2001.09.15

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journal・不連続日誌・journal


「虚子俳話」のようにはいかないが・・・


ball-gs2.gif 2001.09.15(Sat)

最後のはぼくのポートレートで、頭にまつむし草の花を編んだ冠がかぶせられていた。
                             辻 邦生


■『花のレクイエム』辻 邦生/銅版画 山本容子/新潮社

紫色の花は、松虫が鳴くころに花が咲くから「マツムシソウ」と付いたという説もあるが定かではない。花期は8〜10月である。

「もうまつむし草が咲いている。夏も間もなく終わるのね」

『花のレクイエム』には、山本容子の挿画とともに、12の花にまつわる短編が綴られている。二人が作品について前もって相談することはなく、花の選択も編集部の選択に任せ、文学と絵画の交響空間を楽しんだようである。

これくらいの大きさの本が贈り物にはいいかもしれない。しかし、貰った本人は、自分がどの花のようだと思われているのか心配になることだろう。


ball-gs2.gif 2001.09.14(Fri)

ヱホバはなんぢがすべての不義をゆるし汝のすべての疾(やまひ)をいやし なんぢの生命をほろびより購ひだし 仁慈(いつくしみ)と憐憫(あはれみ)とを汝にかうぶらせ なんぢの口を嘉物(よきもの)にてあかしめたまふ 斯(かく)てなんぢは壮(わかや)ぎて鷲のごとく新になるなり
                       詩篇 第103篇より


■『舊新約聖書』/日本聖書協会

古代ユダヤでは、鷲は不滅の鳥と信じられていたはずである。アメリカのシンボルの白頭鷲は、そこから来ていたのではなかっただろうか。ダビデのうたに出てくる鷲の例えは、それを信じていたからに他ならない。

「わが霊魂(たましひ)よヱホバをほめまつれ」と第103篇は始まる。世界中の霊魂が唱える名前は、力を集めるか、力を弱めるかのどちらか一つである。また、永遠に栄える国もない。


ball-gs2.gif 2001.09.13(Thu)

「へえ、ありがとうございます。なるほど、最初(はな)が寿限無、寿限無寿限無、五劫の摺り切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助か、・・・・・・」


■教養文庫『落語百選・秋』麻生芳信 編/社会思想社

秋の夜長は落語でも・・・というわけでもないが、嫌なことや面白くないことがあると取り出してきて繰返し読む本がある。

この文庫の中で一番好きなのは「目黒のさんま」なのだが、今夜は自分の記録のために「寿限無」から書き写しておくことにした。

前座噺で、寿限無は誰もが一度は聞いたことのある名前であろう。しかし、そのすべてを一言一句まちがわず立板に水のように喋れるのは、むかし落語修行した人か、かなりの落語好きである。私は中学生くらいの時この名前に興味を持ち、名前の部分だけしっかり覚え、寺院で祈る時や何かの折に、つい自然とこの名前を唱えている。寺院では最後に「南無阿弥陀仏」と付け加える。もう少し丁寧になれば「あびらうんけんそわか」を唱えるとそれらしく聞こえるではないか。

これが名前だと言うのが面白い。戸籍では許されそうもないが、こんな長い名前だと初対面の相手には覚えられにくく、まず呪詛などかけられそうもないから長命しそうである。


ball-gs2.gif 2001.09.12(Wed)

それは道の真中に座り込んだ物乞いの老人の掌だった。買い物客でゴッタ返しているが、誰も物乞いを追い立てることもなく、上手によけながら老人の手にコインを置いていく。
                             長倉洋海


■季刊『銀花』2001年秋の号 第127号/文化出版局

「”手”をめぐる四百字」より。原稿用紙1枚、400字で思いを伝えるのは難しい。手書き原稿をそのまま印刷して、内容だけでなく筆跡や筆圧、筆癖、選んだ原稿用紙まで見せようというのが編集者のねらいである。

長倉洋海の肩書はフォトジャーナリスト。中南米やアフリカ、中東など、一貫して世界の紛争地帯を取材していると紹介されている。

やや右下がりの癖字ではあるが、講談社の原稿用紙の升目の中に、一字一字読みやすく納まった万年筆使用と思われる原稿であった。何度も書き直し、字数を揃え、書き消しなどのない精一杯きれいなものを編集者に渡そうとした様子が伺える。

「右眼でファインダーを,左眼でそこには映らない世界を」とは、彼の新書のキャッチコピーではなかっただろうか。

アフガニスタンの指導者マスードとイスラム戦士を400日以上カメラで追い続け、彼はアフガンの風土とそこで生きる人々の表情を捉えて見せようとする。テレビのように動かない一枚の写真であっても、多くのことを伝えてくれるはずである。

