2001.02.15

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journal・不連続日誌・journal


「虚子俳話」のようにはいかないが・・・


ball-gs2.gif 2001.02.15(Thu)

両岸に両手かけたり春の暮   永田耕衣

■句集『生死』/ふらんす堂文庫

ふらんす堂のテーマ別精選句集シリーズの文庫の薄さが気に入っている。永田耕衣句集にしたところで80頁である。JR東海のBOOKS KINOKUNIYA のカバーが付いているから、旅先で求めたものであろう。高知市内で自分が読みたいと思う句集を探すのは至難の技なので、出会った時に買っておくことにしている。

昼の散歩の途中、国分川にかかる橋の中ほどで自転車を止め川面を熱心に見ている男の姿が目に止まった。何を見ているのだろうと、つられて近くまで行ってみたが、鴨が5、6羽泳いでいるだけで、特に不自然な様子はなかった。そんなに永く見つめるほどのものでもないと思ったが、そのあと、白鷺が遠くから飛来し、頭上を通り越していった。

昼の日差に、川岸一面に生えた蘆の枯れざまが見事な光沢を見せていた。自然の蘆も年々少なくなっているが、このあたりは護岸工事の後も少なくなったとはいえまだかなりの広さで残されている。散歩に望遠鏡を持って出れば、楽しいバードウォッチングができるだろう。

ball-gs2.gif 2001.02.14(Wed)

鎖の先には丸い大きな球がついていた。一目で上等のものだとわかる繊細な彫り模様が施された、それは美しい薔薇色の珊瑚だった。

                           光野 桃


■『着ること、生きること』/新潮文庫

ミラノで活躍する日本人のレーナと出会った場面である。母の形見の簪に付いていた珊瑚の玉をペンダントに再生したものをシルバーグレーのサテン・シャツの胸元に付けていたという。光野桃は繊細な感性で出会った人やモノたちについて、色彩、マチエール豊かに描き出して見せてくれる。この珊瑚玉は高知で作られたものかもしれない。

かつて有名なジュエリーアーティストの方を高知市郊外の大きな珊瑚店に御案内したところ、店を出られた後「うさぎのように目が真っ赤になりました」とおっしゃった言葉が今も忘れられない。

昼食前に少し散歩を日課にしてみようと思いたった。30分ほどであったが、万歩計によると、本日の歩行消費カロリーは201Kcalであった。目標の350Kcalにするには、かなり歩かないといけないことになる。

ball-gs2.gif 2001.02.13(Tue)

「正しい」道より「楽しい」道を選んでいけば間違いないそうです。
あれ?すでに矛盾してるな、この文章。
                           佐藤由紀夫


■Relay Column『ついてる理論2』/Tokyo Copywriters Club Homepage.

インターネットの本屋さん、まぐまぐメールマガジン「Weekly soho vol.196」の中で、コラムニスト・夏野ききょうさんが取り上げていたので、その原文を探し、サイトの中から引用させていただいた。2001年2月6日と記されていた。

東京コピーライターズクラブのWebサイトを閲覧したのは始めてだが、TTCリレーコラムでは一人の会員が一週間書いて、翌週のスピーカーを推薦する方式であり、なんだか宝くじのようで面白かった。指名されても沈黙可とのことであるが、はたして何も書かないコピーライターがいるのだろうか。

何かの分岐点にたったとき、選ぶ基準は「正しい」より「楽しい」だそうで、これは私の日常の指針と全く同じである。

古い愛用のKYOCERAの携帯電話、12月に契約したH”のSANYOのPHSに続いて、新型iモードF503iの携帯まで手に入れてしまった。3本持ち歩くのは大変なので、出かける時はどれにしようか迷っている。迷うことも楽しみのひとつであるが、すでに電話という範疇を越えた新しい装置と思ったほうがいいようである。

ball-gs2.gif 2001.02.12(Mon)

たんぽぽのサラダの話野の話   高野素十

ふと脈絡もなく浮かび上がってくる俳句がある。たんぽぽを見たわけでも、黄色い洋服の女性とすれ違ったわけでもない。安全地帯で東から来る電車を待っていた数分の間のことである。帯屋町まで路面電車で8分足らずの距離なのだが、不具合になった懐中時計と同じものを買いに出かけた昼頃のこと。少し暖かくなりはじめた陽気に、セーターの上にコートではなくブレザーで良かったかしらと思ったからだったろうか。

