2001.10.31

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journal・不連続日誌・journal


「虚子俳話」のようにはいかないが・・・


ball-gs2.gif 2001.10.31(Wed)

ヒラギノフォントの扱える文字数は漢字・非漢字あわせて約20,000字種となる。

■俳句雑誌『MACLIFE』2001年11月号/アイクリエイティブ

Apple社のMacを利用している。残念ながらまだMacOSXは利用していないのだが、OSX 10.0 から「ヒラギノフォント」が標準搭載され、7,000文字が収録されている。そして、最新バージョンアップでさらに文字数が増やされ、約11,000文字となったという。

新たな日本工業規格の「JIS X0213:2000」をサポートしたためらしいが、印刷所などで利用している電算写植機の字種などをあわせると約20,000字種が利用できるようになったらしい。

むやみに文字数を増やせばいいというものでもないが、やはり使いたい漢字が画面にないと寂しい思いをする。たとえば、「森鴎外」や「高浜虚子」は、正字で表示したいものである。 しかし、それが特定機種に依存するものではなく、すべてのコンピュータで利用できるものであり、インターネットの表示画面においても誰もが制作者の意図する文字を見ることができることを私は切に望んでいる。


ball-gs2.gif 2001.10.30(Tue)

柿一個置き退職のこと思う
                             味元昭次


■俳句雑誌『蝶』2001年11.12月号/蝶発行所

味元昭次の「両親(ふたおや)」22句を読み、同じ俳句とは言っても所属する俳句結社によってかなり表現方法が異なっていると思わざるを得なかった。やはり指導者や主宰によって、会員や弟子の表現方法も異なってくるからだろう。

その中で「空蝉をいくつ拾えば五十路過ぐ」と掲出句が印象に残った。

私は「柿一個■■■置き■退職の■こと思う」とリズムを付けて読む。その瞬間、柿色に熟れた次郎柿が一個、机上に蔕を下にして置かれた様が思い浮かび、その輝きを眺めながら退職を思案する作者の横顔が思い出される。作者には何度か会っているが、初めて彼の句会に誘われ、佐川町の司牡丹酒造を案内してもらったことが今も忘れられない。あれから高知の酒を旨いと思うようになったのかもしれない。


ball-gs2.gif 2001.10.29(Mon)

元来、実用性本意に開発されたものも究極は遊びに向う。
                             織田正吉


■『ことば遊びコレクション』/講談社

著者の名前で思い出される書籍としては、『絢爛たる暗号−−百人一首の謎をとく』(集英社)が忘れられない。藤原定家の選んだ百人一首からそこまで深読みしていいものだろうかと半信半疑ではあったが、定家自身が謎解きを残していなければ後世の研究者や作家の種にされても文句は言えまい。

「コミュニケーションの道具である言葉も例外ではない。」と続くが、彼は「遊び」を堕落とは考えず、文化そのものの一面としてしっかり捉えているのである。俳句や短歌も、言葉を定型の枠にはめるという面から見れば遊びなのだが、「文化は多分に遊びのなかから生まれる」という考えには共感させられてしまった。

コンピュータに「ことば遊び」を教え、俳句や短歌を詠ませ、鑑賞させることができるようになるには後何年くらいかかるのだろう。


ball-gs2.gif 2001.10.28(Sun)

午後1時から、高知鷹句会の10月定例会。ところがあまりの土砂降りに、マンションから50m先の電停まで傘をさすのも躊躇われ、結局タクシーを呼んだが、タクシーに乗る寸前、傘を畳もうとして左半身がかなり濡れてしまった。さすがに高知の雨というべきか。傘さえ役に立たないときがある。

句会は原則1時から開始。当日、7句出句と決まっていて、これは1時までに済まさないといけない決まりなのだが、毎回、5分ほど遅れて来る常習者がいる。自分に厳しく、人におおらかに接しようとすると、つい度重なる注意も憚られるのだが、俳人格を判断する場面ではどうしてもその仲間を推薦できないのは仕方がないことだろう。

緊張感のある選句、披講、そして、わきあいあいとした合評と、メリハリのある楽しい句会をめざしたい。日曜日、大切な時間を各人が共有しようとするのだから、俳句の輩として、お互いに実りある時間を過ごしたいものである。

神経がピリピリしていると、「額からカルシウムが出てるよ」と反対に注意されてしまった。


ball-gs2.gif 2001.10.27(Sat)

一冊の句集が手許にある。「高野素十が好きだというあなたに、この本を差し上げます。ただし私への献呈本なので、この事は口外してはいけません」
                             石井隆司


