビット機の基本ソフトウエア開発には不確定な要素が数多く残されているうえに、与えられた時間は常識外れに短かった。PC―8801とPC―8001に使われているベーシックの全貌が明らかでないことに加え、ハードウエアも同時並行で開発せざるをえないために、ベーシックを実際のマシンに載せてテストする期間がほとんどとれそうもないことが、古山の不安をかき立てた。
「実マシンの上で基本ソフトを評価できる期間は、極少といわざるをえません。もともと開発に与えられた時間がきわめて短いこともあわせて考えれば、必要な基本ソフトをすべて、同時並行で仕上げていくことは絶対に不可能です。まず間に合わせなければ話にならない互換ベーシックとBIOSだけを、とにかく仕上げる。それ以外のものは、追っかけ、可能な限り早く仕上げるという考え方で臨むしかないでしょう」
 浜田にスケジュールを示す前、古山は伏し目がちにそう前置きした。
 線表によれば、焦点となるベーシックの開発にはまず、仕様の検討から着手する。明日にでも仕様検討に取りかかって、これを三月半ばまでに終え、基本設計を一か月かけて四月半ばに完了する。そこから詳細設計が五月半ばまで。実際に翻訳プログラムを書いていくコーディングと、プログラム上のミスをつぶしていくデバッグの作業が八月の半ばまで。そしてこのタイミングに量産機のプロトタイプを間に合わせ、実マシンでの評価に九月をあて、十月からの出荷を実現する。
 浜田が注文を出していたOSに関しては、ベーシックを片付けてマシンを発表してから用意できしだい順次リリースしていく。
 IBM PCの大成功を見せつけられた端末装置事業部は、前年の七月にパーソナルターミナルとして発表していたN5200を、パーソナルコンピューターと位置づけなおそうと考えた。一九八二(昭和五十七)年五月、あらたな性格付けのもとに発表することになったN5200の新機種には、CP/M―86とMS―DOSの採用が計画された。小型システム事業部のアストラに続いて、端末装置事業部はこの新しいN5200をアメリカ市場に問おうと考えた。国内版の発表に合わせて、アドバンスト・パーソナル・コンピュータ(APC)と名付けてアナウンスするこのマシンの売り物として、端末グループはIBMの大型用端末3278の機能を備えている点と、CP/M―86とMS―DOSの採用を強調しようとしていた。この移植作業を担当していた古山にとって、新しい一六ビット機用にOSを載せる作業自体には不安はなかった。
 ともかく互換ベーシックさえ片付けてしまえば、あとは浜田が指定する優先順位に従って、まずCP/M―86から着手してMS―DOSを片付け、最後に日本電気オリジナルのITOSに取りかかればよい。
 古山の分析によれば、開発に要する作業量はベーシックだけで三月から九月にかけて計六五人月。その他にBIOS、通信関係、検査、ベーシックを収めるROMやカセットテープの製作要員、さらに追いかけの作業となるOSの移植スタッフなどが必要となり、社内の担当者と、日本電気では協力会社と呼んでいる外注のスタッフあわせて、つごう二五名程度を専従として張り付ける必要があるだろうという。
 だがいったん覚悟を決めた浜田には、もう迷いはなかった。
 これまで開発を進めてきたBPCは、卓上型オフィスコンピューターと性格付けを変更し、システム20/15と名付けて予定どおり四月に発表することとした。
 日本電気オリジナルのμCOM―1600を採用したシステム20/15は、日本語ワードプロセッサーの機能を備え、上位機との互換性を持ちながら机の上に収まる超小型サイズを売り物とするオフィスコンピューターと位置づけなおされた。これまでシステム100用にコンパクトAPLIKAのシリーズ名で書きためられた業種業務別のさまざまなアプリケーションが利用できるほか、BPC用に開発を進めてきたPRISMと名付けたグラフ作成用プログラムも、ソフトウエアのラインナップに加えられた。マルチ16の開発にあたって、三菱電機がオフィスコンピューター用のプログラムを移植したのと同様、BPCに向けて日本電気は幅広いアプリケーションを自ら供給する体制を整えていた。
 もしもこのマシンをパーソナルコンピューターとして発表することになっていたら、古山が部長を務める第五開発部があらたに用意したN16―BASICの搭載は、特長の一つとして強調されていただろう。だがオフィスコンピューターとして位置づけなおしたことで、システム20/15におけるベーシックの重みはほとんど失われることになった。
 システム20/15の最小構成の価格は、一九九万八〇〇〇円とされた。
 BPCのハンドルを急遽切りなおして性格付けを変更するもう一方で、浜田は形ばかり立ち上げたプロジェクトの、実質的な肉付けの作業に着手した。
 これまで小型システム事業部のオフィスコンピューターは、ハードウエアを戸坂馨率いるセクションがにない、ソフトウエアはITOS事件以来、古山良二のチームが担当してきた。最終的にはシステム20/15に化けることになったBPCも、この両輪を軸として開発を進めた。仕切りなおししてスタートを切る一六ビット機でも、浜田はこの体制で臨む腹を固め、石井善昭以下の上司の承認を取りつけた。
 加えて浜田は、三つの柱からなる特別チームを別個に組織し、開発計画を後押しするとともに、可能な限りの準備を進めておこうと考えた。
 新たに「速いPC―8801」を目指すにあたって、浜田自身、不安をぬぐいきれなかったのがアプリケーションの供給体制だった。
 渡辺和也はあくまで「パーソナルコンピューターではサードパーティーこそがアプリケーション供給の中心になる」と強調し、確かにアメリカ市場でもそうした他人任せのスタイルが中心となっている事実はあった。互換性のあるベーシックを積めば、これまでのマシン用に書かれたアプリケーションはそのまま利用できた。ただしパーソナルコンピューターを仕事の道具として本格的に売り込んでいくためには、ビジネス向けの本格的なソフトが絶対に欠かせなかった。
 その肝心のビジネス用ソフトの開発をサードパーティーに任せきりにしておくことは、あまりにもリスクが大きい。アプリケーションをすべて自分で用意するというオフィスコンピューターの流儀を捨てるのなら、少なくともそれに代わるものを確実に他人に用意させる準備が必要になると浜田は考えた。
 IBMはPCの開発中に、ビジネス用として人気を博しているソフトウエアのメーカーを中心に移植を働きかけ、マシンと同時にビジカルクやイージーライターなど、利用可能なアプリケーション八本を発表していた。
 この例にならおうと考えた浜田は、プロジェクトチームの第一の柱として、応用ソフトワーキンググループと名付けたアプリケーションの開発促進チームを置いた。このグループのチーフには、ソフトハウスの調査を担当させた早水潔を据えた。
 具体的にどのようなマシンを作るのか、細部の仕様を煮詰めていく製品計画ワーキンググループのチーフには、オフィスコンピューターの製品計画を担当してきた小澤昇を指名した。
 できたマシンをどう売っていくかを詰める販売計画ワーキンググループのチーフには、窪田孝をあたらせた。
 一九八二(昭和五十七)年三月に入って、PC―8801の互換一六ビット機をターゲットとしたN―10プロジェクトが本格的に始動しはじめた。
 発売開始目標の十月まで、形式的なスタートを切った十二月から起算して一〇か月。だが実質的な開発期間は、わずか七か月にすぎなかった。本来は月半ばでけりを付けるはずの互換ベーシックの仕様検討を、古山のチームは三月末ぎりぎりまで引きずった。
 並行して着手した基本設計と仕様検討の進捗状況を睨んでいた古山は、困難を充分予測していたはずの互換ベーシック開発に要する作業量を見誤っていたことに、早くもこの時点で気付かされた。PC―8801やPC―8001のベーシックには、マニュアルに書かれてあるのとは微妙に異なった動き方をする箇所が見つかりはじめていた。たとえマニュアルに書かれたとおりの機能を持ったベーシックを開発し終えたとしても、これでは微妙な差異が引っかかって従来の八ビット機用に書かれたプログラムが動かなくなったり、奇妙な動き方をする恐れがあった。果たしてN88―BASICやN―BASICの完全な正体がどんなものなのか、隠されたコマンドや、マニュアルとのずれがどの程度存在しているのか、古山の胸に大きな不安の雲が立ち昇ってきた。
 古山は時をおかず、互換ベーシック開発には当初予測した六五人月に加えて、もう五〇人月は必要となるという緊急のレポートを浜田に入れた。
 互換ベーシックを書くことを引き受けたとき、古山は底の見えない谷に張ったロープの上に立つ覚悟を決めていた。だがバランスを取るための棒を握り、ロープにいざ一歩を踏み出したその瞬間、目指すもう一方の端は潮が引くように遠ざかり、視界の彼方に吸い込まれていった。
 四月十二日、日本電気はシステム20/15を発表し、即日販売を開始した。
 古山にはもう、引き返すことはできなかった。
 
 応用ソフト準備ワーキンググループのチーフに任ずるとの正式の指示を、早水は三月二十六日に受け取った。浜田と相談して選んだメンバーは六名。三月三十一日に開いた最初の打ち合わせに出席したのは、そのうちの三名だった。
 浜田は量産モデルのプロトタイプが完成した七月後半から、サードパーティーに発表前のマシンを貸与して、事前にアプリケーションの開発を進めさせようと考えていた。IBM PCが、マシンの発表と同時に利用可能なアプリケーションを示したように、新一六ビット機の発表時点でかなりの数の対応プログラムを確保することを、浜田は目標として示した。
「このグループの作業はプロトタイプの完成後に正念場を迎える」と釘をさした浜田は、まず手始めに新一六ビット機と市場を奪い合うことになるだろう各社のマシンに、どのような経路でアプリケーションが供給されているかを分析するよう求めた。
 日本電気のACOS、ミニコンピューター、オフィスコンピューター、そして従来の八ビットPCシリーズや沖電気のif800、シャープのMZ―80、PC―3100、PC―3200、さらにハードウエアの分野では日本で唯一のベンチャー企業として気を吐いていたソードのマシンに、どのようなアプリケーションがどう流されているかが、あらためて詳細に比較対照された。
 四月には、本筋のアプリケーションの開発促進に関しても、具体的な目標が立てられた。十月半ばに予定されているデータショウの直前にアナウンスすると決まったスケジュールを睨んで、発表時点で六〇種類の対応ソフトがあると打ち上げ、データショウではN―10を並べた日本電気のブースでアプリケーションの宣伝を行うプランが練られた。さらにマシンの出荷が本格化した十一月の末段階では、もう一〇〇種類の対応アプリケーションをそろえ、つごう一六〇本を押し立てて新一六ビット機をアピールする作戦を早水は練った。
 八月末まで、ほぼ週一回のペースで進められてきたアプリケーションの供給経路に関する検討の結果は、オフィスコンピューターの流儀からの決別だった。
 三菱電機はマルチ16に自社のオフィスコンピューターのアプリケーションを移植する方針をとり、N―10プロジェクトでも当初はITOSの移植を予定していた。だが、パーソナルコンピューターではサードパーティーによるアプリケーションの供給が圧倒的に中心となっているという事実と、自ら供給の前面に出ることは外部の開発者の参入意欲をそぐとの読みから、日本電気はソフトハウスによる開発の支援に集中するという結論を早水はまとめ上げた。
 八ビット時代からの日本電気の直系販売店約二五〇社に加えて、この時期、パーソナルコンピューターを取り扱う家電量販店は、全国でおよそ四〇〇〇店に及んでいた。N―10のマーケティング戦略を練るにあたって、浜田は新規の販売ルートを開拓する必要を感じなかった。
 既存の販売ルートを利用してN―10マシンを流すことは、充分可能である。
 ただし、販売の中心となる家電量販店では、他社機との併売を覚悟せざるをえない。店頭での競争に勝ち抜いていくために、浜田はN―10を簡単に売れる、手離れのよい製品に仕上げたいと考えた。
「その鍵は、パッケージソフトが握っている」
 そう確認するとき、浜田は意識下で、アメリカでの体験を反芻していた。
 アストラのハードウエアが完成し、日本から送った製品が到着した段階になってもなお、NECインフォメーションシステムズ(NECIS)は、マシンの発売になかなか踏み切ろうとしなかった。日本本社サイドからアメリカ市場の開拓に携わっていた浜田にとって、彼らの逡巡はいぶかしかった。
 説明を求めると、現地のスタッフは「アプリケーションを待たざるをえない」と強く主張した。
 対話性を重視したITOSは、本来アメリカ市場開拓にあたってのコンサルテーションにもとづいて開発された。だが実際に製品の発売を前にした段階で、NECISはITOSのみを頼りにした勝負に成算を見いだせないでいた。買ってきてすぐに使い出せるパッケージソフトの完成を待つという彼らの決意を前にして、浜田はある種のカルチャーギャップにさらされた。
「ここアメリカでは、たとえマシンを作り上げたとしてもアプリケーションなしでは売り出してみることすらできないのか」
 浜田はこの一件を通して、出来合いのパッケージを幅広くそろえておくことの重要性を、あらためて肝に銘じさせられた。
 マシンを導入したユーザーの注文を聞きながら、ディーラーがアプリケーションを書いていく日本の流儀は、アメリカでは通用しなかった。オフィスコンピューター程度の小規模なマシンを売り込むにあたっては、価格を大幅に抑えた豊富なパッケージソフトをそろえることが、ここでは不可欠の条件となっていた。必要なソフトウエアはユーザー自身が用意するというITOSの目指した理想は、美しくはあっても現実からは遠かった。
 同様に、ユーザー自身がベーシックでプログラムを書いているあいだは、パーソナルコンピューターは限られたマニアのマシンにとどまっていた。パーソナルコンピューターが浜田たちの脅威となったのは、さまざまな分野のパッケージソフトが誕生しはじめてからだった。
「N―10に関して、日本電気はサードパーティーによる開発の支援に集中するべきだ」とする早水のレポートは、浜田のこの体験に沿っていた。
 日本電気の系列ソフトハウスがN―10用にアプリケーションを書くことを、浜田は禁じる腹を固めた。
「我々自身が書けば、資金力においても人的な資源においても規模の小さな大半のソフトハウスは、はなから勝負に乗り出してこないだろう。結果的には、各ジャンルに日本電気製のアプリケーションが一本だけ存在する、といった事態に陥りかねない」
 そうなってはとても勝ち目はないと、浜田は考えた。
 インテルのマイクロコンピューターにマイクロソフト、デジタルリサーチの基本ソフトと、パーソナルコンピューターを支える技術の選択肢には、ほとんど幅がなかった。最善の努力はつくすにしても、冷静に判断すれば、マシンの性能自体によって決定的な差がつくとは思えなかった。とすれば、勝負はアプリケーションが決することになる。より正確には、アプリケーションの幅と量が決める。
 人気となった何本かのアプリケーションに関しては、IBMがPCの発表に先だって働きかけたように、移植費を保証して自社のマシン版を開発してもらう手がある。最終的に勝負を決めるのは、大した本数は出ないものを含め、いかに幅の広いアプリケーションを各ジャンルに数多く積み上げられるか、サードパーティーに書いてもらえるかにつきる。
 そのために考えられる手を、組織的に、繰り返し、徹底して打ち続けることこそN―10の成否の鍵を握ると浜田は考えた。
 
 小澤昇をチーフとする製品計画ワーキンググループは、マシンの仕様を固めていくために三月に入った直後からミーティングを繰り返した。従来の八ビット機の流れを汲んだマシンを作るという新しい方針にもとづいて、浜田は渡辺和也と話し合い、彼の部隊の中心メンバーである後藤富雄と加藤明に加わってもらうこととした。
 ワーキンググループのメンバーは、あくまで所属部署の仕事を持ったまま、プロジェクトの作業を並行して進めるというのが建て前だった。だがN―10プロジェクトが走りはじめた三月段階ですでに、浜田をはじめとするメンバーの全員がこのグループはいずれビジネスパーソナルコンピューターの専門組織へと脱皮するのだと考えていた。彼ら流の命名によれば、八ビット機で市場を開いてきた電子デバイスのチームは、「PCサブグループ」だった。
 PCサブグループの後藤と加藤は、あらためて新一六ビット機に六つの注文をつけた。
 第一に、N88―BASICとN―BASICに互換性を持ったベーシックを採用すること。第二に、PC―8801やPC―8001と周辺機器を共有できるようにすること。第三に、専用のモニターだけでなく、家庭用テレビにも接続できるようにすること。第四に、八ビット機用に開発した五インチのフロッピーディスクを接続できるようにすること。第五に、これも八ビット機で外部記憶装置として使われ、アプリケーション供給のベースとなってきたカセットテープレコーダーを接続できるようにすること。そして第六に、増設ボードを簡単に組み込めるように拡張スロットを用意し、仕様を公開してサードパーティーによる開発を後押しすること。
 PCサブグループの二人に対し、約半年でN―10を発売に持っていくというスケジュールは、完璧に伏せられた。一方、製品の仕様に関しては、彼らの意見は積極的に取り入れられた。
 オフィスコンピューターの製品計画に携わってきた小澤は、従来機からの継承性を重視するという方針は承知していたものの、まがりなりにもコンピューターに家庭用テレビやカセットテープレコーダーへのインターフェイスを用意せよという注文には違和感を禁じえなかった。さらにPCサブグループからの注文の中で、もっとも大きなギャップを感じさせられたのは、拡張スロットの仕様公開だった。
 これまでコンピューター事業をになってきた情報処理事業グループにとって、ユーザーに対してマシンをブラックボックスとして提供することはまったく疑いの余地のない大前提だった。機能拡張用のスロットをつけるにしても、あくまでユーザーの目には触れないブラックボックスの中に設けるのが当然だった。ソフトウエアに関しては、ユーザー自身が言語を用いてアプリケーションを書くなど、メーカー以外の人間がシステムの中身に関与する部分が存在していた。ただしことハードウエアについては、いっさいがメーカーの領分だった。ユーザーを含む第三者が勝手にハードウエアに手を加えることなど、きわめて無謀で危険な振る舞いと考えるのが常識だった。にもかかわらずPCサブグループからは、スロットの仕様公開が求められた。
 確かにアップルIIをはじめPC―8801も簡単にボードを差し込めるようスロットを本体に内蔵しており、IBMのPCもこの流儀を踏襲してはいた。だがあらためて拡張スロットを表にさらし、インターフェイスの技術情報を外部に公開するのだと腹をくくるために、小澤は大きく肩で息をつかざるをえなかった。
 製品計画ワーキンググループは、ハードウエアの開発を直接担当する戸坂馨のチームと意見を交換しながら仕様の細部を詰めていったが、使用するマイクロコンピューターに関しては双方とも当初から8086で異論はなかった。インテル系の八ビット機を継ぐ以上、考えられるのは八ビットの尻尾を残した8088か、純粋な一六ビット仕様の8086だった。先行するマシンを後ろから追いかける以上、8086をとって一気に追い越そうという見解は、開発計画に携わる者のあいだではじめから一致していた。
 マイクロコンピューター自体に速いものを選ぶことに加えて、開発チームは新一六ビット機の処理速度向上の秘密兵器として、日本電気のマイクロコンピュータ事業部が開発した新しいLSIを採用することを決めた。
 一九八一(昭和五十六)年二月十九日、日本電気は「世界で初めて製品化されたグラフィック・ディスプレイ制御用LSI」と銘打ってμPD7220Dを発表し、九月から汎用部品として販売を開始していた。
 すでに日本電気の端末装置事業部は、この年の七月に発表したN5200に、図形の描画と文字の表示を高速化するGDC★を初めて組み込んでいた。

★従来メインフレームやオフィスコンピューターの端末装置は、もっぱら文字だけを画面に表示してきた。それに対しミニコンピューターやワークステーションを使った設計の支援やシミュレーションなどの分野から、複雑な図形をコンピューターで取り扱おうとする動きが生まれてきた。パーソナルコンピューターもまた、はっきりとグラフィックスを志向した。さまざまな階層のコンピューター上で、教育や経営分析などの幅広い分野を対象にグラフィックスの処理に対する要求が高まりつつあることは明らかだった。
 こうしたグラフィックスを取り扱っていくことは、コンピューターの可能性を大きく広げる効果をもたらした。だがもう一方で、マシンに求められる処理能力のレベルは、これによって大幅に高まらざるをえなかった。
 もちろんコンピューターが本来備えているCPUだけを使って、画面上に図形を表示させることも可能だった。ただしその際は、プログラムを実行していく過程で図形を表示する必要が生じると、メインのCPUが図形を構成する点の一つ一つの位置を計算して割り出し、グラフィックスの表示を終えてから本来のプログラムの流れに戻って処理を継続する形をとらざるをえなかった。そこでグラフィックス関連の処理に専門にあたる回路を別に用意し、CPUへの過負荷を解消しようという発想から生まれたのが、グラフィックス専用の制御LSIだった。
 こうして開発されたグラフィック・ディスプレイ・コントローラー(GDC)μPD7220Dを組み込んだシステムでは、CPUは図形を表示する必要が生じた際にはどこにどんな図形を表示せよという命令だけをGDCに指示し、自らは本来の作業手順の流れに沿ってどんどんプログラムを実行することができた。その間にGDCが図形の表示に必要な作業を並行して進めてくれるため、処理時間は大幅に短縮された。GDCは直線、円弧、四辺形を高速で描画することができ、表示した図形の塗りつぶしの機能を備えていた。
 さらにGDCには、文字を高速で表示するための機能も組み込まれていた。ドットの集まりによって表現される文字を表示することも、CPUにとっては大きな負担となる。そこでもっぱらテキストだけを取り扱ってきた従来のシステムでも、文字パターンの表示に関しては、専用のキャラクタージェネレーターが用意されてきた。こうした回路を利用したシステムでは、CPU自体は一字一字に割り振られたコードの形で文字を取り扱い、表示に関してはどのコード番号の文字をどこに示せとだけ指示することができた。
 アルファベットや数字を表わすには、最低でも縦七×横五の三五ドット、つまり三五ビット分のデータが必要となる。これが漢字なら、最低でも縦一六×横一六ドット、つごう二五六ビットに膨らむ。もしもCPUだけで文字の表示を行おうとすると、一文字につきこれだけのデータを動かさなければならない。一方コードで扱うだけなら、アルファベットや数字、カナは八ビット、数の多い漢字でも一六ビットで識別することができる。GDCにはこうしたキャラクタージェネレーターとしての働きが、関連する機能を付加した形で組み込んであった。

 この成果を横目で睨んで確認していた開発チームは、描画と文字表示の高速化という二つのメリットを生かすために、新しい一六ビット機にグラフィックス用とテキスト用にそれぞれ専用のGDCを用意しようと考えた。
 縦横一六ドットの文字のパターンを収めたJIS第一水準の漢字ROMに関しては、標準で持たせるべきか、オプションにまわしていいか判断が分かれた。ただ新一六ビット機が当面速いPC―8801を目指し、PC―8801が漢字ROMをオプションにまわしていることから、必須とはいえないと判断して標準搭載は見送られた。
 画面の解像度に関しても、新一六ビット機はPC―8801の六四〇×四〇〇を引き継いだが、あらたにこの解像度で、八色のカラーの表示機能が与えられた。
 八ビット機との周辺機器の共有化を図るという注文に応えるために、外部記憶装置に関しては横並びでずらりと対応できるようにせざるをえなかった。八ビット機用には五インチと八インチのドライブが用意されてきたので、それぞれの規格に対応したインターフェイスを標準装備した。カセットテープレコーダーがパーソナルコンピューターの外部記憶装置として今後どれほど使われるかには大いに疑問があった。だがこれも、PCサブグループからの注文を受け入れ、拡張スロットに差し込むオプションのボードとして、インターフェイスを用意しておくことになった。さらにオプションとして、あらたにハードディスクも提供することとした。
 メインのメモリーは、一二八Kバイトの標準装備を決めた。
 
 こうした仕様にもとづいてハードウエアの開発にあたった戸坂馨は、新一六ビット機が従来作ってきたオフィスコンピューターではなくパーソナルコンピューターという異なった範疇のマシンなのだという意識を、ほとんど持っていなかった。
 詳しく分析してみたIBM PCは量産化を意識した設計上の工夫を随所に盛り込んでおり、いくつかの特長はそのまま新一六ビット機でも生かそうと考えた。だが基本的にはこれまで作ってきたマシンでもマイクロコンピューターは利用しており、周辺装置の類も同じものを使ってきた。拡張スロットを表にさらすことは確かに新しい経験だったが、気持ちの切り替え以外に、何かを求められたわけではなかった。家庭用テレビやカセットテープレコーダーといったアナログの機器をつなぐのには当初戸惑いがあったが、着手してみればこれも間もなく解決できた。
 唯一今回の開発作業で異なっている点があるとすれば、情報漏れを防ぐために機密の保持をくどいほど徹底させていたことだった。府中のコンピュータ技術本部の一角にはシークレットルームと名付けられた一室が設けられ、すべての作業は部外者の立ち入りを厳しく排除したこの部屋で進められた。
 情報処理事業グループがパーソナルコンピューターの開発に取り組んでいることは、最高レベルの機密扱いとされていた。
「もしも一六ビットのパーソナルコンピューターを我々が開発していることが外部に漏れれば、電子デバイスという他の事業グループの足を引っ張ることになる。情報漏れによるマイナスが自分たちのマシンに及ぶのならまだしも、他のセクションに迷惑をかけることは絶対に許されない」
 N―10プロジェクトを率いる浜田俊三はそう言い渡して、徹底した機密保持を求めた。
 新一六ビット機に注文をつけるために後藤富雄と加藤明をワーキンググループに参加させている渡辺和也の部隊は、当然プロジェクトが進行しつつあることを知っていた。だが開発完了予定が常識外の半年後に据えられていることや、三〇万円を切る本体価格を目標として開発が進められていることを、彼らはまったく予想していなかった。
 新一六ビット機の発表時点にある程度のアプリケーションをそろえるためには、事前にサードパーティーにマシンを提供せざるをえなかった。試作機のソフトハウス渡しの時期は、八月初頭に設定された。プロジェクト開始からの八か月間、その存在を知っていた唯一の外部企業は、ベーシックの開発作業の一部を発注された管理工学研究所のみだった。
 浜田からの遠回しの打診が立ち消えとなった時点から一九八二(昭和五十七)年の夏にいたるまで、アスキーは彼らが互換ベーシックの開発に取り組んでいることを、まったく知らなかった。
 取りあえず部品をつないで機能だけを実現したバラックセット段階のマシンは、六月の末には仕上がった。
 ベーシックの開発にあたる古山が、ソフトウエアを載せて動作を確認するための評価機の提出を七月末に求めていたのに対し、ハードウエア側の作業は予定を上回るペースで進んでいた。
 七月、N―10プロジェクトには正式な事業計画として承認が与えられ、三〇万円を切るという価格目標もこの時点で公式に設定された。
 だが、事業計画やハードウエア開発の順調な動きとは対照的に、古山は悪戦を強いられていた。

賽の河原の石積みとなった
悪夢の互換ベーシック開発


 N88―BASICやN―BASICと互換性をとるためには、中間コードとファイルフォーマットの仕様を知ることは絶対に欠かせなかった。
 そのために必要な十六進のダンプによる解析が、法律で禁じられているというわけではなかった。とはいえ、一方でPC―8001やPC―8801に関してはマイクロソフトからベーシックを供給されている日本電気が、こうした手法を用いて別個に互換ベーシックを開発することにはやはり、懸念があった。
 マイクロソフトが権利を持っているベーシックのソースプログラムをもとに、PC―8801やPC―8001向けに機能を拡張したり移植する作業のかなりの部分は、現実にはシアトルに派遣された土岐泰之など、渡辺の部隊のスタッフがになっていた。当時マイクロソフトのベーシックを採用していた日本の他のメーカーでも、買う側が移植作業の中心になるという状況は似たり寄ったりだった。ただし契約上はあくまで、日本のメーカーが買ったのはオブジェクトコードを自社のマシンに搭載する権利のみであり、ソースコードをいじって独自の拡張を行ったり、契約に含まれていない他機種のベーシック開発の参考にするといったことは禁じられていた。
 こうした制約を負っている渡辺のセクションから、開発チームはいっさい情報提供を受けていなかった。だが、マイクロソフトとアスキーが互換ベーシックの存在を知った時点で情報漏れの懸念を抱くことは、当然予想できた。同社の著作権に抵触せず、彼らが疑いを持ったとしても説得力を持って反論できるようにと、古山はベーシックの情報源を厳密に限る方針を定めた。マニュアルに記載されている内容、ファイルのダンプから得られる中間コードとファイルフォーマットの仕様、そしてマイクロソフトベーシックがブラックボックスとしてどう動作するかの三つが、開発チームの情報源とされた。
 命令と機能の対応を押さえてから、今度は確認した機能を組み立てていく作業は、まったく白紙の状態から進められた。機械語に変換されてROMに組み込まれているベーシック処理プログラムを、逆アセンブルと呼ばれる工程を経てアセンブラーの形式に戻して分析すれば、マイクロソフトがどういった手順で機能を実現しているかを覗いてみることができた。だがそうした手法でマイクロソフトの手順をいったん知ってしまえば、著作権侵害を避けるために独自に手順を組み立てたとしても、偶然似通った手を使った場合には侵害と判定される恐れがあった。そこで古山は逆アセンブルを禁止し、あくまで一からの組み立てに徹した。
 ところがそうした手法で論理的には間違いなく組み上げたはずの互換ベーシックに、これまでPC―8001やPC―8801用に書かれたプログラムを載せてみると、さまざまな問題が浮かび上がった。
 GDCのような描画を高速化するための専用回路を持たないPC―8001やPC―8801では、すべてのグラフィックス処理がCPU上で実行されていた。それに対しGDCを持つN―10なら、可能な限りグラフィックスの処理を専用回路に任せてしまえば、それだけ描画は高速化できた。だが従来使ってきたベーシックの文法を守りながらGDC用の命令にベーシックの命令を変換する論理には、一部に組みにくいところがあった。開発期間がきわめて短かったこともあり、せっかくGDCが機能を持っているにもかかわらず、別個に手順を組み立ててCPUで処理させることになったものも少なくなかった。
 円や楕円の描画も、CPUによる処理にまわさざるをえなかった。
 円や楕円を書く手順は、プロッターの制御用アルゴリズムとして学会誌に掲載されていた論文を参考にして組み立てた。動かしてみると、確かにうまく書けた。ところがPC―8801用に書かれたゲームのプログラムを動かしてみると、「土星の水漏れ」と開発チーム内で用語が定着することになった奇妙な現象が起きた。
 このゲームには、土星の環のようなリングを書いてそこをペイント命令で青く塗りつぶす手順が含まれていた。ところがその手順にかかると、まるで環から水でも漏れ出してしまったように、画面全体が真っ青に塗りつぶされた。
 もともと数学には自信を持っている古山は、水漏れの報告を受けて参考にした論文を家に持ち帰り、夜っぴてアルゴリズムを当たりなおしてみた。ところが楕円を書くアルゴリズムにはどう見ても論理的な誤りはなく、プログラムも正しくこの手順を記述していた。
 とはいえ、求められていることは正しいアルゴリズムを組み立てることではなく、あくまでPC―8801やPC―8001のベーシックと同じように振る舞うものを開発することだった。採用したアルゴリズムでは、楕円の弧の端に一ドット差が出る場合があり、二つの弧がつながらなくなるケースが生じることを明け方近くになってようやく突き止めた古山は、端で一ドット余計に書かせるようにすることで、ついに「水漏れ」をくい止めた。
 百人一首の和歌とカルタの絵札を組み合わせたゲームを動かしている最中には、紫式部の顔が真ん中で切れて左右入れ替わって表示される事件が起きた。調べてみるとマニュアルが実際のプログラムの動きと左右を取り違えて書いていることが分かった。ゲームを開発する側は作業の途中でこの誤りに気付き、プログラムをベーシックの実際の動きに合わせていた。そこで互換ベーシックの側も、マニュアルではなく実際の動きに合わせて手直しすることになった。
 またマニュアルにはまったく書かれていないものにも、数多く対応せざるをえない要素があった。ゲームプログラムにはユーザーになにかキーを押してもらい、それをきっかけに場面を切り替えているものがある。マシンの側には、どのキーが押されたかを一時的に記憶しておくキーバッファーと呼ばれる小さなメモリーが用意してあるが、こうしたゲームに対応するためにはバッファーに記憶された内容をあらかじめ消しておかないと、以前に押されたキーの内容をユーザーからの指示と取り違えて、誤動作する可能性があった。
 こうした点に関しては、マニュアルにはまったく記載がなかった。そこで新しくキーバッファーの中身をクリアするための機能を付け加えると、それが思わぬところでじゃまをして今度は別のプログラムに問題が生じた。
 一つ一つ石を積み上げ、ようやく形ができたところで足りない機能に気付く。その機能を付け加えるために重ねたもう一つの石が、せっかく積み上げた石の山を崩してしまう。
 手探りのチェックを繰り返しながら、古山は賽の河原で石を積み上げるような気分にとらわれていた。
 六月末にでき上がったバラックセット上で七月から八月にかけてチェックと手直しを繰り返し、互換ベーシックはかなり体裁を整えてはきた。だがどこまで作業を続けても、なにか大きな問題点が隠されているのではないかとの不安は、古山の胸からいつまでも去らなかった。
 
 互換ベーシックのチェックの工程では、機密保持の徹底という制約が大きな障害となった。本来なら、開発中のマシンをある時点でソフトハウスに配り、その会社のアプリケーションが問題なく動作するか、問題が起こるとすればどこで引っかかるかをテストしてもらうことができた。サードパーティーに広く協力を求めれば、製品として出荷するまでには、ほとんどの問題点をつぶすことも可能だった。ところが極秘裡の開発となったために、外部を巻き込んだテストをかけることができなかった。そこで開発スタッフが自ら市販のアプリケーションをできる限りたくさん動かしてテストしてみたほか、基本ソフトウエア開発本部の他のセクションのスタッフにも協力を仰ぎ、彼らが持っているPC―8801やPC―8001用のプログラムを走らせて問題点を拾い出していった。
 基本ソフトウエアのトラブルは許されないとはいえ、納入先がはっきりしているオフィスコンピューターならまだしも責任の取りようがあった。ITOSは一大トラブルを引き起こしてユーザーとディーラーに大きな迷惑をかけたが、最低限日本電気は彼らに直接わび、ITOSを問題なく動くものに作り変えて供給しなおすことができた。
 けれどパーソナルコンピューターでは、重大な問題がのちに確認されて手をつくしたとしても、救いきれないマシンが数多く残る可能性が強かった。
 一九八二(昭和五十七)年の夏、古山は心臓を握りしめられるような緊張感と戦いながら、一つ積んでは一つ崩れ落ちそうになる石のバランスをとり、互換ベーシックの積み上げの作業を続けていった。
 振り返れば日本電気に入社して以来のどの作業にも、常にスケジュールには余裕がなく、スタッフは不足し、それぞれの作業にそれぞれの困難がつきまとっていた。息を詰めて削りに削らなければ機械語のプログラムがメモリーに収まらない時代から、ソフトウエアの規模は拡大の一途をたどり、拡大は否応なく混乱を引き連れてきた。ACOSのOSは膨大な規模に膨れ上がり、古山は火のついたITOSを両手で受け取らざるをえなかった。
 だがN―10プロジェクトの互換ベーシック開発は、これまでに体験してきたどんな作業よりも過酷な悪夢だった。互換ベーシックとBIOSを合わせれば、その規模はわずかに九六Kバイト。大型コンピューターのOS開発を経験してきた古山にとって、「たった」と思えるその九六Kバイトが、八月が終わりに近づいてもなお古山を苦しめ続けていた。
 互換ベーシックにどんな問題が起こるか予測できないために、浜田と戸坂はハードウエアに逃げ道を用意してくれた。
 本来なら、ベーシックとBIOSを収めたROMは基板の上に組み込むのが当然だった。だが最後の最後まで手直しが続くことを予測して、新一六ビット機は六つ用意した増設スロットの一つにROMを持たせたボードを差し込むという、きわめて変則的な構成を採用した。
 互換ベーシックの問題が発見された際、ROMが基板に組み付けてあるのでは筺体をはずしてから入れ替えてもう一度組み立てざるをえない。それに対し増設ボードなら、抜き差しだけで対処できる。せっかくの増設スロットをこのために一つつぶしてしまう点でも、そもそも新一六ビットのあり方を決める基本ソフトを増設ボードに置くという不自然さにおいても、こうした選択は望ましくなかった。だが開発状況を直視すれば、緊急時への備えはやはり欠かせなかった。
 さらに増設ボード上に置くROMに関しても、浜田は古山からの注文を入れて特殊なタイプを採用する道を選んだ。
 本来ならベーシックとBIOSを収めたROMには、製造の段階で情報を焼き込んでしまうマスクROMを使うのが当然だった。大量生産に向いたこのタイプなら、コストを低く抑えることができた。一方EPROM( Erasable Programable ROM )と呼ばれる特殊なタイプなら、いったん書き込んだ情報を紫外線を照射するなどの処置を施して消してから、再度新しい内容を書き込むことができた。コストで比較すれば、EPROMはマスクROMに比べて大幅に高くなった。だが「なにが起きるか分からない」との古山の意見を入れて、取りあえず初期の出荷分はEPROMで臨み、これ以上大きな問題は起こらないと見極めがついた時点でマスクROMに切り替えるという方針が採用された。

「PC―9801に
著作権侵害はないのか?」


 ソフトハウスへの量産型プロトタイプの提供は、九月一日から開始された。
 だが増設ボード化とEPROMという二重の保険をかけて古山が取り組んだ賽の河原の石積みのゴールは、この時点でもまだ先が見えなかった。
 十月十九日から開催されるデータショウの前に発表し、ここで一般ユーザーにお披露目したあと、十月下旬からは出荷を開始する。
 このスケジュールに合わせてサードパーティーに可能な限り早く、たくさんのアプリケーションを用意してもらうという役割を負っている早水にとって、九月一日は、けっして早くはなかった。短期間の開発作業と機密保持、そしてサードパーティーによる開発促進という三すくみの要求のバランスをとって落ちついたのが、この日からの提供だった。
 サードパーティーには箝口令を敷くとしても、この時点から新一六ビット機に関する情報が漏れはじめることは覚悟せざるをえなかった。古山から「最低限ファイルのフォーマットと中間コードは互換性をとるために同じにしなければならない。その点は、アスキーとマイクロソフト側に了解を取っておいてほしい」と求められていた浜田は、間接的に西和彦が互換ベーシックの開発を知る事態は避けようと考えた。
 浜田から「見てもらいたいマシンがある。今後このマシンをどう売っていくかに関しても相談に乗ってほしい」との連絡を受けた西和彦は、一九八二(昭和五十七)年の八月の終わり、古川享をはじめとするアスキーの主だったスタッフとともに、田町の日本電気本社に出向いた。
 アスキーのスタッフは、このミーティングを新機種に関する一般向け発表前の説明会と受け取っていた。
 だが「従来の八ビット機のものと互換性のあるベーシックを積んだ、低価格、高性能の一六ビット機」との説明を受け、「今後『ASCII』で積極的な紹介をお願いするとともに、販売促進に関してさまざまな角度から提案と協力をお願いしたい。このマシンへのアプリケーション開発にも、是非とも力をふるっていただきたい」と締めくくって浜田が席に着いたとき、アスキー側の出席者は緊張に背筋を粟立たせ、湧き上がってくる苦い唾液に舌を焼かれはじめていた。
 彼らは、自分たちの最強の商品であるベーシックと同じ機能を持ったものが、他人の手によって開発されるといった事態をまったく予想していなかった。
「ちょっと触らせてもらいますよ」
 西が了解を求め、古川がベーシックの短いプログラムを叩き込みはじめた。彼らはN88―BASICの現行バージョンのどこにどんなバグが潜んでいるのかを、誰よりも知りつくしていた。古川はバグを狙ってつぎつぎにコードを送り込んだ。一六ビット機が搭載しているという互換ベーシックの素性を知るには、この手がもっとも手っ取り早く確実だろうと古川は一瞬にそう判断した。
 筺体だけを入れ替えたPC―8801でも叩いているかのように、マシンはN88―BASICと同じところに同じバグを抱え込んでおり、同じ反応を返してきた。マニュアルには記載されていない機能を確認してみても、マシンはPC―8801そのままに振る舞った。
 古川と西は、視線で「おかしい」と確認しあった。
 その時点で彼らの脳裏をよぎったのは、「このマシンはN88―BASICをそのまま載せており、Z80の機械語の命令を8086のものに書き換えるコンバーターを使って動かしているのではないか」との疑問だった。
 西はその場で、互換ベーシックの開発の経緯に関して浜田に説明を求めた。
 浜田によれば、「今回のベーシックは情報処理事業グループで一からあらたに書き起こしたもので、開発にあたっては電子デバイス事業グループの渡辺たちからはいっさい情報は得ていない」という。「確かに互換性を取るために仕様は合わせているが、内部の構造はN88―BASICとは異なっており、一〇〇パーセント日本電気オリジナルの製品である」と浜田は主張した。
「そうですか。それじゃあそこのところを、確かめさせてもらいますよ」
 西は新一六ビット機の貸与を申し入れ、浜田はこの要求を受け入れた。
 サードパーティーへの貸し出しに向けて、開発チームは約五〇台のプロトタイプを用意していた。そのうちの何台かは、いずれにしろアスキーに渡る予定だった。
 マシンを引き上げた西は、すぐさま互換ベーシックの処理プログラムとN88―BASICのそれとに類似点がないか確かめるよう指示した。マイクロソフトの分析によって、コンバーターを利用してそのままN88―BASICを走らせているのではないかとの疑いは、すぐに晴れた。だが解析にあたったエンジニアからは、「中間コードの形式が一致している」との報告があった。さらにその先の、一つ一つの命令を機能させる手順の組み合わせに関しては、類似点は発見されなかった。彼らは確かに、マイクロソフトのものとはまったく別個のアルゴリズムを使っていた。
 だが中間コードが一致している以上、互換ベーシックの開発にあたって日本電気側がリバースエンジニアリングを用いたことだけは間違いのない事実だった。そもそも彼らの互換ベーシックが従来のものとファイルの互換性を備えていること自体、彼らがこの手法を用いたことの証だった。
 ではどうするのか。
 エンジニアの分析結果を前にして、西は考えていた。
 
 もしも西がパーソナルコンピューターのメーカーのトップであったなら、著作権の侵害の有無をめぐって徹底的に争うという選択もあった。
 最終的な内部構造が異なっている以上、日本電気は権利侵害はいっさいないと主張するに違いない。ただし、こうした手法が互換ソフトウエアの開発にあたってどこまで許されるかに関して、明文化された規定が存在していない現状では、法廷で充分やり合うことはできる。
 その際は、中間コードの類似を著作権侵害の証拠として持ち出すことも可能だろう。プログラムに規則的な変換をかけただけのトークンコードに対しては、互換ベーシックを書こうとすれば確かに完全に合わせる以外に手はない。この点を突いて、日本電気側は「トークンコードは外部仕様に属する」と主張するのだろう。だがいずれにしても、争うことだけはできる。加えて同じ日本電気の渡辺和也のチームにベーシックを供給する際、オブジェクトコードの使用権だけを与えるとしてきたことも争点となしうるだろう。
 確認を求めると渡辺和也も後藤富雄も、「情報提供はまったく行っていない」と断言してみせた。ただし法廷で争う気なら、浜田俊三のチームに「半導体から情報を受け取っていないという具体的な証拠を示せ」と迫る手もあった。
 こうして争った挙げ句、最終的に「権利侵害はなかった」と結論づけられたとしても、情報処理事業グループが初めて送り出してくるパーソナルコンピューターの出鼻をくじき、ユーザーに購入をためらわせる効果は十二分に発揮できるのだ。
 だが基本ソフトウエアをメーカーに売り込む立場の西にとって、情報処理事業グループの一六ビット機が失敗すること自体には、何のメリットもなかった。これまで緊密なパートナーシップを保って日本市場の開拓に協力してきた電子デバイス事業グループとの関係に、日本電気の新しいグループの参入が間違いなく影響を与える以上、今後の舵取りにあたって考慮すべき点は出てくるだろう。ただしこの市場に新しい勢力が出てくることは、彼らがマイクロソフトから基本ソフトウエアを調達する限りにおいては歓迎すべき事態だった。
 突き詰めれば問題は、彼らがベーシックを西から買わなかったという一点だった。
 もう一つ懸念があるとすれば、一六ビット機のものはGWベーシックに統一し、互換性の基盤として機能させるというマイクロソフトの方向付けにはずれたマシンが誕生してしまうことだった。だが事ここにいたっては、互換性の輪からはずれる点には目をつぶらざるをえなかった。
「妥協できないのは買わないことだけだ」
 西はそう結論づけた。
 九月、著作権侵害に対する疑念を水面下で充分にぶつけてから、西は浜田に提案を持ちかけた。
 今後情報処理事業グループは、互換ベーシックのライセンス料に相当する金額のマイクロソフト製品を、別個に購入する。著作権の表示には、マイクロソフトと日本電気の両社名を併記する。この条件を受け入れる限り、マイクロソフトは今回の互換ベーシックに関して著作権の侵害を問わない。
 浜田はこの提案を受け入れた。
 一九八二(昭和五十七)年十月十三日、情報処理事業グループはPC―9801と名付けた初めてのパーソナルコンピューターの発表に踏み切った。
 マイクロコンピューターは五Mヘルツ版の8086。標準で一二八Kバイト搭載したメモリーを、六四〇Kバイトまで拡張できること、GDCの採用によってカラーのグラフィックスを高速で処理できることに加えて、PC―8001やPC―8801と互換性を持つベーシックの採用によって、従来機のソフトウエア資産を活用できることが、新機種の特長として謳われた。ROMに収められたN88―BASIC(86)はPC―8801に用いられたN88―BASICと互換。加えてPC―8001に用いられたN―BASICと互換のN―BASIC(86)が、カセットテープによって供給されることとなった。
 報道関係者に配布された資料には特に、「N―BASIC(86)、N88―BASIC(86)は日本電気株式会社が作成したものである」と注記してあった。

過去を継ぐもの
PC―9801の誕生


 PC―9801の発表の翌日、製品計画ワーキンググループのチーフを務めた小澤昇は、地味なスーツとネクタイがむしろ浮き上がって見える南青山のしゃれた通りを、マシンを収めた大きな段ボール箱を抱えて歩いていた。
 地図を頼りに目指したのは、雑誌『ASCII』の編集部だった。
 浜田俊三はPC―9801の発表を前にして、マスコミへの対応というあらたな役割を小澤に指示した。新しいマシンの素晴らしさを最大の説得力をもって訴えることができるのは、企画にあたった当の本人だろう。それも関連の雑誌や新聞からの問い合わせを待つのではなく、こちらから説明に出向けと指示されて、発表の翌日、小澤がまず訪ねたのがこれまでまったく面識のなかった『ASCII』だった。
 対応には編集部の渡部信彦が出た。
 やせぎすで口ひげをたたえた渡部は間違いなく若くはあったのだろうが、眼鏡の奥にたたえた眼差しには小澤をすくませるような鋭い色があった。一方、ネクタイにスーツで編集部に飛び込んできた小澤は、この世界に棲む渡部にとっては得体の知れない闖入者だった。資料を開いてPC―9801の説明を始めると、しばらくはスペックに目を走らせていた渡部が、「動かしてみましょうか」と小澤をさえぎり、段ボールから取り出したマシンにモニターをつなぎはじめた。
 手早く接続を終えて電源を入れ、ベーシックが立ち上がると、渡部は勢いよくプログラムを叩き込みはじめた。ある特定の処理をマシンが何秒で終えるかを目安に性能を判定する、ベンチマークテスト用のプログラムだったのだろう。何本かプログラムを入れなおしてはそのたびごとに処理に要した時間をメモしていた渡部は、腰を浮かせるたびに少しずつ浅くかけなおしていった。
「速いですね」
 振り返って背中からのぞき込んでいる小澤と視線を交わした渡部は、この日初めてにこやかな表情を浮かべた。
 小澤はあらためてIBM PCやマルチ16が採用した8088ではなく、純粋な一六ビットの8086を採用したことと、グラフィックスの処理を高速化するGDCを搭載したことの効果を強調しようと身構えた。だが一瞬小澤ににこやかな視線を投げた渡部はすぐさまPC―9801に向き直り、集まってきた編集部の長髪族と今度はマシンの分解に取りかかった。
 これまで小澤が生きてきたオフィスコンピューターの世界では、マシンはユーザーにとっても業界誌や新聞の記者にとっても、完全なブラックボックスだった。彼らが関心を持ったのは、価格であり、アプリケーションの品揃えであり、メインテナンスの面倒見であり、せいぜいが使い勝手と外側から見た限りでの機能だった。マシンの内側は、完全にメーカーの領分だった。だが手作りシステムや組み立てキットからスタートしたこの世界には、パーソナルコンピューターが実用の道具となりはじめたこの時期にいたってもなお、マシンをブラックボックスとして放置しない気概が息づいていた。ベーシックという一つの言語を標準的に共有し、しかもほとんどが同じマイクロソフトのものを採用しているこの環境では、使う側が異なったメーカーのマシンの性能を一つの物差しで比べることが可能だった。
 PCサブグループからの注文から、パーソナルコンピューターを包む空気が異なったにおいにみたされていることを、小澤はこれまでも間接的には感じとってきた。だが直接新しい世界に飛び込んではじめて出会った『ASCII』の編集者たちは、あらためて情報処理事業グループが異なった文化圏に足を踏み入れたことを小澤に痛感させた。
『ASCII』には、新機種を徹底的に解剖して紹介するロードテストと名付けた連載があった。読者の人気を集めているこのページでどう評価されるかは、小澤にとって大きな気がかりだった。
 ロードテストでPC―9801を取り上げる際は、マシンの貸し出しや浜田俊三へのインタビューなど、全面的に協力させてもらいたいと小澤は渡部に申し出た。だがいざ掲載が本決まりになったとき、渡部から「PC―9801を構成している部品を半導体の一個一個からビス一本にいたるまで、すべて工場から一式取り寄せてほしい」と要求されたときは、彼らの徹底した細部へのこだわりと、人を人と思わない過大な要求にほとほとあきれさせられた。
 
『ASCII』の渡部信彦は、九月いっぱいをかけたテストの結果にもとづいて、マルチ16のロードテストの記事をまとめている最中に、小澤の訪問を受けた。
 渡部自身にとっても初めて使い込む一六ビット機となったマルチ16には、「八ビットからのジャンプによって確実に世代を画したマシン」との印象があった。より大きなメモリーを取り扱うことができ、処理を高速化できるという8088のメリットを生かし、マルチ16では最大で五七六Kバイトまでメモリーの拡張が可能となり、各種のベンチマークの結果にも確実に一六ビット化の成果が表われていた。
 この一六ビット機のターゲットを、三菱電機はビジネス市場に絞り込んでいた。五インチのディスクドライブを標準で組み込み、本線に据えたCP/M―86の上には八ビットで人気を集めていたCP/Mのアプリケーションに加えて、三菱電機自らが事務処理や技術計算用のさまざまなプログラムを用意していた。
 唯一渡部に抵抗があったのは、キーボードからディスプレイ、ディスクドライブにいたるまですべてを一体化したマルチ16のどでかさだった。これまでパーソナルコンピューターを見てきた渡部には、マルチ16のサイズは個人の道具の限界からはみ出しているように思えた。
 最小構成で七三万円、本格的に日本語を使うとなると一五〇万円を超える価格も、個人の道具の枠にはおさまっていなかった。ただし、八〇年代のOA市場でしのぎを削ることになるオフィスコンピューターと比較すれば、マルチ16はそれでも圧倒的に小型、安価であり、充分対抗しうる性能を備えていると思えた。渡部がこれまで親しんできたパーソナルコンピューターとは目指す世界を異にするものの、マルチ16は確実な競争力を備えた小規模ビジネス用のコンピューターだった。
 一方小澤が持ち込んできたPC―9801は、これまでのパーソナルコンピューターの進化の道筋に沿ったまま、一六ビット化によって一歩階段を上ったマシンだった。オフィスコンピューターのライバルよりはむしろ、速いPC―8801がこのマシンの本質に思えた。
 価格はPC―8801の二二万八〇〇〇円に対して二九万八〇〇〇円。PC―8801やPC―8001と互換性を持ったベーシックを備え、これまでのアプリケーションをより速く動かせるほか、周辺機器も従来のものを引き継ぐことができた。マルチ16が標準で持っていたディスクドライブはオプションにまわされていたが、PC―8801を引き継いだスタイルには違和感がなかった。
 しかも各社のマシンを集めてベンチマークを行ってみると、一六ビット機としては思い切って低めの価格設定を行ったPC―9801が、居並ぶマシンの中でも抜群の数値を叩き出した。特にGDCを生かしたグラフィックスの処理速度に関しては、PC―9801は他を圧していた。しかも自社の八ビット機用に書かれたベーシックのプログラムを、一六ビット環境で高速で走らせることができたのは、唯一PC―9801だけだった。
 富士通のFM―11は、ベンチマークで唯一PC―9801と肩を並べる高速のマシンだった。だが八ビットからのプログラムの継承に関して、FM―11はPC―9801のようなシンプルな解決策を提供できてはいなかった。
 八ビットではモトローラの68系を採用した富士通は、インテルの8088を採用したFM―11に一六ビットの互換ベーシックを持たせることができなかった。代わってFM―11は、一六ビットの8088と八ビットの68B09Eという二つのCPUを本体に組み込むことで、継承性の問題をすり抜けようとした。高速のFM―11も、従来のベーシックのプログラムを動かすときは、もう一つのCPUを使って八ビット機として動いた。PC―9801以外のほとんどのマシンは一六ビット用にはGWベーシックを採用し、八ビットのプログラムを生かすという観点では、変換用のプログラムを通して修正して使ってもらうという形をとっていた。
 マシンそのものの性能に加えて、情報処理事業グループのPC―9801にかける強い意気込みを渡部があらためて感じとったのは、ロードテストの特集に際して小澤が見せた熱意だった。PC―9801に使われているパーツを一つ残らず工場から取り寄せてほしいと注文はしたものの、本当にネジ一本にいたるすべての部品が編集部に送られてくるとは、正直渡部は予測していなかった。
『ASCII』の目玉記事であるロードテストを渡部は長く担当し続けたが、「すべての部品を取り寄せろ」との無理難題に応えたのは、最初で最後、唯一小澤のみだった。
 送り届けられたすべてのパーツを分類した写真で特集の最後の見開きを飾ったあと、渡部は一ページ用意した総合評価欄で、「八ビットマシンの限界がPC―8801だとすればPC―9801は一六ビットのマシンのスタートラインを確かに通過した存在である」と位置づけた。
「PC―8001、PC―8801とのBASICレベルでのコンパチビリティーも大きなメリットの一つとなるだろう。PC―8001からPC―8801、さらにPC―9801とシステムをグレードアップしているユーザーが多いのもこういった理由による物であろう。システムをグレードアップする場合、従来のソフトウエアが継承できるということにより、ユーザーは安心してシステムを導入でき、また、将来新しいシステムが発売されても容易にシステム移行が可能となる」(『ASCII』一九八三年四月号)
 そう書いた時点で、渡部はPC―9801の成功に確信を抱きはじめていた。
 
 PC―9801の出荷が始まった一九八二(昭和五十七)年の十月末、アプリケーションの準備を担当していた早水潔は、思いもかけなかったハードルがもう一つ行く手に控えていることに初めて気付かされた。
 発表時点で六〇本、出荷開始時には一〇〇本を加え、つごう一六〇本のアプリケーションをそろえるという目標の達成のために、この年の秋、早水はサードパーティー各社を繰り返し訪ねては作業の進捗状況を確認していった。
 九月初頭から合計約五〇台配布した発表前のマシン上で、早水の目論見から遅れはしたものの、各社は開発作業を進めつつあった。PC―9801発表直後のデータショウでは、目標には達しなかったが、かなりの数のアプリケーションをデモンストレーションすることができた。
 だが、開発を終えたプログラムを商品としてショップの店頭に並べるまでには、予想していなかった数多くの煩雑な作業が控えていた。商品化に向けた仕上げに要する時間は、早水の予定表にはほとんど組み込まれていなかった。
 従来のオフィスコンピューター用アプリケーションなら、プログラムが開発できれば作業はほとんど完了だった。単価の高いオフィスコンピューター用では、ユーザーに使い方を理解してもらうために人員を派遣することができた。簡単な手引きをもとにまず使いはじめてもらい、必要に応じて繰り返し説明することも可能だった。
 ところが単価の低いパーソナルコンピューター用では、使い方の説明のために人を派遣するなどとうてい考えられなかった。ユーザーに自力で使い方をマスターしてもらうためには、懇切丁寧なマニュアルをあらかじめ用意しておかざるをえなかった。
 さらに流通ルートに乗せてショップの店頭に並べるためには、あらかじめかなりの本数のパッケージを用意しておく必要があった。だが大半がマンションの一室にマシンを並べただけの開発元は、フロッピーディスクやカセットへのコピーを大量にこなす設備など持っておらず、こうした作業を専門にこなす業者も存在していなかった。わかりやすいマニュアルを書くための専門スタッフの養成が欠かせないという意識そのものが希薄な当時、かき集めたライターと開発者自身による効率の悪い共同執筆作業は、時間ばかりを食って満足な原稿を生み出せなかった。さらにでき上がった原稿は従来どおりの印刷工程に乗せざるをえないために、そこでもまたたっぷり時間が費やされた。プログラムの開発が完了したと聞かされてから実際に製品が仕上がるまでに、あっと言う間に二か月、三か月が過ぎていった。
 翌一九八三(昭和五十八)年一月、早水はサードパーティーからの情報をもとに、PC―9801用に開発されたアプリケーションを網羅した『ソフトウエア一覧』と名付けた小冊子をまとめた。のちに『アプリケーション情報』と改題され、電話帳並みに膨れ上がってPC―9801用ソフト資産の厚みを誇示することになるこの冊子の編集中には、予想外のうれしいニュースも飛び込んできた。
 事前にはまったく働きかけを行っていなかったアイ企画と名乗る大阪のソフトハウスが、PC―8801用に売り出していた日本語ワードプロセッサーの文筆を、あっと言う間にPC―9801に載せ替えて売り出した。ただし全体として見れば、いつになったら開発に着手できるか見当のつかないものも含め、四四社のサードパーティーに可能な限りリストアップしてもらった全二六九本のアプリケーションのうち、「発売中」と表記できたものは九四本にとどまった。
 年間七万台の販売を予定したPC―9801は、当初好調な滑り出しを見せた。
 パーソナルコンピューターの販売店や一部のオフィスコンピューターのディーラーが積極的な仕入れを行い、出荷開始直後は注文をさばききれない事態となった。
 PCサブグループの後藤たちが一〇〇〇を表わすKの単位で月間の出荷台数に言及するたびに、N―10プロジェクトの小澤や早水たちはオフィスコンピューターとのあまりの規模の違いに唾の湧き上がってくるような緊張を覚えさせられてきた。だが出荷開始直後、PC―9801は月間一万台を上回るペースで出荷されていった。
 そのPC―9801の当初の勢いが、皮肉にも早水の『ソフトウエア一覧』が刷り上がった一九八三(昭和五十八)年の一月には陰りはじめていた。これまで日本電気の八ビット機を使ってきたユーザーの中で、マニアックな層はより速いPC―8801を求めていち早くPC―9801に飛びついてくれた。ただし本来のターゲットである本格的なビジネス市場の開拓には弾みがつかず、三月の決算期を前にして、在庫を抱えたショップやディーラーからは不満の声があがりはじめた。
 年度末までの集計で、PC―9801は月間一万台に近い四万五〇〇〇台の出荷を記録した。とはいうもののこの時期、流通段階にプールされた在庫がかなりの数に上っていることを、浜田は販売ルートからの苦情によって知らされていた。
 
 PC―9801用のアプリケーションを、一本でも多く、一日でも早くショップの店頭に並べるよう浜田から繰り返し厳しく尻を叩かれた早水は、年開けからサードパーティー行脚にいっそうの拍車をかけていた。他機種用に新しいアプリケーションが書かれると、即座に開発元を訪ねてPC―9801への移植を頼み込んだ。
 マンションの一室でのたこ部屋作業に明け暮れる若者たちを励まし、製品の出荷にこぎ着けるために、ほとんどが一世代下の社長たちにあれこれと手を貸した成果は、春が過ぎてからようやく実りはじめた。ショップの店頭には、従来の八ビット機用と並んで、PC―9801用と銘打ったパッケージがそろいはじめた。
 サードパーティーによるパッケージの量と質が、PC―9801の成否の鍵を握ると信じた浜田は、広告にもあらたな試みを持ち込んだ。直接には取り引きも資本関係もない他社の製品である対応アプリケーションを、日本電気が費用を負担する新聞広告で、開発元のソフトハウス名入りで紹介してみた。
 広告の重要性は、スピンライターとアストラの売り込みを図った際、アメリカのディーラーから繰り返し指摘されていた。PCの売り込みにあたって、チャップリンのキャラクターを使ってIBMが展開した一大テレビ広告キャンペーンの威力については、関係者から何度となく聞かされた。
 PC―9801の発表当初、パーソナルコンピュータ販売推進本部にはテレビコマーシャルを打つ広告費などとても確保できなかった。そこで、自社の広告を使ってサードパーティーのアプリケーションを紹介したその一方で、浜田は早水に指示して、ソフトハウスの広告に「PC―9801対応」を明記してくれるよう働きかけた★。

★広告の載った雑誌の発行部数と「PC―9801対応」を謳ってくれた頁数を掛け合わせた〈露出計数〉は、パーソナルコンピュータ推進本部において月ごとに集計されていた。この数字を積み増すことを目指して、ソフトハウスへの依頼は、組織的に徹底して繰り返された。浜田俊三が本部長の職を離れる一九八五(昭和六十)年七月段階で、計数は月間八〇〇万頁に達していた。

 このころまでに、早水はPC―9801用にアプリケーションを書いているすべてのソフトハウスのすべての社員の顔と名前とを記憶するようになっていた。加えて早水は、徹底的に支援するべき伸びるソフトハウスをかぎわける嗅覚をつかんだ。
 ポイントは、キーマン三人の存在の有無に思えた。ソフトの開発に力を持った技術者が一人と、営業の前面に立つ人物が一人。加えて裏方として会社を支えるまとめ役が一人、つごう三人の核となる人材がそろっていれば、借りているマンションの部屋がいかに狭かろうと、会社らしい体裁を欠いていようと、ソフトハウスには勢いがあった。
 繰り返し訪れる早水に、顔なじみとなったソフトハウスのスタッフも率直にマシンへの注文を口にするようになった。
 ベーシックのバグに加えて、彼らが口をそろえて指摘したのが、漢字への対応が徹底を欠いている点だった。PC―9801は漢字のフォントを収めたROMをオプション扱いとしており、二四×二四ドットで正しい字形を高速で打ち出せる漢字プリンターも用意されていなかった。
 PC―9801用のソフトウエアを何に収めて供給すべきかという点も、サードパーティーには頭の痛い要素だった。標準でドライブを備えていないPC―9801用では、八インチもしくは五インチのフロッピーディスクに収めるか、カセットテープで提供するか、あるいはすべてのタイプを用意するかを選ばざるをえなかった。
 ROMに収めて機械に組み込んだN88―BASIC(86)と必要に応じてフロッピーディスクから読み込む形をとったN―BASIC(86)、加えてCP/M―86を、古山たちはマシンの出荷に間に合わせた。その後もベーシックのバグが発見されるたびに彼らは身の縮む思いを味わいながら手直しに努め、製造責任者の叱責に身をさらしてそのたびにROMの焼きなおしを求めた。
 その一方で五月、古山のセクションは移植作業を進めていたMS―DOS1・25版の発売にこぎ着けた。
 PC―9801の発表直前、互換ベーシックをめぐって激しいやりとりを演じた後、西和彦と浜田俊三のあいだにはむしろ通りのよいパイプがつながっていた。
 西はMS―DOSを日本でも一六ビットの標準OSに押し上げるために、利用できる力はすべて利用したかった。一方アメリカ市場においてIBM PCの勢力がますます拡大する中で、浜田は当初本命と見ていたCP/M―86ではなく、MS―DOSの勝利を確信するにいたっていた。
 この年の三月、IBMは一〇Mバイトのハードディスクを内蔵したPCシリーズの新機種、XTの発表を行った。
 ハードディスクによって大量の情報の蓄積に備えたこのマシン向けに、マイクロソフトはファイルの管理を階層化してすっきりとデータを管理できるよう工夫した、MS―DOSの新バージョン2・0を開発していた。
 浜田はPC―9801の新機種向けにMS―DOS2・0の移植を最優先事項として進める方針を示した。
 日本電気への入社直後、大型コンピューター用のプリンター開発を担当した小澤は、本格的な漢字プリンターを用意しておかなかったことを、PC―9801の弱点として強く意識していた。「漢字プリンターを欠いたPC―9801向けに漢字をサポートするアプリケーションは書きにくい」との声を早水経由で聞かされた小澤は、さっそく製品企画を練って、この年の五月には縦横二四ドットの漢字を横一三六文字打ち出すことができるPC―PR201を、二九万八〇〇〇円という当時としては破格の値段で発売するところまでこぎ着けた。
 一九八三(昭和五十八)年春、販売店の店頭にようやくアプリケーションがそろいはじめ、市場に送り出した低価格の漢字プリンターが高い評価を得た時点で、浜田俊三はPC―9801の成功を確信するようになっていた。
 漢字ROMの標準化やドライブの標準装備、OSの利用に対応するためのメモリーの拡張など、強化すべきポイントは数多く残されていた。
 さらにサードパーティーに開発を仰ぐアプリケーションの領域でも、すぐにでも埋めるべき大きな穴が残っていることを、浜田は意識していた。互換ベーシックによってPC―9801が資産の継承を図ったPC―8801は、ビジネスに半歩足を踏み出したとはいえ、実体においてはゲームマシンの性格が強かった。PC―9801が継承した資産の大半は、ゲームだった。PC―9801を、本格的な汎用ビジネス機という本来のターゲットに引き寄せていくためには、表計算やワードプロセッサーなどのビジネス分野に、決定的な吸引力を備えたソフトウエアを生み出していくことが不可欠だった。
 