今、手許の全句集によると、昭和28年(1953年)作となっている。その当時、サラダという言葉が新鮮であったかどうか知らないが、今ほど各家庭で一般的に食べられていたとも思わない。まして蒲公英のサラダとなると、食用よりも子供のままごとのようではないか。

一句が俳句なのか唯事なのか見きわめの難しいところである。しかし、素十の大きな耳に止めども無く語りかける童女の姿が私には見えてしまう。この俳句には志のかけらなど微塵もないが、暖かな光があふれている。

ball-gs2.gif 2001.02.11(Sun)

合田さんの涙は、悲しいとか、むなしいとか、つらいとか、そういう人生というものの、しみったれた泥臭さは微塵も感じさせません。
                           森村泰昌


高知県立美術館で「森村泰昌と合田佐和子」展が始まった。美術館の部屋を各々の作品で埋め尽くしているが、お互いへの賛辞を各室の入口に掲げてあった。合田佐和子は高知県出身、森村は大阪出身である。二人の似たところが私には感じられないのだが、あるとすれば、それは他者の作品を元に自分のものに変換して創作する手法くらいのものであろうか。もちろん芸術家にとっては、この手法創出こそが命と言えるほど大切なものではあるが。

森村が言うように、「しみったれた泥臭さ」が感じられないとは、鋭い指摘であり共感させられてしまった。今回の展示会の為に制作された「ロゼッタ・ギャラクシー」でもそうだが、合田佐和子は生半かな苦悩など捨て去ったように、イラストレーションのような油絵を描くのである。いつまでも重苦しい絵画になどならないでいてもらいたいものである。

私好みの作品は、裸の少女が横たわった背景で都市が赤黒く炎上する「燃える街」(1973年)である。しかし、作品のイメージを壊す彼女のサインだけはなんとかならないものか。

二人展と美術館ホールで開催中の「地中海映画祭」、そして高知大学卒業制作展まで欲張って見ようとして落着きのない身体となった。しかし、森村泰昌の河内音戸のビデオ上映なども見て笑うことができ、久しぶりに充実した一日であった。

ball-gs2.gif 2001.02.10(Sat)

おもうに短歌のような体の抒情詩を大っぴらにするということは、切腹面相を見せるようなものであるかも知れない。むかしの侍は切腹して臓腑も見せている。
                           斎藤茂吉


■『赤光』/斎藤茂吉作/岩波文庫

確か歌がどこかに書き留められていたはずと、茂吉の資料を探しているうちに読みふけり、「赤光」再版に際しての詞書に目が止まった。しかし、思いはすでに抒情詩から離れ、「侍」、「切腹」、「三島由紀夫」へと連想が広がってしまう。

主君から命ぜられての切腹の意味、あるいは自死、死ぬ手段としての切腹ではなくその臓腑を見せ、腹心のなさを証明しようとする行為についてである。短歌を詠うとは私が考えているような軽いものではなのかもしれない。私はこれまで、創作の一手段として、沸き上がるイメージ、天啓のようなものを伝えようとしたにすぎなかった。

ball-gs2.gif 2001.02.09(Fri)

この心葬り果てんと秀の光る錐を畳に刺しにけるかも
                           斎藤茂吉


昨日の日誌の「本来文は志を述べるもの」が頭を離れない一日であった。仕事中に何度もこの言葉が浮かび上がり、「それだけではないはず」と一人問答を繰り返していたのである。

こんな日に限って仕事が忙しい。と言うより、締めきりのある仕事に間にあわそうとするから、仕方なく忙しくなってしまう訳である。私にはそんな能力もないと捨ててしまうか、手抜きをして質を落せば楽なのだろうが、やはり仕事も頼めない男と思われたく無い自尊心が少しばかり残っているために無理をしてしまう。深夜11時半終了。

ball-gs2.gif 2001.02.08(Thu)

文には二種類あります。売ってはならぬもの、売るものの二種類です。
                           山本夏彦


■『百年分を一時間で』/文春新書

「本来文は志を述べるもので、売るものではありませんでした。」と続く。著者の生まれた大正4年(1915年)には、すでに文士・文筆業という職業があったはずである。だからこそ、自らへの戒めとしても言い聞かせているに違いない。

講師や指導者、出演者として糊口をしのがず、著述業だけで志を述べて生活できる人が今はどれくらい居るだろうか。ましてや俳句や短歌だけで原稿用紙を埋めるのは大変なことである。彼の父は金利生活者であったらしいが、それもまた一つの生き方。

