2000.11.01

journal・不連続日誌・journal


「虚子俳話」のようにはいかないが・・・


ball-gs2.gif 2000.10.31 (Tue)
映画から音を削るということの方を大事に考えている。   武満徹

■『時間の園丁』/新潮社
天才と呼ばれる人たちは、いずれの分野におても一般人とは違った視点から物事をとらえ、いとも簡単に難問を解いてしまう。まるで違った考え方や感じ方の人達と、一緒に、夢を紡ぐことを楽しみながら。一緒に楽しめない人は、その時代において変人と呼ばれるのに違いない。

ここ数日、少し秋らしくなった。(今までが暖か過ぎたとも言えるのだが)
小坂峠に登る道筋に、一本の桜の帰り花を見つけた。もうすぐ、立冬。

ball-gs2.gif 2000.10.30 (Mon)
雲だろうか
いや神の足だ
空神の大きな足がまたいでいく
鈴をならして歩いていく      鳥図明児(ととあける)


■『虹神殿−(1)』ペーパームーン・コミックス/新書館
コミック専門の古書店から求めてきたものだが、私の好きな漫画家「佐藤史生」の描画タッチ・ストーリー展開と実に似ていて楽しい。
空の神、テセラン神の線描のたおやかさは、唐招提寺五重塔の水煙の天女のおもかげを彷佛とさせる。
神は呼びかければどこにでもいるが、何も期待するなという。

ball-gs2.gif 2000.10.29 (Sun)
海の水もバケツに汲んでくれば、タダの塩水。   寺山修司

『競馬放浪記』(ハルキ文庫)の中の一文である。寺山修司ほどの人がそう信じていたとは思わないが、言葉の綾である。
最近有名になった「室戸海洋深層水」がまだ珍しかった真夏の暑い日、実物を見たいという友人達に、冷蔵庫で冷やしたそれをコップに注ぎ差し出すと、一気にゴクゴクと飲み込み、あわてて吐き出したものである。「だから海底230mから汲み上げた海洋深層水だって言ったじゃないか」と弁解しても、だれもが塩水だとは思わないほど透明度が高かった。

東京の雨はさほど強くはならなかった。さすがに良馬場とは言えなかったが、4コーナーを回って馬群からスルスルと抜け出し、2馬身も前を走られると面白さが半減する。やはり予想どうりの展開であった。もっと波瀾を期待していたのに。とはいえ、サラブレッドが疾走する姿は何度見ても美しいものである。

寺山の言葉はこう続く。
「惚れた女も、アパートに囲えば、よくある女房の一人」
そうなんだよなー、さすがに真実、そのとおり、と相槌を打つと、たたみかけるように、次の名台詞へと導かれるのである。
「馬だって同じだ。馬主になるより、遠くから眺めていたい−−というのが、私の負け惜しみなのであった。」

雲間から山に沈む夕日が赤々赤々と、いっ時、すべてのものを赤く染め尽くした。

ball-gs2.gif 2000.10.28 (Sat)
秋の雨。予定していた遊びが流れてしまった。
この小雨が明日の東京競馬場、天皇賞にどんな影響を及ぼすだろう。
ガチガチなんて言わないで、大きく荒れてくれることを期待する次第。

パソコン新機種の下見(誓って私のものではありません)に行って、PCカード型電話機、PHS−H"-LINK64に目が止まった。普段、外出先からは携帯電話に繋いでインターネットを利用しているが遅くて仕方がない。やはり6倍くらいのスピードがあれば取り敢えずは申し分ないので、試しに一晩借り出してきた。データUPのFTPソフトも試してみたが市街地では全く問題なく動作している。64Kbpsだと計算上は、1秒間に原稿用紙10枚が送れることになる。まだまだ進化を続けるだろう。

ball-gs2.gif 2000.10.27 (Fri)
自筆の手紙が届くと嬉しい。封筒や切手、便箋にまで差出人の趣味の感じられるものなら尚更である。しかし、そうなると返信の苦手な私は、かなり重荷を背負ったような気持ちが3週間は続く。その間、葉書一枚さえ書けない始末である。

最近は電子メールが普及してかなり助けられている。まず悪筆をさらさず、紙や切手の選択に悩まず、電子辞書や漢字変換機能も簡単に使え、郵便ポストまで出向かなくても済むのだから。それなのに、返信がたまってしまうのが情けない。