 この年の一月、ロータスディベロップメントが発売を開始した表計算ソフトの1―2―3は、再計算速度の飛び抜けた速さとデータベース、グラフ作成に関する豊富な機能で、先行したマイクロソフトのマルチプランを一気に抜き去っていた。
 小型コンピューターに関するコンサルティングを行っていたフューチャーコンピューティング社のポーシャ・アイザックソンが発行していたニューズレターは、アメリカで起こりつつあるパーソナルコンピューター革命の流れを読むうえで、浜田にとっての格好のガイドブックとなってきた。
 一連のニューズレターの記事は、1―2―3がPCとMS―DOSによるコンビの勝利を決定づける「キラーアプリケーション」となるだろうと予測していた。
 PC―9801はいまだ、PCにとっての1―2―3に相当するキラーアプリケーションを欠いていた。この穴を埋めなければ、PC―9801は汎用のビジネスマシンという本来のゴールに到達できないことを浜田は意識していた。
 だがその一方で視線を日本市場に据えれば、PC―9801という名のロケットが打ち上げに成功したこともまた、浜田の目には明らかだった。店頭における売り上げ台数では、PC―9801は性格においても価格設定においてもオフィスコンピューターの色を強く帯びたマルチ16を、まったく問題にしなかった。PC―9801を追って東芝が一九八三(昭和五十八)年の二月から出荷を開始したパソピア16は、当初からMS―DOSで動かすことを想定した意欲的なマシンで、機能的にも高い水準を達成しながら低めの価格に抑えられていた。だが先行する八ビット機のソフト資産が乏しかったうえに、MS―DOS上で使うGWベーシック用に変換するという手続きをとってもなお、すべての八ビットの資産を利用することができなかった点は、パソピア16の足を引っ張った。
 この年の五月、MS―DOS1・25の出荷開始を目前に控えてアメリカに出張した時点で、浜田俊三は悪戦苦闘の末に古山良二たちが間に合わせてくれた互換ベーシックの重みを、あらためて痛感していた。
 日米の状況に数年の時間差があることを踏まえれば、互換ベーシックによる初戦の勝利の勢いをかって、今後キラーアプリケーションを確保していくことは充分可能と読めた。
 直接の用向きだったアストラのマーケティングに関する仕事を片付けたあと、浜田は出張先のNECISがあったボストン近郊のレキシントン近くに新しく作られた、パソコンショップを訪ねた。これまでも出張のたびごとに、浜田はいろいろなショップを覗いてきた。だが流通大手のシアーズローバックが展開しはじめたシアーズビジネスセンターは、従来のパパママストアー的なショップとははっきりと一線を画し、IBM PCやUNIXの載ったマシンを並べて明確にビジネスを志向していた。
 店のスタッフに声をかけて店舗の性格付けやユーザーからの手応えをたずねてみると、じつにしっかりとした答えが返ってきた。そこで「あなた自身はどのようなバックグラウンドを持っているのか」と問うと、「これまでは企業のデータ処理部門でメインフレームのおもりをしてきたのだけれど、将来は必ずパーソナルレベルでコンピューターが使われるようになると思って、ここの店長になった」のだという。
 しばらく彼と話し込み、あらためて一六ビットの業務用ソフトが盛んに使われているアメリカの状況に強く印象づけられた浜田は、目に付いた『CP/M入門(CP/M PRIMER)』という本を買い求めて店を出た。

プロジェクトリーダーを襲った
PC―9801失速の恐怖


 いったんニューヨークまで飛んで乗りかえた成田を目指す帰りの飛行機の座席で、浜田は『CP/M入門』に読みふけっていた。
 まず目を引き付けられたのは、巻末に掲載されたCP/M対応アプリケーションの一覧だった。注釈は「かなり広範なものとはいえ、CP/M互換のプログラム全体からすればごく限られたものにすぎない」と断っていた。だがリストには、そっくりそのままPC―9801用に移し替えたいような業務用のソフトウエアがずらりと顔をそろえていた。
 会計用のアプリケーションには汎用のもののほか、総勘定元帳、賃金台帳、支払勘定、受取勘定、在庫表、受注、現金支払い、現金受け取り、個別原価計算、固定資産勘定などじつに細かな分野にまで踏み込んだ専門性の高い製品が並んでいた。一般用のアプリケーションに関しても、データベースやテキストエディター、ワードプロセッサーがそろっているのはもちろんのこと、郵便の宛名管理リストなど、いかにも仕事の道具として役立ちそうなものが並んでいる。医療や法律関係、学校関係、果てはゴルフクラブにいたるさまざまな業種用のアプリケーションが書きためられており、ユーティリティーやプログラム開発用のシステム、言語などにもずらりと豊富なメニューがそろっていた。
 浜田はふと気になって、表紙を見返してみた。
『CP/M入門』で『CP/M―86入門』ではない。
 すでにアメリカでは、八ビットの時代からOSへの移行が現実のものとなっており、さまざまな業種、業務をカバーした専門性の高いビジネスアプリケーションが使いこなされてきた事実を、浜田はあらためて突きつけられた。CP/Mとの互換性を売り物にしたMS―DOSがこれまでの業務用ソフト資産を引き継ぎ、さらに1―2―3のような新世代の一六ビット版が加わってPCがさまざまなビジネスの場で使われていくことは、ビジネスセンターの店長の予言を待つまでもなく明らかだった。
 あらためてリストを視線で追いはじめた浜田は、PC―9801用のアプリケーションを総ざらいした『ソフトウエア一覧』を思い返さざるをえなかった。
「新一六ビット機の成否の鍵は、いつにアプリケーションが握っている。サードパーティーの開発意欲を全力を挙げて引き出せ」と早水に指示した成果は、まずこの小冊子にまとめ上げられた。だが個別の業種、業務に対応していくきめの細かさにおいて、CP/MのアプリケーションとPC―9801用のそれとでは、大きな差があった。
 さらに汎用性の高いワードプロセッサーや表計算といった分野でも、日米のアプリケーションには質的な差が生じつつあった。PC―9801用の製品は、CP/M―86対応として掲載したごく一部を除いては、ほとんどすべてがベーシックによって書かれていた。一方アメリカでは、より速いソフトウエアを書きうるOSへの移行が八ビット時代から始まっていた。
 さらに一六ビットのMS―DOS上では、あえてOSによる互換性確保の可能性を捨ててまで処理速度を高めた1―2―3がPCの勝利を確定し、このマシンの勝利によってまた自らの優位を決定づけようとしていた。
 すべての資産は、OSの上に積み上げられていた。そしてさらなる熾烈な競争もまた、OSの上で繰り広げられようとしていた。
 浜田の胸に小さな闇が宿ったのは、CP/Mのプログラムリストとポーシャ・アイザクソンのニューズレターの記述を結びつけたこの瞬間だった。
 精神にみなぎる積極的な波動をすさまじい勢いで呑み込みながら、みるみる闇が胸をふさぎはじめる感覚に、浜田は思わず身をすくませた。
「PC―9801は失速する」
 晴天の彼方を目指して打ち上げられたロケットがふいに機首を傾け、ふらふらとさまよった挙げ句、爆発する情景が、ビデオテープの映像のように浜田の脳裏で反復しはじめた。
「このままではPC―9801はOSへと脱皮できない」
 底の知れない恐怖心に理性の網をかぶせた瞬間、浜田はPC―9801の最大の敵を自覚して慄然となった。
 マルチ16でも、パソピア16でもない。他社の繰り出してくるどんなマシンよりもはるかに強力な敵が、PC―9801の行く手には控えていた。
 PC―9801の命脈を絶ちかねない最大の敵は、PC―9801の筺体の中にこそ潜んでいたのだ。
 その正体がN88―BASIC(86)であることを、浜田は心のたがを震わせながら自覚した。
 古山良二が心血を注いで書き上げ、西との激しいやりとりを経てかろうじて発表にこぎ着け、PC―9801に初戦の勝利をもたらした互換ベーシックを、浜田俊三はそのとき、打ち壊すべき強固なる壁と意識した。
 最強の敵は、我が身中にあった。
 PC―9801を生んだ浜田俊三は、この瞬間からPC―9801を恐れ、同時にPC―9801の再生へのシナリオを模索しはじめた。
 手がかりは、彼の恐怖に火をつけた『CP/M入門』の中にあった。
 巨大な黒い波のように押し寄せてきた恐怖感を追って、厚い雲の小さな裂け目を抜けて一筋の光が差し込んできた。
 暗雲が再び空を閉ざしきってしまうのを恐れるように、浜田は『CP/M入門』のページをてぜわしくめくった。網膜に残っていた一枚の図にたどり着いた浜田は、息を呑んで紙面を凝視した。
 十数時間の飛行機の旅は、この日の浜田にとって長すぎることはなかった。

    

    

第二部 第五章 人ひとりのコンピューターは大型の亜流にあらず
一九八〇 もう一人の電子少年の復活

 西和彦がまぎれもない同志であることは承知していても、松本吉彦は西のように生きたいと思ったことはない。
 同じ方角の彼方にゴールを据え、同じ時期、同じ早いピッチで泳ぎはじめた西の立てる水しぶきを、松本は常に感じながら泳ぎ続けてきた。だが遠いあの日、泳ぎはじめて間もない時期にその存在に気付いた自らと西の進路を隔てるコースロープは、どこまで行っても途切れることはなかった。
 遠い目標はおそらく、共有し続けてきたのだろう。
 だがコースロープ一本が隔てる西のコースは、松本にとって遠かった。
 もしもアップルコンピュータの創業に立ち会っていれば、西和彦はスティーブン・ジョブズの役割をになうことができたろう。一九五〇年代の前半、のちにシリコンバレーと呼ばれるカリフォルニア州のサンタクララバレーあたりに生まれ、この地域で特異的に大気中の濃度を高めていったエレクトロニクスの気を吸って育っていれば、西は間違いなくパーソナルコンピューターに関連した会社を起こしていただろう。内に向かっては組織を率いるリーダーシップを発揮し、外に向かっては「パーソナルコンピューターとは何なのか」との問いに答える理念を押し立てて、新しいテクノロジーのイデオローグとして振る舞ったはずだ。もしも偶然が、西を記念碑的な手作りのアップルIと出合わせていれば、個人のためのコンピューターを囃すジョブズの出番はなかったかもしれない。
 西和彦というパートナーを得て、なおいっそう大きくはばたいたマイクロソフトのビル・ゲイツは、言語の開発に閃きを発揮した天才的なプログラマーだった。だがもう一面でゲイツもまた、デジタルの調べを奏でて人々をディスプレイの世界へと導く、新世代のハメルンの笛吹きとなることをいとわなかった。
 だがアップルのもう一人の創業者であるスティーブン・ウォズニアックは、言葉の魔法で人々の心をつかむことには何の関心も持たなかった。自分たちの会社がどれだけの売り上げを残し、どれほどの利益を上げるかに、彼は継続して関心を抱くことができなかった。
 ウォズニアックのメッセージはすべて、彼自身の頭脳が紡ぎ出した技術の中に込められていた。
 経歴をたどりなおせば、驚くほどウォズニアックの歩みと重なり合う松本吉彦にとっても、心から楽しむことができたのは技術をふるい、新しいアイディアを盛り込んでなにかを作り上げることだけだった。
 マイクロコンピューターの登場は絶好の遊び場を用意し、パーソナルコンピューターの目のくらむような台頭は彼らの作品に大きな金銭的見返りを与えてくれた。だが、スティーブン・ウォズニアックと松本吉彦がともに心の底から愛したのは、エレクトロニクスの魔法を演じてみせることだけだった。
 ウォズニアックの創造力は、ジョブズのビジョンという外衣を得て、パーソナルコンピューターのイメージを確立させたアップルIIに結実した。
 一方、京都セラミツクの稲盛和夫との出会いをきっかけに、明日のパーソナルコンピューターと信じるアルトの子供の可能性を検討しはじめたその段階から、西和彦は常に彼にとってのウォズニアックとなる人物を念頭に置いていた。
 開発の主体は日本電気の電子デバイス事業グループ。生産は京都セラミツクがにない、マイクロソフトが基本ソフトを提供するという布陣を念頭に置いた西は、もう一人ハードウエア設計の核となるエレクトロニクスの申し子を、プロジェクトを支える重要なこまとして想定していた。
 物を作る喜びは、西にとってのウォズニアックたる松本吉彦を、いったんは彼のもとから立ち去らせていた。だが未来を開くマシンをこの手で作り上げようと持ちかければ、創造の快楽の奴隷である松本がこの試みに全力で没頭するだろうことは、西にとって疑いの余地がなかった。

電子少年ウォズニアック
アップルIIを創る


 一九五〇年八月、スティーブン・ウォズニアックは、カリフォルニア工科大学で電気工学を専攻したエンジニア、ジュリー・ウォズニアックの長男として生まれた。
 一時は独立も目指したが成功を果たせなかった父は、西海岸の航空宇宙関連企業を転々とし、サンタクララバレーのサニーベイルにロッキード社が新設したミサイルシステムズ事業部で、一九五八年から働きはじめた。
 当初潜水艦から発射する戦略ミサイル、ポラリスの姿勢制御システムを担当した父は、その後コンピューターを利用して集積回路の設計を行う部門、人工衛星関連の部門など、エレクトロニクスの最先端にかかわる分野に携わり続けた。
 設計の作業が佳境に入ると、家に帰ってからも方眼紙に書き込んだ図面と首っ引きになる父のかたわらで育ったウォズニアックは、バッハ家の息子たちが代々音楽家となったように、自我の目覚めとともにエレクトロニクスに引き付けられた。
 ロッキード社の進出によって果樹園の村からハイテックの町へと変貌を遂げていたサニーベイルで、ウォズニアック家の近隣はエンジニアの家庭だらけだった。かつてエレクトロニクスの部品店を経営していた近所の変わり者は、子供たちが草むしりやペンキ塗りを手伝うと、アルバイト料代わりに電子部品をくれた。ウォズニアックは仲間のエレクトロニクスキッズたちと組んで、互いの家を手作りのインターフォンでつなぎ、電子工作に明け暮れて過ごした。ロッキードの父に電話を入れれば、トランジスターやダイオードはその日の夕方には手に入れることができた。
 小学校六年生でアマチュア無線の資格を取り、自作の通信機でコールサインを送りはじめたウォズニアックは、この時期から科学展への応募にも熱意を燃やした。
 縦横の線を引いた紙の上で、ウォズニアックは小さな頃から父を相手に三目並べを繰り返してきた。二人はあるとき、このゲームを電子化してみようと思い立った。
 父と二人でゲームのパターンを分析したウォズニアックは、三目並べマシンの設計に挑んだ。父のかき集めてきてくれた部品を、母にいやがられながらキッチンテーブルを作業台にして、はんだごて片手に組み上げた。ウォズニアックは、学校の科学展にこの三目並べマシンを出品して評判を取った。両親や教師からの賞賛は、ウォズニアックの発明への意欲をいっそう駆り立て、科学者となる希望を彼の内に育てていった。
 父はプログラミングには携わっていなかったが、ウォズニアックにコンピューターの本を買ってくれた。その中にあった、一度に一ビットだけ足し引きを行う回路に、ウォズニアックは興味を引き付けられた。これまでコンピューターがどんな原理で動くのか彼はまったく知らなかったが、この一ビット加減算器が理解できたあとは、もはや計算機は彼にとってブラックボックスではなくなった。八年生になっていたウォズニアックは、一ビット加減算器を拡張して、足し算、引き算を同時に一〇ビット単位で処理できる装置を作り上げた。クパチーノ学区の科学展にこの一〇ビット並列加減算器を出品したウォズニアックは一等を獲得し、そのあとに開かれたベイエリア科学展では、年上のライバルたちに伍して三等に食い込んだ★。

★『実録! 天才発明家』(マイクロソフトプレス/ケネス・A・ブラウン編、鶴岡雄二訳、アスキー、一九八八年)所収のスティーブン・ウォズニアックへのインタビュー。ここでシリコンバレーに育ったことの意味を問われたウォズニアックは、「子供の頃には、人生には窓みたいなものがあって、そこからちょっとしたものを手に入れるんじゃないかな。そして、そのとき手に入れたものは、生涯身近な親しい友になるんだ」と答えている。
 同書には4004の開発に際してマイクロコンピューターの基本的な概念を提出した、マーシャン・E・テッド・ホフのインタビューも収録されている。嶋正利の『マイクロコンピュータの誕生』と引き比べてこのインタビューを読むと、嶋がいかに正確に、謙虚に、淡々とこの一大発明の誕生の経緯を跡付けているかがあらためて浮き彫りになる。

 一九六三年にクパチーノに新設されたホームステッドハイスクールは、急増するハイテック企業の従業員の子弟を一手に受け入れた。この高校で、エレクトロニクスの授業を担当したジョン・マッカラムとの出会いは、ウォズニアックの傾斜にいっそう拍車をかけた。
 厳しいNASAの規準には適合できなかったものの、地上でなら充分使い物になるトランジスターを部品メーカーから大量に調達したり、電子機器メーカーから用済みとなった計測器を仕入れてきたりと、環境の特殊性を存分に生かして、マッカラムは教室の整備に努めた。エレクトロニクスキッズに系統立った理論を叩き込んだ彼は、生徒たちが持ち込んでくる手作りの機器に評価と助言を与えて応用力の育成にも努めた。ウォズニアックはマッカラムの授業を満喫し、エレクトロニクスクラブと数学クラブの部長を務め、科学展に応募しては賞をさらった。
 マッカラムはコンピューターを教えることはなかったが、ウォズニアックの興味はこの分野にも広がっていった。足し引きに加え、掛け算や割り算の機能を備えた計算機作りに取り組んでいたウォズニアックを見て、マッカラムは軍用の電子装置を作っていた会社のコンピューター室で勉強できるように、手はずを整えてくれた。下級生でやはりコンピューターに興味を持っていたアレン・ボームと、週に一度通うことになったこの部屋で出合ったIBMの1130が、ウォズニアックの初めてのマシンとなった。二人はフォートランでプログラムを書くことを覚え、パンチしたカードをリーダーに読みとらせてコンピューターを動かすチャンスを与えられた。
 コンピューターにのめり込むようになったウォズニアックとボームにとって、スタンフォード大学の線型加速器センターは情報の泉だった。二人はセンターのコンピューター室に収まっているIBMの360を見せてもらい、この施設のカード穿孔機を使うことを許された。センターの図書館にはコンピューター関係の書籍や雑誌がそろっており、土曜日と日曜日はここに入りびたるようになった。雑誌にはさみ込まれている資料請求の葉書を手当たりしだいメーカーに送って、ウォズニアックは自宅にパンフレットやマニュアルを取り寄せた。知り合いがくれた、ディジタルイクイップメント(DEC)の『スモール・コンピューター・ハンドブック』は、ウォズニアックにとって最高の教科書となった。
 
 ハイスクール時代の後半を、コンピューターの回路設計に夢中になって過ごしたウォズニアックは、父の母校であるカリフォルニア工科大学の受験に失敗し、地元のデアンザ・コミュニティー・カレッジにしばらく籍を置いたあと、一九六八年、コロラド大学に入りなおした。
 大学に籍を置いたというよりもむしろ、CDC社の6400の収まっていたコンピューター室に所属した形のウォズニアックは、書き上げたプログラムをつぎつぎとマシンに流し込んで使用時間を稼ぎはじめた。
 常にコンピューター室にたむろしては、使用時間に対応したレンタル業者の請求額をうなぎ登りに増加させるウォズニアックは、すぐに学校側に目を付けられた。退学をちらつかせてコンピューターの使用時間を制限しようとする大学側に対し、ウォズニアックは弁護士を雇って対抗したが、結局一年ほどでコロラド大学を去った。
 一九六九年、再びデアンザ・コミュニティー・カレッジに舞い戻ったウォズニアックは、テネット社という地元のミニコンピューターのメーカーで、プログラマーとして働きはじめた。もう一方でコンピューターの設計に関する勉強を独学で続けていたウォズニアックにとって、データジェネラル社のミニコンピューター、ノバ★は当時、あこがれのマシンだった。テネットが倒産して当面の仕事を失ったウォズニアックは、ノバを手本にしてコンピューターの自作を試みた。

★DECでPDP―8を設計したエドソン・デ・カストロは、同社を離れてデータジェネラルを設立し、一二ビット構成のPDP―8を一六ビット化してノバを開発した。パネルに安っぽいトグルスイッチとランプを並べたデザインは、アルテアのルーツを思わせるそっけない作りだったが、ノバは当時としてはきわめて速かった。低価格という要素も加わって、このマシンは大きな成功を収めた。アルトのハードウエアの開発にあたって、パロアルト研究所のエンジニアはノバのCPUの命令セットにもとづき、これを大幅に強化する道を選んだ。

 地の利を生かし、父や知り合いのつてを頼って部品を集めたウォズニアックは、近くに住むハイスクールの後輩のビル・フェルナンデスを引き込んで、クリームソーダ片手に数週間ぶっ続けで作業に取り組んだ。四ビットの中央処理装置を二つ組み合わせ、メモリーは二五六バイト。コンピューターとして機能する最小限のハードウエア構成で仕上げられたマシンは、クリームソーダコンピューターと名付けられた。八つのスイッチを上下させてプログラムを入力し、数字を送り込むと、マシンはランプを点滅させて計算の結果を示し、コンピューターとして確かに動いて見せた。
 フェルナンデスは作業場となった自宅のガレージに同級生のスティーブン・ジョブズを呼んで、仕上がったマシンを披露した。
 
 一九五四年二月に生まれ、ホームステッドハイスクールでジョン・マッカラムのエレクトロニクスの授業の洗礼を受けていたスティーブン・ジョブズは、自分以外にもこの世に才能を持った人間が存在していることを、クリームソーダコンピューターによって思い知らされた。
 父のポール・ジョブズは、ウィスコンシン州の農家に生まれた。高校を中退したあと、湾岸警備隊に潜り込み、第二次世界大戦後は機械工を経て自動車ローン関係の金融会社に籍を置いた。結婚したポール・ジョブズ夫妻に、スティーブンは生後間もなく養子としてもらい受けられた。父の転勤に伴って、彼は一九六一年にシリコンバレーの新興住宅地、マウンテンビューに移ってきた。
 泣き虫で学校でも友達をうまく作れないジョブズは、野球やフットボールなどの団体スポーツになじめなかった。やがて彼は水泳のクラブチームに所属して放課後をプールで過ごすようになった。ここでもなかなか仲間の輪にとけ込めなかったジョブズだったが、一〇歳を過ぎたころからエレクトロニクスに関心を抱き、近所に住むヒューレットパッカード(HP)社のエンジニアの家に押しかけては質問の雨を降らせるようになった。
 ジョブズは一二歳のとき、エンジニアが連れていってくれたHPで、初めてコンピューターに触れた。
 ホームステッドハイスクールでエレクトロニクスを担当したジョン・マッカラムにとって、スティーブン・ウォズニアックはいつまでもあざやかに記憶に残るきわめて優秀な生徒だった。一方スティーブン・ジョブズのエレクトロニクスの才能に関しては、マッカラムは曖昧な印象しか持たなかった。昔気質のマッカラムが記憶しているのは、教師の目には知ったかぶりでかたくなに映ったジョブズの表情と、彼の強引な物事の進め方だった。
 ジョブズが取りかかっている機器に、バローズ社でしか取り扱っていない部品が必要なことに気付いたマッカラムは、部品を分けてもらえないか広報にでも電話を入れてみてはどうかと彼にアドバイスした。ジョブズがコレクトコールでバローズに電話を入れ、「開発中の電子機器にバローズ製品の採用も検討したい」と称して部品を送るよう指示していた事実を知り、マッカラムはジョブズの傲慢な態度を厳しく叱責した。だがマッカラムの不興を買いはしたものの、ジョブズは望みどおり、数日のうちに航空便で送られてきた部品を手に入れた。
 ジョブズはエレクトロニクスに関する自らの天分に、絶対の自信を持っていた。だがビル・フェルナンデスに引き合わされた四つ年上のウォズニアックは、すでにコンピューターを自分の手で作り上げていた。
 ジョブズにとってウォズニアックは、自分よりもエレクトロニクスに詳しいと認めざるをえない初めての同世代の人物だった。
 年下の少年に披露したことに満足することなく、ウォズニアックはクリームソーダコンピューターに世間の注目を集めようと、地元の『サンノゼマーキュリー』紙の記者に連絡をとった。だが記者がカメラマンとともに訪ねてきた当日、故障した電源は高い電圧をかけて白煙とともに集積回路をお釈迦にした。クリームソーダコンピューターは永眠して、ウォズニアックの天才ぶりが世に知れ渡るのはもう少し遅れることになった。
 一九七一年、ウォズニアックはカリフォルニア大学バークレー校に入りなおした。初めての車を手に入れたばかりのジョブズは、寮に入ったウォズニアックをしばしば訪ねるようになった。
 バークレー校に入って間もなく、ブルーボックスという長距離電話のただがけ装置の存在を雑誌の記事で知ったウォズニアックは、今度はこれの開発に熱中した。より洗練された回路でより小さく装置を仕上げようと、電話交換技術の細部まで調べつくしたウォズニアックにとって、電卓並みのサイズでデジタル式のブルーボックスが完成した時点で、ゲームは終わっていた。
 だが、今回の作業の助手を務めたジョブズは、ブルーボックスを商売にすることを思いついた。ウォズニアックを説得したジョブズは、部品を調達して開発者を量産にあたらせ、寮の学生の部屋をノックしては訪問販売を開始した。二人は翌年、電話荒らしのヒーロー、キャプテンクランチことジョン・ドレイパーが逮捕されるまでに、二〇〇台のブルーボックスをさばいて六〇〇〇ドルを売り上げ、賢明にもこの段階で商売を切り上げた。
 だが電話交換技術の探求とブルーボックスの開発・製造に入れあげ、この間ほとんど授業に出なかったウォズニアックは、悲惨な成績表というもう一つの問題を抱えていた。一年で再び大学を去ったウォズニアックは、半導体製造装置を作っていたエレクトログラス社の組み立てラインで半年ほど働いたあと、一九七三年、友人の口利きでHPに職を得た★。

★アップルコンピュータを設立した二人のスティーブに関して記述した書籍には、『 Two Steves & Apple 』(プロデュース・センター2編著、旺文社、一九八三年)、『アメリカン・ドリーム』(マイケル・モーリッツ著、青木榮一訳、二見書房、一九八五年)、『スカリー』(ジョン・スカリー/ジョン・A・バーン著、会津泉訳、早川書房、一九八八年)、『スティーブ・ジョブズ』(ジェフリー・S・ヤング著、日暮雅通訳、JICC出版局、一九八九年)、『エデンの西』(フランク・ローズ著、渡辺敏訳、サイマル出版会、一九八九年)などがある。一九八四年とかなり早い時点で、マッキントッシュ以前までのアップルの歩みを、丹念に、生き生きと書きとめた『アメリカン・ドリーム』が刊行されたことは、その後の著作の積み上げに大きく貢献している。

 スタンフォード大学で教えていたフレデリック・ターマンは、優秀な卒業生を起業家として育て、産学協同の核として大学の周辺に配しておきたいと考えた。同校で電子工学を学んだデビット・パッカードとビル・ヒューレットは、恩師の推し進めたプログラムに乗って、一九三九年にヒューレットパッカード(HP)社を起こした。
 二人の名前のどちらを先にして社名とするかは、コインを投げて決めた。
 パロアルトの貸しガレージを根城とし、五〇〇ドルの資金を元手に測定用の音声周波数発信器の開発から出発したHPに飛躍のきっかけを与えたのは、ディズニー映画だった。映像と音のマジックを目指したアニメーション映画「ファンタジア」の制作に際して、ディズニースタジオは新しいステレオ音響システムの開発を予定していた。この作業用に、ガレージからスタートしたばかりのベンチャーの製品ながら、すぐれた性能を備えたHPの音声周波数発信器が採用された。設立の年の暮れ近くになって舞い込んだディズニーからの八台の注文と「ファンタジア」の成功は、高品質の測定器メーカーを目指したHPにとって、強い追い風となった。
 HP誕生のきっかけを作ったスタンフォード大学のフレデリック・ターマンは、その後、大学の所有する用地に会社を設立するよう卒業生に働きかけるプログラムを進めた。この試みは、シリコンバレーの形成につながっていった。
 第二次世界大戦中、ターマンは軍のレーダー探知阻止プロジェクトを担当することになり、必要となるマイクロ波発信器をHPに発注した。これをきっかけに軍需用の高性能電子測定機器を大量に受注したことで、HPは飛躍的な発展を遂げた。終戦後の一時的な落ち込みはあったものの、HPはその後、エレクトロニクス台頭の波に乗って、代表的なハイテック企業として成長を遂げていった。一九七〇年、アメリカ国内の景気は短期的ながら急激な落ち込みを経験した。この時期、同社は新規の雇用を抑え、在庫の削減に努める一方で、新しい分野に突破口を開こうと努めた。その成果が一九七二年に発表されたミニコンピューターHP3000と、同じく同年に発表された科学計算用のポケット電卓HP35だった★。

★『パソコンビジネスの巨星たち』(ティム・スキャネル著、日暮雅通訳、ソフトバンク、一九九一年)所収、第一七章HPの項。同書はソフトバンクが刊行していた『ザ・コンピュータ』誌の連載企画、「KEYMAN USA」をもとにしている。その後『マックワールド』誌に移った本間修氏が企画し、昼間はほとんど会社に顔を出すこともなくティム・スキャネル氏やテッド・ドロッタ氏の在米スタッフと密に連携をとり、ネコと戯れながら進めたこの連載にはじつに学ぶところが多かった。この仕事に関してはわが家も多少お手伝いさせていただいた経緯もあり、思い返すところも多い。『パソコンビジネスの巨星たち』はこの連載のうち、スキャネル氏の執筆分の中からメジャーどころを集め、書き下ろしを加えて構成されている。本間氏はのちに『マックワールド』でも「マッキントッシュ伝説」の企画をやり遂げているが、相手がどこにいようと話は本人のところに直接聞きに行くという姿勢は、やはりいい仕事を残す。

 ウォズニアックが配属されたのは、電卓を担当していた新製品開発事業部だった。
 ここまで高性能で高価格の製品のみを扱ってきたHPにとって、一台三九五ドルという電卓はきわめて毛色の変わった製品だった。社内にはおもちゃのような製品に手を染めることへの異論もあったが、HP35は成功を収めた。他社が低価格を武器に電卓市場に乗り出してくると、HPは機能を強化したHP80やHP45で対抗しようと試みた。ウォズニアックは、この新しい高機能電卓の開発作業を楽しんだ。
 だがHPでの作業に満足しきるには、ウォズニアックはあまりに幸福に対して貪欲だった。
 彼の関心は、突き詰めれば新しいアイディアをひねり出してこれまでになかったなにかを美しく作り上げることのみにあった。電卓の機能拡張の作業は、確かにウォズニアックを少し幸せにしてくれた。だがこの時期、時代はウォズニアックにもっと大きな幸福の種を用意してくれていた。
 
 一九七五年三月五日、サンフランシスコからサニーベイルに向かって南に下る途中のメンローパークにあった発起人の家で、ホームブルー・コンピューター・クラブの初めての集まりが持たれた。
 スタンフォード大学やカリフォルニア大学バークレー校などに貼り出された参加を呼びかけるびらには、「自分でコンピューターや端末装置、TVタイプライター、入出力装置、デジタル式の魔法の箱を作ってみませんか?」と書かれていた。クラブの初会合には、学生やエンジニア、プログラマーなど三〇名ほどがシリコンバレーの各所から集まってきた。
 その輪の中に、スティーブン・ウォズニアックもいた。
 集まってきたメンバーにとって当時の関心の的となっていたのは、マイクロコンピューターを使ってコンピューターとして動くように仕上げたシステムだった。一九七五年一月号の『ポピュラーエレクトロニクス』では、アルテア8800が大きく取り上げられていた。集まったメンバーの多くは、マイクロコンピューターが新しい世界への扉を開いてくれるだろうと直感していた。
 ミニコンピューターに精通したウォズニアックには、マシンの手作りを試みた経験もあった。だがマイクロコンピューターにはそれまで触れる機会がなく、クラブの初会合では腰の落ちつかない気分を味わわされた。8008や8080といったチップの名称は、ウォズニアックの耳にパスワードのように響いた。周囲の会話はウォズニアックにとって、ちんぷんかんぷんだった。
 だがマイクロコンピューターに関して調べはじめると、違和感はすぐに強い好奇心に変わっていった。
 クラブで話題になっていたのは、もっぱらインテルの最新のチップ、8080だった。だが、インテル以外の半導体メーカーもすでに、マイクロコンピューターの製品化に踏み切っていた。ウォズニアックが籍を置いていたHPでは、モトローラの6800を試験的に使ってみる計画が持ち上がっていた。この関連で一九七五年の夏、6800と周辺チップが破格値で社員に販売されることになった。
 ウォズニアックはこれに飛びついた。
 安く手に入ることも大きなメリットだったが、6800には技術的な魅力があった。インテルの製品は、もともと電卓用のチップとして開発された4004を原点に、端末機用に機能拡張した8008を経てから、初めて汎用部品を目指していた。こうした流れに乗った8080には、新しい用途に合わせてそのつど力づくで課題をこなしていったような筋の乱れが感じられた。一方、後発ではじめからコンピューターとしての利用を想定できたモトローラは、ミニコンピューターのCPUをチップ上に移し替える発想で6800を開発していた。6800の命令体系は、DECのPDP―8とそっくりだった。もともとミニコンピューターに経験を持っていたウォズニアックにとって、6800はすんなりとなじむことのできる、じつにコンピューターらしい構造を持ったチップだった。
 
 物理学を専攻したのちロッキードに勤めていたアレックス・カムラットは、仕事で使っていたコンピューターへの関心を膨れ上がらせて、独立のプランを思い描くようになった。
 会社をやめ、自宅を売り払って得た資金でミニコンピューターを買ったカムラットは、計算業務を請け負い、タイムシェアリングで処理能力を切り売りする商売を始めた。
 タイムシェアリングの彼の顧客は、いずれもテレタイプを通信回線の向こう側に置いていた。マイクロコンピューターの存在を知ったカムラットは、これを使えばもっと使いやすい端末が作れるのではないかと考えた。タイプライター型のキーボードを備え、テレビに接続して画面に文字が出せるような端末が安く作れれば、これを賃貸するなり販売するなりして顧客をより多く獲得できるだろう。そう考えたカムラットは、ホームブルー・コンピューター・クラブを覗いて、開発を請け負ってくれるエンジニアを探そうと考えた。
「ここに来る連中の中で、一番切れるのは誰か」
 カムラットがクラブのメンバーにそう声をかけると、「ウォズ」と答えが返ってきた。
 当初は戸惑いもあったが、コンピューターの手作りをすでに経験していたウォズニアックの〈冴え〉は、クラブでもすぐに光りはじめていた。
 一九七五年の夏、カムラットはウォズニアックを説得して、端末の開発のために新しい会社を起こした。HPに籍を置いたまま、ウォズニアックはコンピューターコンバーサー社と名付けた二人の会社のために、端末の開発に着手した。まず端末を作り、いずれこれを機能強化していけば、独立したコンピューターとしても使えるものができるのではないかと、カムラットは考えていた。
 話題の8080は、当初三五〇ドル近かった。他社の製品にも数百ドル単位の値段がついていたために、マイクロコンピューターを使って一から設計する前に、ブームを呼んだゲームマシンの「ポング」を安く仕入れてきて、これを端末に改造することを試みた。
 ポングはウォズニアックにとって、おなじみのマシンだった。
 
 ブルーボックスの商売から足を洗ったあと、スティーブン・ジョブズは一九七二年に、オレゴン州ポートランドのリードカレッジに進学していた。すぐに大学からはみ出したジョブズは一九七三年の夏をインドで過ごした。翌年のはじめには、再びインドへ行くための費用を稼ごうと、コンピューターゲームで急成長していたアタリ社の求人広告に応募した。
 囲碁の「当たり」から社名を取った同社の創設者ノーラン・ブッシュネルは、スティーブン・ジョブズの生まれる一一年前、一九四三年にユタ州に生まれた。
 貧しい煉瓦職人の子として育ったブッシュネルは、果物を売り、レモネードスタンドに立ちながら育ち、ユタ大学の工学部に進んでからは遊園地で働いて学費を稼いだ。大学でコンピューターを学ぶ一方、遊園地ではゲーム担当の支配人として一〇〇人あまりの少年たちを使う立場についたブッシュネルは、就職先としてディズニーを目指した。だがアルバイトに明け暮れた挙げ句の最悪の成績がじゃまをして果たせず、ビデオテープの開発で知られ、シリコンバレーに本拠を置いていたアンペックス社でエンジニアとして働きはじめた。
 しばらくはアンペックスの退屈な作業をこなしていたものの、やがて生来の遊び心がブッシュネルの中で頭をもたげてきた。ブッシュネルは、コンピューターゲームを小さなシステムに仕立て上げるプランに熱を入れはじめた。(『コンピュータウォリアーズ』第一章「ノーラン・ブッシュネル」)
 コンピューターで初めて遊んでやろうと考えたのは、マサチューセッツ工科大学(MIT)でジョン・マッカーシーの作業を手伝っていたハッカーたちだった。
 一九六一年、MITにDECの超小型コンピューター、PDP―1が導入された。CRTディスプレイを備え、対話型の処理に道を開いたまったく新しいイメージのマシンに、ハッカーたちは目の色を変えた。すでにこれまでにも、MITではディスプレイを備えた小規模なシステムが使われており、コンピューターの処理の結果を目に見える形で表示することの可能性に彼らは注目していた。ディスプレイ付きのPDP―1は、グラフィックスの可能性を開くさまざまな実験を試みる絶好の舞台となった。
 ハッカーの一人が取り組んだのは、二台の宇宙船を駆って画面上の宇宙空間で互いを攻撃し合うシューティングゲーム、〈スペースウォー〉の開発だった。彼の仲間たちはスペースウォーに熱狂して、マシンの空き時間を奪い合ってはゲームに興じた。さらに、正確な位置に星座を表示させたり、宇宙船の航行に星の重力による影響を加えたり、ワープの機能を与えたりといった拡張が寄ってたかって進められた。やがてこのプログラムを収めた紙テープがDECのミニコンピューターを納入した大学や企業に流れては、各所にゲーム中毒患者を発生させた。(『ハッカーズ』第一部、第三章「宇宙戦争」)
 流れていった先でも、スペースウォーにはさまざまな手直しが加えられた。
 一方ノーラン・ブッシュネルはミニコンピューターではなく、ボーリング場やビリヤード場の隅に置けるような小さなシステムにこうしたゲームを収めたいと考えた。
 一九七二年、ブッシュネルは初めての作品となる〈コンピュータースペース〉を作った。技術者仲間には評判がよかったが、初めてテレビゲームに触れる人間にはあまりにも複雑すぎた。そこで二作目では、ゲームの中身をごく単純なものにした。ポングと名付けられた次のゲームは、ディスプレイをはさんで向き合った二人のプレイヤーが玉を打ち合う、電子式の卓球だった。
 サニーベイルのビリヤード場にピンボールのマシンと並べてためしに置かせてもらうと、ポングには順番待ちの列ができ、コインボックスはたちまち硬貨でいっぱいになった。
 一九七二年、ブッシュネルはアンペックスをやめてアタリを起こし、ポングのゲーム機械を売りまくった。さらに一九七五年には、テレビにつないで使う家庭用のポングの販売に踏み切った。
 ボーリング場でポングを見かけて以来、ウォズニアックもこのゲームに入れあげていた。やがて彼はアタリで働いていたジョブズに誘われて、工場のマシンでただで遊ばせてもらうようになった。ゲームにはまるにとどまらず、ウォズニアックはポングの改良にも興味を持って、自分なりに作り直してもみた。自作したポングをアタリで披露すると、こっちに移って働かないかとの申し入れがあった。だがこの時点では、HPを離れる気にはならなかった。
 ブッシュネルはポングに続く新しいゲームの候補の一つとして、跳ね返ってくるボールを打ち返しながらブロックの壁を崩していくものを開発しようと考えていた。ウォズニアックの力をあてにして、ジョブズは「四日で作ってみせる」と宣言し、ブロック崩しの仕事をもぎ取ってきた。
 HPで働いているウォズニアックは、夜を徹して設計に取り組んだ。ジョブズが昼間、配線の作業を続けた結果、試作機は約束どおり四日で仕上がった。
 ブッシュネルはブロック崩しの開発にあたって、できるだけ少ない部品で回路を構成するよう注文をつけていた。回路をシンプルに構成できれば、ゲーム機の製造コストを抑えることができた。可能な限りシンプルにとの注文は、ウォズニアックの美意識にもぴったりと合っていた。少年時代からのエレクトロニクスとコンピューターへの没頭の日々の中で、ウォズニアックは「最少のコンポーネントで最大の効果を上げることこそが設計の美である」との強い信念を育てていた。大学時代、プログラミングに熱中してコンピューターの使用時間を稼いでいるあいだも、常に彼の念頭にあったのは「どうすればプログラムを短くできるか」に対する挑戦意識だった。処理の結果は同じであっても、アルゴリズムを組み替えることでプログラムの文字数を一字でも減らすことができれば、彼は幸せを感じることができた。
 新しいなにかを作り上げること、それも可能な限りシンプルに作り上げることそれ自体が、スティーブン・ウォズニアックにとっては内なる人生の目標となっていた。
 ウォズニアックが原型を作り上げたこのゲームは、のちに設計しなおされ〈ブレイクアウト〉と名付けられて世界的なヒット商品となった。
 勝手知ったるポングを使って、ウォズニアックはコンピューターコンバーサー社のための端末の試作機を、すぐに作り上げた。
 だが試作した端末が機能することを確認すると、ウォズニアックの興味は、この端末を使って、すでに運用が始まっていた研究者用のコンピューターネットワークを飛び回ることに移った。ウォズニアックに端末の開発を持ちかけたアレックス・カムラットは、この一件を通じて彼がまぎれもない天才であることを思い知らされた。だが共同経営者という立場にはあったものの、ウォズニアックはそれ以降、端末の開発自体には興味を失ってしまった。カムラットは他のエンジニアを雇い入れ、ウォズニアックを督促して端末の製品化に向けて準備を進めようとしたが、ウォズニアックの腰はすっかり引けていた。試作された端末の延長線上にある未来に強い確信を抱き、リーダーシップを発揮してウォズニアックの才能を引き出し続けられなかったカムラットは、先駆的なパーソナルコンピューターのベンチャー企業の経営者となるチャンスを指先で失った。
 一九七五年の夏が終わり、カムラットがパートナーの非協力的な態度に頭を抱えていた時期、当のウォズニアックの関心はマイクロコンピューターを使った新しいシステムの側にすっかり移ってしまっていた。
 
 スティーブン・ウォズニアックにとって、一九七五年はジグソーパズルのすべてのコマが手元にそろった決定的な一年となった。
 ホームブルー・コンピューター・クラブでウォズニアックはマイクロコンピューターに目を開き、その後、社内のルートを通じて6800を手に入れることができた。
 二週間に一度開かれるクラブの会合は、作ること自体を喜びとする仲間たちとの絶好の交歓の場だった。クラブへの参加者が膨れ上がってくると、ミーティングの会場はより広いスペースを求めて転々としたが、やがてスタンフォード大学の線型加速器センターに落ちついた。メンバーが自作したシステムを持ち込んで披露に及ぶと、すぐれた作品は率直な賞賛の栄誉に浴し、そうでない作品は無視された。
 作り上げたものに対し、率直で敏感な反応を得られる場を確保できたことは、ウォズニアックにとってとりわけ大きな意味を持っていた。無邪気で明るい印象を与えるウォズニアックだったが、押し出しの強くない彼は、自分の作り上げたものの価値を大声でアピールするようなことは苦手だった。だがクラブでは、作品を机の上にセットして電源を入れておけば、やがてすぐに人だかりができた。仲間たちの瞳の輝きは、ウォズニアックにとって何物にも代えがたい勲章だった。会社の上司たちからはけっして得ることのできない率直なフィードバックは、ウォズニアックの意欲をいっそう駆り立てた。(『実録! 天才発明家』)
 アタリのためにブロック崩しのゲームを開発し、コンピューターコンバーサーで端末を作った体験は、ウォズニアックが次のマシンのイメージを育てるうえで貴重な肥料となった。
 ウォズニアックはコンピューターがテキストを画面に表示してよこし、それを見ながらユーザーがテキストを送り返して話を進めていくといった形式の、のちにロールプレイングゲームとして確立されるようなものを作りたいと考えるようになった。
 視覚的な要素にも凝りながらこうしたゲームを作るうえでは、グラフィックスに強い、個人でも持てる規模のコンピューターは最良の受け皿になると思えた。HPでの回路設計の際にも、ウォズニアックはかねてから自由に計算に使えるコンピューターがあればと考えていた。ホームブルー・コンピューター・クラブでは、8080で使うベーシックが大評判になっていた。ウォズニアック自身はそれまでベーシックを使った経験はなかったが、人気を集めているこの言語で自由にプログラミングできるようにしておけば、たくさんの人が計算の用途にもマシンを重宝するはずだった。
〈タイプライター型のキーボードを持ち、テレビに接続できてベーシックの使えるコンピューターを、マイクロコンピューターを使って仲間たちが持てるように安く作ろう〉
 次のターゲットをそうイメージし、6800を使うことを前提に設計に着手したウォズニアックの耳には、端末の製品化を求めるカムラットの催促はとどまりようもなかった。 
 この年の夏、サンフランシスコで開かれたウェスコン(WESCON★)に出かけた日は、ウォズニアックにとってきわめて重要な一日となった。

★ Western Electronics Show CONvention の略。アメリカ電気電子通信学会(IEEE)と西部電子工業会が共催する技術会議。展示会もあわせて開催される。

 ショーの会場では、モステクノロジーという新しい半導体メーカーが、6502と名付けたマイクロコンピューターを二五ドルという格安の値段で売っていた。
 同社のふれこみでは、この新しい製品の機能は6800と同等であり、より小型化してシンプルに構成したものが6502であるという。6800が一七五ドル程度で販売されていた当時、同じくコンピューターらしい構造を持ちながらたった二五ドルで手に入る6502の登場は、ウォズニアックに絶好の追い風の一吹きを思わせた。
 さっそく6502を一個買い求めたウォズニアックは、その足でこの日予定されていたクラブのミーティング会場へと向かった。会場には、スフィア社という小さなハードウエアベンダーのスタッフが同社のミニコンピューターを運び込んでおり、カラーテレビが接続されていた。マシンがテレビにカラーのグラフィックスを描き出すと、会場に集まった全員が静まりかえり、息を呑んで画面に釘付けとなった。画面上に描かれたものは単なる色つきの円でしかなかったが、初めてカラーグラフィックスを体験したクラブのメンバーにとっては、たとえようもないほど美しい魔法に他ならなかった。ウォズニアックもまた、この目で自分が見たものがどうにも信じられなかった。6502を抱えてカラーグラフィックスに酔ったウォズニアックの感動は、すぐに彼の内に確信を生み出していった。
〈マイクロコンピューターは安くなる。このマイクロコンピューターを使えば、魔法のような美しいカラー画像を生み出すマシンすら、きっと個人が持てるほど安く作れるに違いない〉
 6502を手に入れたウォズニアックは、まずベーシックを機械語に変換する翻訳プログラムの開発から着手した。
 この時期、マイクロコンピューターに取りついていたハッカーたちは、ベーシックの開発に関する情報を『ドクター・ドブズ・ジャーナル(DDJ)』などを通じて共有しあっていた。こうした記事を参考に、まず経験のなかったこの言語の文法を学んでから、ウォズニアックは機能を限定した小規模なインタープリターを書きはじめた。HPの同僚がミニコンピューター上で6502の動作をシミュレートするプログラムを書き、これを使って書き上げたものをチェックした。
 6502のベーシックを片付けると、続いてウォズニアックはマシンの開発に着手した。カラーのグラフィックスに鮮烈な印象を受けたウォズニアックだったが、まずは6800をベースに設計していたものを6502に置き換えて、ともかく作り上げることに目標を置いた。この作業においても、ウォズニアックは自らの美学を徹底させた。常識の裏をかいたアクロバット的な手口をひねり出してチップの数を減らすことこそが、ウォズニアックにとっての作る喜びだった。部品の数を徹底して抑え、小さな基板を可能な限りシンプルに構成することにウォズニアックは全力を挙げた。会社の仕事そっちのけで数週間かけて組み上げられたマシンは、アルテアが数枚の基板で実現していた以上の機能を、一枚の基板で生み出していた。
 一九七五年の秋、ウォズニアックは試作したマシンの基板と、接続するキーボードやテレビを抱えてクラブに顔を出すようになった。
 カセットテープレコーダーを持っていなかったウォズニアックは当初、マシンをセットするごとに三Kバイトほどのベーシックインタープリターをキーボードから入力せざるをえなかった。ようやくマシンが動く状態になると、メンバーから質問が飛び交い、改良のためのアドバイスが寄せられた。二週間ごとのクラブの集会のたびに、ウォズニアックはあらたな改良を加えたマシンをたずさえてクラブに現われた。興味を持ってくれる仲間には設計図を無料で配り、6502用に書いたベーシックも渡した。ウォズニアックにとっては、ホームブルー・コンピューター・クラブの熱気の中で自らのマシンを前進させることがすべてだった。代償を求めるとすれば、仲間たちの賞賛があればそれで充分だった。
 ホームブルー・コンピューター・クラブを支配していたのは、共棲の論理だった。
 アルテア用にベーシックを書いたビル・ゲイツは、MITSに売り込んで販売数に応じた印税の支払い契約を結び、自らの労働の成果に金銭的な代償を得る道をすぐさまつけた。だがクラブの大半のメンバーは、ゲイツとはいささか異なった行動原理でマイクロコンピューターに取り組んでいた。
 ゲイツにはゲイツの道があったが、さまざまなクラブに集いはじめたホビイストたちにも、彼ら自身の道があった。マイクロコンピューターから延びる道筋は、一つではなかった。ゲイツがゲイツの道を歩きはじめたころ、多くのホビイストたちもまた彼らの道を歩み出していた。
 彼らはともに手を取り合い、隊伍を組んで進もうと考えた。

『ドクター・ドブズ・ジャーナル』
ベーシックの手作りを呼びかける


 一九六二年春、コントロールデータ社に籍を置いてソフトウエアに携わっていたボブ・アルブレヒトに、一風変わった依頼が舞い込んできた。
 コロラド州デンバーのジョージ・ワシントン・ハイスクールで、数学クラブの生徒を対象にコンピューターに関する講演をしてほしいという。
 生徒たちを前に講演を終えたあと、「実際にプログラミングを学んでみたいか」とたずねると、三二人の聴衆の全員が手を挙げた。生徒たちの瞳の熱に力づけられたアルブレヒトは会社に話をつけて、学生たちのために、夜、コンピューター教室を催すことにした。乾いた砂地に水を注いだように彼らはプログラミング言語を身につけた。コントロールデータの160Aを使いこなしていく生徒たちの生き生きとした様子に、アルブレヒトは強く励まされた。
 ギリシャの酒とダンスと音楽とを愛し、人の根にある物の善と可能性に信頼し、官僚主義と形式主義を嫌悪するアルブレヒトは、コンピューターが人をより生き生きと振る舞わせる酵素の役割を演じることを確信しはじめた。
 若者たちにコンピューターとの出会いの場を提供することに可能性を見いだしたアルブレヒトは、ハイスクールを訪ねる巡回科学教室を企画した。この催しは彼のコンピューター教室に、より多くの生徒たちを引き付けた。全米コンピューター会議(NCC)で巡回教室の公開実演を行って注目を浴びたアルブレヒトは、会社を説得して全米各地で教室を開こうと考えた。この提案を認められ、コントロールデータの本社のあるミネソタに移って布教活動に本腰を入れることになったアルブレヒトは、異動した先の本社で新しく開発されたばかりの言語に出合った。
 一九六三年から六四年にかけて、ダートマス大学で開発されたベーシックは、タイムシェアリングによってユーザー一人ひとりがコンピューターと向かい合い、マシンと対話しながらプログラムを組むことを狙っていた。
 コンピューターの布教を本格的に展開しようとしていたアルブレヒトは、この言語が技術の大衆化にとって強力な武器となるだろうと考えた。
 その後離婚と退職をきっかけにサンフランシスコに移り住んだアルブレヒトは、大気中にカウンターカルチャーのにおいの充満したカリフォルニアで、コンピューターの布教活動を続けたいと考えた。自主講座運動に加わり、のちに『ホール・アース・カタログ』を刊行するポートラ協会のコンピューター教育部門の発足にかかわる中から、アルブレヒトはマシンのパワーを人々に解放しようとする仲間たちと出会っていった。
 コンピューター関係の書籍を発行するダイマックス社という出版社を起こした彼は、ベーシックの教則本を作り、マシンに関する本を刊行するという条件でDECからPDP―8と端末を借り入れた。このマシンを車に積み込んで、アルブレヒトは西海岸で巡回科学教室を再開した。ダイマックスは、ハッカーたちのたまり場として機能しはじめた。コンピューターを核にしてさまざまな人が出会い、マシンを支配の道具とする者の手から解放して一人ひとりの人間の可能性を伸ばす知の翼とするためのアイディアが、るつぼと化したダイマックスからつぎつぎと生まれていった。
 
 一九六四年九月、学生運動規制の方針を示したカリフォルニア大学バークレー校当局に対し、学内の諸団体は各々の自主性を尊重する緩やかな共闘態勢を組み、フリー・スピーチ・ムーブメントを組織した。
 反権力、反権威をかかげ、ベトナム戦争への大学の関与を指弾する一方で、大学とはなにか、大学生である自分とはなにかを問いなおそうとしたこの運動は、のちに世界中で火を噴いた学生運動のテーマとスタイルを先取りしていた。一九六〇年代後半、世界をおおった学生反乱の源流を生み、カウンターカルチャーの巨大なゆりかごとして機能した西海岸のはみ出し者たちの中には、コンピューターを管理と支配の象徴としてとらえる意識が根を張っていた。
 だがダイマックスを拠点としてコンピューターとのもう一つの関係を探ろうとするアルブレヒトらの試みは、少しずつ彼らの中でも輪を広げていった。アルブレヒトはコンピューターを人々に解放するための紙の爆弾を用意しようと考え、一九七二年秋、『ピープルズ・コンピューター・カンパニー★(PCC)』と名付けた雑誌を発行しはじめた。

★『ハッカーズ』によれば、この誌名はジャニス・ジョップリンが一時期参加したビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーのもじりであるという。さらにたどればビッグ・ブラザーはジョージ・オーウェルの『一九八四』から、ザ・ホールディング・カンパニーはマリファナを持っているという意味のスラングからきている。蛇足とは知りながら一言付け加えれば、灰になっても忘れることのなさそうなジャニスの「サマータイム」は、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー時代の佳作である。一九六六年にこのバンドに加わったジャニスは、「チープ・スリル」を残して一九六八年には彼らと別れ、「パール」のレコーディング中の一九七〇年十月にはすでに死んでいる。何の関係もないと思われるかもしれないパーソナルコンピューターの歴史とロックミュージックの忘れえぬ出来事は、ある種の人々の歩みの中では深く結びついている。

『PCC』は、ミニコンピューターを培養器として発生しはじめていたハッカーたちの情報交換の広場となった。当初『PCC』はダイマックスによって発行されたが、軌道に乗ってからはアルブレヒトはこの雑誌を切り離し、コンピューター解放運動の主体となるPCCというグループを別個に組織した。
 
 一九七五年初頭、スタンフォード大学で講師としてコンピューターサイエンスを教えていたデニス・アリソンは、『PCC』に載せる書評を早く書き上げるようアルブレヒトにせっつかれていた。アルブレヒトが全米コンピューター会議で行った巡回科学教室の実演に興味を持って彼と知り合ったアリソンは、PCCの設立時にアルブレヒトに頼まれて役員を引き受け、雑誌に原稿を寄せていた。
 ようやく書き上げた原稿を事務所に持参すると、雑誌に目を落としていたアルブレヒトが「こりゃすごい」とつぶやいて記事を読むように促した。アルテアを紹介した『ポピュラーエレクトロニクス』の記事に、アリソンもまたすぐに引きずり込まれていった。
「五〇〇ドルならみんなこの素晴らしいマシンを買うぞ。これで革命が起きるかもしれない。けれどこんなものすごい、たった二五六バイトなんてメモリーじゃ、誰も何もできやしないぞ★」

★『DDJ』の創刊につながっていくこの間の経緯は、一九七九年四月号の同誌に掲載されたアルブレヒトとアリソンへのインタビューに詳しい。インタビュー記事中、アリソンはアルブレヒトが「五〇〇ドル」と叫んだと確かに語っている。アルテアの価格がキットで四三九ドル、完成品で六二一ドルだったことを記憶する物覚えの素晴らしくよい読者は、キットとも完成品とも異なる「五〇〇ドル」に引っかかるかもしれない。ただし一九七五年一月号の『ポピュラーエレクトロニクス』では、アルテアのキット価格は三九七ドル、完成品は確かに四九八ドルとされていた。要するにMITSが、発売開始にあたって値上げしたわけである。

 雑誌から視線を起こさない客人にアルブレヒトがそう語りかけると、アリソンは「じゃあ、メモリーのサイズに合わせた本当にちっぽけなベーシックってのはどうだい」と応えた。「それなら君がなにか書いてくれ」となって、アリソンは『PCC』にベーシックの記事を書くことになった。
 短い打ち合わせの結果、記事では読者の一人ひとりが自分なりのごく小規模なベーシックを書き上げることを目指すことになった。
 読者層の中心は、アルテアを買った人たちに置いた。アルテアの使った8080と一世代前の8008をターゲットに定め、「あなた自身のベーシックを作ろう」と題して、一九七五年三月号の『PCC』に連載の第一回目の記事を載せた。ベーシックとはどんな言語であり、どういった方針で手作りの開発作業を進めていくか、大枠の方針を示したアリソンは「作業は特に未経験者にとっては容易なものではなく、一人でかかれば開発に六か月程度はゆうに要してしまう」と断ったうえで、このプロジェクトへの積極的な参加を呼びかけた。
「すべての方が、この設計作業に関心を持ってくれればと思います。我々だけで作業を進めることは可能ですし、事実そのような経験も我々は持っています。けれどあなた方のアイディアは、我々のものに勝っているかもしれません。さまざまな作業や問題に関して、おそらく我々はあなた方を助けることができるでしょうし、あなた方もまた我々を助けてくださるでしょう。どうか手紙を書いてください。そうすればあなた方の手紙やコメントを掲載いたします」
 連載記事で開発を目指す小規模なベーシックを、タイニーベーシックと名付けたのはアルブレヒトだった。開発の容易さと、そして何よりも小さなメモリーのスペースに収まることを目指し、ベーシックの機能の一部を取り出して開発するタイニーベーシックを売り込む一説を、アルブレヒトは初めての記事の終わりに付け加えた。
「あなたが七歳だったとして、浮動小数点演算(なにそれ)、対数、サイン、行列反転や核反応炉に関する計算といったものに大してこだわらないとしましょう。そしてあなたのホームコンピューターはちっぽけなもので、メモリーもわずか。おそらく四Kバイト以下のMARK―8かアルテア8800で、入出力のためのテレビタイプライターが付いている。それを宿題や、数学的な謎解きやNUMBER、STARS、TRAP、HURKLE、SNARK、BAGELSといったゲームに使いたいとしましょう。
 それならタイニーベーシックはどうでしょう。
 八ビットか一六ビットの整数の演算のみ/AからZまでの二六個の変数/乱数機能はもちろん!/七種類のベーシックのステートメント(INPUT、PRINT、LET、GOTO、IF、GOSUB、RETURN)/文字列? PRINTステートメント中ではOK、その他ではダメ」
 ビル・ゲイツとポール・アレンは、アルテア誕生の記事に刺激されて商品としてのベーシックを書きはじめた。ちょうど同じ時期、同じく『ポピュラーエレクトロニクス』でアルテアと出会ったボブ・アルブレヒトとデニス・アリソンは、タイニーベーシックの手作りを目指す大衆運動に火をつけようと動きはじめた。
 
 PCCで子供たちにコンピューターを教えるクラスを担当していたフレッド・ムーアは、『ポピュラーエレクトロニクス』の記事に触発されて、アルテアの組み立てや使い方に関する情報交換のサロンを作ろうとアルブレヒトに提案した。だが、彼は積極的にこのアイディアに乗ろうとはしなかった。
 ムーアはPCCのメンバーで8008を使ってコンピューターの自作を経験していたゴードン・フレンチを誘い、ハードウエアを中心としたサロンを別に作ろうと考えた。二人は付近の大学やハイテック企業、PCCのたまり場などにビラを貼り、一九七五年三月五日、メンローパークにあるフレンチの家のガレージに集まった。
 ホームブルー・コンピューター・クラブの初めての会合には、三〇名ほどが集まった。一方『PCC』に掲載した記事には、読者から何の反応も返ってこなかった。
 仲間たちからの情報提供に支えられて『PCC』を刊行してきたアルブレヒトは、いったんはこの企画をあきらめ、連載を中止する旨を誌上で明らかにした。そのとたん、『PCC』には連載の継続を求める手紙がつぎつぎと届きはじめた。アルブレヒトは迷わず企画の続行を宣言し、アリソンを中心にタイニーベーシックの自作を目指す連載記事が『PCC』の誌面を飾っていった。
 記事を掲載する一方で、『PCC』は読者と同じ立場に立ってタイニーベーシックの開発に取り組むスタッフとアルテア一台を確保して、作業にあたらせていた。その人物は一九七五年十二月、「こんなしち面倒くさいことにはもうかかわっていられない」とのメモを残して消えたが、専従スタッフの引退宣言と同時に、狙いすましたように強力な援軍が読者の中から現われた。
 ノース・テキサス・コンピューター・クラブのメンバーでアルテアを二人で買って持っているというディック・ホイップルとジョン・アーノルドは、それまでにも掲載されたプログラムの問題点を指摘する手紙を『PCC』に送ってきており、記事に励まされてタイニーベーシックの開発を進めていると書き添えていた。そして十二月十二日付けの手紙で、彼らは資料を添えて一まず開発作業を完了したことを報告してきた。アリソンの設定よりも若干機能を拡張した自分たちの言語を、彼らは拡張版タイニーベーシックと名付けていた。
 アルブレヒトとアリソンが祝福の手紙を送ると、彼らは八進数で表記した二Kバイトほどのプログラムのリストを送ってきた。『PCC』はすぐに、手作りプロジェクトの初めての成果となるこの機械語のリストを掲載した。この間もプログラムのチェックを進めていたテキサスの二人組は、すぐに最初のものにあったいくつかのバグを訂正した新しいバージョンを、プログラムの各部の働きに関する解説を付けて送ってきた。だがバグ訂正の報告を寄せてきたのは、作者たちだけではなかった。『PCC』には同様のバグ修正に関する手紙が、何通も寄せられてきていた。報告を寄せてきた読者たちは、二Kバイトのプログラムをアルテアのトグルスイッチを上下させてご苦労にも入力し、いざ拡張版タイニーベーシックを動かしてみてバグを見つけ、そこからプログラムの構造を自力で解析しなおすことができたからこそ、最後のバグの修正にまでたどり着くことができた。
 アリソンとアルブレヒトは何通も寄せられたバグ修正の手紙を前にして、タイニーベーシックの手作りプロジェクトにかなりの数の読者がついてきてくれたことを実感させられた。これだけの反応が返ってきている以上、少なくとも一〇やそこらのタイニーベーシックが、そのときすでに読者のアルテアで動きはじめていることは明らかだった。
 プロジェクトの成果に励まされたアルブレヒトは、タイニーベーシックにテーマを絞ったニューズレターを、『PCC』の臨時増刊として出そうと考えた。「一冊当たり一ドルでつごう三号をコピー版で出す」旨を『PCC』に掲載すると、すぐに三〇〇部の申し込みが集まった。
『ドクター・ドブズ・ジャーナル』というおかしな名前をでっち上げたのは、『PCC』のデザイン関係の作業を一手に引き受けていたグラフィックデザイナーのリック・バカリンスキーだった。コンピューターに関してはまったく知識のなかった彼は、アルブレヒトに新しい雑誌のデザインと命名を頼まれ、周りの連中にコンピューター用語を聞き回って候補を探した。バカリンスキーの選んだ誌名は、『バイト』だった。
 残念なことに、すでにこの名前を冠した有名なコンピューター雑誌が存在していることを教えられたバカリンスキーは、同じ音の「噛む」( bite )という単語から歯列矯正という言葉を、なぜかは明らかではないが思い浮かべた。
 アルテアにぐっと効いてすっかりよくなる感じを出したいと、ドクターという言葉が浮かび、すっきりと小さくベーシックを仕上げるという狙いから、彼は美容体操を連想した。バカリンスキーは最初、アリソンの名前をドンと間違えていた。このドンとアルブレヒトのボブを一つにして、生まれたのがドブだった。
 かくして臨時増刊は、『ドクター・ドブのコンピューター美容体操と歯列矯正ジャーナル』と名付けられることになった。
 増刊には加えて、「オーバーバイトなしで軽やかに走らせよう( Running Light Without Overbite )」という副題が付けられた。メモリーをオーバーすることなく、軽やかにプログラムを走らせようというこの副題にも、バカリンスキーはもじりを仕込んでいた。創刊号にはこれもなぜか、入れ歯をむき出しにしたカーク・ダグラスの頭を裸のランナーの首の上に載せたコラージュが掲載されている。この絵の謎解きは「噛みすぎなしで軽やかにランニングしよう」が正解である。
 
