2002.05.31

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journal・不連続日誌・journal


「虚子俳話」のようにはいかないが・・・


ball-rs2.gif 2002.05.30(Thu)

「だって、マスオ、それは肉体についての印象であって、精神とは関係のないことだろう。肉体の印象にすぎないのだから、ぼくはちっとも気にしないよ。(以下略)」
                             澁澤龍彦


■『思考する魚氈x池田満寿夫/角川書店

池田満寿夫が、文章発表以前に澁澤龍彦の意見を聞こうとして電話を掛けた返答である。受話器からは快活な笑い声が響いたとも記されている。

満寿夫はこのとき初めて龍彦の「形体に対する、完全な非偏見さ」に感動して、一文をなしたわけだが、今読み返しても、澁澤龍彦の笑い声や精神の自由さが伝わってきて快い。もちろん、相手に迷惑をかけないか、知人を失いはしないか、千年の悔いを残さないか、と考える満寿夫の神経もやはり彼自身の繊細さによるものである。

初出は「澁澤龍彦集成」第4巻月報・1970年8月とのことで、すでに30年以上昔の話である。澁澤龍彦にも池田満寿夫にも会ったことはない。しかし、そこに愛すべき人間が居た軌跡はしっかりと残されている。


ball-rs2.gif 2002.05.27(Mon)

幽かなり嵐のあとの花に鳥   藤田湘子

■俳句雑誌『鷹』2002年6月号/鷹俳句会

このように「幽(かす)かなり」で始まる俳句を知らない。「鬼ともなり」の表題で発表された12句の中の1句。一読は一番薄味のように思えたが、再読してこころ惹かれる句となった。

今年の桜は早かった。上京した3月21日には、羽田からのモノレールで満開の桜を見て驚いた記憶がある。しかし、その後、雨が降り、すぐに散ってしまうのではないかと心配もしたが、もう散ってもいいよと思うほどに長く咲いていた。

そんな春嵐後の桜樹に鳥が来て鳴いていたのだろう。事実はそれだけである。また句には、そうしか書かれていない。しかし、何故、こころ惹かれるのかと問われると、嵐や花や鳥に心を寄せる作者が見えるからではなかろうか。幽かなものたち、そのどれもに命の気泡を見い出しているのではなかろうか。

下五にあっさりと「花に鳥」と置いたこれまでの名句も私の微かな記憶には残っていない。本来、具体的な一描写をもって世界を表現する俳句であるが、力のある作者ならでこその抽象化である。これ以上の省略は不可能であろう。

関係ないが、ふと思い出した句、

海へ去る水はるかなり金魚玉   三橋敏雄

耐火煉瓦を24個。どのように並べるか思案。そろそろ銅板焼き鈍しの準備に入った。頭の中に沸き出すイメージの中から、作品に完成させるモノを選びだすのは愉しくも苦しい作業でもある。


ball-rs2.gif 2002.05.26(Sun)

世界一ことばの美しい国。
叙情詩人達が哀愁を込めて歌っていた国。
そして長きに渡り人間のいとなみを見つめつづけてきた国。
ポルトガルのリスボンから、すばらしい贈り物が届いた。
                             小林靖宏


■CD解説『MADREDEUS EXISTER 海と旋律』/東芝EMI

ヴィム・ヴェンダース監督の映画「リスボン物語」が気にいって、サントラ版をはじめ何枚かのCDを繰り返し聴いていた。しかし、あまりにも身近なものだから、グループの名前も歌姫の名前もうろおぼえであったことに先日気付いた。私のために、ここに記して、今後間違わないようにしよう。

グループ名:マドレデウス(MADREDEUS)
ボーカル:テレーザ・サルゲイロ(Teresa Salgueiro)

今、数えると5枚のCDがある。時々出かけるCDショップでは、世界音楽の分野に並べられていていたはずである。

歌詞がポルトガル語であり、歌というより音楽として聞いていたため、歌詞カードが付いていたことさえ忘れていた。確かに日本語訳もある。


  「海と旋律」  対訳/国安真奈

一人として戻らぬ
過去に捨て置いたもののところへは
一人として離れぬ
この巨大な輪からは
どこを巡り歩いてきたのか

一人として思い出せぬ
かつて夢みたことであっても
あの少年は歌う
羊飼いの歌を

・・・・・(以下省略)