高知市内の路上には物乞いがほとんど居なくなった。修行のための雲水や軒下でお布施を請う遍路も減ってしまった。ストリート・ミュージシャンは増えているが、彼らは下から手を差し出すことはない。


ball-gs2.gif 2001.09.11(Tue)

しかし、ル・コルビュジエが残したのは、ピロティを持った都市建築だけではない。白色の機械の美学を建築に求める一方で、ル・コルビュジエはまた、名状しがたい、迷宮空間をもつくり上げた。
                             安藤忠雄


■『ル・コルビュジエの全住宅』/東京大学工学部建築学科 安藤忠雄研究室=編/TOTO出版

8月末に読んだ「芸術新潮」の特集が気になって注文していた本が届いた。416頁、かなり分厚い本だが捲り甲斐がある。学生達が作った建築模型写真と新たにCADで描き直された103点の建築図面が並んでいる。白やアイボリーの余白が美しい。

また、安藤忠雄の2頁の前書も、饒舌にならず簡潔で、それでいて建築のような明確な輪郭を持っているように思える。

その中で、安藤忠雄は、ル・コルビュジエが白色の機械の美学を求める一方で、「ロンシャン礼拝堂」、「ラ・トゥーレットの修道院」、それにインドの一連の作品などの後期の土着的、具象的作品群などの論理的、理知的な枠組みでは表現しきれない迷宮空間とも思える作品の出現に共感しているのである。

人生の挑戦者として、私たちはこれから何と闘い続けなければならないのだろう。

米国中枢都市、ニューヨーク、ワシントンなどで同時多発テロが、米11日午前8時45分から起り、深夜放送は延々とその模様を伝えている。世界貿易センタービルの110階にもおよぶツインタワーに航空機が激突し、映画のシーンのように崩れ落ちる様が何度も映される。望遠カメラの映像には、いくつもの窓から身を乗り出し、布を振って助けを求める人々も捉えられていたが、それも、すでに過去の映像であろう。私にできることは、せめて、原子力発電所を標的にしないことを願うばかりである。

人間が作った建築物など、たやすく倒壊してしまう。ル・コルビュジエの作った建築は、今いくつ残り、そしていつまで存在するのだろう。


ball-gs2.gif 2001.09.10(Mon)

初めて登喜和を訪ねた日、近所のおばあさんが一人で入ってきて、「やきごはん、一つ」というのを聞いて、その響きの美しさにしびれた。
                             佐藤隆介


■機内誌『翼の王国』2001年9月号/全日本空輸株式会社

「やきめし」でも「いりめし」「チャーハン」「ピラフ」でもなく、「やきごはん」なのである。

「飯(めし)」は「食う・飲む」の尊敬語の「召す」から出た言葉と言われるが、やはり「御飯(ごはん)」の丁寧さには負けてしまう。玉葱や人参、大蒜、青ねぎのたっぷり入った「やきごはん」を食べたいと私は思う。

牛肉も豚肉も鳥肉もいらない。行きつけの喫茶店のマスターは、カレーライスを頼むと、なるべく私の皿に牛肉のかたまりが入らないようによそってくれるようになった。しかし、焼飯を頼むと、ダシになるものを入れたいといってまだ肉を入れようとする。肉を入れないと、味が付かないので心配なのだそうだ。

こちらは肉の匂いや味が無い方が野菜が美味しくいただけるので、塩、胡椒、その他の香辛料、調味料だけでいいと言っているのだが、このあたりの感覚はかなり個人差があるのでどうにもならない。「やさいいため」を頼んでも肉を入れるのは止めてもらえないだろうか。

牛肉のたっぷり入った「やきごはん」もいいかもしれないが、醤油の焼けたような匂いの「やきごはん」も美味しいと思う。

台風の影響で帰れなくなるかとやや心配ではあったが、運を天に任せていた。昼までホテルの窓から皇居をぼんやり眺め、午後からは傘をささず回れる所を選んで時間をつぶした。先日の映画「センス・オブ・ワンダー」に触発されて虫眼鏡を探す。最近はほとんどアクリルレンズに変わってしまっている。象牙の柄の付いた高級なものは買えないので、レンズがガラスで、柄が象牙彫刻模造樹脂の物を選んで包んでもらった。また金箔でも貼って楽しんでみよう。

航空機は着陸前になっていつもより少し揺れた程度。帰高。


ball-gs2.gif 2001.09.09(Sun)