『DDJ』の創刊号には、これまで『PCC』に掲載してきたタイニーベーシックの自作に関する記事が再録され、テキサスの二人組による拡張版の、バグ修正済みソースコードリストが載せられた。
 一九七六年一月号とは謳いながら実際の刊行は二月末にずれ込んだが、『DDJ』は、アルテアを組み立てはしたもののそこから先に進めないでいた多くのユーザーにとって絶好のガイドブックとなった。
 アルテアのうがった穴に生まれた湖は、内から湧き上がるソフトウエアへの飢えの圧力をはらみ、水面をかろうじて平らかに保ちながら膨れ上がっていた。緊張をはらんだ水面に落ちた『DDJ』は、一角ごとをかんなで磨き上げたようなあざやかな切れ味を持った波紋を広げていった。
 アルブレヒトは創刊号の巻頭を、「秘密にしないで!」と題する短い呼びかけで飾っていた。
「自分の取りかかっている素晴らしくて新しいソフトウエアやシステムを、どうか我々に教えてください。もしもあなたが望むなら、我々が他のみんなに知らせましょう。おそらく他の誰かも、同じものに取り組んでいるかもしれません。協力すれば、二倍早く仕上がります。もしかすると誰かがもう、片を付けているかもしれません。同じ手間を二度かける必要はないでしょう」
 すでに自分なりのタイニーベーシックを仕上げたホイップルとアーノルドのコンビは、ソースコードを掲載する一方で、五ドル送ってくれればカセットテープに記憶させたプログラムを郵送する旨を創刊号の記事に書き足していた。「ホビイストへの公開状」を書いて開発者の権利保護を訴えたビル・ゲイツを当てこすり、二人組は「どこかのソフト屋さんとは違って、我々は皆さんがタイニーベーシック拡張版をいじくり回してもっと小さくしてくれることを大いに歓迎いたします」と書き添えた。
 二人組のもとには彼らの仕事への賛辞とともにテープの発送を求める依頼が殺到し、『PCC』にも読者からの手紙や購読申し込みが続々と送られてきた。そんな中には、誌名の「コンピューター歯列矯正」の文字につられた歯科医からの手紙も紛れ込んでいた。誤解に気付いたあとも歯科医は『DDJ』を読み続け、やがて彼もまたパーソナルコンピューターの虜となった。
 
『DDJ』に対する期待と反応の大きさに、アルブレヒトは専従で編集にあたってくれるスタッフを確保しようと考えた。スタンフォード大学の卒業生でコンピューターの布教活動に長く携わり、ホームブルーの集まりにも顔を出していたジム・ウォーレンに、アルブレヒトは声をかけた。
 すでに『DDJ』に目を通していたウォーレンは、この企画が情報の穴を見事についていることに共感していた。ことハードウエアに関しては、すでにアルテアがあり、この領域をカバーする雑誌も存在していた。だがまとまった成果がほとんど存在しないソフトウエア分野は、情報に関してもこれまでまったくの真空地帯となってきた。
 ウォーレンは、このソフトウエアの空白こそが、ビル・ゲイツと多くのホビイストたちとの軋轢の根にあると考えていた。
 MITSは、ゲイツの開発したベーシックの価格を高く設定する一方で、不良品だらけのメモリー、入出力ボードとのセット価格は大幅に割り引いた。多くのユーザーはセットでの注文を選んだが、MITSはできの悪いボードだけを送りつけ、ベーシックに関しては供給が遅れると一方的に通告するのみだった。さらにMITSは、アルテア用の増設ボードを開発してさまざまな機能拡張に道を開いていこうとするサードパーティーに対し、敵対的な姿勢をとった。MITSがアルテアに付けた不親切で貧弱なマニュアルを補うために、ホビイストたちは雑誌を通して情報交換に努めていた。問題点を残したまま発送されたアルテアの基板の修理法も、ホビイスト自身の手によって雑誌に発表された。
 そうした背景があった中で、MITSの主催したデモンストレーションの会場から漏れ出したベーシックの紙テープが、大量にコピーされてホビイストのあいだに広まった。ベーシックの販売数に応じた印税契約をMITSと交わしていたビル・ゲイツは、アルテアの会報に「ホビイストへの公開状★」を書き、「君たちの多くはソフトウエアを盗んでいる」と指弾した。

★ホビイストへの公開状
 私にとって、現在のホビイ市場における最大の問題は、すぐれたソフトウエアのカリキュラムや書籍、そしてソフトウエア自体が存在していないということです。すぐれたソフトウエアや、プログラミングを理解するオーナーがいなければ、ホビイ用のコンピューターはむだになります。では、ホビイ市場向けにすぐれたソフトウエアが書かれるのでしょうか。
 一年ほど前、ポール・アレンと私はホビイ市場の拡大を期待してモンテ・ダビドフを雇い、アルテアベーシックを開発しました。初期作業はわずか二か月ですみましたが、その後三人でベーシックのマニュアル作成や改良、機能の追加を行うのにほとんど昨年いっぱいを費やしました。今では四K版や八K版、拡張版、ROM、ディスクベーシックがそろっています。我々が費やしたコンピューターの使用時間は、金額にして四万ドル以上になります。
 ベーシックを使っているという何百人ものユーザーから得た反応は、すべて好意的でした。しかし二つの驚くべきことが明らかになりました。(一)これら〈ユーザー〉のほとんどはベーシックをけっして買わなかった(アルテアの所有者全体の一〇パーセント以下しかベーシックを購入していない)。(二)ホビイストへの販売から得たロイヤリティー(使用料)の金額から換算すると、アルテアベーシックの開発に費やした時間の価値は一時間当たり二ドル以下となる。
 これはなぜなのでしょうか。大多数のホビイストが理解しているように、あなた方のほとんどは自分用のソフトウエアを盗んでいるのです。ハードウエアにはお金を払わなければならないけれど、ソフトウエアは共有するものだというわけです。ソフトウエアに取り組んだ人たちが報酬を得ようが得まいが、どうでもいいことだと。
 これはフェアーなことでしょうか。盗んでいるために、あなた方はなにか問題があったとしてもソフトウエアをMITSに持ち込むことはしないでしょう。MITSはソフトウエアの販売で儲けてはいません。我々に支払うロイヤリティーや、マニュアル、テープ、諸経費のために勘定はとんとんの状態です。あなた方の行為はすぐれたソフトウエアの開発を妨げているのです。誰がただでプロフェッショナルな仕事をやれるでしょうか。どんなホビイストが三人年をかけてプログラミングし、バグをすべて見つけ、製品のドキュメンテーションを行って無料配付できるでしょうか。実際、我々以外誰もホビイ用のソフトウエアに多額の資金を投資したものはいません。我々は6800ベーシックを書きましたし、現在8080APLや6800APLを書いています。しかしこのソフトウエアをホビイストに提供しようという気持ちにはほとんどなれません。もっとはっきり言えば、あなた方がやっているのは盗みです。
 アルテアベーシックのまた売りを行っている連中はどうでしょうか。彼らはホビイソフトウエアでいくらか儲けてはいませんか? けれどもそうした振舞いを我々に報告された連中は、結局負けるでしょう。彼らこそホビイストに汚名をきせた張本人であり、いかなるクラブの会合からも締め出されるべきです。
 お金を払いたい人、あるいは提案や意見のある人たちからの手紙を歓迎します。以下の住所に手紙をください。1180 アルバラド SE、 #114、アルバカーキー、ニューメキシコ州、87108。一〇人のプログラマーを雇ってホビイ市場をすぐれたソフトウエアでいっぱいにできれば、これに勝る喜びはありません。(『コンピューターノーツ』一九七六年二月号)

 ソフトウエアがほとんど存在していない中で、ともに手を取って空白を埋めようとタイニーベーシックの自作運動に乗り出していたホビイストたちは、このゲイツの指弾に強烈な反発を見せた。ゲイツのもとには反論の手紙が殺到し、ホビイストの雑誌にも多くの反対意見が掲載された。外野のホビイストの目には、ビル・ゲイツはユーザーに誠実に対応するための体制作りを放棄し続けたMITSとぐるとしか映らなかった。
 この大騒動を、ジム・ウォーレンはソフトウエアの空白という構造が生み出した現象ととらえていた。そして、無料もしくは非常に安いソフトウエアがつぎつぎと生み出されるようになれば、ソフトウエアの作り手と使い手が互いを泥棒呼ばわりして非難しあう事態は避けられるだろうと考えた。
 タイニーベーシックのプロジェクトのような共棲を目指す試みに支えられて、共有を前提としたソフトウエアが書かれれば、自らをメーカーと位置づける側はユーザーの窮状につけ込むような不当な値段はつけられなくなるだろう。またユーザーも、ソフトウエアが充分安ければ、書き手の意に背いてコピーするよりは買う方を選ぶだろう。
 こうした正のサイクルを作り上げていくうえで、『DDJ』の果たす役割はきわめて大きいと考えていたウォーレンは、編集にあたってくれないかとの提案を喜んで受け入れ、月給三五〇ドルで専従担当者となって二号から編集作業にあたった。
 
 当初タイニーベーシックにテーマを絞った三冊の臨時増刊として企画された『DDJ』だったが、ウォーレンは取り扱うテーマをソフトウエアの幅広い分野に拡張して、この雑誌をソフトウエアの空白を埋める共棲の拠点として守り続けたいと考えた。
「我々はここからどこに向かうのか」と題した三号の巻頭言で、ウォーレンはタイニーベーシックを「何もないよりはましなもの」と限定的に位置づけ、アセンブラーやバグ修正のためのデバッガー、フロッピーディスクを使うためのオペレーティングシステム、グラフィックスや音楽のソフトウエアなど、さまざまな分野にテーマを広げて刊行を継続していく方針を明らかにした。
 ウォーレンは『DDJ』の目指すものを、「実現可能な夢」の追求であるとあらためて確認しなおした。
 実現可能な夢をより厳密に定義して、ウォーレンは「現状の技術と知識の枠内にあり、ホビイストのコミュニティーのメンバーによって達成でき、今後二四か月やそこらのうちにほとんど完成できるもの」であるとした。具体的には、コンピューターミュージック、リアルタイムのビデオグラフィックス、コンピューターによる音声合成、新しいインプット技術の開拓などがあり、より野心的なテーマとしては住環境のコントロールなどにあたるホームコンピューター、電子電話帳、バイオフィードバック、コンピューターによるアニメーション、地域の共同掲示板や共有記録簿的な使い方、ラジオ放送や電話回線を利用したコンピューターネットワーク、電子新聞などが今後の『DDJ』の課題として示された。
 こうした新しい領域への挑戦にあたって、ウォーレンは「タイニーベーシックのプロジェクトを成功させた手法を援用しよう」と呼びかけた。
 まず『DDJ』がプロジェクトの概要を示し、続いて実現に向けたより詳細な情報を提供していく。そして実際の開発には、共棲の輪の中にある一人ひとりの読者があたる。『DDJ』はあくまでコミュニケーションのためのメディアであり、知的なアジテーターとして機能する。設計や開発にあたるのはあなた方自身であり、『DDJ』はその成果を発表し、改良を働きかけていく。
「ホビイスト、発明家、夢想家の皆さん。あなたのアイディアと作り上げたもの、抱えている問題や解決策に関して知らせてください。分け合えば分け合うほど、我々は多くを得るでしょう。実現可能なあなたの夢を知らせてください」
 ウォーレンは新生『DDJ』の目指すところを示す巻頭言を、そう締めくくった。
 ウォーレンの巻頭言の掲載された三号には、デンバー州ケープウェイのフレッド・グリーブの書いた、デンバータイニーベーシックが掲載されていた。
 入出力にはテレビタイプライター、外部記憶装置としてはカセットテープレコーダーを使った意欲的なシステムを用いて、『PCC』の呼びかけに応えて8080用に初めて書いたタイニーベーシックを、グリーブは地元のデンバー・アマチュア・コンピューター協会に公開していた。
 編集部に送られてきたのは、これを手直ししたものだった。
 続いて四号には、ニュージャージー州ルーズベルトに住むハイスクールの三年生、エリック・ミューラーの書いたタイニーベーシックのソースリストが掲載された。
 組み立て終わったアルテアで使うために、機械語だけで書いたタイニーベーシックを、ミューラーは「まったく自分だけの( mine- all )」との意味を込めてMINOLと名付けた。
 さらに五号には、パロアルトのリチェン・ワンによるパロアルト・タイニーベーシックが掲載され、翌月号にはこれを使ってワンの書いた、宇宙戦争ゲーム、スタートレックの小型版のタイニートレックが掲載された。
 一・七七Kバイトとほぼ限界に近いところまで刈り込まれながら、かなりの機能を持ち、じつに見事に仕上げられて機能拡張も容易に行えるよう配慮されたパロアルト版が届いた時点で、ウォーレンは8080用のタイニーベーシックはこれでもう充分だと考えた。なにか際だった特徴を持つものでない限り、8080用はこれ以上掲載しないと宣言したウォーレンは、すでに発表されたバージョンの機能拡張やその他のマイクロコンピューター用のタイニーベーシック開発に勢力を振り向けてくれるよう、読者に求めた。

美意識の追求をビジネスに変えた
もう一人のスティーブン


 ホームブルー・コンピューター・クラブでマイクロコンピューターに目を開き、ウォーレンの求めに応えて6502用の整数ベーシックを書いたスティーブン・ウォズニアックは、共棲を目指した輪の中で自らの美意識に忠実に沿うことに喜びを見いだしてマシンを育てていった。
 一方、ウォズニアックのブルーボックスを売り物に変えたスティーブン・ジョブズは、彼の基板をもう一度商品に仕立てようと考えた。非合法のブルーボックスはこっそりと売って回るしかなかったが、コンピューターの基板なら誰にはばかることなく売りさばくことができる。
 ジョブズ自身は、クラブの活発なメンバーたちの技術論議には加わらなかったが、それでも何度か集会には顔を出していた。個人のためのコンピューターに、ジョブズは大人たちの手垢のついていない、純白の可能性のにおいをかいだ。ジョブズにとって、ウォズニアックの作り上げた基板は、個人のマシンに向けて吹きはじめた風に高くかかげるべき、絶好の帆に感じられた。
 一九七六年のはじめ、ジョブズは当惑するウォズニアックを説得して、基板を売るビジネスに共同で取り組むことを納得させた。
 ジョブズの提案を「ためしに二、三枚基板を売ってみよう」程度に受け取っていたウォズニアックには、愛着を感じているHPをやめようなどという気持ちはさらさらなかった。ジョブズにしても、アタリをやめてすぐにこの商売に専念できるとは考えてもみなかった。だが一応、会社らしき体裁は整えておこうと考え、ジョブズがアップルコンピュータ★という名前を提案した。

★同時代に生きた者にはまったく言うまでもないことながら、時のやすりの恐ろしい効果を恐れて一言いい添えれば、当時「アップル」と聞いてビートルズの設立したレコード会社を思い浮かべずにおくことはほとんど不可能だった。もしも友人がアップルという名前で何かの会社を始めたとすれば、ビートルズが望んだと同じような自分たちの拠点を作りたかったのだろうと、誰もが即座にそう了解したはずである。

 これによって、彼らの基板はアップルIと名付けられることになった。
 ウォズニアックの最初のマシンは、部品を一つ一つ導線で結んで作られていた。ジョブズはまず、アップルIの配線をパターンとして表面に焼き込んだプリント基板を起こし、この基板だけを売るところからビジネスをスタートさせようと考えた。
 ウォズニアックのマシンに興味を持ち、自分でも組み立ててみたいと考えた人間は、彼のくれた設計図を頼りに部品を基板上に並べ、一から配線していかざるをえなかった。だがあらかじめ配線が焼き込んであるプリント基板があれば、あとは指示された部品を所定の位置に差し込んではんだ付けすればすむ。設計図を基板上に移し替えた格好のプリント基板は、クラブでウォズニアックのマシンに興味を持っている連中に受けるだろうとジョブズは考えた。さらにアップルI用のプリント基板と必要な部品を組み合わせ、アルテアのような組み立てキットにする手もあった。
 ジョブズはプリント基板の製作費をざっと二五ドルとはじき出した。五〇ドルの値段で一〇〇枚は売れるに違いないとウォズニアックに断言し、総製作費の約半額にあたる一三〇〇ドルずつを持ち寄って、話を進めることにした。HPでまともな給料を取ってはいたものの、コンピューター用の部品とレコードに金をつぎ込んでいたウォズニアックは、持っていたプログラム電卓のHP65を売り払って出資分を作り、ジョブズはフォルクスワーゲンを売った。
 だがアタリで使っていた業者に実際にプリント基板の作成を依頼する時期になっても、アップルIのビジネスに対する二人の熱意の温度差は、かけ離れたままだった。
 
 コンピューターコンバーサー社のアレックス・カムラットは、形式的には共同経営者となっているウォズニアックの関心を同社の端末に引き戻そうと、この時期になってもなお彼に接触を試みては、試作機の製品化に協力するよう説得を繰り返していた。
 その一方で、ジョブズはアップルIのビジネスに集中するよう、ウォズニアックに求めた。だがジョブズの家のガレージででき上がってきたプリント基板に部品を差し込んで、最初のアップルIを完成させたとき、すでにウォズニアックの関心は次に作り上げるマシンに移っていた。新しいマシンを引き続いてジョブズに渡すのか、それともカムラットに渡すのかは、ウォズニアックにとって本質的な問題ではなかった。
 一九七六年四月、ジョブズとウォズニアックは、ホームブルー・コンピューター・クラブでアップルIのプリント基板をメンバーに披露した。
 使用するマイクロコンピューターは6502で、八KBのメモリーが載る。部品を買いそろえて組み立てをすませ、電源とキーボードを付けて動かせる状態に持ち込めば、アップルIは家庭用のテレビに白黒の表示を出すことができた。ウォズニアックが6502用に開発したベーシックは、もちろんこのマシンでも動かすことができた。ただしベーシックインタープリターを収めたROMは用意されておらず、カセットテープレコーダーのインターフェイスも備わっていなかった。そのため、ベーシックが使いたいとなるとユーザーは電源を入れるたびに、三Kバイトあまりの翻訳プログラムをキーボードからまず入力せざるをえなかった。
 クラブでの発表に際して、ウォズニアックはアップルIの技術的なアウトラインを説明し、ジョブズはたった一枚の基板に収まったコンパクトさとテレビ画面に表示が出せるというマシンの特長のアピールに努めた。さらにジョブズはマーケティングのセンスを発揮して、もしも組み立て済みの完成品の状態ならこのマシンをいくらで買ってくれるかを、集まったメンバーたちにたずねた。
 アップルIを取り囲んだメンバーの中には、パーソナルコンピューターの販売店の走りとなったバイトショップの経営者、ポール・テレルがまじっていた。
 もともとミニコンピューター用周辺機器の販売に携わっていたテレルは、アルテアのニュースを聞いてさっそくMITSに連絡をとり、カリフォルニア北部地域のエージェントの肩書きを得た。ホームブルー・コンピューター・クラブに出かけてはアルテアを売り込んでいたテレルのもとには、しだいに注文が集まるようになった。本格的にこの分野に取り組もうと考えた彼は、一九七五年十二月、MITSの製品を大量に仕入れてマウンテンビューにバイトショップをオープンしていた。
 あらためてテレルをバイトショップに訪ねたジョブズは、組み立てとテストをすませた状態で納入するという条件で、一挙五〇台のアップルIの注文を取りつけた。テレルとのあいだで合意した納入価格は、一台およそ五〇〇ドル。しかもテレルは、マシンの引き渡し時に約二万五〇〇〇ドルの全額を現金で支払うと約束してくれた。
 二五〇〇ドルの元手でプリント基板を一〇〇枚起こし、完売で五〇〇〇ドルの売り上げを目指していたアップルのビジネス規模は、テレルからの注文で一気に一桁増しとなった。
 いかにして五〇台分の部品を調達するかという緊急かつ深刻な問題には、ジョブズの奔走によって突破口が開かれた。銀行には門前払いを食わされ、部品店からも色好い返事はもらえなかった。だが、テレルからの注文書を確認して、三十日間支払いを猶予するという条件で部品を供給してくれるところが確保できた。
 ジョブズの実家の一室を工場とした組み立て作業には、彼の姉や友人が動員された。アップルは部品を仕入れてから二十九日目に、テレルへの製品供給を果たした。ジョブズは部品原価を二倍した五〇〇ドルを仕切り値とし、販売店の取り分を三三パーセントとするという線から弾き出して、印象的な六六六・六六ドルという価格を設定した。
 バイトショップの店舗をつぎつぎと増やしながら、全米にチェーン店網を築き上げようと奔走していたテレルは、アルテアやIMSAIと競い合ってショップの売り上げを伸ばしてくれるマシンを求めていた。テレルは引き続いてアップルIに注文をかけてくれたが、その一方でベーシックインタープリターをいちいち手作業で入力しているようではこのマシンに大きなチャンスはないと考え、カセットテープレコーダーとのインターフェイスを開発するよう強く求めた。ジョブズはウォズニアックをせかせてインターフェイスを作らせ、カセットテープに収めたベーシックとセットにして七五ドルで売り出した。
 
 ジョブズがアップルIの製品化に向けて奮闘を続けているあいだも、ウォズニアックの関心はいかにして自分の6502マシンを前進させるかという一点にとどまり続けていた。
 スフィア社のミニコンピューターが、ホームブルー・コンピューター・クラブの会合で演じて見せたカラーグラフィックスの魔法は、何人かのメンバーの心をとらえたまま放さなかった。
 スタンフォード大学の電気工学部で教えていたハリー・ガーランドとロジャー・メレンの二人もまた、この会合でカラーグラフィックスに魅せられていた。アルテアに強い興味を抱き、このマシンの機能を拡張する周辺機器を開発しようと考えていた二人は、まずテレビにカラー画像を表示する装置に取り組んだ。ダズラーと名付けられたこの装置は一九七五年の終わりにはもう、クラブで発表されるにいたった。二人はクロメンコ社を起こし、ダズラーを売り出した。
 一方ウォズニアックも、自分の6502マシンにカラーグラフィックスの機能を持たせることを、次の目標に据えていた。
 白黒のマシンを拡張してカラーの表示機能を与えようとすれば、素直に行けば回路は当然より複雑になった。このカラー化を、ウォズニアックは最小限のハードウエアで達成したいと考えた。最小限のコンポーネントで最大の効果を上げることにテクノロジーの美を見いだすウォズニアックにとって、カラー化は格好の腕のふるいどころだった。
 画面の情報をどうメモリーに記憶させるかに関してアクロバット的な仕掛けを採用することで、ウォズニアックは通常なら実現できない色数のカラーを、少ないメモリーで表現する手法を編み出した★。

★高解像度モードではアップルIIは二八〇ドット×一九二ラインで六色を表現した。二八〇ドットの走査線一本の情報は、先頭の一ビットで色指定を行い、七ビットでドット情報を指定する四〇バイト長のデータによって形成される。この構成では七ドット×四〇で二八〇ドット分の記憶は可能になるが、本来なら色指定には一ビットしか割り振っていないので、二色しか表現できない。ところがウォズニアックは偶数番地と奇数番地で色指定モードを切り替えるという仕掛けによって、四色の指定を四〇バイト×一九二ラインの七六八〇バイトのメモリーで実現している。この四色にモノクロの白と黒を加えて、六色のカラーが表現された。メモリー四Kバイトの基本仕様では、アップルIIは四〇×四八ドットで一六色を表示したが、メモリーを一二Kバイトまで拡張すれば二八〇×一九二ドットで六色まで表示できた。高解像度でのカラー表示は、当時アップルIIの独壇場だった。

 さらにウォズニアックは、改良版の6502マシンに、スロットをたくさん用意したいと考えた。ウォズニアックの慣れ親しんでいるミニコンピューターでは、増設ボードによる拡張が常識であり、アルテアもスロットによる拡張性を売り物していた。ウォズニアックは新しい6502マシンには、思い切って八つのスロットを用意しておこうと考えた。
 テレビゲームの受け皿として効果を発揮するように、ウォズニアックは操作用のつまみのついたパドルのインターフェイスを新しいマシンに持たせ、効果音が生かせるようにスピーカーも組み込もうと決めた。
 カセットテープレコーダーのインターフェイスも、新しいマシンには不可欠の要素と思われた。加えて今回は、自ら開発したベーシックをROMに焼いてマシンに組み込み、電源を入れると同時にベーシックを使えるようにしておこうと考えた。
 一九七六年の後半、初めての6502マシンをアップルIに仕立てて大きなビジネスに育てようとジョブズが奮闘していた時期、ウォズニアックはHPでの仕事の合間を縫って、カラー化した6502マシンの開発を進めていた。
 アップルIの生産は第一期の五〇台に終わらず、続いてジョブズは第二期の一〇〇台に乗り出した。アップルのビジネスには、弾みがついていた。だがウォズニアックの興味は、相変わらず物作りに集中していた。HPという職場には満足していたし、ホームブルー・コンピューター・クラブの仲間たちのフィードバックは、6502マシンを進化させるうえで、創造性に降り注ぐ恵みの雨の役割を演じてくれていた。
 こうした環境下で、ウォズニアックはカラー版の6502マシンを前進させていった。コンピューターの動作のタイミングをとる信号を、すべて一つの回路から作り出してしまう手を思いつき、最小限のメモリーで六色を出せると気付いたときには、これこそ生涯最高の傑作になるに違いないと確信して、抑えきれない興奮と喜びを味わった。だがそのカラー版6502マシンを誰に売ってもらうかという点に関しては、ウォズニアックは突き詰めて考えてはいなかった。共同経営者になっているという点では、アップルも端末のコンピューターコンバーサーも変わりはなかった。
 ウォズニアックは、キーボードと一体化したデザインで新しいイメージを打ち出していたソル・ターミナル・コンピューターのプロセッサテクノロジー社に、新しいマシンを売ろうかと考えた。のちにPETを出すことになるコモドール社から、現金と同社の株と地位を条件にアップルの新しいマシンを買い取りたいという条件が示された際は、ジョブズもウォズニアックも一時この話に傾いた。
 そのウォズニアックをアップルにつなぎ止めたのは、ジョブズの成功へのあくなき執念とパーソナルコンピューターへの確信、そして傲慢さと裏腹の誰にもひるむことのない強烈な自負心だった。
 ウォズニアックには技術があったが、ジョブズにあったのはアップルだけだった。
 ジョブズはあくまで、アップルをのし上がらせる道を選ぼうと踏ん張った。
 
 事業拡張のためにベンチャー資本を獲得しようと考えたジョブズは、投資を申し入れた相手から「マーケティングの専門家のいない素人二人の会社に金は出せない」とはねつけられた。「ならば、適任者を紹介してほしい」と求めると、ベンチャー資本家はマイク・マークラーの名をあげた。
 シリコンバレーの半導体企業のルーツとなったフェアチャイルド社を経て、インテルのマーケティング部門で働いていたマイク・マークラーは、同社の株式公開時に大金をつかんだ。三〇代で早くも引退したマークラーは、クパチーノで悠々自適の生活を送っていた。
 マークラーはアップルに投資し、経営に参加することを了承したが、その条件としてウォズニアックがHPをやめ、フルタイムでこの会社のために働くことを求めた。
 会社の未来にも、カラー版6502マシンの事業としての成功にも確信が持てなかったウォズニアックは、ジョブズの脅しやすかし、泣き落としにも、マークラーの説得にも、最後までHPをやめることをためらい続けた。
 一九七七年一月三日、アップルコンピュータ社を正式に設立しようとする当日になってもなお、マークラーの家に集まったメンバーに、ウォズニアックは降りると言い出した。
「すっきりしたデザインのコンピューターを作りたいだけで、会社の経営なんてがらじゃない」
 当惑するジョブズとマークラーを前に、ウォズニアックはそう繰り返した。
 ジョブズは高校時代からのウォズニアックの親しい友人であるアラン・バウムに、彼を説得してくれるよう頼み込んだ。カラー版6502マシンに関して意見を交換しあい、一部は共同してアイディアを練ってくれたバウムから、翌日「会社を始めても経営者になる必要はない。エンジニアとして仕事を続けることはできる」と説得されたウォズニアックは、ようやくアップルの設立に同意した。だが会社が本格的に走りはじめた当初、ウォズニアックはアップルが失敗したときHPに復職できるかを心配し続けていた。
 
 カラー版6502マシンをアップルIIとして製品化しようと動きはじめたアップルは、一九七七年四月に開催されることになった第一回ウェスト・コースト・コンピューター・フェアー(WCCF)を新製品のお披露目の場としようと考えた。
 ホームブルー・コンピューター・クラブのメンバーであり『DDJ』の編集長でもあるジム・ウォーレンは、エレクトロニクス版のウッドストックを西海岸で開きたいと考えた。ウォーレンたちは、当初例会を開いているスタンフォード大学でフェアーを催すことを考えたが大学から断られ、思い切ってサンフランシスコの大きな催し物会場を借りることにした。
 ウォズニアックの作ったカラー版6502マシンははじめ、葉巻箱に収められていた。コンピューターのアーキテクチャーを可能な限りすっきりと構成することは、ウォズニアックにとって重要なテーマだったが、彼は見かけにはこだわらなかった。
 一方ジョブズは、アップルIIをキーボードと一体化したプラスチックのケースに収めたいと考えた。プロセッサテクノロジーのソルはキーボード一体型の金属製のケースに収まっていた。むき出しの基板にすぎないアップルIや、スイッチとランプの並んだ箱形のアルテアやIMSAIにはかけらもなかった道具としての洗練された美しさを、ソルは備えていた。ジョブズは金属ケースからさらに一歩進め、HPの電卓が使っているようなプラスチックの筺体にマシンを収めようと考えた。百貨店を歩いてあらためて見なおしてみると、家電製品や音響機器など、日常的に使われる道具はいずれもプラスチックのケースに収まっていた。製造コストはかさむが、ジョブズは美しいプラスチックの筺体を用意することで、誰もが触ってみたくなるようなエレガントな道具にアップルIIを仕立ててみたかった。
 当時の電源装置は高い熱を発したため、マシンには冷却用のファンの立てるうるさい音が付き物だった。ウォズニアックにとって電源はパーツ屋から仕入れてくる単なる部品にすぎず、こうしたアナログ技術は彼のテクニックのメニューには含まれていなかった。だがエレガントな道具を目指すジョブズは、アップルIIを静かなマシンにしたいとこだわった。ジョブズはアナログに強いアタリのロッド・ホールトに、ファンを使わなくてよい電源の開発を依頼した。
 ウォズニアックの美意識はアップルIIのアーキテクチャーに貫かれていたが、ジョブズの美意識もまた、アップルIIの道具としての仕上がりに大きく貢献していた。
 フェアーに向けて、ジョブズはケースのデザインや製造、プリント基板の手配や組み立て、六色に塗り分けられたリンゴのマークの仕上げやパンフレット、名刺の手配などありとあらゆる仕事に追いまくられた。一方ウォズニアックは、ROMに焼いてマシンに組み込むベーシックの仕上げに追われていた。ウォズニアックのベーシックには整数しか取り扱えないという大きな制約があったが、動作は速かった。
 一九七七年四月十六日、入り口正面の最高の場所にブース★を確保したアップルは、アイボリーのプラスチックケースに収まったアップルIIをデビューさせた。

★『コンピュータウォリアーズ』に記載されたジム・ウォーレンの回想によれば、第一回のWCCFを手がけたブースの装飾家、ジム・エーガンはキャッシュにこだわって惜しいところで大儲けをし損なったということである。
「さて、ひげ面で、長髪を頭のうしろで束ね、リーヴァイスのジーンズをはいたヒッピー風の若者ふたりがカウンターにやってきた。で、こちらにはショーを手がけて二〇年という白髪のご老体がいるというわけだ。いいかい? ここには、世界中のありとあらゆるはったり屋やいんちきアーチストたちがしばしばやってきたね。このふたりの若者はこう言ったよ。『ねえ、おじさん、うちの品物をうんと派手に見せるのに、こういうクローム製のうんと上等なディスプレーを使いたいんだ』『いいよ、貸してやるよ』とエーガンが答えると若者たちが言った。『うーん、ところが僕たちはちょっとばかり金づまりなんだ。金のかわりにうちの会社の株で払うってのはどうだろうね? アップルコンピュータっていう会社なんだけど』。そこでエーガンはテーブルを叩いて言った。『アップルコンピュータだと? 絶対だめだよ。ここじゃ現金でしかやらないんだ。ディスプレーが欲しいんならキャッシュで払ってくれ』」
 そう言われてジョブズとウォズニアックはやむをえず、自分たちでディスプレイを作ってしまい、ジム・エーガンはブース装飾の仕事を続けることになったという。
 悪ガキどもをどやしつけたエーガン氏は、今もご健在だろうか。

 ウォズニアックはカラー表示可能なアップルIIの回路を、6502を含めて六二個のチップだけで構成していた。六Kバイトの整数ベーシック★は、二KバイトのモニターとともにROM化されて回路に組み込まれており、電源を入れると同時に使いはじめることができた。最小構成では四KバイトのRAMは、最大で四八Kバイトまで拡張できた。

★のちにアップルは、マイクロソフトの八Kベーシックの拡張版をアップルソフトベーシックの名称で増設ボードやディスクの形で供給し、アップルIIプラスからは本体のROMベーシックもこれに置き換えた。

 主催者の予想をはるかに超える大盛況となった会場では、PETの試作機を展示したコモドールや、ソルでゲームを走らせたプロセッサテクノロジー、バイオリズムのデモを行ったIMSAIなどのブースがとりわけ密度の濃い人の波を作っていた。一方、巨大なテレビディスプレイを持ち込んだアップルの、万華鏡を思わせるグラフィックスのデモの前にも、大きな人の渦ができた。
 電子機器の無骨さを感じさせず、愛らしいリンゴのマークまで付けたスマートなアップルIIは、会場の喧噪の中では意識されることはなかったものの、まったく音を立てない静かなマシンだった。
 アップルIIの価格は、一二九八ドルに定められた。アップルIは累計で二〇〇台ほど売れたが、フェアーから二、三週間のうちに、アップルにはおよそ三〇〇台のアップルIIの注文が舞い込んだ。
 アップルIのマニュアルを書いた縁で同社の社員となっていたジェフ・ラスキンは、わかりやすい表現に留意し、グラフィックスを多用した素晴らしいマニュアルをアップルIIのために準備した。
 第一回WCCFで、アップルIIは見事に離陸した。

もう一人の電子少年
伊勢崎に生まれる


 スティーブン・ウォズニアックに遅れること三年二か月、松本吉彦は一九五三(昭和二十八)年十月に群馬県伊勢崎市に生まれた。
 父の松本庄八は、太平洋戦争末期、予科練を経て特別攻撃隊に編成されていた。爆薬を積み込んだ木製のボートに乗り込み、敵艦への体当たりを目指す震洋の基地で敗戦を迎えた翌日、仲間たちの多くが爆発事故で命を落とした。
 復員した松本庄八は、戦争を超えた世界の建設に夢を抱いた。志を共有する仲間たちと群馬県下でグループを作り、世界的な世界連邦運動に共鳴して動きはじめた。その一方でボーイスカウトの隊長を引き受け、子供会を組織して、童話の朗読会や唱歌指導、幻燈会などの催しで県下の町村を回った。
 織物の町の伊勢崎で、松本家は曾祖父の代から染色に携わってきた。庄八も染め物の腕を持っていたが、繊維不況の中で吉彦が五歳になるころ、布団屋を営むようになった。ただしそれ以前も以降も、松本庄八はまず第一に、社会活動家だった。
 父の携わる活動や、織物の町の伊勢崎に、松本吉彦を電気に向かわせる何かがあったわけではなかった。松本をエレクトロニクスに引き寄せたのは、近所の子供たちのリーダーとなっていた中学生だった。地元の小学校に上がって間もないころから、松本は「まあちゃん」と呼んでいた六つ年上の中島正敏の手ほどきを受けて、工作に取り組むようになった。
 電気にめっぽう詳しく、何を聞いても新しい世界の扉を開くような答えを返してくれたまあちゃんは、あたりの小学生たちの尊敬を一身に集める存在だった。まあちゃんの家の隣にはラジオ屋があり、この店で捨てられるジャンクはもっぱら彼の部品供給源となっていた。やがて年下の小学生のあいだでも、彼の指導のもとにラジオ作りを試みるのがはやりはじめた。
 松本は工作グループの中では最年少だったが、熱中の度合いは一番だった。簡単な鉱石ラジオの組み立てには飽き足らず、小学校二年のころからは、まあちゃんの手ほどきを受けて真空管式のラジオ作りに取り組むようになった。雑誌や解説書に目を通し、電波通信を成り立たせている仕組みが理解できるようになると、ラジオ作りはますます面白くなってきた。真空管やコンデンサー、抵抗など一つ一つの部品の働きを知り、各々の部品が結びつく必然性に納得がいきはじめると、ラジオはまるで精緻な生き物のように思えてきた。部品をかき集めて一からラジオを組み立てていく作業に、松本は命ある世界を自らの手で作り上げていく創造の神となったような、しびれるような快感を見いだした。
 小学校三年でついに並三ラジオを完成させたときには、繰り返し繰り返し胸の底からこみ上げてくる喜びに、松本は自我の根を震わせた。
 エレクトロニクスの精緻な世界が、そのとき松本自身によって命を吹き込まれ、目の前で息づきはじめていた。その後も手作りのラジオに電源を入れるたびに、松本は無機物の回路に命を吹き込むことの喜びを、番組を聞き流しながら確認することができた。手作りの並三ラジオで聴く限り、ラジオ放送はもう単なる放送ではなかった。流れ出てくる音声は、自らがエレクトロニクスの世界を理解し、電気仕掛けの生命をこの手で作り上げたことを証すファンファーレだった。
 松本はやがて、アマチュア無線の専門誌『CQ ham radio』を読むようになった。
 エレクトロニクスのマニアにとって、受信機や送信機をさまざまに工夫して作り上げ、実際に電波を飛ばして作品を使ってみることのできるアマチュア無線は、腕を鍛え、新しい挑戦に打って出る格好の土俵だった。松本自身、無線電話で見知らぬ人と話すことには興味が湧かなかったが、免許を取って手作りの通信機器を実際に機能させることには、すぐにでも挑戦してみたくなった。参考書で勉強して小学校六年で受験してみると、初めての挑戦で免許が取れた。
 進学した地元の豊受中学校には、アマチュア無線のサークルはなかった。松本は科学クラブに所属したが、ここもメンバーは少なく、予算もほとんどついていなかった。二年生になって部長を名乗ることになり、活動らしい活動をやっていなかったクラブを建てなおそうと考えた松本は、予算獲得作戦の一環として、読売新聞社の主催する学生科学賞に応募した。
 応募作品のテーマには、SF小説の中で出会った「地中通信」技術を選んだ。
 
 小説の仕立てでは、月面上の通信手段として地中通信が利用されていた。
 地球大気の上層には、太陽からの紫外線を受けて分子や電子がイオン化した電離層がある。この電離層は、電波を反射する性質を持っている。そのために、無線通信の電波は宇宙に逃げっぱなしになることがない。電離層が電波を閉じ込め、反射してくれるからこそ、地球の裏側との交信も可能になる。
 ところが大気のない月には、電離層もない。月面では、裏に回った側との無線通信は、衛星でも打ち上げておかない限り不可能である。そこでSF小説では、地中通信を月面での長距離通信技術と仕立てていた。
 この技術に挑戦しようと考えた松本は、科学クラブのメンバーを動員して実験に取り組んだ。まず真鍮の棒を二本、一〇〇メートルほど離して地面に突き刺し、片側に数ワットの出力の送信機を、もう一方に受信機をつないでみた。周波数を合わせ、マイクから声を送るよう指示を出すと、仲間の声がはっきりと聞き取れた。真鍮の棒のあいだを徐々に離して実験を繰り返すと、簡単な送信機で一キロメートルくらいまでならどうにか通信できることが分かった。
 実験の結果をデータとしてまとめ、月面では地中通信が有効であること、地上でもこの方式なら電波法に触れず、免許なしで通信できることなどの解説を付けて応募した。すると群馬県単位で催された学生科学賞の、優秀賞に選ばれた。
 無線通信機やオーディオ機器作りに明け暮れて受験勉強には熱を入れなかったが、群馬県一の受験校とされる前橋高校を受けると合格となった。一月、東京大学安田講堂で機動隊と学生が攻防戦を演じた一九六九(昭和四十四)年、松本が門をくぐった前橋高校の空気は、これまで中学校で吸ってきたものとは明らかに異なっていた。
 翌年の日米安全保障条約の延長やアメリカによるベトナムへの軍事介入、成田空港の建設強行とさまざまな政治的問題にどう答えるかを求めるビラが、中学を卒業したばかりの松本にも手渡された。進学校のエスカレータに運ばれていけば、当然門をくぐることになる大学の意味を問おうとする呼びかけも、松本の耳には新鮮だった。
 中学では一人で浮いてしまうことの多かった松本だが、県下から早熟で頭のめぐりのいい生徒を集めた前橋高校では、酒や煙草を回しあいながら夜更けまで話し込んでいられる友達ができた。松本自身は政治集会やデモに直接参加することはなかったが、友人たちとの話題にはベトナムや成田や、何よりだめな日本のあり方が紛れ込んできた。えんえんたる無駄話が深夜に及ぶと、高校生であること、大学に進むこと、果ては生きることの意味への問いかけといった空恐ろしいテーマすら浮上した。
 この時期、早熟な少年たちのあいだでは、仲間たちを、そして自分自身を圧倒するねたを仕込むために哲学書を読むという、古典的な青年期の通過儀礼がなお生きていた。友人たちに後れをとるまいと取り組んだドイツ観念論者の著作にはさっぱりぴんと来なかったが、松本は自分自身のアイドルを哲学者の中に発見することができた。
 イギリス人の数学者で、哲学に関する著作を残し、核兵器廃絶やベトナム戦争反対をかかげる平和運動家でもあったバートランド・ラッセルの明快で実践的な主張は、まっすぐに心に染みてきた。言葉の流れる道筋を理解できただけではなかった。松本はラッセルの啓示によって、自分をエレクトロニクスに強く引き付けて離さない力の本質に目を向けはじめていた。
 
 ラッセルの『幸福論』にあった「偉大な建設的な事業の成功から得られる満足は、人生が与える最大の満足の一つである」という一節は、松本の心を強く引き付けた。
 ラッセルの言う建設性という言葉を、松本は創造性と置き換えてみた。
 ラッセルは、モニュメントとして残るような創造的な仕事に挑み、これを成し遂げることこそ人生最大の幸福の一つであるという。松本は、小学校三年生で並三ラジオを完成させたときの突き上げるような喜びを思い起こし、この主張に完全に同意した。ラッセルはさらに、「建設の仕事は、完成したあかつきにはつくづく眺めて楽しいし、その上、もうどこにも手を加える余地がない、と言えるくらい完璧に完成されることは決してない」として、創造的な仕事が与える喜びの泉がつきることはないとだめを押していた。
 前橋高校への入学直後から『CQ ham radio』で連載が始まった新しい分野の記事に、松本は再び挑戦への意欲を刺激されていた。無線通信の電波にテレビ映像を乗せるアマチュアTV局作りを目指した西村昭義は、一九六九(昭和四十四)年四月号から三回にわたって、テレビカメラを手作りするための解説記事を連載した。
 テレビカメラへの挑戦は、松本にとってもさすがに難題と思われた。
 テレビを作るとなれば、まず光の画像を電気の映像信号に変える撮像管と呼ばれる高価な部品が必要になる。ところが西村によれば、秋葉原にはビジコン管という比較的安い撮像管がジャンクとして出回るようになっており、これならアマチュアでも手に入れることができるという。カメラには高性能のレンズをと思いがちだが、西村はこれも天体望遠鏡のキットのもので充分使い物になると書いていた。
 最大の問題点は、画像を映像信号に変換するにあたって大きな役割を演じる偏向コイルの製作だった。どこの家にもあるテレビ受像器のブラウン管の中では、じょうごの筒にあたる部分から打ち出された電子が、偏向コイルによって曲げられ、蛍光面上の狙ったところを光らせて像を作っている。撮像管では逆に偏向コイルによって曲げられた電子ビームが順に各点の光の有無を判定して、結果を電気信号に変えていく。この偏向コイルは大変に高価であり、自作するとなると手巻きして調子を見ては、もう一度巻きなおす作業を繰り返さざるをえないという。
 ただし筆者の西村は、一方で困難を指摘しながらも読者を励ますことを忘れてはいなかった。
「アマチュアたる物、テレビカメラは取っつきにくいと言った先入観にとらわれてはいけない。まず試みてみる。自分で考え、自分でやってみる。失敗しても何度でもアタックする。そうした根性こそが、アマチュアの神髄ではないだろうか」(『CQ ham radio』一九六九年四月号「ジャンクのビジコンを使った「アマチュア局用」テレビカメラの製作」)
 だが松本にとっては、厄介な作業も覚悟しなければならないという警告こそが、最大の誘惑の言葉だった。作り上げることが困難であればあるほど、達成したときの喜びが大きいことを、少年はすでに意識していた。
 
 テレビカメラの製作には、連載の終了と休みを待って、高校一年の夏から取り組んだ。秋葉原を歩き回ると、記事で使っていたのと同じではなかったが、似たようなビジコン管が一〇〇〇円ほどで買えた。回路を組み、取りあえずコイルを巻いて作ったカメラに、家庭用のテレビに接続するためのVHF発信器を組み込んで、絵を出そうと試みた。だが画面上には、まったくもって絵が浮かばない。夏休みが終わっても、テレビカメラの仕上がりのめどは立たなかった。
 新学期が始まってからも、松本の意識はテレビカメラに集中したままだった。記事に紹介されていた参考文献を調べてテレビを成り立たせている仕組みを勉強しなおし、電磁気学の理論に立ち戻って、コイルの巻き数を割り出しては何度も巻きなおしてみた。だがどうしてもまともな絵になってくれない。いつまでも突破口を見いだせず試行錯誤を繰り返しているうちに、片道一時間かかる学校に出て作業を中断する代わり、一日中テレビカメラと格闘を続けてしまうことが、二日、三日と続くようになった。両親に叱られては学校に顔を出し、仲間たちとむだ話に興じた。だが泥沼の中でテレビカメラへの執着が強まるにつれて、反比例するように授業には興味が持てなくなった。
 それでも試験には顔を出し、翌年の春には二年に進級できた。テレビカメラはこの時期になってもなお仕上げることができなかったが、自分の頭だけを頼りに突破口を開こうともがき続ける行為には手応えがあった。いったんはあきらめかけたが、作業を放り出していると心の中に風穴があいたような寂しさを覚え、かえっていらいらが増した。連載記事に自宅の住所を掲載し、質問を受け付けるとしていた西村昭義に手紙を書いてみた。西村からのアドバイスに従って一から回路を見直し、二年生の七月からはもう一度作業に没頭する日々が続いた。
 八月に入ると、ぐにゃぐにゃに歪みながらも何とか画像が浮かび上がるようになってきた。最後の三日間は、徹夜で調整を続けた。コイルをはずしては巻きを調整し、もう一度取り付けては画像をチェックする作業がえんえんと続いた。秋葉原で調達したビジコン管が、記事で使っていたものとは異なっていたことも手伝って、最後の調整作業にもさんざん手こずった。
 だがフィナーレはついに、そして突然やってきた。
 
 自室の蛍光灯の下で、コイルの調整と取り付けを夜通し繰り返していると、手作りのカメラのすくい取った世界が、ふっと浮かび上がって画面上にとどまった。松本は部屋の畳に座り込んだまま、呆然とテレビを眺めていた。
 東から空が白みかけ、鳥の声が遠く近く重なり合って朝の空気を震わせはじめた。
 松本は腰を上げてカメラを手にとり、窓の外にレンズを向けてみた。
 画面の左側に、画像の一部が薄く対称に映っているのに気が付いた。だが手作りのカメラは、確かに早朝の町の、息をひそめたような姿を写し取っていた。
 そのとき不意に、一匹の小鳥がカメラの前の景色を切り裂いて飛んだ。
 ラッセルの言う、建設的な事業の成功から得られる人生最大の満足は、この瞬間、松本の胸の内にあった。
 体中をみたした疲れを泥のような眠りの中で吐き出した松本は、この喜びにいたるきっかけを与えてくれた西村昭義にあてて報告の手紙を書こうと思い立った。

「拝啓 JA1BUD西村昭義様
 六九年四、五、六月号の『CQ ham radio』にのっていた貴局の設計されたTVカメラを、やっと作り上げました。
 今の感激は、小学校三年生の時並三ラジオを作り上げたときの感激に次ぐものです。そのようなわけで雑誌の記事を見て作ったものが無事に出来たので、ちょっと興奮しているところです」

 手紙を受け取った西村は、記事に触発されて試みはしたものの、失敗する者が続出する結果となったテレビカメラ作りを、高校生が成し遂げたことを大いに喜んだ。たくさんの熱心な問い合わせはあったが、コイル部が最後まで障壁となって、記事のカメラには完成にこぎ着けられる人がほとんどいなかった。この反省を踏まえ、西村は『CQ ham radio』の一九七〇(昭和四十五)年八月号から、静止画しか扱えない代わり作りやすい別方式のカメラの製作記事を連載しはじめたばかりだった。
 西村は編集部に松本からの手紙を紹介し、これが半頁にまとめられて同誌十月号の誌面を飾った。
 活字となった名前は、松本の心をもう一度強く弾ませた。
 
 前橋高校に籍を置いて過ごした一五歳からの数年は、松本吉彦にとって、万華鏡の空に向かって一つ一つ窓を開いていくようなかけがえのない時期だった。
 友と呼べる仲間たちと出会い、底の見えない深い淵のような他者と触れ合う喜びと恐れを知った。読むことの快楽を経験し、書くことの喜びも覚えた。そしてエレクトロニクスの世界において、松本吉彦はとりわけ充実した日々を送っていた。
 だが両親にとってみれば学校を休みがちの息子は心配の種であり、教師にとって授業に関心を持たない生徒は問題児だった。
 前橋高校の若い数学教師、桜井直紀にとっても、松本吉彦はじつに歯がゆい存在だった。彼は明らかに桜井の授業に関心を持っていなかった。欠席の多さや授業態度、試験の答案用紙から判断すれば、松本が教科書を家に持ち帰って開いているとはとても思えなかった。ただし、松本がきわめて鋭敏な数学的センスを持っていることは、答案用紙の解答やほんの二言三言の会話からも明らかだった。その松本が学校に背を向けていることが、桜井には気にかかった。顧問を務めている数学部にでも顔を出してくれればと思ったが、アマチュア無線の免許を持ち、生徒たちのあいだではエレクトロニクスの天才と評判の松本は、高校の無線部にも所属していなかった。
 カリキュラムで命題論理学の基礎を取り扱う時期になって、桜井はこのテーマならエレクトロニクスに対する松本の興味と数学の授業への関心を結びつけてくれるのではないかと考えた。
 コンピューターの論理回路は、命題論理学の演算をエレクトロニクスの素子によって実行させたものである。ならばコンピューターをきっかけとすれば、松本は学校の命題論理学の授業に興味を持つのではないか。
 一九六七(昭和四十二)年に筑波大学の前身にあたる東京教育大学理学部の応用数理学科を卒業した桜井にとって、前橋高校は初めての赴任先だった。応用数理に籍を置きながら、桜井自身は純粋論理の分野を専攻したが、学科の性質上、コンピューターに関する教育は体験してきていた。大学時代、教科書として使われたモンゴメリー・フィスター・Jr.の『ディジタル計算機の論理設計』(尾崎弘訳、朝倉書店、一九六〇年)が、系統立って理解しやすく書かれていたことを、桜井は記憶していた。
 書棚からこの本を引っ張り出してきた桜井は、翌日、授業の終わったあとで「読んでみないか」と松本に手渡し、「コンピューターに関連する内容を、今度授業でもやるから、そっちもちゃんと聞いとけよ」と釘をさした。
 
 松本はそれまでも、コンピューターの啓蒙書を何冊か読んでいた。だがこれまで体験してきた本は、松本のイメージを混乱させるものばかりだった。コンピューターの能力や可能性を大仰な形容詞を羅列して描写されても、松本はそもそもどうした理屈でこの機械が動くかが気にかかった。おおもとの仕組みへの理解を欠いた状態で、人工知能の成果やコンピューター社会の夢や危険性を外側からなで回されても、関心は焦点化していかなかった。
 一方、桜井が読めと勧めてくれた『ディジタル計算機の論理設計』は、碁盤の目のような整然とした論理の世界を松本の前に開いてくれた。純粋に数学的な角度から計算機がどう論理を処理していくかを解説したこの本で、松本はこれまではまったくわけの分からない存在だったコンピューターが、当たり前の理屈に支えられていることを初めて実感できた。
 ではこうした基礎的な枠組みを出発点として、具体的にどう論理を組み上げ、さらにそれをどう回路に移し替えていくのか。『ディジタル計算機の論理設計』をこなしたあと、松本はコンピューターを本当に理解するためのステップを思い浮かべられるようになっていた。自分が手を染める世界のある部分をブラックボックスとして残すことは、松本にはどうにも我慢ができなかった。取り組むのなら、一から理解したかった。だがそのためには、エレクトロニクスという一つの範疇にはくくられても、これまで慣れ親しんできた通信機のアナログの世界とは対照的なパルス技術を駆使するデジタルの世界に飛び込んでいかざるをえなかった。
 一九七二(昭和四十七)年三月、前橋高校を卒業したころ、松本にはコンピューターに触れるチャンスは皆無だった。インテルの4004がいまだほとんど注目を浴びず、もっとも小型のマシンがDECのミニコンピューターでしかなかった当時、松本にはまだ、デジタルの世界に飛び込んでコンピューター作りに挑むチャンスは訪れなかった。
 両親や教師に尻を叩かれてかろうじて卒業にこぎ着けた松本にとって、同級生がかかずらわっている大学受験はひと事だった。受かるはずもないと思い、大学は一校も受けずにいた。ただし、どこに腰を落ちつけるあてもない自分自身の事情と、両親の叱責と期待に折り合いをつけて、浪人として予備校に通うことになった。
 現実には、松本は浪人時代を秋葉原に入りびたって過ごした。表通りに大型電気店の立ち並ぶこのエレクトロニクスの街では、マニアにとってのおいしいネタは、電子部品やジャンクのあふれかえった裏通りにまず届いた。予備校に通うと称して、祭りの夜店のようないかがわしさと勢いにあふれた裏道の店を覗き回っていた当時、秋葉原にはIC電卓のジャンクが出回るようになっていた。
 一九六〇年代のはじめに真空管を使って初めて作られた電子卓上計算機は、一九六四(昭和三十九)年にシャープのコンペットで初めてトランジスター化され、小型化、低価格化に向かって進みはじめた。一九六七年ごろからは、集積回路を用いたIC電卓が作られるようになり、すぐにより集積度を高めたLSIを採用した機種が登場してきた。
 松本が浪人時代を過ごした一九七二(昭和四十七)年ごろ、猛烈な勢いで電卓が小さく、安くなる中で、秋葉原にはすっかり時代遅れとなった初期のIC電卓がジャンクとなって流れはじめていた。デジタル技術を経験してこなかった松本にとって、IC電卓のジャンクは格好の練習台だった。予備校の帰り、小遣いの範囲で収まるジャンクを買ってきて利用できる部品を抜き取り、松本は電卓の基本的な動作を実行する回路を作ってみた。
 出来合いのICを使って回路を組む作業を、自分は楽しめるのか。松本はその点にまず、興味を持った。
 
 これまで慣れ親しんできたアナログのエレクトロニクスの世界は、松本には、音楽が生まれるプロセスに似通っているように思えた。
 美しい音楽が生まれる原点には誰かの手による作曲の工程があるように、電子機器の誕生の出発点にも新しい回路の発明がある。編曲に相当するのは、基本設計。ここで定められた基本方針に沿って、各楽器のパート譜を書いていくオーケストレーションに相当するのが、回路設計だろう。そこから指揮者がタクトを手にするように、松本たちははんだごてを握る。リハーサルに相当する回路別の実験があり、演奏が実際の製作に相当する。
 小学生で並三ラジオに挑んだときはリハーサルからの参加だったが、テレビカメラでは編曲の基本設計にも踏み込んだ。さらにアナログの機器に関しては、松本は原点の回路の考案から取り組んだ経験も積んでいた。
 だがあらかじめ回路を半導体上に作り付けてある出来合いのICを使うとなると、松本が関与できるステップは、大幅に制限された。集積度が高まるにつれて回路のより広い範囲がチップに収まれば収まるほど、リハーサルと演奏に相当する創造性をほとんど問われない作業にしか関与できなくなるように思えた。
 最終的に電子機器を安く、小さく仕上げるといううえでは、集積回路は絶大な威力を発揮する。童心に返って並三ラジオを組み立てるつもりで臨めば、かなり使いものになる機器が簡単に作れるようになるだろう。だが作ること自体を楽しむマニアにとって、回路の大半をブラックボックス化してしまう集積回路の急成長が果たして幸せをもたらすものなのか、松本には判断がつかなかった。
 一九七三(昭和四十八)年四月、松本は東京電機大学工学部電子工学科の第二部に入学した。両親の期待と自分自身の居所を定める妥協の産物でしかなかった大学は、秋葉原にもっとも近いという一点で選んだ。
 試験会場で席を並べることになった受験生が最後の追い込みにかかっていたこの年のはじめ、松本は『CQ ham radio』の兄弟誌にあたる『トランジスタ技術』の二月号で、新しい集積回路の紹介記事を読んでいた。「ミニコンがICになった!」と題された記事によれば、アメリカのインテルという半導体メーカーが、コンピューターのCPUを一つの集積回路上に収めた製品を供給しはじめたという。具体的には四ビットの4004と八ビットの8008という二つのタイプがあり、幅広い応用が期待される、と記事は結んでいた。
 だがエレクトロニクスの世界の新しい話題には、鉄片が磁石に吸い寄せられるように食らいつく松本が、初めて出会ったマイクロコンピューターのニュースにはむしろ、小さな恐れの入りまじった、腰の据わりの悪い違和感を覚えた。
 集積回路はすでに、ミニコンピューターの頭脳に相当する回路までをブラックボックス化してしまったという。アナログ一本でここまで来た自分がコンピューターを支えるデジタル技術を消化しないうちに、半導体産業は、指先の及ばない集積回路の中にCPUを閉じ込めた。いずれはデジタルの世界に本格的に踏み込もうと考えていた松本は、飛び越えようと身構えた溝に急に丈の高い壁をしつらえられたような感覚に襲われた。
 セラミックパッケージの鎧をかぶったマイクロコンピューターは、松本の解剖の手が及ぶのを拒否しているように見えた。
 
 秋葉原通いの寄り道先が予備校から大学に変わったのを機会に、松本はかねてから胸にためてきたライターへの挑戦を実行に移そうと考えた。
 テレビカメラ完成の報告の手紙が『CQ ham radio』の誌面を飾ることになったとき、松本は並三ラジオにも、初めてテレビ画面に浮かび上がった画像にも感じることのなかった、手触りの異なった喜びを味わった。発売日を待ちかねて雑誌を書店の店先で開くと、目次にはなかったが、ハム随想と題した各地のアマチュア無線家からの手紙の欄に自分の名前があった。紙質の悪い『CQ ham radio』の誌面から、印刷された名前は磨きをかけられて浮き上がってくるように見えた。
 大学に入って間もなく、手紙の一件で連絡をとり合ったことのあるCQ出版の編集者を訪ね、製作記事を書かせてもらえないかと頼み込んでみた。実際に書いたものが水準に達していればとの答えをもらい、夏から製作と原稿書きに集中して取り組んだ。
 テーマには完成品を買えば当時数十万円はしていた、電圧、電流、抵抗を測ることのできるデジタル式のマルチメーターを選んだ。さまざまな電子機器がデジタル化されはじめる中で、松本にはアナログの世界からいつかはデジタルにジャンプしない限り、エレクトロニクスの先端から置いていかれるとの思いが募っていた。多くの読者もまたデジタルの島の急速な拡大に戸惑いを感じながら、不安を乗り越えて新しい世界に飛び移るチャンスを求めているのではないか。そう考えた松本は、自分を含むアマチュアにとって、アナログとデジタルの技術的特質を整理する機会としたいと考えて、このテーマを選んだ。
 九月に入って書き上げた原稿と図版を手渡すと、編集者は掲載を請け負い、電卓用ICを使った計算機の製作記事を書かないかと、次のテーマまで与えてくれた。
 松本の初めての記事は、一九七三(昭和五十八)年十二月号の『トランジスタ技術』に掲載された。
 書店で買った『トランジスタ技術』の目次から立ち上がって見える自分の名前に、松本は胸を熱くした。CQ出版から掲載誌が送られてくると、もう一度目次と本文を開いて名前を確かめてみた。翌年の同誌二月号には、二つ目の記事が載った。二冊目の掲載紙が送られてくるのと前後して、初めての記事の原稿料が振り込まれると、松本は原稿を書くという作業に対価が支払われるのだという事情をあらためて実感した。

日本のパソコンをリードした
二人の研究者


 松本が三年から移った第一部の電気通信工学科には、生まれたばかりのマイクロコンピューターにいち早く飛びついた若手の助教授がいた。
 東京調布の電気通信大学を一九五九(昭和三十四)年に卒業した安田寿明は、読売新聞社でジャーナリストとして働いたのち、東京電機大学に職を得て研究者となっていた。
 情報産業の展開、コンピューターの社会的な役割に関心を寄せていた安田は、一九七二(昭和四十七)年の年明けそうそう、友人からの電話でインテルが面白い集積回路を作ったらしいという話を耳にした。
 同社の輸入代理業務を行っていたパネトロン社に連絡を取ってみると、コンピューターのCPUを集積回路にまとめたマイクロコンピューターの話が聞けた。
 パネトロンによれば、四月中旬には8008の試供品が二〇個、日本に入ってくるという。予約を申し入れ、入荷の知らせを受けて二か月半後に横浜のパネトロンまで出かけていくと、複数の大手電機メーカーの顔見知りとばったり出会った。マイクロコンピューターの情報が日本のメディアにはまだまったく取り上げられていなかった時期、抜かりなく初めて入ってくる試供品を押さえる彼らの脇のしまり具合には感心させられた。小遣いをためて用意した八万五〇〇〇円で一つ仕入れた8008を、静電気で壊さないようアルミ箔でていねいにくるんでポケットに入れた。中には五個まとめて買っていく社もあり、二〇個は安田の目の前で瞬く間に売り切れた。(『マイ・コンピュータ入門』)
 安田が8008の実物を手に入れて間もなく、『エレクトロニクス』の一九七二(昭和四十七)年七月号に、日本のメディアとしては初めてのマイクロコンピューターの紹介記事が掲載された。
 筆者は、当時東京大学大型計算機センターの助教授だった石田晴久。東京エレクトロンに籍を置き、のちにインテルジャパンの会長となる加茂剛弘から、石田はこの年の正月に電話連絡を受けていた。
「アメリカから面白いものを持ってきたのですが、夕食でもとりながらご覧になりませんか」
 そう誘われて指定された都心の高層ホテルに出向くと、同社の北原積と加茂が待っていた。見晴らしのよい上層のレストランのテーブルにつくと、加茂が小さな集積回路をテーブルの上にちょこんと置いた。セラミック製のパッケージに印刷された4004の文字が、石田の目に飛び込んできた。
 二人の説明によれば、インテルが開発したこの集積回路には二二五〇個のトランジスターが集積されており、性能はごく限られたものながらこれ一つでCPUとして働くように作られているとのことだった。
 この分野を専攻して以来、さまざまな素子をはんだごてを使って一つ一つつなぎ合わせ、石田は実験用のコンピューターをいくつも作ってきた。そうした作業の中心を占めるCPUが、出来合いの部品として、しかもこれだけ小さな形で提供されたことに、石田は感動と衝撃の入りまじった気持ちの高ぶりを覚えた。二人の説明によれば、4004の処理速度は遅く、機能は乏しく、ROMに焼き込んだプログラムだけを実行するという形式にも制限があった。だが急速に進歩しつつある半導体技術を生かせば、今後、チップ化されたCPUの性能を高めていくことに大きな障害はなかった。量産の容易な集積回路にまとめている以上、CPUのコストは従来の常識とは桁外れに低く抑えられるはずだった。
「オーディオ機器の自作派やアマチュア無線をやっているような人たちなら、コンピューターが自分で作れるようになりますよ」
「そのうち秋葉原あたりに、コンピューターの日曜工作センターでも作りましょうか」
「ワンチップCPUを使って多様な機能が実現できるとなると、これは多品種少量生産を支える技術として、奇想天外なところにも使われるようになりますよ」
と次から次へ湧き上がってくるアイディアをぶつけ合い、「今後この技術にはしっかり注目していきましょうよ」と確認しあったときには、窓の外はすっかり暮れて、はるかに広がる街の灯が美しい夜景を作っていた。(『マイクロコンピュータの使い方』石田晴久著、産報、一九七五年、『パソコン入門』石田晴久著、岩波新書、一九八八年)
 石田は『エレクトロニクス』の編集部に話をつけて「ワン・チップ・CPU」と題した初めてのマイクロコンピューターの紹介記事を書いた★。続いてこのテーマに絞って一気に書き上げた原稿を『マイクロコンピュータの使い方』にまとめて、石田は一九七五(昭和五十)年一月に産報から刊行した。

