2002.01.31

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journal・不連続日誌・journal


「虚子俳話」のようにはいかないが・・・


ball-gs2.gif 2002.01.20(Sun)

これで花火が芸術になった。
                              蔡国強


■テレビ番組『地球に好奇心−−蔡国強、火龍のごとく』/日本放送協会

深夜のBS放送を見ていて、久しぶりにワクワクするものがあった。

プロジェクトの意義とか、政治とか、お金とか、すべてとっぱらって、芸術についてだけのことではあるが、まだ見ぬもの、作家の想像を越えたものが産まれた瞬間を垣間見ることができた。

蔡国強(ツァイ・グオチャン/Cai Guo Qiang)は、火薬を使用することで有名になった現代美術家である。実際、彼のインスタレーションに立ち会ったことはないが、その雰囲気は軌跡として残った導火線や火薬の燃え跡から、面白いことを考える中国人がいるものと思っていた。

テレビ番組は、昨年10月、上海で開催されたAPEC(アジア太平洋経済協力首脳会議)の歓迎イベントとして、彼に企画依頼した20分の花火の計画立案から、仕込み、その瞬間までのドキュメントであった。

計画後、9月11日の米国同時多発テロの影響もあり、一時は中止になりそうな場面や上層部の意見に取り止めになった案もある。しかし、それらを乗り越え、「花火(火薬)と導火線とコンピュータ制御技術を用いた大規模な屋外プロジェクト」として、上海の町を包み込むような大掛かりな破壊と創造を見せるものであった。

何より花火の制御室から次々にくり出された「火龍」他の花火演目を見ながら、蔡国強自身が喜び、感激して大声を上げていたのである。かつて岡本太郎が「芸術は爆発だ!!」といったそのままでもあった。

芸術のためには、それ以外のすべてのものを忘れ去らなくてはならない。


ball-gs2.gif 2002.01.19(Sat)

俳優は、「自分」の及ばない「他人」を演じなければならないことも多いのですが、そういう「他人」を演じ続けることで「自分」を多少はふとらせる、深めることも出来るようです。
                             小沢昭一


■『句あれば楽あり』/朝日新聞社

井上ひさし作「芭蕉通夜舟」について語った文章の中の一文である。芭蕉だけしか登場しない一人芝居だが、かつて見た舞台を懐かしく思い出しながら読むことができた。

話芸の達人でありながらそれをひけらかさず、笑いを誘いながら面白可笑しく語るその内容には深みがある。

「野宿する身の貧しさ、やるせなさ、切なさ、侘びしさを、あべこべにこっちから笑顔で迎え出ること、それが誠の<心のわび>というものではないのかな。わびとは貧者の心の笑顔のことさ。ちがってたらごめん。」

という、芭蕉四十歳、木曾福島の野宿での台詞が好きだったと小沢は言うが、芭蕉を演じ、彼の心もいっとき芭蕉になっていた。自嘲気味に観客にかたりかけ、最後に「ちがってたらごめん。」というところなど、井上ひさしなのか小沢昭一なのかの区別すらつかない。何ヶ月も、また何年も、そうした「他人」を演じることで、役者としても成長し、いつも自分を改革してきたのであろう。

山の冷気は日が落ちると急速に広がってくる。Bと遊ぶ。


ball-gs2.gif 2002.01.18(Fri)

荒涼とにんげん居りぬ紅葉山   奧坂まや


■年鑑『俳句研究』2002年版/富士見書房

掲出句は、2001年度作品の中から奧坂まやが「諸家自選句5句」のために発表したもののひとつである。

物に付いて、小さな世界を描く手法とは別のものである。日本の歴史や伝統文化を想起させる風景としての「紅葉山」が示されるだけで、後は何も言ってはいない。

しかし、「人間」ではなく「にんげん」とひらがな書きにされると、それが漠然としたものであっても、弱々しく、力のない、自然に比すべきもない存在として、作者やわれわれの無力感を訴えてくる。

「紅葉山」には、その我々の身体のなかを流れる血や夢、儚さを感じさせる。「紅葉狩」に出かける楽しさや人の賑わいとは無縁で、「荒涼」と自然から突きはなされた自分を思う時、無常感の一端に触れる思いがする。

私にとってはこの句は謎である。なぜ2001年度の自選5句に選んだのか。もっと小宇宙を描いた名句があったはずである。それらを落し、それでも言いたかったこととは何なのか。俳句が「黙る文芸」であるなら、作者はもっと深い思いを持ってこの一句を提示してきたはずなのだから。