盲導犬を初めて近くで見た。私が座ったバスの座席のすぐ左後に彼は座を占めた。

馬以外の動物嫌いの私にとっては、一寸驚きであったが、彼も驚いたかもしれない。しかし、普段なら眼を合わせた犬や猫など、鳴いたり、吠えたり、逃げたりするのだが、かれは終止無口で、こちらが彼を見ると見つめ返すが、眼をそらすと敢えて干渉しようとしないのだ。実によく訓練されている。まず声をたてない。今朝、シャワーを浴びてこなかったためか少し犬臭かったが、これは許すことにした。

雨の中に出るため、真っ赤なレインコートを着せられ、その上に白いハーネス(胴輪)を着けた様は、ちょっと不格好ではあったが、尾を高く振っていたので、嫌がっているようには見えない。

車や鉄柵、車止など障害物を避けるのは当然なのだが、主人に階段の始まりや終わりを知らせるために、一瞬、止まって合図する。スロープと階段が複雑に入り組んだ所や、左右に傾斜した所でも、水たまりでも、服従心が強く賢明である。

何かの拍子に、私の足下に寄って来て鼻を鳴らしそうになったので、止せよと言ったら、主人はさっきのお礼を言いたがっているんだと言った。

日本全国で活動している彼の仲間は、約850頭。鳴かない犬なら少し許す。

雨の中、初めて日光の華厳の瀧を見る。まさかエレベーターで100mも降りるとは思わなかったが、トンネルを抜けた瞬間、右手に霧の中から現れた瀧には感激の声を上げた。普段の水量がいかほどのものか知らないが、落水がスローモーションに見えるように幾重にも重なった水飛沫をあげていた。台風15号の影響で、中禅寺湖畔でも雨に濡れたが、湖は霧が被いほとんど見えなかった。


ball-gs2.gif 2001.09.08(Sat)

テーマ「スランプ」の挿画
                           木村タカヒロ


■雑誌『obra』2001年10月号/講談社

小さな一枚のイラストに眼が止まった。角丸のコースターに描いたような作品である。そのページのテーマが「スランプ」だったためか、赤いスラックスの両膝を折り屈み、その上を誇張された右手が押さえている。顔はほぼ90度左に曲げ、左膝の上にある。そして、その頭を左手が押さえている。ほぼ真四角のコースターに無理矢理身体を押し込んだ態だが、嫌らしく陰気でないのがいい。

やや明るい緑の長袖の上に、白のTシャツ、黒い靴、まわりのブルーと身体の周りに配された黄色(山吹色)など、形の明解なデフォルメと鮮やかな色彩で眼が吸い寄せられるようなイラストである。

同雑誌には、小樽の「銀鱗荘」をロケ地に篠山紀信の撮影の高橋惠子の写真もあったが、この地は、かつて鷹全国大会が北海道で行われた折、確かに訪れたはずである。明治6年、余市に築造された網元の「鰊(ニシン)御殿」を、昭和14年に移築して料亭旅館にしたも。そんなわけで、少し懐かしいロケ地であった。

東京Kホテルで開催された第8回鷹全国大会に出席。昨年、松山で開催して以来、はや1年2ヶ月である。出席者350人。大会実行委員長はS女史。今回の運営は、女性中心で進められたとのこと。始めての五人会賞(Uグループ)の発表や星辰賞(S君)の発表もあり、いつも以上の賑やかな大会となった。

ball-gs2.gif 2001.09.07(Fri)

薬師如来、大日如来、千手観音、馬頭観音等の仏像もあるが、神像系の石像が多い。
                           たむらちせい


■俳句雑誌『蝶』2001年9・10月号/蝶発行所

俳人たむらちせいは、高知県高岡郡佐川町に在して活躍する蝶の主宰である。隔月発行の俳句雑誌『蝶』をかかさず送ってくれる。今号には、「修那羅峠」10句と蝦夷地を題材とした9句が発表されていた。上掲はその解説文からの抜粋である。

俳句の中に、馬神(うまがみ)と詠われていたものがあったが、はてどんな形のものだろう。馬頭観音なら想像はつくのだが、800余りの石像のなかに、仏像・神像が混じっているというが、少し興味の湧いた素材である。是非とも、その形のイメージできるような手触りのある俳句が読みたかった。