イエスが十字架上で最後に語った問いかけは何語だったのだろう。
ふと、ポルトガル語のような気がしてならなかった。
時代錯誤も甚だしいが。


ball-rs2.gif 2002.05.24(Fri)

かたつむりつるめば肉の食ひ入るや   永田耕衣

■カラー図説『日本大歳時記』/水原秋桜子・加藤楸邨・山本健吉 監修/講談社

句会後、蛞蝓(なめくじ)から蝸牛(かたつむり)に話がひろがり、有名な永田耕衣の一句を披露した。ついでに、句作一年のNさん持参の歳時記を調べてもらったところ、私の暗唱した句と違うではないか。おかしい、これは困る。

角川書店編「合本俳句歳時記」第三版によると、

かたつむりつるめば肉に食ひ入るや

となっている。たった一字と言うなかれ。俳句では一字に命が掛かっているのである。どう考えても納得がいかない。

仲間が、「かたつむりつるめば肉の食ひ入るか」と覚えていたが、これも「か」の疑問形では、「や」のような詠嘆の深みが出ない。

帰宅早々、講談社の「日本大歳時記」を調べると、私の記憶のとおりであった。しかし、朝日文庫の現代俳句の世界13『永田耕衣 秋元不死男 平畑静塔 集』では、

かたつむりつるめば肉の食い入るや

と、「食ひ」が「食い」と旧かなになっていない。元は昭和27年に発行された句集『驢鳴集』であり、残念ながら持っていないので確かめることはできないが、自宅の書庫をかき回し、あと3冊確認してみたが、どれも『日本大歳時記』と同じに表記されていたので、まず間違いはあるまい。

しかし、記憶力の乏しい私が頼りとする歳時記には、是非とも正確な俳句を載せてもらいたいものである。発行部数の少ない句集を手に入れことができない者のために。また、電子化する場合も正確さ最優先でお願いしたい。

快晴。書店を徘徊。


ball-rs2.gif 2002.05.23(Thu)

大学で講議をするようになってはっきりわかったのは、美術には垣根がないということ。日本画であれ、油絵、彫刻、工芸であれ、すべて一緒、なにも分ける必要はない。ただ学生には自分がなぜ絵を描かなければならないか、問題意識を持てと言っています。
                             中島千波


■『中島千波 彩図鑑』/求龍堂

日本画家、中島千波を始めて意識したのは衆生シリーズに出会ったころだった。あきらかに気持の悪い表情をした人物が描かれていて、構図の確かさは気に入ったのだが何故このようなものを描こうとしたのか不可解であった。

今では東京芸術大学教授の肩書も増えているが、美術学部デザイン科教授というのはどうしたことだろう。日本画科教授の空きがなかったためだろうか。

しかし、確かに美術の中に垣根を作るのは私たちである。本来、そんなものは無くても絵も彫刻も工芸も創作活動のひとつであり、ただ素材の違いで便宜上分けられているにすぎない。

私が工芸作品を作る時、すでにCGで下絵は完成している。そのままでもCG作品と呼べなくもないが、やはり七宝に置き換えることによって、より内面で感じているものに近付いていくのは、やはりその質感や色彩、光沢などからくるものであろう。

いつも明確な問題意識を持って作ってはいないが、心地よいだけのものにしないようにと考え、イメージを膨らませている。見た人が、もう一度見てみたいと言ってくれるようなものができれば幸いである。


ball-rs2.gif 2002.05.22(Wed)

「わかった!」からと言って、それが事実であるかどうかは、実はわからないのです。わかったと感じるのです。あるいはわからないと感じるのです。
                             山鳥 重


■『「わかる」とはどういうことか』/筑摩書房

先日、購入したばかりの本を持って、ジーンズを試着していてうっかり忘れてきてしまった。次回立ち寄ると、店員がしっかり記憶していて手渡してくれた。

堅苦しい本の題名から覚えていてくれた訳でもないだろうが、この場合、確かに私が忘れたのは事実であり、他人と区別して記憶の底に整理されていたのだろう。一方、私にとっては女性店員の顔や名前さえおぼつかなく、毎日があいまいなままでも生きていけそうな気がしている。