★日本に初めてマイクロコンピューターを紹介した『エレクトロニクス』誌一九七二年七月号所収の論文は、以下のように始まる。
「大規模集積回路(LSI)の発達に伴い、電子計算機の(メモリを除く)中央処理装置(CPU= Central Processing Unit )はやがて一個のLSI、すなわちワン・チップにのってしまうであろうということはかなり前からいわれていたが、このほどそのはしりとなるものがいよいよ市場に登場した。それは読出専用メモリ(ROM)を主メモリとした、4ビット並列処理のワン・チップCPU(MCS―4、アメリカのINTEL社製、わが国ではパネトロン社扱い)である。カット写真に見るように、この4ビットCPUは16ピンのセラミック・パッケージに収められており、これを2048ビットのROMチップと320ビットのランダム・アクセス・メモリ(RAM)チップなどと組み合わせれば、マイクロ・コンピュータが構成できるようになっている」

 石田の論文を読んだ安田は、いつもながらの彼のアンテナの鋭さと情報の早さとに感心させられた。
 だがその時点では、安田の興味は自分自身のシステムを作り上げることに集中して向けられていた。
 いわば脳細胞だけをパッケージに収めた8008を動かして実際に機能を確認していくためには、脳に指示を送り込み、処理した結果を脳から引き出してくる仕掛けが必要だった。安田はスイッチとランプを入出力装置とした、システムの手作りに取りかかった。トランジスターと小規模な集積回路を組み合わせて電卓を作った経験はあったが、さすがにまったく新しいマイクロコンピューターの使いこなしには苦労させられた。それでも一一枚のプリント基板を駆使し、主記憶は一Kバイトの手作り一号機を完成させることができた。
 安田が8008マシンを仕上げて間もなく、一九七四(昭和四十九)年九月号の『トランジスタ技術』には「製作*マイクロCPU」と題した4004を使ったシステムの自作記事が載った。
「これまで一握りの技術的なリーダーや官僚たち、大企業のエリートによって独占されていたコンピューターの世界に、マイクロコンピューターの誕生が引き金となって草の根からのもう一つの流れが生まれるのではないか」
 安田のうちにコンピューター社会論の新しいテーマが浮かび上がってくるのと呼応するように、『ポピュラーエレクトロニクス』の一九七五年一月号がアルテアの特集を組んだ。さっそくMITSあてに注文を出した安田は、かつてラジオの世界で巻き起こった大衆運動が、マイクロコンピューターを核として再び湧き上がるのではないかと考えるようになった。
 日本のラジオ放送は一九二五(大正十四)年に始まったが、その直後から多くの人々が受信機の手作りに挑みはじめた。アマチュアのラジオ作りは、その後知的な趣味の世界へと発展を遂げ、無線通信機器やテレビへとそのテーマを拡張していった。草の根からのエレクトロニクスの大衆運動は、ラジオやテレビの文化が花開くいしずえとなった。
 ではマイクロコンピューターが引き金となってマシンの手作り運動が広がっていったとき、その先には果たしてどのようなコンピューター文化が育つのか。安田はその果てを、見てみたいと考えた。
 安田はコンピューター産業の業界誌的性格の強かった『コンピュートピア』誌の編集長を口説き落として、マイクロコンピューターを使ったシステムの自作記事の連載を決め、一九七五(昭和五十)年七月から執筆に着手した。対象は、ほとんど例外なくハードウエアへの知識を欠き、結果的にメーカーにマシン一式を押しつけられて、安くてすぐれたサードパーティーの周辺機器を使うこともままならないソフトウエア技術者に置いた。
「マイクロコンピューターを使えばハードウエアを学び、コンピューターを作ってしまうことすら可能になる。こうした試みによって、極端なハードとソフトの分業化を超えて、より健全なコンピューターとユーザーとのあり方が実現できるのではないか」
 そう考えた安田は、一年の予定でモトローラの6800を使ったシステムの自作にいたるスケジュールを組んだ。「マイ・コンピュータをつくろう」と題した記事の連載は、九月号から始まった。
 見届けたい未来を素早く手繰り寄せるには、大衆運動の旗を振るのが近道だろうと安田は考えた。

松本吉彦
マイコンに目覚める


 大学に入ってそうそう、『トランジスタ技術』への寄稿で名前を売った松本には、精密機械工学科からアルバイトの技術スタッフとして働かないかと口がかかった。
 サーボ技術を利用したり、コンピューターと組み合わせて機械を細かく正確にコントロールするために、精密機械の分野でも、当時からエレクトロニクスの知識が不可欠となっていた。友人たちの一間のアパートが七〇〇〇円から一万円程度だった当時、三万五〇〇〇円の研究室からの給料は松本にとって大きかった。
 一から十まですべての流れを理解できるアナログのサーボ技術を、松本は一手に引き受けた。だがこの分野には、コンピューターによる数値制御という新しい流れが及んでいた。精密機械工学科には沖電気のミニコンピューター、OKITAC―4300Cがすでに導入されていた。これまでは「コンピューターは分からない」と逃げてばかりいたが、教授から担当を指示されたマイクロコンピューターによる機器の制御が大きく発展していくことは、松本の目にも明らかだった。
 さらに趣味のエレクトロニクスの世界でも、マイクロコンピューターは次の冒険的なテーマとして浮上しつつあった。『トランジスタ技術』はマイクロコンピューターの大々的な特集を組み、ミニコンピューターのノバを使ってきた電気通信工学科でも、いち早く仕入れてきた8008を使って、安田助教授が手作りコンピューター試作一号機に取りかかっていた。
 何事も一から理解できなければ満足できない自分が、セラミックパッケージの鎧を突き抜けて、デジタル技術の粋を集めたマイクロコンピューターを理解できるものなのか、松本には自信よりも不安が大きかった。
 ただ、立ちつくす者が創造の喜びを手にしえないことも、松本には明らかだった。
 やってみようと決心がついたのは、一九七五(昭和五十)年春、アメリカのベトナムからの敗走という息を呑むような歴史の一頁を突きつけられた直後だった。
 取りあえずのターゲットは、日本電気製の四ビットのマイクロコンピューター、μCOM―4(μPD751D)に置いた。
 
 インテルを追って各社からはつぎつぎとマイクロコンピューターが発表されていたが、四ビットながら回路の組みやすさに気を配ったμCOM―4は、二万円以下で手に入るという安さもあって、初めての挑戦にあたっては手の出しやすい選択肢に思えた。
 マニュアルを手に入れ、本腰を入れて調べはじめた直後は、やはりブラックボックス化された半導体の中身に手が届かないもどかしさが先に立った。真空管やトランジスター、せいぜい集積度の低いICで組んでいた時代からコンピューターになじんでいれば、CPUの回路が覗けたのにと、ついそう考えた。こうなればこうなるという対応を覚えて、ブラックボックスを使いこなすテクニックだけを身につけることは、どうにも気持ちが悪かった。
 ところが厚くたれ込めた雲のようなブラックボックスのもどかしさを、μCOM―4の一本のピンが払ってくれた。
 マニュアルを読み進んでいった松本は、むかでの足のようにパッケージから突き出しているμCOM―4の二八本のピン、それぞれの役割を確認していった。一番がプラス一二ボルトの電源、二番がクロックの入力と順に一つ一つのピンの役割を追っていくうちに、八番のピンがリセットの機能を持っているとの説明を読んだところで、松本の脳の奥でなにかが閃いた。
 リセットがかかる、つまりいったんご破算にしてゼロからスタートすることができる。
 ということは要するに、膨大な回路を集積して作られたマイクロコンピューターもまた、これまで自分が慣れ親しんできた論理的な回路技術の延長上にあることの証なのではないか。コンピューターと考えるから、ついつい身構えてしまう。人工知能だ何だといった、わけの分からないイメージがつきまとってくる。だがマイクロコンピューターも所詮はデジタル技術の産物にすぎないことは、リセット端子の存在が雄弁に物語っているのではないか。要するにマイクロコンピューターは、これまでデジタルマルチメーターや電卓を作る際に使ってきたデジタルICの親玉である。確かにたくさんの回路を詰め込んでいるという規模の大きさはあるが、一つ一つの要素が理解可能な技術である以上、いかに大量に寄せ集めてあっても理解できないわけはない。
「所詮はデジタルICじゃないか」
 そう踏ん切る気持ちが、松本の胸に湧いてきた。
 中身をいじることはできなくても、デジタルICならやっていることはすべて理解できる。ICのまとめ方に気に入らない点があったとしても、それなりにあきらめて使うなり、他の回路で補いを付けるなりすればよい。
 やがて松本は、μCOM―4のリセット端子にそう語らせるようになった。
 障壁となっていたこだわりが解けると、松本の手は素早く動いた。
 秋葉原でμCOM―4の現物を仕入れ、実際にコンピューターとして機能させるためにスイッチとランプで最低限操作できて、テレタイプも接続できるシステムの手作りに取り組んだ。
 初めてのマシンは、松本吉彦のイニシャルのMYにマイコンピューターとの思いを重ねて、MYCOM―4と名付けた。
『トランジスタ技術』に掲載した手作りコンピューター記事への反響の大きさに注目したCQ出版では、このテーマ一本に絞った書籍の刊行を企画した。
 マイクロコンピューターに関する初めての特集となった一九七四(昭和五十九)年九月号に、4004を使ったATOM―10の製作記事を寄せた富崎新を中心にライターが集められた。一九七六年五月刊行の、『つくるコンピュータ』と名付けられた単行本に、松本はMYCOM―4の製作記事を寄せた。
 この本のために原稿を書き進めているあいだに、松本のうちには次のテーマが育ちはじめていた。
 MYCOM―4の製作記事でも、松本はできる限りマイクロコンピューターをブラックボックス扱いせず、内部の構造や動作の仕組みから掘り起こして、実際の製作記事へと誘導することを試みた。だが与えられた五〇頁では、マイクロコンピューターの解剖はまったくもって不充分だった。原稿を書き終えたとき、松本には達成感よりもむしろ、あれも書きたかったこれも書きたかったとの思いが強く残った。
 
 当初『トランジスタ技術』がほとんど唯一のニュースソースだったマイクロコンピューターに関する情報は、さまざまな雑誌の誌面を飾りはじめていた。
 だが中身にはいっさい触れようとせず、美辞麗句を連ねてマイクロコンピューターの素晴らしさを謳い上げたり、表に現われている機能だけを気まぐれにつまみ食いしたような記事ばかりが増えるのが気になった。中身が覗きにくいから覗かない。覗けないからいじらないの繰り返しでは、かつて自分自身がコンピューターに抱いていた、「わけの分からない特殊なもの」といったイメージが広まってしまうのではないか。デジタルICの一種として冷静に学んでいけばよいものを、おどろおどろしいブラックボックスに仕立ててしまうのではないかと思えてならなかった。自分自身にとっても多くのエレクトロニクスマニアにとっても、ここでいったんマイクロコンピューターのイメージにリセットをかけ、一から冷静に学びなおしてみる意義は大きいと考えた。
『トランジスタ技術』の編集者には、思い切って大連載のプランを持ちかけた。
 教材にはモトローラの新しい八ビットのマイクロコンピューター、6800を使う。まずはコンピューターの基本的な仕組みから説き起こし、その構造が6800でどう実現されているかを分析する。そして最終的には、これを利用したシステムの製作へと導いていく。各社からさまざまなタイプが製品化される中でも、インテルの8080が主流となっていることは当然承知していた。だが、最少の外部回路でシステムを組むことができて命令の体系が整理されており、単一の五ボルト電源だけで動かせてしかも壊れにくい6800は、教材としてよりふさわしいように思えた。DECのPDP―11をお手本にしたコンピューターらしい構造の6800を学んでから見なおせば、電卓の部品から育ってきた8080の氏と育ちがよく見えるだろうと考えた。
「本腰を入れてこれだけのテーマをカバーするとなると、一回に図版抜きで五〇〜六〇枚書くとしても、一〇回は連載が必要だろう」
 そう持ちかけると、あまりの話の大きさに編集者は頭を抱え込んでしまった。だが、最終的には「三回分原稿を書きためたら始めよう」と乗ってくれた。
 四年生に進級した直後から原稿書きに集中し、『トランジスタ技術』の一九七六(昭和五十一)年八月号から、「わかるマイクロコンピュータ・セミナー」の連載を始めることができた。
 一回の原稿量六〇枚と図版の準備はかなりの作業となったが、記事が出はじめると読者からのすさまじい反響が、松本の多忙に拍車をかけた。励ましや問い合わせの手紙が毎月五〇通ほども届き、取りあえず質問に答えるだけでも大きな時間を食われた。
 おまけに編集部経由で、松本にはさまざまな仕事の依頼が飛び込んでくるようになった。
 ある小さな計測器メーカーは、機器のコントローラーをマイクロコンピューターを使って作ってほしい旨、松本先生に打診してほしいと編集部に丁重に連絡を入れてきた。
「出世したもんだね」と編集者に冷やかされ、大学教授かなにかを予想していたらしい先方に連絡をとってみた。現われた長髪の学生にどんな反応を見せるか楽しみに出かけたが、突っ込んだ話に入ると先方はすぐに膝を乗り出してきた。何に使いたかったのか、ちょうどアルテアのような形でシステムを組んでほしいという注文が一つ。その後も松本先生には、つぎつぎと開発の依頼が飛び込んできた。
 マイクロコンピューターは、波に乗っていた。
 
 連載を開始した直後、松本は安田助教授の部屋で、「これがあのTK―80を作った人だ」と日本電気の社員を紹介された。半導体部門でマイクロコンピューターの販売を担当しているという後藤富雄は、安田が『コンピュートピア』に連載を始めた直後からしばしば研究室を訪ねるようになっていた。八月にキット式のTK―80を売り出したばかりの後藤たちは、九月には秋葉原のラジオ会館にNECビット・インというサービスルームを開き、TK―80に関する相談や修理に応じる体制を組んでいくということだった。
 マイクロコンピューターに関心を持った人たちが、まず手始めに取り組んでみるキットとしては、TK―80は価格の面でも、機能に関しても、じつにバランスのとれた製品に仕上がっていた★。

★MITSのアルテアは、日本では輸入代理店となったIEEコーポレーションから二八万五〇〇〇円で売り出されており、完成品には三九万円の値段がついていた。日本のホビイストにとって、アルテアはなにぶんにも高嶺の花だった。
 アルテアが一九七五(昭和五十)年一月号の『ポピュラーエレクトロニクス』の誌面を飾ってからおよそ半年後のこの年の夏、インテルは8080を使ったキット、SDK―80を売り出した。システム・ディベロップメント・キットを略してSDKと名付けられたこの製品は、むき出しの基板を組み立てる仕立てだったが、日本での発売元となったパネトロンはこれを一三万二〇〇〇円とアルテアの半額以下に価格設定した。
 一方モトローラもこの夏、インテルを追って同じく基板を組み立てる形式のM6800を売り出した。モトローラ・セミコンダクターズ・ジャパンは、6800にRAMとROM、周辺装置制御用のLSIを加えた一式をMPUキットと名付け、五万円とした。このキットには一万五〇〇〇円のプリント基板が含まれておらず、完成にはこれも別売の七五〇〇円の周辺ICセットが必要だったが、合計でもモトローラのキットは七万二五〇〇円で収まった。
 アメリカではアルテアが話題を独占していたが、日本での人気は比較的安価なSDK―80やM6800に集まっていた。ただしこの二つのどちらを買ってきたユーザーも、組み立て終わっていざ動かそうとなった段階で、あらたな壁に直面することになった。二つのキットとも、ROMに収めて供給されるモニターは、システムをテレタイプで使うことを前提として書かれていた。たとえキットは低価格でも、テレタイプのASR33の値段は六五万円を超えていた。結果的に組み立てられたキットの多くは、飾り物に終わる結果となった。
 だが一九七六(昭和五十一)年に入って間もなく、モステクノロジーが自社の6502を使って売り出した組み立てキットKIM―1は、テレタイプの壁を打ち破っていた。KIM―1には十六進の簡単なキーボードと、日の字型のLEDの表示装置が二つ組み込まれていた。ユーザーはこのキーボードからプログラムを入力し、LEDで処理の結果を確認することができた。日本での販売価格は、一一万九〇〇〇円。電源は別に用意しなければならなかったが、KIM―1はアルテアと同様にそれ自体で完結して動かせるシステムに仕上がっていた。
 日本電気のTK―80は、このKIM―1の流れを汲みながら、使い勝手をよりいっそう高めていた。
 十六進のキーボードに加え、TK―80は日の字型のLEDを八個持っており、そのうちの四つでアドレスを、残りの四つでデータを表示する形をとっていた。KIM―1が持っていたカセットテープレコーダーのインターフェイスは、ユーザーの手作りにまかせて回路図をマニュアルに示すにとどめられていたが、TK―80の価格は八万八五〇〇円に抑えられていた。

 後藤を紹介してくれた安田は、TK―80が組み立てキットの決定版となり、日本の各社によるキット製品開発の呼び水となって、ブームにいっそうの拍車をかけることになるだろうと読んでいた。
 事実『トランジスタ技術』の連載記事は単発の開発依頼にとどまらず、松本に大手電機メーカーからのフルタイムの就職口も運んできた。
 
 半導体業界には、セカンドソースと呼ばれる二次供給元を確保して、コピー製品の誕生を積極的に促す商習慣があった。
 新しく機能のすぐれた製品を開発しても、自社の生産設備だけに頼っていればどうしても供給能力は細りがちとなり、値段も高くなる。そうなれば性能を評価してくれるユーザーも「高くて使えない」と結論づけ、大きな開発投資をつぎ込んだ製品が、市場を開拓しきれないまま消えていく可能性がます。そうした事態を防ぐために、契約にもとづいて新製品の情報を競合するメーカーに開示し、コピー商品を市場にどんどん送り込んでしまう手が試みられた。もちろん新製品とまったく同じものを作るセカンドソースを置けば、自分自身がすぐに厳しい価格競争にさらされることになった。だが、差し引きすれば、それでも市場が掘り起こせることのメリットの方が大きいとするこの手法は、半導体産業の中で有効な戦略として機能した。
 日立製作所はモトローラと、6800に関するセカンドソース契約を結んでいた。日立の半導体部門は6800を解剖してこれを使ったシステムの記事を連載している人物が大学四年生であるという情報を得て、松本に正規の採用を持ちかけてきた。
 連載記事とつごう四件飛び込んできた開発依頼をこなすのに精いっぱいで、同級生が懸命に取り組んでいる就職活動をひと事のように見過ごしていた松本は、日立からの誘いを受けてあらためて自分が卒業間近であることを確認した。
 声をかけてくれた半導体部門は、パーソナルコンピューターに興味を持っており、その開発要員にと考えてくれているという点にも興味があった。
 だが「お世話になります」と答えて間もなく、必修科目の微分方程式の単位が取れず、三月には卒業できないことが分かった。日立では、卒業証書なしでもかまわないといってくれたが、固まりかけていた気持ちにこの一件でひびが入った。連載もまだ残っていたし、頼まれていた開発の仕事にもけりの付いていないものがあった。就職して給料だけに頼れば、大幅に収入が減る点は覚悟していたが、いったん気持ちが緩むとそれもばからしく思えてきた。
 日立からの口がかかるまでは、科学分野を中心にしたライターになれないかと考えていた。当面はこのままエレクトロニクス分野の仕事を中心とし、いずれは科学と社会のあり方にテーマを広げていく。目覚ましく進んでいく科学技術と、旧態依然とした社会科学との橋渡しをする仕事は面白くもあり、意義もあるのではないかとの思いがよみがえってきた。
 さらに松本には、農業の手習いにも本腰を入れてみたい気持ちがあった。松本の家は伊勢崎に田圃を一枚持っており、祖父が入れあげている自然農法には以前から興味を感じていた。
 日立には断りを入れ、九月卒業に向けて残った単位を取る一方で、連載と開発と農作業の手伝いを続けた。大きな反響を巻き起こした連載は一九七七(昭和五十二)年の五月号で終わったが、編集部からは内容を整理しなおし、書き足らなかった点を補ってすぐに単行本にしようと声がかかった。
 
 松本にとって初めての単行本となった『私だけのマイコン設計&製作』の初版本は、十二月になって刷り上がった。年が明けるとすぐに増刷がかかり、その後も編集部が驚くほどの勢いで部数を伸ばし続けた。
 単行本が理工学書の売り上げランキングの上位につけると、『トランジスタ技術』以外の雑誌からも執筆依頼が舞い込むようになった。各地のマイコンクラブに招かれて講演をこなし、テレビ番組の企画にも駆り出された。伊勢崎の自宅に居座ったまま、請け負った開発や原稿書きに追われていた一九七八(昭和五十三)年の夏、松本は毎日新聞の記者の取材を受けた。六月から半年の予定で「マイコンの世界」と題した囲み記事を週に一度連載しているのだという。この世界の若いタレントの代表格として松本の話を聞きたいと、記者は取材の狙いを説明した。
 そもそもマイクロコンピューターにかかわるようになった経緯や、本をまとめたいきさつ、執筆と開発に追われる現状や自分なりのブームに対する見方を話した。記者は八月二十三日の夕刊にもう一人の若きタレントと松本を並べ、「コンピュータを常識の一部とする〈マイコン以降派(マイ後派)〉一期生の代表格」と紹介する記事を書いた。
 早稲田大学理工学部の四年で『ASCII』の発行人兼企画部長であるというもう一人のタレント、西和彦とは、二年ほど前に顔を合わせたことがあった。
『コンピュートピア』の発行元であるコンピュータ・エイジの主催で、銀座のソニービルを会場に開かれたコンピュータアート展には、松本も安田研究室からの出展の脇に連載記事に書いたMYCOM―8を並べ、バッハのインベンションを演奏させていた。この展示会に、ライトペンを使って操作する8008を使ったオセロのテレビゲームを出展していた大阪大学基礎工学部の山下良蔵とは、その後も連絡をとり合い、阪大に遊びに行くような仲になった。さらに松本はここでもう一人、異彩を放つ人物に忘れがたい印象を植え付けられた。大半の出展者がジャンクから取った部品でどうにかやりくりして安く仕上げたシステムを並べている中で、早稲田大学の学生であるという西は、数百万円はするのでないかと思われるHP製の機器を接続し、オルガンの自動演奏システムを組んで悦に入っていた。
 その西は今、青山のマンションにアスキー出版の事務所を構えているという。記事によれば、取材をかねて年に数度はアメリカに行くという西は、米国の関係者には「ジャパンのミスター・ニシ」として知られており、六月には全米コンピューター会議(NCC)で「極東におけるマイクロコンピューティング部会」の座長を務め、日本の現状を報告してきたという。さらに西は、二二歳の青年が社長を務め、ベーシックを売り物にアメリカで急成長しているマイクロソフト社と新しい会社を起こし、今後はソフトウエアの分野にも進出していきたいということだった。
 伊勢崎の松本の自宅に西から電話が入ったのは、二人の記事が互いの写真入りで毎日新聞の紙面を飾った直後だった。

「ベーシックとCP/Mを売れ」と
西和彦は語りき

 
 西和彦は待ち合わせ場所に、京王プラザホテルのロビーを指定した。
 それまでホテルにはまったく縁のなかった松本は、電話口で京王プラザと聞かされ、あらためてコンピュータアート展の一件と毎日新聞の西の写真を思い出して苦笑をかみ殺した。
 南青山の事務所内のラボと称する電子機器を並べた一室に、アメリカから仕入れてきたらしいPETをしつらえた西は、ネクタイを締めてにこやかにキーボードに手を添えていた。長髪に眼鏡は共通していても、学生証からはぎ取ってきたような松本のものとは対照的に、西の写真からはすでに青年実業家のにおいが立派に漂っていた。
 京王プラザのレストランに入ったところで西の切り出した用件は、松本のまったく予想していないものだった。
「僕と一緒にやらないか」
 西は唐突にそう切り出した。
 新聞記事にあったとおり、西はマイクロソフトと組む話をまとめてきたという。
 これまではマイクロコンピューターを使って、とにかくハードウエアを作ってみることがテーマだった。だがこれからは、ポイントはソフトウエアに一気に移っていくだろう。いったい自分は何にコンピューターを使いたいのか。そのことが正面切って問われ、そのためにはどんなプログラムが必要なのかがもっともっと強く意識されるようになる。
 早々と料理を平らげた西は、ブームの様相を呈しているマイクロコンピューターの流れが今後どこに向かうのか、胸の内から止めどもなく噴き出してくる言葉をかろうじてさばきながら、とうとうと語り続けた。
 マイクロコンピューターを使ってともかくシステムを作り、スイッチやテレタイプから送り込んだプログラムが動くのを確認して喜んでいたのが第一世代。そこからシンセサイザーを動かすなり、鉄道模型をコントロールするなり、あるいは計算の用途に使うなり、何らかの自分なりの明確な目的を持って、さまざまな機器と手作りのシステムを組み合わせて使おうとする第二世代が生まれた。そしてさらには、システム自体は完成品を買ってきてこれを拡張しようとする、第三世代が誕生しつつある。今後はそこからもう一歩進んで、手持ちのシステムを目的に沿ってどう動かし、どう使うかを決めるソフトウエアの側に重点が移る。
 そのソフトウエアの時代を制する鍵を、西は、マイクロソフトのベーシックとデジタルリサーチのCP/Mであるとした。
 マイクロソフトの極東代理店となる約束を取りつけてきたばかりの西は、受け皿となる新会社の設立に向けて準備を進めていた。もう一方で西は、デジタルリサーチに乗り込んでCP/Mの代理店権を得る話もまとめており、新しい会社ではCP/Mとマイクロソフトのベーシックをともに売り込んでいきたいと考えていた。
 新会社の社名として、西はアスキーマイクロソフトを予定しているという。
「この会社の中心で動いて、僕と一緒に日本を変えていかへんか」
 そう語りかけた西に、松本は全体重をかけて時代の歯車を引き下ろそうとするような、強烈なエネルギーを感じとっていた。
 
 パーソナルコンピューターをはじめからでき上がった道具として、ブラックボックスのまま使うという踏ん切りには、松本自身は寂しさに似た気持ちを抱いていた。
 ふもとから一歩一歩登っていってこその登山。ヘリコプターをチャーターして一気に山頂に到達するよりも、システムを組む過程で理解と発見を積み重ねていった方が、よほど楽しいのではないかとの思いは禁じえなかった。
 エレクトロニクスの魅力に引きずられて、真空管からトランジスター、ICと素子の変化を体験してきた松本にとって、マイクロコンピューターはあくまでデジタルICにすぎなかった。自分にとっては、この分野もエレクトロニクスの一部分以上の意味を持ちえないと、松本には確信できた。おそらくは西がマイクロコンピューターに出合った経緯も、そんなところだったはずだ。だが西は、ルーツであるエレクトロニクスを切り捨てて、パーソナルコンピューターの新しいビジョンにかけようとしていた。
 毎日新聞は、マイコン界の若きタレントとして二人を並べた。だが西の説得力のある切れ味の鋭いビジョンにさらされているうちに、松本はむしろ、二人のあいだにある志向の食い違いこそをはっきりと意識するようになった。
 その違いを、松本は面白いと思った。
 レストランでアスキーの未来を一方的に吹きまくった西は、お膝下の南青山に松本を誘った。タクシーの中でもバーのカウンターについてからも、「パーソナルコンピューターは対話性のあるメディアとして育ち、社会のあり方を決定的に変化させてしまうだろう」と、西は語り続けた。
 松本はグラスの中の氷を遊ばせながら、強烈な個性を持った西のビジョンに、自分自身をさらしてみようかと考えはじめていた。
 
 一九七八(昭和五十三)年十月、新会社は予定どおりアスキーマイクロソフト(AMS)として設立された。
 松本吉彦は、同社の一人目の社員となった。
 群馬県の伊勢崎から南青山まで通うようになって、まず手がけたのはCP/Mのマニュアルの日本語化だった。
 北海道大学の学生がざっと訳したという原稿を引き継ぎ、CP/Mを動かしながら内容を確認して、下訳を意味の通る文章に直していった。ディスプレイ上の表示の意味を説明するために英語版のマニュアルにあった画面のコピーには、キルドールの手書きの書き込みがあった。ただ中身を理解するうえではじゃまにもならないだろうと考えて、日本語版にもこれをそのまま使うことにした。厚さ一センチメートルほどのホッチキス止めしただけの日本語版マニュアルは我ながらみすぼらしかったが、デジタルリサーチの日本における代理店らしい体裁は一応はこれで整った。自分のマシンに合わせてBIOSだけは書くことができるように開発ツールを付けて、ユーザー向けにCP/Mを売り出した。
 もう一方で松本は、各社のマシンにCP/Mを採用してもらうよう、OEMの営業活動にも取り組んだ。メーカーがCP/Mの採用に踏み切り、自社のマシン用にBIOSをあらかじめ書きなおした形で売り出すなり、標準的に本体とセットで販売してくれるなりすれば、ユーザーは対応したアプリケーションを買ってきてそのまま使うことができるようになる。フロッピーディスクドライブを利用しようとすれば、コントロール用のソフトウエアとしてはほとんど唯一の存在で、アメリカでアプリケーション開発の共通基盤としても機能しはじめていたCP/Mには、日本のメーカーも大小を問わず注目していた。
 メーカーに採用を迫るうえで、松本自身、むしろ難しいと思わざるをえなかったのは、マイクロソフトのベーシックだった。
 ことベーシックに関しては、日本でも当時すでにさまざまな選択肢が存在していた。
 
 東京大学大型計算機センター助教授の石田晴久は、『PCC』が呼びかけた当初から、タイニーベーシックの手作り運動を興味深く見守っていた。
 創刊された『DDJ』につぎつぎと新しいバージョンが発表されるのを見て、石田はアメリカのホビイストたちの勢いをあらためて思い知らされた。『DDJ』に初めて登場したテキサス版が、いかに機能を限ったものとはいえ二・九Kバイトに収まっていると知って、通勤電車の中で八進数で書かれた機械語のリストを読みはじめ、何をどう処理しているのかを分析してみた。だが石田本人には、自分でタイニーベーシックのインタープリターを書いてみる気持ちはなかった。
 コンピューター科学の研究者である石田にとって、手作り運動を呼びかけたボブ・アルブレヒトが、七歳の子供になったつもりで書いてみないかとしたタイニーベーシックは、仕事のテーマにはなりえなかった。模型を作る暇があれば、本物に取り組むのが石田の立場だった。
 一九七五(昭和五十)年にベル研究所に留学した石田は、ケン・トンプソンらによってここで開発されたUNIXの使い勝手のよさに強く印象づけられた。加えてこのOSを書くために開発されたプログラミング言語Cを体験し、その可能性を確信するにいたっていた。大型計算機センターに帰った石田は、UNIXの環境をセンター内に整備したいと考えた。センターには修士以上しかいないこともあり、いまさらタイニーベーシックでは学生の研究テーマにもならないように思えた。しかも自分一人で一から書くようなことを考えれば、この程度の規模のものでも一か月程度は一心不乱に集中して作業しなければ、とても仕上げられるものではなかった。タイニーベーシックは研究者のテーマとはなりえず、しかも趣味として書くにはあまりに大きな労力を求めた。

『DDJ』が8080版の掲載を締め切ってからも、石田は日本のホビイストの中から自作のタイニーベーシックを発表する者が出るのではないかと期待し続けていた。だがいっこうに、そんな話は聞こえてこない。そんな中、石田は『DDJ』の一九七六年十一/十二月合併号で、メンローパークに住所を置いているコミュニティー・コンピューター・センター(CCC)を名乗るグループが、プログラムの配布活動を行うと告知しているのを目にした。
 CCCは、ソフトウエアの書き手たちに作品を流通させるための〈もう一つの選択肢〉を提供しようと考えていた。
 これまでも書き手には、『DDJ』のような雑誌にプログラムのリストを掲載するという手があった。だが印刷の工程でミスが生じると、えんえんと入力したプログラムは結局動かず、失意の読者は往々にして昼夜を問わずに電話で問い合わせを入れて、書き手を悩ませた。原因が何であれ、ともかく動かないという事態が生じると、クレームは金銭の見返りを求めずに労作を公開した作者のもとに寄せられた。
 MITSをはじめとするメーカーは独自のユーザーグループを組織しはじめており、書き手にはここに作品を登録するという手もあった。だが中には高額の入会費をぶんどったうえに、会員がただで提供したプログラムに値段をつけようとするようなメーカー主導のグループも存在し、こうしたあり方をCCCはよしとしなかった。
 もちろん書き手には、プログラムを商品として売る道もあった。だがCCCは、見返りは求めないパブリックドメインとする気持ちはあっても頒布の作業を引き受ける決心はつかず、私生活を電話攻勢で台無しにされたくないと感じている多くの書き手のために、もう一つの選択肢があって然るべきだと考えた。そこでCCCは、書き手が紙テープに収めてプログラムを登録してくれれば、注文に応じてきわめて安い値段でコピーして郵送すると『DDJ』に告知した。
 パロアルト版のタイニーベーシックと宇宙ゲームのタイニートレックの値段は、ともに二ドルだった。それ以外にCCCが求めたのは、一オンス(二八・三五グラム)あたり一ドルの紙テープのコピー料と送料だけだった。石田はCCCに問い合わせを入れ、「日本で公開してかまわない」との確認をとったうえで紙テープを取り寄せた。
 大型計算機センターに届いたパロアルト版のタイニーベーシックは、ここで石田の研究室の博士課程二年生だった小野芳彦によって改良の手を加えられた。作者のリチェン・ワンは8080のアセンブラーでタイニーベーシックを書き、紙テープには機械語に変換されたプログラムが収められていた。小野はまず紙テープの機械語のプログラムを手元にあった逆アセンブラーでソースコードに変換し、中身の分析を行った。その上で小野はセンターの大型機に用意されていた8080用のクロスアセンブラーを使い、さまざまな改良を加えてあらたにソースコードを書きなおした。プログラミングに名人芸的な冴えを見せる小野は、石田があきれるほどの短期間で集中した作業を終えた。
 石田はこの改良パロアルト版を、大型計算機センターで開いていたマイクロコンピュータ教室で公開した。
 東京電機大学の安田寿明は、「改良パロアルト版の紙テープとソースプログラムのリストを、実費で頒布する作業を自宅で引き受けよう」と申し出た。
 この改良パロアルト版は、誰がどのような経緯で手直ししたかに関する情報抜きで、一九七七(昭和五十二)年八月号の『ASCII』にソースリスト付きで掲載された。CCCに了解を求めた経緯にも、改良にあたった小野にもいっさい言及しないこの記事は、手直しを行ったのが筆者であるかのような印象を与えかねなかった。開発の経緯を明らかにするとともに、筆者に抗議した一文を十月号に寄せた石田は、今後は「オリジナルなソフトウエアを開発する人が増えることを祈ってやまない」と原稿を締めくくった。
 結果的に『ASCII』へのソースリストの掲載は、東大版タイニーベーシックとして知られることになるこのバージョンの知名度を大いに高めた。だが東大版の存在にスポットライトが当たると、研究者である石田がおもちゃのようなベーシックを、それも外国からもらってきたものを細工して発表し、悦に入っているのはどういうことだといった非難の声が、一部の研究者から上がった。タイニーベーシックの普及のために割ける範囲で自分たちの時間をあてようとする石田たちの意図を理解し、煩雑な頒布の作業を引き受けた安田は、東大版に対する批判を直接耳にして強い反発を覚えた。パロアルト版をもとにしたという経緯が気に入らないのなら、文句を言う代わりに自分で一から書けばよいではないか。そう切り返すと「そんな暇はない」との答えが返ってきた。
 安田自身、それまでの一年あまり、オリジナルのベーシックを書いてみたいという思いを抱き続けていた。だが、最低限数週間にわたって全力投球しない限り書き上げられないだろうと思うと、なかなか決心はつかなかった。東大版に対する批判への反発は、そうした安田のためらいを吹き飛ばした。
 卒論の準備のために集まってくる学生たちにタイニーベーシックの新規開発を持ちかけてみると、「研究の合間の茶飲み話代わりにやろうか」となった。8080用には選択肢があったが、スマートな構造が気に入っていた6800には、公開されたタイニーベーシックがなかった。
 ホームブルー・コンピューター・クラブの意欲的なメンバーであるトム・ピットマンが、三Kバイトほどの6800用のすぐれたバージョンを書いていることを、安田は『DDJ』の記事で読んでいた。だがピットマンはあえて、ソースコードを『DDJ』で公開する道を選ばなかった。

ソフトウエアの空白を
誰が埋めるのか


 カリフォルニア大学のバークレー校でコンピューターを学び、国防省の研究所で核爆発の影響に関するシミュレーションプログラムの開発に携わったトム・ピットマンは、誕生したばかりのマイクロコンピューターにもっとも素早く反応した一人だった。
 国防予算削減のあおりで職を失ったピットマンは、4004の発表を聞いてインテルを訪ね、このCPUのためにアセンブラーを書かせてもらえないかと持ちかけた。4004の用途を切り開いていくうえでは、プログラミングの開発環境の整備は不可欠だった。インテルはピットマンにアセンブラーを書かせ、続いてプログラムのバグ取り作業を効率化するデバッガーの開発を任せた。
 4004の顧客は、この部品を組み込んだ機器を動かすために、プログラムを用意する必要があった。顧客からプログラマーの手配に関して相談を受けたインテルは、ピットマンに仕事をまわしてくれた。ピットマンは、マイクロコンピューターのコンサルタントとしてやっていけるのではないかと考えるようになった。人見知りがちの敬虔なクリスチャンで、組織内の世渡りは考えただけでも憂鬱になるピットマンにとって、フリーの技術者は理想的な生き方だった。
『PCC』の呼びかけたタイニーベーシックの手作り運動には、ピットマンは共感と戸惑いの入りまじった気持ちを抱いた。
 マイクロコンピューターをより幅広く活用するうえでは、言語の開発が大変に有効であることは間違いなかった。対話型のインタープリターであるベーシックの基本的な機能だけを取り出して、ごく小さなメモリーで動くものを書くという狙いも的を射ていると思った。だが一人ひとりのユーザーに手作りを呼びかけても、そのうちの何人がどれほどのものを書けるかという点は疑問だった。
 ピットマンはすでに、マイクロコンピューター用のプログラム開発を職業としていた。これまで一貫してプログラマーとして働いてくる中で、本当に役に立つすぐれたプログラムを書くには、高度な技能と集中した作業の積み重ねが必要であることを、ピットマンは繰り返し確認してきていた。
 カリフォルニア大学バークレー校がフリー・スピーチ・ムーブメントで揺れている時期、数値解析実験に嬉々として取り組んでいたピットマンは、政治的な人間ではなかった。だが誠実を愛し、野心から遠かったピットマンにとって、共棲を基調としたホームブルー・コンピューター・クラブの空気は肌合いに合っていた。サンノゼの自宅からメンローパークで開かれた初めての集会に出かけていって以来、ピットマンは欠かさずクラブの集まりに顔を出した。きわめてめずらしい存在のマイクロコンピューターのプロであり、ソフトウエアはもちろんハードウエアにも詳しかったピットマンは、物静かだが頼りがいのある大人のハッカーとして、クラブでもすぐに一目置かれるようになった。
 ともにコンピューターを愛する仲間たちとの刺激的な情報交換を、ピットマンも大いに楽しんだ。
 一方でマイクロコンピューターのコンサルタントとして生活を支えながら、もう一方でクラブのアマチュアリズムに肌を寄せていたピットマンにとって、ビル・ゲイツの「ホビイストへの公開状」は胃袋に重かった。
 MITSから法外な値段で売り出されているベーシックの書き手であるゲイツの抗議に対し、クラブの仲間たちの大半はむかっ腹を立てていた。彼らには『DDJ』が推し進めている「ソフトウエアの共有」という理念があった。だがピットマンは、ゲイツの告発には核心を突いている点があると考えた。本当にすぐれたソフトウエアを生み出すためには、高い能力を持った人間が、集中した作業をえんえんと積み重ねていかざるをえなかった。その代償を誰かが支払わない限り、マイクロコンピューター上にはすぐれたソフトウエアが生まれてこないだろうとピットマンには思えてならなかった。
 ただしピットマンには、MITSが数百ドルのべらぼうな値札をつけてベーシックを売りつけようとしているという事実を批判的にとらえようとはせず、自らの権利ばかりを言い募り、ホビイストを泥棒呼ばわりするゲイツにも、そのまま心を寄せる気にはならなかった。
 ピットマンは、生まれたばかりのマイクロコンピューター上にはソフトウエアの空白が残されていることを強く意識していた。MITSは、この空白につけ込んであこぎな商売を仕掛けているように思えたが、この空白を埋めていくうえでは、『DDJ』の称揚する手作りと共有の試みも有効に機能し続けるとは思わなかった。すぐれたソフトウエアを書いた者に作業の見返りをもたらし、新しい作品への創作意欲を書き手に抱かせる――。役に立つプログラムで空白を埋めていくこうしたプラスの循環を生み出せないかと、ピットマンは考えるようになった。
 だがもしもホビイストたちの本性が、ゲイツの指摘するとおり泥棒であるのなら、プラスの循環など生まれようもなかった。ピットマンはまず、この点を確かめたいと考えた。ごく安い値段をつけて売り出したとして、それでもホビイストはソフトウエアをコピーして代価を支払おうとしないものか、実証してみようと腹を決めた。
 
 タイニーベーシックは大きな需要の望めるソフトウエアだったが、8080用には、すでに選択肢があった。ピットマンは代わりに、6800をターゲットに選んだ。オリジナルのダートマス版の仕様にあたり、『DDJ』の記事を参考にして使えるステートメントを一二個に絞った。十六進の整数演算のみで、アルファベット一文字の変数名を二六個使用でき、配列、文字列はなし。ただしユーザーの要求に沿った機能拡張に備えて、機械語サブルーチンの呼び出し機能を付けると仕様を決めたあとは、一気呵成に書き進んでいった。
 ハッカーがときに発揮するすさまじい集中力に、ピットマンの妻はこれまでも不当に遺棄されているとの反発を覚えてきた。ピットマンは数週間で6800用の初めてのタイニーベーシックを書き上げたが、代わりに妻を失った。
 インタープリターを書き上げたピットマンは、続いてユーザーがこのソフトウエアの機能を充分に理解し、自分のマシンや使用する目的に応じて手直しできるよう、ていねいで分かりやすいマニュアルを書く作業に移った。プログラミングを職業としてきたピットマンは、技術資料を整備することの重要性をこれまでも繰り返し体験していた。
 インタープリターとマニュアルをそろえたピットマンは、6800を使った基板を作っていたAMI社とまず交渉して、三五〇〇ドルで彼らのマシンへの使用権を与えた。開発の動機は、充分に安いソフトウエアへのホビイストの振る舞いを確認することだったが、ピットマンはプロである自分の作業時間にまったく見返りが得られない事態を受け入れるつもりはなかった。普段の自分のレートからすればAMIの報酬はかなり低かったが、この契約で最低限のリスク回避は果たされた。
 充分に脇を固めてから、ピットマンは実験に取りかかった。一本あたり五ドルを送ってくれれば、紙テープに収めた機械語のプログラムとマニュアルを郵送するという広告を『バイト』に出すと、すぐに注文が集まりはじめた。五ドルでは安すぎるからと一〇ドルを送ってくる者があり、すでに友人からコピーさせてもらったから郵送の必要はないとして料金だけを送ってくる者もいた。
 ピットマンはしだいに、「自分は賭けに勝った」と考えるようになった。
 ピットマンのタイニーベーシックの評判は高く、ことに懇切丁寧な二六頁のマニュアルは賞賛をもって迎えられた。ただし彼がソースコードを公開しなかった点には、クレームもあった。
 カンザス州に住むデビッド・アレンは、公開されていない点がピットマンのタイニーベーシックに関する唯一の不満であるとの手紙を『DDJ』の編集部に送った。編集部から手紙を見せられたピットマンは、「AMIとの契約は独占的なものではなかったけれど、開発の条件を整えてくれた彼らの投資の価値を減じさせるような振る舞いはフェアーではないと考え、ソースリストの公開は控えている」と答えた。二人の手紙が一九七六年六/七月号の『DDJ』に掲載された時点では、ピットマンは今後自分の書いたものに関してはソースリストを公開しようかとも考えていた。だがコンサルタント業ではしっかり稼ぎながら、もう一方で自分のプログラムを公開することを、ピットマンは「やはり不健全だろう」と結論づけた。むしろなすべきは、ソフトウエアの空白を埋めるプラスの循環を、より積極的に確立することだとピットマンは腹を固めた。
 パーソナルコンピューター向けに、質の高い低価格のソフトウエアを提供することを目指して、トム・ピットマンは「ちっぽけコンピューター社( Itty Bitty Computers )」を名乗って初めての商品であるタイニーベーシックの販売を本格化することを決意した。
 同じ6800を使ったマシンでも、ハードウエアの作り方によってはタイニーベーシックの一部を手直しする必要があった。当初そうした作業はユーザーに任せていたが、ちっぽけコンピューターを設立するからにはと、代表的な機種に合わせていくつかのバージョンを用意することにした。6800を改良してモステクノロジーの開発した6502にも、対応することを決めた。モステクノロジー自身が6502を使って作り、たちまち人気沸騰となったキット式のKIM―1用を準備し、ホームブルー・コンピューター・クラブの有名人であるスティーブン・ウォズニアックが作ったアップルI用もそろえた。
『DDJ』のジム・ウォーレンは、手作りと共有という自分たちの路線と異なってはいても、低価格の質の高いソフトウエアの供給を目指すというピットマンの試みに共感を覚えた。一九七六年十月号で、ちっぽけコンピューターの誕生を大きく報じたウォーレンは、わずか五ドルで提供されるタイニーベーシックの各バージョンを記事で紹介してくれた。
 ハードウエアベンダー向けのOEMメーカーとしてスタートしたマイクロソフトに対し、ピットマンは一般ユーザー向けのソフトウエア販売を目指した。ピットマン自身も、OEM路線を選んでソフトウエアのコストをハードウエアの値段に組み込んでしまう手もあるとは考えた。ただしこの道を選んで最低限元をとろうとすれば、OEM先の想定販売台数でソフトウエアの開発費を割った分をマシンの価格に上乗せし、しかも他社製品よりその分割高になったものを売り切ってもらわなければならなかった。
 だがピットマンには、ハードウエアがよほど際だった特長を持っているか、他のマシンではけっして使うことのできないソフトウエアがバンドルされてでもいない限り、割高のマシンが売れるとは思えなかった。ピットマンは、特定の会社の特定の機械だけでソフトウエアの開発費用を回収することは難しいと考えた。そこで独立したソフトウエアの会社を起こし、手作りされたものも含めてさまざまな会社のさまざまなマシン相手に商売する方が賢明だろうと結論づけた。
 だがちっぽけコンピューターを設立したピットマンはすぐに、この道にも大きな障害が待ち受けていることを思い知らされた。
 
 ピットマンは開発済みのタイニーベーシックをもとに、6800用に三種類、6502用に三種類のバージョンを用意して注文に応じる体制をとった。ところがユーザーからの注文によって、彼はすぐにもう一つのバージョンを用意せざるをえなくなった。さらにサポートを求められながら対応できないでいるものが、主だったものでも6800と6502を使ったマシンで合わせて四つあった。
 6800なら6800という同じマイクロコンピューターを使ったマシンでも、どういった機能をメモリーのどの領域に割り振るかによっては、プログラムの書き方が変わってこざるをえなかった。こうしたメモリー内の領域の配置は、基本ソフトのモニターが受け持つが、この作りは各社でばらばらになっていた。ピットマン自身は、直接は関与していないものの、8080やZ80の状況がさらに深刻なことは目に見えていた。もしもこうした事態がこのまま進んでいけば、ちっぽけコンピューターは、新しく生まれてくるマシンに合わせてえんえんと手直しの作業を続けるか、特定の機種だけを相手にして自ら市場を制限するか、それともOEMへの転向でも試みる以外なくなるとピットマンは考えた。
 ビル・ゲイツはホビイストへの公開状を書いたが、ピットマンにはむしろ警告を与えるべき相手はハードウエアのベンダーに思えた。
 ソフトウエアの空白を健全で有用な形で埋めていくためには、独立系のソフトウエアベンダーを成り立たせるのが近道ではないか。ただしハードウエアのメーカーが、このままプログラム開発上の都合を無視して勝手気ままにマシンを設計していたのでは、我々はソフトウエアの手直しに忙殺されてしまう。そう説き起こしたピットマンは、プログラムの互換性を高めるうえで遵守してもらいたい設計上の要求項目をリストアップした「メーカーへの公開状」をまとめ、『DDJ』のジム・ウォーレンに掲載を依頼した。
 ピットマンは公開状の中で、『DDJ』が旗振り役となっているホビイストによるソフトウエアの自主開発と交換も、かけ声倒れに終わってきていると批判していた。ホビイストがホビイストである限り、つまり趣味としてソフトウエアを書いている限り、自分以外の人が使って役に立つようなものはなかなか書きえない。誰でも使えるようなソフトウエアを書くための技量を身につけ、充分な時間を作業に投入することは、ホビイストには難しいとピットマンは主張した。
 自分たちの耳にも痛かったものの、ソフトウエアのビジネスを健全に育てようとする立場からさまざまな要素に目を配ったピットマンの主張に、ウォーレンは説得力を感じた。明確な指針を示してメーカーに協力を求めるとともに、こうしたガイドラインからはずれる製品は購入しないことでユーザーもまた好循環を生み出すことに貢献できるとの論旨は、じつに明快だった。一月の半ばにピットマンの原稿を受け取ったウォーレンは、一九七七年二月号の巻頭を長文の公開状で飾った。
 ピットマンのこうした試みによって、6800用のタイニーベーシックはちっぽけコンピューターが五ドルで販売しているものが主流となり、公開されたものは存在しない状態が続くことになった。
 タイニーベーシックのオリジナル開発を決意した安田寿明は、この空白を埋めようと考えた。
 
 学生たちとの話し合いの中で、安田はオリジナル開発にあたっての目標を二つ設定した。一つは可能な限り速いものを書くこと。そしてもう一つが初心者にとって取っつきやすいものとする一方で、経験者にも飽きさせないという、相反しかねない課題を達成することだった。
 ピットマンのものに対する性能面での不満は、もっぱら遅いことに集中していた。そこで6800で実現可能な最高速を目指すという目標をかかげたが、これを達成しようとする以上、すでにあるものを逆アセンブルして参考にしようとしてもあまり意味はなかった。パロアルト版を書いたリチェン・ワンのもう一つの傑作、タイニートレックをそのまま走らせて遊びたいという切実な動機もあり、パロアルト版や東大版に文法は合わせたが、中身は一から書き起こすことになった。
 さらに開発の手法にも、安田は一工夫を凝らした。インタープリターに盛り込む機能ごとにごく小さなモジュールをアセンブラーで書き、この単位で動かしてみてバグを取った。最終的にモジュールを接続して一つにまとめる作業には、大型機のクロスアセンブラーを使った。こうしたモジュール化した開発手法をとったことで、作業の効率をかなり高めることができた。
 プログラムを短く仕上げるという観点から、パロアルト版や東大版では命令を頭文字とピリオドで略記できるようになっていた。だが初心者にとってプログラムを読みやすくするうえでは極端な省略はじゃまになると考えて、略記は最低限に限った。その一方で機能はタイニーベーシックとしては多めに盛り込み、バグを見つけだすための仕掛けも充実させて、経験者にも歯ごたえのあるものとするよう努めた。
 こうした方針に沿って、一か月の突貫工事で進められた開発作業の中心となったのは、電気通信工学科四年の畑中文明だった。以前から畑中のソフトウエアのセンスに注目していた安田は、タイニーベーシックの開発にあたってあらためてすさまじい彼の集中力と切れ味の鋭さに印象づけられた。目標とした高速性と使いやすさに関しては、既存のタイニーベーシックを凌駕したと自負できた。
 一九七八(昭和五十三)年四月に講談社のブルーバックスから出した『マイ・コンピュータを使う』に、安田は電大版タイニーベーシックの機械語リストと文法の概要を掲載し、さらに『bit』の同年八月号にアセンブラーのソースコードを載せて全面的な公開を行った。
 こうしたさまざまな人たちの努力によって、ベーシックにはいくつもの選択肢が生まれていた。
 
「メーカーへの公開状」を書いたトム・ピットマンは、すぐれたソフトウエアが安く提供される環境を目指して互換性の必要性を訴えた。せめて同じマイクロコンピューターを使っているのなら、同じ機械語のプログラムが異なったシステムでそのまま使えるようにモニターの作り方に留意するように求めた。
 これからは何らかの明確な目的を持ってパーソナルコンピューターを使う時代がくる。力点がプログラムの利用に移るその時代の鍵は、マイクロソフトのベーシックとCP/Mが握るだろうと直感した時点で西和彦がつかみ取っていたキーワードも、互換性だった。
 ピットマンは機械語レベルでの互換性のために、モニターに注文をつけた。だが階層を一つずらせば、マイクロコンピューターの壁を越えたレベルでも互換性を想定できた。6800なり8080なりを使ったシステムに同じ文法のベーシックを、たとえばマイクロソフトならマイクロソフトのベーシックを移植してやれば、あとは同じプログラムを双方のマシンで利用できるはずだった。
 さらにCP/MというOSを使えば、言語の壁を越えることも可能だった。完成品のパーソナルコンピューターはベーシックのインタープリターをROMに収め、もっぱらこの言語だけを使うよう仕立てられている。だがCP/Mをまず読み込んでから使う形をとれば、これに対応した言語なら、フォートランであれコボルであれ、何を使って書いたプログラムでも自由に動かせるはずだった。
 マイクロソフトのベーシックとCP/Mを日本の標準としようと考えた時点で、西はピットマンと同じ未来を見ていた。
 ライバルの存在しないCP/Mに関しては、松本もいずれこのOSが互換性の基盤になると考えた。
 だがベーシックには、あまりにも選択肢が多すぎるように思えた。パーソナルコンピューターの商品化に取り組んでいる日本のメーカーは、あらたにベーシックを書き起こす力も持っていた。
 一九七七(昭和五十二)年四月に千葉大学工学部電子工学科から日本電気に入社し、マイクロコンピュータ販売部に配属された土岐泰之は、アメリカ西海岸で吹きはじめた風にいち早く反応した一人だった。
 大学時代からマイクロコンピューターを使ったシステムの手作りに熱中していた土岐は、『DDJ』を知ってすぐに定期購読の手続きをとった。西海岸で巻き起こった個人の道具としてコンピューターを使おうとする運動に呼応して、土岐は学生時代から、タイニーベーシックやさまざまなインターフェイスの開発に取り組んでいた。入社直後からは、これまで趣味として熱中してきた作業を、発売されたばかりのTK―80を拡張する仕事として行うことになった。『DDJ』で公開されていたパロアルト版を参考に、土岐が機能を強化した二Kバイトほどのインタープリターを搭載して、TK―80BSが売り出された。コンポBSには、LEVEL―2 BASICと名付けたこのインタープリターをそのまま採用したが、マイクロコンピュータ販売部では本格的なパーソナルコンピューターを目指して、より幅広い機能を持たせ、処理速度を高めたものの開発を進めていた。
 彼らは自分たちのベーシックに、自信を持っていた。
 一九七八(昭和五十三)年五月、日立の家電事業部はベーシックマスター・レベル1を発表し、松本がアスキーマイクロソフトに籍を置いた十月からはすでに発売を開始していた。このマシンに搭載されたベーシックは、同社の家電研究所のスタッフによって書かれた。マイクロソフトのものが計算の精度を有効桁八桁に抑えて処理速度を稼いでいたのに対し、家電研究所のベーシックは有効桁数を大きくとって本格的な計算処理の用途に対応しようとしていた。
 マイクロソフトのベーシックを売り込む立場で後藤富雄や加藤明や土岐泰之たちと向き合うことになった松本は、内心ではむしろ彼らの側に傾いてしまっていた。ベンチマークテストをやってみると、彼らのベーシックはマイクロソフトのものに勝っていた。もしも自分が同じ立場にあれば、当然自分たちのものを選ぶだろうと松本は考えた。マイクロソフトのものに限らず他のベーシックにすぐれた特長があったとすれば、参考にして取り入れていけばいいだけの話としか思えなかった。
 その強力な選択肢を持つ日本電気に、〈標準〉のメリットを押したててついにはマイクロソフトのものを売りつけてしまった西の手並みには、あらためてほとほと感服させられた。
 一九七九(昭和五十四)年四月、自社製とマイクロソフト製の二つの選択肢を次期マシンの候補として検討してきたマイクロコンピュータ販売部は、最終的にマイクロソフトを選ぶことを決めた。
 アルテアのバスがS―100業界標準として機能し、さまざまなボードが生まれる中で、パーソナルコンピューターの生態系全体が急速に成長するのを見てきた西和彦は、ベーシックの標準、OSの標準の可能性を確信していた。手作りのさまざまなタイニーベーシックから、規模を拡張したものでもいくつかのライバルがひしめく中で、アメリカ市場ではマイクロソフトが勝ち上がってきたという事実と彼らの勢いを、渡辺和也はとろうと考えた。
 五月九日、日本電気は「最大三二Kバイトの大容量のROMに書き込んだマイクロソフト系のベーシック」を売り物とした、新しいパーソナルコンピューターを八月から発売すると発表した。
 一週間後、東京流通センターで開かれたマイクロコンピュータショーに出展されたPC―8001には、黒山の人だかりができた。
〈もうマイクロコンピューター狂いもここまでかな〉
 松本吉彦がマイクロコンピューターに飽きはじめている自分にはっきり気付いたのは、発表されたばかりのPC―8001がショーの人気を集め、各誌でつぎつぎと大きく特集されはじめたまさにその時期だった。アメリカで標準となったマイクロソフトのベーシックをいち早く搭載した点は、PC―8001の大きな売り物と好意的に受けとめられており、CP/Mもこの時期、販路を開きはじめていた。だが日本市場に売り込みを図っていた当の本人は、形となって現われはじめた成果にむしろ戸惑いを覚えていた。

パソコンは
大型のエピゴーネンだったのか?