中での一句と言われれば、次の句である。
白桃の一夜に傷を深めたる   たむらちせい

M氏の日展審査員就任祝賀会の打合わせに会場のホテルへ。カレントクラフトの仲間8人で、当日のスケジュールや役割分担の再確認。新しく高知市九反田に建設されている市民会館の緞帳は、仲間のM女史デザインのもの。それぞれ、大きな仕事をしているので、そのパワーの源を見極めたいと思う。


ball-gs2.gif 2001.09.06(Thu)

人間はたしかに見たものは「見た」に止まらず、「として見た」のところまでゆく。これをいったん「見た」というところに止め、世界全体をその態度で見たうえで全体を最適に解釈して観念というところに行けば現象学的立場になるか、あるいはさらに深くゆけば悟りの世界に達するかもしれない。
                             長尾 真


■岩波新書『人工知能と人間』/岩波書店

かなり難しいことを平易に書こうと努力している。長尾真は、世界には絶対的に真なるものはないと説き、人間の解釈にも相違があり、すべてが近似や相対的真の世界であるという。

「見る」ことから「認識、理解」することの難しさについて、人工知能の研究から人間の脳の働きに立ち返って考え、知性だけではなく、直感力や価値観をささえる情動の世界の解明の大切さも語っているが、さて10年近く経ってもコンピュータによるその分野の研究が飛躍的に進歩したとは思えない。

俳句を詠むのは、私の心に「見た」と足跡をしるすことだと考えている。

昨日の遺伝子のことを考えていて、旧約聖書のアダムとイブの子供たちは、視覚障害を持たなかったのか心配になってしまった。視力検査装置を作る人達は、自分に見えない光の検査までは考えない。右眼と左眼で立体視させる画像にしても、形状だけは立体化されるが、左右から入った相違色は混色されることなく、意識レベルではまだら模様になるが、中間色となって見える人もいるのだろうか。

高知県西部ではかなり大雨が降っている。土佐清水市や大月町では浸水家屋もかなり出ている。そんな中、高知県民文化ホールで開催された韓国の全羅南道立国楽団の公演を楽しんだ。伝統楽器のプク(太鼓)、チャング(杖鼓)、ケンガリ(小鉦)、ジン(鉦)などの生演奏も初めてであった。


ball-gs2.gif 2001.09.05(Wed)

ピンゲラップ島は、世界でただ一つ、先天性全色盲の人々が集団で暮らす島だ。
                             東嶋和子


■BLUE BACKS『死因事典』/講談社

「島」という環境のために、1775年の台風で人口が20人程になり、以来近親婚が増え、四世代後には病変が表に現れ、視覚障害を持つ子供が12人に1人の割合(一般的には5万人に1人くらいと言われる)で生まれるようになったとのこと。眼の中心窩にある錐体細胞を欠いているため光に過敏で、強い光のもとでは眼をあけていられないようである。

彼らは果たしてどんな世界で暮らしているのだろうか。かつてテレビはモノクロ画面であったが、私が始めて見た時は映っていることに驚き、映画のようにカラーでなくても楽しむことができた。

しかし、今はカラーに慣れきってしまい、ましてやハイビジョンでなければ等と欲望には際限もなく、終にはどんな角度からでも眼鏡なしで立体ビジョンが見たいと考えるようになってしまった。

人間の可視領域は380〜780ナノメートル(10−9m)と言われているが、例えば180〜980ナノメートル見える人がいるとしたら、彼は私たちの身体から発する熱までも見る事ができるのだろうか。またそこには、魂の影のようなものも浮かびあがっているのかしら・・・と、ぼんやり空想にふけってしまうのである。

高知県中村市は小京都とも呼ばれ、地元の十代地山では3日に「大文字の送り火」が行われたようである。毎年、旧暦七月十六日に送り火を焚いている。
http://www.kochinews.co.jp/0109/010904headline02.htm#shimen2


ball-gs2.gif 2001.09.04(Tue)

大文字の送り火が終わるころには、秋の試し刷りといいましょうか、夜には秋が遊びに来たりもします。
                             麻生圭子


■京都家暮らしの四季『極楽のあまり風』/文藝春秋

あとがきによると28歳当時の麻生圭子は、小泉今日子のシングル「100%男女交際」を書いた作詞家であったとも記されていた。キョン*2は私の好きな歌手でもあり、流石にシングルは無いが、アルバムを探し出して聴いてみると、よくこんな難しいリズムを寸部の狂いもなく歌えるものだと改めて感心させられてしまった。