少し天気が回復してきた。暖かくないと外を出歩こうという気持ちになれないので、せめて数日間は続いてもらいたい。日曜日の予定は、「菜の花吟行」か「地中海映画祭」、めずらしく迷っている。

高知市民図書館の視聴覚ライブラリーには「小沢昭一 日本の放浪芸」のLPがあるとのことであったが、閲覧も貸出しもしていなかった。誰のために保存しておくのだろう。このまま在庫整理で捨てられるのだろうか。

ball-gs2.gif 2001.02.07(Wed)

人間は心で食を摂ることのできる動物であり、それは我々人間だけの特権です。
                           関谷文吉


■『魚は香りだ』/中央公論新社

私は牡蠣や海鼠が好きである。地ガキも良いが、居酒屋で出される酢醤油の濃い味は苦手(鹹さがダメ)で、養殖ものでよいからレモンを絞って、ちょっぴりケチャップを付けながら堪能するのが楽しみである。殻の付いた牡蠣焼きも美味しい。しかし、数が少ない時は、香草の味わいは良いのだが、身が小さくなるようで少し損をしたような気分になったりする。

もともと贅沢とは縁遠い食生活で育ってきたため、何でも食べられるだけで満足なのだが、「人間は心で食を摂る」などと言われると、今日いったい何を食べたのかさえ思い出せないありさまでは、恥ずかしいかぎりである。

しかし、毎日とはいかなくても、心に何か感じながらゆっくり噛みしめるような食事をそろそろ心掛けないと、身体が危険信号を発し始めているように思えてならない。

夜、全天を覆った雲の明るんだ辺りを見上げていると、雲の隙間を見つけて淡く霞んだ満月が一時現れた。何もできぬまま、はや半月たってしまったあせりのようなものを感ぜずにはいられなかった。

ball-gs2.gif 2001.02.06(Tue)

詩歌とは死の究極を想はせて口ごもりつつまことを述ぶる
                           塚本邦雄


■『玲瓏』第48号/玲瓏館

詩歌の中には詩、短歌はもちろんのこと俳句も入っているだろう。そして、自歌の中で歌についての定義を、歌人塚本邦雄は何度繰返してきたことだろう。今だ彼の心を満足させる解答が見つけられないように、今またこれでもかと叩きつけてくる。

しかし、あの早口の彼をしても、口からすらりと流れ出る言葉では説明できず、一文字づつ口ごもるように恐れをもって開陳する心の内は「まこと」なのである。私の目にはいつも彼はまことしか語ってはいなかった。しかし、一見きらびやかで装飾的、あるいは衒学的フレーズに気を取られてしまいがちで、その心底が多くの人に誤解されやすかったことは確かである。彼の豊穣なイメージや想いは、わずかな言葉だけではとても表せそうもなかったのである。

「いたみもて世界の外に佇つわれ」であった塚本が、今や私達とともに現世に佇っていることを隠さず、「まことを述ぶる」のであればその痛みを分けてもらわねばなるまい。この惑星が滅びる前に。

ball-gs2.gif 2001.02.05(Mon)

話が節になり、節が話に変わっていきながら、話と節が輝然一体となり、単純な話をおばあちゃんたちの胸に刻み込んでいく。
                           市川捷護


■『回想 日本の放浪芸』/平凡社新書

俳優小沢昭一に出会い、30年前「日本の放浪芸」のLPレコード制作ディレクターを勤めた体験などが語られている回想記の一文である。

かつては節談を語る説教僧がいて、法然や親鸞の話、歎異抄の一節を唱え、その意味を説明しながら、話をぐっと卑近な例にたとえ、わかりやすく伝えようとしていたとのことである。理屈で仏法を説いても通じない。どうやれば人の心の中に伝えることができるのか、考えつくされた話法があったのに違いない。CD化されたものがあるとのことなので、一度聞いてみたいものである。

芝居もそうだが、笑って泣けるものがいい。あまり重くならないで、他人の阿呆さ加減を笑い、自分のいたらなさに思いいたるようなものが。「祈り」とは、自分のいたらなさを見つめ直すことに他ならないのだから。

ball-gs2.gif 2001.02.04(Sun)

麗しき春の七曜またはじまる   山口誓子

はや立春である。しかし、昨日と異なり、昼前から冷たい小雨が降り始めた。

午後、友人の父の告別式に参列。私の父もすでにいないが、いずれ父が居なくなるとは解っていても、早すぎるように思うと残念でならなかった。頭で理解することと感情とはべつものである。