〈結局は何だったんだろう〉
 成功のレールに乗ってひた走りはじめたPC―8001を前に、松本は自分自身をマイクロコンピューターに向かわせたものはなんだったのかを、繰り返し問いなおすようになっていた。
 小学校二年生で、初めて本格的な真空管式のラジオを作った。部品をそろえ、回路図に従って組み立てていく作業には、小さな世界を一から自分の手で作り上げていくような手応えがあった。
 高校二年生の夏、手作りのテレビカメラがすくい取ったいびつな世界がてのひらの調節の技によってその姿を正しはじめたとき、松本は再び、電子回路に魂を吸い取られるような一瞬を味わった。
 マイクロコンピューターを使って自分だけのマシンを作り上げたとき、松本の胸に再びよみがえったのは、世界をその手に収めた瞬間の喜悦だった。論理によって腑分けされ、手順によってコンピューターの中で再構成された世界は、創造主である松本の命ずるままに動き、松本の命ずるままに姿を変えた。
 だが、なめらかなプラスチックのケースに閉じ込められたPC―8001は、ユーザーの視線が筺体の中に及ぶことを拒否した、IBMの大型コンピューターのような美しいブラックボックスだった。
 冷めかけた心は、完成品のパーソナルコンピューターを支える技術の出自をたどることで、いっそう熱を失っていった。
 テレタイプ、ブラウン管式のディスプレイ、フロッピーディスク、そしてベーシック、OS――。あらためて振り返ってみれば、マイクロコンピューターが貪欲に呑み込んできたほとんどの要素は、従来のコンピューター技術の枠の中で生まれたものだった。
〈結局は、セールスマンだったのではないか。それも古いコンピューターの世界に転がっていた言語とOSを、パーソナルコンピューターという新しい包装紙でくるんだだけの、焼き直しの商売だったのではないか。
 この一年、自分は何一つとして新しいものを作り上げなかった。作る代わりにやっていたのは、大型のものを焼き直したソフトウエアのセールスではなかったか〉
 そう思いいたったとき、松本はアスキーマイクロソフトの日々につきまとっていた居心地の悪さの根にあるものをつかみ取った。
〈ここでは何も作れない〉
 松本はPC―8001の誕生に、希望よりはむしろ閉塞感を覚えていた。
 
 作ることへの飢えが頭をもたげはじめた一九七九(昭和五十四)年の夏、松本は前橋高校で同級だった黒崎義浩から連絡を受けた。
 黒崎は友人たちとともに、脳性麻痺の障碍を持った子供が使う、意思表示の道具を作ろうと準備を進めているという。エレクトロニクスを生かしたいというこの機器の開発に、力を貸してくれないかと黒崎は求めてきた。
 電話口から漏れてくる黒崎の言葉は、松本の耳に染み入るように涼しく響いた。
 大学時代、精密機械工学科で働いていた当時、松本は研究室が取り組んでいたサリドマイド児のための高度な機能を備えた義手の開発に携わったことがあった。このときの義手は重くなりすぎたために結局実用化されなかったが、肉体的なハンディキャップを背負った人にエレクトロニクスが貢献できるはずだとの確信は、松本の内に実践を通して育っていた。
 松本は黒崎の友人でこの試みに共感していた玉城重信と玉置晴朗とともに、群馬県桐生市の桐生第一養護学校を訪ね、脳性麻痺の子供たちにとってどんな道具がふさわしいのかを探りはじめた。
 しゃべれない子供たちは、これまでもっぱらひらがなを書き込んだ表を一字一字指して、意思を表わしていた。障碍の軽い子供は、カナ文字タイプライターのキーボードの上に、一つ一つのキーに合わせて穴を空けた板を載せ、鉛筆などでつついて文章を書いた。まとまった文章を一度に作ってしまえるタイプライターの使える子供は、それだけ豊かに自分を表現することができた。だがタイプライターの恩恵にあずかれるのは、ごく一部の障碍の軽い子供に限られた。松本たちは、このカナ文字タイプライターを電子化し、重い障碍を負った子供でも使いこなせるようにしたいと考えた。
 本体はマイクロコンピューターを使ったシステムで組み、テレビとのインターフェイスを付けて「あいうえお」の文字を順に画面上に表示していく。そして選びたい文字まで来たところで子供たちに合図してもらい、文字を確定する。この繰り返しで文章を作っていく装置を、松本たちはごくシンプルに「テレビカナタイプ」と名付けた。
 テレビカナタイプの本体は、これまでマイクロコンピューターのシステムを何度も設計してきた松本にとっては、お手の物だった。画面上に「あいうえお」を順に出していき、確定された文字を引き取って文章を続けていくプログラムは、玉城重信が中心になってすぐに書き上げた。ただし子供たちの意思を受け取る入力装置に関しては、試行錯誤が必要になった。
 子供たちの障碍は、一人ひとりみな異なっていた。片足でけ飛ばして合図を送る装置、息を吹きかけて文字を止めるもの、カメラのシャッターを押すのに使われるレリーズを利用し、軽く握ってタイミングをとるタイプなど、いろいろな器具を開発するたびにデレビカナタイプを利用できる子供が増えていった。
 繰り返し養護学校に通っては子供たちと付き合ううちに、松本は彼らの言葉をしだいに聞き取れるようになった。通いはじめた当初はさっぱり受けとめられなかった、子供たちのしぐさや瞳の色や声音の奥にある意思が、やがて松本の心で意味を結びはじめた。彼らの心に息づいている豊かな感情を生き生きととらえられるようになっていったとき、松本はアスキーマイクロソフトでソフトウエアのセールスマンとして働き続ける気持ちを最終的に失った。
 西にそのままの気持ちを話し、辞職する旨を伝えた。
 会社に籍を置いてからも原稿の仕事は続けてきたし、技術的なコンサルタントを引き受けているところもあり、仕事に飢える不安はなかった。
 アスキーマイクロソフトからの給料は、十月まで振り込まれてきた。
「作れないからやめたい」という松本を、西は無理に止めようとはしなかった。
 作ることへの乾きは、西の内にもあった。
 マイクロソフトとの提携を境に、目まぐるしく事業が拡大していく中で、作ることの喜びは西のてのひらからも砂のようにこぼれ落ちていた。
 テレビカナタイプには、最終的にはテレビのスイッチを入れる機能に加えて、部屋の照明をオンオフする機能まで付けて完成させた。小さなプリンターも、本体に組み込んでみた。作ったのは一台きりだったが、桐生第一養護学校では、いろいろなタイミング合わせの装置と組み合わせて、子供たちが幅広く使ってくれた。自分たちの作業はあくまでボランティアと考えれば、テレビカナタイプは一台四万円程度で作れるはずだった。これ以降、松本たちはこの装置をまとめて作らせてくれるスポンサーを探して動いたが、結局この試みは実を結ばなかった。
 だがテレビカナタイプに取り組んだ経験は、失いかけていたマイクロコンピューターへの熱を再び松本の内によみがえらせた。この技術が圧倒的にコンピューターを安くするのなら、これまではとても救いえなかった領域にマシンによる支援の手を届かせることができるはずだった。理屈としてはこれまでも当然と受けとめていたそうした発想を、松本はテレビカナタイプの開発を通して確信するようになった。そしてこの装置の開発を通して出会い、マイクロコンピューターへの確信を共有した友人たちと、松本はその後もともに歩み続けることになった。
 
 一九八〇(昭和五十五)年は、創造の神の僕たる松本にとって復活の年となった。
〈パーソナルコンピューターとは本質的に、従来のコンピューター技術の枠組みからなんらはずれるものではない〉
 マイクロソフトのベーシックを売り込み、CP/Mの果たす役割をOEM先のメーカーに訴えかけているあいだ、松本の胸にはそうした思いが澱のように積み重なっていた。
〈本質的に新しいものなど、何もなかったのではないか〉
 松本は耳の奥で何度もそうささやく声を聞いた。
〈だが本当にそうだろうか〉
 アメリカで注目を集めた新しいソフトウエアを前にして、松本は再び考えはじめた。
 ダニエル・ブリックリンによって書かたビジカルクは、一九七九年五月のWCCFで発表され、この年の終わりになって発売された。
 ブリックリンは煩雑な手計算から逃れるための道具として、ビジカルクを書いた。だがビジカルクを手にした多くのユーザーは、ブリックリンの想定を超えて、考えるための道具として電子集計表を使いはじめた。いったん作り上げた画面上の表を前にして、この条件をこう変えたらどうなる、ああしたらどうなると試行錯誤を繰り返し、最終的な結論を導き出すためのシミュレーションの道具として、ユーザーはビジカルクを利用した。
〈操作した結果が即座に返ってくる環境下で、自分の目で見ながらあれやこれや考えるための道具が、果たして既存のコンピューター技術の中からも生まれただろうか〉
 そう問いかけたとき、松本の内でパーソナルコンピューターにもう一度光が当たりはじめた。
 コンピューターの処理能力が高価な資源であり続ける限り、一人の人間が機械を占有してじっくり想を練るための道具など成り立たなかったのではないか。マシンの処理速度からすればすさまじく大きな空き時間をはさみながら、あくまで人間のペースで物事を進める贅沢でむだの多いソフトウエアなど生まれえなかったのではないか。マシンの処理能力の値段を一挙に引き下げるマイクロコンピューターがあってはじめて、一人ひとりの人間のための強力な思考の道具となるビジカルクは誕生できたのではないか。
 人間の考え方や感じ方に合わせて物事を進めようとすれば、コンピューターには無理もむだも覚悟してもらわざるをえない。従来のコンピューター技術は人間が機械の都合に合わせ、貴重な処理能力を最大限活用することを基調としていた。だがマイクロコンピューターは機械と人間の優先順位を逆転し、人の都合に合わせたコンピューター文化を作りはじめる出発点を提供したのではないか。
 とすれば、パーソナルコンピューターは大型コンピューターのエピゴーネンにとどまらないのではないか。
 ビジカルクと出合ってから、松本はパーソナルコンピューターをもう一度積極的な視線でとらえはじめた。
 そして一九八〇(昭和五十五)年が明けて、松本は再び動き出していた。

マイクロハード
パソコン開発奮戦記


 テレビカナタイプの仲間三人は、弱電関係の仕事を融通しあいながら、それぞれ自営で食っていた。彼らとシステムの開発だけを引き受ける会社を起こそうかと話を進めている最中、雑誌に書いた原稿をたどってソニーから仕事の口がかかった。
 一拍遅れからのスタートとはなるものの、ソニーは今後パーソナルコンピューターに取り組んでいくという。ついてはシステムの開発の中心として、働いてくれないかという申し入れだった。
 四月からソニーの嘱託社員として働きはじめる一方で、仲間との会社設立の話も進めた。ソニーの一件があって社長は玉置にゆずり、前橋に事務所を借りて八月から株式会社の体裁を整えてスタートさせた。
 社名はマイクロソフトに引っかけて、日本マイクロハードを名乗った。
 セールスマンとしてベーシックとCP/Mを売り歩くことには愛想をつかした松本だったが、パーソナルコンピューターの開発を進めるとなれば当然、この二つの基本ソフトとの縁は切れなかった。
 あらたにパーソナルコンピューターに乗り出していくにあたって、ソニーは専門セクションのMC開発部を発足させ、まずはアメリカ市場に突破口を開こうと考えた。現地のコンサルタントを雇ってアメリカ市場の動向を分析させた結果、八ビットのCP/Mマシンが目標に据えられた。
 マイクロソフトのベーシックは確かにアメリカ市場の標準となっていたが、商品としてのプログラム開発の基盤として機能しはじめていたのはCP/Mだった。プロの書いたソフトウエアを買ってきて使うだけなら、わざわざ動作の遅いインタープリターを開発用の言語とすることには、積極的な意味はなかった。商品としてのソフトウエアなら、アセンブラーなり、コンパイラーなりで書く方が賢明だった。
 パーソナルコンピューターでもいち早くフロッピーディスクが使われはじめたアメリカでは、パッケージ開発の基盤となったのはCP/Mだった。すぐれたソフトウエアを安く提供するうえで、トム・ピットマンが不可欠と考えたプログラムの互換性はCP/Mによって提供された。
 インテルの8080や、互換性を保ちながらこれを強化したザイログのZ80を使ったマシンは、軒並みCP/Mの採用に踏み切っていた。CP/Mには多くの言語が移植され、さまざまなユーティリティーが書きためられ、ワードプロセッサーのワードスターのようなヒット商品も生まれていた。
 6502を使いながら八ビットの代表機種となったアップルIIは、CP/Mの文化圏とは距離を置いた独自のアプリケーションの世界を築いていた。アップルII用のフロッピーディスクドライブ、ディスクIIには、独自のアップルDOSが使われていた。だがアップルIIでも、CP/Mを使えるようにしようとする試みはあった。CP/M用にさまざまな言語を商品化していたマイクロソフトは、アップルIIのユーザーもこのOSに対応したプログラムを利用できるようにする商品を開発しようと考えた。
 一九七九(昭和五十四)年の秋、この企画の技術検討を最初に持ちかけられたのは松本吉彦だった。
 マイクロソフトの副社長となっていた西和彦は、アスキーマイクロソフトを退職したばかりの松本に、アップルIIの増設スロットに差し込んで使うCP/Mボードが作れないかと声をかけた。
 このときじっくりとアップルIIのハードウエアを見なおした松本は、スティーブン・ウォズニアックの仕事の切れ味にあらためて鮮烈な印象を受けた。アップルIIは、最小限の回路でどれだけのことができるかを突き詰めた、エレクトロニクスの精緻な細工だった。限られたメモリーで六色のカラーを表示する仕掛けや、動作に必要なすべてのタイミング信号を一つの回路でまかなってしまう徹底には息を呑まされた。アップルIIの回路を追っていくうちに、松本はウォズニアックという天才的な芸術家の個展に迷い込んだような感動を味わった。
 このアップルIIという名の芸術作品でCP/Mを使うためには、本来このマシンが使っている6502に代えて8080系のマイクロコンピューターを動かす必要があった。西からの注文は、Z80を載せたCP/Mボードの開発だった。だがZ80の動作するタイミングとアップルIIのバスのタイミングは、どう工夫してみてもすっきりと合わせられなかった。無理矢理合わせることは可能だったが、シンプルをきわめたアップルIIに力任せの回路を加えることは、天才の芸術に墨を塗るような行為に思えた。代わって松本は、アップルIIのバスのタイミングで動くZ80を半導体メーカーに起こしてもらい、これを使ってボードを開発するべきだとの提案をまとめた。だがこの時点では、あらたにマイクロコンピューターを起こしなおすことを、マイクロソフト側は非現実的であると判断した。
 翌一九八〇(昭和五十五)年八月にマイクロソフトから発売された、CP/MをアップルIIで使うための増設ボードの回路を、松本は苦々しい思いで読むことになった。
〈汚い回路だな〉
 ソフトカードと名付けられたこの製品を一目見てまず湧き上がってきたのは、アイドルの作品を汚されたような不快感だった。だが何はともあれCP/M文化圏に橋を架けたソフトカードは、多くのアップルIIユーザーから支持された。
 少なくともアメリカ市場において、CP/Mはソフトウエア流通の揺るぎない基盤となっていた。この市場に乗り込んでいく以上、CP/Mを前面に押し立てるというコンサルタントがまとめ上げた結論は、松本にとっても当然のもののように思えた。
 
 Z80を採用した八ビット機に、ソニーは新しいハードウエアの工夫を盛り込んで使いやすさを高め、この点を家庭に食い込んでいくにあたってのセールスポイントとしようと考えた。
 売り物の第一は、小型で取り扱いの簡単なフロッピーディスクだった。
 パーソナルコンピューターではこれまで、八インチの標準フロッピーディスクと五インチのミニフロッピーディスクが広く使われてきた。この二つはともに、いささか厚手ではあるものの、正方形の紙のケースに収められていた。折り曲げてしまわないように、取り扱いには注意が必要だった。
 これに対しソニーは、サイズを三・五インチといっそう小型化したうえで、プラスチックのケースに収めたマイクロフロッピーディスクを開発し、これを新しい標準に押し上げようと狙っていた。欧米市場向けにソニーが売り出したワードプロセッサーからまず採用されたこの規格は、「ポケットに入るフロッピー」を謳い文句にして好評を博していた。新しい八ビット機には、この三・五インチのフロッピーディスクドライブを二台組み込んだユニットが、オプションとして用意された。
 扱いやすさのための第二のポイントは、増設ボードとスロットの形状の見直しだった。S―100バスにしろアップルIIのものにしろ、これまでの増設ボードはいずれも回路部品がむき出しとなった裸の基板の形態をとっていた。スロットとの接続部分には、基板の一部を延ばしただけのカードエッジコネクターという、素人を拒否するような仕掛けが使われていた。本体のカバーをあけて、むき出しの基板を注意して差し込むような構造をとっていることは、家庭への普及の妨げになると松本たちは考えた。そこでケースに収めた増設ボードを、がっちりとしたコネクターで簡単につなぐ独自の方式を開発することにした。
 新しいマシンのベーシックにも、ソニーは独自の工夫を盛り込んだ。標準となったマイクロソフトのものはあえて採用せず、計算の精度を一〇桁まで高めたほか、グラフィックスやデバッグ関連の機能を大幅に強化した独自のベーシックを搭載する道を選んだ。
 マイクロソフトのベーシックが標準の地位をつかみ、数多くのメーカーが新しい機種を開発するにあたってS―100バスを採用してきたという事実を踏まえながら、ソニーがあえてさまざまな独自の技術を盛り込もうとした背景には、CP/Mに対する大きな信頼があった。
 機種の壁を越えてアプリケーションを共通に利用する基盤となっていたのは、CP/Mだった。今後商品としてのソフトウエアはますますOSを前提としたものに移行していくことを考えれば、ユーザー自身のプログラミングのためにベーシックは残すにしても、マイクロソフト製にこだわる必要はないとソニーは考えた。
 さらに業界標準のOSに沿ってさえおけば、ハードウエア自体は古い技術にこだわったり、なにかに合わせたりする必要はないという判断もあった。CP/Mという基本さえ守れば、使いやすさなり、速さなり、小ささなり、あるいは安さなり、独自の特長を盛り込んだマシンをかなり自由に追求して勝ち目はあると、ソニーは時代の流れを読んでいた。

 当初から科学技術計算や事務処理に使える本格的なマシンを目指してマイクロコンピューターを利用したシステムに乗り出してきた三洋電機も、いち早くOSへの移行を目指した。
 同社は一九七九(昭和五十四)年、テキサスインスツルメンツ製の一六ビットマイクロコンピューター、TMS―9900を使ったディスプレイ、フロッピーディスクドライブ一体型のPHC―3100で市場に参入した。このマシンには、当初からマルチタスク可能な独自仕様のOSが採用され、さまざまな言語をこの上で使えるようになっていた。
 一九八一(昭和五十六)年になって、三洋電機はマイクロコンピューターをインテル製に置き換え、OSもCP/Mの流れを汲むものに替えて、スタートを切りなおした。CP/Mと互換性のあるOSを開発して自社のマシンに採用する一方で、同社はCP/Mそのものもオプションで用意した。
 明確にCP/Mマシンにターゲットを絞り込んだ三洋電機の開発作業の一部は、マイクロハードによってになわれた。
 一九八二(昭和五十七)年二月から三洋電機が売り出すことになるMBC―100の開発にあたったのは、松本たちだった。前年、松本はMBC―100と並行してSMC―70と名付けられるソニーのCP/Mマシンの追い込みにもかかっていた。
 当初予定していたデジタルリサーチからのOSの調達に手こずった挙げ句、マイクロソフトの用意したものを本線に据えてIBMがPCの発表に踏み切ったのは、松本が二つのCP/Mマシンにかかり切りになっていた一九八一(昭和五十六)年の八月だった。
 PC―DOSとして発表され、MS―DOSとして他のマシン用にも販売されることになったマイクロソフト製OSの最大の売り物は、CP/Mとの互換性だった。MS―DOSは、CP/Mを否定するものでも革新しようとするものでもなかった。だがコンピューター業界では絶大のブランド力を誇ってきたIBMのパワーによってMS―DOSが一六ビットの標準となれば、実体は互換OSであれ、その後の発展の道筋をつけるリーダーシップと収益の転がり込み先は、マイクロソフトに移りかねなかった。
 CP/Mを押し立ててアメリカ市場に乗り込もうとした矢先のソニーは、IBMのこの選択に大きな衝撃を受けた。
 予定を大幅に遅らせて一九八二(昭和五十七)年五月、まずアメリカ市場向けにSMC―70を発表した時点で、ソニーはマイクロコンピューターを8086に切り替える増設モジュールを提供すると予告し、CP/M―86に加えてMS―DOSのサポートを約束せざるをえなかった。
 既定方針どおり、CP/M、さらにその一六ビット版のCP/M―86で進むのか。MS―DOSをとるべきか。それとも両方をサポートする道を選ぶべきか。
 PCの誕生以降、こうした問いかけが鋭い緊張感をはらんで浮上したことは、パーソナルコンピューターをベーシックだけのマシンからOSを前提としたシステムへと転換することが次の課題であることを、誰もが意識しはじめたことの証だった。だがOSがベーシックに代わる基本ソフトとして明確に意識されはじめたこの時期は、もう一方でパーソナルコンピューターに用意されたOSの限界があからさまに表面化するときとも重なり合っていた。
 アップルIIでもCP/Mが利用できるようマイクロソフトが開発したソフトカードのあり方は、この時点でのOSの可能性と限界を雄弁に物語っていた。
 
 CP/Mにはコンパイラー形式のさまざまな言語やアセンブラー、ユーティリティーなどが移植されており、アプリケーションの開発環境が整ってきていた。
 たくさんの情報を高速に読み書きできるフロッピーディスクの存在を踏まえ、マシンが備えはじめたより大きなメモリーを前提として、機能が豊富でしかも速く動くソフトウエアを開発したいとなれば、OSに対応して書くことは当然の流れだった。ワードスターといった人気の高いアプリケーションも、CP/M上にはすでに生まれていた。マイクロソフトのソフトカードは、アップルIIのユーザーにCP/M上の言語やアプリケーションを使う道を開いた。
 ところがその一方で、CP/Mは決定的な弱点を抱え込んでいた。
 ゲアリー・キルドールはDECのシステム10のOSだったTOPS―10をまねて、CP/Mを書いた。文字と数値を処理することが一般的にコンピューターに要求されることのすべてだった時期に作られたTOPS―10は、グラフィックスを取り扱うことなど念頭に置いてはいなかった。過去のコンピューター技術をマイクロコンピューター用に移し替えたCP/Mにも、グラフィックス関連の機能は備わってはいなかった。さらにCP/Mの一六ビット版として開発されたMS―DOSでも、グラフィックスは穴のまま残されていた。
 そうした事情とは無関係に、マイクロコンピューターを使ったシステムを自分のものとしたホビイストたちは、文字と数値の世界を超えつつあった。彼らはグラフィックスを、音を、自分たちのマシンでいじりはじめた。グラフィックスを使ってゲームを書くことは、そもそもタイニーベーシックの手作りが呼びかけられた際の重要な目標の一つだった。高解像度のカラーグラフィックス機能を備えたアップルII用には、ベーシックを使ってゲームをはじめとするたくさんの視覚的なソフトウエアが書かれていた。
 組織上の役割や制約とは無関係に、一人の人間として人がコンピューターと向き合ったとき湧き上がってきた、グラフィックスや音と遊びたいという欲求を埋めたのは、ベーシックだった。
 コンピューターが初めて個人に解放されて花開いた新しい文化は、ベーシックの上に乗っていた。
 今後より合理的、より効率的にコンピューターを使いこなそうとすれば、OSは確かに不可避の選択だった。だが現実に用意されていたOSの選択肢は、もっともパーソナルコンピューターらしいグラフィックスや音の機能を欠いた、旧世代文化のコピー版だった。
 ではどうするのか。
 インタープリター構造のベーシックに永遠に閉じこもって、遅さを嘆きながらもグラフィックスを活用し、人の肌合いに沿った新しい文化を育てようと試みるのか。それともやはり、当然の流れとしてOSへの切り替えを受け入れ、その流れの中でパーソナルコンピューターが育てはじめた間口の広いメディアとしての性格に対応していくのか。グラフィックスの機能を欠いたOS上で、視覚的なソフトウエアを書こうとすれば、少なくとも枠からはみ出した機能だけは、対象とする個別のハードウエアに対応した形で書かざるをえなくなる。そうすればグラフィックスが引っかかって、OSの大きなメリットである互換性の確保が実現できなくなる。それでもやはり、OSに進むべきなのか。
 標準搭載には踏み切らなかったものの、IBMがOSの使用を前提としたPCで市場に乗り込んできた時期、ハードウエアとソフトウエアの作り手は意識するか否かにかかわらず、この問いに直面させられていた。

次のターゲットは
日本語版アルトだ!


「やったで」
 一九八二(昭和五十七)年四月、深夜の電話を伊勢崎の自宅で受けた松本吉彦は、時差など頭の隅にも置いていない西和彦の、弾むような声に耳をはじかれた。
 企画を進めていた例のハンドヘルドコンピューターを、タンディが売ってくれることになったと、西は高い調子で告げた。プロトタイプを駆使した西のプレゼンテーションを受けて、タンディ副社長のジョン・シャーリーは、京都セラミツクがハードウエアを製造しマイクロソフトがソフトウエアを準備する超小型機を自社のブランドで売り出すことをその場で引き受けた。
「即断即決やで」
 そう告げる西の声が、心地よさそうに受話器の中で砕けてこだました。
 前年の秋、京都セラミツクの稲盛和夫と西和彦とのファーストクラス客室内における出会いは、二つの未来志向マシンの開発プロジェクトに結びついた。一つは持ち運びの可能な超小型のハンドヘルドコンピューター。加えて西と稲盛は、アルトの精神を汲んだマシンの開発に取り組むことにも合意していた。
 京都セラミツクがこの分野に経験とセールス網を持っていないことから、販売を引き受けてくれるメーカー探しには西があたることになった。マシンの開発と製造は、京都セラミツクの子会社のサイバネット工業。西は同社社長の友納春樹に「ハードウエア作りの天才」として松本を紹介し、アルトの子供の開発作業はマイクロハードに発注された。
「次は僕の出番の日電だね」
 受話器でも持ち替えたのか、西の言葉が途切れた間を松本が問いかけの言葉で埋めた。
「そう。今度が本番やね」
 しばらく間をおいてから返ってきた西の声は、一転して自分に言い聞かせるような低い調子を帯びていた。
 ハンドヘルドコンピューターの販売はまずタンディに持ちかけた西だったが、アルトの子供の売り込み先には、稲盛との合意がまとまった時点から日本電気を想定していた。
 日本電気半導体事業グループの渡辺和也のチームは、西とマイクロソフトにとってかけがえのない育ての親だった。PC―8001にマイクロソフトのベーシックを売り込むことに成功した西は、その余勢を駆ってほとんどの日本のパーソナルコンピューターに採用を取りつけていった。最大瞬間風速では、マイクロソフトの全売り上げに占める日本の割合は四割に迫った。IBMがPCプロジェクトを持ちかけるまで、日本電気はマイクロソフトにとってもっとも重要な顧客だった。
 加えて日本電気には、パーソナルコンピューターの未来像を完璧に共有できる後藤富雄がいた。
 大内淳義のもと、渡辺和也をリーダーとして進められてきた同社のパーソナルコンピューター事業において、具体的なマシンの方向付けに関してもっとも大きな影響力を持っていたのは、柔軟な好奇心のきらめきと少年の誠実をあわせ持った後藤だった。
 一九八一(昭和五十六)年の暮れいっぱいまでかかってPC―8801の出荷にこぎ着けた後藤を、一九八二年に入って間もなく、西はベンチャーキャピタリストのベン・ローゼンが主催する「パーソナルコンピューターフォーラム」に誘った。五月十日から十二日まで、ロサンゼルス近郊のパームスプリングスで開かれるフォーラムで、日本市場の現状と日本電気の成功の要因に関する報告を二人でやりたいと、西は後藤に持ちかけた。
 一〇〇名あまりの出席者の中には、業界のめぼしいキーマンが軒並み顔をそろえていた★。

★フォーラムの論議を記録した『ザ・ローゼン・エレクトロニクス・レター』(一九八二年九月二十九日号)の主要出席者名簿には、スティーブン・ジョブズ(アップルコンピュータ会長)、フィリップ・D・エストリッジ(IBM副社長、エントリーシステムズ・ジェネラルマネージャー)、アダム・オズボーン(オズボーンコンピューター社長)、ジョン・ローチ(タンディ社長)、ゲアリー・キルドール(デジタルリサーチ社長)、ビル・ゲイツ(マイクロソフト社長)、ダニエル・フィルストラ(ビジコープ会長)らに加えて、後藤富雄と西和彦の名前が記載されている。

 三度目を数えるフォーラムは、この年の主要なテーマの一つとして、「親しみやすさとは何か」を据えていた。
 セッションの冒頭に講演に立ったゼロックス、オフィスプロダクト部門のドナルド・マッサーロは、「これまでは自分で欲しいと思っている人にパーソナルコンピューターを売ってきたが、今後は、マシンを必要とはしていても必ずしも欲しいとは意識していない人に売っていかなければならない。そこで、インターフェイスの問題が浮上してくる」と指摘した。人の心とコンピューターが、ともに広い帯域幅を与えられながら、キーボードを介することで、交換できる情報量を極端に制限しているのはなんと奇妙なことだろうと指摘したマッサーロは、「こうした状況も市場に出てくるスターや、PERQなどの新しいマシンによって変化するだろう」と続けた。
 アラン・ケイらの再三の働きかけにもかかわらずアルトの研究成果を商品開発に結びつけられなかったゼロックスは、前年の一九八一年の四月になって、遅ればせながらスターと名付けたワークステーションを発表していた。
 パロアルト研究所を飛び出したブラインアン・ローゼンの起こしたスリー・リバース・コンピューターは、一九八〇年、スターに先だってPERQと名付けたワークステーションを発表していた。
 マッサーロはさらに、アップルの未発表の製品であるリサとマッキントッシュがこうした流れに沿っていることを、スティーブン・ジョブズを前にしてスピーチの中でほのめかした。
 アルトの成果に強い衝撃を受けたアップルは、この技術を利用したマシンの開発を目指し、人材をパロアルト研究所から引き抜いてリサとマッキントッシュのプロジェクトを進めつつあった。
 リサの開発チームはソフトウエアをすべて自前で用意しようとしたが、マッキントッシュを担当することになったジョブズは、ベーシックをはじめとする一部のソフトウエアをマイクロソフトに依頼して開発期間の短縮を図ろうと考えた。一九八一年の夏、ジョブズを訪ねたゲイツはマッキントッシュの開発チームに引き合わされ、試作機を見せられた。一九八二年二月、ジョブズはマッキントッシュ用のソフトウエア開発に関する契約をビル・ゲイツと結び、マイクロソフトには開発マシンとしてマッキントッシュのプロトタイプが運び込まれた。最終的に採用されることになったソニー製の三・五インチ、マイクロフロッピーディスクの代わりに、五インチのドライブを一体型の筺体に内蔵したマッキントッシュの試作機に、西自身もこの時点で触っていた。
 アルトの成果とこれにかかわった人材は、風に運ばれて落ちたそれぞれの庭に、それぞれの花を咲かせつつあった。
 
 パーソナルコンピューターを根底から革新しようと水面下で用意されつつある動きの意味を、後藤がすでに完全に理解していることは、ローゼンのフォーラムに同行した西の目に明らかだった。
 後藤にはウインドウの意味やメニュー、マウスの役割などあらためて説明する必要はなかった。一九七七年の春、同年三月号の『コンピューター』でアラン・ケイの「パーソナル・ダイナミック・メディア」を読んだそのときから、ダイナブックは後藤にとって彼方の導きの光となっていた。
 TK―80が予想外の人気を集め、時代の風に背を押されるように発表したPC―8001が成功して、マイクロコンピューターの販売部門だったはずの部署がパーソナルコンピューターの担当セクションの様相を呈しはじめた時点では、後藤にはアルトに向かって歩みつつあるとの実感はなかった。現実に使っている八ビットのマイクロコンピューターの処理能力と、アルトのようなソフトウエアの環境を駆動するために求められるパワーには、はるかな差があった。だがもう一方で、機会さえつかめばアルトの子供は作り出せるとの確信を、後藤は当初から持っていた。
 パーソナルコンピューター関連の作業が急速に膨らみはじめてからも、およそ五年近くにわたって、渡辺の部署は正式にはマイクロコンピューターの販売セクションであり続けた。後藤自身も先端的な一六ビット版に加え、ビットスライス型と呼ばれる特殊なタイプを担当するなど、チップの販売にもあたり続けていた。通常のマイクロコンピューターが、八ビットなら八、一六ビットなら一六と一定の単位で処理を行うのに対し、ビットスライス型は二ビットないしは四ビットのプロセッサーを並列に組み合わせ、必要に応じて処理の単位を拡張できるように工夫されていた。文字や数値にとどまらず、すぐに大きなデータ量に膨らんでしまうグラフィックスを処理するうえでは、ビットスライス型は強みを発揮した。
 AMD社からライセンスを受けてセカンドソースとして製造していた四ビットスライスのμCOM―2900を担当した後藤は、このタイプのプロセッサーを使えば、コストは高くなるものの、アルトの子供をすぐに作れることを意識していた。この時点では後藤自身は知りようがなかったが、アルトはMSI(中規模集積回路)を組み合わせて作ったビットスライス型のプロセッサーによって駆動されていた。リサの開発にあたっては当初アップルも、この方式による専用マイクロコンピューターの新規開発を選択肢の一つとして考えていた。
 高価なマシンとしてなら、ビットスライス型を使っていつでも作れる。だが、使い勝手をよくするために、処理能力の大半を割り振ったマシンが高い物についたのでは、ビジネスとしての成功はとうてい望めないだろう。
 そう考えて、後藤は目の前の開発計画と彼方の希望としてのアルトとの落差に気持ちの折り合いをつけてきた。パロアルト研究所を抱えるゼロックスが、いつまでたってもアルトの商品化に踏み切らないでいたことも、自らにモラトリアムを許す免罪符となっていた。だが彼らがついに発表に踏み切ったスターは、明らかにアルトの子供の精神を汲んでいた。
 加えてパーソナルコンピューターでもすでに現実のテーマとなってきている一六ビットへの転換が、後藤の精神のバランスを微妙に狂わせはじめていた。
 一六ビットなら、かなりのところまでやれるのかもしれない。そう考えはじめていた後藤は、アップルがモトローラの68000を使ってアルトの子供を二つ、並行して開発しつつあるという情報をフォーラムで得て、パーソナルコンピューターの変革の波が着実に近づいていることを意識した。
〈もしもインテルの8086で作ったとしたら、果たしてどこまでのことがやれるだろう〉
 成田へと向かう帰りの機中で具体的なマシンのイメージを描きはじめた後藤は、そのときふと浮かび上がってきたまったく新しい角度からの発想に、駆け抜けるように背筋をなぶられた。
〈行けるのかもしれない〉
 後藤は繰り返し、喉の奥でそうつぶやき続けた。
 次の瞬間、「行ける」とのイメージは、大脳皮質を駆け抜けた新しい言葉に一瞬に置き換わった。
〈行けるんじゃない。突破口はここにしかないんだ〉
 後藤はそのとき、パーソナル・ダイナミック・メディアへの挑戦こそが、自分たちに残された唯一の希望であることをはっきりと意識した。
 
 前年の一九八一(昭和五十六)年のはじめ、日本電気首脳はパーソナルコンピューター事業を今後どう進めるかの大枠を、トップダウンで定めた。
 家庭用の低価格八ビット機は、子会社の新日本電気が担当。今後もっとも大きな伸びの期待できる一六ビットの事務用分野には、コンピューターの専門セクションである情報処理事業グループがあらたに乗り出していくことになった。TK―80で種をまき、PC―8001でパーソナルコンピューターの可能性を実証して見せた後藤たち電子デバイス事業グループのチームは、家庭用と事務用の中間的な機種を従来の製品の延長上にになっていくのだと役割を限定された。
 漢字を使うことを前提として機能強化し、この年の九月に発表した八ビットのPC―8801は、定められたこの枠組みの中にかろうじて収まっていた。
 日本最大のコンピューターメーカーである富士通が同年四月、ついに発表に踏み切ったパーソナルコンピューターFM8は、明確にビジネス用途を念頭に置いていた。6800の改良型である6809を二個組み込んだFM8は、八ビットながら、片方を入出力の制御に専門にあたらせる工夫によって、処理速度の向上を図っていた。
 さらにFM8は、漢字ROMを基板上に組み込める、初めての漢字パーソナルコンピューターに仕上げられていた。富士通はこのマシンに、大型コンピューター用に開発した四層構造の多層プリント基板を用いていた。
 陸も海も混じり合ったような混沌としたホビイの世界から、ビジネスは確固たる市場性を持ったパーソナルコンピューターの一分野として浮かび上がっていた。ここに狙いを定めたFM8に対抗するために、渡辺和也は漢字の使える上位機種の開発を最優先して進めることを指示した。後藤たちは日本語の表示のために解像度を高め、漢字ROMを組み込めるように備えたマシンの開発に突貫工事であたった。FM8への対抗上九月には早くも発表に踏み切ったPC―8801の出荷には、年末ぎりぎりになってようやくこぎ着けることができた。
 だがアメリカではこの年の八月、IBMがPCでパーソナルコンピューターに乗り込んできていた。今後ビジネス市場を狙って各社が一六ビットのマシンを送り込んでくることは、火を見るよりも明らかだった。にもかかわらず一六ビットのビジネス分野は、情報処理事業グループの領域としてすでに囲い込まれていた。
 後藤たちは、技術の未来を開く権利を失っていた。
 もしも事務用の一六ビットという概念に抵触しないもう一つの一六ビット機があれば、閉じ込められた八ビットの壁を突き破ってあらたな世界に踏み出せるのかもしれない。
 だが、そんなコンピューターがあるのだろうか。
「一六ビットは情報処理」との方針が示されて以来、後藤は繰り返しこの問いに向き合ってきた。西に誘われて顔を出したローゼンのフォーラムは、この問いと、後藤の胸の中ではるかな導きの光として生き続けてきたアルトへの憧憬とを結びつけた。
 一六ビット化によって獲得した処理能力を、使い勝手の側に大きく割り振ったアルトの子供なら、情報処理事業グループの押さえる事務用という領分に抵触しないマシンと言い張ることができるのではないか。
 乗客の食事を片付け終わったあと、客室の窓を閉ざしてスチュワーデスが作り上げた人工の夜の闇の中で、後藤は一人、瞳を燃やしながら考え続けていた。

    

    

第二部 第六章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
一九八三 PC-100の早すぎた誕生と死

 一九八二(昭和五十七)年五月、西和彦が持ち込んだ二つの未来志向のプロジェクトを、日本電気は六月に入ってすぐに正式に受け入れた。
 タンディとの交渉が先行して進められていたハンドヘルドコンピューターの開発作業は、西からの申し入れがあった時点ですでにあらかたのめどがついていた。サイバネット工業の伊勢工場では、同社への製品供給が本決まりとなった時点から、量産化に向けてラインの整備が進められていた。
 もう一方、ゼロからのスタートとなるアルトの子供の開発計画は、TRON★と名付けられた。

★同じくTRONを名乗るプロジェクトには、東京大学の坂村健の推し進める、マイクロコンピューター環境の包括的統合計画がある。両プロジェクトがこう呼ばれるきっかけとなったのは、ディズニープロダクション制作の映画『トロン』だった。一九八二年に公開されたこの作品は、コンピューターグラフィックスを大幅に用いたことで当時話題を呼んだ。坂村のTRONプロジェクトは、一九八四(昭和五十九)年六月にスタートするが、もしもPC―100として発表されるこのマシンの開発コードネームがすっぱぬかれていたら、あの構想はなんと呼ばれていただろう。TRONの理念に多くを教えられ、これに深く共感する著者は、あのプロジェクトに関して「もし……だったら」と思い返す点が多い。TRONという鏡にうつせば日本がよく見える。

 TRONをどう仕立てるかを決める仕様検討は、プロジェクトにゴーサインが出た直後の六月初旬から開始された。叩き台となるプランを提出する立場の京都セラミツク、アスキー側にあって、実作業をになったのはマイクロハードだった。
 松本吉彦にとって、アルトの子供を生み出す作業は、これまでも繰り返しこなしてきたマシンの開発作業とは決定的に異なる何かを持っていた。
 TRONへの挑戦は、松本にとって、自分自身の心の拠りどころを求める旅だった。
 作ることの喜びにせき立てられてエレクトロニクスの世界を存分に駆け回ってきた松本は、マイクロコンピューターと出合って天分をフォーカスさせ、時代の先端に躍り出るチャンスをつかんだ。だが熱狂の一時期が過ぎ、パーソナルコンピューターが既存のコンピューターの世界からさまざまな技術を借り受けてまともな道具に生まれ変わっていく中で、松本は創造の胸の高鳴りをこの世界に感じられなくなっていった。
 そんな松本を再びパーソナルコンピューターに引き寄せたのは、ビジカルクだった。
 操作すればリアルタイムですぐに反応を返し、対話型の操作を基本とするビジカルクは、コンピューターを一人ひとりの人間の手に委ねることによって初めて生まれえた、人の肌合いに沿ったソフトウエアと松本の目に映った。
 ビジカルクには、大型からの借り物ではない本当の新しさがあった。
 真に創造的な何かを、パーソナルコンピューターは生み出すことができるだろう――。ビジカルク越しに抱いたこの期待は、一九八〇(昭和五十五)年の夏、ソニーの上司だった服部善次から「パーソナル・ダイナミック・メディア」の論文のコピーをもらって読んだとき、松本の胸の奥で揺るぎない確信に変わっていった。
 マイクロコンピューターによってチャンスを与えられたとき、電子計算機の発展の歴史とは断絶したところで、個人のてのひらの上からもう一つの道筋をゼロからつけはじめたことには、やはり意味があったのだ。
 生まれ落ちたパーソナルコンピューターは確かに、大型からベーシックを引き取って養分とし、ミニコンピューターのOSをまねたCP/Mで這いはじめ、フロッピーディスクやハードディスクを与えられて立ち上がることを覚えてきた。だがビジカルクとアラン・ケイの論文は、国家や企業の枠組みの中で電子計算機を発展させている限りけっして前面に躍り出ることはなかっただろう、独立した一個の人格に奉仕するコンピューターの姿をあざやかに描き出していた。
 立ち上がったパーソナルコンピューターが、自分自身の足で向かうべき新世界への道筋を、ビジカルクとダイナブックは指し示していた。
 計算にはきわめて弱く、認識の細部に関しては曖昧で不確かではあるにしても、直感的なイメージで全体像を把握することには、人は驚異的な力を持つ。こうした人間相手には、数値の正確さや厳密な文法で支配するのではない、柔らかなコンピューター技術がありうる。情報を視覚的に表現し、一瞬の閃きによって下される操作に即座に反応を返し、マシンと人とが相互に意思を確かめ合いながら物事を進める世界が成り立ちうる。
 しかしそうした世界を現実に築き上げるためには、アルトに実現された操作環境を出発点とするにしても、やるべきことはいくらでもあった。
 グラフィックス、音に加えて、アニメーションや動画、そしていつかは人の話す言葉までを取り扱い、五感に訴えるさまざまな情報を相互のマシン間でやり取りする環境を用意するためには、積み上げるべきソフトウエアの技術は山ほど数え上げることができた。
 そしてもう一方で、人の肌合いに沿った新しいソフトウエアは常に、新しいハードウエアを求め続けるはずだった。グラフィックスや音や画像を自在に取り扱おうとすれば、ハードウエアの側でもまた、連綿たる創造の積み上げが求められる。ハードウエア屋の自分もまた、一人の人間の存在を原点としたパーソナルコンピューターの創造に寄与できる。
 そう信じることができたことは、松本がマイクロハードを起こそうと決断する原動力となった。
 西和彦が声をかけてくれたアルトの子供の開発計画は、松本を再びパーソナルコンピューターに向かわせた精神の支柱に、肉を付け、血を通わせるための作業に他ならなかった。

Windowsプロジェクトは
日電版アルトで加速できる


 仕様検討の初期段階で西の頭にあったのは、カラー版のマッキントッシュをMS―DOSベースで作るイメージだった。
 西はかねてから、アルトの子供のアウトラインを一〇〇万を意味する「M」をキーワードとして表現していた。
〈カラー表示の画面の解像度は、一〇〇〇×一〇〇〇ドットのミリオンピクセル。メモリーは一Mバイト。加えてこのマシンには、毎秒一Mビットの伝送能力を持つOMNIネットと呼ばれるネットワークの技術を盛り込んで、価格も一M、つまり一〇〇万円とする〉
 このMマシンのイメージには、じつに洗練されたコンパクトな筺体にすべてを収めたマッキントッシュのプロトタイプを西が見たことで、一体型というもう一つの要素が付け加えられた。マッキントッシュは五一二×三四二の解像度にとどまっていたが、西は日本語を扱う以上、最低限でも縦横倍程度のドット数は必要となると考えた。アップルはマッキントッシュに、OMNIネットに似通った開発コードネーム、スクールバス★というネットワーク技術を用意していたが、西はより伝送能力の高いOMNIネットの採用を念頭に置いていた。

★製品段階では、二三〇・四Kビット/秒=〇・二三〇四Mビット/秒の Apple Talk と名付けられた。

 マッキントッシュを見たことは、確かに西のイメージにいくつかの影響を与えた。だが西のMマシンとマッキントッシュとのあいだには、原点に決定的な発想の違いがあった。
 スティーブン・ジョブズがアップルというハードウエアメーカーのトップであったのに対し、複数のマシンの作り手たちに基本ソフトを売り込むマイクロソフトの副社長という立場にあった西は、対価を支払ってくれれば誰もが利用できるソフトウエアのモジュールによって、アルトの子供の環境を実現しようと考えていた。
 このモジュールは、MS―DOSの穴を埋めるという点でも、大きな役割を演じてくれるはずだった。
 OSとアプリケーションを今後伸ばすべき二つの柱に据えているマイクロソフトにとって、守備範囲にないグラフィックスを取り扱うことでMS―DOSが互換性の基盤として機能せず、結果的にアプリケーションを個々のマシンごとに手直しせざるをえないという事態は、最悪のシナリオだった。
 ビル・ゲイツはIBMがPCを発表した直後の一九八一年の秋には、異なったハードウエアのビデオ表示機構の差をならす、ソフトウエアによる仕掛け作りを進めるよう指示を出していた。MS―DOSはアプリケーションとマシンとのあいだにはさまって両者を取り持ち、文字と数値の範囲内では互換性の基礎として機能することができた。ゲイツは同様にアプリケーションとハードウエアのあいだに割って入ってビデオ機構の差をならし、MS―DOSを補ってグラフィックスに関しても互換性の基盤を提供するモジュールが必要になると考えていた★。

★こうした発想を原点とした視覚的操作環境を実現するためのモジュールを、マイクロソフトはその後Windowsと名付けて、パーソナルコンピューターの標準へと押し上げていく。このWindowsにつながるアイディアを、マイクロソフトがどの時点から育んできたかに関して、『帝王の誕生』は興味深い証拠を示している。
 同書によれば、アップルのマッキントッシュ向けにアプリケーションを書く契約をビル・ゲイツが交わしてから三週間もたっていない、一九八二年二月十四日、「シアトルタイムズ」紙はマイクロソフトで撮ったゲイツとポール・アレンの写真を掲載した。彼らの背後に写っているホワイトボードには、一見すれば無作為な数字や記号が並んでいる。しかしその右上の隅には、戦略的な意味を持つ「 Window manager 」という書き込みがあり、同書はその写真を転載している。だが、このプロジェクトをスタートさせるきっかけの一つとなった、日本電気版のアルトの子供、PC―100に関する記述は、『帝王の誕生』にはない。

 すでにスリー・リバース・コンピューターのPERQを知り、ゼロックスの発表したスターに驚かされ、アップルが進めつつあるマッキントッシュの開発計画に関与していたビル・ゲイツは、アルト型の使用環境が将来の重要なテーマとなることを認識していた。PCへのOS提供をゲイツに決断させ、将来のビジョンを分かち合うパートナーにのし上がっていた西和彦もまた、アルトの子供への挑戦意欲を強く抱いていた。
 だがインターフェイスマネージャーと名付けたグラフィックスの互換性確保を目指すモジュールの開発をスタートさせた時点では、ゲイツと西はこのプロジェクトをウインドウやメニューを備えたアルト型の操作環境を実現するところまで拡張しようとは考えていなかった。
 発表されたばかりのPCの処理能力と解像度では、アルト型環境を動かすことはとても無理と思えた。
 インターフェイスマネージャーの想定ユーザーは、フロッピーディスクドライブをつなぎ、オプションのMS―DOSを利用するためにメモリーを六四Kバイトからマシンの上限の二五六Kバイトまで拡張した人に置いたが、それでもアルトを目指すにはハードウエアがあまりに貧弱すぎた。
 あくまでハードウエアメーカーにソフトウエアを売り込む立場にあったマイクロソフトは、現状のマシンのパワーを無視してOSを一方的に機能強化する道は選べなかった。
 もしもゲイツと西がアップルのリーダーであったのなら、彼らはジョブズがそうしたようにハードウエアとソフトウエアを同時に革新して、リサやマッキントッシュを生み出すことができた。しかし彼らは、MS―DOSの最大の顧客であるPCの現状から、乖離することができなかった。
 にもかかわらず、ゲイツと西は一九八二年春、インターフェイスマネージャーを拡張して、アルト型の操作環境を目指すことを決断した。
 彼らの背を押したのは、ビジカルクの発売元となって急成長を遂げたビジコープによる、VisiOnの影だった。MS―DOSマシン用のグラフィックス操作環境モジュールを同社が開発中との情報を得たゲイツと西は、手をこまねいていればパーソナルコンピューターの使いこなしの基本ルールを定める操作環境の方向付けに関して、マイクロソフトが発言権を確保できなくなると恐れた。
 その時点でPCが備えていた六四〇×二〇〇の解像度は明らかに不足していたが、のちにWindowsと名付けられることになるこのプロジェクトをスタートさせるにあたって、西は隠し玉を仕込んでいた。
 日本電気に参加を求めることを前提に準備を進めていたアルトの子供を、西はWindowsの先駆けとなるマシンにしようと考えた。
 MS―DOSに追加してマシンをアルト型に変身させるWindowsにとっての最大の顧客は、やはりIBMのPCとなるだろう。だが現状では、PCはWindowsマシンとしてはあまりにも非力に過ぎる。そこでグラフィカルなユーザーインターフェイス(GUI)を利用することを当初から意識して、ハードウエアを徹底的に強化したMS―DOSマシンを作り、そこにWindowsを載せる。白黒のマッキントッシュに対して、このマシンにはカラーの表示能力を持たせる。この日本電気によるカラー版マッキントッシュを成功させることができれば、Windowsをアルト型操作環境の強力な標準候補として押し出し、ひいては本命であるPCのグラフィックス強化の歯車も速く回すことができるだろう。
 そしてさまざまなマシンにMS―DOSとWindowsのセットを売り込むことができれば、マイクロソフトは大きな見返りとともに、異なったマシンにアプリケーションの互換性の基盤を提供するという重要な役割を果たすことができると望みえた。
 このきわめて重い役割を負ったマシンの開発計画を、マイクロソフトにとっての恩人の一人である日本電気の渡辺和也たちに委ねるという西の提案に、ビル・ゲイツは異論を差しはさまなかった。

ハードウエアの中核は
ASICに凝縮せよ


 一体型のカラー版マッキントッシュという目標を示された時点で、松本はTRONの開発上のポイントを二つ、念頭に置いていた。
 一つは小さな筺体にすべての要素を押し込むために、回路基板を徹底して小型化すること。そしてもう一つの要素が、ビットマップのカラー画像をできる限り速く表示するために、ひねり出せるだけのアイディアを盛り込んで徹底して高速化を図ったビデオ回路を作り上げることだった。
 一つ目の基板の小型化に関しては、西から初めて話を聞かされた時点で、松本は即座に進むべき道を選び取っていた。
 ソニーのSMC―70は、開発をほぼ完了した段階でPCの発表という衝撃波に見舞われた。一六ビットの増設モジュールの準備やMS―DOSの手配という対応策をとったあと、西が日本電気にプロジェクトを持ちかけた一九八二年の五月になってようやく、アメリカ市場向けの商品として発表された。八ビットから一六ビットへの転換の隙間に足を取られて、SMC―70は商業的には失敗に終わったが、松本はこのマシンの開発にあたって新しい技術的な経験を積んでいた。
 ソニーにおける商品開発には、PPセンターと呼ばれる意匠の専門部隊のスタッフが当初からかかわり、まず製品のデザインを固めてからハードウエアをその中に押し込むスタイルがとられていた。SMC―70に関しても、直線的なイメージを生かしてすっきりとコンパクトにまとめた筺体のデザインが固められたあとで、松本は限られたスペースに高解像度のカラーグラフィックスを表示する基板を押し込むことを求められた。
 徹底した小型化という難題を押しつけられた松本に突破口を与えたのは、当時から大型コンピューターで使われはじめていたASIC( Application Specific IC =特定用途向けIC)と呼ばれる新種の集積回路だった。
 大量に使われるメモリーやマイクロコンピューターなど、汎用性の高い回路は、これまでもいち早く集積回路化されてきた。たとえ開発コストが高くついたとしても、数多く売れると見込めるものは、集積回路に作り付けてしまう方が長期的に見れば明らかに有利だった。ただしあまり数の見込めないものに関しては、開発者は集積回路化をためらわざるをえなかった。
 のちにパーソナルコンピューターに取り組む日本電気のオフィスコンピューター部隊は、一九七六(昭和五十一)年四月に発表したシステム100の新機種で全面的にLSI化に踏み切った。この際、事業を統括していた小林亮は、年間販売台数がたかだか二〇〇〇から三〇〇〇台程度のマシンのために、たくさんの専用LSIを起こすことに躊躇の念を抱いた。
 だが現実に徹底したLSI化を推し進めてみると、プリント基板の小型化や組み立て作業の効率化といった予測済みのメリットに加え、不良箇所がほとんど生じないために検査要員を大幅に削減できるようになったこと、軽量化によって導入先への設置が省力化されたことなど、あらゆる局面でうまみが生きてきた。処理速度を上げるという基本的な課題にとっても、LSI化を徹底させることにはメリットが大きかった。
 ACOSシリーズも監督する立場にあった小林は、システム100の経験を通して、生産台数のさらに少ない大型汎用機でもLSI化を進める必要性を痛感させられた。
 生産台数の少ない大型機の回路をいかにして効率的にLSI化するか――。言い換えれば製造個数の少ないLSIをいかに安く作るかという大型コンピューターからの要請に応え、半導体技術の側はASICという回答を用意した。
 ASICはいわば、半完成品の状態でいったん製造され、注文に応じて最終的な加工をほどこして仕上げる〈イージーオーダー〉のLSIだった。代表的なASICであるゲートアレイは、あらかじめチップ上にたくさんの基本回路を作り付けておき、要求に応じてあとから回路間の配線だけを行って、求められる機能を実現することができた。
 松本はこのASICをパーソナルコンピューターでいち早く利用することによって回路の大半をLSIに押し込み、SMC―70の極端な小型化の要求に応えることができた。SMC―70の開発作業はソニーの厚木工場で進められたが、松本は同じ神奈川県内の中原区、武蔵中原にある富士通のASIC部隊に通っては、SMC―70用の論理設計を行った。
 パーソナルコンピューターで初めてASICを使いはじめたのはシャープのMZ―80Bだったが、松本もSMC―70でほぼ同じ時期に、専用のLSIを起こすことを体験していた。
 一体型のカラー版マッキントッシュという西のイメージを初めて聞かされた瞬間から、松本はこのマシンではASICをさらに徹底して生かすしかないと確信した。
 三洋電機のCP/Mマシンで一体型を経験してきたことも、松本には心強かった。
 回路基板とブラウン管、フロッピーディスクドライブを一つの筺体の中に押し込んでごく近くに置く一体型のマシンでは、相互のコンポーネントの電磁気的な干渉によってトラブルが起こりやすくなる。ブラウン管からの放電によって、メモリーの情報の0、1が一つでも入れ替われば、コンピューターは正常に機能しなくなる。磁気で情報を書き込んでいるフロッピーディスクに関しても、ブラウン管にあまり近づけすぎると電磁気的な影響が及んで信頼性が低下する恐れがあった。
 
 西からの提案を受け入れて京都セラミツク、アスキーとの共同開発、京都セラミツクによる製造という枠組みで臨むことを了承した渡辺の部隊は、アルトの子供を作るという前提には提案側と共通の認識を持っていた。
 西からプランの提示を受ける前、後藤は社内で大内淳義や渡辺和也などの上司を相手に、今後ますます増大するマイクロコンピューターの処理能力を、使いやすさの向上のために大きく割り振ったマシンがありうるとのプレゼンテーションを行っていた。
 マッキントッシュはおろか、リサも発表されていなかったこの時期、後藤はウインドウの機能やマウスの役割を、手書きのボードを使って説明するしか手がなかった。
 一六ビットのビジネス用マシンという当然の次の一手を情報処理事業グループに押さえられた渡辺和也は、パーソナルコンピュータの専門組織として独立した自らの部隊の未来を、後藤と西がイメージを共有するまったく新しいマシンに賭けようと考えた。
 だが渡辺は、自分自身がパーソナルコンピューターの本質と考える要素に関しては、TRONでも妥協する気持ちは持っていなかった。
 浜田俊三がとりまとめ役となって始められたビジネス用一六ビット機の検討プロジェクトにおいて、渡辺はちょうど一年前、新しいマシンが備えるべきポイントを四つ、情報処理側に提示した。
〈第一に、マイクロソフトのベーシックを使うこと。第二に、オフィスコンピューターに見られたような一体型の構成はとらず、コンポーネント形式をとって本体価格を抑え、従来のマシンの周辺機器を使えるようにすること。第三に、カセットテープレコーダーのインターフェイスを付けること。そして第四に、拡張スロットの仕様を公開してサードパーティーによる増設ボードの開発を促すこと〉
 西の提案によれば、TRONはMS―DOSを使うことを大前提とし、そこにアルト型のインターフェイスを構成するソフトウエアを追加するとされていた。
 ベーシックに関しては、従来のROMに収めた形はとらず、マイクロソフトが一六ビットの標準としようと考えているGWベーシックを、フロッピーディスクから読み込んでMS―DOSの上で使う形をとる。PC―8801用のベーシックとは互換性に問題が生じるが、従来の八ビット機用に作ったソフトウエアをできるだけ簡単に新しいマシンで利用できるよう、変換のためのユーティリティーソフトを用意する方針が示された。
 ただし一体型という提案には、渡辺は乗ろうとは思わなかった。まったく新しいイメージを打ち出したマシンとはいえ、価格はより低く抑えられればそれに越したことはなかった。従来機で使ってきた周辺機器も、使える形を残したかった。増設ボードや周辺機器にサードパーティーが参入する余地を残すことは、パーソナルコンピューターにとって不可欠の条件と思えた。フロッピーディスクを標準で持たせる以上、カセットインターフェイスは不必要としても、オープンアーキテクチャーの遵守に関しては、渡辺は一歩も譲る気はなかった。
 八月に入って週一回のペースで進められた仕様の詰めの作業で、日本電気からは一体型ではなく、コンポーネント形式をとるという方針が示された。OMNIネットをベースとしたネットワークの機能を標準で持たせるという点は最後まで検討課題として残されたが、最終的には価格を抑さえるために削る決定が下された。
 一体型のプランは却下されたが、処理速度と信頼性を高め、小型化を徹底するという狙いからASICを積極的に活用するという松本の提案は生き残った。八月に入って仕様検討と並行してシステム設計に着手していた松本たち、マイクロハードの開発チームは、新規に開発すべきASICを洗い出していった★。

★PC―100には、以下のような設計上の特長が盛り込まれることになった。
 インテルは一九八二年三月に、8086と周辺LSIとを一体化した80186を発表したばかりだった。だがこの新製品の機能自体は従来の8086と変わりがなかったことから、PC―100には日本電気がセカンドソースとして供給している、八Mヘルツにクロック周波数を高めた8086―2が採用された。
 安い代わり動作速度の遅いメモリーを使おうとする際には、CPUにウエイトと呼ばれる待ちの状態を意図的にはさんでタイミングを合わせる手法が使われることがある。当時としては高速の8086―2を使おうとすれば、使用できるメモリーとのバランスをとるためにウエイトをかける手が常識的には考えられたが、クロック周波数を七Mヘルツに抑える代わり、ウエイトのかからない構造が工夫された。外部とのやり取りを八ビットで行う8088の四・七七Mヘルツ版を使っていたIBMのPCに対し、新しいマシンは二倍以上強力なエンジンを前提として出発していたが、GUIを駆動するためにはこれでも力不足は否めなかった。中でも際だって処理の遅さが目立つと予測できたのは、画面上の文字を左右に微妙に移動させる動作だった。
 キャラクタジェネレーターを組み込んでシステムを構成すれば、素早い文字の表示、移動が可能になった。ただしキャラクタジェネレータを使う限り、そのマシンで使えるフォントは現実的にはROMに収められたものに限られてしまい、文字の拡大や縮小、変形などもごく限られた形でしか行えなくなった。さまざまなフォントを駆使し、自由自在に文字をアレンジしながらイメージ通りの文書を作れるようにしようとすれば、一つ一つの文字をビットマップ上のグラフィックスとして扱う形をとらざるをえなかった。さらにアルファベットをバランスよく並べることを考えれば、字間を少しずつ変化させてやる必要もあった。だがこうした動作は、マイクロコンピューターの処理能力に大きな負担をかけると予想できた。厄介なことは考えずにあっさりキャラクタジェネレーターを使ってしまったマシンと並べられると、表現力という〈うまみ〉を認めてもらう前に、「遅い」の一言で切って捨てられる恐れがあった。
 この点を可能な限り改善するために、松本たちはフォントのパターンを一文字分ずつ高速に移動させる機能を持った、バレルシフターと呼ばれるASICを起こした。
 新規に起こすASICの二つ目は、ディスプレイへの表示を制御するCRTコントローラーだった。電子ビームがブラウン管を走査していくタイミングに合わせて、ビデオメモリーの中身を表示させる基本的な機能を持ったCRTコントローラーは、出来合いの部品の中にもあった。IBM PCではその後の技術発展の成果を古いマシンでも生かせるようにとの狙いから、CRTコントローラーを中心に構成されるビデオ回路を増設ボード扱いとして、容易にスロットに抜き差しできる形をとっていた。
 初代のPCに採用されたCGA( Color Graphics Adapter )には、モトローラ製の6845が使われていた。だがスクロールやウインドウの管理などを高速化するために、新しいマシンでは大幅に機能強化した専用のCRTコントローラーを起こすこととした。
 メモリー内の情報の転送速度を上げるために利用されるDMA( Direct Memory Access )コントローラーにも出来合いの部品はあったが、三つ目のASICとして新規に開発する道を選んだ。メモリー間で情報を動かそうとする際、CPUを介して行うとマイクロコンピューターの処理能力がその作業のために食われることになる。DMAコントローラーは、転送の際にいったんCPUをバスから切り離し、メモリー間で単純な読み書きだけを素早く行うために使われる。
 IBM PCはこのDMAコントローラーに、インテルが用意した8237Aを使っていた。だがもともと八ビットの8080用に開発された8237Aは、一六ビット化によってマイクロコンピューターが取り扱えるようになった、大量のメモリーに対応しうる製品ではなかった。8080の六四Kバイトに対して、8088では一Mバイトのアドレスが可能となっていた。当初標準では、八ビット機並みの一六KバイトのRAMしか積まなかったPCの開発者たちは、このマシンで大きなメモリーが使われるとは想定しなかったのかもしれない。しかし八ビットの枠を超える量のメモリーを積んだ段階では、PCはコントローラーの制限によって、本来は一度ですむはずのDMAの動作を二度に分けて行わなければならなくなった。いかに八ビットの尾を引きずった8088を採用し、比較的小さなメモリーしか積まなかったとはいえ、PCが8237Aを使ったことは、松本たちにとって大きな疑問だった。大量の情報転送や、リアルタイムの処理を行ううえでは、8237Aは回路の隘路となることが予想できた。一六ビットのアーキテクチャーの中に八ビットの構造を紛れ込ませたことのつけは、マシンの高速化が進めば進むほど大きくなっていく恐れがあった。
 テキストベースのマシンならともかく、ビットマップの処理を高速で繰り返す必要の生じるアルト型のマシンでは、DMAコントローラーへの負担はとりわけ大きくなることが予想できた。インテルは8086用に一六ビット対応のDMAコントローラーを作っていたが、松本はあらたに機能強化したものをASICで起こすことで、ここでも処理速度を稼ごうと考えた。
 さらに松本は、これまでDMAコントローラーに負わされていた役割を専用の回路を起こして移し替えることでもスピードアップが図れると考えた。
 パーソナルコンピューターのメモリーに広く使われているダイナミックRAMは、構造が簡単で集積度を高めやすく、安く作れるという特長をもっている。その一方で、時間とともに記憶した情報が薄れるために、ダイナミックRAMでは繰り返し書き直しを行う必要がある。リフレッシュと呼ばれるこの書き直しの動作は、PCではDMAコントローラーによって行われていた。その結果、DMAコントローラーは一定期間ごとにリフレッシュのための動作をはさまざるをえず、高速で連続して情報を転送できる時間がごく短く限られる結果となっていた。そこでPC―100では専用のリフレッシュ回路を起こしてこれをASIC化し、DMAコントローラーが大量のデータを連続して転送できるように図った。四つ目のASICとして起こしたこの回路では、通常はCPUを止めて行っているリフレッシュをCPUの動作の空き時間をついて行うように工夫することで、さらに処理速度を稼ぐことを考えた。
 コンピューターの動作のタイミングを決める時計の役割を果たしているクロックジェネレーターも、ASIC化の対象とされた。
 ハンドヘルドマシンの開発にも一部関与した松本は、ここで回路間の干渉の問題に直面させられた。コンピューターの回路には、意識しなければアンテナとして機能して電磁波を出してしまう部分がいくつもあった。従来のパーソナルコンピューターでは、電磁波の影響による誤動作や周囲のラジオやテレビに雑音を生じさせてしまうといったことは、ほとんど意識されてこなかった。アルテアはそれゆえ、ソートの音楽を奏でることができた。だがパーソナルコンピューターが広く普及しはじめる中で、アメリカの連邦通信委員会(FCC)はいち早く厳しい規制方針を打ち出していた。マシンを小さく仕上げるために部品を従来より近づけて配置しようとすると、これまでは無視できた電磁波による誤動作の可能性が現実のものとなってきた。従来の電子部品を組み合わせて作ると、クロックジェネレーターはアンテナとして機能した。一九八三年の三月になってTRSモデル100としてタンディから発売が開始されてからも、ハンドヘルド機はなおこの問題によるトラブルに悩まされ続けた。このマシンで小型化による電磁波の影響に直面させられていた松本は、クロックジェネレーターを五つ目のASICの中に閉じ込めてしまうことで、トラブルを回避しようと考えた。
 処理速度の向上に大きくかかわる以上五つのASICの設計には、松本をはじめとするマイクロハードの四人のスタッフがあたった。
 さらに新しいマシン用には、入出力関係のコントローラーを一まとめにしてASIC化することとなり、この作業は日本電気のスタッフが担当した。IBM PCは、フロッピーディスクドライブのコントローラーやマウス、プリンター、RS―232Cの接続端子を、増設ボード扱いとしてスロットに組み込む形をとっていた。だがアルト型の環境を実現するうえでは、高い機能を持ったビデオ回路はもちろん、フロッピーディスクドライブもマウスも不可欠の存在であることから、これらのコントローラーは一括してASIC化され、メインの基板上に置かれた。

 新規に起こすべきASICをつごう六つ洗い出しながら八月いっぱいをかけて進めていったシステム設計上のポイントは、快適な操作環境を実現するために、グラフィックスの処理能力を徹底的に強化し、磨きをかける点に置いた。
 一体型とはせずにコンポーネント形式をとるという方針が定められたが、GUIを実現するうえでは、ビットマップ方式による高解像度の専用ディスプレイを用意することは不可欠だった。
 アルトの縦長とスターの横長の両方の画面を見てきた日本電気の後藤は、TRON用に開発する高解像度のディスプレイを、縦横双方に置けるものにしたいと考えた。
 ディスプレイが縦に置かれているか、横に置かれているかをどう識別させるかには、いろいろなアイディアが出された。使っている最中にも切り替え可能なものにしようというプランもあったが、最終的にはテレビを据え付けるチルト台に機械式のスイッチを仕込み、セットアップの際に縦横を判別する簡単な機構にとどめることになった。
 IBM PCではプログラムの側から、現在どのようなディスプレイがつながっているかを識別できなかったが、新しいマシンにはプログラムからディスプレイの縦横を判別できる構造を用意した。
 ディスプレイの解像度は七二〇×五一二ドットと定め、アナログRGB方式によって五一二色の中から任意の一六色を選べるようにした★。

★家庭用のテレビをディスプレイに使ったアップルIIでは、カラーのビデオ信号は光の三原色の赤(R)、緑(G)、青(B)を一本の信号線で送るコンポジット(複合)形式が採用されていた。一方三つの信号を分けて送るRGB信号の形式をとれば、より鮮明なカラー画像が実現できた。
 さらにRGBには、デジタル方式とアナログ方式とがあった。デジタル方式では、電球のスイッチを入れたり切ったりするように、RGBのそれぞれの色を出したり出さなかったりする単純な組み合わせによってカラーが表現された。一方アナログRGBでは、電球の明るさを連続的に変化させられる調光式の照明のような、中間的な明るさの組み合わせによる表現も可能になった。松本は新しいマシンにアナログRGBを採用し、RGBの各色に三ビットで八段階の輝度を表現できる構造を与えて、八の三乗で五一二色の表現を可能にした。一方PC―9801は、デジタルRGBによる八色の表示にとどまっていた。

 この五一二色の中から選んだ色で表現される画面上のそれぞれの点を、いかにして素早く描き出すかはシステム設計上の大きなポイントとなった。
 松本は各点の色を決めるにあたって、画面と同じ解像度を持ったプレーン(面)を複数用意し、それぞれの色の重ね合わせによって表現する方式をとれば、書き換えの動作を高速化できるのではないかと考えた★。

★ビットマップをカラー化するにあたっての素直な選択は、一つのプレーンの各ドットに何ビットかの色の情報を持たせるやり方だった。一つのドットに一ビットを持たせれば0、1で二色、二ビットなら四色、三ビットなら八色、四ビットなら一六色を表現することができた。だが同じ四ビットで一六色を表現するにしても、それぞれは一ビットのプレーンを四枚用意して重ね合わせる方式をとれば、各プレーンへの読み書きを同時並行して行うことで処理速度を稼げるだろうとの発想から、この方式が考案された。

 画面を構成するそれぞれのドットを正方形で表現することも、グラフィックスを心地よく表現するうえでは重要なポイントとなるとして留意した。初代のIBM PCに用意されたCGA( Color Graphics Adapter )では、ドットの横と縦の比は一対二・四ときわめてバランスを欠いていた。改良版のEGA★( Enhanced Graphics Adapter )でも一対一・四に改善されるにとどまった。一つ一つのドットが縦長に表現されているために、PCでは画面上で円を描いたはずのものが楕円に、正方形を描いたはずが長方形にならざるをえなかった。グラフィックスの表現力を命とする新しいマシンでは、ドットは当然正方形とするべきだと考えた。

★PC AT用の新しいビデオ規格として発表されたEGAは、従来のMDAとCGAの機能をカバーするとともに、六四〇×三五〇ドットで一六色を表現できた。

 新しいマシンをどう作るかにあたって、松本はハードウエア屋としてほとんどの領域で思い通りに腕をふるうことができた。ただしコンピューターの内側で重要な働きを演じている割り込み★と呼ばれる機能をどう実現するかは、数少ない悔いの残るポイントとなった。

★何かのプログラムを実行している最中に、キーボードが押されるなり、マウスが操作されるなり、周辺機器から信号が入ってくるなりした場合、動かしているプログラムをいったん中断して要求のあった仕事に応え、そのあとで再びもとのプログラムにもどって作業を継続する機能を割り込みと呼んでいる。
 もしもこの割り込みの機能が備わっていなかったり貧弱だったりすれば、ユーザーは何かを思い立ったその瞬間に操作してマシンからすぐに反応を受け取り、小気味よく使いこなしていくことはできなくなる。いつ情報が飛び込んでくるか分からない、通信などの機能に備えるうえでも、割り込みは大きな意味を持っている。この機能の制御用に、PCはインテルが製品化していた8259Aと名付けられた割り込みコントローラーを使っていた。
 このコントローラーに対して割り込みの要求を伝えるにあたっては、電圧を低い状態から高い状態へと変化させる際の立ち上がりのポイントによって指示するエッジトリガーと呼ばれる方式と、もう一方レベルトリガーと呼ばれる方式を選ぶことが可能だった。将来の拡張性を考えれば松本は当然レベルトリガーを選ぶべきだと考え、新しいマシンの割り込みにもこの方式を選んだ。ところがこの方針が、日本電気の反対にあって覆されることになった。
 PC―8801までの従来機種で一貫してエッジトリガーによる割り込みを採用してきた日本電気側は、このアーキテクチャーが現状でなんら問題を起こしていない以上、わざわざ新しい方式に切り替える必要はないと考えた。