資料整理。2年近くのデータを、ノートやメールから抜粋。


ball-gs2.gif 2002.01.16(Wed)

もともと情報には、情報の「地」(ground)と情報の「図」(figure)というものがある。「地」は情報の背景的なものであり、「図」はその背景にのっている情報の図柄をさす。
                             松岡正剛


■『知の編集工学』/朝日新聞社

文章をたどりながら、人間の目や視覚、五感、脳の認識能力について、漠然とではあるが、その巧みさを思わずにはいられなかった。ビデオに撮影した2次元の映像から自動認識で特定の物体形状を抽出し、まだ3次元データとしてコンピュータに取り込むことができない現状において、人間はなんと容易にそれをこなしていることだろう。

「地」と「図」を分けるとは、まさに俳句のできる瞬間のようでもある。特定の情報を「図」として言葉でとらえ、「地」から分離、抽出すること。それを言葉ゲームとして愉しんでいる人間を俳人と呼ぶのだろう。中には「図」を見つめる五感を研ぎすますために俳句を創る者もいる。

つまり、「遠山」や「日」、「枯野」といった抽出ではなく、「遠山に」、「日の」といったとらえ方によってはじめて作者の思いが固り、ある一定のベクトルが生まれ、一句が生成されていく。

遠山に日の当りたる枯野かな   高浜虚子

松岡正剛の事物への関わり方は、「編集」というキーワードで読み解こうとするものである。それは、複雑な事象を最少単位に分解し、自分に理解しやすい形に構築する作業にほかならない。

「先に情報があって、その情報の維持と保護のために、ちょっとあとから”生命という様式”が考案されたのだ」という考察は、松岡のものだろうか。それとも、すでに誰かが発表している考えなのだろうか。SFではよく話題になりそうな話なのだが、佐藤史生のマンガ「ワン・ゼロ」などもこの系列に並べることができるだろう。

昨夜から小雨。昼には止み、太陽に照らされ水蒸気があがり、遠くが霧につつまれているような雰囲気であった。1月とは思えぬ暖かさ。


ball-gs2.gif 2002.01.13(Sun)

一番になることは確かに格好がいい。でも競馬では一番速い馬は雄々しく逞しい馬というのではなく、あれは敵に襲われたときに逃げる本能で走るのだそうだ。
                            大場みな子


■日刊『日本經濟新聞』2002年1月13日、36面/日本經濟新聞社

確かに野生馬ではそんなこともあろう。しかし、それでも群れを率いて先頭を走る馬は「雄々しく逞しい」馬がほとんどであろう。

草食動物では本能的に逃げるように遺伝子にプログラムされているらしく、群れの一頭が駆け出せば、その後を追うように次々と駆け出していく。それこそが生き延びるために仕組まれたプログラムなのだから。ただその先頭を「女々しくか弱い」馬が走ることはないだろう。群れを指揮し引率する力が常に試され、生き残ったものの中からもっとも強いものがその任にあたるのだから。

過ったひとりのために、多くの者が犠牲になった史実をいくつも知っている。しかも、その学習の甲斐もなく、いつの時代にもこの災いは繰り返えされる。

工芸作品「神の与へしものら」制作。完成にはまだまだ遠い。図面を広げ、作業にかかると時間がたちどころに過ぎていく。大作と呼べるものを今後いくつ創ることができるだろうか。案は次々に浮かんでくるが、それを形にとどめ金属や七宝に置き換えるには、ただただ時間との闘いである。


ball-gs2.gif 2002.01.12(Sat)

高知市から車で1時間ほど物部川を遡れば、歌人吉井勇の愛した猪野沢温泉があり、河鹿の声が聞こえるほどの静けさである。
                             轍 郁摩


■『新選 俳句枕 6中国四国』/監修 藤田湘子/朝日新聞社

掲出はかつて土佐の俳枕紹介に書いたものよりの抜粋である。

昭和2年開業の猪野沢温泉も、火災や後継者問題で閉じられていたのだが、昨夜のパーティーに艶やかな和服姿で出席していたO母娘がその跡継ぎであり、もうすぐ再開できるとの話を伺った。これまでも何度か会って言葉を交わしていたのだが、これも不思議な縁である。かつて、吉井勇が長期滞在していたこともある「溪鬼荘」は藁葺き屋根の宿で、こじんまりとしたいい雰囲気をたたえていた。たった2組しか泊まれない宿もまた鄙びて好ましい。