■『飯島晴子読本』俳句研究編集部編/ 富士見書房

素晴らしい本を出版して下さったと編集長以下、俳句研究編集部の皆さんに御礼を言いたい。この本が、たった1800円で手に入ることが何とも素晴らしい。私の宝物が増えたようで、市内の書店をめぐり、手に入るものは買い占め、こころある友人にプレゼントするとともに、仲間には是非とも1冊は購入すべきであると、珍しく命令口調で勧めている。

この本には、飯島晴子の処女句集『蕨手』から、第七句集『平日』までの全句が掲載されている。また、折々に発表された随筆、評論や自句自解、ほぼ手に入る全編とよべる俳論抄が納められているのである。まさに垂涎の一書といってまちがいのない書籍である。

俳句研究編集長、石井隆司による後記は上の書出しで始まる。私も高野素十が好きであり、彼の処女句集『初鴉』は書き写したものしか持っていないが、書物は献呈本であったとしても、無駄に廃棄することなく、それを大切にしてくれる人に譲り渡していくのが良いと思っている。いや、絶対そうすべきである。


ball-gs2.gif 2001.10.26(Fri)

悲しい歌を書いて、人を泣かせるのは簡単だ。でも、人を鼓舞し、人の心を楽しくさせるのは難しい。
                             矢野顕子


■『日本經濟新聞』2001年10月26日、日刊40面/ 日本經濟新聞社
音楽家の矢野顕子のいう「悲しい歌」には、きっと言葉と音楽が含まれている。メロディーやリズムを持った言葉は、人の心を動かしやすい。しかし、凡人には泣かせることさえ難しい。哀しみに沈む人を慰め、鼓舞し、楽しくさせるとは確かに至難の技である。

無闇に明るい歌だけでは人を傷つけることさえある。哀しみにシンクロナイズして、徐々に、徐々に生きる力を与えることができる歌が唄い継がれていくのだろう。

「怒りの心よ鎮まれ!」と自分に呪文をかけ、俳句や短歌の言葉にもリズム感を持たせたいと思う。読まれる言葉だけで人の心を勇気付け温かくすることができるように。


ball-gs2.gif 2001.10.25(Thu)

師の名こそ生涯の糧秋の雲   藤田湘子

■俳句雑誌『鷹』2001年11月号/ 鷹俳句会


師を選ぶのは弟子となる自分である。弟子はこの世の数十億の人間の中から、自分の認めた人間を師と仰げばよい。しかし、師は自分が導きたいと思う者を見つけても、強引に弟子にすることはできない。「弟子は選べない」と聞けば、確かにめぐりあわせ、印可状を与えたい者は集まってきた弟子以外、さらに有能の者を育てられなかった無念も混じろう。

藤田湘子の師は、4Sの一人の水原秋櫻子である。愛されようと嫌われようとこれはもはや動かし難い事実である。「糧」とは、仰ぎ見るだけではなく闘い、生きる活力として乗り越えるべき指標とする名なのである。


ball-gs2.gif 2001.10.24(Wed)

帰る雁今はのこころ有明に月と花との名こそ惜しけれ   良経

■『翡翠逍遥』塚本邦雄/湯川書房

歌は桜の咲きそめる春の帰雁、藤原良経の作ではあるが「名こそ惜しけれ」には命の儚さが見える。

塚本邦雄が『翡翠逍遥』の「卯月遠近法」で「古歌の雁は秋にとどめをさす。」と指摘しているが、例歌とされる万葉の穂積皇子の「今朝のあさけ雁が音聞きつ春日山もみぢにけらしわがこころいたし」など、新古今の春の帰雁をひきたてるための言い訳にしか感じられない。

デジタルカメラを利用して、塚本邦雄本の図書目録を作成しようとも考えているが、一冊手に取り、中を読み出すたびに挫折してしまう。

夜は7時から俳句「銅の会」の集まり。といっても、五人会の4人出席。新しい仲間を増やすのはなかなか難しい。はりまや橋近くの喫茶店2階を借り、2時間ほど輪読や句会をしている。あと30分ほど欲しいところ。その後、毎回、軽く飲んでいるが、少し飲み足らないのが難点である。


ball-gs2.gif 2001.10.23(Tue)