PC―9801が投げかけた
疑問符と衝撃


 八月いっぱいをかけて進められたシステム設計にもとづき、九月いっぱいは詳細な回路の設計図をまとめ上げる作業にあてられた。
 開発スタッフは設計の大枠を固め終わったこの段階で、TRONの「決起集会」を催すスケジュールを立てた。
 アスキーとマイクロソフトの双方の仕事に追われる西は、繰り返し電話に引きずり出されてまとまった時間が取れなかった。西を作業に集中させるために、九月三十日と十月一日の二日間のスケジュールで予定した会議は、晴海の国際貿易センターに近いホテル、デン晴海に部屋を用意し、ホテルの会議室で行うことになった。
 日本電気の半導体部隊のスタッフが、PC―9801を知ったのはデン晴海での会議の直前だった。
 かつて情報処理事業グループのマシンにPC―8001の継承を求めた渡辺和也も、N―10プロジェクトに参考意見を述べるために加わって、オープンアーキテクチャーの重要性を訴えた後藤富雄と加藤明も、浜田たちが一六ビット機を開発していることは当然承知していた。
 だが彼らが半導体グループの提案をどう受けとめ、どのようなマシンを仕立て上げようとしているかは、まったくの闇の中だった。情報処理のPC―9801と、半導体のTRONは、互いの情報は完全に伏せ合ったまま、水面下で並行して開発が進められていた。
 唯一半導体側が知りえたのは、従来機との互換性を持った一六ビット版のベーシック開発に関して、西と浜田との交渉が決裂したという事実のみだった。
 もしも互換ベーシックを独自に開発するとすれば、情報処理部隊はきわめて困難でかなり規模の大きな作業を引き受けざるをえなくなるはずだった。では別の選択肢を探るのか。あるいはやはり、従来機との互換性を求めるのか。いずれにしろ、渡辺自身がもっとも確実な商品企画であると考えた、ビジネス用途を狙った一六ビット版のPC―8801を仕上げるためには、情報処理はかなりの開発期間を要すると思えた。
 渡辺は翌一九八三(昭和五十八)年五月のビジネスショウで、TRONを発表したいと考えていた。互いに水面下に潜ったままのレースだったが、情報処理がPC―8801の互換機を選んでいるとすれば、TRONを日本電気の初めての一六ビット機として発表できる勝算は充分にあった。
 だが彼らは、わずか半年で互換ベーシックの開発をやり遂げた。
 デン晴海での会議には、関係者九人が集まった。
 アスキーからは西、京都セラミツクとサイバネット工業から三名、マイクロハードからは松本と玉城。渡辺と後藤は加わらず、日本電気からはハードウエア関連の中心である加藤をはじめとする三名が顔をそろえた。
 後藤の不在に、松本は軽い戸惑いを覚えた。
 会議から二週間足らずの十月十三日、PC―9801が正式に発表された時点で、松本は電子デバイスのチームが大きなショックに見舞われていたことを理解した。
 
 情報処理の新しいマシンを覗いたとき、鮮烈に焼き付いた第一印象は、IBM PCとの類似性だった。
 PC―9801は松本の目に、PCと瓜二つに見えた。しかもPCが犯した誤りとしか思えない点までPC―9801がきれいになぞっていたことには、不可解な疑念を喉元に押し込まれたような驚きを禁じえなかった★。

★松本にとっての最大の疑問は、PC―9801がDMAコントローラーに8237Aを使っていた点だった。八ビットの8080用に開発された8237Aを、一六ビットと八ビットの中間的な8088を使ったPCが採用したことも、その後マシンを強化し、拡張していくことを考えれば納得のいかない選択だった。だが完全な一六ビットの8086を使ったPC―9801が八ビット用のDMAコントローラーを使ったことは、松本にはまったく理解できなかった。CPUを介さない高速なデータの転送にあたるはずのDMAコントローラーに八ビット対応のものを使うことは、そもそもこの回路を標準で組み込んでマシンの高速化を図るという本来の狙いに背を向ける行為としか思えなかった。
 コンピューターはメモリーをバイト単位に区切ってアドレスと呼ばれる番地を割り当て、情報の書き込みや読み出しをこのアドレスを頼りに行っている。一般に八ビットのマイクロコンピューターは、アドレスを指定するための信号線を一六本持っており、一度の動作で最大一六ビットのアドレスを指示することができる。八ビットに対応した8237Aも、当然これに対応して一度に一六ビットのアドレスを指定できるように作られていた。ところがPCに使われた8088やPC―9801の8086は、二〇ビットのアドレス指定ができるように機能が拡張されていた。そのため8237Aを使ったのでは、四ビット分の不足ができて、本来なら一度ですむはずの動作を二度に分けて行わざるをえなくなる事態が生じえた。
 割り込みの仕掛けがPCとそっくりそのままとなっている点も気になった。アップルIIがすでに、増設ボードを複数差し込んだ場合でも信号が混線しないような構造をあらかじめ用意していたにもかかわらず、PCがこうした備えを欠いてユーザー自身による細かな設定作業を求めた点を、PC―9801は引き継いでいた。RAMのリフレッシュをDMAコントローラーに任せてしまっていることも、松本にはPC―9801がPCをそのままなぞったことの〈負の遺産〉としか思えなかった。

 ベーシックを収めたROMを本体の基板上に置かず、増設ボードにして差し込んであった点は、インタープリターの開発が高く張った綱の上を駆け抜けるような厳しいスケジュールで進められたことを物語っていた。PC同様、あらたに専用のACICを起こすことなく既存の部品だけで作られていた点も、PC―9801の急ピッチの開発を物語っているように見えた。
 日本電気の半導体グループは、自分たちの従来の路線を素直に一六ビットに延ばしたPC―9801に大きな衝撃を受けていた。渡辺も後藤も、一六ビットのパーソナルコンピューターをビジネス機として成功させるとすればこの路線以外はないと考え、情報処理グループとの意見交換に際しては、その主張を繰り返してきた。だが彼らがわずか半年のうちに互換ベーシックとハードウエアを仕上げたことは、渡辺たちにとってまったくの予想外の事態だった。
 一方松本にとっては、少なくともハードウエアに関する限りPC―9801は新しいマシンへの確信を深める材料とはなっても、不安をかき立てる脅威ではありえなかった。
 松本は日本電気版のアルトの子供を、PCを否定しつくす中から育てようと考えていた。GUIを素早く動かそうとすれば、松本はPCの選択を一つ一つ切り捨てて独自の解答を編み出さざるをえなかった。
 PC―9801は松本にとって、すでに決別した過去だった。
 
 これまでの作業でASIC化することを決めたLSIの設計には、十一月に入ってからマイクロハードの四人が総掛かりとなって突貫工事で取り組んだ。遅くとも一月までに設計を完了し、すぐに製造にかかるという予定を組んでいたが、このスケジュールではまとまって作業を引き受けてくれる半導体メーカーが見つからなかった。日本電気の半導体事業グループのC―MOS部門とバイポーラ部門に加え、富士通にも製造を依頼。さらにもっとも規模が大きくなるCRTコントローラーの開発には、本格的なCAD(コンピューターを使った設計支援システム)がないと難しいことから、これだけはアメリカのLSIロジック社に製造を委託した。アムダール社製のIBM互換のメインフレームを使った、日本とは桁外れのCADシステムを利用して現地で作業を進めた松本は、十一月いっぱいでゲート★数二〇〇〇規模のCRTコントローラーの設計を仕上げてしまった。

★集積回路に盛り込む回路の基本単位。集積回路ではトランジスター、ダイオード、コンデンサー、抵抗などの機能が作り込まれて回路が実現されているが、ゲートはこれらの〈部品〉がつごう何個分集められているかを示す。

 当初予定していたマスターのLSIでゲート数は足りていたものの、いざ設計にもとづいて配線を行う段になって、LSIロジックから「配線しきれないからマスターを変更してほしい」との注文がついた。だが、やり直しとなった設計作業にも、一九八三(昭和五十八)年が明けて間もなくけりが付いた。
 予定どおり三月にはASICがすべて完成するめどが立ち、ハードウエアの開発が胸突き八丁を越えた一月、アップルは二頭立てで開発を進めていたアルトの子供のうち、まずリサの発表を行った。
 プロトタイプを見て、西が鮮烈な印象を受けたマッキントッシュ同様、リサはウインドウやマウスを備えたまぎれもないアルトの子供だった。だが、ワードプロセッサーや表計算、グラフ、データベース、お絵かき、プロジェクト管理の六つのアプリケーションを標準で持っているとはいえ、本体価格だけで九九九五ドル、日本での販売価格二八二万円のリサはあまりに高価だった。さらにリサの出荷は、悪戦苦闘していた自社開発の五インチのフロッピーディスクドライブをアルプス電気に作りなおしてもらう都合上、五月以降にずれ込む予定となっていた。
 アップル製のドライブが使いものにならなかったことのつけは、マッキントッシュの発表のスケジュールにも大きな影響を及ぼした。
 マッキントッシュのプロジェクトを率いたスティーブン・ジョブズは、リサの開発責任者を務めたジョン・カウチとどちらが早くマシンを仕上げられるかに五〇〇〇ドルをかけていた。結果的には、予定していた自社のドライブをあきらめてソニーの開発した三・五インチを選ぶ決断を行ったために、マックはリサに大幅に後れをとった。
 日本電気版のアルトの子供の開発は、ことハードウエアに関しては一九八三(昭和五十八)年五月の発表予定を充分こなしうるペースで進められていた。
 だが、アルト型の操作環境を実現するソフトウエアの開発に取り組んでいたマイクロソフトは、内と外の両面からの圧力に苦しめられていた。
 
 パロアルト研究所からマイクロソフトに引き抜かれてマルチプランの開発にあたったチャールズ・シモニーは、ラスベガスで開かれた一九八二年秋のコムデックスの会場で、ロータスディベロップメントの1―2―3とビジコープのVisiOnに衝撃を受けた。
 IBM PCの誕生以前、OSの覇者はCP/Mを擁するデジタルリサーチであり、最大のアプリケーションメーカーはビジカルクのビジコープだった。言語を握っていたマイクロソフトは、PCを突破口として一六ビットのOSを押さえ、マルチプランでアプリケーションの目玉となった表計算を握ろうとしていた。だがコムデックスに登場したVisiOnは、視覚的な操作環境に向けたMS―DOSの進化の道筋をいち早く固め、高速の表計算ソフト1―2―3は、デビューしたばかりのマルチプランを吹き飛ばしかねないパワーを備えていた。
 初めてアプリケーションの分野に参入するにあたってマイクロソフトは、今後どのアーキテクチャーがパーソナルコンピューターの主流となっても開発作業がむだにならないという点を重視して、言語を選んだ。
 マイクロソフトが選択したパスカル―Pは、中間的なコードをはさみ込む特殊な構造を持っていた。そのために、処理速度は多少遅くなったが、いろいろなマシンに比較的簡単にプログラムを移植することができた★。

★パスカル―Pで書かれたプログラムは、いったんコンパイラーによってPコードに変換される。ただし実際に特定のマシンで走らせる際は、このPコードをインタープリターによってさらに機械語に翻訳して実行する。
 カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)で開発されたUCSDパスカルは、Pコードを採用し、代表的なマイクロコンピューターに幅広く対応していた。マイクロソフト自身、IBMから依頼を受けてPC用にパスカルの開発を行うことになっていたが、マルチプランの開発用にはソフテックマイクロシステムズ社から販売されていたこのバージョンが選ばれた。
 マルチプランやのちにマイクロソフトが開発することになる表計算ソフト、エクセルは、Pコードをインタープリターによって実行する構造を持っていた。こうした移植性の高い言語を採用したことで、マイクロソフトは一九八二年八月のアップルII版の発売を皮切りに、さまざまなバージョンを短期間に送り出し、十月にはIBM自身からのマルチプランの発売にこぎ着けることができた。

 ミッチー・ケイパーは、IBMがパーソナルコンピューターに乗り出してきた段階で、このマシンに賭けようと腹をくくっていた。
 他のマシンに移植することなど念頭に置かなかったケイパーは、機械語にもっとも近い、それゆえ処理速度は速いけれど移植性には乏しいアセンブラーで1―2―3を書いた。グラフィックスを処理するために、さらには画面への表示をより素早く行うために、1―2―3はMS―DOSをバイパスしてPCのハードウエアに直接指示を出していた。こうした作法でプログラムを書けばMS―DOSが互換性の基盤として機能しなくなることは明らかだったが、ケイパーは最大の市場となると睨んだPCで最強の表計算ソフトを書くことに目標を絞り込んだ。
 もう一方、視覚的な操作環境を実現する基本ソフトの分野でも、マイクロソフトはビジコープに後れをとった。
 ビジコープがコムデックスで発表したVisiOnは、MS―DOSにかさ上げして使うという構成からアルト型の環境を提供するという目的まで、マイクロソフトが開発を目指しているインターフェイスマネージャーにそっくりだった。
 しかもVisiOnはすでに、PC上で動いていたのである。
 西がアレンジした日本電気版のアルトの子供に間に合わせるだけでなく、本命であるPCの操作環境の未来を抑えるという譲ることのできない一線を守り抜くために、ゲイツはインターフェイスマネージャーの早急な開発を指示した。
 一九八三年一月に開かれたパーソナルコンピューター関係の会議で、ゲイツはマイクロソフトがVisiOnに先だってGUIの出荷を開始するだろうとほのめかした。
 だがインターフェイスマネージャーの開発チームは、与えられた開発目標とPC上で使うという条件の板挟みとなって苦闘を余儀なくされた。
 当初からGUIを載せることを前提とし、グラフィックスの処理を徹底して高速化するという課題を与えられたとき、松本はPCの選択を一つ一つ否定しながらハードウエアの骨格を組み立てた。一方マイクロソフトの開発チームは、あくまでインターフェイスマネージャーの本命のターゲットとなる、PCを前提として作業に取り組まざるをえなかった。
 文字と数値だけならともかく、グラフィックスを扱ううえではきわめて貧弱なハードウエアしか想定できなかったにもかかわらず、インターフェイスマネージャーへの要求水準は高かった。
 開発チームはGUIに加えて、複数のアプリケーションを並行して走らせることのできるマルチタスクを実現するよう求められた。さらにインターフェイスマネージャーに対応して書かれたアプリケーションだけでなく、MS―DOS用のソフトウエアが実行できるようにすることも目標に組み入れられていた。
 達成すべき課題と頼りうるハードウエア資源が著しくバランスを欠いた中で、マイクロソフトの開発作業は難航を極めた。この年のはじめにはインターフェイスマネージャーのプロトタイプが動き出していたが、その動作は耐えがたいほどに遅かった。

OSへの移行を阻んだ
ディスクベーシックの繁栄


「インターフェイスマネージャーのターゲットを、とりあえず日本電気のマシンに限定する」と早めに決断しえたとすれば、この基本ソフトに対する評価と発表のタイミングは異なったものとなったかもしれない。しかし、ゲイツの重心は、あくまで本命のPCにかかったままだった。松本たちがASICの開発作業を完了し、カスタムLSIの完成が近づいて量産体制が整おうとする一九八三(昭和五十八)年の二月に入っても、西の督促に対してゲイツは「待て」と繰り返すのみだった。
 西は決断を迫られた。
 インターフェイスマネージャーのプロトタイプの、許しがたいほどに緩慢で耐え難いほどに不安定な動きは、このソフトウエアが出荷にこぎ着けるまでの長い道のりと困難とを雄弁に物語っていた。
 三月に入ってASICができ上がりはじめた段階で、西はTRONを取りあえずインターフェイスマネージャー抜きで発表せざるをえないと覚悟した。
「零戦も三回作りなおしたんや。一発目を出してから、すぐに手直ししていこう」
 西は松本にそう告げた。
 日本電気に対しては、取りあえずインターフェイスマネージャーをはずす代わり、視覚的な操作環境を組み込んだアプリケーションを標準で持たせるという代案を示した★。

★GUIが間に合わないと通告を受けたTRONの開発チームは、ソフトウエア戦略の修整を迫られた。インターフェイスマネージャーに代わるGUI的な性格をもったアプリケーションの中心として期待されたのは、マイクロソフトのマルチツールだった。マルチプランのインターフェイスをベースに、マイクロソフトは当時、英文ワープロのマルチワード、データベースのマルチファイル、グラフ作成用のマルチチャートなどの開発を進めており、これらはマルチツールと総称されていた。
 新たな方針では、TRONの発売当初はマルチツールの中から初期に出荷できるものを前面に押したて、日本語ワードプロセッサーを別におぎなうとされた。本命のGUI環境に関しては、一九八三(昭和五十八)年度下期までにこれを間に合わせ、マルチツールのアプリケーションも、この時期までにそろえる目標が、新たに定められた。

 基本ソフトの側で用意することが無理だとしても、GUIを組み込んだ個別のアプリケーションを作ることなら、時間的に間に合うはずだった。
 西の指示を受けて新しいマシン用に視覚的なアプリケーションを準備する役割をになったのは、当時アスキーからアスキーマイクロソフトに出向して、MS―DOSやマルチプランの日本市場への売り込みを図っていた古川享だった。
 アスキーの副社長という顔に加え、西和彦にはマイクロソフトの新技術担当副社長というもう一つの顔があった。京都セラミツクと組んで西が進めていたハンドヘルドコンピューターとTRONの開発計画は、マイクロソフトの西の仕事だった。アスキーの現場スタッフは、日本電気版のアルトの子供に関して、まったく情報を与えられていなかった。
 アスキーのアプリケーション開発を統括する立場にもあった古川は、後藤たちのグループが西と連携して何らかのプロジェクトを進めつつあることは察知していた。だが西を含めてマイクロソフト側からの具体的な協力要請もなく、日本電気からの正式な依頼もない段階で、古川をはじめとするアスキーのスタッフは、彼らにとってもベールを被ったままのプロジェクトに働きかけることができなかった。
 当初予定していた五月発表から、TRONのスケジュールはこの段階で七月発表、八月発売とわずかに先送りされていた。このマシンに「GUIを生かしたアプリケーションを可能な限り早く用意してほしい」と日本電気から要請された時点で、古川は共感と焦りという湧き上がってくる二つの思いに引き裂かれた。
 アルトの子供というプランは、素晴らしく魅力的だった。だが発表や出荷のスケジュールを睨んだマーケティングの準備は、絶望的に遅れていた。
 スケジュールを組み立てる時間があらかた失われた段階で、古川はスタートを切らざるをえなかった。
 さらに古川の前には、スケジュールに加えてもう一つの大きな壁が待ちかまえていた。
 マルチプランのバンドルは、すぐに本決まりになった。
 マイクロソフトに移ってマルチプランを担当することになったチャールズ・シモニーは、移籍した時点ですでに固まっていたスペックを、全面的に見直すことはしなかった。ただしメニューの組み込みに関しては、パロアルト研究所の出身者らしい自らの信念を通した。シモニーはマルチプランの画面の下二行にメニューを並べ、命令を正しくタイプする代わりに次の動作をここから選ぶ道を付けて、操作を簡単なものとしようと考えた。セルと呼ばれる集計表のます目を選ぶ動作や、メニューの選択は、マウスになじむ処理だった。
 このマルチプランを日本語に対応させて載せることには問題はなかったが、ワードプロセッサーに関してはあらたに候補を探さざるをえなかった。
 古川がまずあたりを付けたのは、PC―9801用に味もそっけもない「日本語ワードプロセッサ」と名付けた製品を発売し始めたばかりの管理工学研究所だった。

 一九六七(昭和四十二)年一月、慶応大学工学部教授の関根智明を中心に、同学部の大学院出身者や研究者が集まって設立された管理工学研究所は、大型コンピューター用の言語やOS、印刷用の組版システムの開発などに携わってきた実力派のソフトハウスだった。日本電気の情報処理事業グループからの仕事も受託してきた管理工学研究所は、PC―9801用の互換ベーシックの開発にも携わっていた。このベーシックを使ってPC―9801用に書き、一九八三年二月に売り出したばかりの日本語ワードプロセッサは、管理工学研究所にとって初めてのパーソナルコンピューター用のアプリケーションだった。
 だが「MS―DOSベースで視覚的な操作環境を備えたワードプロセッサーを書いてくれないか」と申し入れてきた古川を、学究肌の技術者集団による武家商法でこの後名を馳せることになる管理工学研究所は、まったく相手にしようとしなかった。古川は日本語ワードプロセッサーを書いている別のソフトハウスをあたってみたが、話に乗ろうとするところは皆無だった。
 標準的にIBM PCが備えているメモリーが六四Kバイト、PC―9801でも一二八Kバイトのメモリーしか持っていなかった当時、これまでベーシックでアプリケーションを書いてきたソフトハウスにとって、OSに対応させたプログラムを書くことの敷居はきわめて高かった。
 ROMに収まったベーシックでプログラムを書けば、RAMのメモリーのすべてをアプリケーションとデータに利用できた。自由に情報を書き込めるRAMは、そのまま〈白紙〉の状態で確保された。
 当時広く利用されていた、フロッピーディスクを使えるように機能拡張したベーシックは、ROMには収まっていなかった。ディスクベーシックは、フロッピーから読み込んで使う形が一般的だった。ただしその際も、八〇Kバイト程度のディスクベーシックの全体がRAMに読み込まれるわけではなかった。ROMに収められているものと共通する大半の部分は、そのままROMから利用され、ディスクへのファイルの入出力に関する一五K〜二〇Kバイト程度の拡張部分だけが、RAMのメモリーに読み込まれるようになっていた。つまりここでもかなりの部分を〈白紙〉として残すことができた。
 ところがこれをOSに対応させるとなると、五〇〜六〇KバイトのRAMをあらかじめOSが占有することを覚悟せざるをえなかった。従来規模の記憶容量のままでは、半分ほどを〈白紙〉として残すことしかできず、残りにプログラムとデータを押し込まざるをえなくなった。
 ベーシックはもとより、ディスクベーシックと比べても、OSへの移行はかなり大きな余分のメモリーを、あらたに要求することになった。
 さらにこれまで実績を残してきたCP/Mの一六ビット版のCP/M―86ならともかく、MS―DOSへの対応にはより大きなリスクがあった。
 日本の初めての一六ビット機となった三菱電機のマルチ16は、GWベーシックとCP/M―86のマシンとしてスタートしていた。PC―9801の基本は、あくまでベーシックの機械だった。それでも別売のCP/M―86は、PC―9801の発表に間に合ったものの、初めてのMS―DOSとなる1・25版の供給開始は翌年の五月にずれ込んでいた。アスキーマイクロソフトに出向した古川の懸命の売り込みにもかかわらず、この時期、当初からMS―DOSマシンとしてスタートを切ったのは松下通信工業のマイブレーン3000や日立のMB―16001など、ごくわずかの機種に限られていた。
 ソフトハウスを訪ね、もともと敷居の高いMS―DOSに対応させて、ビットマップベースでマウスで操作するワードプロセッサーを書いてくれと話を切り出す前に、古川は深く息をつかざるをえなかった。
 販売に関するなんの保証もないまま売り出さざるをえないパッケージソフトなら、ほとんど売れないといった事態も想定しないわけにはいかない。だがマシンに確実にバンドルしてもらえるのであれば、開発費を取りっぱぐれる心配はなかった。
 にもかかわらず、管理工学研究所をはじめとする主要な日本語ワードプロセッサーのメーカーは、いずれもMS―DOSに対応した製品の開発を引き受けようとはしなかった。千代田区外神田に同研究所が所有する関根ビルに通っては、MS―DOS版の開発を口説き続けるうちに、古川はCP/Mで体験した分の悪い戦いをもう一度、繰り返すことになるのではないかと恐れはじめていた。
 
 CP/M隆盛のアメリカの状況を睨んで、古川は日本のパーソナルコンピューターを可能な限り早くベーシックから脱却させ、ビジネスの要求にも本格的に応えていけるものにしたいと考えた。
 古川はテレビ朝日技術局に勤務する村瀬康治に依頼して、『ASCII』の一九七九(昭和五十四)年五月号から「 How to C/PM 」を連載してもらい、連載終了後は村瀬の監訳による『標準CP/Mハンドブック』を出し、さらに村瀬による「入門」「実習」「応用」の全三巻からなる『 C/PM Learning System 』の刊行へとつないでいった。
 だが、さまざまな機器のコントロールにマシンを応用していこうとするエンジニアを中心に、技術系のユーザーを獲得しはしたものの、こと市販ソフトの供給の基盤としては、CP/Mは日本でほとんど有効に機能しなかった。カセットテープを供給媒体としてゲームが普及していったあと、少しずつ書きはじめられていた日本語ワードプロセッサーや一部の業務用ソフトは、ドライブの管理機能を付け加えたディスクベーシックによって供給されていた。
 確かにディスクベーシックを使えば、フロッピーディスクドライブを活用することはできた。だがベーシックにとどまっている以上、ソフトウエアはインタープリターの遅い構造に閉じ込められたままだった。OS上にさまざまな言語が用意され、これを使った本格的なソフトウエアが書かれはじめたアメリカの状況と引き比べて、ディスクベーシックが次世代の基盤として機能しはじめてしまった日本の状況を見るにつけ、古川は先のない脇道にこの国のパーソナルコンピューター全体が迷い込んでしまったのではないかと危惧するようになっていた。
 そして一六ビット時代の幕が開いてもなお、古川の行く手にはディスクベーシックが立ちふさがっていた。
 MS―DOSに対応した日本語ワードプロセッサーの調達が難航する中で、古川は「一六ビットにおいてもディスクベーシックは再びOSを封じ込めてしまうのではないか」と恐れはじめていた。そうなれば、日本のパーソナルコンピューターは今後も、実質的にはゲームマシンとして生き続けることになるだろう。ビジネスを突破口としてパーソナルコンピューターの世界が急速に拡大しつつあるアメリカとの格差は、今後回復不可能なほど広がってしまうだろう。
 ではそうした事態を回避するために、現実のディスクベーシックの世界から、日本のパーソナルコンピューターをいかにして理想のOSの世界へと転換させていけばよいのか。
 立ちふさがるベーシックの壁を前にして古川が成しうることは、取りあえずバンドル用のMS―DOS日本語ワードプロセッサーの開発元を確保し、このOSで動くアプリケーションを一本でも多く生み出すためにサードパーティーの説得を続けることでしかなかった。
 
 日本ソフトバンクの松田辰夫は、ベーシックの現実とOSの理想を、古川とは対照的な角度から見ていた。
 松田自身、日本の市場をアメリカ並みの幅と深みを持ったものに転換していきたいという意欲は人一倍強く持っていた。だが現実に、日本のパーソナルコンピューターがゲームマシンにとどまっているのなら、一六ビットでもゲームからスタートするしかないと松田は冷静にそう考えた。パッケージソフトの流通卸として設立された日本ソフトバンクに籍を置く松田には、理想や夢や期待を削ぎ落とした日本の市場の実体が、ありのままに見えていた。
 PC―9801が誕生して間もない一九八三(昭和五十八)年当時、市場の中心となっていたのはPC―8801をはじめとする八ビット機であり、東京の一部で日本語ワードプロセッサーを謳った名ばかりの製品が細々と流れはじめてはいたものの、ソフトウエア市場の大半はゲームによって占められていた。
 一九五〇(昭和二十五)年十二月、富山に生まれた松田は、二〇歳で東京理科大学の夜間の物理学科に入った。一年の浪人を経験したあと、いったんは好きだったオートバイの仕事に就きたいとホンダオート富山に就職し、修理工として働きはじめた。だがもう一度考えなおして、働きながら大学で学ぶ道を選んだ。入学と同時に、ある建築会社の研究所で働きはじめた松田は、大学でも建築用に使う高分子の接着剤を専攻した。将来はこの分野のコンサルタントとして独立することを、松田は目標に置いていた。
 マイクロコンピューターから吹き出してきた新しい風には、松田はもっとも早い時期に気付いた一人だった。
 一九七五年九月に創刊された『バイト』や一九七六年一月が創刊号の『ドクター・ドブズ・ジャーナル』に目を通しはじめて間もなく、松田は研究室の作業にマイクロコンピューターを使ったシステムが利用できるのではないかと考えるようになった。アルテアに使われ、その後業界標準規格として広く利用されはじめたS―100バスを使ってマシンを自作してみた松田は、担当していた材料実験の制御にこうしたシステムを利用するようになった。アメリカから取り寄せている雑誌でCP/Mに関する情報を仕入れ、秋葉原の小さなショップでCP/Mが売られているのを見つけて、自分のマシンにドライブをつないでフロッピーディスクが使えるように改良を試みた。
 大阪大学のハッカーだった山下良蔵は、県立の医科大学に教員の職を得て、この時期、CP/Mをベースとしたマシンを組んでさまざまな医療用のシステム開発を試みていた。一方松田が籍を置いていた建築会社の研究所でも、建築環境の温度制御などに幅広くCP/Mマシンを利用していこうとするプロジェクトが進められつつあった。
 一九八〇(昭和五十五)年、目標としていたコンサルタントへの転身を図ろうと会社をやめた。松田はまず、経営総合研究所というビジネスマネージメントの研修会社に入社して、フリーランスとして生き抜いていくためのビジネス上の基礎知識を身につけておこうと考えた。
 この学校に、一九五七(昭和三十二)年生まれと七つ年下の、孫正義というアメリカ帰りの青年がいた。
 佐賀県鳥栖市に生まれ、久留米大学附設高等学校に進んだ孫は、高校一年の夏にアメリカ旅行を経験した。この旅を通じて、アメリカのスケールの大きさと底の抜けたような自由に強く印象づけられた孫は、すぐにでもアメリカに留学したいと考えるようになった。県下有数の受験校の教師たちは強く休学を進めたが、孫は在日韓国人の両親の承諾を取りつけてさっさと退学届けを出し、一九七四(昭和四十九)年二月、アメリカに渡った。サンフランシスコの英語学校に半年通ってから、現地の高校に入った孫は、いったんホーリーネームズ大学に入学したあと、目標としていたカリフォルニア大学バークレー校の経済学部への編入を果たした。
「学ぶためにアメリカに来たのだから、いっさいむだな時間は使いたくない」と徹底して勉強に没頭した孫だったが、コンピューターと〈発明〉にはあえて時間を割り振った。論理的に手順を組み立ててプログラムを組めば、狙ったとおりの小さな世界を築き上げることができるコンピューターは、精緻な知恵の結晶のように見えた。もう一方で孫は、一日に一つ、新しい創造をなすことを自らに義務づけて、発明ノートを埋めていった。
 マイクロコンピューターを使った「音声装置付き多国語翻訳機」は、ここから生まれたアイディアだった。電子辞書に音声の合成装置を組み合わせ、母国語で入力した言葉を外国語に変換して発音させるというこの装置を、孫はシャープに売り込んで事業化させることに成功する。当初から事業家として進むこと以外まったく考えていなかった野心家の孫は、大学卒業後、日本でビジネスを展開する手始めとして、マネージメントの基礎を身につけておこうと経営総合研究所の門を叩いていた。(『ザ・ファーストランナー』田原総一朗著、筑摩書房、一九八五年、「若きヒーロー」)
 目指すべき事業のイメージをさまざまに思い描いた孫だったが、本命は「パーソナルコンピューター用のソフトウエアの流通」に置いていた。弱小規模ながらソフトハウスがつぎつぎと誕生し、ショップの店頭ではパッケージソフトが売れはじめていたものの、ソフトウエアの流通経路の整備はいまだに手つかずのまま放置されていた。パーソナルコンピューターの台頭によって、個々のユーザーが店頭で手にとって買う新しいソフトウエアの販売形態が生まれつつある以上、こうした動きに対応した流通経路の確立には大きなビジネスチャンスがあると孫は考えた。
 経営総合研究所で孫と出会った松田は、パーソナルコンピューターが世界を革新していくだろうというビジョンを彼と共有することができた。孫は松田が持っている技術的な知識を、流通のビジネスに生かしたいと考えた。松田もまた、建築のコンサルタントとして動きはじめる一方で、孫が起こすというソフトウエア流通の会社にも興味を持った。
 
 一九八一(昭和五十六)年九月、孫は日本ソフトバンクを設立し、松田はコンサルタントとして同社のビジネスにかかわることになった。八ビットのゲームソフトの伸びに支えられて日本ソフトバンクは急成長を遂げていったが、松田も孫も、ビジネス分野こそがパーソナルコンピューターの拡大に決定的な弾みをつけると信じていた。当初は社外にあった松田も、会社設立の翌年にはソフトバンクに籍を置いた。
 ベーシックからスタートしたパーソナルコンピューターが、CP/Mへと脱皮を遂げてワードプロセッサー、表計算、データベースなどの分野にヒット商品が生まれ、ついにはIBMがこの分野に乗り出してくる経過を見ていた松田は、ゲームからビジネスへの転換を促進してくれる強力なマシンが日本に生まれることに期待をかけていた。
 その松田にとって、一九八一(昭和五十六)年七月に日本電気が発表したN5200は、じつに興味深いマシンだった。IBM PCの選択にならって、一六ビット化にあたっても八ビットの尾を引きずった8088を選択するマシンが当初多かった中で、N5200は8086を選んで新しい世代への移行を完全に果たしていた。加えてN5200が、グラフィックス描画の高速化を狙って開発されたGDCを搭載している点も、松田には魅力的だった。独立性を高めはしたものの、日本電気がこのマシンをあくまで大型の端末と位置づけている点が、松田には残念でならなかった。
 翌一九八二(昭和五十七)年五月になって、日本電気はあらたに「一六ビットパーソナルコンピューター」と位置づけなおしたN5200の新機種を発表した。グラフィックスにカラーを使えるよう改めたほか、日本語の入力機能を強化し、CP/M―86やMS―DOSにも対応するとした新機種は、松田の願いにより近づいているように見えた。六九万八〇〇〇円と一〇万円安くした新機種を、従来どおり端末として売るほか、ビット・インやNECマイコンショップなどにも流していくという方針にも期待が持てた。
 だが本命は、その年の秋になって登場した。
 日本電気のマシンを対象とした『Oh!PC』とシャープの『Oh!MZ』を六月に創刊し、富士通向けの『Oh!FM』の十二月創刊に向けて奔走しつつあった松田が望んだとおりのマシンは、一九八二(昭和五十七)年の十月になって日本電気から発表された。
 PC―9801と名付けられた新機種は、8086を採用した完全な一六ビット機で、GDCを採用し、従来の八ビット機用のベーシックプログラムをそのまま利用できるマシンと位置づけられていた。
 松田は、ビジネスへの転換の基礎を固めるマシンの誕生を確信した。
 だが当面いかにして読者やユーザーにPC―9801を印象づけていくかを考えたとき、なすべきことはやはり、このマシン向けの強力なゲームの提供以外にないと思わざるをえなかった。
 発展の大きな可能性はビジネスにあるとは確信していても、現実に売れていくソフトウエアの大半は、いまだゲームだった。話題を集めがちな日本語ワードプロセッサーにしても、首都圏でごく一部売れているにすぎないという事実に、松田は日本ソフトバンクの日々の業務を通じて向き合っていた。
 技術室長という肩書きで、ソフトバンクのすべての雑誌を技術面から統括していた松田は、『Oh!PC』でGDCによるPC―9801のグラフィックス機能に焦点を当てた連載記事を企画する一方で、このマシンの特長を生かしたゲームのコンテストを行った。一九八三(昭和五十八)年六月号で発表した一位、二位は、知り合いのライターに依頼して松田が仕込んでおいた作品がとった。特選を得た〈TANAKAのフライトシミュレータ〉は、ベーシックに加えて一部の手順を機械語で組み、GDCによるグラフィックス機能を徹底して生かした速いプログラムに仕上がっていた。読者からの大きな反響を受けて、『Oh!PC』編集部はフロッピーディスクに収めたフライトシミュレータをソフトバンク系列のショップに流しはじめた。
 PC―9801をまず光らせたのは、TANAKAのフライトシミュレータだった。

アプリケーションへのバンドルで
MS―DOSの突破口を開け


 一九八三(昭和五十八)年五月、アメリカに出張した際に求めた『CP/M入門』がきっかけとなって、浜田俊三が強く意識したのも、ベーシックで完結したままの日本のパーソナルコンピューターの現状だった。
「速いPC―8801」としてPC―9801をデビューさせた浜田は、技術の進化の流れに沿った当然の布石と考えて、CP/M―86とMS―DOSを用意していた。早水に専念させているソフトハウス詣での成果も、徐々に実を結びはじめ、この時期にはPC―9801用と銘打ったアプリケーションがショップの店頭に並びはじめていた。
 確かに、本格的なビジネスの要求に応えるIBM PCの1―2―3に相当する決定的なソフトウエアは、いまだ生み出しえてはいなかった。とはいえ、サードパーティーへの支援と働きかけを継続していく過程で、いずれPC―9801用にもキラーアプリケーションを誕生させうると、浜田は踏んでいた。PC―9801のソフトウエアの大半はベーシックで書かれていたが、OSを供給していけばやがて、CP/M―86やMS―DOSに対応した製品が自然に増えてくるだろうと考えていた。
 だが日本の八ビット機がベーシックにとどまり続けたあいだに、アメリカではCP/Mの時代が確固として築かれ、その基礎の上に一六ビットではMS―DOSの時代が開けようとしているのだという事実を、浜田は『CP/M入門』によってあらためて突きつけられた。
「PC―9801にCP/M―86とMS―DOSを用意すれば、OSへの移行は自然の成り行きとして達成できるだろう」
 問い詰めればきっとそう答えていたはずのさっきまでの自分を、成田へと向かう機中で『CP/M入門』を凝視したままの浜田は、すさまじいスピードで太平洋上に置き去りにしていった。
〈単にOSを準備することでは新しい技術への転換が図れないことは、PC―9801の初戦の勝利そのものが示している〉
 浜田には、そう思えてきた。
 三菱電機はマルチ16をCP/Mマシンと位置づけ、東芝はMS―DOS機と性格づけてパソピア16を市場に送り出した。新しい技術の流れをいち早く汲むことが即ち、成功の要因となるのなら、市場はPC―9801ではなくマルチ16なりパソピア16なりを勝者として選んで当然だった。だが日本のパーソナルコンピューターの重心は、いまだにベーシックのゲームマシンにとどまっていた。それゆえに、8086とGDC、そして互換ベーシックによって「速いPC―8801」として生まれたPC―9801は、スタートダッシュを決めることができたのだ。
 CP/M―86なりMS―DOSなりを使おうとすれば、まずOSそのものにメモリーをかなり食われることを覚悟せざるをえない。現状のマシンの大半がベーシックで使うことを前提としたメモリーしか載せていない中で、果たしてOSで使うアプリケーションを書いて買ってもらえるかという懸念が、サードパーティーにはあった。
 さらにOS版のアプリケーションを使いこなしてもらうためには、ユーザーにこれまでには必要なかった手順を踏んでもらわざるをえない点も、新しい環境への移行の障害となる可能性があった。
 ベーシックならあらかじめ本体に翻訳プログラムのROMが組み込んであるために、ユーザーは買ってきたアプリケーションをほぼ自動的に起動することができた。ディスクベーシックでも、アプリケーションの起動はきわめて容易だった★。

★フロッピーディスクをあらたに使いはじめる際は、形式を合わせるためのフォーマットと呼ばれる事前の手続きが必要になる。このフォーマットを行った際に、ディスクベーシックの拡張部分はディスクに書き込まれるようになっていた。そのためディスクベーシックで書いたアプリケーションをドライブに差し込むと、拡張部分からディスクベーシックが起動されたあとにアプリケーションが自動的に読み込まれ、ユーザーはいきなり仕事を始めることができた。

 基本ソフトウエアの機能や存在は、ベーシックで使っている限りほとんど意識する必要がなかった。
 ところがOSでは、システムの収まったフロッピーディスクでマシンを起動してから、あらためてアプリケーションのディスクからプログラムを読み込んでくるという手順が必要になった。事前にシステムとアプリケーションのディスクを一つにまとめておけば、ディスクを抜き差しする手間は省けるが、OSを立ち上げてからそこからアプリケーションを起動するというステップを踏むことは避けられなかった。こうした操作をユーザー自身にこなしてもらうためには、OSに関する基礎的な知識をあらかじめ学習しておいてもらう必要が生じた。
 これまでサードパーティーの開発者はもっぱらベーシックで書いてきたが、必要となればプロである彼らはOSについて学び、他の言語にも取り組むようになるだろう。ただしユーザー自身に基本ソフトに関する知識を求めざるをえない点は、八ビットでCP/Mの時代を築くことができなかった日本では、OSへの移行の大きな障害となると浜田は考えた。
 OSに対応したビジネス用のアプリケーションを使ってもらうユーザーは、コンピューターそのものに興味を持つマニアではなく、一般の社会人である。彼らが求めるのはワードプロセッサーなり表計算なりの機能そのものであって、コンピューターの知識ではない。本格的なビジネスアプリケーションの開発がすべからくOSへの転換を求めるとしても、ユーザー自身にはOSを使っていると意識してもらう必要はない。
 むしろOSを使っていることなどまったく意識することなく、ただ「速くて高機能のソフトウエアだ」とだけ感じてもらうことができてはじめて、PC―9801のビジネスマシンへの転換には拍車がかかるのではないか。
『CP/M入門』を前に、機中でほぼ一瞬にそこまで論理を詰めていった浜田は、脳裏に浮かび上がってきた一枚の図を求めてページを気ぜわしくめくった。
 残像が記憶に残っていた図は、CP/Mの起動の手順を示していた。
 OSはドライブをコントロールして、フロッピーディスクへの情報の読み書きを行う。ではマシンを立ち上げた際、そのOS自体をフロッピーディスクからメモリーに読み込んでくるのは何なのか。
 読者にこう問いかけてから、『CP/M入門』は電源投入時にOSが自動的に読み込まれるまでの手順を示していた。
 フロッピーディスクドライブを使うことを想定したマシンでは、電源投入時にディスクの先頭の部分を自動的に読み込んでくる手順が、ROMに組み込んで持たせてある。この小さなプログラムの働きによって、ディスクの先頭に書き込んであるシステム読み込み用のブートストラップローダーがまずメモリーに組み込まれる。すると今度はブートストラップローダーが自動的に起動されて、OS本体をメモリーに読み込んでくる。ここまでの手順は、電源を入れたりリセットスイッチを押すたびに、マシンが自動的にたどってくれる。
〈ならばいっそ、OS上で使うアプリケーションまで一気に起動してしまえないのか〉
 浜田は内心で『CP/M入門』の著者に、そうたずねかけた。
 電源が投入されるたびにブートストラップによってOS本体を引き出し、さらにはアプリケーションまで自動的に立ち上げてしまう――。
 もしもこうした手が打てれば、ユーザーは最終的にアプリケーションが起動された段階で、仕事のための環境に直接向き合うことができる。これなら途中でブートストラップが機能していたことはもちろん、OSが立ち上がっていたことも意識されることはない。これまでディスクベーシックのアプリケーションを使っていたのとまったく同じやり方で、より速く動作するOS上のソフトウエアを使うことができる。こうした形でOS対応のアプリケーションを提供できれば、ユーザーは自分自身がベーシックからOSに移行したのだという事実さえも意識しなくてすむだろう。
 目の前にあるのは、昨日までと同じPC―9801というマシンである。
 その同一のマシンが、ユーザー自身はなんら手を加えていないにもかかわらず、速いビジネスソフトを走らせる本格的なコンピューターに突如として変身してしまう。
 なぜ、そんなことが起こったのか、ユーザーは気付かない。いや、ユーザーは知ってはならない。なんの心理的な障害もなく、まったく気付かないうちにOSに移行してしまう道筋をつけてはじめて、PC―9801はOSベースのマシンに脱皮を遂げることができる。ベーシックに縛り付けられた「速いPC―8801」を脱し、本来目標としていたビジネス用の汎用コンピューターとして自らを確立できる。
『CP/M入門』を前に、PC―9801をOSマシンに変身させるシナリオを浜田は一気に組み上げた。組み立てた手順がふと消え去るのを恐れるかのように、浜田は飛行機が成田に降り立つまで繰り返し繰り返しシナリオをたどり、神経回路網を灼熱させながら再生のプログラムを脳裏に焼き込もうと努めた。
 ターゲットはIBMが本線に据えたMS―DOS。
 PC―9801をひっそりと、ユーザーが意識しないあいだにMS―DOSマシンに変身させることができてはじめて、勝利を確定できると浜田は脳裏に刻み込んでいた。
 
 一九八三(昭和五十八)年五月、アメリカ出張から帰ってすぐに、浜田は再生のシナリオの始動に向けて動いた。
 府中のエンジニアに打診して、ブートストラップローダーからOSを経て、アプリケーションまで一気に立ち上げてしまうことに技術的な問題点がないことを確認してから、浜田はこのシナリオの最大の障害を崩しにかかった。
 サードパーティーが売り出す一枚のフロッピーディスクだけで、自動的にアプリケーションまで起動してしまうためには、それぞれのディスクにブートストラップローダーとOSを同梱しておかざるをえない。つまりマイクロソフトの著作物であるMS―DOSを、他のサードパーティーの製品として発売されるアプリケーションにバンドルせざるをえなかった。
 もともとの著作権者であるマイクロソフトからOSの供給を受けた日本電気は、PC―9801への移植の作業を行っていた。だが二次的な加工を行っているとはいえ、第三者の製品へのバンドルを実現するためには、当然原著作者の了承が必要だった。
 ではマイクロソフトは、バンドルを許容するのか。
 許容するとすれば、その際、どの程度の対価を求めるのか。
 対価が高ければ、サードパーティーはバンドルに二の足を踏み、PC―9801をOSマシンとして再生させるシナリオは機能しなくなると予想できた。
 浜田はバンドルの対価を可能な限り低く抑えようと腹を固めて、アスキーの西和彦を訪ねた。
 西和彦の返答に、浜田は虚を突かれた。
 MS―DOSのサブライセンスに対して、西は「いっさい対価を求めない」と即答した。
 浜田からアプリケーションにMS―DOSをバンドルしたいと打診を受けた瞬間、西はこの戦略が日本におけるPC―9801の勝利を決定づけるだろうと直感していた★。

★西にとって、OSのバンドルは目新しいものではなかった。すでにアスキーでは、PC―8801用のマルチプランの商品化にあたって、同じ手を用いようと考えていた。PC―8801用のマルチプランを企画するにあたって、アスキーはCP/M版を流用することを考えた。ライバルであるデジタルリサーチのCP/Mを、マルチプランにバンドルすることはできない。ただし当時アスキーは、マイクロソフトと共同で八ビットの共通規格としてMSXのプロジェクトを展開しており、その一環でMSX―DOSの開発を進めつつあった。八ビットの標準OSであるCP/Mと互換の製品としてMSX―DOSを書いていたアスキーは、これをPC―8801に移植し、この上でCP/M版のマルチプランを動かそうと考えた。PC―8801用のマルチプランには、MSX―DOSがバンドルされ、ユーザーは一枚のフロッピーディスクを差し込んで、電源を入れるなりリスタートをかけるなりするだけで、一気にマルチプランを使いはじめることができた。
 OSへの移行が、頻繁なディスクの抜き差しやこれまでに経験したことのない手順を求めるとすれば、ベーシックに慣れ親しんできたユーザーの多くが背を向けかねないことを、西や古川はすでに強く意識していた。

 ベーシックという現状を受け入れたがゆえに、ユーザーに広く受け入れられたPC―9801が、バンドルによって魔法の呪文でも吹きかけられたように一瞬にOSマシンに変身したとき、サードパーティーはどう考えるのか。
 もっともたくさん売れているPC―9801が先頭に立って移行の障害をならしてくれるなら、ベーシックを離れて新しいOS環境に移ろうと腹をくくった者は、誰でもこのマシンのMS―DOSを第一のターゲットとして選ぶだろう。
 西はその時点で働く〈力学〉の効果を、痛いほど身に染みて知っていた。
 マイクロソフトはマルチプランの開発にあたって、移植性の確保を目標に据えた。一方ロータスディベロップメントはPCとMS―DOSに賭け、移植性を犠牲にして、最高の性能の実現に徹底した。その結果、表計算市場はロータスの手に落ちたのである。
〈バンドルが実現すれば、やがて日本のソフトハウスはすべて、ロータスの決断をなぞることになる〉
 ドミノの倒れていった先に何が待ち受けているか、西には見えていた。
 もっとも大きな市場の期待できる、それゆえにもっとも競争の激しいPC―9801からMS―DOSに乗り出していくとき、サードパーティーはここで最高の性能を実現しようとするだろう。そうなったとき、今度はユーザーがどう動くのか。新しいすぐれたアプリケーションがPC―9801用につぎつぎと書かれ、他機種には古いものしかないとなれば、ユーザーのこのマシンへの集中はますます募るに違いない。
 結果的にOSの時代は、当初からこれに対応しようとしたマルチ16やパソピア16によってではなく、ベーシックマシンとして生まれながら突如としてMS―DOSマシンに変身するPC―9801によって開かれることになる。
 そしてもしもPC―9801が勝つのなら、自分にもまた勝つチャンスがめぐってくることを西は意識していた。
 IBMがPC用の主OSとして位置づけてくれたことに加え、1―2―3の成功もあずかって、アメリカ市場ではMS―DOSの勢いは強まりつつあった。
 だが八ビットを制したデジタルリサーチは、いまだに高いブランドイメージを備えていた。日本のハードウエアメーカーの多くは、CP/M―86の移植を優先させた。さらにデジタルリサーチは、複数のアプリケーションを同時に走らせる機能を持ったコンカレントCP/M―86の開発を進めており、技術の発展の方向を明確に示していた。
〈そのCP/M―86優位の状況を、バンドルの無償の受け入れによって流動化させることができる〉
 西は浜田の仕掛けに乗ることで、日本市場におけるMS―DOSの劣性を一気に逆転する可能性も生まれうると考えた。
 マイクロソフト副社長の肩書きを賭けて、西は無償★のサブライセンスの受け入れを即答した。

★本書の主要な登場人物である浜田俊三氏は、とりわけ取材を始めた当初においてはきわめて非協力的だった。初めてのインタビューの冒頭の言葉は、「僕はPC―9801に関してはいっさいしゃべらないことにしています」であった。沈黙の背景には、「有効に機能している戦略に関しては明かせない」という認識と、「たとえ自分が何かなしえたとしても会社の業務としてやったことであり、個人的に視線を集めることは本意ではない」との思いがあるようだった。これまでPC―9801の開発史に関してほとんどレポートがなかった経緯には、浜田氏の沈黙が大きくあずかっているのだなと、そのとき納得がいった。
 その後、周辺からの取材を通して得た仮説を繰り返し浜田氏にぶつけた際、「誤りは正す」形の協力を得られたことで、筆者はPC―9801開発史の骨格を一つ一つ積み上げていくことができた。ただしその過程においても、ビジネス上の交渉相手が存在する事項に関しては、ほぼまったくといっていいほど浜田氏からの情報提供は得られなかった。「過去のこととはいえ、契約内容に関することを明かすことはビジネス上の信義に反する」としてまったく口をつぐむ浜田氏は、MS―DOSのサブライセンスが無償で行われたという点に関してもコメントを拒否し続けた。
 この点に関する本書の記述は、契約内容に関して知りうる複数の関係者の証言をもとに浜田氏に仮説をぶつけ、最終的には筆者が氏の顔色を判断して、事実に間違いないと確信し、まとめたものである。こうした筆者の最終的な判断に対しても、浜田氏は最後まで「単なる推測にもとづく記述である」と警告され続けた。

 本来単独の商品として販売するのが当然のMS―DOSを、無償で提供するという奇策には、マイクロソフト内部でも激しい論議があったようだった。それでもついに、来日したビル・ゲイツを交えた話し合いを経て、マイクロソフトとアスキーは、MS―DOSの無償のサブライセンスを正式に受け入れた。都心のホテルでの話し合いはゲイツのフライトスケジュールのぎりぎりまで続き、成田に向かうタクシーの中で浜田はついに、ゲイツから最終的な承認を得た。ゲイツのトランクを奪い取って飛行機会社のカウンターまで走った浜田は、次世代の主力商品を無償提供させた西の直感に、あらためて脊椎が震え出すような恐れに似た感情を覚えていた。
 震えながら浜田は、PC―9801の勝利をそのとき、深く深く確信していた。
 
「今後はOSだ。それもMS―DOSに対応したアプリケーションの開発を、徹底して推し進めていく」
 アメリカ出張から帰って以来、そう宣言してMS―DOSへの集中を突如として求めた浜田の豹変は、アプリケーションの開発促進を担当する早水潔にとっていぶかしかった。
 ショップ用に準備していた対応アプリケーション紹介のための「市販ソフト情報」に、浜田はOS対応製品を一まとめにした欄を別に設けるように指示し、自らコピーを書くと言い出した。
「パソコン=BASICの時代を越えて、これからはより広範なアプリケーションやソフトウエア開発のためにOS(オペレーティング・システム)も選んで使う時代です」
 そう書いてきた浜田は、CP/M―86と同じスペースで、MS―DOS対応製品を並べるよう求めた。だがCP/M―86ならまだしも、MS―DOSでは発売予定のものを含めて、言語やユーティリティーを紹介するのがせいぜいだった。一九八三(昭和五十八)年五月現在の製品を対象とした編集中の「市販ソフト情報」で、注目を集めそうなMS―DOS対応製品としては、アスキーが同月発売を予定していたマルチプランが唯一の存在だった。
 エイセルが日本語ワードプロセッサーのJWORDを、CP/M―86に加えてMS―DOSに対応させて製品化してくれたことに、浜田は勇気づけられていた。だが早水には、JWORDとマルチプランを数えてそれ以上折る指のないことが、MS―DOS環境の貧弱さをむしろ雄弁に物語っているように感じられた。
 浜田はそれでもMS―DOSを今後の本線に据えると主張し、アプリケーションへのバンドルに向けてマイクロソフト、アスキーとの交渉を進めつつあった。
 だが「MS―DOSに比べればCP/M―86の方がよほど動作が安定している」といった声をサードパーティーの開発者から繰り返し聞かされていたうえに、マルチタスクの可能なコンカレントCP/M―86という技術の発展の道筋を示しているデジタルリサーチの姿勢にも、早水は信頼を置いていた。
 早水の目には、CP/M―86とMS―DOSの勝負の結果はすでに明らかであるように見えた。
「積み上げてきたアプリケーションの数においても、製品の技術レベルにおいても、将来の発展に向けたビジョンにおいても、いずれもCP/M―86の方が上なのではないか」
 そう反論する早水に対し、あくまでMS―DOSを主張する浜田の確信の根にあるものは、「IBMへの信頼」につきるように思えた。
「ディスクベーシックの貧弱なファイル管理機能では、今後フロッピーディスクが当たり前になり、さらにハードディスクに大量の情報を蓄積して使うようになった段階ではまったく対応しきれなくなる。この三月にIBMがハードディスクを内蔵して発表したPC XT用に開発されたDOSの2・0では、従来のCP/M互換の方式とは異なった、機能を大幅に強化したUNIX流のファイル管理機構が採用されている。さらにデータを書き込む最低単位のセクターあたり、MS―DOSが最高で一〇二四バイトを記録できるのに対し、CP/M―86は五一二バイトまでにとどまっており、この差がファイルを読み書きする際のスピードにかかわってくる」
 そうした技術的な主張に対しては、CP/M―86側の有利な点を上げて反論を試みることもできた。だが「IBMがパートナーとして選んでいるのはマイクロソフトであり、今後表面化する問題点は、まずDOSの上で解決されるだろう」とする浜田の直感的な確信に対しては、早水は対置すべき反証の材料を持たなかった。
「今後は徹底してMS―DOSを重視する」
 浜田からそう指示を受けて以来、早水はサードパーティーに対してMS―DOSへの転換を繰り返し働きかけていった。
 だが、これまでベーシック一本やりできたソフトハウスの反応は鈍かった。
 ベーシックからMS―DOSへの移行の敷居を少しでも低くするために、早水はOS上で動く変種のベーシックの開発を浜田に進言した。
 これまでPC―8001やPC―8801用にアプリケーションを開発してきたソフトハウスは、日本電気のベーシックに対応したプログラムのモジュールを書きためていた。新しいアプリケーションを書き起こす際も、開発済みのモジュールで機能の一部が実現できるならば、彼らは当然、過去の資産を生かしたいと考えた。
 こうした構造もまた、OSへの移行を阻む障害となっている。そこでN88―BASIC(86)の命令を、MS―DOS上で機械語に変換してしまうベーシックコンパイラーを開発してやれば、過去の資産を新しいOS上でも生かせるようになる。
「MS―DOSを普及させていくには、こうした開発環境の整備がまず必要」
 早水からそう報告を受けた浜田は、残されたバグをつぶすとともに、次期機種に向けてベーシックの機能強化に取り組んでいた古山に、重ねてベーシックコンパイラーの開発を依頼した。
 だが一九八四(昭和五十九)年九月になってベーシックコンパイラーの発売にこぎ着けた時期になっても、MS―DOSへの移行にはいまだ、弾みがついてはいなかった。
 ベーシック機として生まれたPC―9801を、アプリケーションに潜り込ませたMS―DOSによって誰も気付かぬうちに新世代のOSマシンに変身させ、そのことによってPC―9801の勝利を決定づけるという浜田の戦略が機能しはじめるまでには、ある日本語ワードプロセッサーの誕生を待たなければならなかった。

ジャストシステム
GUIワープロに名乗りを上げる


 四国の徳島でソフトウエアを書いているというジャストシステムの浮川と名乗る女性からの電話を古川が受けたのは、GUIベースのワードプロセッサーが宙に浮いていた一九八三(昭和五十八)年の早春の休日だった。
 電話の用件は、開発を予定している酪農家用システムの言語に関するライセンスの問い合わせだったが、ジャストシステムという名前にかすかな引っかかりがあった。
「おたくは何か、別の仕事をやってらっしゃいませんか」
 何の気なしにそう水を向けてみると、耳元の受話器で「日本語もやっているんです」と弾むような高い声が砕け散って輝いた。
 ジャストシステム社長の浮川和宣は、一九四九(昭和二十四)年五月五日、愛媛県の新居浜に生まれた。
 全共闘運動が日本全国に飛び火し、東京大学と東京教育大学が入学試験の中止に追い込まれた一九六九(昭和四十四)年、浮川は愛媛大学工学部に入学した。浮川自身は電気工学科で重電を専攻したが、この年工学部に新設された電子工学科にただ一人、瞳の色の深い大きな目の少女が入ったことは、入学式のときに気付いた。
 男がほとんどだった工学部の新入生の中で、背筋を伸ばして立つ小柄な少女を包む空気は、光の粒子を振りまいてクリスタルガラスで固めてしまったように浮川の目に映った。
 入学式から三日もたたないうちに浮川から声をかけられた橋本初子もやがて、彼の太く明るい声で、耳を心地よく洗うようになった。
 大学卒業後、橋本初子は、大型コンピューターメーカーの高千穂バロースに入社し、神奈川県相模原の研究所に配属された。
 一方浮川は、兵庫県の姫路にある東芝の子会社の西芝電機に入社した。第二次大戦後、財閥解体を狙って集中排除法が施行されるにあたり、適用を恐れた東芝は、姫路にあった拠点を分離した。残された従業員を中心に生まれた西芝電機は、船舶の電気関係を取り扱い、日本の造船業が世界のタンカーの需要を中心となってになっていた当時、この分野の世界的な企業として名を馳せていた。
 寮生活で軍資金を蓄えては休日を使って浮川が上京する日々を経て、入社二年目には結婚にこぎ着けた。初子は退職して、いったんは姫路で主婦業におさまった。だが一年もたつと仕事への欲求不満を募らせ、「このままでは頭がおかしくなる」と言い出して、東芝のオフィスコンピューターの代理店をやっている地元の会社でプログラマーとして働きはじめた。
 独立への夢は、結婚当初から持っていた。
 初子の家は四代娘ばかりの家系で、代々養子をとってきた。彼女自身も養子をとって家を継ぐことを幼いころから申し渡されてきたが、長男の浮川には義理の両親の希望に沿うことはできなかった。ただし、やがては双方の両親の面倒を見ることを考えれば、サラリーマンでおさまってはいられそうもなかった。それに何よりも、浮川自身の中に挑戦を求めてやまない覇気がみなぎっていた。
 独立にあたっては、初子のソフトウエア技術者としての力を生かそうと考えた。
 一九七九(昭和五十四)年七月、徳島市中常三島町の初子の実家の応接間を事務所に、ジャストシステムを起こした。
 社長が浮川、初子が専務の二人だけのスタートだった。
 
 当初考えていたのは、いち早く漢字を使えるようにした東芝製のオフィスコンピューターのビジネスだった。
 これまで大型コンピューターの中でも特殊な機種でしか使えなかった漢字を、東芝は前年、初めてオフィスコンピューターに載せていた。浮川はこのマシン用にそれぞれの会社の業務にあったソフトウエアを書き、日常の仕事にすぐに使えるようにシステムをまとめて売り込もうと考えた。老舗の東芝は全国に販売網を確立しており、徳島にも古くからの代理店があった。だがこの漢字オフコンは、東芝から独立して間もないJBCという会社でも扱っていた。JBCの社長に願い出ると、同社経由で扱わせてもらうことができた。
 売り込み先の要求に応じたソフトウエアは、初子が書いた。
 営業には浮川が飛び回ったが、ハードウエアが七〇〇万円、ソフトウエア込みのシステム全体で一〇〇〇万円といった価格では、なかなか買い手がつかなかった。
 漢字を使ったシステムへの要求そのものは強い。地元の中小企業でも何とか手の出せる、安いものが提供できないかと考えた浮川は、ロジック・システムズ・インターナショナルが作っていたマシンに目を止めた。
 八ビットのマイクロコンピューターを使ったこのマシンは、画面にはカタカナしか出せなかった。浮川はこれに漢字プリンターをつないで、プリントアウトには漢字を出せるという安価なシステムを考え出した。ロジック・システムズからマシンを仕入れ、漢字プリンターは別に調達し、ソフトウエアは自分たちで書いて、地元の企業にセットで売り込んだ。

 OA関係のフェアーで、この漢字システムを浮川に見せられたロジック・システムズの営業部長は、プリントアウトに限れば一〇〇〇万円の漢字オフコンと同じ機能を持つものを、浮川たちが自分たちのマシンを使って六〇〇万円を切る価格で提供している事実に驚かされた。ロジック・システムズにとっての次の目標だったマシン自体の漢字化に水を向けたところ、初子がその場で理路整然となすべきことを示したことが、ジャストシステムに新しいチャンスの扉を開いた。
 ロジック・システムズから依頼を受けて、同社の新しい八ビットのCP/Mマシン用に書いた日本語処理システムは、一九八二(昭和五十七)年十月十九日から四日間、晴海の国際貿易センターで開かれたデータショウに出品された。
 日本電気が発表したばかりのPC―9801をはじめ、各社の新しいマシンに波のように人の群れが繰り返し寄せる会場の熱気にあおられながら、浮川は全国区に飛び出すことの可能性にあらためて胸を熱くしていた。
 夫婦二人だけで始めた会社はこれまで、オフィスコンピューターの販売とメインテナンス、加えてマシンの納入先からの開発依頼をこなし、第二次オイルショック後の苦しい時期をどうにかこうにか乗り切ってきた。スタッフも総勢六名に膨れ、徳島市内に三〇坪ほどの事務所を借りるところまでこぎ着けた。だが徳島だけを相手にビジネスを続けている限り、自分たちが地方の一ソフトハウス以外の何者ともなりえないことを、浮川は強く意識していた。さらにこの形でビジネスを続けていって、果たしてどこまで会社を存続させていけるかにも、自信がなかった。
 もしも東京で会社を起こしていたのなら、受託開発で会社を成長させることはできるのかもしれない。だが徳島を拠点としている限り、掘り起こせる受注ソフトの総量はたかが知れていた。リスクが小さく、確実な売り上げが望めるとはいっても、受託開発の仕事そのものが確保できなければ先はなかった。とすれば、どこと競い合っても勝負できる特色のある技術を身につけて、全国区で勝負するしか道はないのではないか。
 そう考えて浮川が選びとった選択肢の一つが、日本語だった。その開発の成果が、ロジック・システムズのマシンに組み込まれた形ながら、全国区の表舞台でおびただしい観衆の視線を浴びていた。
 浮川はこのとき、数か月前に下した決断にあらためて確信を深めた。
 
 飛躍をかけたジャストシステムの挑戦のきっかけを作ったのは、会社に遊びに来るようになっていた徳島大学歯学部の学生、福良伴昭だった。
 友人の紹介でジャストシステムの小さな事務所を訪ねるようになっていた福良は、初子に手ほどきを受けてプログラミングに興味を持つようになった。普段何気なくやっている動作や仕事をいったん解きほぐし、再度コンピューター言語で組み立てなおしてみると、意識の下に潜り込んでいる人間の思考の回路が、あざやかに浮かび上がって見えるように感じられた。問題を解決するために、手順を組み合わせていくアルゴリズムの視点を持つことを教えられ、アセンブラーやC言語を初子から学んだ福良は、やがて教える側が驚くほどの構想力と繊細さ、緻密さをプログラミングに感じさせるようになった。
 初子に続くかけがえのない発展の原動力の芽生えを福良に感じとった浮川は、ジャストシステムの成長のシナリオを描くことで、貴重な人材を確保しようと考えた。
 ロジック・システムズの日本語処理システムの開発を進めていたこの年の夏、浮川たちはパーソナルコンピューター用の日本語ワードプロセッサーを開発し、全国区への飛躍の足がかりとしようと決意した。
 ターゲットは、十月になって日本電気が発表した一六ビット機、PC―9801に据えた。開発作業は翌年の三月から五月にかけて集中して進められ、春の終わりまでには、〈光〉と名付けたプロトタイプに格好をつけるところまでこぎ着けていた。
 そんな時期、アスキーマイクロソフトに連絡を入れたのは、特長ある技術を打ち出そうともう一つ狙いをつけていた酪農管理システムに関する用件だった。
 