今日は美しい夕焼けであった。雲のない山際に沈む夕日とその後の茜空も趣きがあるが、やはり棚引く雲が薔薇色に染まり、刻々とその色が変化して終には光りを失ってしまう様はなにものにも変え難い。

日中は春4月のような陽気の一日であったが、さすがに日が沈むと冬らしい寒さとなった。Bと遊ぶ。


ball-gs2.gif 2002.01.11(Fri)


仕事に関連した新年会&祝賀会に出席。高知Pホテル。立食パーティー形式であった。しかし、女性が少なく、酒の量は多くなるが、食べ物がずいぶん残ってしまった。環境負荷を少なくしようと推進する会でさえこれなのだから、一般的には無駄になっている食べ物も多いに違い無い。この風潮をなんとかしたいと常々思っているが、自分が幹事となって綿密な打ち合わせしなくては解決できないものだろうか。

一方で、阪神大震災の記憶を風化させないために500円募金を行い、竹を利用した灯りを並べ、イベント後は竹炭にして神戸に送ろうとする募金運動にも参加。各パーティー参加費から500円ずつ食材を削り、その費用を災害や飢饉支援に回すことができるシステムを創れば、食べ物が少なくても文句をいうことも無いと思うのだが、全員の合意を取ることはまだまだ難しい。ただ、そんな場合でも、会話の潤滑剤としての酒量だけは減らさないで欲しいと考えている。

パーティー会場で、二人目の子供が産まれるMより娘の名前に何か良い候補はないかと尋ねられたが、私なら「素夜」と名付けてみたいと話した。もちろん私には子供はいない。男児の名前は考えたことすらないのだが。


ball-gs2.gif 2002.01.10(Thu)


「クエ鍋会」に招待された。汁の味付けが絶妙であった。聞けば特別の醤油・柚子果汁を用いているとのこと。もちろん、クエも高知市弘化台市場の知人に頼んで届けてもらったもの。さて、クエはハタ科だが、魚偏に何と書くのだろう。


ball-gs2.gif 2002.01.09(Wed)

帖名だけで本文のない帖。
「雲隠」という言葉は光源氏の死を暗示しています。

Only the chapter title,which implies the death of Genji,the Shining Prince,remains.
                         マック・ホートン


■対訳『源氏物語』宮田雅之 [切り絵] /英訳 マック・ホートン/講談社

上掲文は、もちろん源氏物語41帖「雲隠」についての解説である。年末に切り絵師宮田雅之による挿絵付き簡易対訳本を見つけ、挿絵表現と各帖の内容を比較しながら楽しんでいる。

「光源氏」の名前は、全世界に知られた日本人の名前の一人かもしれない。しかし、その死を語らず、帖名だけで逝去を知らせる心憎い趣向には、紫式部の才能を羨むばかりである。

名を隠すこと、それはひとりの人格の消失やたとえば荼毘に他ならない。

葬儀に参列。真言宗の僧侶であったが、せっかくの経文が聞き取りにくかった。プロならば、発声法や教典をもっと真剣に勉強すべきではなかろうか。末寺の僧のことまで知らぬと高をくくるのなら、それはその宗派の堕落に繋がるだろう。


ball-gs2.gif 2002.01.08(Tue)

春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空
                             藤原定家


■『新古今和歌集』/日本古典文学全集/小学館

従兄の急逝の知らせに午後からJRにて愛媛へ。風が強く、瀬戸大橋を渡るJRが運休しているため、ダイヤが乱れていた。四国山中、雪。確かに多度津で乗り換え、瀬戸内海にさしかかると荒波が立っていた。

車中、ぼんやり土曜日に書いた塚本邦雄の「夢の浮橋」の歌のことを考えていたのだが、大切な歌との関わりをすっかり忘れていたのに気が付いて独りあせってしまった。ここで定家の歌を抜いては、読みは半分にも満たなくなってしまうだろう。

「不惑、耳順、他人事として過ごしけり」の後ろには、今年80歳を迎える彼にとっては、80歳で亡くなった定家、90歳まで生きた藤原俊成への思いや寂しさがひとしお身にしみるのではあるまいか。

「夢の浮橋」がたよりない愛恋や命の象徴であるばかりに、「別るる」寂しさが思いやられるのであった。


ball-gs2.gif 2002.01.06(Sun)

ゼントルマン・ライダー、ルフュス・フロックス卿よ、なんだというので、あなたはまた自分の名前を、馬になんかお付けになったんですか?
                    ジュール・シュペルヴィエル


