1991.10

夏風渡る

轍 郁摩

欲りしものなべて手に入れその後の真裸のかみ何に恋ひせむ

紅あぢさゐ運ぶヴェニスの父と子の声似るゆゑに戦ひやまず

ボッティチェッリ『春』の前にて空腹と疲労うつたへ名画あやふし

神は不在かヴェッキオ橋珊瑚店石階の奥鎚音もるる

アッシジの天の剥落仰ぎゐてうつつ白緑「鳥にしあらば」

抱擁の鼓動におもひいたるとき恋とは死とは青春なりき

在らざればあらざるままに過ぎゆくを紅蓮の沼に夏風渡る

海神の白き彫像そそりたち滅びの後を唄ふ鯨よ

一足先に海芋買ひしめたるきやつが愛人とはいかなる未来ぞ

美しき戦(いくさ)も一世 靉靆の太刀なきわれら死後がおそろし

忘られて 愛のなごりのまなざしを鰐飼ふをとめ虚空に放つ

飽食にこころの飢を満たしつつ汝が病むためのくれなゐの酒

一人の師が昏々と眠り続け合歓の谷行くバス転落す

ガラス炉の底抜け落ちて一日を青水無月の国を愛せむ


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Ikuma Wadachi