 乳牛からの搾乳量は、どのような飼料をどれくらい、どう与えるかによって大きく変わってくる。そのための管理技術はアメリカではコンピューターを利用して発展していたが、日本ではまだシステムの導入はほとんど手つかずとなっていた。酪農を営んでいる農家は数千万円単位とかなりの売り上げ規模を持っており、大きな設備投資を行いながら事業を展開していることから、浮川はコンピューター導入の可能性があると考えた。
 そこで酪農機械を取り扱っている商社と組んで、管理システムの販売をもくろんだ。
 ハードウエアにはオフィスコンピューターではなく、三洋電機が一九八二(昭和五十七)年の七月に売り出したばかりのパーソナルコンピューターを選んだ。MBC―250と名付けられたマシンはZ80を使った八ビット機だったが、CP/Mを標準装備し、本体に六四〇Kバイトのフロッピーディスクドライブを二台とディスプレイを組み込んだ一体型に仕上げられていた。Z80を二個組み込んで片方をグラフィックスと漢字の描画に専門にあたらせたMBC―250は、さまざまなアイディアの積み重ねによってじつに速いマシンに仕上がっていた。さらにこのマシンには、漢字ROMも標準で用意されていた★。

★MBC―250のメインの基板は増設スロットとこれをつなぐバスだけで構成されており、すべての機能をスロットに差し込むボードによって提供することで自由なハードウエアの構成と拡張が可能となるよう配慮されていた。アルテアのS―100バスを復活させた形のこの方式は、のちにIBM PC互換機メーカーとして成功するデル社のマシンにも採用された。このマシンの設計にあたって松本吉彦は、回路の安定的な動作に大きな意味を持っている増設スロットのグラウンドピンの数を、二五本と思い切って多くとった構成を採用した。こうした選択の技術的な意味は、一九八八(昭和六十三)年六月号の『トランジスタ技術』に掲載された、松本自身による「システム・バスの研究」に詳細に解説されている。

 MBC―250に載せる酪農家用ソフトの開発言語には、CP/M上で使うベーシックコンパイラーを選んだ。ベーシックコンパイラーもやはりマイクロソフトのものが使いやすいと考えた初子は、使用の許可条件を問い合わせようとアスキーマイクロソフトに連絡を入れた。
 電話口に出た男があらためて古川と名乗り、「何か別の仕事を」と問いかけてきたとき、初子は思わず受話器を持ち替えた。
 アスキーの古川は、創業者の三人と並ぶ同社の顔だった。
「日本語をやっていらっしゃるのなら、お話ししたいこともあるので東京にいらしたときに是非寄っていただけませんか」
 古川からそう求められたと聞かされた浮川は、すぐさま東京行きを決意した。
 
 四月に入ってアスキーに試作中の光を持ち込んだ浮川は、PC―9801とはまったく発想を異にするもう一つの一六ビット機の開発が日本電気の他のセクションで進められており、このマシンにバンドルするワードプロセッサーの開発をアスキーが任されていることを知った。
 光はPC―9801をターゲットとして、MS―DOS上でアセンブラーとCを使って書いてきた。もう一つのマシンもMS―DOSを前提としており、バンドルするソフトウエアは高解像度のビットマップ方式を生かして、視覚的な特長を前面に押し出したマウスで操作できるものにしたいということだった。
 文字の取り扱いに集中した光の方向付けとは異なっていたが、全国区のワードプロセッサー市場に踏み出すこのチャンスを、浮川は逃すつもりはなかった。
 仕様の詰めを行ったのは、届いたばかりのリサを徹底して分析にかかっていた、アスキーの笹渕正直と間宮義文だった。
 この年の二月、システムソフトからアスキーに移ったばかりの笹渕正直は、パーソナルコンピューターに新しい風が吹き込みつつあることを、この時期、自らの目と手でひしひしと感じとっていた。
 入社直後の三月、笹渕はウェスト・コースト・コンピューター・フェアー(WCCF)で、マウスというポインティングディバイスを目撃した。それまでもタッチパネルやタブレットといった入力装置には、コンピューターと人とのもう一つの関係を開いてくれるのではないかと関心を持ってきた。だがMS―DOSにマウスからの情報を取り入れるためのドライバーソフトを組み込み、ボタンを押すと画面上にメニューが現われるように仕立てたデモには、インターフェイスの新時代がまさに開けつつあることを実感させる衝撃があった。
 WCCFの開かれたサンフランシスコからシアトルのマイクロソフト本社に足を伸ばした笹渕は、開発グループの部屋に緑色のボタンの付いたマウスが転がっているのを目にして驚かされた。
 スタッフに「どこの?」とたずねると、「マイクロソフトが作ったもので、もうすぐ発表になる」のだという。増設スロットに差し込むマウス接続用のボードとMS―DOSに組み込むドライバーソフト、そしてマウス本体を、笹渕は担当者に頼み込んで日本に持ち帰った。マウスをいじり回しているうちに笹渕は、このちっぽけな新しい装置が、その時点でアスキーが抱え込んでいたさまざまな問題に一気に片を付ける切り札になるのではないかと考えはじめていた。
 上司の古川享をはじめ、アスキーのソフトウエア部門に籍を置くスタッフは、自社オリジナルのアプリケーションをなんとか成功させたいと願っていた。日本語ワードプロセッサーが最大の市場規模を持っていることは明らかだったが、ここにはすでに管理工学研究所のヒット商品があった。指のなじみが新規の参入障壁となるこの分野に切り込んでいくには、何らかの新しい特長が必要となると思われた。
 アスキーのソフトウエア部門にとってのもう一つの課題は、CP/M―86の優位を逆転して日本市場にMS―DOSを売り込んでいくことだった。バージョン1・0の段階では、MS―DOSはCP/Mの互換OSにすぎなかった。だが2・0からは、UNIX流のファイル管理機能が組み込まれ、周辺機器などをコントロールするデバイスドライバーと呼ばれるソフトウエアを組み込んで、容易にシステムを拡張できるようになっていた。
 とすれば、2・0の拡張性を生かしてマウスを組み込み、MS―DOSに対応した視覚的なワードプロセッサーを開発すれば、アスキーの抱えるすべての問題を前進させられるのではないか。
 MS―DOS対応のGUIベースのワードプロセッサーなら、間違いなく特長をアピールできる。さらにCP/M―86に対するMS―DOSの優位点も、この製品で強調できる。マイクロソフトの新しい商品であるマウス★を生かせる点でもメリットがある。これによってGUIへの突破口を開ければ、日本ではアスキーが新しいインターフェイスの流れの先頭に立って、さまざまな分野のアプリケーションを革新していくこともできるのではないか。

★一九八三(昭和五十八)年六月から出荷開始となったマイクロソフトマウスの製造にあたったのは、西和彦を通じて同社からの開発依頼を受けたアルプス電気だった。このマイクロソフトマウスは、日本電気のPC―100にも採用されることになった。

 そう考えた笹渕は、可能な限り早くリサを入手できるよう古川に頼み込み、マイクロソフト本社の手配によって、出荷開始と同時に送られてきたマシンに取りついていた。
 そこに持ち込まれた、TRONにGUI日本語ワードプロセッサーを書くというプランは、笹渕がアスキーでやりたいと考えていたことに、きれいに重なり合っていた。
 大型やミニコンピューターのソフトエンジニアからアスキーへと転じたばかりだった間宮義文にとって、リサに盛り込まれたインターフェイスは、頭の中にでき上がっていたコンピューターのイメージを木っ端みじんに打ち砕く新鮮な衝撃だった。
 アスキーという会社にみなぎっていた弾むような柔軟性や、プロジェクトのパートナーとなった笹渕のGUIに対する確信、そしてリサを貫く精神の斬新さに打たれた間宮は、開発作業をになうことになったジャストシステムの三人の熱意に触れて、再びあおられた。
 間宮は、自分自身が突然時代の最先端に飛び出して、まったく新しい何かを生み出そうとしている事実に慄然となった。しゃぶりつくすようにリサを分析にかかった笹渕と間宮は、アルトの子供にバンドルする日本語ワードプロセッサーのアイディアを固めていった。
 削除を示すハサミのアイコンを選べば、それまでは矢印だったカーソルがハサミの形に入れ替わり、作業の内容によってピンセットやナイフに変化するといったインターフェイスの方向付けが、アスキーとジャストシステムの繰り返しの打ち合わせを経てまとめられた。
 新幹線で大阪まで下り、大阪と徳島のあいだは東亜国内航空のYS―11で飛んだ。第二次世界大戦後、日本で初めて開発された六〇人乗りのこの旅客機は、短い滑走距離を売り物に国内線に利用されたが、ともかくよく揺れた。吐き気に耐えてYS―11で繰り返しジャストシステムを訪ねた間宮は、浮川初子と福良伴昭の傑出したプログラマーとしての能力に鮮烈な印象を受け続けた。わずか一二八Kバイトのメモリーしか持たないMS―DOSマシンで、自分たちが要求したGUIの特長を実現するために彼らがひねり出したアイディアには、息を呑むような切れがあった。
 プロジェクト全体を支配するエネルギーに押されるように、仕様の検討やテスティングの作業に没頭する間宮の姿に、笹渕は「命がけ」という古風な表現がぴったり当てはまるようなすさまじい集中力を感じさせられていた。
 西は素直に、マルチプランのインターフェイスをそのまま流用したワードプロセッサーを作る腹案を持っていた★。だが古川は、リサに惚れ込んだ笹渕と間宮、そして表舞台に躍り出ようと奮闘する浮川たちの熱に賭けたいと考えた。仮名を文節単位に漢字交じりの文に変換するKTISと名付けられたモジュールは、従来の日本語処理の経験を生かしてジャストシステムによって設計された。

★のちにジャストシステムは、マルチプランのインターフェイス形式に沿った製品を開発して大成功させることになる。

 当初五月を予定していたTRONの発表スケジュールは、インターフェイスマネージャーが間に合わないとなった段階で、いったん七月に延期されていた。ところが開発を終えたマシンに、最終的な事業化の承認をえる段階になって、トップの判断により、発表はさらに大きく先送りされることになった。
「一六ビットの事務用機は情報処理。ただし事務用でない、別ジャンルのものがありうるのなら半導体が一六ビットに乗り出すことを一概に禁じているわけではない」
 そう認識を示してきた大内淳義に対し、渡辺和也はトップの最終的な正式承認がなければプロジェクトをこれ以上進めることのできない三月まで粘ってから、仕様の報告を行った。
 渡辺はグラフィックスの重視やソフトウエアのバンドルという差別化のポイントを強調したが、TRONの存在を知った情報処理からは、「お墨付きを与えられた聖域を荒らされるのではないか」と、これ以降強い反発があった。双方のグループにしこりが残ることを恐れた大内は、社長の関本に諮り、半導体の一六ビット機は、PC―9801の新機種と同時に発表するよう指示した。ソフトウエアの開発は遅れはしたものの、ハードウエアはスケジュールどおり仕上がっていたマシンの発表は、このトップの命令によって秋にまで大きくずれ込んだ。
 TRONのプロモーションは広告代理店にまかせるのではなく、アスキーと組んで自分たちで主体的に進めたいと後藤は考えた。機種名として閃いたNEWS24には、自信と愛着があった。二四時間ユーザーをサポートするNECのワークステーション( Work Station )に引っかけたこの名前には、設計思想に通じる斬新な響きを感じた。だが、従来のスタイルから離れたネーミングには、ついに社内の承認がえられず、最終的にはPC―100に落ちついた。
 PC―100用の日本語ワードプロセッサーの仕様が最終的に固まった六月、ジャストシステムの浮川和宣と浮川初子、福良伴昭の三人はアスキー側との打ち合わせを終えて赤坂プリンスホテルの最上階のレストランで、チャンスをこの手につかんだことを互いに祝い合った。
 眼下には東京の街の明かりが、視線の及ぶ限り、遠く遠く広がっていた。
「これだけの人がいるんだから、僕たちのワープロはきっと認められる。いつかみんながジャストシステムのワープロを使ってくれる日が、きっとくるよ」
 ガラス窓に横顔を浮かべた浮川は、街明りが夜空に呑まれて消える彼方を見やりながらそうつぶやいた。
 いつもは強気一本やりの浮川の、調子を抑えたその予言は、福良の耳の奧でいつまでも遠くこだました★。

★ジャストシステムの誕生から一太郎の開発にいたる経緯は、『パソコンウォーズ』(田原総一朗著、富田倫生構成、日本ソフトバンク出版事業部、一九八八年)「第八章 パソコンを大人の道具に変えた、ジャストシステム一太郎誕生物語」に詳しい。本書のジャストシステムに関連する記述は同書に似すぎているのではないかとの懸念を持たれる方は、著作権者に富田倫生が入っているという事情に免じてお許し願いたい。この『パソコンウォーズ』は、『パソコンウォーズ最前線』と改題されて講談社文庫に収録されている。文庫版の著作権表示欄には富田倫生の表記がないため、こちらと本書との記述を読み比べられた方は、盗作の疑いをより強く持たれるだろう。ただし文庫版に富田倫生の著作権が表記されていないことは、編集部による作業上のある種の事故によるものであり、私は同書に関しての権利を放棄してはいない。緊急避難的な要求からあえて同書の刊行を受け入れたが、大人になるというのはなかなか難しいことである。

ダイナウェア
魂の兄弟とめぐり会う


 ジャストシステムがPC―100用ワードプロセッサーの開発作業に集中して取り組みはじめた七月、後藤富雄は「コンピューターグラフィックスに入れ込んでいる面白い大阪のグループがある」と紹介されて、藤井展之と名乗る人物からの電話を受けた。
 スケジュールを確認し、港区芝、田町駅前の日本電気本社ビルを訪ねてもらう日を決めた。
 藤井展之は一九五四(昭和二十九)年、スティーブン・ジョブズと同じ年に福岡で生まれた。電電公社に勤めていた父の転勤に伴って、藤井は五つの小学校と、二つの中学校に通った。高校に入ってからも、長崎北高校から小倉西高校への編入を体験した藤井だったが、目まぐるしい転校体験はむしろ、彼の心に腰の据わったしなりを育んでくれた。
 レッドツェッペリンやディープパープル、グランド・ファンク・レイルロードなどのビートのきいたロックを愛した藤井は、仲間たちと組んだバンドでギターを弾いた。高校三年生のときには、ウッドストック・イン小倉と名付けたコンサートの開催に走り回って、一万人を集めるイベントを成功させた。
 二年浪人して入った大阪大学の文学部では、西洋美術史を専攻した。
 ミュージシャンか物書きか、なにかそうした仕事で食っていきたいと考えていた藤井は、大学の軽音楽部でバンドを組み、放送作家の見習いとしても働きはじめた。五年かけて卒業した時点では、まともな就職のコースには乗っていなかった。小さかった運送会社を急成長させていった叔父の姿を見て育った藤井には、もう一方で自分の会社を起こしたいという漠然とした希望があった。放送作家で進むのか、会社の設立に向けてもう少しまっとうなキャリアを積むのか――。
 モラトリアムのその日暮らしにけりを付けるきっかけとなったのは、三洋電機の人材募集だった。
「ビデオ事業の拡張に伴い、人材を募集する」とした中途採用の募集広告を見た藤井は、大企業を覗いてみるのも経験と考えて電話を入れてみた。
 履歴から考え方まで、包み隠さずに話すと、「けったいなやっちゃ」と人事担当者が面白がってくれた。テレビ、ビデオに関する営業企画の仕事は藤井自身楽しかったが、給料の安さにはあきれ返った。大阪のエッセンスを煮染めたような地元、守口、門真の風土には、ロックマニアで作家志望の感性には受け入れがたい臭みがあった。
 急成長を遂げていた化粧品会社、ノエビアの求人広告を見た藤井は、染み付いてきた大阪ローカルのにおいを洗い落とそうかとしゃれて、履歴書を送ってみた。入社そうそう社長に買われ、社長室付きとなって宣伝、広報を担当することになった。アメリカのテレビCM向けに目もくらむようなコンピューターグラフィックス(CG)を作っていたボブ・エイブルの作品に、藤井はこの時期目を奪われた。職場があった東京、青山のツインタワーに隣り合う東洋リンクスで、CGのデモを見せてもらうと、この新しい表現に対する関心はいっそう深まった。
 そんなとき、藤井がコンピューターに興味を持っていると聞きかじった友人が、「ロボット作りのスタッフを集められないか」と相談を持ちかけてきた。聞けば産業用の無骨なタイプではなく、娯楽用のロボットを開発したいのだと言う。ハードウエアに関しては開発のめどがついたが、ソフトウエアの書き手が確保できないという話だった。
 手配師として振る舞えるほどのコネクションはなかったが、一つだけ手がかりを思いついた。阪大時代、卒業間近になって同じ下宿に入ってきた渡辺嘉伸がまだ四回生で残っているのではないかと閃いた藤井は、電話を入れ、コンピューターマニアの学生を集めるように頼み込んでみた。渡辺は学内に大阪大学コンピュータクラブというサークルがあるのを発見し、アルバイトでロボットのソフトウエアを書いてくれる力のある人間が欲しいと話を持ち込んだ。
 工学部、基礎工学部、理学部の学生が大半を占める総勢三〇人ほどのクラブのメンバーには、出来合いのマシンをいじる程度の学生も多かった。だが、中にはハードウエアを自作したり、OSの移植や高級言語の翻訳ソフトウエア開発までやってのける硬派のハッカーがまじっていた。
 大型コンピューターを抱えている計算センターで開発を手伝ったり、マシンのマニュアルのチェックを引き受けたりと、コンピューター関係のアルバイトにも精を出していたハッカーたち一〇人ほどが、ロボット絡みの仕事に手を挙げた。
 結局のところ、アミューズメントロボットの開発計画は、中途で頓挫することになった。このプロジェクトに関しては、藤井は純粋に話をつないだだけだった。だが学生たちの中にCGに興味を持っている者がいるという話には、耳が止まった。彼らに会ってみると、会話が弾んで「ちゃんとした物を作ってみろよ」と口をついてでた。ロボットの言いだしっぺと藤井が、各々一〇〇万円ほど開発費としてハッカーたちに渡し、デモの作品を作ることになった。
 ハッカーたちは、三次元の物体にきわめてリアルな陰影付けを行う、レイトレーシング(光線追跡法)と呼ばれる最新の技術を盛り込んだ作品を作ろうと考えた。鏡面仕上げの球体が、周囲のものを反射させながら動いていくグラフィックスの作成には、膨大な計算が必要だった。一六ビットのコンピューターを持っていなかったハッカーたちは、二・五MヘルツのZ80を使った手作りのCP/Mマシンで処理することを覚悟した。一こまの計算に、まる一晩かかるありさまで、数秒のアニメーションを完成させるまでに大変な時間を費やすことになった。
 それでも、仕上がったデモの出来映えは見事だった。
 ハッカーたちは、自分たちで開発したシステムを使い、コマーシャルや映画、テレビ番組などで使うCGの受託開発スタジオを作りたいと考えていた。社内の人事抗争に嫌気がさしていた藤井も、ハッカーたちとの出会いが独立のチャンスを与えてくれるかもしれないと考えるようになった。
 一九八三(昭和五十八)年の夏、でき上がったデモのテープを抱え、藤井はCGを発注してくれる可能性のありそうなテレビ局や広告代理店などを軒並み訪ね歩いた。日本電気ならショールームの展示などに使ってくれるかもしれないと考え、宣伝販促担当のセクションに電話を入れてみた。パーソナルコンピューターの宣伝担当者は、開発の技術屋さんにも紹介したいと話をつないでくれ、パーソナルコンピュータ事業部の池田敏昭に引き合わされた。
 眼鏡の奧の池田の目の色は、デモのビデオを見るうちに変わっていった。
 開発の手順をたずねられ、「自分たちで書いたプログラムを、手作りの八ビットマシンでえんえん走らせて作った」と答えると、「是非上司に会ってほしい」と逆に求められた。
 少し眠そうな目で、ひょうひょうとした雰囲気を感じさせる後藤富雄の印象は、デモを見終わったときには、一変していた。
「面白いですね」
 そう膝を乗り出してきた後藤は、再び開発の手順を問い、どんなスタッフが作業にあたったのか、質問を重ねた。
 藤井の答えを聞き終えた後藤は、しばらく黙りこくっていた。ふと忘れていた用件でも思い出したように面を上げた後藤は、「僕たちもグラフィックスに強いマシンを考えているんですよ」と話しはじめた。
「新しいこのマシン向けに、グラフィックスのアプリケーションが書けないか」
 そう水を向けられた藤井は、「是非ともやらせてほしい」と即答した。グループの中心となっていた四回生のハッカーたちは、卒業を目の前に控えていた。彼らとともに独立を目指すとすれば、藤井は船を出さざるをえなかった。後藤の提案は、船出を誘う絶好の風だった。
 彼らの中でも特にCGに入れ込んでいたハッカーに企画書をまとめさせ、後藤や池田たちとの打ち合わせを繰り返した。支配人という肩書きの渡辺和也も出席した会議で企画が本決まりとなり、開発中のマシンを貸与してもらえることになった。
 一〇台ほど確保しているプロトタイプを何台まわせばよいかとたずねられ、取りあえず三台送ってもらうことにした。
 
 一九八三(昭和五十八)年の九月、PC―100のプロトタイプはハッカーの一人が仲間たちの根城にできるようにと借りていた、学生にとっては少し広めのアパートに運び込まれた。
 居合わせていたハッカーたちが飛びつくように段ボール箱からマシンを引き出すと、マウスが見つかった。少年のような華奢な風貌に、眼鏡の奧の瞳にだけは老練な科学者のような色を浮かべたハッカーがマウスを取り上げ、「見て」と仲間たちに目配せをして微笑んだ。
 マシンをセットアップしてMS―DOSのフロッピーディスクを差し込み、電源を入れた。ディスプレイに光が入り、ドライブがガチャガチャと音を立てはじめた。
 次の瞬間、ハッカーたちは画面に魂を吸い込まれたように凍り付いた。
 マシンを立ち上げたとき、画面の左上から右に流れはじめるはずのオープニングメッセージは、左下から真上に向かって走りだしていた。
 マウスを見つけたハッカーの一人、竹松昇は、その瞬間にすべてを理解した。
 このマシンを作ったのは、彼らの魂の兄弟たちだった。
 ごく常識的に横に置いたディスプレイは、きっと縦に置いてほしかったに違いない。そうすればオープニングメッセージはちゃんと左から右へと流れる。そうだ、マウスも付いているではないか。
 兄弟たちはきっと、アルトを作りたかったのだ。
 飛びつくようにして読みはじめた資料をめくってはマシンを操作していくうちに、竹松は自分の胸が、経験したことのない熱いうずきにみたされていくのを覚えた。
 ビットマップ方式による解像度の高いディスプレイを備えたこのマシンは、電源を入れると同時にROMに収めたベーシックが起動される従来のパーソナルコンピューターとは一線を画し、はじめからマウスの機能を組み込んだMS―DOSマシンとして仕立てられていた。必要に応じてフロッピーディスクから読み込んで使うベーシックでも、マウスを使うことができた。
 アルト型の縦置きと思ったディスプレイが、横にも置けると分かったときは笑いがこみ上げてきた。あわててマシンをセットアップした竹松たちは、ディスプレイを載せるチルト台を組み付けないでいたが、この台が縦横を識別するスイッチとして利用されていた。電源が入れられると本体はディスプレイがどちら向きにセットされているかをまず識別し、画面への表示の仕方をマシン自身が切り替えるようになっていた。開発者はきっと、縦置きのアルトとしてだけではなく、横置きのスターとしてもこのマシンを使いたかったのだろう。
 キーボードを叩き、マウスを操作しながらマシンの動作を確かめていくうちに、竹松はディスプレイの奧に潜むまだ会ったこともない兄弟の魂の息吹を、頬に寄せた手のぬくもりのように、一瞬の震えも逃さず感じはじめていた。
 
 一九六一(昭和三十六)年、ジャストシステムが本拠を置くことになる徳島に生まれ、物心ついてからは大阪に育った竹松昇は、幼いころから形あるものを作ることに引かれて育った。
 小学校からラジオの組み立てに取り組んでいた竹松は、中高一貫の進学校、高槻中学に入ってすぐに電気物理クラブに入部した。アマチュア無線が主体の電気物理だったが、高校三年生にはデジタル回路を突っ込んで勉強している先輩がいた。コンピューターにつながる流れをクラブに残しておきたいと考えた先輩は、入部してきたばかりの中学一年の竹松に目をつけて、イロハからデジタル回路の基礎を叩き込もうと試みた。0か1かを記憶するというデジタル回路のもっとも基本的な働きが、電子的なシーソーのような構造を持ったフリップフロップと呼ばれる回路によって実現できることや、加減乗除が二進法では足し算の機能を持った加算回路だけですべて処理されていることが理解できるようになると、春に芽吹いた草花が一気に伸びはじめるようにコンピューターへの興味が膨れ上がってきた。
 中学三年生になった一九七六(昭和五十一)年ごろからは、『トランジスタ技術』をはじめとする各誌に盛んにマイクロコンピューターを使った手作りマシンの製作記事が載るようになり、この年の終わりには初めてのマイコン専門誌『I/O』が発行された。CQ出版が出していた『つくるコンピュータ』という本には、日本電気の四ビットのマイクロコンピューター、μCOM―4を使った詳しい製作記事がじつに論理立てて書かれていた。竹松は、これなら部品代も安く抑えられると踏んで、クラブの実験予算を使って初めてのコンピューター作りに挑んだ。
 入力はスイッチ、出力は発光ダイオードのランプだけのシステムを部品を集めて手作りする一方で、竹松はNHKの教育テレビで放送していたミニコンピューターの講座で、ベーシックやフォートランの文法を学びはじめた。
 コンピューターという同じ海に浮かぶとはいえ、右手に見える電子部品から組み上げていくハードウエアの陸と、左手に浮かび上がってきた高級言語によって記述されるソフトウエアの島は、竹松の中でしばらくは切り離された別個の存在のままだった。
 その二つが、海面下で確かに地続きとなっていることを教えてくれたのは、タイニーベーシックだった。
 竹松が高校に入ったころから、『I/O』や『ASCII』といった雑誌には、タイニーベーシックのソースコードが掲載されるようになった。CPUを直接操作できる機械語の命令をどう組み合わせて、ベーシックの命令を機械語に翻訳するプログラムが構成されているかを丹念に追っていく中で、ハードウエアとソフトウエアをつなぐ構造が見えてきた。高校二年でタイニーベーシックのインタープリターを自分なりに一から書き起こしてみて、竹松の中でコンピューターの環は完全に閉じた。
 一九八〇(昭和五十五)年に受験した大阪大学基礎工学部では、当然コンピューターを専攻しようと情報学科を第一志望とした。希望した情報にけられ、第二志望の生物工学科にまわされたときは、初めての挫折らしい挫折に落ち込んだが、気を取り直してコンピューターのサークルを探すことにした。
 入試への挫折感は、入部した大阪大学コンピュータクラブで自分と同類の硬派のハッカーを発見するたびに、一枚一枚薄紙がはがれるように消えていった。
 クラブには、アップルIIやPC―8001といった人気となったマシンをもっぱら使うだけの人種も多かったが、生粋のハッカーも紛れ込んでいた。竹松と前後して入部した新入生の木原範昭は、高校時代からコンピューターの回路を組んできた筋金入りだった。入試から解放され、堂々とコンピューターに没頭する権利を確保した木原は、アパートにこもってハードウエアの設計製作からOSの移植まで、何から何まで自分一人で取り組んで、CP/Mマシンを作り上げてしまった。
 同類の木原がその後CGに入れあげるのを横目に、竹松は一貫してOSや言語にこだわった。
 
 入学直後、通い慣れた大阪の秋葉原、日本橋で、Cという聞いたことのない言語の特集を組んでいる『DDJ』(一九八〇年五月号)を見つけ、引き込まれるように読み進んだ。
 Cという言語が、自分の興味を持っているOSや他の言語を作るために書かれたというくだりには、特に興味を引き付けられた。ベル研究所のデニス・リッチーという研究者によって、一九七二年から七三年にかけてUNIXを書くために開発されたCは、本来の用途に加えて、さまざまなプログラムの開発にも広く使われる可能性を持っていた。きめ細かな記述が可能なCは、異なった機種への移植が比較的簡単に行える点でも強みを発揮できるように思えた。
 大学の図書館には、Cに関する文献は一冊も入っていなかった。のちに東京大学大型計算機センターの石田晴久によって翻訳される、デニス・リッチーとブライアン・カーニハンの『プログラミング言語C』という本が存在していることを知り、日本橋を探し回った挙げ句見つけられずに、結局アメリカから取り寄せた。
 すぐに興味を失ってしまった事務処理用のコボルを唯一の例外として、基礎工学部の図書館を根城に、言語という言語に軒並みかじりついていった竹松は、翌一九八一(昭和五十六)年の春、毛色の変わった論文を雑誌のバックナンバーの中から見つけだした。
 その論文の存在は、『bit』誌に東京大学理学部情報科学科の助手だった坂村健が書いていた記事で知った。IEEE(アメリカ電気電子通信学会)の『コンピューター』誌、一九七七年五月号に掲載されていた「パーソナル・ダイナミック・メディア」という論文の一頁目には、コンピューターを前にして、パレットを左手に右手の親指を立てて構図を決める絵かきのイラストが添えられていた。
 アラン・ケイという人物によるその論文を学部の図書館の席で読みだして間もなく、竹松の胸には、南国に生まれた少年が初めて空から舞い降りてくる雪を仰いだときのような、決して忘れ去ることのできない鮮烈な情感のシャワーが降りはじめた。
「もともとは計算の道具として作られたものながら、コンピューターは論理立ててその振る舞いを分析できるものであれば、どんなものにでも化ける力を持っている」とケイは言う。
 人間は何千年もの昔から、考えや感情を人に伝え、自分自身の記憶にとどめるために紙の上の文字や記号、壁に描いた絵、声や楽器によってつづられるメロディーを利用してきた。人の思いを伝えるメディアの世界には、やがて写真や映画、テレビといった目の前の世界を忠実に記録し、動きまで写し取ることのできる新しい技術が生まれた。だがいったん記録されたものはそれ以降は姿を変えることがなく、思いを受け取る側は、ただ受け身で表現の前に立ちつくすしかないという点では、新しいメディアも古いメディアと変わるところはなかった。
 ところが万能の物まねの力を生かしてコンピューターをメディアに化けさせれば、静かにそこにたたずんでいるだけだった表現に、命を吹き込むことができるとケイは言う。あらゆるメディアの機能を備える超メディア、打てば響く動的なメディアを、コンピューターによって作ることができるというのだ。
 渓谷の細い清流に手をひたしたような新鮮さを感じさせたのは、こうした発想だけではなかった。
 ケイのいうダイナミックなメディアの実現に向けて、パロアルト研究所の学習研究グループはコンピューターを動的な超メディアに変身させるためのソフトウエアをすでに積み上げていた。
 ビットマップ方式による高解像度の表示機能を前提として、グループはウインドウ環境を備えた言語、スモールトークを開発し、マウスを組み込み、文字や数値にとどまらず、グラフィックスや音、アニメーションなどさまざまな形式の情報を取り扱う実験を繰り返していた。
 図書館で文献をコピーし、自宅に持ち帰ってからもう一度腰を落ちつけて読みなおしてみたとき、竹松の中で新鮮な感動はある確信に変わりはじめていた。
 
 自分がなぜコンピューターに興味を持ち、引きずられるようにハードウエアとソフトウエアにのめり込んできたのか、竹松はこれまで考えたこともなかった。物を作ることの喜びと、精緻な論理の世界の手触りの心地よさがすべてだった。
 だがコンピューターと出合ったことには、意味があったのだ。
〈すべてはこの論文と出合い、創造的な思考のためのダイナブックに向けて走り出すための、予行演習ではなかったのだろうか〉
 竹松はそう考えた。
〈自分の明日を賭けて取り組むべき仕事は、ダイナブックの実現のために働くこと以外にはありえない〉
 竹松はそう確信しはじめた。
 論文のまとめにケイは、「誰もがダイナブックを持っている世界では、いったいどんなことが起こるのだろう」との問いかけを、さりげなく残していた。この問いへの答えを脳裏に描き出すとき、竹松はいつも全身を包む啓示のぬくもりに身を委ねることができた。
 ケイの論文は、感動を共有した橋本一哉と二人で訳し、クラブの会報に載せた。
 自他ともに認める硬派のハッカー仲間の橋本と、CGに入れ込んでいた木原範昭とは、アミューズメントロボットの話でも組んだ。
 ロボットの話を通じて知り合った藤井展之は自分たちの世界とは無縁の大人の国の住人だったが、彼の人間的な線の太さと行動力は魅力的だった。
 会社を起こそうという話には、なすべき仕事への第一歩になりうると考え、迷わずに乗った。CGの制作プロダクションに代わって浮上した、藤井の取ってきたグラフィックス志向のマシンにアプリケーションを書くという話は、いっそうなすべきことに近づいているように思えた。
 だが木原のアパートに届いたPC―100は、なすべきこと、そのものだった。
 ウインドウやメニューを用意する操作環境は、PC―100には用意されていなかった。それでも高解像度のディスプレイとマウスは、PC―100がアルトの子供以外の何者でもないことを雄弁に物語っていた。そのPC―100がGUIを欠いて生まれ落ちようとしていることは、このマシンにとっては不幸であるのかもしれない。
 けれどだからこそ、竹松はPC―100に向けてなすべき自分の役割を認識できた。
 アルトの肉体は、竹松の目の前に捧げ出されていた。竹松たちがソフトウエアによって命を吹き込めば、パーソナル・ダイナミック・メディアは、今、ここで産声を上げるのだ。
 グループの目指すところをハイエンドの先端的なCGの世界から、パーソナルコンピューターに切り替えるにあたっては、あらためてアラン・ケイのビジョンを見直して、誰もが使うことのできる役に立つ道具を目指すという方針を確認しあった。
 これまで木原が中心となって引っ張ってきたCGの分野には、大別して二次元と三次元という二つの技術の種があった。この種にGUIの水を注ぎ、二次元のお絵かきソフトと三次元の立体図の作成ソフトに取り組む方針を立てた。
 アルト用に開発されたスモールトークを分析しなおし、ユーザーインターフェイスの仕様を固める作業には、竹松と橋本が中心になってあたった。最初のアプリケーションとして開発を優先することにした三次元のアプリケーションの本体は、布団にくるまって部屋の隅に転がっているとき以外はPC―100にかじりついたままの木原が、MS―DOS用に提供されていたラティス社製のCで書いた。
 
 木原がディスプレイの中の論理の世界に魂を奪われ、プログラミングに没頭していた一九八三(昭和五十八)年十月十三日、日本電気は一六ビットのパーソナルコンピューター、二機種の発表を同時に行い、即日販売を開始した。
 一つは、PC―100。そしてもう一つは、PC―9801シリーズの新機種、PC―9801Fだった。
 前年の同じく十月十三日にPC―9801を発表した情報処理事業グループでは、年が明けて二月から後継機種の仕様検討の作業を本格化させていた。
 発売開始直後は、予定した年間七万台の販売計画を上回る月間一万台ペースで好スタートを切ったPC―9801だったが、年が明けるとショップやディーラーの手元には在庫がだぶつきはじめていた。
 PC―8801互換の一六ビットのベーシックマシンとして仕立てたPC―9801がどこまで市場に受け入れられるか、見極めのつかない段階で着手した後継機の仕様検討の作業を、浜田俊三は当初、二本立てで考えた。
 コンピューター事業の大原則から言えば、本筋はPC―9801のソフトウエアをそのまま引き継ぐことのできる強化機種だった。
 よほど革新的な技術を盛り込んで他社を圧倒できる自信でもない限り、過去のマシンとの互換性を断ち切ることが自殺行為につながることを、浜田は二五年に及ぼうとするコンピュータービジネスの経験を通じて痛感していた。社内の強力なライバルである渡辺和也の注文を呑んで八ビット機との互換性を取る道を選び、西和彦から互換ベーシックの開発協力を得られないという窮地に立たされてもなお、この路線を死守することにこだわったのも、その確信のゆえだった。
 だが、市場からPC―9801が受け入れられないとすれば、別の路線を選ばざるをえないこともまた、事実だった。土壇場でオフィスコンピューターの最下位機種という道を捨て、きわめて短期間で開発せざるをえなかったPC―9801には、もう一度白紙を与えられて設計しなおすことが許されるのなら、作りなおしたい点はいくつも残されていた。コンパックが先鞭をつけてIBM PC互換機を、日本語に対応させるというアィディアに、浜田は魅力を感じていた。
 一九八三(昭和五十八)年三月の年度末で、PC―9801の出荷台数は四万五〇〇〇と報告された。流通にかなりの台数がだぶついている事情を踏まえれば、無条件に合格点のつけられる数字ではなかった。だが年度が変わって、早水潔が掘り起こしに奔走してきたアプリケーション開発の成果が実を結びはじめた。小澤昇の努力によって短期間で出荷にこぎ着けた本格的な漢字プリンターも好評をもって迎えられる中で、浜田はPC―9801の改良という本筋の選択に傾いた。
 PC―9801の強化のポイントは、日本語が使えるビジネス機という性格を鮮明に打ち出すことに置いた。
 新機種のPC―9801Fには、JIS第一水準の漢字ROMが標準で組み込まれ、ベーシックやMS―DOSの日本語機能が強化されることになった。五インチのドライブを標準で持たせることにより、アプリケーションを何に収めて供給するかのターゲットが確定され、ハードウエアは全面的に作りなおされた★。

★ビジネスを狙うとしたPC―9801だったが、漢字ROMをオプションにまわした点は、標準で持たせた他社の機種が並ぶと弱点として際だった。そこでJIS第一水準の漢字ROMを標準で組み込み、オプションで第二水準のROMも用意された。
 日本語への対応は、基本ソフトにおいても徹底された。従来のベーシックでも、オプションの漢字ROMを組み込めば、それぞれの漢字に割り振られているJISコードを十六進数で入力して、漢字を表示することができた。だがいかにもわずらわしい従来の方式に加えて、仮名やローマ字で入力した読みを、辞書を使って漢字に変換する機能があらたにベーシックに組み込まれた。同時に発表されたPC―9801用のMS―DOS2・0にも、ローマ字と仮名の漢字変換機能が付け加えられた。
 日本語の使えるビジネス機という性格を際だたせ、ソフトウエアの互換性は保つと決めたうえで、PC―9801の次期機種の中身は完全に作りなおされた
 初代機にはクロック周波数五Mヘルツの8086互換チップが使われたが、新機種には八Mヘルツで動作する8086―2を採用した。開発期間がごく短く限られたPC―9801は、既存の部品だけで組み立てられ、専用のLSIはいっさい使われていなかった。その結果、初代機はかなり大きなマシンに仕上がっていたが、後継機ではASICで専用LSIを起こし、小型化と信頼性、処理速度の向上を図ることとした。本体基板用に起こすASICは、合計一二個に及んだ。
 フロッピーディスクは八インチに代わって五インチが主流となりつつあり、さらにその中でも従来の三二〇Kバイトから六四〇Kバイトへの世代交代が起こりつつあった。日本語を標準的に扱うことを考慮して、新機種には六四〇Kバイトのドライブを一台積んだF1と、二台実装したF2が用意された。価格はF1が三二万八〇〇〇円、F2は三九万八〇〇〇円に設定された。
 初代のPC―9801は、八インチと五インチのドライブをオプションとしており、従来八ビット機でアプリケーションの供給媒体として広く使われてきたカセットテープレコーダーのインターフェイスも別売にまわしていた。本線の媒体がはっきりしていない点は、PC―9801用のソフトウエアを開発する側にとって頭の痛い問題だった。漢字ROMがオプションである点も、アプリケーション開発のターゲットを絞り込ませない要因となっていた。だがPC―9801Fによって、漢字ROMと五インチという目標が明確に設定できることになった。

 ベーシックマシンであるPC―8801の一六ビット版として生まれたPC―9801は、二代目のPC―9801Fでアプリケーションの上るべき土俵を明確に定義した。水面下で早水が仕掛けつつあった、MS―DOSマシンに変身させるためのプログラムが発動しはじめれば、PC―9801は日本電気版のIBM PCとしてさらに確固たる地歩を固めるだろうと、浜田は読んでいた。
 
 同時に発表されたPC―100の特長を、日本電気は「マウスの採用などによって使いやすさを一段と高めた、超高解像度のマシン」と訴えた。
 パーソナルコンピューターの利用が広範囲に及び、今ではコンピューターの知識のない人にもその有用性は理解されてきた。だがその一方で、「操作が難しい」「ソフトウエアの選択が大変」などの声があった。そこで、高性能のパーソナルコンピューターをもっと簡単に利用したいという要望に応えたのがPC―100と、日本電気は開発の狙いを示した★。

★PC―100のマイクロコンピューターには、PC―9801Fと同じ8086―2が採用された。当初からMS―DOSマシンとして設計されたPC―100は、GWベーシックをもとにしてマウスや高解像度のカラーグラフィックスへの対応、漢字入力などの機能拡張を行ったN100―BASICも、MS―DOS上でフロッピーディスクから読み込んでくる形をとっていた。
 Windowsの搭載をあきらめざるをえなくなった中で、表計算のマルチプランとともにあらたに開発して標準添付されることになった日本語ワードプロセッサーは、アスキーの陰に隠れた真の開発者、ジャストシステムの社名からJS―WORDと名付けられた。加えてベーシックのゲームソフトとして、その後日本でも人気を呼ぶことになるロードランナーがバンドルされた。
 PC―100に添付されたMS―DOSも新しい2・0版であり、PC―9801Fのものと同様にローマ字と仮名の双方の入力方式に対応した漢字変換機能を組み込んであった。さらに立ち上げ時にファイルや命令をメニュー形式で表示してマウスによる操作を受け付ける、ビジュアル・コマンド・インターフェイスと名付けられたWindowsを志した小さな名残も付け加えられていた。
 七二〇×五一二ドットの高解像度に加え、オプションにまわされたカラーボードを組み込むことで、五一二色中から任意の一六色を同時に表示できるようにしたグラフィックスの処理能力は、当時の対抗機種の中では傑出していた。だが情報量の格段に膨らむグラフィックスを強化した機種でありながら、PC―100には三二〇Kバイトタイプの五インチドライブが採用された。PC―9801Fがいち早く六四〇Kバイトの採用に踏み切ったその一方で、「技術の安定度を買う」としてPC―100が三二〇Kバイトをとったことは、いかにもバランスを欠いていた。
 PC―100にはフロッピーディスクドライブ一台のモデル10と二台のモデル20、加えてモデル20にあらかじめカラーボードを組み込んだモデル30が用意されていた。販売価格は白黒仕様のモデル10が三九万八〇〇〇円、モデル20が四四万八〇〇〇円。カラー仕様のモデル30は五五万八〇〇〇円と設定された。高解像度の専用ディスプレイは、白黒版が五万九八〇〇円でカラー版が一九万八〇〇〇円。PC―100が本来目指したカラー版のマッキントッシュとして使おうとすれば、あわせて七五万六〇〇〇円についた。

 PC―100用の三次元グラフィックスアプリケーションに全力投球していた竹松たちは、大幅に機能強化したPC―9801シリーズの新機種にも、心は引かれなかった。
 そもそも文字と数値という従来の枠組みに収まるアプリケーションを書くつもりのない竹松たちの目には、PC―9801が売り物としたGDCによる高速の文字処理も大きな魅力としては映らなかった。
 デジタルRGBで決まりきった八色しか表示できないという点は、彼らが目指した世界とは無縁の発想から導き出された解答だった。PC―9801は二個組み込んだGDCの一方をグラフィックスの処理の高速化にあてていたが、PC―100に組み込まれたCRTコントローラーは、GDCの機能をはるかに超えていた。自らもハードウエアに手を染めてきた三人のハッカーは、CPUにウエイトをかけないために巧妙にタイミングをとった設計やカラーのグラフィックスを高速処理するプレーン構造を目の当たりにして、PC―100に向けてアプリケーションを書く意欲をいっそうかき立てられた。
 アプリケーションの販売に関してまったくノウハウを持たなかった彼らは、日本電気の後藤の世話で、システムソフトに販売を任せることになった。
 活動の本格化に向けて、藤井は体制を整えて株式会社としてスタートすることを決めた。この年の暮れにつごう五〇ほどみなで持ち寄った候補の中から、ダイナブックを実現するためのソフトウエアとの意味を込めて竹松が提案したダイナウェアが選ばれた。
 3Dマスターと名付けられたダイナウェアの初めてのアプリケーションは、ハッカー的集中力を存分に発揮した木原の疾走によって、早くも一九八四(昭和五十九)年一月にはシステムソフトから発売された。木原からバトンを受け取った竹松は、二つ目の製品として狙いを定めていた二次元のお絵かきソフトに向けて、一心不乱のコード漬けの日々に没入した。
 アップルが、マッキントッシュと名付けたリサの低価格版を発表したのは、システムソフトが3Dマスターを売り出し、竹松がお絵かきソフトに着手した一九八四(昭和五十九)年一月だった。
 ちょうど一年前に発表したリサに五種類のアプリケーションを標準添付したのと同様に、マッキントッシュにはGUIの生かし方のモデルとして、二種類のソフトウエアがバンドルされていた。ワードプロセッサーのマックライトとともに添付されていたお絵かき用のマックペイントには、同じ領域を狙ったものをPC―100用に書きはじめていただけに視線が吸い寄せられた。
 マックペイントを一目見たとき、湧き上がってきたのは笑い出したいような驚きだった。
 さまざまな書き味の絵筆をマウスで操作し、気に入らないところがあれば画面上で自由に修正を加え、好みのパターンを選んで網掛け処理を行う――。こうした基本的な仕様において、マックペイントと竹松が開発に着手していたお絵かきソフトは、きれいに重なり合っていた。
 ふたを開けてみれば、もう一つのアルトの子供をアップルで与えられた兄弟は、一歩先に自分と同じように考え、同じように振る舞っていた。鏡に映したように、自分がその跡をなぞろうとしていたことが、竹松にはおかしかった。
 発想が重なり合っていただけに、ビル・アトキンソンというマックペイントの書き手の非凡さは逆に際だって浮かび上がって見えた。
 驚かされたのは、自由に範囲を選んでエリアごと移動できるようにした、投げ縄のアイコンで示された機能だった。長方形や円といった決まりきったパターンを動かせるようにすることは、竹松たちも考えていた。だが投げ縄を使えば、画面上の絵の中からハサミを使ったように自由自在に一部を切り抜いて動かすことができた。初代のマッキントッシュが備えていたわずか一二八Kバイトのメモリーで、どうやってこの機能が実現できたかを推理していく作業には、気の利いたミステリーでも読んでいるような知的興奮を覚えた。
 
 マッキントッシュそのものに対する共感も、竹松にはあった。
 3Dマスターとこれに続くお絵かきソフトのインターフェイスは、「パーソナル・ダイナミック・メディア」の論文だけをたよりに、竹松たちはアルト用に開発されたスモールトークの流儀にならって組み立てた。PC―100にはボタンの二つ付いたマイクロソフト製のマウスが採用されており、竹松たちは右のボタンを押すことで隠れていたメニューを画面上に呼び出すスタイルをとった。呼び出したメニューは、画面上の任意の位置に動かして置いておくことができた。一方マッキントッシュは、画面の上に横一列に文字で項目を並べる、リサに採用されたメニューバー方式を踏襲していた。
 マッキントッシュは、ウインドウやメニューを組み立てるソフトウエアの部品をあらかじめ用意し、ツールボックスと名付けてROMに収めていた。プログラムの書き手は、これを組み合わせるようにして画面上でインターフェイスを作るよう、導かれていた。
 ツールボックス内の部品がじつに巧妙に作られていることや、サードパーティーが各々マッキントッシュ用のアプリケーションを書いたとしても、同じツールボックスの部品を使わせれば使い勝手をそろえられるというアップル側の戦略には感心させられた。ただし、3Dマスターを書くにあたっては自分たちも部品に相当するグラフィックライブラリーを用意し、お絵かきソフト以降もこれを当然活用しようと考えていただけに、驚きよりはむしろ共感のほうが強かった。
 マッキントッシュはPC―100の兄弟ではあっても、師や神や手本ではありえなかった。マッキントッシュの画面が白黒の小さなものにとどまっていることを考えれば、アプリケーションを開発する対象としてPC―100は充分に魅力的だった。もともと小さな画面を、メニューバーを常時表示しておくことで、マッキントッシュがなおいっそう小さくしている点にも、納得がいかなかった。
 一九八四(昭和五十九)年二月、竹松たちは藤井展之を社長に、株式会社ダイナウェアを正式に設立した。大阪府豊中市のビルの一室に借りた事務所で、竹松はお絵かきソフトの開発にはまり込んだ。
 アートマスターと名付けられたお絵かきソフトは、この年の四月、再びシステムソフトから発売された。
 当初はシステムソフトからの販売という形をとってスタートしたダイナウェアだったが、藤井は自社ブランドへの切り替えを早急に進めたいと考えていた。ターゲットは、発表済みの二次元と三次元のグラフィックス製品の強化版に置き、三人のエンジニアは間をおかずに開発作業を進めていった。
 彼らはPC―100をパーソナル・ダイナミック・メディアとして成立させる試みに賭けていた。
 だがダイナウェアが魂を吹き込もうと試みたPC―100は、そのときすでに未来を失いかけていた。

大内淳義
元祖パソコン部隊に終戦を命じる


 一九八三(昭和五十八)年秋、PC―100とPC―9801Fの発表から間もなく、日本電気会長小林宏治は、会長室に副社長の大内淳義の訪問を受けた。
 大内の肩の線に、小林はすこしこわばったような印象を受けた。
「半導体はパソコンから手を引かせようと思います」
 結論から切り出した大内の言葉を耳で追いながら、小林はさすがに驚きが眉根を寄せさせるのを抑えられなかった。
 情報処理事業グループと新日本電気という二つの〈新参者〉からパーソナルコンピューターへの参入の意向が示された時点で、大内にこの分野を独り占めするつもりのないことは承知していた。
 日本電気のパーソナルコンピューターは、大内の担当する電子デバイス事業グループから生まれ育った。マイクロコンピュータ販売部の渡辺和也に暴走気味の挑戦を許し、奔馬に手綱をかけながらも思い切った決断でここまで新しい事業を伸ばしてきたのは大内だった。パーソナルコンピューターは、大内の財産だった。その財産を独占する意志がないことは、情報処理に一六ビットの事務用機を委ね、新日本電気に家庭用の八ビット機を譲り、半導体は両者の中間を行くという方針を大内が自ら打ち出した段階ですでに明らかだった。
 だが大内はさらに、その財産を完全に手放すのだという。
「これ以上進んでしまってからでは調整が難しくなる。修整するなら今でしょう」
 大内は淡々とそう言った。
「となれば、どう考えてみても半導体に手を引かせるのが最善の手としか思えない。そしてこの決断は、私から申し出る以外にないと考えたわけです」
 視線を起こして眼鏡の奧の大内の瞳をのぞき込み、いつもどおりの静かな色を確認した小林の胸に、小さな安堵の火が灯った。
 小林はそのとき、いつか大内から聞かされたサマセット・モームの言葉を思い出していた。
 海軍の初級士官時代、のちに安川電機製作所の会長を務めることになる安川敬二から手ほどきを受けて以来大内が病みつきとなったコントラクトブリッジを、モームは「人間が考え出したもっとも知的なゲーム」と称したのだという。その後もこのトランプゲームを愛し続け、国際的な称号を与えらるほどの名人となった大内は、その魅力を「推理力と記憶力、加えて相手の心理を読みとる洞察力が求められ、運の要素が小さいこと」と評していた。
 目の前で半導体のパーソナルコンピューターからの撤退を申し入れる大内の目には、コントラクトブリッジの名人の冷徹な理知の色が浮かんでいた。
 大内は情報処理のPC―9801と電子デバイスのPC―100のあいだに生じた鋭い緊張関係に、社内抗争の兆しを感じとったのだという。
 新日本電気がPC―6001でパーソナルコンピューターに乗り込んでくるにあたっては、半導体側に強い警戒感があった。当初の計画では、PC―6001にはシステム全体としての処理速度を高めるためにマイクロコンピューターを三個組み込み、PC―8001用のアプリケーションをそのまま走らせることのできるベーシックを採用することになっていた。だが、自分たちのPC―8001と一〇〇パーセントの互換性を持ったより強力でより安価なマシンという設定に、渡辺は至極当然にも強い反発を示した。激しいやり取りの末、PC―6001はマイクロコンピューターを二個組み込み、一部PC―8001との互換性を欠いた、一〇万円を切るマシンとしてデビューすることになった。
 電子デバイスと新日本電気のあいだで厳しいやり取りがあったことを見てきた情報処理は、PC―9801の性格付けとプロジェクトの進行状況を徹底的に伏せて走った。
 ふたを開けてみて、PC―9801がPC―8801の互換機として仕上げられたことを知った電子デバイスの受けた衝撃は、それがもっとも確実な選択肢であることを承知していただけに、なおいっそう大きかった。
 システム100の最下位機種をパーソナルコンピューターとしてデビューさせるというプランを発表の直前になって捨て、急遽突貫工事でPC―9801の開発を進めているあいだ、電子デバイスが独自の一六ビット機に着手しているという情報を得た情報処理は、もう一つのマシンに先を越されることを恐れた。いち早くPC―9801を市場に送り出してからも、情報処理は斬新な設計思想を取り入れているらしいもう一つの一六ビット機に、強い警戒感を抱き続けていた。
 関本と大内の判断で同時発表となったPC―100とPC―9801Fが市場に出たこの年の十月以降、両者間の緊張は頂点に達した。
 いずれ事業体制の整理を迫られることは覚悟していたが、大内はこれまで、三つのグループの競い合いは全体として日本電気のパーソナルコンピューター事業を活性化すると考えてきた。PC―100の詳細を渡辺は大内にも伏せ、開発があらかた完了した時点でPC―9801との設計思想の違いやソフトウエアのバンドルといった相違点を強調して承認を求めた。あえてそれを受け入れたのは、しのぎを削るライバルを社内に持つことが、結果として日本電気のパーソナルコンピューターを強くすると踏んだからだった。
 だが両機の発表の直後、特約店やマイコンショップを訪ねる中で幾度か耳にした声は、自分自身に与えてきた猶予の見直しを大内に迫った。
「このままでは日本電気内に派閥が生まれ、特約店、マイコンショップまでが系列に分かれて抗争を演じることになるのではないか」
 そういぶかられたときには、理をもって相手を説得できる自信が持てなかった。片方のマシンをかつぐ側がショップを訪れ、もう一方のマシンのポスターをはがして代わりに持参してきたものを貼るよう求めたと聞かされたとき、大内は覚悟を決めた。
 半導体はこの分野から手を引き、パーソナルコンピューターは情報処理に任せる。ただし八ビットのホビイマシンだけは、新日本電気から社名を変更していた日本電気ホームエレクトロニクスに担当させる。
 この新しい枠組みを整えるために、大内は「すぐに機構改革に着手したい」と小林に申し出た。
 強力なコンピューターの専門部隊を抱える日本電気が、目覚ましい成長の勢いを見せはじめたパーソナルコンピューターをさらに伸ばしていこうとすれば、餅は餅屋に任せることが素直な選択であることを、小林もまた承知していた。だが半導体には、まったく先の見えなかった段階から自力でここまで新しい種を育ててきた功績があった。「パーソナルコンピューターは情報処理に」という正論を大内に向かって吐くことは、関本にも、そして小林にも気が重かった。
「ふーん、そうか」
 小林はただそう答え、「君がそれでいいならいいよ」とだけ続けた。
 社長室で大内の提案を聞いた関本忠弘は、口元をへの字に結んだまま膝を乗り出して強く頷いた。
 事前に方針を明かすことで抵抗の芽が頭をもたげることを恐れた大内は、機構改革の方針を支配人の渡辺和也にも伏せ、この一件に関しては発表の直前になって言い渡す形をとった。
 十二月五日の早朝、東京には雪あられが降った。
 日中はきれいに晴れ上がったが、気温は平年並みには届かず、かろうじて一〇度を超えるにとどまった。
 この日、日本電気はパーソナルコンピューター事業の組織変更を正式に発表した。
 新聞記者の質問に答え、大内は組織変更の意図を「パソコンの製品系列の拡大に伴い、開発、販売を担当するホームエレクトロニクス、電子デバイス、情報処理の三グループの事業戦略が重複しはじめてきた」ためと、正直に答えた。
 一九八一(昭和五十六)年四月、三つのグループの調整機関として設けられたパーソナルコンピュータ推進本部とパーソナルコンピュータ企画室の二つのセクションは、体制変更後いっそう強化されることになった。
 特にパーソナルコンピュータ販売推進本部には販売戦略の策定や外部との交渉の権限が集められ、マスコミへの対応も含めて、同社の関連事業のインターフェイスはこの組織に一本化された。
 パーソナルコンピューターは情報処理に任せるという組織変更の狙いに沿って、事業の中核となるこの組織の長には、浜田俊三が選任された。
 組織的にはなお、担当役員の大内の下に支配人の渡辺が位置し、パーソナルコンピュータ販売推進本部長の浜田は彼ら上司の監督を受ける立場にあった。
 ただし言いだしっぺの大内も含め、トップの意志は情報処理への事業の移管にあった。
 これまで電子デバイスでパーソナルコンピューターに携わってきたスタッフのうち、後藤富雄をはじめとする開発担当者は日本電気ホームエレクトロニクスに出向となった。それ以外の販売スタッフは、パーソナルコンピュータ販売推進本部に異動した。
 日本電気にパーソナルコンピューターの種をまいた、大内と渡辺と後藤の三人の主役は、舞台を去ってはいなかった。
 だが自分のコンピューターを思いのままに作りたいという後藤の夢と、社内ベンチャーを巻き起こしてのし上がろうとする渡辺の熱と、硬直しがちな大組織を彼らの挑戦によって活性化させたいという大内の理との調和を核とした第一楽章の主題は、伝統的なコンピューター事業の枠組みに異端のマシンをいかに融合させるかという第二楽章のテーマに、このとき、きっぱりと取って代わられた。
 スポットライトを浴びて舞台中央に進み出た浜田をはさみ、渡辺と後藤たちとは上手と下手に切り離された。
 日本電気のパーソナルコンピューター事業の主役は、PC―9801を立ち上げ、販売推進本部長となった浜田俊三に入れ替わっていた。

PC―9801の栄光と
PC―100の静かな死


 まったく同じ性能のマイクロコンピューターを使いながら負担の軽いテキスト処理を中心にしたPC―9801と、はるかに負担の重くなるビットマップ処理に全面的に乗り出したPC―100を比較すれば、こと文字や数値の取り扱いに関する限りPC―9801ははるかに速いマシンだった。同じ漢字を扱うにしても、PC―9801が二バイト(一六ビット)のコードで扱ってすむところを、縦横一六ドットの点の集まりによってグラフィックスとして扱うPC―100では、一六×一六で二五六ビットと、それだけで一六倍の情報量として扱わざるをえなかった。
 こうした桁違いの負荷がかかることを踏まえ、PC―100には高速化のためのさまざまな回路上の工夫が盛り込まれていた。ただしそれでも、PC―9801に比べればテキストの処理には大きな差がついた。アルト型の操作環境がもたらす使い勝手の改善や、グラフィックスや音を取り込んだメディアとしての発展の可能性を、期待値も込めて積極的に評価しない限り、PC―100は確かに、性能の劣った遅いマシンと評価されかねない一面を持っていた。
 後藤や西や松本は、思いのみたしきれなかった点を残してPC―100の初代機の仕様を固めざるをえなかった時点から、すぐに改良に着手すべき点を確認しあっていた★。

★一九八三(昭和五十八)年三月、GUIをとりあえず先送りすると決定した時点で、TRONの開発チームは二段階からなる将来計画を持っていた。短期的な目標は、同年度末までにPC―100にGUIを間に合わせ、マルチツールのアプリケーションをそろえるところに置いた。もう一方で、チームはマシン自体を強化する計画を立てていた。
 スーパーTRON、もしくはX―2と呼ばれた次期機種には、8086―2(八Mヘルツ)二個、または80186(一〇Mヘルツ)を一個搭載し、白黒の解像度は一〇二四×八〇〇ドットに引き上げることが目指された。同月、日本IBMは日本語ワードプロセッサーと端末の機能を合わせ持つマルチステーションと位置づけて、5550を発表していた。開発チームはX―2で、5550を叩こうと考えた。
 チームはさらに、X―3と名付けた上位機種を、マイクロソフト版のUNIXであるXENIXをベースに開発しようと計画していた。X―2は、このX―3に接続されるワークステーションとしても機能するとされていた。68000ボードをオプションに用意することで、X―2自体によるXENIXへの対応も目指された。チームはX―2、X―3の主要な市場として、アメリカを視野におさめていた。

 標準装備を見送ったネットワークの機能を付け、フロッピーディスクを大容量化し、ハードディスクを付けた機種を用意する。さらにより速いマイクロコンピューターを採用し、グラフィックスの処理をいっそう早めるためのアクセラレータを開発する。
 そして何よりも、本来PC―100という体に吹き込む魂だったはずのWindowsを早急に載せる。
 だがPC―9801の立ち上げの先頭に立ったあと、パーソナルコンピューター全体の販売促進に責任を持つポジションについていた浜田俊三は、PC―100を前にして当惑していた。
 グラフィックスはもちろん、テキストまでビットマップで扱うという方式は、浜田の目には8086の処理能力を無視した選択と映った。PC―100がアップルのリサと同じ方向を目指しながら、GUIを欠いたまま発表されたことにも、納得がいかなかった。PC―100の目指した世界を、視覚的操作環境を欠いた現状で実現しようとすれば、個々のアプリケーションごとにサードパーティーがGUIを作り込んでいかざるをえなかった。そのために必要な力量と投資を日本のソフトハウスに求めることは、あまりにも非現実的であると思えた。とすれば現実には、PC―100はMS―DOSマシンとして生きざるをえない。だが浜田はこれまで、アプリケーションへのOSのバンドルという秘策によって、PC―9801をMS―DOSマシンに変身させようと全力を挙げていた。
 MS―DOSマシンとして成功させるためのエネルギーを、共倒れの危険を冒してPC―100に振り分ける意欲を、浜田はまったく持たなかった。
 
 社内の強力なライバルの命脈を静かに断ったあとも、開発と販売の戦力をPC―9801に一本化して打倒するべき敵は社外に数多く控えていた。
 スタートのタイミングでPC―9801に先行した三菱電機のマルチ16は、浜田自身が発表の直前になって捨てたオフィスコンピューターの最下位機種としての性格を色濃く残していた。
 三菱電機は自らの手で日本語ワードプロセッサーを開発したほか、自社のオフィスコンピューターで使われてきたさまざまなアプリケーションを移植して豊富なソフトウエアのリストを誇示した。サードパーティーの開発を積極的に後押しし、個人ユーザーを狙ったPC―9801に対し、オフィスコンピューターを引きずったマルチ16は、従来型の文化の枠組みの中で望みうる成長しか達成できなかった。
 PC―9801の発表の五日後、一九八二(昭和五十七)年十月十八日に東芝が発表し、翌年の二月から出荷を開始したパソピア16は、MS―DOSをいち早く本線に据えて標準装備し、グラフィックスを強化した先進的なマシンに仕上がっていた。
 フロッピーディスクが常識となる時代を先取りして、六四〇Kバイトの五インチドライブを最小構成でも一台持たせると踏ん切ったパソピア16は、MS―DOSマシンとして立ち上がり、GWベーシックもフロッピーディスクから読み込む形をとった。自分自身、PC―9801の基本路線とするべく腹をくくっていたMS―DOSを前面に押し出し、アナログRGBを採用して六四〇×五〇〇ドットで二五六色中から任意の一六色を表示できる強力なグラフィックス機能を備えたパソピア16に、浜田は強い警戒感を覚えた。だがパソピア16は、勢いを引き継ぐべき八ビットの遺産に乏しかった★。

★後にIBM PC互換のラップトップ機で躍進を遂げる東芝のパーソナルコンピューターの開発チームは、一九七八(昭和五十三)年二月にメインフレームからの撤退の発表に追い込まれた大型の部隊にルーツを持っていた。当時大型機の開発部長を務めていた溝口哲也らは、日本電気と組んで開発してきたACOSシリーズからの撤退が近づく中で、生き残りをかけて二つのプロジェクトを進めた。
 一九七七(昭和五十二)年十月から、ミニコンピューターをベースに試作機の開発に着手した日本語ワードプロセッサーの専用機は、一九七九年二月には他社に先駆けて発売できた。さらにもう一方で彼らは、日本語ワードプロセッサーと同じ時期から八ビットのパーソナルコンピューターの開発に着手していた。
 アップルIIをライバルとして想定し、インテルの8085を使ってカラーに焦点を絞ったマシンはT―400と名付けられていた。一九七八年三月に西ドイツのエレクトロニクス関係のフェアー、ハノーバーメッセで発表されたT―400は注目を集めた。続いて七月にシカゴで開かれたコンシューマー・エレクトロニクス・ショーに展示してからは、テキサスインスツルメンツをはじめとするアメリカの各社からOEM供給の引き合いがあった。しかしOEMに関しては条件面での話し合いがつかず、日本での事業化にもトップの了承が得られないまま、東芝は日本電気のPC―8001に先駆けて本格的なパーソナルコンピューターを市場に問うチャンスを逃した。
 一九八〇(昭和五十五)年十月、東芝はオフィスコンピューターの最下位機種との位置づけでBP―100と名付けたマシンを発表したが、一四〇万円の八ビット機はパーソナルコンピューターの台頭の流れには乗れなかった。一九八一年十月、東芝はZ80を使ったパソピアを発表し、翌年一月から出荷を開始して遅ればせながら本格的な参入を目指した。だが三菱電機は同月から、初の一六ビット機となるマルチ16の営業をスタートさせ、一九八二年の四月からは出荷を開始した。そして同年の十月、日本電気は互換ベーシックによって八ビットの勢いを引き継ぐPC―9801の発表を行った。パソピア16はその後のパーソナルコンピューターの進化を先取りした強力なマシンに仕上がっていたが、勢いと継ぐべき資産でPC―9801に差をつけられた。さらにアプリケーションの開発促進をめぐるさまざまな戦術の積み重ねによって、その後、日本電気にいっそう差を広げられていった。