■『競馬遊侠伝』牧太郎/小学館文庫
「涼しげな瞳が気に入って単勝を目一杯買ったから、喜び勇んで払い戻しの窓口に並んだ」
スピードシンボリは著者が新潟三条競馬で自分の目を信じ、生まれて初めて買った馬券であった。

ball-gs2.gif 2000.10.26 (Thu)
一日が瞬く間に過ぎる。本当はそんなに早くないはずなのだが、振返るともう昨日のことになっている。「昨日はいったい何処で何を食べたのだろう」と思い返し、これまたあやふやな記憶しか残っていない。もちろん記憶しておくほど大切なことではないので忘れてしまうのに違いないが、それだけ感動もなく見たり食べたりしていることになる。ものの表面をなめまわすような視覚を衰えさせない薬はないものだろうか。

■『「分ける」こと「わかる」こと』坂本賢三/講談社現代新書
「わかり合う」とは、相互に相手の分類の仕方がわかり合うことである。
と書かれていたが、たった一人の家人の気持ちも理解できていないもどかしさが私にはある。同じ家の中で別々の部屋で暮らし、不可侵の領域を確保しつつ「わかり合う」ことの難しさよ。それが面白いと言えば面白くもあるのだけれど。なんだか抽象的な話になってしまった。

ball-gs2.gif 2000.10.25 (Wed)
一年後にやっと、あなたの2000年がぎっしり詰めこまれた「マイブック」が完成します。

■『マイブック −2000年の記録』新潮文庫
366日分の日付け入り「マイブック」を発見して茫然。
昨年暮れ近くに書店に積んであったものを見つけ、面白そうと買ったまま、その存在すら忘れていたのである。
これを見る限り、私の2000年は空白しかなかったことになる・・・
せめて、この電子「不連続日誌」に記録をとどめ、息をしていたことの証にしよう。

月2回開催の鷹五人会のひとつ「銅の会」に出席。はりまや橋交差点近くの喫茶店2階で、7時30分から約2時間。少しマンネリ気味。ピリリとした刺激が欲しい。

ball-gs2.gif 2000.10.24 (Tue)
飼っているメダカ三匹に、何か名前を付けてやらなければいけないだろうか?

ただ漠然と菓子器の中を泳いでる姿を目で追うだけではインテリアのようでいけない。バーチャルシティの住人となって、高価な電気製品や家具を集める感覚にだけはなりたくないと思う。ゲームは終わればまた最初から始められるが、生物との付合いはどうだろう。わたしのMacintosh PowerBookには「都祈夫」の呼び名がある。

■『作家の値うち』福田和也/飛鳥新社
「点数まで付けてしまって大丈夫?」と、少し心配になるが、他人事なので相澤裕美による作家のイラストレーションと共に楽しませてもらうことにした。
一人の文芸批評家による数量化作業が行われているので、あとはその批評家と私の嗜好が一致するかどうかが問題。かなり違うなあ。
しかし、自分の好みでもない作品も正当に評価しようとする眼差しは感じられた。また、序文・跋文とも、最後が「私は信じている」「信じている」で結ばれているところなど、文学の未来への希望を感じさせてくれる。

ball-gs2.gif 2000.10.23 (Mon)
神持たぬ安穏にをり柘榴の実   藤田湘子

鷹俳誌11月号が届いた。湘子先生には2句しか選ばれていない。
まだまだ、まだまだのようである。もののひかりをとどめるとはなんとむつかしいことだろうか。
しかし、それだからこそ楽しいのだが、少し不勉強すぎるのかもしれない。ここらで、やり方を変えてみようと考えている。そのためにも、こうして不連続日誌を始めたのだから。