かつて坂本賢三の『「分ける」こと「わかる」こと』(講談社)では、「わかり合う」とは、相互に相手の分類の仕方がわかり合うことであると解説されていた。

どちらの本にも共通することは、わかるためには「わからない何か」が必要とされる点にある。世界に普遍の真理をわかろうなどと大それた考えはないが、時々、あらゆる物の中に遍在する粒子のような意識がふつふつと湧き顕っててくることがある。

その感覚を言葉でとらえようとしても、ことばにできないのが歯痒い次第である。今、風にそよぐ草の揺れを、その美しさを、誰かにうまく伝える言葉を見つけたいと思う。


ball-rs2.gif 2002.05.21(Tues)

「義(ただしい)」は、犠牲として神に捧げる「羊」と、これを切る鋸(のこぎり)「我」の合体した文字。「義」には悲劇がつきまとう。
                             石川九楊


■『一日一書』/二玄社

見応えのある字があふれている。そして、一字一字に、理知的で瀟洒な解説が添えられている。京都新聞に連載したコラムに加筆したものとのことだが、文字が語り出してきそうである。

また、石川九楊によって抽出された一字一字は、流石にその眼力によりある緊張した空間を醸し出している。ただ、本来文章を構成していたはずの一字だけを取り上げると、形はしっかりしていても寂しそうな印象を受けるのは私だけだろうか。

「義」は、呉の谷朗碑(こくろうひ)、272年、歴史上初の行書体の碑文からの抽出であった。

快晴。I氏の個展作品搬出を手伝う。


ball-rs2.gif 2002.05.20(Mon)

日本語変換ソフトに方言の要素を取り込む発想は、それまでタブーであった。すぐれて複雑かつ多重的な文化領域は、一方でどこまでも安易に流れ得る陥穽を伴う。落ちれば文化の破壊者の汚名が浴びせられること必定だ。
                             斎藤貴男


■『Associe アソシエ』2002年5月号/日経BP社

ジャストシステムが開発した文書作成ソフト「一太郎」の最新バージョンには、今年2月から日本語変換ソフト「ATOK15」が装備されているらしい。これには、方言対応第1弾として、「話し言葉関西モード」が搭載されたとのこと。

まだ使っていないのでその実力は知らない。しかし、方言への取組みは確かに評価されてよい。

ただ、私にとっては、関西モードより土佐モード、そして何より「旧かな正字モード」が欲しいのだが、Macの作業環境マネージャーのように、標準語モードやそれぞれのモードに簡単に切り替えできる機能が付いてくれば申し分ないと思っている。

現代生活者の限り無い欲求すべてに答える必要はないが、日本語の幅を広げるような開発には今後とも積極的に挑戦してもらいたい。文化は因習や規則を破壊したところからしか生まれない。

銅板切断。8M−ADSL回線快適。FTPも問題無し。これで更新が楽になった。


ball-rs2.gif 2002.05.08(Wed)

あえて言うなら言葉とは、体内の遺伝子に頼らない遺伝手段である。つまりは親から子へと知識が伝えられる手段である。これにより、人類の作る社会にひとつの知的な伝統が生まれ、それがさらに次々と改良されていくことになった。
                             桜井邦朋


■『宇宙には意志がある』/徳間書店

言葉を遺伝手段ととらえる発想が新鮮であった。ごくあたりまえの手段だが、人間の体内遺伝子ばかりに気をとられていると、うっかり忘てしまっている。

こうしてインターネットが発達してくると、言葉を文字や画像、音声で保存してものまで利用できるようになり、進化は加速する。本来なら自然淘汰されてしまっているような種でさえ保護され、生かされている。果してこれでいいのかゆっくり考える時間もなく、宇宙膨張のように地球人口も増え続けている。そして、星雲に片寄りがあるのと同じように、人間の富や貧富の片寄りも大きくなりつつある。

自分にとって生きるために必要な最少限のモノは何だろうか。銅板を切りながら、宇宙幻視のイメージがふつふつとわきはじめている。


ball-rs2.gif 2002.05.06(Mon)

この神は、高天原神話と出雲神話とをつなぐ橋渡しの役を果している存在であるが、それも両者の単なるメッセンジャーではない。
                             松前 健


■『日本の神々』/中央公論新社

立夏。愛媛に帰省のおり、5日に伊予三島の瀧神社に参拝。

この3年の間に先代が亡くなり、髭のK神主に代替わりしていた。以前、参詣の帰途、彼が私を追いかけ、交通安全の為の御神札を手渡し、高速道路入口まで道案内してくれた件を話すと私のことを思い出してくれた。

