2002.07.31

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journal・不連続日誌・journal


「虚子俳話」のようにはいかないが・・・


ball-rs2.gif 2002.07.13(Sat)

確かに新しい領主が新しい土地に入部した際、その名を変えるということが、民衆に支配の交替を告げる最も良い手段であるが、家康は最後までこの「エド」という地名を変えようとはしなかった。
                             井沢元彦


■週刊紙『週刊ポスト』2002年7月19日号より/小学館

週刊紙に連載されている「逆説の日本史」第486回よりの引用である。徳川家康は「穢土」の名前にこだわったためであると著者はみている。 家康が用いた旗印の一つに「厭離穢土、欣求浄土」を選んだのも、その顕われであると解読する。「江戸」に「穢土」が隠れているとは思いもよらなかった。たまたま地形的に江戸と呼ぶにふさわしい入り江のあった場所くらいにしか考えていなかった。 確か奈良時代から「江戸」と呼ばれていたはずである。その地が俄然注目を浴びたのは、徳川幕府が開かれてからのこと。地名を変えれば歴然として支配者交替を天下に知らしめたはずであるが、やはり仏教的色彩が濃厚に反映していたようである。

ball-rs2.gif 2002.07.08(Mon)

情欲の行為とは恥ずべき放蕩三昧に
精神を浪費することであり、また情欲とは
行為にいたるまで偽誓、殺人、悪意に満ち、
野蛮、過激、粗暴、残忍で信頼すべくもない。
                    ウィリアム・シェイクスピア


■『シェイクスピアのソネット』小田島雄志・訳 山本容子・画/文藝春秋

第129編の冒頭4行。135編や136編は少し過激なので控えておこう。

この原文の『ソネット集』154編が出版されたのは1609年。つまり、日本では江戸時代に入ってすぐの頃だが、人間心理について深く透察する作家はいつの時代にも存在する。

しかし、やはり山本容子の挿絵なしでは、この詩編すべてを読む気力は失せていただろう。詩である以上、どこから読んでもいいのだが、やはり前から読みはじめ、途中で挫折するのはいつものことであった。

手許にあった思潮社の海外詩文庫『シェイクスピア詩集』の翻訳などと読み比べて楽しむのも、私の読書法である。裏返せは翻訳をあまり信用していないからに他ならないのだが。

言葉が精神の現れであるとしたら、情欲は本能の現れだろうか。人間の生存を守るためだけではなく、肉体の快楽のためにもあらゆることが許されるとしたら、放蕩もまた貴種を残すための神の企みかもしれない。

それが浪費だとどうして言えよう。シェイクスピアもそれを先刻承知。「天国とも見える女を避ける道はだれも知らない。」と締めくくっている。

先日、ある先輩俳人に、天真爛漫な俳句を作ってみたいと話した。「恥ずべき放蕩三昧」など、そうあるはずもなく、せめて精神の放蕩三昧に浸ってみようと思う。


ball-rs2.gif 2002.07.07(Sun)

この作品は、ものの性質や形態をうたうことから、ものの存在をとらえる作家に成長したことを証明している。だがその当然の帰結として飯島さんは、言葉との果てしない格闘に身を委ねることになった。
                             藤田湘子


■『飯島晴子全句集』/富士見書房

この作品とは、飯島晴子第一句集『蕨手』におさめられた

一月の畳ひかりて鯉衰ふ

の一句である。句集『蕨手』には、上記の一節が含まれる藤田湘子による序文があるだけで、著者の後書、写真、略歴すら記されていない。

昨年10月に出版された『飯島晴子読本』の中でも読んでいたのだが、こうして全句集にまとめられ、その初めに置かれていることでますます注目せざるを得ない文章となった。つまりこの言葉が飯島晴子論そのものなのである。

私は、塚本邦雄の短歌から入り勉強のため俳句を始めた当初、同感しやすかったのは

天網は冬の菫の匂かな
孔子一行衣服で赭い梨を拭き
百合鴎少年をさし出しにゆく
蛍狩白歯のちからおもふべし
月光の象番にならぬかといふ

などの物語性の強い句であった。そこから離れよう離れようとして、素十や蛇笏を繰り返し読み、ものの存在をなんとか捉えようとしてきたのだが、その決断がゆるむとすぐわかりきった性質や観念を埋め込んで作句してしまうのが常であった。

もう一度、言葉との格闘の道を私も選んでみようと思う。


ball-rs2.gif 2002.07.03(Wed)

少なくとも、この祭りを若者の手で開催して、自己表現できれば、何かはきっと変わるだろう、という思いを込めて、「日本は変わる」にしたのです。
                             長谷川岳


■『YOSAKOIソーラン祭り
       街づくりNPOの経営学』坪井善明 長谷川岳/岩波書店

「街は舞台だ 日本は変わる」がこの10年間のテーマ・キャッチフレーズだという。高知の「よさこい祭り」を手本に、仲間たちと北海道に新たな祭りを創出した長谷川岳の思いが語られている。

それは、「日本を変える」でも「日本が変わる」でもない。たった一文字の助詞で大きく意味が変わっていくのである。同書によれば、この言葉は、10年前、北海道知事と高知県橋本知事の対談のサブ・テーマとして当時東京大学4年生であった川竹大輔が創作したとも紹介されている。

言葉にこだわるとは、自分達の思いにこだわることでもある。決まりや規則、法律に縛られるのではなく、それはこころの問題として騙せない拠り所なのである。しかし、普段はそう思わず、何と言葉をおろそかにしていることか。

企画書なるものをでっちあげ、詳細に読みもしない人達にもコピーして配付する愚かさ。それは資源浪費や環境破壊にも繋がるだろう。だからこそ、その企画書の一言には、人を動かす思想が盛りこまれていなければならないはずである。しかも、薄っぺらな思想だけでは人は動かない。


ball-rs2.gif 2002.07.01(Mon)

渦巻くはさみし栄螺も星雲も   奧坂まや

■俳句総合誌『俳句研究』2002年7月日号/富士見書房

宇宙創世よりの謎である。

なぜ、渦巻くのであろう。直進すればよさそうなものだが、光りさえも渦巻いている。スピンがかかることによって、重力を振り切るように飛び出すさまは、まさに放蕩息子と同じ、いや、放蕩息子がそれを真似しただけのことではあるが。

奧坂まやの魅力は、直球勝負といった具合に、言葉の力でぐいぐい押し寄せてくるところにある。「3ヶ月連続競詠」の今月の20句も、

打ちゆがむサンドバッグや日の盛

から始まり、重いジャブに頬を何度も打たれ、参りそうなところに、このパンチである。しかし、そのパンチにも情けの優しさがある。もっと非情であれば憎めるものを、「渦巻くはさみし」と強打の一方で、介抱するようなアッパーとも取れる。ストレートというより、やはりアッパーパンチであろう。

眼前にあるのは栄螺だけである。空を見上げても星雲は見えない。いつか見た天体写真の馬頭星雲やマゼラン星雲を想い浮かべながら、この銀河、太陽系、そして、女である自分自身の体内を感じているに違いない。

謎が深まるたびに、俳句が愉しくなる。


 


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