ここまでおいで おんぶしてあげよう

■韓国映画『春香伝』2000年/監督イム・グォンテク/字幕翻訳 根本理恵

映画は上掲の言葉で始まり、全編に国唱人間文化財チョ・サンピョンによるパンソリ「春香歌」が流れる。

「君は死んだら花になれ 私も死んだら蝶になろう」と唱いつがれる。

朝鮮半島南西部、全羅道で語り継がれてきた口誦パンソリは、もとは庭に筵を一枚敷いただけのパン(場)で、物語をソリ(声・音)として表現されたものという。

日本の浄瑠璃にも例えられるが、映画を見ている間は浪曲を聞いているようなものと感じていた。物語はたわいない恋愛物に勧善懲悪を組み合わせたもので、見終わって腹が立ってしまった。女性蔑視も甚だしいが、18世紀という歴史的背景を考えればこれでも庶民は大喝采して受け入れたのであろう。
乞食の身なりの夢龍(モンニョン)が春香(チュニャン)を訪ねる場面は、オデュッセウスが帰国して妻に自分と告げず会うギリシャ叙事詩の流れがあるのだろうか。


ball-gs2.gif 2001.10.22(Mon)

士也母 空応有 万代尓 語続可 名者不立之而
をのこやも むなしかるべき よろづよに かたりつぐべき なはたてずして

                             山上億良


■『万葉集(上)』桜井満 訳注/旺文社

名など消え去るもの。ましてや人間の歴史などたかだか知れている。しかし、万葉時代に齢74歳まで生き、その沈痾(重病)の時に詠んだ歌と聞けば、少しこころが痛む。しかも宮廷に仕え、遣唐使として海外赴任まで経験したエリートである。望めばキリが無いということであろう。

穏やかに過ごしたいものだが、美術・音楽・文学・言葉だけでは生きていけないのが虚しい限りである。せめてその時間をすこしでも多くしたいものである。

何度警告しても重い添付メールを送付してくる未知の会社がある。トロイの木馬型ウイルスに感染したパソコンを使用しているようであるが、ウイルス駆除が終わるまでインターネットの接続コードを抜くのが礼儀ではなかろうか。警告されても、自社のパソコンを疑ってみない人がいるのには怒りを通り越して諦念するより他ないのだろうか。


ball-gs2.gif 2001.10.21(Sun)


数千の屍(しかばね)算を乱し、哀れなる仕合せなり。



■『新訂 信長公記』太田和泉守牛一 原著/桑田忠親 校注/新人物往来社

「しあわせ」と口にはするが、今一般的には「お幸せに」といった使い方で、運が良い状態をさす言葉として使われているだろう。しかし、「仕合せ」と書くと、幸運だけではなく「まわりあわせ」とか「なりゆき」の意味が強くなるような気がする。

また「哀れなる仕合せなり」とは奥ゆかしく聞こえるが、「哀れなり」と言い切らぬ感情を抑えた歴史観察者としての思いが察せられる。

雨。今年の京都競馬場で行われた菊花賞は荒れるとは言われていたが、予想もしなかったマイネルデスポットが先頭を走り続け、終わって見れば2着。最後の追い込みで足を見せたマンハッタンカフェも見事ではあったが、スローペースでやや面白みに欠けた。素直で美しいエアエミネムよ、3着とは哀れなる仕合せなり。


ball-gs2.gif 2001.10.20(Sat)

May I have a little more wine?
(もう少しワインをいただけません?)

                   脚本:アイアン・M・ハンター


■映画『ローマの休日』1953年/パラマウント映画

女性がワインをふた口飲んで何か言い出すときは気を付けなくてはならない。そんなことを思わせるのが若きオードリー・ヘップバーン主演の『ローマの休日』である。ワイン、ワイン・・・と気になっていて何か思い出せないでいたのだが、ビデオで確認すると終末近くに、アン女王が「私・・もう行くわ」という前に、思いを断ち切るようにワインを飲み干していた。

Iと遊ぶ。愛媛の実家へ帰ろうと思って電話をしたところ母は松山へ旅行の様子。月曜日が父の命日である。


ball-gs2.gif 2001.10.19(Fri)

      渦
    輪   灰
  孤 の   の 燃
薔 島       え 咲
薇 の       て き
                             高柳重信


■俳句総合誌『俳句研究』2001年11月号/富士見書房

俳句発見(11)と題する坪内稔典の文章の中に少し面白い表記を見つけたので、いたずら心も手伝って、ちょっと書き留めておくことにした。

本来、短歌や俳句は縦書きであった。いや、日本語は、というべきだろう。しかし、インターネットの未発達な現状では、縦書き表記にしたい場合は、それなりの工夫をわざわざしなければならない。