■雑誌『鳩よ』10月号/岡野玲子特集/マガジンハウス
佐藤史生のマンガを読むために愛読していたプチフラワーに連載された『ファンシーダンス』の岡野玲子は輝いていた。パチンコ屋に入って盤面を見た瞬間、高野山でみた曼陀羅が重なるところなど、ワクワクドキドキ、そこまで飛躍するか!!!。
上村一夫『同性時代』の見開きで、雪に残る足跡を見たとき以上の感動が押し寄せてきたものである。
岡野玲子の『コーリング』を読みながら眠ってしまった。彼女の才能を愛する私としては、劇画と原作者が別の場合、退屈してしまうらしい。『陰陽師』の話はまた別の機会に。

ball-gs2.gif 2000.10.22 (Sun)
そうだ、人は死んだら「人」の心の中へ行くのです。   福島泰樹

父が亡くなってまる三年になる。
三回忌法要は昨年であったが、やはり本当の意味の三年なので、朝から香を焚いて少し気分を改めてみた。
歌集『バリケード・1966年2月』の歌人、そして僧侶の福島泰樹さんに会ったのは、父が亡くなって1ヶ月後の「短歌絶叫コンサートin高知」の夜であった。

ちくま新書の『弔い』が出版された頃で、何故か父の追善供養をしていただいているような巡り合わせを感じた。古くから愛聴していた絶叫コンサートのレコード冊子を会場に持っていって、サインをお願いした時の驚きの眼が今も忘れられない。こんなところにも・・・と思われたのに違いない。その夜は、美味しい土佐の酒を御一緒させていただいた。

ball-gs2.gif 2000.10.21 (Sat)
にほやかに少し濁りぬ秋の空   高浜虚子

9月半ば、偶然メダカを見つけた。少し太めであったが、季節的にはこんなものであろうかと飼うことにした。
ガラスの水注ポットに小砂利と金魚藻一本、そしてメダカ4匹を入れ卓上に置くと、真横から泳ぐ様子が観察できた。
ミネラルウォターをときどき足し与えたが、糞が漂うと水が濁り、やはり生き物を飼うのは遊びだけでは済まないと実感させられた。しかも、半月ほどたった朝、1匹が死んでいた。

これは酸素が足りないのではないかと考え、鑑賞魚店(?)へ出かけ南米原産の芝生のような水草を一塊買って来て、薄水色の陶器の菓子器に水を張り真中に沈め、泳がせてみた。
やはりメダカは上から眺めるのが正しい見方のようで、水草隠れや水面近くをツイツイツーイと、今も私の足音に脅えながら泳いでいる。
餌には、沖縄銘菓の「ちんすこう」を与えている。

ball-gs2.gif 2000.10.20 (Fri)
動物は苦手である。

「好きな動物は?」と聞かれれば、「馬、クジラ、河馬」といったところで、可愛がるよりは傍観的に見て楽しめるものをあげてしまう。
犬猫などとは視線を合わせた途端に、どちらからともなく無視しあう関係ができあがっている。まず近寄っては来ない。動物嫌いという訳でもないのだが。

■『インターネット探検』立花隆/講談社
LINKページの一番に「NASA」を置いている。これは、まだ日本にWebサイトの数が少なかった(約300)ころから、適正画像サイズや表示方式を確認するために利用させていただいたお礼の意味もある。立花隆が95年に作成した「NASAホームページ構造図」を初めて見て、なるほど、こうした図解式分析能力があって初めて鋭い現代批評が可能なのかと思った次第。
仕事では何気なく流れ図を描いていながら、自分のサイトは気まぐれに増やすだけで全く計画性や統一性がない。一度、構造図でも書いてゆっくり考えてみよう。

ball-gs2.gif 2000.10.19 (Thu)
吾ガ事ニ非ズ このまま過ぐるなら過ぐるならばよ 花でも喰ふか   紀野 恵

関戸風の署名入り歌集『水晶宮綺譚』限定500部の内第381番が手許にある。発行は1989年となっているからもう10年も前のもの。
紀野恵の紡ぎ出す短歌は王朝風で「フムフムランド桂冠詩人キノメグミ」の序とともに忘れられない一冊であった。

藤原定家が日記『名月記』に「世上乱逆追討雖満耳不注之。紅旗征戎非吾事」としるしたのは旧暦9月、きっと今頃のことではなかったか。「吾ガ事ニ非ズ」と片仮名まじりで詠われると、まさに定家の苦悩がありありと感じられ、「花でも喰ふか」と慰められ、否、あやされてでもいるようである。もちろん、裏には「花も紅葉もなかりけり」の虚無が隠されているのは言うまでもないこと。

ball-gs2.gif 2000.10.18 (Wed)
競技用自転車街は五月なり   山根真矢     (俳句研究2000.11月号より)