■『シュペルヴィエル抄』/堀口大學訳/小沢書店

馬と一心同体になった男の悲劇である。しかし、堀口大學の訳は、フランス語の読めない私にも、原文以上の思いを伝えてくれる。

姫始めとは、男女のそれに使うようだが、もともとは宮中で正月五日に騎馬始めを行ったことから、飛馬始め、騎初(のりぞめ)ともいった。また、姫(女性)が水を使って炊事を始めることもそう言ったようである。

新春の京都競馬場へ行きたいと思っていたが、そうもならず、5日ならぬ6日に初めて馬を観る。冬至を過ぎ、やや日が沈むのが遅くなったようだ。山の端に沈む真っ赤な夕日と、その後の冬茜の色が何ともいえず穏やかな一日を感じさせてくれた。

夜はBSハイビジョンで楽しみにしていた映画「ブレイブハート」。13〜4世紀のイギリスの話だが、まだ鉄砲の無かった時代の戦闘は力のぶつかりあいそのものであった。この映画、馬が残酷に殺されるシーンも多いが、それ以上に活躍の様子も伺える。メル・ギブソン好演で、私好みの映画ベストテンに入るものである。

Jと遊ぶ。快晴。


ball-gs2.gif 2002.01.05(Sat)

「淵」「唇」と「ち」の「つく」言葉おそろしと友言へど「ともしび」は大嫌ひ
                             塚本邦雄


■総合誌『短歌』/2002年1月号/角川書店

「ち」に鉤カッコがあるのは解るが、「つく」にまで何故と思って考えてみれば、これは「血の付く」ものが恐ろしく、忌わしく思えると塚本は言っているようだ。かつて友人が、彼は自分の血を見ても気絶するくらい「血」が嫌いなのだと教えてくれたことがあるが、真偽のほどはわからない。

それでは何故「ともしび」は嫌いなのか。明かりが「つく」から嫌いなわけではあるまい。「Right」ならぬ「right」、政治的な「右」も「左」も、彼は嫌っているはずである。もちろん付和雷同の「右へならえ」などもってのほか。はたまた、「友」の「詩碑」まで嫌いと読むのは穿ちすぎというものであろうか。俳句と異なり、ひとり空想をめぐらし、あれこれ読み解く愉しみがあるのも塚本短歌の特色である。

不惑、耳順、他人事として過ごしけり「夢の浮橋」渡りたれども   邦雄

源氏物語54帖「夢の浮橋」では、薫の手紙を浮舟の元に縁ある少年に持たせる話であった。40、60、命の長さなど他人事のように思っていた塚本も、最愛の妻に先立たれ、こころ半ばは此岸と彼岸に掛かる橋を渡ったこころもちなのかもしれない。

彼は2002年には80歳。しかし、まだまだ旅の途中のはずである。彼が見残したものを視るのも大切。そしてまた、われわれに見えないものを見せて欲しいものである。塚本邦雄の良さは、中途半端に悟らない僧頭のような真剣さである。

今さらながら、親知らずを抜歯。血が額まで飛んでいた。快晴。


ball-gs2.gif 2002.01.01(Tue)

落書きこそは書の出発である。書(筆蝕)は意識が言葉に転換する、意識でもあり言葉でもあるという接点に立つ表現であり、書の表現の中には、言葉になりきれなかった意識が膨大に詰まっている。
                             石川九楊


■『書を学ぶ』/筑摩書房

書のほとんどが文字で表現されるため、鑑賞者はなんとかその文字を読もうと努めることになる。つまり、筆者の頭の中の思考が言葉になり、文字に表現されたものを頼りに、その筆者とコミュニケーションを図ろうとしているのである。

しかし、それだけではない。石川九楊は書の中には、「言葉になりきれなかった意識」が膨大にあると言っている。その点では、絵画と似ている。ただ、絵画の場合は、最初から読んで解ろう、理解しようとする人が少ないため、好き嫌いでほとんど片付いてしまっている。制作者の思いを読み解くより、その色彩や形状の美しさを楽しむことに重点が置かれているようである。

その意味では書も似たようなもの。読み解けないような文字であっても、全体のバランスや墨色の変化の美しさを充分に楽しむことができる。しかし、一旦、言葉の意味を探ろうとすると、その言葉に現わされていないものまで確かに詰まっているように思えてならない。

さて、今年も名前や言葉を探す旅に出てみよう。それらをいつか捨てるために。


 


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まだ捜している最中。以前、眠り姫の日記を時々開いていたことがあるが、はたしてあれは何処に行ってしまったのだろう。

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