ところが、1952年に句集『伯爵領』を出版した高柳重信は、一行縦書きの俳句の伝統形式と概念を破壊する方法として、空白をふんだんに用いた多行書俳句を作ったのである。

坪内稔典によれば、「重信の場合、必要な活字を購入し、軽便印刷機を使っていわば手仕事で句集を作ったと伝えられている。」という。『伯爵領』一冊に32句ということも始めて知ったが、俳句を読ませるだけではなく、文字の視覚効果を最大限に利用するためにはそれなりの労力と時間が必要であったということであろう。

iモードの携帯電話プログラムを書く専門家と話をしていて、私が遊びで作成した縦書俳句きページを見せたところ、意外に驚いてくれたのが嬉しかった。

http://www.alles.or.jp/~wadachi/i/w/fujita-tate.html
(ただし、i-mode 携帯電話の503i型の画面に対応)

ポスターに惹かれてフランス映画「見い出された時」を見に行ったが半分寝てしまった。原作は、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」より。衣装や音楽は好みの部類。映像と言葉もいい場面が時々あるのだが、内容に驚きがなかったのが残念。映画を見終わって、無性にワインが飲みたくなったが、不満足な味であった。


ball-gs2.gif 2001.10.18(Thu)

僧云、喫粥了也。州云、洗鉢盂去。
僧云く、「喫粥し了れり」。州云く、「鉢盂を洗い去れ」。
                             加藤楸邨


■『無門関』/訳註 西村恵信/岩波文庫

無門関のなかに趙州和尚が何度か登場するが、どれも面白い。

「朝粥は食ったかい」と新米僧に尋ねると、「済みました」と答える。そこで、続けて「茶碗を洗っておきなさい」というだけの単純な話なのだが、このくだりを声に出して朗読すると気持ちが明快になる。

難しいことは何も言わない。回りくどくも無く、ましてその奥に新米僧を教育しようなどといった考えもないように思える。自分の力で悟ればよいのだと、ただありのままに思いを伝えるだけである。

複雑な世の中であり、怪しい社会現象が増えると、もっとシンプルに生きていきたいと思う。


ball-gs2.gif 2001.10.17(Wed)

秋には櫛田神社のギナン(いちょう)の実の落ちる音に耳を澄ます。古い地図を手に、楽しみです。
                             玉麻川有


■句集『チェロの首』 /発行者 玉川紀世

久しぶりに訪れる土地の様子が変わっていて驚くことがある。建物もそうだがバイパス道路が出来たり、高速道が延長してその連絡路が整備されたり。以前の俳句吟行で国道沿いをダンプカーに接触しないかと恐れながら歩いた道が急に広くなり、ゆったりとした歩道ができていたりすると、さすがに車社会であることを痛感するとともに、炎天下に木陰も無いこんな立派な歩道を何人が縦列を組んで歩くのだろうと不思議に思ったりする。

樹木を植えると後の管理が大変だからと、低木や常緑樹一辺倒になっていくのも有り難いようで迷惑な話である。私の好きな芭蕉並木(?)をどこかに作ってもらえないだろうか。芭蕉の広葉を打つ雨の音や風の響きは、大きな自然の音を聞いているような気持ちにさせてくれるのである。

流鏑馬の真一文字に射たりけり   玉麻川有


ball-gs2.gif 2001.10.16(Tue)

この頃めっきりオミナエシが少なくなった。
                             前川文夫


■吟行版『季寄せ草木花』秋 [下] /選・監修 加藤楸邨/朝日新聞社

秋の七草のひとつとして知られる女郎花が確かに少なくなったような気がする。

山上憶良が詠んだ歌のなかで、「萩が花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花」と七種の花が数えられて、ますますその存在が秋を代表する花として認識されるようになったようである。

女郎花にかわって今では郊外を車で走れば、「秋の麒麟草(きりんそう)」すなわち「背高泡立草(せいたかあわだちそう)」と呼ばれる北米原産の黄色い花が強靱な繁殖力を示している。そのため、黄色の女郎花にはいっそう目がいかなくなったのかもしれないが、野山をゆったり歩く時間の流れと、車や新幹線で移動する時間はたしかに違ったものだろう。

台風の影響で激しい雨の降る中ではあったが、フロントウインド越しに、時々、黄色い背高泡立草が目に付いた。


 


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まだ捜している最中。以前、眠り姫の日記を時々開いていたことがあるが、はたしてあれは何処に行ってしまったのだろう。

● 彷徨(by 蓮見暁、暁穹恋歌)へ .



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