醫師は安樂死を語れども逆光の自轉車屋の宙吊りの自轉車   塚本邦雄 

歌集『緑色研究』の塚本邦雄の自転車に出会って以来、私にとっての自転車とは、通勤通学用に街中を走るそれではなくなり、永遠に宙吊りで骨軸をさらすモノとして記憶中枢に定着している。

しかし、競技用自転車という素材が提示された瞬間から、それは、私の記憶する自転車とはまったく別モノとして地上を快走する洗練された用具となり、カラフルなヘルメットをかぶった男が、空気抵抗を最少にして走り去って行った。

ball-gs2.gif 2000.10.17 (Tue)
事物を眺めるとき、その瞬間、「言葉」を忘却すること、そうして、透明な眼で事物そのものを見ようとすること。そのとき、事物はそのありのままの姿を現わすだろう。

■『彫刻家 創造への出発』飯田善國/岩波新書

一気に読み通し、彫刻家の視覚と触覚を自分にあてはめて考えていた。彫刻家の言う「言葉の忘却」とか「概念のフィルターで見ようとしない」などというのは、俳句や短歌の創作の原点と何ら変わらない。しかし、理解しても、いつも実践できるとは限らない。そこが問題なのだ。禅宗系の僧侶が「わかった!」と悟った瞬間に忘れてしまうように、同じものを見ても何度も何度も「感じる」ことが大切なのに違い無い。

「また、そこを横切ってゆく娘たちの胸のふくらみやお尻の曲面と広場のゆるやかな優美な不整曲面との奇妙な照応を、無心にたのしむことができた。」

ローマのポポロ広場に面したした一軒のカフェから、広場の微妙な勾配とエスプレッソを味わいながら「永遠とエロス」を考え続けている彫刻家の姿が見えるようであった。

そして、私は、このように書く行為によって、日常読み飛ばしていた内容をもう一度咀嚼し、触るように視ることの大切さについて思い出している。

ball-gs2.gif 2000.10.16 (Mon)
予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず  芭蕉

■『この惑星を遊動する』/芹沢高志/岩波書店
東京、リスボン、嘉峪関、ニューヨーク、タンジール他、著者の訪れた都市での思考の断片が八十八に分割されて提示されている。1995年の段階で寄せ集めたものだというが、まさにインターネット的な思考である。

芭蕉のように漂泊もできない私はこれから何処へ遊動したいのだろうか。地球上には知らない街が多すぎる。できれば、作句の一瞬で永遠を掴みたい。

ball-gs2.gif 2000.10.15 (Sun)
家人が吟行に出かけた。今日は本山の大原富枝文学館周辺とのこと。

大昔、貧しい我が家にはステレオなんかなかった。小学校も中学校も高校も放送室に入浸り、好きなレコードを聴いていた。大学のアルバイトで初めて買ったレコードは『幻想交響曲』。これは、寮生活で音楽に飢え、友人の下宿にレコードを持ち込み何度も聴いた。先日、シャルル・ミュンシュ指揮、ボストン交響楽団のCD を入手。何だか知らないが「XRCD2」なる技術によるものらしい。そんなことはどうでも善くって、第5楽章の鐘の音が聞ければ満足。あの金属音。
過日の健康診断では少しごまかしたけれど、左耳が少し聞こえにくくなっているようだ。低音より高音が。金工を長くやっていたためか。

激論の真中へ若布サラダかな   四ッ谷龍     (むしめがね NO.15より)
機音や木の股を刺す蝉の吻     〃     
慈姑の芽笑はない君診察す    冬野 虹   
いさよひぬ翅ある虫の溺死体    〃     

龍さんと虹さんの『むしめがね』を戴いてすでに1ヶ月が過ぎた。いくつかの句に○印を入れたままで、なかなか返信できないでいる。二人は既成の俳句に飽き足らず、自分の世界を打ち立てようと格闘している。私は自分の世界の窓から見えるものだけに○印を入れ、なかなか彼等の世界の中に踏み込んで鑑賞する余裕がない。
「血達磨になって鑑賞できるのか?」どうしても恐怖が一歩を踏み留めている。

ball-gs2.gif 2000.10.14 (Sat)
深酒のせいで獏睡?(爆睡)。
早朝から目覚め、メールと掲示板の確認。これって少しマニアック。

青葉木菟月の足摺岬かな   黒田杏子     (俳句研究2000.10月号より)