 浜田がもっとも警戒感を募らせたのは、富士通が開発を進めているという新しい一六ビット機に関する情報を入手した一九八四(昭和五十九)年の秋だった。
 従来の同社のパーソナルコンピューターと同様、半導体が本業の電子デバイス事業本部による、ベティとコードネームで呼ばれたマシンは、情報によればCP/M―86をメインのOSとし、グラフィックスを機能強化しているとのことだった。
 ベティのスペックで浜田がもっとも恐れたのは、このマシンが一Mバイトの五インチドライブの採用を予定していた点だった。
 PC―9801Fを発表し、即日販売を開始した直後の前年十一月、日本電気は主に八インチをつなぎたいというユーザーを想定して、Fから五インチのドライブをはずしたEと名付けた廉価版を発表していた。
 一方本線のFの延長線上には、この年の九月、一〇Mバイトのハードディスクを内蔵し、メモリーを二五六Kバイトに増やしたF3を発表したばかりだった。
 PC―9801シリーズの五インチドライブが六四〇Kバイトにとどまっている中で、富士通に一Mバイトで差をつけられることを恐れた浜田は、急遽府中の技術陣に大容量版のドライブの開発を求めた。与えられたきわめて短い期間では従来の六四〇Kバイトの読み書きも可能な一Mバイトタイプは作れないと府中が首を横に振った段階で、浜田は従来との互換性は犠牲にしても一Mバイト版を間に合わせるように指示した。この年の十一月、日本電気は一Mバイトのドライブを二台組み込んだM2の発表に踏み切った。ドライブの新しい容量を強調するためにこのシリーズはMと名づけられ、FM―16βとして十二月に発表された強力なライバル機のイメージの希薄化に成功した。
 富士通はその後も、電子デバイスグループによるFMシリーズと、メインフレームの端末の性格を備えた大型グループによる9450シリーズとの統合に手間取った。加えてメインのOSとしてCP/M―86を選択したことは、出遅れを取り戻してPC―9801を追おうとした富士通にとって、その後大きなマイナス材料として機能した。
 
 FM―16βに備えたこの時期、日本電気は日本IBMの〈世界標準機〉による挑戦も受けることになった。
 かつて日本市場に初めてパーソナルコンピューターを問うにあたって、日本IBMはPCとはまったく異なる、独自のアーキテクチャーを選んでいた。アメリカ市場で大成功したPCをそのまま日本語化するという道は、一つの選択肢たりえた。だが日本市場には、漢字という大きな課題があった。
「PC―9801などの採用した一六×一六ドットでは略字を採用せざるをえない。だが、漢字はやはり二四×二四ドットで正しく表現するべきだ」
 そう考えた日本IBMは、一九八三(昭和五十八)年三月に発表した5550の開発にあたり、一〇二四×七六八ドットの高解像度規格を採用した。パーソナルコンピューターとしての機能に加え、日本語ワードプロセッサーと大型の端末としても利用できる一台三役を謳い文句に、オフィス用の高価格マシンとして5550を軌道に乗せた日本IBMは、次に狙いを定めた家庭市場では一転してPCシリーズとの互換路線を選んだ。
 米IBMは急成長を遂げたPCの上位機種として、ハードディスクを内蔵したXTを一九八三年三月に発表する一方で、同年十一月、低価格版のPCジュニアをアナウンスした。同社のPCシリーズはこれにより、最上位のXTと中位のPC、そして廉価版のPCジュニアによる三本立て体制となっていた。
 日本IBMは、家庭市場をターゲットとした新機種では一転して、ジュニアを日本語化しようと考えた。
 PCシリーズが一六ビットの標準機としての地位を揺るぎなく固め、さまざまなアプリケーションや増設ボードがPC用につぎつぎと開発される中で、これらの資産をそのまま利用できる日本語版を用意することは、長期的な視野に立てば、日本IBMにとってじつに魅力のある当然の選択だった。
 だが新機種がなぞる相手として選んだジュニアは、市場の棲み分けを狙ってPCとの互換性が制限された点が障害となって、アメリカ市場で苦闘を強いられた。
 世界標準に沿うことの可能性となぞったお手本の不振という相反する二つの要素を抱えた新機種は、IBM PC/JXと名付けられ、一九八四(昭和五十九)年十月に発表された★。

★マイクロコンピューターには五Mヘルツの8088を使い、三・五インチのドライブを採用したジュニアをベースにしたJXは、ROMのカートリッジを差し込むスロットを二つ用意している点でも本家と同様の構成をとっていた。本体の前面下部にあるこのスロットにROMカートリッジを差し込んでBIOSを切り替え、日本語と英語の両モードに対応するJXは、英語モードではジュニアのアプリケーションをそのまま走らせることができた。
 ただしハードウエアの一部には、独自の仕様に改められている点もあった。アメリカで批判の集中したキーボードが品質の高いものに替えられていたほか、増設ボードのコネクターが変更されていた。このためせっかく世界標準に沿ったはずのJXは、ジュニア用のボードを組み込むことができないという中途半端な互換性しか提供できなかった。

 結局のところ、アメリカのソフトウエアを引き込む受け皿となりえたはずのJXは、ジュニアが惨敗を強いられる中で、せっかくの日英バイリンガルマシンとしての性格を生かせなかった。純粋に日本のパーソナルコンピューターとして限定して見れば、JXは8088という時代遅れのマイクロコンピューターにこだわった、安いだけのマシンと受け取られかねなかった。
 ディスクなしの最小構成で一四万五〇〇〇円。ディスク二台、一二八KバイトのRAMで二八万五〇〇〇円という価格にのみ対応する必要を感じた浜田は、JXの発表の直後から製品寿命を終えかかったPC―9801Fの仕切り値を大幅に下げて店頭の実勢価格を低めに誘導することで、日本IBMの出鼻をくじけると考えた。
 
 JXの発表を前にして、日本IBMはサードパーティーに強力な働きかけを行い、アプリケーションの確保に努めていた。だがPC―9801よりはむしろPC―8801を叩くべく送り出されたJXは、一六ビット化の大きな波に呑まれて大惨敗を喫した。
 一九八四(昭和五十九)年八月にアメリカ市場でXTの上位機種として発表されたATは、マイクロコンピューターに80286を採用し、グラフィックスやバスの機能を大幅に強化して、その後長く生き続ける標準アーキテクチャーを確立するマシンとなった。
 このATをベースに日本語機能を付け加えたマシンを開発し、世界のアプリケーションと増設ボード、周辺機器の資産を背景にPC―9801に対抗していくというシナリオは、日本IBMにとってじつに素直な選択肢となりえたはずだった。
 だがJXの惨敗は、日本IBMの手を完全に縮こまらせた。
 PCの日本語化は、世界市場でPC互換のラップトップを成功させた東芝の逆輸入版J―3100や、マイクロソフトの日本法人がリーダーシップをとったAXと名付けられたプロジェクトによって側面から進められることになった。
 日本IBMがATの日本語化という最後の希望にかけて攻勢に転ずるのは、じつに一九九〇(平成二)年の十月にまでずれ込んだ。
 同月、新機種用としてマシンと同時に発表された日本語DOS4・0/Vと名付けられたMS―DOSの新バージョンは、特別な日本語化のためのハードウエアを必要とせず、ソフトウエアによってのみ日本語機能を実現する形をとっていた。漢字や仮名をテキストモードでコードとして扱う代わり、グラフィックスとして扱うという、かつてPC―100が採用した方法をとったDOS/Vは、世界中に広く普及したATとその互換機をまるごと日本語マシンに変身させる道を開いた。
 だがソフトウエアだけでATを日本語化するという道を選ぶことは、日本IBMにとっても容易な選択ではなかった。
 コンパックをはじめとする互換機メーカーの攻勢にさらされたIBMは、一九八七年四月には従来のPCのアーキテクチャーをごく一部のマシンを除いて切り捨て、特許によって保護したMCA(マイクロ・チャネル・アーキテクチャー)と名付けた新しい体系への転換を図って互換機陣営を振り切ろうと考えた。
 IBM全社の製品構成との関連を考慮せず、独立した遊軍的な組織によって短期間に仕立て上げられたPCへの反省を踏まえ、PS/2と名付けられた新しい製品には、メインフレームを頂点とする階層構造の中で、長く育てながら使い続けることを前提とした先進的な技術が盛り込まれていた。
 だがアルテアが生まれて以来、パーソナルコンピューターの発展にとって欠かすことのできない条件として機能してきたオープンアーキテクチャーに背を向けたPS/2は、IBMが期待したほどの成果を上げることができなかった。IBMが切り捨てたあとも、ATは業界の標準アーキテクチャーとして生き続けた。マイクロコンピューターや周辺機器の高速化、グラフィックス処理に対する要求の増大といったその後焦点化する課題に応えるうえで、ATはさまざまな技術的問題点を抱えていた。それでもパーソナルコンピューター産業の基調は、ATをベースに新しい改良技術を盛り込むという路線にとどまり続けた。
 そのIBMの子会社である日本IBMにとって、DOS/Vはけっして快適な選択ではありえなかった。
 IBMがいったんは決別したはずのATに舞い戻り、しかもこの土俵を捨てる大きな要因となった互換機勢力と手を組んで日本市場に突破口を開こうとするDOS/Vは、痛みを伴う決断を日本IBMに求めた。たとえこの戦略が成功を収めたとしても、長期的に見ればPCで互換機勢力に挑まれたと同様の厳しい競争が先に待っていることも目に見えていた。
 だがPC―9801の市場支配は、日本IBMに捨て身のDOS/Vを選択させるほど圧倒的だった。
 
 東京の夜を彩る街の灯の数だけ使われる日本語ワードプロセッサーを、PC―100越しに夢見たジャストシステムは、このPC―9801によって願いを成就させた。
 PC―100用にJS―WORDの開発を依頼したアスキーの古川享は、ジャストシステムのこの製品を単独の商品としてもヒットさせたいと考えた。東芝がパソピア16の上位機種として発表したパソピア1600用としてアスキーブランドから発売されたのに続き、JS―WORDはPC―9801にも移植された。一九八四(昭和五十九)年秋、開発中のJX用アプリケーションの準備に関して打診を受けた古川は、JS―WORDをこの新しいマシンにも移植したいと考え、ジャストシステムを日本IBM側に引き合わせた。
 だがジャストシステムは、8088という一世代遅れのマイクロコンピューターを使ったJXにGUIを組み込んだJS―WORDを移植することに魅力を感じなかった。むしろ浮川は、当初社内でプロトタイプの開発を進めていた光の延長上にくる、テキストベースのワードプロセッサーを開発したいと考えた。
 文字をグラフィックスとして処理するJS―WORDを開発した経験は、さまざまな表現の可能性やGUIへの関心をジャストシステムに植え付けた。そのもう一方で、文字を表示したりスクロールさせたりといったワードプロセッサーの基本的な機能に、この方式ではあまりにも大きな負荷がかかることを浮川たちは痛感させられていた。
 さらにアスキーの陰に回っていることに、浮川はしだいにいらだちを募らせるようになっていた。製品に関する批判や疑問を投げかけられても、ジャストシステムには正面切って答えることができなかった。ユーザーからの使用感に関する報告や不満の声を直接聞けないでいることも、製品改良の方向を見極めるうえでは問題だった。ジャストシステムのワードプロセッサーとの意味を込めてJS―WORDと名付けたものをアスキーが商標登録してしまったことや、ロイヤリティーの支払条件に関しても不満があった。
 自社ブランドへの切り替えと、テキストベースの新しい製品の開発という二つの目標を据えていた浮川は、JS―WORDの移植を打診された日本IBMのJXを、突破口を開くための機会として利用しようと考えた。
 JS―WORDに組み込んだ仮名漢字変換モジュールのKTISでは、文節ごとに変換を行う単文節変換方式をとっていた。だが、JX用に開発する新しいテキストベースの製品では、文章単位でカタカナも含めて一気に変換してしまう連文節変換まで機能を拡張し、これをATOK3と改名することとした。ユーザーインターフェイスに関してはマイクロソフトのマルチプランにならい、画面下にメニューを並べる方式を採用した。
 MS―DOSをベースにして書くことは、当然の流れとして引き継いだ。
 JXと同時に、一九八四(昭和五十九)年十一月に発表されたジャストシステムの日本語ワードプロセッサーは、jX―WORDと名付けられた。
 JS―WORDの移植を断ったはずのジャストシステムが独自の製品を発表することを承知していなかったアスキーは、彼らの独り立ちに向けた試みを快く思わなかった。
 浮川自身は一挙に自社ブランドに切り替えるよりは、アスキーブランドで製品を流し続ける一方で独自のマーケティングを徐々に進めていきたいと考えていた。だがアスキーから一〇〇パーセント流し続けるか、完全に切れるかの二者択一を迫られて、独立の道を選んだ。
 既存の製品の移植版がほとんどだったJX用のソフトウエアの中で、完全な新作だったにもかかわらずいち早く十二月には出荷にこぎ着けたjX―WORDは話題を呼んだ。
 池袋のサンシャイン60で開かれたJXの発表会で、早水潔は、自らjX―WORDの商品説明に声を張り上げている浮川和宣の姿を目にした。新聞や雑誌、各種の展示会などでPC―9801に載っていないアプリケーションを見つけた際は、すぐに開発元に飛んで、早水は移植を働きかけてきた。
「たとえ相手が他社の系列に染まっていても、ひるむことなく飛んでいって口説き落とせ」
 浜田のこの指示を忠実に守った早水は、開発に必要な技術情報を積極的に開示し、発売後は日本電気の展示会でブースを提供する、宣伝にも積極的に協力すると働きかけて、攻略にかかっていた。
 その早水の目の前に、ビジネスソフトの大本命であるワードプロセッサーの新製品が現われた。しかもPC―9801に対応していないこの製品は、喉から手が出るほど欲しいMS―DOS対応のアプリケーションだった。
 早水は説明の切れ目をうかがって浮川に声をかけた。
「PC―9801用なら、一枚のディスクにMS―DOSをバンドルしてもらうことができるんですよ」
 早水がそう切り出したとき、切れ長の浮川の目が重く光った。
 当初からjX―WORDをPC―9801に移植することを念頭に置いていたジャストシステムは、翌一九八五(昭和六十)年二月、jX―WORD太郎の名称でPC―9801版の発売を開始した。JX用では本体に付属したシステムディスクでMS―DOSを立ち上げ、そこからアプリケーションを起動せざるをえなかった。ところがPC―9801用では、一枚のディスクから一気に立ち上げることが可能になった。
 あらたに製品名に添えられた「太郎」には、惜別と希望の念を込めた。
 学生時代に家庭教師を務めた太郎少年が、大学生になって急逝したとの知らせを受けた浮川は、この年の元旦、健やかに育てとの願いを込めてジャストシステムの長男を太郎と名付けようと決めていた。
 
 ソフトウエア卸のソフトバンクがこの時期、各社の製品を平等に扱う中立主義からこれぞと狙いを定めた製品への重点化に方針を変更しようとしていたことは、jX―WORD太郎にとって追い風として機能した。
 アプリケーションの中心がゲームからビジネスへと移行していく中で、現場の担当者が高価な業務用ソフトを売るために必要な商品知識をあらゆる製品に関して持つことは、不可能だろうとソフトバンクは考えた。今後ビジネスの規模をよりいっそう拡大していく上では、複数の同系統のアプリケーションの中から最良と思われるものを選び、販売力を集中させるべきだと方針を転換した同社は、jX―WORD太郎をターゲットの一つとして選んだ。
 発売直後からのjX―WORD太郎の目覚ましい伸びに励まされながら、ジャストシステムは太郎の開発直後から取りかかっていた製品の改良作業に追われた。
 浮川たちはjX―WORD太郎の仮名漢字変換モジュールだけを切り離し、表計算やデータベースなどの他のMS―DOSアプリケーションを利用する際も、この変換モジュールを使える形をとりたいと考えた。日本語ワードプロセッサーのメーカーにとって、製品の優劣を分けるがゆえに全力で機能の向上に努める変換モジュールを、他社のアプリケーションで利用できるようにすることには抵抗感もあった。だがすべてのアプリケーションで、ワードプロセッサーで使っているのと同じ辞書が利用でき、同じ操作方法で日本語が入力できるとなれば、ユーザーの使い勝手が著しく向上することは間違いがなかった。
 JS―WORDをきっかけとしてジャストシステムと提携したアスキーは、KTISをマルチプランをはじめとする同社のアプリケーションに組み込んで、変換モジュールを共通化することのメリットをすでに実証していた。当初からOSに漢字システムを組み込むことを理想としていた浮川は、アスキーとの提携解消後、この路線をさらにもう一歩推し進めた。
 jX―WORD太郎の開発完了直後から四か月計画で進められた改良の作業を、ジャストシステムは結局六か月で終えた。
 一九八五(昭和六十)年八月にPC―9801用として発表された〈一太郎〉と名付けられた製品が、ATOKと名前を付け替えられた変換モジュールを他のアプリケーションでも利用できる構造を採用していた点は、高い評価を受けた。
〈日本語ワードプロセッサ〉を改良して、一九八三(昭和五十八)年十二月、管理工学研究所が〈松〉として発表した製品は、長めの文章を一気に変換してしまう拡張文節変換方式と、従来の水準を大きく上回る動作速度によって、反響を呼んだ。ディスクベーシックによって書かれた松は一二万八〇〇〇円という高い価格設定にもかかわらず、ワードプロセッサーの本命の座を一気につかみ、結果的にMS―DOSの普及にブレーキをかけた。だが五万八〇〇〇円の定価で、MS―DOSの流れに乗って登場した一太郎は、一気に松を追い落とした。
 アプリケーションへのバンドルによって、PC―9801を静かにMS―DOSマシンに転換させるという浜田の戦略の歯車は、一太郎の成功以降、目覚ましく回りはじめた。
 
 ベーシックをベースとして成長したパーソナルコンピューターを、OSによってより合理的に使おうという試みは大きな成果を上げていった。
 さまざまな言語がOS上で使えるようになり、同じOSを使うことで、フロッピーディスクへの書き込みの形式がそろえられてファイルの互換性が確保された。異なったマシンで同じプログラムが使えるようになるという期待も、限られた形ではかなえられた。だがパーソナルコンピューターで主流となったOSが、CP/Mにしてもそれを引き継いだMS―DOSにしても、文字と数値だけを取り扱いの対象としたものだったことは、OSへの期待と現実になしうることを大きく乖離させた。
 より強力な機能を持ち、より速く、より使いやすいアプリケーションを書くことで目の前のユーザーを奪い合おうとするソフトハウスは、MS―DOSの不備をマイクロソフトが補うのを待とうとはしなかった。グラフィックスを対象としていないMS―DOSの上でより視覚的なアプリケーションを書こうとすれば、ハードウエアに直接指示を出さざるをえなかった。個々のマシンのハードウエアに即応した部分を含んでしまえば、同じMS―DOSを採用していても他のマシンでそのまま同じプログラムを使うことはできなくなった。
 マイクロソフトが約束するWindowsの供給は遅れに遅れ、他社のGUI環境も標準に駆け上がる勢いを示せないままグラフィックスを欠いたMS―DOSは生き続けた。そうした中で、急速に視覚的な方向に発展しはじめたプログラム資産を共有するために歴史の前に提示された選択肢は二つあった。
 第一は、一つのマシンしか作らないこと。そして第二は、一つのマシンしか使わないことだった。
 このいずれかの道を選んで土俵を一つに限定してしまうことによってはじめて、グラフィックスにはみ出していくソフトウエアを、MS―DOS上で効率的に共有することができた。
 第一の選択肢が選ばれた世界市場では、複数のメーカーがPC互換機という一つのハードウエアのみを作りはじめた。
 一方いかにして日本語の機能を実現するかがグラフィックスと並ぶもう一つの互換性の壁となった日本では、IBM PC互換は長く標準の基礎とはなりえなかった。代わって日本において歴史が選択したのは、PC―9801という一つのマシンだけを使うという解決策だった。
 初戦でPC―100を退けたPC―9801が、他社の一六ビット機から頭一つ抜け出してから、ソフトハウスは新しいアプリケーションをまずPC―9801用に書くようになった。こうなった段階では、日本語とグラフィックスが壁となってMS―DOS上でも互換性が確保できなかった点は、PC―9801にとって圧倒的な追い風として機能した。MS―DOSのアプリケーションへのバンドルという奇手は、PC―9801への排他的集中を猛烈に加速した。ユーザーはアプリケーションが豊富なうえに、新しいソフトウエアもまた一番はじめに登場するPC―9801に雪崩を打って集中し、そのことがソフトハウスのPC―9801重視によりいっそうの拍車をかけた。
 PC―9801が市場を独占しはじめた段階で、いくつかの競合他社は互換機によって対抗する可能性を繰り返し検討した。
 互換機開発のポイントは、ベーシックとBIOSにあった。技術情報が全面的に公開されているIBM PCでは、同社の権利を侵害することを避けて互換のBIOSを書くことには決定的な障害はなかった。互換BIOSを販売するフェニックステクノロジーズ社の誕生は、独自開発に必要な規模の大きな投資を不要にし、互換機メーカーの誕生に拍車をかけた。ベーシックに関しては、マイクロソフトがPC互換のGWベーシックを売っていた。
 一方BIOSを公開していないPC―9801では、互換版の開発の敷居は高かった。トムキャット社は互換BIOSの開発を進め、一時さまざまな角度から販売の可能性を探ろうと試みたが、日本電気の強い反発が予想されたために、商品化には弾みがつかなかった。さらにPC―9801に関しては、互換ベーシックの開発も大きな壁だった。
 だがいかに困難とはいえ、かつて古山良二をリーダーとする部隊が短期間に互換ベーシックの開発を成し遂げたように、二つの鍵となる基本ソフトの互換版を用意することは不可能ではなかった。
 セイコーエプソンは、この挑戦に打って出る覚悟を決めた。
 一九八七(昭和六十二)年三月、セイコーエプソンがPC―9801互換機を発表した段階で、日本電気はすぐさま、互換BIOSと互換ベーシックに著作権侵害があるとして法廷闘争に訴えた。独自に開発した互換ベーシックをマイクロソフトから著作権侵害として攻撃されたというPC―9801の誕生期のエピソードを思い起こせば、じつに皮肉なこの対抗措置がとられて以降、PC―9801互換路線をとる他のメーカーは現われなかった。
 互換性の要求に応えきれないMS―DOSという器が標準として生き続けたことで、PC―9801の市場独占は圧倒的なものになった。この一人勝ち体制は、歴史の跛行が生んだもう一つの取りあえずの勝者であるPC互換機がDOS/Vによって日本になだれ込んでくるまで、一九八〇年代のほぼ一〇年間、揺るぎなく続いた。
 
 街の灯の数だけ使われる日本語ワードプロセッサーを作りたいという浮川和宣の夢を、ジャストシステムが一太郎で達成する一方で、ダイナウェアは夜空に輝いて彼らに進むべき道を指し示すダイナブックのイメージをひたすら追い続けた。
 PC―100用に初めて開発した3Dマスターとアートマスターはシステムソフトから発売したが、この二つの強化版として企画した製品からは自社ブランドに切り替えた。一九八四(昭和五十九)年八月に発売を開始した二次元のお絵かきソフトの強化版、ダイナピックスは、これまでどおりPC―100の専用アプリケーションとして出した。だが、同年十一月の三次元のダイナパースからは、PC―100版とPC―9801版を同時に出荷する方針をとった。
 一方でPC―100が伸び悩んだまま後継機種の発表も見送られ、対照的にPC―9801がシリーズのラインナップを拡充して販売成績を伸ばす中で、ダイナウェアは否定した過去を引きずった機種にも対応せざるをえなかった。
 だがPC―100を伸ばすことに日本電気が意欲を持っていないことが明らかになってからも、ダイナウェアはアルト型の操作環境をいち早くMS―DOS上で実現することに目標を置き続けた。
 導きの星を追おうとすれば、販売台数は伸び悩んでいてもやはり、PC―100は最良の器だった。
 一九八四(昭和五十九)年十二月に出荷を開始した日本語ワードプロセッサー、ダイナデスクは、あくまで理想を追おうとする彼らの志を集中して表現した製品だった。
 分類するとすれば確かにワードプロセッサーに収めざるをえなかったが、ダイナデスクは日本語の文章を作るという従来のこのジャンルの製品の枠から大きく踏み出していた。
 図形や表組、スキャナーで取り込んだイメージなどを文章の中に取り込むことができ、二段組みや三段組みといった段組みも可能なダイナデスクは、文章を作るという機能を超えて、表現力の大きな文書を自由にレイアウトできる新しいジャンルに踏み出していた。グラフィックスモードにこだわり続けたことの成果は、プリンターからどう打ち出されるかをあらかじめ画面上で確認できるという特長に現われた。打ち出しの内容をあらかじめ確認できることで、ユーザーは画面上で手直しを繰り返してイメージどおりのレイアウトを固めてから、プリンターの電源を入れることができた。
 雑誌や書籍では、図表や写真が文章と自在に組み合わされ、表現力のあるページが作られてきた。
 今までは印刷物の中だけにあったこうした世界を、パーソナルコンピューターを使って表現しようとする分野は、デスクトップパブリッシングと名付けられ、マッキントッシュが推進役となってその後普及していくことになった。
 ダイナデスクで彼らがいち早く目指したものは、このデスクトップパブリッシングに他ならなかった。
 
 PC―100の発表の三か月後、アップルが発表したマッキントッシュは、当初、目標をはるかに下回る販売台数の低迷に苦しめられた。
 リサの流れを汲んだマックのGUIは、斬新なイメージを打ち出していた。一体型の小さなマシンのデザインには、顔を合わせるたびに挨拶を送りたくなるような愛らしさがあった。リサの九九九五ドルに比較すれば、二四九五ドルという価格も常識的だった。
 だがこのマシンには、容量四〇〇Kバイトの三・五インチドライブが一台組み込まれているだけで、メモリーも一二八Kバイトしか内蔵されていなかった。ディスクをコピーしようとすれば、一台しかないドライブ相手に、マシンの指示に従って黙々とディスクの抜き差しを繰り返さざるをえなかった。IBM PC用にたくさんのアプリケーションが用意されている中で、マッキントッシュで使えたのはバンドルされたマックペイントとマックライトを除けば、マイクロソフトのマルチプランだけだった。
 ゼロックスからアタリを経て、アップルフェローと呼ばれる顧問的な扱いでアップルに引き抜かれていたアラン・ケイは、初めての仕事としてマッキントッシュを評価することを求められた。
 彼はペプシコ社から移籍して社長となっていたジョン・スカリーあてのメモで、「一リットルのガソリンタンクしか持たないホンダ」とマックを評した。このマシンが自分自身の打ち立てたビジョンを汲んだ、「初めての批判に値するコンピューター」であることをケイは認めたが、一二八Kバイトのメモリーと四〇〇Kバイトのドライブ一台で市場に送り出されたことには、あくまで批判的だった。
 メモリーの必要量を増大させるグラフィックスの世界に踏み込みながら、RAMとドライブの容量を充分用意できなかった点は、PC―100とマッキントッシュに共通する欠陥だった。
 だがアップルの未来を一身にになったマックには、問題点に対処した後継機や上位バージョンを発表するチャンスが与えられた。
 そしてダイナデスクが目指したデスクトップパブリッシングが、マッキントッシュの突破口を開く役割を演じることになった。
 
 編集者を経て、出版のコンピューター化に携わっていたポール・ブレイナードは、マックの発表と前後して、所属していたソフトウエア会社の部門の廃止によって職を失った。仲間だった技術者四人に声をかけて、自らひねり出したデスクトップパブリッシングという新語を旗印にアルダス社を起こしたブレイナードは、ターゲットマシンにマックを選んだ。グラフィックスをベースとしてプリントアウトと同じイメージを画面に表示できるという特長は、デスクトップパブリッシングを実現していくうえで欠かすことのできない要素だった。
 ブレイナードにとっての幸運は、アップルが印刷機に迫るほどの美しいプリントアウトを提供するレーザー方式の高性能プリンターを、マッキントッシュ用に開発していたことだった。一九八五年二月にレーザーライターの名称で発表されたこの製品は、アルダスが開発中のページメーカと名付けられたソフトウエアの足下を固める役割を演じた。
 この年の七月に出荷開始となったページメーカーは、マックにとってのビジカルクとなった。
 
 ページメーカーをはじめとするグラフィックスの強みを生かしたアプリケーションの登場によって、マッキントッシュの視覚的な操作環境にあらためて幅広いユーザーが注目しはじめるもう一方で、マイクロソフトはWindowsを標準に押し上げることに手こずり続けた。
 GUIの標準を欠いたままMS―DOSが使われ続ける中で、PC―100を原点として歩みはじめたダイナウェアとジャストシステムは、ともに自分自身でWindowsに相当する環境を用意する道を選んだ。
 当初ダイナウェアは一つ一つの製品に操作環境を作り込んでいたが、インターフェイスを組み立てる仕掛けを基本ソフトの側に用意したマッキントッシュでは、異なったアプリケーションのあいだでも同じような統一的な使い勝手の流儀が生み出されていた。
 ツールボックスを用意し、ソフトウエアベンダーにインターフェイスのガイドラインを示すことで、アップルはマッキントッシュ用のすべてのアプリケーションに統一感を生み出そうと試みた。さらにマックペイントで描いた絵をマックライトの文章に簡単に貼り込めるといったデータの切り貼りの機能も、操作環境を基本ソフトに持たせたことによって提供されていた。
 一九八六(昭和六十一)年に出荷を開始したupシリーズの製品からは、ダイナウェアもあらかじめ開発したダイナウインドウと名付けた基本ソフトに対応させて個々のアプリケーションを書く道を選んだ。ジャストシステムが開発して一九八九(昭和六十四)年の一太郎Ver・4から組み込んだジャストウインドウの狙いも、操作感の統一とアプリケーション間の連携を高めることに置かれていた。
 アプローチは違っていた。
 だがパーソナル・ダイナミック・メディアという鮮烈なイメージに一度撃たれた者たちはみな、同じ彼方の光を追い求めた。
 
 ジャストシステムの浮川和宣は、彼らをアスキーと結びつけるきっかけを作った三洋電機のMBC―250というマシンと、彼らのデビューの足がかりとなったPC―100を同じ人物が作ったことを知らなかった。
 ダイナウェアの竹松昇は、自らのコンピューターへの傾斜を決定的なものとした手作りシステムの製作記事の書き手が、自分のために用意されたとした思えなかったPC―100の作り手であることを知らなかった。
 現実には彼らは一度として顔を合わせることはなかった。
 だが彼らすべては、コンピューターの歴史のある決定的な瞬間において志を共有した魂の兄弟たちだった。
 
 のちに振り返って大内淳義は、日本電気のパーソナルコンピューター事業に対してもしも自分に何らか貢献するところがあったとすれば、唯一それはあのとき、あのタイミングで半導体に終戦を言い渡したことだったろうと振り返る。
 アメリカにおいては、標準の存在の意義を嫌というほど示したPCと、先進性の可能性をまざまざと見せつけたマッキントッシュは、IBMとアップルという対照的なそれぞれの強みを持った二つの企業によってになわれた。一方日本では、PC―9801とPC―100という独自の可能性を持った二粒の種は、日本電気という一つの会社で芽を吹いた。
「PC―100を伸ばせば伸びたのだろう」
 だが限られた会社の力をあの時点で一つに結集しえたからこそ、PC―9801のあれほどの圧倒的な勝利が実現したと大内は今、考えている。
 一九九四(平成六)年六月、PC―9801は累計で八〇〇万台の出荷を記録した。
 
 そして歴史の歯車は、今も回り続ける。
 PC―9801の大成功が繰り返しスポットライトを浴び続けるその一方で、日本電気がPC―100を捨てたことの意味は、時代の風景が新しい色を帯びるたびに、魂の兄弟たちの心の中で繰り返し問い直されるだろう。

    

    

第二部 エピローグ 魂の兄弟、再び集う
一九八三 Windowsの約束が果たされた日

 スポットライトを浴びて闇の中から歩み出た西和彦は、聴衆の中のただ一人を求め、目を細めて視線を遊ばせた。
 最前列の中央に席を占めていた旧友と一瞬視線を合わせると、西は正面を向き直って口を切った。
「Windows3・1の完成と発表、本当におめでとうございます」
 少し鼻にかかったようななつかしい西の声が会場に広がっていったとき、壇上を見上げていたビル・ゲイツの肩がかすかに揺れた。
 一九九三(平成五)年五月十七日、新高輪プリンスホテル飛天の間に業界関係者と報道陣およそ二〇〇〇人を集めて、マイクロソフトはWindows3・1日本語版の発表会を催した。
 MS―DOSにGUIモジュールを提供するという遠い日の西の約束は、この日、一〇年の空白を経て果たされた。
「マイクロソフトのこうした会に、七年ぶりに出て参りました」
 そう続けた西は、小さな咳払いを一つ挟んだ。
 
 西和彦とビル・ゲイツの出会いは、アスキーとマイクロソフトの双方に大きな実りをもたらした。
 だがマイクロソフト副社長となってからも、西がまずアスキーの西であり続けたことは、二人のあいだに溝を残し続けた。
 一九八五(昭和六十)年の秋から株式の公開を真剣に検討しはじめたマイクロソフトは、事業体制整理の一環として、日本市場への取り組みを見直しはじめた。
 重要な契約は結んでいても、マイクロソフトとアスキーには資本関係はなかった。ゲイツは西にマイクロソフトの副社長というポジションを提供していたが、給料は支払っていなかった。「資本関係のない二つの企業から給料を受け取っていては、双方の利益が衝突したときに割り切れないだろう」との認識を、彼らは共有していた。
 ゲイツと西のあいだには、もっとも野心的なビジョンを共有できるかけがえのないパートナーとしての信頼があった。だがパーソナルコンピューター産業がすさまじい勢いで発展していく中で、業態をつぎつぎと拡大しながらかけ上ってきた西は、マイクロソフトとの提携を大成功させたあとも、変わり続けることをやめようとしなかった。「これまでROMやフロッピーディスクに収めていたソフトウエアを、シリコンに焼き付けた形でも提供していきたい」として、西は半導体事業に意欲を燃やした。一方ゲイツは、業態をあまりに急激に変化させることをためらった。
 新しいビジネスチャンスを貪欲につかみにかかる過程で、西はいくつかの問題を積み残しもした。
 強烈な個性を備え、じつによく似通った二人が手を結んで大きな成果を上げ続けるその一方で、両者のあいだには歪みもまた蓄積されていった。マイクロソフトの意向に一〇〇パーセント沿いうる子会社を日本にも作るべきだとする社内の意見に対して、西への共感と友情はゲイツの決断をためらわせ続けた。だが最終的には、一九八六(昭和六十一)年三月いっぱいの契約切れを機に、マイクロソフトはアスキーとの独占代理店契約の解消に踏み切った。
 同年二月十七日、マイクロソフトは日本法人のマイクロソフト株式会社を設立した。
 マイクロソフトの販売窓口では新しいものは作れないとして、西の再三の復帰要請を断ってきた松本吉彦は、彼が一人になって初めてアスキーに戻る気になった。
 だがこの事件をきっかけに、去っていったスタッフもいた。
 マイクロソフト日本法人の社長には、古川享が就任することになった。
 古川をはじめとするスタッフを引き抜かれた西は激怒し、以来ゲイツとは顔を合わせることはなくなっていた。
 
 別れを経験したのは、西とゲイツだけではなかった。
 日本電気にパーソナルコンピューターの種をまいた渡辺和也は、一九九〇(平成二)年六月二十七日付けで同社を退社し、七月二日、ネットワーク用ソフトウエアの雄、ノベルの日本法人の社長に就任した。
 日本電気の支配人と日本電気ホームエレクトロニクスの専務取締役を兼務していた渡辺和也は、移籍の一年前の夏、知り合いの『日経エレクトロニクス』誌の記者から書評の依頼を受けた。
 IBMにおいていかにしてPCの開発が進められたかをレポートした『ブルーマジック』(ジェイムズ・クポスキー/テッド・レオンシス著、近藤純夫訳、経済界、一九八九年)を読み進むうち、渡辺の脳裏には、後藤富雄がTK―80のプランをラフなスケッチにまとめて持ってきてからの燃えるような日々のさまざまな情景が、繰り返し繰り返しよみがえってきた。
 カリスマと一匹狼的な独立心を兼ね備えたフィリップ・D・エストリッジというリーダーのもと、ごく少数の独立したプロジェクトチームによって進められたPCの開発物語は、一〇年前、自分自身が主人公となって演じたドラマの筋立てをそっくりなぞっているように見えた。
 新しい何かの誕生を信じた少数のチームが、大企業の組織的枠組みからはみ出すことを承知で走りはじめる。時代の風がチームの背を押して予想を超えた手応えが返ってくるたびに、彼らの志気は高まり、やがて燃えるような集団はもっとも楽観的な予想をもはるかに超えた成功を手にする。だが一度彼らの切り開いた新しい世界の可能性が明らかになると、組織は彼らが一匹狼でいることを許しはしない。大企業の身中の一匹狼という自己矛盾をはらんだ存在が成功の階段をかけ上った先には、自らを切り刻んで組織の餌として捧げる宿命が待っている。
 PCのプロジェクトチームはいったんは、エントリーシステムズ事業部(ESD)として組織的な位置づけを与えられる。だが一九八五年一月、組織性と規律というIBM精神の申し子であるジョン・F・エイカーズが最高経営責任者となると、エストリッジは形式的には昇進の形を取りながらも更迭され、ESDは大型コンピューターを骨格とする伝統的な同社の事業組織の中に吸収される。
 パーソナルコンピューターからメインフレームまで、全製品ラインの統合を目指したエイカーズのもとで、IBMはPC/ATを切り捨て、PS/2への移行を目指した。
 一方日本電気においては、情報処理へのパーソナルコンピューター事業の全面移管のあとも、渡辺和也は担当の支配人として、形式的にはこの事業を管轄する立場にあった。
 だが、一九八四(昭和五十九)年七月に情報処理担当の役員が大内淳義から大型本流の水野幸男に代わると、渡辺の孤立は深まっていった。
 大内淳義から水野幸男への交代はもう一方で、社内の競争を勝ち残った情報処理事業グループの体制をも大きく揺るがした。
 東京工業大学工学部で応用数学を専攻し、一九五三(昭和二十八)年の日本電気入社以来、大型コンピューターの基本ソフト一筋にキャリアを積み重ねてきた水野は、コンピューターの価値の源泉がハードウエアからソフトウエアへと移行してきたことを強く意識していた。
「まず目的にかなったアプリケーションを探し、それからそのソフトウエアが走るハードを見つけてくる」
 時代はこうした流れに向かうだろうとの認識を持っていた水野は、より幅広いアプリケーションを使えるようにするために、複数のOSを切り替えて使うことがパーソナルコンピューターでも当然になると読んでいた。こうしたマルチOS環境を用意することが、日本電気にとってもっとも大きな課題となると考えた水野は、この分野を最大の収入の源泉とするべきだろうと踏んだ。
 さらに水野は、パーソナルコンピューターは今後大型コンピューターと連携して使われるようになり、大型を持っているメーカーこそがこの分野の市場をも制するようになると読んでいた。
 大型とパーソナルコンピューターのOSに連携機能を持たせ、そのメリットを表に立ててOSを売り込んでいく――。そう考えていた水野にとって、いかにマーケティング上の手法とはいえ、OSを無償でサードパーティーにライセンスしてアプリケーションのおまけ扱いする行為は、時代に逆行しているとしか思えなかった。加えて水野は、じっくりと話し合う機会を持ったゲアリー・キルドールに、ソフトウエア技術者としての共感を覚えていた。
 渡辺との激しいつばぜり合いの末にPC―9801を立ち上げた浜田俊三は、PC―9801のアーキテクチャーを完成させるVM★の発表の直前、一九八五(昭和六十)年七月にVAN販売推進本部本部長に異動となった。

★一九八五(昭和六十)年七月に発表されたVMシリーズでは、Mで課題として積み残された、ドライブの六四〇Kバイト/一Mバイトの両用化が実現した。メモリーも標準で三八四Kバイトが標準装備され、MS―DOSマシンとしてのPC―9801はこの機種でアーキテクチャーの完成を見た。
 当時情報処理事業グループは、8086を機能拡張し、高速化した日本電気製のV30をPC―9801シリーズに採用するよう、半導体部門から要請を受けていた。同年五月に小型化を狙って発表していたU2に続いて、VMにはV30が採用された。ただし浜田には、高速化した8086以上のものとしてV30を使う気持ちはなかった。アプリケーションがV30の拡張命令を使うことによって、互換性に問題が生じることを恐れた浜田は、ソフトハウスが固有の命令を使わないよう働きかける旨、早水に指示した。浜田はこの指示を置きみやげに、VMの発表会にも臨むことなくパーソナルコンピューター事業の表舞台から去った。大半のソフトハウスは、日本電気の方向付けに従ってV30の拡張命令を使用しなかったが例外もあった。その後、インテルの本線に戻って80286を採用して以降、PC―9801は互換性の確保のために、V30をあわせて搭載するという道を長く選ばざるをえなかった。

 PC―9801の勝利を最終的に決定づけるMS―DOSバンドル★を仕掛けた男は、一太郎の誕生を契機としてこの戦略が機能しはじめるのを目前に控えて、パーソナルコンピューター事業の表舞台から突如退いた。これを機に確立された水野新体制下、PC―9801の快進撃が始まった。

★一九八五(昭和六〇)年八月の一太郎、一九八六年九月の1―2―3日本語版の発売開始は、MS―DOSとPC―9801の勝利を不動のものとした。アスキーとの提携解消後、一〇〇パーセント子会社として設立されたマイクロソフト株式会社は、MS―DOSの勝利が確定した段階で、アプリケーションへのバンドル打ち切りに向けて動きはじめた。
 一方でMS―DOSがバージョンアップを繰り返す中で、日本市場のユーザーの多くはアプリケーションの陰に隠れた旧バージョンを、その存在すら意識せずに使い続けていった。新しいバージョンに付け加えた新機能には、こうした構図が引き続く限り、なかなか光が当たらなかった。加えて本来は独立した著作物として販売すべきMS―DOSを、勝利が確定したあとも無償で供給する動機は、マイクロソフトには存在しなかった。PC―9801用アプリケーションでは、マイクロソフトはMS―DOS2・0版までのバンドルを受け入れた。2・0ではハードディスクの容量に二〇Mバイトまでしか対応できなかったものが、3・0からは三二Mバイトまで対応できるようになったこと、加えて今後ネットワーク化を目指すとき、アプリケーションを切り替えるごとにリセットボタンを押して、バンドルされている古いバージョンで起動していたのでは対処できないことなどを根拠に、マイクロソフトの古川享は日本電気側にバンドルの打ち切りを繰り返し働きかけた。浜田の後任を務めた高山由は、OSの環境を整備し、その機能を理解しながら使っていくのが正しい技術の発展の道筋であるという観点から、古川の提案を受け入れた。日本電気は一九八七(昭和六二)年一月から、主要なソフトハウスを集めてMS―DOSのバンドル打ち切りに関する検討会を開始し、約半年の準備期間を経て、アプリケーションのバージョンアップを機会にバンドルを取りやめるよう働きかけていった。

 浜田俊三に代わってパーソナルコンピュータ販売推進本部長に就任したのは、高山由だった。情報処理営業支援本部でユーザー教育にあたる教育部長を三年経験してから、高山はパーソナルコンピュータ企画室長代理、パーソナルコンピュータ販売推進本部長代理を歴任していた。入社後、初めての配属先となった電子機器事業部のプログラム係で水野幸男と出会って以来、この先輩との縁が深かった高山は、大型のOSを長く担当し続けてきた。
 部長就任直後から、高山はおよそ二年間をかけて、全国の販売店への挨拶まわりに走った。徹底して販売店を重視するという方針を打ち出した高山は、浜田の組み上げた構図を存分に生かしきり、成熟期に入ったPC―9801を売りに売りまくった。
 その高山にとっても、渡辺和也は形の上では上司であり続けた。だがオープンアーキテクチャーこそパーソナルコンピューターの魂と信じてきた渡辺は、日本の標準機となったPC―9801の互換機を作ろうとする他社のさまざまな試みがあったとき、情報処理事業グループ全体を敵に回して自らの信念を貫くことができなかった。
 更迭の五か月後に飛行機事故で命を落としたフィリップ・D・エストリッジの無念は、渡辺の胸に染みた。
 さまざまなメーカーのさまざまなマシンをつなぐネットワーク分野で急成長を遂げたノベルの日本法人の社長にと誘いを受けたとき、渡辺はてのひらからこぼれ落ちたオープンの夢が、小さな炎となって胸によみがえるのを覚えた。
 
「マイクロソフトとインテルは、コンピューターの歴史を一緒に切り開いてきたと思います」
 かつて渡辺和也とビル・ゲイツとを引き合わせ、マイクロソフトを歴史の主役にもう一段押し上げるきっかけを作った西和彦は、本論をそう切り出した。
 パーソナルコンピューターにおけるWindowsとインテルのX86シリーズの存在は、車のエンジンとシャーシに相当するのではないか。現在のほとんどの車がガソリンを燃やすエンジンを積み、四つの車輪を備えてハンドルで運転する枠組みに沿ったシャーシを採用しているように、パーソナルコンピューターはインテルのエンジンと使い勝手を決めるマイクロソフトのシャーシを使っていくのだろう。
 今、あらためてそう感じると語った西は、そこで小さな溜息をもらして言葉を継いだ。
「こういうことは本当に一瞬にしてできることではない。今から十何年前に最初の一六ビットのパソコンがMS―DOSと一緒に始まったときから数えて、十何年の時間と何百万ラインのプログラムとたくさんの人の努力が必要ではなかったか。そういう意味で、Windows3・1というのはよくここまでやったなと、そういう感動を覚えます」
 西はそうとしか語らなかった。
 壇上の西を見上げるビル・ゲイツには、その言葉に彼が込めた万感の思いに自らの琴線を共振させることができた。
 視覚的な操作環境にこそパーソナルコンピューターの未来があるとのビジョンを共有してゲイツと西が開発を決意したWindowsには、きわめて困難な気の遠くなるほどの長い道のりが待ち受けていた。
 一九八三(昭和五十八)年十月、ビジコープはついにVisiOnの出荷を開始した。さらにクォーターデック社がDesQと名付けた操作環境を発表し、IBMもまたテキストベースながらウインドウを提供するTopViewの開発を自ら進める中で、マイクロソフトはこの年の十一月、Windowsの正式な発表に踏み切り、翌年の五月には出荷を開始することを約束した。
 だがマイクロソフトの開発チームは、8088を使った平凡なグラフィックス処理能力しか持たないマシンでWindowsの実行速度を上げる作業に難渋させられた。MS―DOS用のアプリケーションをWindowsでもそのまま使えるようにするという目標も、当初予測していたよりははるかに難しい課題だった。一九八四年の春が来るとWindowsの出荷時期は十一月に変更され、さらに秋には翌一九八五年の六月まで遅れるとの発表があった。Windowsの導入を決めていたハードウエアメーカーやソフトハウス向けには、この時期にどうにか出荷されたものの、一般ユーザー向けの製品供給はさらに遅れて十一月にずれ込んだ。
 ようやく出荷にこぎ着けたWindows1・0だったが、その操作環境は、マッキントッシュが提供しているものに比べれば桁外れに劣っていた。マックではウインドウを重ね合わせ、前後を自由に入れ替えてその時点で必要なものを大きく表示できたのに対し、Windows1・0は画面を縦横の線で仕切っただけの、重ね合わせのできない窓しか提供できなかった。画面の細部の表現はマックに比べて情けないほどにみすぼらしく、動作速度は絶望的に遅かった。
 
 一方Windowsに先駆けた他社の操作環境も、PCのハードウエアの厳しい制約を受けた事情には変わりはなかった。
 VisiOnはマシン側にハードディスクを求め、専用のアプリケーションしか動かすことができないという割り切りによって、実用性を高めようとしていた。だがアプリケーションの開発環境がDECのミニコンピューター上にしか用意されていないという制約は、他のソフトハウスの参入にとって大きな妨げとなった。TopViewが提供できるものはテキストだけのウインドウに限られ、DesQもまた求心力を発揮しえなかった。
 マイクロソフトはその後、一九八七(昭和六十二)年十二月にはウインドウの重ね合わせを可能にしたWindows2・0の発表を行った。だが翌年三月にアップルコンピュータが「マッキントッシュの見かけと使い勝手を違法にコピーしている」として、マイクロソフトと、Windowsをベースにして使用感をさらにマックに近づけるNewWaveを開発したヒューレットパッカード(HP)を告訴★したことは、けちの付き通しとなったWindowsの足をさらに引っ張った。

★一九九二年四月、米国連邦裁地方判所は、アップルの申し立てが著作権の保護範囲を超えているとして、この訴えを退けた。アップルはこれを不服として上訴したが、一九九四年九月、控訴審も一審の評決を支持し、同社の訴えを棄却した。

 結局のところ、GUIに引かれたユーザーはマッキントッシュを選び、その他のユーザーはMS―DOSをMS―DOSのまま使い続けるという時代は、一九八〇年代いっぱい続くことになった。
 
 ビル・ゲイツと西和彦の遠い日の約束は、一九九〇年になってはじめて、実質的に果たされた。
 同年五月二十二日、マイクロソフトはニューヨークのシティーセンターシアターに六〇〇〇人の関係者を集め、全米七都市、世界の一二の街の会場に衛星中継してWindows3・0の発表を行った。この年の終わりまでにマイクロソフトは一〇〇万本のWindows3・0を売り上げ、GUIの標準をMS―DOS上に確立するという目標の達成についにこぎ着けた。
 8088と二五六Kバイトのメモリー、フロッピーディスクドライブ二台を想定したスタートしたプロジェクトがWindows3・0でついに成功を収めたとき、マイクロソフトの要求する最低条件は、80286、六四〇Kバイト、ハードディスクにまで拡張し、ビデオ規格にはAT用に開発されたEGAを求めるにいたっていた。だがグラフィックス環境を快適に使いこなそうとすれば、処理速度とメモリーと画面の解像度への要求に際限がなくなることは、先行するマッキントッシュの発展の歴史が示していた。
 裏返せばWindowsは、業界標準のPCアーキテクチャーが過大なハードウエアへの要求にどうにか応えられるレベルに到達してはじめて、成功した製品となりえた。
 さらに日本語化にあたってのさまざまな問題への対処に手間取った結果、日本市場におけるWindowsの実質的なキックオフは、3・1日本語版発表のこの日にずれ込んだ。
 
 壇上の西は続けて、Windowsが日本で開くだろう世界を予測した。
「本命は日本でもっとも遅れているといわれる、デスクトップパブリッシングではないか」
 そう指摘した西は、DTPに続く次のWindowsのターゲットとしてマルチメディアを上げた。
「Windowsがいろいろなパソコンに載ってたくさん普及することで、アップル一社がマッキントッシュによって作り上げてきたマルチメディアの文化が、幅広く日本のコンピューターの上に育っていってくれれば、本当に嬉しいことだと思います」
 インテルとマイクロソフトは、パーソナルコンピューターの枠組みを定める作業において一まず大きな成果を上げた。だがエンジンとシャーシが固まり、車の基本仕様が決まったとしても、どの車を選び、その車でどこに行って何をするかという選択はなお、ドライバーに委ねられている。そう続けた西は、用意した最後の言葉を思い起こして小さな微笑みを口角に浮かべた。
「X86とWindowsを使った車、是非慎重にお選びになられて、安全運転されることをお願いいたします」
 そう締めくくった西は、旧友に視線を向けて一瞬二人だけの時を過ごし、軽く黙礼して壇上を去った。
 
 発表会の最後に再び立ったビル・ゲイツは、Windowsが切り開く未来をあらためて展望する中で、「我々のWindowsに対する野心はコンピューターを超えている」と指摘した。
 マイクロソフトは今後、FAXやコピーや電話といったオフィスのさまざまな機器にWindowsによってインテリジェンスをプラスし、その世界をコンピューターの文化圏を超えて押し広げていく。
 そう宣言したビル・ゲイツが望む世界は、アラン・ケイの肩の上に立って坂村健がいち早く想起したTRONの未来図と重なり合っていた。
 ビル・ゲイツの語りはじめた新しい夢は同時に、万能の夢の器たるコンピューターは、人間の想像力がつきぬ限り進化の歩みを止めることはないことを告げていた。
 長く出向していた日本電気ホームエレクトロニクスから、パーソナルコンピューターの未来ビジョンを探るセクションに戻ったばかりの後藤富雄もまた、会場の暗闇の中で夢の器の未来を思い描いていた。
 
 講演会場に接して設けられたWindows用ソフトウエアの展示場には、ダイナウェアもブースを出していた。自分たちがどこからきたのかを、あらためて繰り返し思い起こさせる講演を聴き終えてブースに戻った竹松昇は、スタッフから「PC―100の話を聞きたいというライターが来ている」と声をかけられた。
 人の波をすり抜けて、軽く黙礼しながら男が近づいてきた。
 Windowsの遠い約束が果たされた今、パーソナルコンピューターの歴史を自分なりに振り返ってみたい。ついてはダイナウェアにとって、PC―100が何を意味していたかを聞かせてもらえないだろうか。
 男はそういってノートを広げ、メモを取ろうと身構えた。

    

    

エキスパンドブック版のあとがき

「二度目の春がくるんだから、散歩にでようよ」
 気持ちよく晴れた土曜日、かみさんがふとそう言った。
 そんな余裕はないと強ばったままの背中の向こうから、あっけらかんとした鼻歌が聞こえてくる。がさごそ何か探し回っている音は、昔、ビールの景品にもらった薄っぺらいシートが目当てだろう。
「こいつらも連れていこう」
 そうはしゃぐかみさんの手で、笑っているぬいぐるみはきっとヌリだ。
 その声でようやく、ディスプレイに貼り付いていた視線が起きた。
 窓の向こうの青空が、際のところまで遠く抜けて見える。
 今日は、晴れなんだ。

 バスケットを振り回すかみさんの後について、根岸公園行きのバスに乗った。だが、さっきまで画面に浮かんでいたおびただしい文字の列は、野毛の切り通しを過ぎて伊勢崎町にさしかかっても、まぶたの裏に張り付いたままだった。
〈まだ高山さんの話も、エプソンの互換機も、DOS/Vも書いてない〉
 首の後ろにもう一年近く張り付いたままのしこりが、かろうじて僕だけに聞こえる低い声で、ぶつぶつとそう繰り返していた。

 早春の根岸公園は、たくさんの家族の幸せを、いつも通り、ゆったりとした緑の起伏で包んでいた。幼い子供たちの笑い声を遠くに聞きながら、木陰で風の臭いをかいでいると、蜃気楼のように公園に残されている競馬場のスタンドを舞台に、物語りを書こうと考えていたことを思い出した。

 人並みに仕事中毒のような暮らしをしている最中に、病んでいることを言い渡された。都合三年近く寝ている間に、自分にやれることを考えた。
 地の底に閉じこめられた世界の物語りを書きかけ、息苦しさの反動でパステルのタッチの似合うストーリーの想を練った。
 そんな頃、コンピューターを使って新しい形式の本を作ろうとするボイジャージャパンの試みを知った。生きた証になるか、生きる証になるのか、先のことはわからない。ただ生まれてきた印をこの世に残しておきたいと願っていた僕は、パーソナルコンピューターの誕生を描きながらすぐに消えていった初めての本を、この道具建てで蘇らせておこうと考えた。
 十年近く前の本を出し直すなら、その後の歩みを補うべきだろう。そう思ってかつて話を聞かせてもらった日本電気の関係者に連絡を取り、再取材の約束を取り付けた。だが、本の後書き程度と思って書き始めた原稿が十万字に近づいたところで、パーソナルコンピューターがどう生まれ、いかにして育ったのか、何もわかっていない自分に向き合わされた。
「この分野のレポートを続けながら、自分は何一つ確信を育てられなかったのだなあ」と思うと、書きかけの原稿はごみ箱に捨てて、もう一度一から調べ直したくなった。
 物理的な条件も整えず大きな仕事を始めるのは、誰がどう考えても無謀に違いない。果たして体が言うことを聞いてくれるかという点には、底の抜けた不安があった。
 だが、そう決心して踏み出すことには、今にして思えば大きな困難はなかった。難しかったのは、コンピューターの歴史という巨大な鉱脈のどれだけを掻き取った段階で、「この仕事はひとまずけりが付いたのだ」と諦めることができるかだった。

 春の匂いの中で〈もうこの公園にも、一年以上来なかった〉と思い返すと、「そうだよ」と置き去りにされたスタンドが応えた。
 上体を起こして「ああっー」と伸びをすると、心の闇の奥に出口の明かりがぽつんと灯るのが見えた。

 穴に潜る勇気と支えを与え、あの日、もうでてくる時間だよと告げてくれた富田晶子さんに感謝する。
 β版の原稿を書き終えた一九九四年の五月、本書でも何度か触れた鶴岡雄二氏は「帰ってこられましたね」と真剣な表情で「生還」を祝ってくれた。
 病んで以来、たくさんの思いと時間をそそぎ込みながら仕上げられなかったいくつもの仕事の断片が、その時、脳裏に浮かんでは消えた。一人きりの夜にこもって『45回転の夏』を書き上げ、現世に戻って再び、長い努力の末に出版への道を開いた鶴岡氏の祝福は、生まれることのなかった仕事を思い起こすたびに、深く深く染みた。
「生きて還る」というその言葉の意味を、僕は生まれてはじめて知った。

 突然踏み込んできて「本当のことが知りたいのだ」とほざく取材者は、通り魔のようなものだ。きれいな物語りで終わらせておけばよいものを、真実という名の幻想に目がくらんでもう一歩踏み込もうとすれば、現在と地続きの、流した血の固まりきらない過去をほじくることになる。
「何の権利があって」となじる深夜の視線に貫かれながら、それでもお尋ねし続けたのは、私自身が何らかの狂気の虜となっていたからだ。ぶしつけな質問に耐え、心を揺らしながらそれでも私の狂気と付き合って下さった方々に、ただただ頭を深くたれてお礼とお詫びを申し上げます。

 私がパーソナルコンピューターについて書くきっかけを与えてくれたのは、東海大学出版会に籍を置いていらした当時の西田光男さんだった。西田さんにもらったスペースで、個人のためのコンピューターとの出合いを生き直しの機会とした古い友人のことを書いた。旺文社の椛田敏彦さんにチャンスをもらい、その話と日本電気の開発物語りを絡めて初代の『パソコン創世記』を書いた。当時『パソコンワールド』の編集長をされていた魚岸勝治さんの読後評は、いつまでも心に残った。その仕事もあって田原総一朗さんに目をかけてもらい、編集部の稲葉俊夫さん、森屋義男さんとともに『ザ・コンピュータ』の田原さんの仕事を手伝った。ここで、たくさんの関係者からお話を聞く機会を得た。魚岸さんからはその後、「続きを書け」と声をかけていただいたが、当時はベッドから起きあがれなかった。ようやく体が少し動くようになったころ、ボイジャージャパンの試みを知った。萩野正昭さんたちとの出会いがあり、初代『パソコン創世記』電子ブック版の後書きとして、この原稿を書き始めた。β版を読んだ魚岸さんはTBSブリタニカの森敬子さんに連絡を取って出版への道を付け、編集を取り仕切っておられる『PC WAVE』で一部を連載して下さった。
 あらためて本書の成り立ちを確認し、『パソコン創世記』を育てて下さった皆さんに、お礼を申し上げます。

 書籍の出版に際しては、TBSブリタニカ出版局の森敬子さん、望月祐子さん、綜記社の森田洋彦さんのご協力を得た。

 書籍化を片付けたあと、本来の目標であるエキスパンドブック版に向けた仕事は、机上のマシンですませるつもりでいた。だが映像編集の物理的条件が整わず、結果的にはボイジャージャパンに一か月あまり居候して、作業させてもらうことになった。
 二年前のマックワールドエキスポで、鎌田純子さんからパンフレットを受け取ったのをきっかけにスタートさせたプロジェクトには、やはりエキスポでけりをつけたかった。
 同じエキスポを目標に、ボイジャーもまた時計の針に追い立てられるような厳しいスケジュールに向き合っていた。
 初代のエキスパンドブック・ツールキットは、アメリカ生まれの製品の日本語版だった。縦書きを含めた日本語への細かな対応、処理速度の抜本的な向上を目指して努力を積み重ねてきたボイジャーは、最終的に日本語に即応した新しい環境をゼロから書き直すという結論に達していた。
 芸術家肌といった生易しいレベルではなく、コードのアーティストそのものの祝田久さんが丹精を込めたツールキットIIは、可能性と自由度に満ちた、新しい電子出版の世界への扉を思わせた。だがソフトウエアが革新的であればあるほどついて回ることになる、目標の高さとマーケティング上の踏ん切りとの狭間にあって、スタッフ全員が針の山の上に張った綱を渡るような緊張を、長期間に渡って強いられていた。
 張り詰めた空気のボイジャーに居候するうちに、僕はやがて、彼等が人生の最上の一時を過ごしているのではないかと感じ始めた。
 身一つになっても最後まで「正しい」と信じられることと、集団の目標とがすき間なく重なりあい、なすことの一つ一つに驚くほどの手応えが返ってくる――。
 TK―80時代のマイクロコンピュータ販売部、小人数でスタートを切った当時のアスキーやマイクロソフトが満喫したはずの至福の時を、彼等はたった今駆け抜けている。ボイジャーの隅で極め付きの幸福のご相伴にあずかりながら、この仕事が終わり次第ここから立ち去るべき僕は、萩野正昭さん、北村礼明さん、鎌田純子さんをはじめとするスタッフの全員に嫉妬していた。
 エキスパンドブック版の編集は、ボイジャーの野口英司さんと二人三脚で進めた。
 開発中のオーサリングツールを使うことのストレスと厳しいスケジュールに、繰り返し爆発寸前に追い込まれた僕を、野口さんは根気強く励まし続け、身を粉にした働きでプロジェクトを前進させて下さった。
「なんでこんなにいい人なんだろう」との戸惑いは、昼飯時の映画の話で解けた。
 フランク・キャプラの映画が大好きだという野口さんは、「彼の映画のジェームズ・スチュアートのように生きたいと思ったりするんですよ」と、熱いお茶に吹きかける息のすき間に、ふとそう漏らした。
『パソコン創世記』再生の物語において、ジェフ・スミスの役割を存分に演じ切ってくれた野口英司さんに、内心で頭を垂れつつ、喝采を送ります。
 
 エキスパンドブック版のブックデザインは、永原康史さんに力を奮っていただいた。無茶なスケジュールでのお願いに、研ぎ澄まされた切れ味の意匠を返して下さった永原さんに、あらためてお礼申し上げます。

 本書はその多くを、田原総一朗さんの取材に同行する中で得たものに負っている。その意味では、田原さんの脇で、これまでお話を聞かせていただいた全ての方のお名前を上げるべきだろう。そうしたあるべき姿を取りえず、今回あらためてご協力いただいた方のお名前のみを記載させていただいた点をお許し下さい。
 ここにお名前を載せさせていただいた方、また大切なお話を頂戴しながら記載させていただかなかったお一人おひとりを思い浮かべながら、最後にもう一度お礼申し上げます。
 ありがとうございました。

 一九九四年十一月二十五日

                富田倫生

    

    

取材協力者一覧

石井善昭/石田晴久/浮川和宣/浮川初子/大内淳義/小澤昇/加藤明/木原範昭/黒崎義浩/郡司明郎/後藤富雄/小林亮/桜井直紀/笹渕正直/鈴木仁志/高山由/竹松昇/塚本慶一郎/戸坂馨/西和彦/浜田俊三/早水潔/福良伴昭/藤井展之/古川享/古山良二/松田辰夫/松本吉彦/松本庄八/間宮義文/安田寿明/柳谷良介/山下良蔵/吉崎武/渡辺和也/渡部信彦/ Christina Engelbart
日本電気株式会社広報室 加藤竹彦/宮下周子(敬称は略させていただきました)

電子大家さんへの謝辞

「どうせならうちの専用線に、イーサネットでぶら下がりませんか」
 同じマンションに住む藤井一寛さんのご厚意で、我が家はインターネットに連なった。
 さまざまなサイトへのリンク付けの作業は、この環境なしではとてもやり通せなかった。
 あらためて、親愛なる電子大家さんに、深く感謝いたします。

 ご感想、ご指摘を、大家さん提供の左記のアドレスでお待ちしています。
 機能しなくなったURLに気づかれた際は、是非ともご一報ください。

 michio@neophilia.co.jp

                富田倫生



入力:富田倫生
校正:富田倫生
ファイル作成:富田倫生
1997年9月5日公開
2000年11月1日修正