 いつでもどこでも いちゃいちゃしたい
 つまずくふりして 抱きつく舗道
 ウインク! 嘘だよ
 Daring バカヤローッて かわいいっ

歳月を経て、住むところ、環境も変わるとこんなに変わるものだろうか。しかし、人間の天性はそんなに変わるものでも無いので、きっと根の部分には同じようなところがあって、「夜には秋が遊びに来たりもします。かわいいっ。(すてきいっ)」と跳ねたりしているのかも知れない。ちなみに、俳句では「夜の秋」は夏の季語である。


ball-gs2.gif 2001.09.03(Mon)

1980年代より、猪熊弦一郎は「宇宙」を描くようになりました。そこには既成概念にとらわれることのない、好奇心あふれる未知なる世界が広がっています。
                 『猪熊弦一郎展』リーフレットより


丸亀市猪熊弦一郎現代美術館にて、猪熊弦一郎展「カチナドールの宇宙」を鑑賞。今回は印象に残る作品がなかった。彼の絵を見慣れ新鮮味が欠けてきたのも原因のひとつである。9月22日からの「猪熊弦一郎の仕事展」のほうが面白いかもしれない。

カチナドールとは、ネイティブ・アメリカンが大地や風、鳥、狼など自然界の事象やワイルドライフを守り神として象った人形で、コットンウッド(ポプラの木)を人の形に削り、彩色、鳥羽などで装飾を加えたもの。会場には、大中小3体の実物コレクションも展示されていた。

誰かのマンガに、カチナドールの持つ力をモチーフにした作品があったのだが思い出せない。

3Fのカフェに入ると、12人ほどのグループが句会の真っ最中であった。平日にもかかわらず、この人数が昼間から集まれることに感心してしまった。指導者らしき人が高齢なので、男性は退職者、女性は主婦業といったところだろうか。当然、若者はいない。

愛媛から高知市へ、山間部は小雨であった。

夜、中村市のKさんより、「また、高知県下の超俳句結社で集まり、年間に最低1回以上の句会をしませんか?」との電話が入った。誰かが幹事にならないと進まないのだが、さて参加者は何人いるだろう。


ball-gs2.gif 2001.09.02(Sun)

われは此処に集ひたる人々の前に厳かに神に誓はん。
わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさんことを。
                        ナイチンゲール誓詞
「ウサギの足のお守りさ。こいつをあんたにやろうと思ってさ」
                             山田正紀


■ハルキ・ホラー文庫『ナース』/山田正紀/角川春樹事務所

小学生の甥が飼っているウサギに餌を与える。キュウリやレタス、キャベツ、ニンジンが好物とのことであったが、試しにサツマイモの茎を与えてみたが良く食べる。馬の好物のウマゴヤシは無いかと探してみたが、近くには生えていなかった。少し残念である。

名前はセリナとルイとか。まだ4ヶ月ほどらしく雌雄の区別は解らないという。白兎とは違って、目も赤くないし、身体も白くない。やや青灰色と白の混ざった体毛をしている。

檻から出して庭を散歩させているのを横から見ると、その前足の短さにはあきれてしまう。ウサギの前足はこんなものだったのだろうか。しかし、何かに驚いたときの垂直方向のジャンプ力は確かなもので、子兎であっても侮れない。庭のまわりは田圃や畑なのだが、逃げ出そうとなど考えたこともないように、硬そうな雑草を探しては食べていた。

「ナイチンゲール誓詞」は看護学生が戴帽式に唱える言葉。1893年、「ヒポクラテスの誓い」にならって制作したものといわれる。扉裏のナイチンゲール誓詞にひかれて読んでいた「Nurse」の中に、偶然「ウサギの足のお守り」が登場した。ホラー小説なのでお薦めはしないが、これも何かの縁なのだろう。


ball-gs2.gif 2001.09.01(Sat)

門を出て道を曲れば盆の月   高野素十


高知県立美術館において、映画「センス・オブ・ワンダー」と上遠恵子の講演会。昨年12月、この映画制作中の話を聞いて以来、少し気になっていて、高知に呼べないものかと考えていたのだが、すぐに実行してくれる人がいたり、定員300名ほどの会場を満席にするほどの鑑賞者がいたことも嬉しい。講演を挟み2回上演であった。

内容的には、上遠恵子による朗読部分が多く、私には単調であったが、それを是とするか非とするかは鑑賞者の気持の問題だろう。「野生の王国」のような、生臭い殺戮シーンがないのを好む者がいるのも事実なのだから。

夕暮れが思いのほか早くなった。明日は盆の月である。やや赤茶けたほぼ真ん丸の月が、ビルの影から昇ってきていた。


 


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まだ捜している最中。以前、眠り姫の日記を時々開いていたことがあるが、はたしてあれは何処に行ってしまったのだろう。

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