聴覚と視覚の饗宴。足摺岬展望台に立てば270度に深夜の海原が広がり波音が下から響いてくる。研ぎすまされた感性は「青葉木菟」の「あ」と「足摺岬」の「あ」音を選び取っている。

■『俳句とは何か』/山本健吉/角川ソフィア文庫
平成5年5月刊行本の再編集による初版文庫。初版の言葉に弱いのである。たとえば、主犯より初犯という言葉のたどたどしさが好み。
■『俳句鑑賞歳時記』/山本健吉/角川ソフィア文庫
角川文庫「現代俳句」が引出にまだ何冊も眠っている。与えようと思う若者がいないのが残念。

ball-gs2.gif 2000.10.13 (Fri)
午後3時より会議。その後、懇親会。
たっぷり日本酒を飲んだ。
高知の酒は、返杯があってかなり飲んでしまう。
20人集まると、盃20杯以上は軽く飲んでいることになる。

昨夜は途中から、返杯を勘弁してもらって、盃を3人で時計まわりに廻しはじめ、それでもきついので、仲間を引き入れ、またもうひとりと引き入れ、盃を廻しながら話題も提供することと勝手にルールを決め、結局、何杯飲んだか解らななってしまった。作戦失敗。その後2軒のはしごはウイスキーのロック。

小学校時代の俳句体験が話題になったが、やはり先生に誉められなかった2人が、それですっかりやる気をなくしたとのこと。その一人が今や大学の副学長。甘やかすばかりでは問題であるが、先生とは大変な職業。なれなくて、否、ならなくて幸。

ball-gs2.gif 2000.10.12 (Thu)
早々に不定期日誌を「不連続日誌」と改めた。
ほんの小さな違いのように見えて、中々奥が深い。

高知なり市の日覆頭をすれり   岩永佐保     (俳誌鷹2000.10月号より)

高知の日曜市の露店商の間を延々と歩いた時の寸描であろう。毎日曜日、追手筋の片側2車線を封鎖、延長1Kmにおよぶ道の両側には野菜、日用品はもとより植木、庭石、古着、骨とうなど様々なものが売られている。日の出から日没までと決められていて、場所割りはほとんど定位置のようである。
ひょいと覗こうとした山菜寿司のパックにでも気を取られ、うっかり中程が垂れ下がったビニールテントに頭が触れたのである。行き交う旅行者の話声や土佐弁が聞こえそうである。

ball-gs2.gif 2000.10.11 (Wed)
COOLの登録エリアを考え、金沢と高知にページを開設した。
若い人のなかには(年齢的に若いというだけ)、少し古風な印象のある俳句や短歌に興味を持つ人材が少ないのが問題である。しかし、学校教育の中で本当の良さを理解しないまま、食わず嫌いになっている人も多いことだろう。
若いころは詩も読んだが、最近は短歌から俳句へとスライドしている。やはり言葉の魔力よりも、言葉で表せる真実に興味が移ったのかもしれない。
しかし、ときどき心に沸き上がるイメージは、言葉では言い尽くせずもどかしい思いをしている。そんなときは、絵画や工芸作品で表現するときもあるが、こちらはどうも時間がかかって仕方がない。
最近はCGで表現し、プリントアウトしてしまうとすっかり満足してしまって、深みのあるものができなくなっているのかもしれない。もちろん、体力のせいもあるだろう。徹夜で七宝炉と格闘するなんてことは、1年で数週間になってしまった。
しかし、俳句の世界でも東京や大阪で若い人たちに会うと、自分が少し衰えてきたのを感じさせられる。まだまだ身体が動くうちに、新しいモノを創り出してみたいと考えている。

ball-gs2.gif 2000.10.10 (Tue)
日記は苦手である。ほとんど三日坊主で終わる。それなら書かなければいいと思うのだが、沸々と何か書きたくなるから厄介である。大したことを書くわけではないが、自分の記録程度に気ままに残しておきたいと思っている。
「深は新なり」
「古壺新酒」
虚子の語った二標語を考えながら、書きながら考え、思い付いたことを実行したいとも考えている。

ball-gs2.gif 2000.10.09 (Mon)
これはなに

 


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まだ捜している最中。以前、眠り姫の日記を時々開いていたことがあるが、はたしてあれは何処に行ってしまったのだろう。

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