予定していた吟遊中止の空き時間を利用して、坂東眞砂子原作の映画「狗神(いぬがみ)」を見る。監督・脚本は原田眞人。同時上映は「弟切草」。高知東宝1という映画館で上映中であったが、若者が少しだけで、観客はわずかしかいない。内容がオカルトというか怪異なものなので、一般受けはしないはずだが、やはり話題性に欠け、ビデオで見ればといったところであろうか。映画ファンとしては寂しいものがあるが、制作者側も映画館だけで採算を考えなくなってきているのだから仕方がない。

小説としての「狗神」は、坂東作品の中では今でも一番好きなもの。高知を舞台とし、現実と幻想をゆききするようなあやしさがなんとも言えない魅力だと思っている。小説を映画で観ると、自分の描いたイメージが壊されるようであまり好きではないが、最初からはっきり別物と割り切って見れば落胆しないことに気付き、監督との解釈の差をそれなりに楽むことができる。「弟切草」の色彩変換表現をもっと「狗神」でも駆使していれば怪しさが描けたのではないだろうか。しかし、そうすればますます解らなくなって観客はもっと減ることだろう。何を狙うのか、難しいところである。

ball-gs2.gif 2001.02.03(Sat)

「さあ、恋人の名前をいえ!」
ぶらんこに乗った若い女性をゆすりながら、若い男性が声をかける。
                           青柳潤一


■雑誌『俳句現代』/2001年3月号/角川春樹事務所

芝居や映画の一場面のような台詞である。ノンフィクション作家・青柳潤一によると、ブルガリア、香水用薔薇の栽培で有名な村の光景であり、春になって咲いた薔薇を摘むという、村のもっとも大切な仕事の前に行われるらしい。紀元前から住んでいたトラキア人の伝統として、年中行事の中に生き続けているとのことである。

「季語の地球誌」の第一回として「ぶらんこは文明の十字路」と題したエッセイのなかで紹介されていた。俳人にはあたりまえのことなのだが、ぶらんこは春の季語である。しかし、その一言から導き出される時間や空間は実に広大である。

雲間に隠れた冬の最後の夕日がほんの一時現れ、真っ赤に輝いて沈んだ。冬を惜しむように。最後の姿を見せたかったのかもしれない。

ball-gs2.gif 2001.02.02(Fri)

この子はぼくを安全な存在だと見なしたんです。この受け入れの瞬間−−この現象を、ぼくは「同志の契り」と名づけています
                         モンティ・ロバーツ


■『馬と話す男』/東江一紀 訳/徳間書店

この子とは、もちろん子馬のことである。調教前の野生馬に鞭やロープ縛りを用いず、どうやって自然な絆を結ぶことができるのか。そして、音のない言語、身体言語(ボディ・ランゲージ)により、初めての馬と「同志の契り」を結び、たかだか40分ほどで、鞍を置き乗れるようになるかの魔法が記されている。

ネヴァダ州の原野からムスタングを集めても、エリザベス女王のサラブレッドであったとしても決して変わることのない身体言語なのである。

以前、英会話練習用に手に入れたモンティのビデオを見るのが私の楽しみのひとつなのだが、アメリカの原野を走る馬の姿や円馬場で馬と人間が話し始める姿は何度見ても見飽きることがない。

ball-gs2.gif 2001.02.01(Thu)

言葉が意味をなす前に東の口のなかで溶けてしまい、もはや音でしかなかった。
                           柳 美里


■『魂』/小学館

39歳の東由多加と16歳の柳美里は、治る見込みのない病気にかかって苦痛が堪え難くなったり精神が壊れかかったときは、お互いを殺す約束をした。結局、ベルトで首を絞めて殺すことはしなかったが、東は癌で亡くなった。

私が自分で買ってくることのない本である。家人が買って来た本は拾い読みをして、すぐ元の位置に戻しておく。家人が4、5人いればもっと色々な本が目にとまるのだろうが残念ながら一人である。

意味が言葉を探して現れるのではなく、言葉が意味をかたち造るのであったろうか。遠いとおい記憶のようで、どこかにその音まで置いてきてしまった。

 


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まだ捜している最中。以前、眠り姫の日記を時々開いていたことがあるが、はたしてあれは何処に行ってしまったのだろう。

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