母方の祖父が氏子総代を勤めたことのある神社とは知っていたが、第一番に素盞鳴命(スサノヲノミコト)を守護神として祭っていたのを初めて知った。

松前によれば、「高天原パンテオン」と「出雲パンテオン」の神々の両面性を持つ存在が須佐之男(スサノヲ)と読み解かれている。伊奘諾(伊邪那伎・イザナギ)が、日向の橘の小門の阿波岐原で禊ぎ祓いをした時、左目・右目と鼻から、日・月・素戔鳴の三貴子が生まれた話は有名であるが、これまで素戔鳴にあまり関心がなかっただけに新鮮な驚きがあった。

不思議に思っていた参拝の作法についてK神主に尋ねたところ、「二拝して手を二つ打ち一拝する」のは伊勢神宮系、「二拝して手を四つ打ち一拝する」のは出雲大社系とのことであった。つまり、私はいつも出雲大社系で参拝していたようで、神道によっての違いから、高天原神話と出雲神話までその思いを広げることができた。またゆっくりと、「古事記」や「日本書紀」、「旧事本紀」を繙いてみることにしよう。


ball-rs2.gif 2002.05.03(Fri)

玉解いて即ち高き芭蕉かな   高野素十

■『素十・春夏秋冬』高野素十撰/永田書房

ゆったりと散歩。ふと気付けば楝の花がもう咲いている。白というよりは薄紫。

ブロック塀を乗り越え、青柳公園の真中に立って、ゆっくりと360度、カメラアングルを考えながら旋回する。樹々の緑が美しい。思いがけず背の高い樹であったり、枝打ちされたあとが痛々しかったり。しかし、確かに夏の装いに変わっている。

昼前に家人の実家がある夜須町手結漁港へ。ここでも大きな楝の花が咲いていた。鰹のタタキと刺身を堪能。タタキには藁焼きの香りがしっかり残っていた。家の前から海の中を覗きこむと、2cmほどの小魚が無数の群になって固まって泳いでいて、その形と動きを飽かず愉しむことができた。20cmほどの鰡も時々通り過ぎていく。

ふと、船のともづなのあたりに浮いてくるものがあり、一瞬、章魚が泳いでいるのかとも思ったが、どうやらピンクがかった半透明の水母のようでもあり、未だに謎である。しかし、そのスロービデオで映されたような動きと形状がしっかりイメージに焼き付き、これから時々夢に出て来そうである。


ball-rs2.gif 2002.05.01(Wen)

同じ空間を他人と共有するには作法が必要で、そんで次の段階に上がるには品が必要になる。
                           ビートたけし


■雑誌『オブラ』2002年5月号/講談社

特集の「ビートたけしの茶道入門」の中の言葉である。構成は松林隆広とあるところから、インタビュー内容を元に文章を書き起こしたものだろう。

もう4年も前になるらしいが、京都の裏千家15代家元の千宗室を訪ね、茶をふるまわれた場面がTVで放映されたことがあったが、そのときの記憶を思い出しながら多くを語っている。会話調で読みやすく、しかも、ハッとさせられるような内容が随所にちりばめられている。

ビートたけしの荒っぽい表面と、また照れ屋で恥ずかしがり屋の内面が透けて見える。茶の湯の作法が狭い茶室で必要とされるように、私たちの日常には日常の作法が必要とされる。しかし、それだけでは形式としての約束事であり、その上を目指すなら「品格」が大切になる。これは教えられても中々身につくものではない。

品のいい仕種だけではなく、品のいい心根を持ちたいものである。
「われわれは戦後からアメリカ文化を表面的に真似してさ、豊かに、ラクに生きるほうばかり向いて、不自由な中から生まれる文化を捨てちゃったよね。」とも語っている。

4月はほぼこれまでの片付けに時間を費やしてしまった。重要なものなどそう有りはしない。屋根とベッドと、飢えない程度の食物があればまず問題は無いのだが、これが充足すると、今度は反対にあらゆる欲望が湧いてくるから始末に負えない。

「品のいい生活」とは何か、少し考えてみようと思う。


 


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まだ捜している最中。以前、眠り姫の日記を時々開いていたことがあるが、はたしてあれは何処に行ってしまったのだろう。

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